「研究室」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 研究室とは

2022-04-03

優しい男、大体結婚してる説

大阪大学の院を出てメーカー就職し、学生時代研究室の先輩(研究機関所属)と結婚した女だけど、周りの誠実でちょっとキモい男達は全員結婚した。女を見下したり無闇に手を出すことは基本なくて、穏やかでアニメが好きな優等生。案外楽器が上手だったり英語中国語が堪能で、だけどそれを自慢しないような人たち。

30過ぎて同窓会で再開したら、研究室の私の同級生(男5人、女2人)は皆結婚していた。お相手会社の同期(高給取り)や趣味を通して出会った人で、おおむね国公立大や優秀な私大関西に優秀な私大はないですが)を出ている穏やかな人。

世間的に聞くような上昇婚は全く観測できず、穏やかながら所謂パワーカップル誕生を知った。

ドロドロした婚活の話、奢らされた話、全然聞かなかった。大阪大理系はそういう人に相手にされないのか、それとも単に観測範囲が狭すぎたのかは知らないが、意外と世の中の結婚事情健全なのかもしれないと思った。

大学研究室のような雰囲気職場です

転職活動中に2社連続で言われた

自分学部では研究室学生自分1人しかいなかったし

院は研究が嫌になって中退たから「大学研究室」に何も良い思い出がないんだけど

会社側はこれ言っておけば無条件に喜ぶと思ってんのかな

2022-03-31

修了しました

どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。

これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。

・生い立ち

私はごく普通環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分一言でいうと優等生気質だった。学校勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプ人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。

小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からブラスバンドやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。

中学では周りの部員吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔信者であり、親や先生にほめられている優等生自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間からどこかで破綻すると思っていた。

 高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラル教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校部活軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問専任希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプ人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人アプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験もっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しか高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生から勉強ができるという認識をされていた。

 3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本演出担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通大学に行くねとなった。

 問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。

「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」

親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊制度もつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。

長くなったが、これが地獄の幕開けである

大学という場所

1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。

大学では勉強サークル恋愛バイトのうち2つしかできない」

勉強は好きではないので、サークルバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオ個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金ショートした。親にバイト禁止されていたため練習交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。

 大学の授業はひどく不親切であった。大学レベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義解決してしまものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間無駄に思えて次第に講義休みがちになった。

 それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなもの大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。

崩壊

 初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義存在しない。正義道徳立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。

 そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分無能さを騙して生きていたのかもしれない。

 さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動事実上全部やめ、バイト勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。

あんた人にいいように使われてるだけでしょうが

人にやさしく優等生してきた自分生き方への批判自分が仲良くしている人たちへの非難ダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。

数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルバイト恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分無能が隠せなくなってしまったのである

 3年目は再びバイト禁止した。クラスでの試験対策仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだ大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境サポートがあって自分勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。

公正世界仮説評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学いじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。

・専攻決定

4年目にして2年生。この年は諸々の事情クラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。

そして、4年前に選択先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。

理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学システムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。

このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。

実験異変

5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。

 3年生の必修は実験だけだったので、他の単位犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。

 溜まりに溜まったレポート夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。

 4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続き入試勉強、足りなかった単位試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。

能力環境

学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。

 親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなた世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般評価邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。

 やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークル作曲体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。

・進学と私

大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部時代夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたかである研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないか就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。

 私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。

 Permalink | 記事への反応(0) | 23:43

2022-03-28

はてブから

理系の人が研究室実験、といいますが、そこらの学生がやる意味があるんですか?二流三流大学研究とは、すでに発表されていることの単なる確認トレースではないのですか?」

という知恵袋を見た。

理系卒論というものがあるかぎり、ほとんどの場合においてどんな3流大学でも、少なくとも修士課程以降は、いや結構な頻度で学士でも、「人類科学領域境界線を親指でぐっと押したぐらいは広げてる」んです。

修士論文発表した瞬間はその論文の内容に関しては指導教官と同等以上になってるよ、僕の知ってる人はみんな。その一瞬だけは人類最前線だよ。

なので、文系には卒論がない大学もある、と聞いてびっくら仰天するわけです。ひとによっちゃあ盛大に馬鹿にするわけです。

えっ君たち大学出たのに人類の叡智とか文化とかをほんのちょっとでも大きくしなかったの????何しに大学に行ったの????って。

2022-03-25

本日大学院卒業した。

私はとある大学修士課程所属していた。もうすでに過去形なのはつい先ほど修了証書を授与し、卒業たからだ。

思えば私の6年間はうぬぼれの塊であった。高校ではそこそこ勉強のできる部類であったと自分勝手勘違いしていたが、大学に入って同じ学科の仲間を見たとき高校の成績なんて

まったくもって意味をなさないことがすぐに分かった。

そこから課題自分の頭で考えることをいつの間にか諦めていた。大学まではおおよそ2時間ほどかかるが、不真面目な生活態度を貫いている私には苦痛しかなく大学における人との交流はほぼゼロとなった。

それでも家にはお金がないため留年なんてのは論外である。とりあえず卒業できる程度には単位を取るためにそこそこ頑張った。

ところで私の所属している学科理系であり、半数以上は院へと進学する。例に漏れず私も院に進むことにした。正直就活するのも面倒だったし、本当に先のことを何も考えたくなかった。この癖はいまだに治ってない。

しかし、この研究室配属が私に、いまでも思い出すだけで無意識のうちに奥歯を嚙み締めてしまう苦い経験になる。先に言っておくがすべて私の研究に対する甘すぎる意識がその原因ではあるが......

就活することが億劫な私が入ろうって思う研究室なんてのはコアタイムもないようなゆるーいところであった。事前情報では。しかし、情報収集を怠っていた私は、実はその研究室に5年ほど前から来た新しい教授がいることを知らなかった。

言うてもなんとかなるやろと高を括った私は配属後の最初ミーティング絶望した。

学部時代いかに不真面目であっても、自分なりに勉強はしてきたつもりだった。しかし、研究室の先輩たちの発表する研究内容がまるで意味が分からなかった。最初宇宙言葉だと思った。本気で。

それは私の同期も同じだったようで、ミーティングの後、それぞれの研究テーマを決めなければならないがどれも意味不明すぎておなじに見えたため、私は、教授説明によるとまったく新しい試みの研究らしいテーマ選択した。これが第一の失敗だった。

理系院生研究活動には明確な答えは存在しない問題に取り組まなければならないというのは、まあまあ知られている話だと思うが、私のテーマはその手法も手探り、教授もよくわかんないけどなんかやってみて、といった態度で私はまるでやる気が湧かなかった。自分

なにをしているのか意味不明なまま、結局学部4年生を卒業した。

そこから修士1年生となり、テーマを変更することになった。正確には学部時代テーマはあまりにも先が見えないため、テーマを変えたいなーと思ってはいたが、教授相談するのも面倒、研究もしたくない、そんなことを考えながらバイトをする日々だった。我ながら

なぜ院に進んだのか昔の自分をぶん殴ってでも止めたほうがよかった。

そんな感じで結局大学にはほぼいかず、研究もしない日々が続き、世間ではコロナが大流行し始めた。そして私も感染した。ついでに胃腸炎になって入院もした。研究室の方々には大きな迷惑をかけた。大学にはなおさら行かなくなった。この時すでに、2年生になろうといったところだった。

書くのがめんどくなったので大幅に端折るが、最終的に私は修論を挟んで教授犬猿の仲になった......というのが周りから見た私と教授関係性らしい。いやでもね、力関係を考えてよ、いち学生教授が戦いになるわけないでしょ、僕はいつもぼこぼこにされてましたよ。

今年の1月から2月にかけての私の状態

修論かかなきゃ→実験してないかデータがない→でもとりあえず何か書かないと卒業させてもらえない→でもそもそも書くことがないのになにを書く?→でも書かないと卒業できない→....

思考ループして、躁鬱状態を繰り返しタバココーヒーを常に加えてないと不安で頭がおかしくなりそうだった。てかおかしくなってた。

修士なんか所詮2年しかないんだからさっさと教授泣き寝入りしてなんとかしてもらったほうがいいです。自分クズであることを自覚した私は怒られることが怖い自分に嫌気がさしていたがなんとか口を開き事情説明した。

はいつも報告が遅いんだよ、と小言を言われたが研究してない学生を助けてくれる教授ほど心の広い人はいない。これは皮肉ではない。

2022-03-24

ガチャ当たったけどフリーター特定覚悟で語る。

タイトル通り。別に連絡取り合う友達もいないし、しがらみもないので特定覚悟で語る。もし同級生がこれ見て「あいつか」ってなったら笑ってくれ。

まあ親ガチャは良かった。祖父東大卒医学者で都内千葉独法病院で勤務していた。父は東大経済卒で日銀職員。母は西宮女子大を出てお見合いで父と結婚した薬剤師。ただ学歴とかそれ以上に家族はみんな優しかった。てか今も優しい。きっと父が普通サラリーマンでも幸せだったと思う。あと妹が一人いる。

目白台にある女子大附属の幼稚園川崎にある私立小学校西日暮里男子中高一貫校を経て東大に入った。ここまで苦労はない。勉強は塾や親の言うことを程々に聞いておけば間に合った。部活も楽しかったし友達もたくさんいた。男子出身だったが、中3から幼稚園ときの幼馴染と付き合い始めていた。

ただ高校から予兆はあった。高入生で学年人数が増えたあたりから人前でスピーチをしたり移動教室の時、動悸がやばかった。緊張とかあがり症レベルではなかったと思う。友達から顔青いけど大丈夫か、とか言われてたし。それでも中高は乗り切り、大学に行った頃からおかしくなった。まず階段教室の授業が怖い。うちの高校からは大量に東大に進んだため友人はたくさんいたが、毎回常に友人とかたまって授業に行くわけじゃない。授業が始まれば怖くなくなるんだけど、授業前や授業後のザワザワとした空間が怖くて、そこに一人でいることがパニックになる。だんだんひどくなり、ついに門をくぐるどころか電車も無理になった。それで大学2年にして子ども部屋で引きこもりスタート単位など取れるはずなく進振り希望すら出してなかった。両親や妹はガミガミと怒るでもなく、極度に不安視するわけでもなくそっとしておいてくれていたしそれがありがたかった。同級生心配して連絡をくれたが、無視するうちに来なくなった。彼女にはスマホ一方的に別れたいと言った。親同士も知り合いなので、幼馴染とそのお母さんがとても心配してくれたが顔を合わせたくなかった。

それから一年間引きこもって、コンビニとかは行けるようになった。大学に連絡を取り事務所で今後のことを話し合った。話し合ったというか、ほとんど大学に出てなかった俺がこれから授業や単位をどのように取得していくかというシステム淡々とした説明。恥ずかしながらこの頃はまだ一人では行けず母に着いてきてもらった。そこからゆっくりではあるが、ようやく大学に復帰し単位スローペースで取った。一人で電車通学も可能になった。倍率が低く小人数の駒場学科に進んだため本郷に行くことはなかった。てか行けなかっただろうし。研究室教授や年下の同期は本当にいい人たちだった。そのおかげで同級生より3年遅れで卒業することができた。

大学卒業するのが精一杯で働ける気もしなかったため就活はしなかった。大学卒業後は小さなから顔見知りの近所のおばさんが自宅でやってる公文教室で採点、小学生高学年や中学生英語算数を教えたりというバイトしている。おばさんの人柄のおかげで居心地が良い。給料は月4万円。半分は親に渡し、もう半分は使うわけでもないため通帳に入れている。

20代の期間も残す所わずかだが、この生活が変わる様子はないし、正直変える気もない。世間一般から見たら失敗人生だろう。最近ガチャだの反出生だのとよく聞くので、親ガチャで当たりを引いた人間でもこうなるという例を紹介しようと思い自分語りをさせてもらった。

2022-03-23

部外者大学に入ってモグリ受講するのとはちょっと違うけど

国立大教育学部小学校社会科先生になる専攻で入学したけど、

高校ではマンガ家めざして同人誌も出してて、フィギュアフルスクラッチもやりたいなと思ってたので

卒業には全く必要のない美術先生養成するコース塑像(人体を粘土で作る)の授業を受けてた。

 

最初課題学生同士でペア組んでお互いの顔を作る)で自分には立体の才能が全く無いと思い知らされて、ペアの顔を完成させた段階でフェードアウトして単位は得られなかったが。

思い返せば、教育学部って専攻(教科)ごとに多種多様研究室教授講師の授業があって、もっといろんな授業を無駄に受けとけばよかったなと、社会人になった今更思う。

サークルもいろんなことをやってみたいと、漫研以外にスカイダイビング部・スキューバダイビング部の新勧説明会に参加したけど、遠征や装備に金かかるので貧乏学生の俺には無理だった。

 

あ、先生にはなってません。

教育実習の授業で自分教師は無理だと思い知らされました(こればっかだな俺)

2022-03-22

とても久々にすき家ねぎ牛丼を食した。たぶん学生時代以来だ。あの頃は大学研究室に連日泊まり込みでコーティングしたり実験したりしてた。夜に何人かで抜け出してすき家夜食研究自分で舵きって手を動かせてたから没頭できて楽しかった思い出。今は数値しか見ないPMやお排泄物ノルマスケジュールに日々追い詰められてる。人生生活コントロールしてる感触が欲しいのかもしれん。ごちそうさまでした。

2022-03-21

松尾豊さん関係者、元東大海外在住者からみたNスペ「高度理系番組失望

https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/XLJ547N44X/

「“高度理系人材”を獲得せよ〜令和の金の卵 争奪戦〜」

こちらを見て、正直いって、25%ぐらいはいいこといっていたが75%が酷すぎたと思う。

【前提となる自分の背景】

 松尾豊さん研究室にも少し出入りしていた元東大理系

 海外エンジニアをしている

===(Nスペ目次)=====

===(Nスペ目次)=====

もう、10年何をしてきたのかという諦めの気分。いま目次を書いてみると、たしかに1時間

まとめるとこうなるのもやむ無しという気がしてきたが。結局 so whatが無いんよ。

自分が思うso what個人単位戦争をすればいいので「日本勝負するのは辞めよう」

未だに海外に行かない日本研究者層が歯石のように積もり積もって自分の首を締めていると思う。

so what提言しま

1 issue1 日本がどうなろうがしったこっちゃない。自分の半径5mを救おう(海外に出よう)▷この行動が却って日本を救う

特にドン引きしたのが、ネパール人材青田買い。何をしているかというと、「早めに内定を出して日本語教育をしている」

ということ。インド人エンジニアには見向きもされないから、更に安い国としてネパール選択し、その安物エンジニア供給

しようとしているようだが、はっきりってその見向きをされていないインド人にどれだけお金を払うかの方が大事

安いエンジニアは誰も要らない。

わざわざ日本語を勉強してこようみたいなモチベーションネパール人が使えるわけがない。SIer下請けしかこない。

私はカンボジア人エンジニア仕事をしていたが、当然英語だし、たしかコストは安いし、その割に国のトップみたいな

人材だが、その人がわざわざ日本しかできない人と働くとは思えない。

そういう楽をした内向きの戦い方が全ての元凶だろう。

自分さえどうとでもなればよいという考え方の方が実は日本を救うと思う。いま一時帰国して、この番組を見て

理系人材の扱いが自分卒業した12年前時点と1bitも変化していないことにショック。

日本若者がむしろ自分の内向き志向コロナ等で深めている気がしていることを憂慮する。

 2 issue 2 選択と集中大事 中国的な独裁的な形で【工学実学】に選択と集中しよう。ITだけでなく物性、生命科学工学全般

※もう挽回不能だが

松尾豊さんが言っていた「兵站がない」っていう言葉日本人はとても好きなんだけど、兵站って無限にないんすよ。

僕は国力を上げるにはもう中国化するしか無いと思う。権力への批判機構みたいなのが多少弱まろうが、兵站がない以上

選択と集中理系に投下するしかない。

ただし、理系においてはITのような【今トレンドである】ようなものAIのようなチャラチャラした学問ではなく

生命科学、物性、宇宙ITのすべての学問に戦力的集中を行う。

その代わり文系人材、F欄大学などは廃止する。申し訳ないが、これをやらない限り、日本全体が沈下する。

しかし、そしておそらくみんなそれでいいと思っている。なので、そりゃ無理よ。


阪大生命科学の人がオートファジーみたいな研究は芽が出ないか選択と集中を行われては困るというような

言い方をしていた、それは本当にそのとおり。しかし、選択と集中を行わないために選択と集中を行う必要がある。

シャープ選択と集中を進めた結果潰れたのではなくて、選択と集中をしても潰れる流れをせき止めれなかった。

そのぐらい選択と集中大事


文系教授ウクライナ情勢での解析の体たらくを見ていてもドン引きする。置きにいったコメント自分は専門外だから

すべてを拒否する、たこつぼ専門家意味ありますか?

小泉特任講師のように画像解析など普通にするべき理系アプローチも解析もできず、歴史というわかりにくい概念でけむにまくだけで、

この千載一遇研究結果を元にissueを提言するべきところで何もできていない。


はっきりいって文系という学問がそういう性質があるのはやむをえないがそういう置きに行くことをしていると、当然

なりふり構わない、中国などに勝てるわけがない。日本人全体が苦手なので、玉虫色にしたがって、その結果兵站

尽きる。当たり前のことである

大学の授業のモグリなんてしたことなかったなあ

そんなに空き時間もなかったし

研究室に入るまでの大型講義室での講義で、印象に残るものほとんどない

論理学英語翻訳セミナー形式の授業くらい

研究室に入ってからの授業はそれなりに覚えてる

けど課題というかやること増えて、他の授業を受けたいとまでの余裕もなかったなあ

もぐって聞くなら、指名がなくテレビを見ているように聴講だけできる講義じゃないと、だけど

そんな授業を探して聞くほどの熱意もなかった

今、遠隔授業で場所時間や人数の制限なしに大学の授業を受けられるというのはいいことだ

双方向コミュニケーションするのが正規学費払った学生だとして、自分ROM専でいい、むしろROM専がいい

2022-03-11

卒業した!!!!!!

卒業した!!!!!!

こちらの増田を書いた者です。

anond:20200928113830

色々あって足かけ3年かけて修士卒業した!!!

やった!!!!!

増田の皆様のおかげで卒業できた。いや、冗談抜きで増田の皆様のおかげ。

引きこもっていたあの時いろいろとコメントをいただいて本当にうれしかった。ああ、もうちょっと頑張れる気がすると思えた。

就活もなんとか頑張って、いい企業内定を貰った。4月から新しい会社で頑張る。(少なくとも今のところ)とってもとってもいい会社だと思っている。

研究室もなんとか終わった。研究室では色々ありすぎてうまく語れない。

研究は多少進んだし学会発表もした。後輩指導もさせていただいて

色々と心残りはある。終わらせられなかった仕事とかもうちょっとやりたかった実験かいろいろある。後輩に申し訳ないけどでも卒業します。

色々と嫌になったとき増田にぐちぐち書いては皆さんにケツをたたいてもらっていました。本当にありがとうございました

2022-03-06

相手を疑ってしまうのは、自分に自信が無いからなのか

アラサー女。人を簡単に信じれない。恋愛保守派

一年半ぶりにマッチングアプリを始めて、一年半ぶりの新規アポ

アプリの方は数十人からの「いいねから実際メッセージに至ったのは10人程度

まともに話が続いたのが3人で1人はよくよく聞くと大学研究室に入っていてまだ学生とのことだったので

真面目そうだしありかなと思ったけど、社会人経験ないのは会話的に少し厳しいなと思いお断り

で、残る二名のうちの一人に会ってきた。

まぁ驚くほど普通に良い人だった。

会話も振ってくれるし、服装普通で、背も170cm以上はある中肉中背。

話し方も優しい感じなので調子にのって話過ぎてしまった(ダメなところ)

で、だ。

これまでも明らかなヤリ目なんかは警戒してすぐ切ってきた。

話が異常につまんないやつも元カノの未練を話すやつも

少しでも「ん?」と思ったやつは切ってきた。

今回はまた別の警戒心…

「何もかも思い描いた”普通人物…、何か隠しているのではないか

たった一回会ったくらいで何も判断はつかないが

何もないところにも自分危険スイッチは発動する。

2022-03-05

先生に出さなかった年賀状の思い出

今は個人情報問題があって難しいと思うが、私が子供の頃は、担任先生から必ず年賀状が来ていた。

よく考えたら、年賀状代はおそらく私費なんだろうし、40人分近く印刷するのだって、それなりに手間がかかる。

そんなふうに、プライベート費用と手間まで費して、教員というのは本当に大変な職業だと思う。

その点ではむしろ教員が生徒に向けて年賀状を出す習慣というのは、無くなった方が平和なのかもしれない。

さて、年賀状は来たら基本的に返信するものである。私も担任先生に返信していた。

そして、担任から外れた次の年からは、感謝なのか慣習からなのか、年賀状自分から出すようになった。

すると、いつ辞めるかが問題になる。私の場合大学生になってようやく辞めた。

逆に言うと、大学生になるまで、担任だった先生への年賀状を延々と出し続けていたのだ。

初めてもらった年賀状幼稚園先生からだった。なので、一番長先生だと10年以上やりとりを続けていたことになる。

そんなに長くやりとりが続いて、微笑ましいことだって

いや、その事実は私にとって結構トラウマだ。

なぜなら、担任先生年賀状を送るのは、おそらく「学級通信」の延長みたいなもので、

担任としてのコミュニケーションを円滑にするためであろう。そうであるならば、担任と生徒の関係が終わったあとは、

こんなに長く年賀状をやりとりするなんて望んでいなかったんじゃないかと思うのだ。

端的に言うと、迷惑だったんじゃないかと思うのだ。

年賀状しか接点の無い単なる一生徒から10年以上も年賀状を送り続けられて、果たしてしかったのだろうか。

なにしろ、送った相手教員なのだ

「○○高校に行きました」と報告されても、多数居る教え子の一例でしかないのだ。

そんな多数の中の一情報に「嬉しい」と感じられるものなんだろうか。私が教員なら無理だと思う。

それに、この件で何が一番たちが悪いかというと、私自身の対応の仕方だ。

大学生になるまで担任だった人に年賀状を出し続けるというのは、そもそも私の本意ではなかったのだ。

他人年賀状をやり取りできる嬉しさで、10年以上も会っていない人に年賀状を出し続けたわけではなかった。

しろ、怒られるのが怖くて年賀状を出し続けていた。

具体的には、「担任だった先生年賀状を出さないなんて礼儀を失している」と親に怒られるんじゃないかと思っていた。

担任先生を想ってではなく、親に怒られるのが怖いという一心で、出したくもない年賀状を出していたのだ。

先生年賀状を作るのは手間だったろうが、当時子供だった私には、年賀状作りなんて冬休み憂鬱になるほど面倒な作業だった。

30代を終えようとしている私が子供の頃は、PCなんて普及していなかった。

そのため、自分干支イラストをクーピーで書き、「高校では○○部に入り、云々」みたいな近況を知らせる文面を考え、

ペン書きなので、書き損じにならないよう(つまり無駄になったと親に怒られないよう)、必死に気を使って書き付ける。

そんな、夏休み工作みたいなことを大学生になるまで毎年繰り返していた。

ということは、高校生のときももちろんそうしていた。

高校3年生の受験シーズンでも、受験時のナーバスな時期だからこそ、親に怒られるなんて絶対に嫌だと思って、

干支の絵をお絵描きしていた。そしてそれを、例えば幼稚園とき先生に送っていたのだ。

こうして、改めて今になってよく考えると、本当に頭のおかしいことをしてたんじゃないかと思う。

高校生になっただろう相手男性)が、小学生みたいな干支イラストで毎年年賀状を送りつけてくる。

それも、10年近く会ってない相手から

きっと、なんでこんな稚拙な絵を延々と送り続けてくるのか、新年早々の疑問になっていただろう。

しろ、恐怖を与えてしまっていたかもしれない。

などと客観的に考え出すと、我ながら恥ずかしいことをしてきたと、枕に顔を押し付け叫びたくなるほど後悔する。

受験勉強をセーブしてまで、やりたくも無いお絵描き10枚近く、きっと存在しなかった親の怒りを恐怖するために書き続けていた。

そう、この恥ずかしい行動の原動力は「親への恐怖」だったのだ。ここがいまだに、自分ことながら意味がわからない。

どうして、そこまで親に恐怖していたのだろう。別にそこまで仲が悪いわけでも無かったのに。

12月になると、特に希望もしていないのに、親から毎年無地の年賀状10枚渡されて、

それを無駄にすると怒られると思ったから?それにしたって、「もう高校生だから」と断ればよかったのだ。

本当に、私は頭のおかしなことをしてたと思う。「親への恐怖」という妄想で、かつて担任だった人々に迷惑をかけた。

自分ことながら、一種心理ホラーにさえ思える。

まあそれでも、大学生ときには、担任だった先生への年賀状を辞めることができた。

大学生になったので、塾のバイトを始めて給料が手に入り、年賀状くらい自分で買えるようになる。

当然、親から年賀状をもらう必要も無い。「年賀状自分で買うから」と、ようやく断ることができたのだ。

そして、自費で年賀状を買う段になって気づいた。気づいたことは2つある。

まずは、それなりの額を出せば、イラストが付いた年賀状が買えるのだということだ。

それまで、イラスト挨拶が書かれた年賀状は、大人業者に頼んで大量注文しないと手に入らないものだと思っていた。

それが、大学生協に並んでいたのだ。これは、本当に救われた!という気分になった。

そんなの、コンビニスーパーにも並んでるから大学生にならなくとも気づくだろ、と思われるかもしれない。

しかし、私は大学生になるまで、ろくにコンビニに入ったことが無かったのだ。

その理由は、私の家ではお小遣い制度が無かった(金銭必要とき必要なだけもらえる)というのが大きい。

学級帰りにコンビニに立ち寄ってパンでも買って帰ってくる、みたいなことをするお小遣いが手元に無かったのだ。

スーパーにしたって、中学生以降は親と行動するのが恥ずかしくなるわけで、ろくに立ち入ることが無かった。

まあ、そもそも田舎に住んでいたので、自宅から歩く距離にはコンビニスーパーも無かったわけだが。

話が横道に逸れたが、とにかく、金を出せば年賀状稚拙イラストを載せなくてもよいと知ったわけだ。

そして、もう一つ気づいたことは、そもそも論になるが、担任への年賀状意味はあるのかということだ。

それは大学生になって、担任というシステムから解放されたのが大きい。

(いや正確には、学年全体での担当教授は居た気がする。しかし、有名無実というか空気みたいな存在だった。)

大学では、自分知識は多くの教員バラバラと与えてくるものであり、担任という唯一の存在依存する必要が無い。

(まあ、ここについても、研究室に配属されるようになると、考えはまた変わってくるわけだが。)

そう考えると、それまでの「担任」という人々に、こんな10年も経ってまで感謝を示し続ける必要があるのか疑問になってきたのだ。

そういうわけで結局、大学一年生のとき年賀状は完全に取り止めた。

ちなみに、当時は実家暮らしだったため、自分年賀状を出していないというのは、親にも当然バレるはずだった。

正月以降に、毎年来るはずの担任先生たちから年賀状が全く来ない、という形でバレるはずであり、戦々恐々としながら新しい年を迎えた。

しかし、親には怒られなかった。

今考えれば、親に怒られるなんて全て私の妄想だったので、当然の結果だったわけだが、当時は心の底からホッとした。

まあ、そこからようやく「親への恐怖」が自分妄想であることに気づくようになり、

前述のとおり、これまで稚拙年賀状を出してきたことをトラウマに感じるようになってしまうわけだが。

というわけで、担任だった先生への年賀状の話でした。

結局、自分妄想他人を振り回してしまったわけで、その点は今でも申し訳なく思っている。

そして何より、自分自身稚拙イラストを書いたり本当に苦痛だった。

そんなお互いに苦痛な習慣を、自身勘違いで長年続けてしまったのは本当に黒歴史だ。

リアル相手にはとても言えないけど、黒歴史な思い出は文章にしてちゃん客観視しないと、

いつまでも「思い出しアー」になって苦しむことになる(実際、毎年年末に思い出して苦しんでいる)ので、一通り書き出した。

あとはこうして、匿名掲示板に記して供養としたい。

ちなみに、年賀状トラウマになったので、大学生以来誰にも出していません…

となれば、お話し的にはキレイな展開なんだと思うが、高校ときの友人との年賀状は、数枚ながらもまだ続いている。

大学生の頃は、年賀状なんか一生出すもんか!とも思っていたのだが、卒業すると就職で散り散りとなり、お互いの近況を知りたくなった。

現在であれば、それはLINEか何かで実現できるのだろうが、15年以上前の話なので、そこはやはり年賀状でのやり取りとなった。

携帯メールはあったんだけど、何かこう、正月だとかのきっかけがないと、お互いやりとりしないよね。

って、やっぱり私も古い人間なのかも。

まあとにかく、子供の頃は色々やってしまったけれど、年賀状を誰かに出す習慣はまだ潰えていない。

今はさすがに年賀状コンビニで買ってきたものを使っているけれど、その印刷された文面の端っこに、

ペン書きながらも簡単イラストを書いてしまうのは、そういう過去があったからなんです。

最後まで読んでくれて、ありがとう!)

2022-03-02

コロナ禍での修士課程を終えて

私はとある地方国公立大学修士である

昨日修論を提出し、修士課程の修了が確定した。それ自体は喜ばしいと思うのだが、この修士の2年間は灰色のものだった。例に漏れコロナのせいである。この場で2年間を振り返りながら、現在修士進学について私見を述べようと思う。

話は2020年2月から始まる。コロナ日本にも入り込みはじめるが、まだ人々は状況を楽観視し、国会ではモリカケの方が大切などと言われていた頃のことだ。私は卒論発表会を終え、最終提出する卒業論文と学会発表する論文とを同時並行で執筆していた。その頃の私は「学会発表のために研究室予算(=国の金)で旅行ができる」とワクワクしていたし、何より研究活動が本当に楽しかった。

しかし、年度が明け最初緊急事態宣言が出されると、それを追うようにしてあらゆる学会が軒並みオンライン開催に切り替わった。モチベーションの1つが完全に失われたわけである私自身は旅行好きな人間なので、学会を口実にした旅行しか他人の金でのそれができなくなったと知ったときの落胆はそれなりのものだった。

しかし、旅行云々が霞むような落胆がその先にあった。オンライン学会シンプルに楽しくないのである素人質問が飛んでくるとか厳しい意見で凹むとかでなく、例えるなら否定的コメントしか流れてこないニコ生のようなものからだ。あくまで私の周りでの話にはなるが、オンライン学会においては基本的に聴講者はウェブカメラをつけずに参加することになる。つまり、どれだけの人、あるいはどんな人が自分の発表を聴いているのか把握しづらいのだ。まさに、パソコンの向こうの虚空に向かって数十分もの間独りで喋り続ける虚無感に苛まれた。加えて、質疑応答では文字通り発表に対する疑問が、時に否定的ニュアンスを多分に含んで発される。学会とはそういう場だ、と頭ではわかっていても、相手の表情が見えない状態でそういった発言を向けられるのは恐怖でしかないのだ。

同様のことは学内発表でも感じられた。中間発表や修論発表において、見知った教授から質問とはいえ相手の表情が見えないと自分の答弁がきちんと質問に対する回答になっているのかをリアルタイム判断することが非常に困難なのだ。我々は自然言語だけで意思疎通しているわけではないのである

また、コロナの影響は研究発表のときのみに留まらず、コロナの影響で研究活動のものが停滞した時期もある。特に大きかったのが、大学施設利用制限だ。緊急事態宣言が発令され全ての講義リモートとなった2020年春、大学講義だけでなく、研究活動のために大学に来ることにも制限をかけてきたのである

具体的には、研究室への入室人数制限――部屋の定員の半分までしか同時に入室してはならないという布告4月末に大学から発せられたのだ。私の分野は研究室に行かないと実験ができず、これによる停滞は大きなものだった。実際に入退室を細かく監視してるわけではなかったが、万一にもクラスター感染が発生し経路調査が行われたときのことを考えると背くわけにはいかず、結局2020年曜日ごとに入室できるメンバーを分けての活動余儀なくされた。

さら大学は、感染者が出た研究室がある建物を消毒のために数日間閉鎖するという強硬策も同時に打ち出していた。案の定というべきか、私がいる同じ建物の別の研究室感染者が出てしまい、入室どころか入館自体ができない事態になったことがある。学会まで間もなくというタイミングのことだ。その時私は学会発表に向けて追加実験をしていたこともあり、「大学は我々に研究させる気がないのではないか」と本気で思ったものである

また、教授から指導を十分に受けられなかったのも、モチベーションの面で非常に大きかったと言える。大学教員というもの基本的には裁量労働制であり、与えられた仕事をこなせるのであれば労働時間場所制限されない。これにリモートワークが結び付くことで、頼るべき研究室ボスが――扉1つ開ければすぐに質問相談ができた指導教員がそこにいないという状況が完成する。つまり、真面目に研究室に来たところで、研究がどんづまればその日はもう終わりなのだ平時であれば教授の居室に駆け込み即席の個人ゼミをしてもらえたところが、教授相談メールを送って個人ゼミを後日に設定してもらう、という手間が増えたのである

手間だけならまだ良かったが、更なる問題個人ゼミオンラインしたことであった。私の研究する内容は数理に片足突っ込んでいるものであり、つまり図を使わないと説明ができない類のものなのだコロナ禍前は個人ゼミ室のホワイトボードが黒くなるまで教授と競うように図を描きなぐったものだが、個人ゼミオンラインしたことで図を即席で描いて説明する、ということができなくなってしまったのだ。正確にはZoomを用いれば画面上に何かを描くことはできるのだが、ペンタブなどがない限りうまく描けないし、うまくかけていない図で説明するのは図を用いずに説明するのとそう大差はなかった。つまり個人ゼミをしたところで何に悩んでいるのかをうまく伝えられず、先生から提案理解に苦しむことがあったのだ。こうなると研究の進みも悪くなり、また相談するがイマイチ解決しきれずにどんづまり…という負の連鎖が始まってしまう。

これら1つ1つは小さなことだが、それが2年間も続けば研究のものに嫌気がさしてくるというものだ。少なくとも私はそうだった。

私のこの体験談は、「リモートワークに向いていない人間愚痴」と単純化することもできるだろう。ただ、そうした人間を切り捨てるだけでは、その社会は進展は望めまいとも思うのだ。特に教育研究機関は、その意味を深く考察すべきだろう。

この春、私は新社会人として東京とある企業入社する。そこは去年、私が就活していた時点ではリモートワークを順次導入中ということであったが、私は嘆願書を出してでも出社させてほしいと主張するつもりだ。

2度としてあの灰色の日々を送らないために。

2022-03-01

anond:20220301083634

返事書いてくれてありがとうございます

とてもシビア現実的問題で、一つ目の大学ゼミで似たようなことを経験したので(未だ改善できているか不明)ブルッてます

みんながちゃんとしてるから自分ちゃんとしないと、と思ってとにかく勉強しまくって報告を繰り返してたらいつの間にかハブられてるような状態で、無言のクビ勧告…ということがありました。

組織では、勉強闘争もさることながら集団内の人間関係とその調和を何よりも重視しているということがこれで少し分かったような、そんな体験でした(トラウマだしマジ怖い。悪気なんてないのに理不尽過ぎた。いや、世間知らず常識知らずの自分に非があるのか…)。

ただ単に、自分能力的に劣っているから周りに追いつこうという謙虚気持ちで、別に出し抜こうとか上に行こうとかいうのは考えてもいなかったのですが。そういうのは自ずと能力がある人がやるもので、組織の中で貶めあってもしょうがかいんじゃないかと。それよりも組織を超えて対外的競争に勝たないと、組織を大きくするために会社は動いてるんだから少しでも貢献できるようにならないと、そのためにがんばらないと、って思ってました。

バカのフリ、空気に合わすこと、内心無期待で表向きは愛想よく、勘づかれないこと、誤解されないこと、ということで、まずは徹底して意識的にやります

ただ、これは「テスト勉強した?してな〜い」的なやり取りのように、実はみんなめちゃくちゃ頑張ってるけど表に出さない見せないだけで、それを真に受けると自分落ちこぼれていく…ということにはならないんでしょうか?

会社なので学生時代よりも個々人で動かれると思いますし、この辺りの事情が今ひとつ掴みづらいので、よかったら教えてください。

本音も建前もなく、ただ空気に合わせる、ということが大の苦手で、みんなは普通にできてることなのにまじでやばいと思っています

せめて本音か建前があればそれなりに相手の求めてることがわかるのに、空気読むってやつは本当に厄介で最悪です。何を考えてどんな気分でいるのかさえ分かりません。全て向こうの出方次第、関係性次第、というのはもはやカオスではないかと思いますしこれがいじめの根源病ではないでしょうか…。ただ教えてくれたらいいだけなのに。

あと、私は単にみんながそれなりにやってるから私も…という動機で動き出すことが多かったのですが、社会会社では違うのでしょうか?

なんというか、みんなのために自分もやる、という感じです。

それと、「人に教えてもらう態度」とは、いわゆる教授研究室に行って会話する中で色々と自分で参考にしていく、ということでいいでしょうか?

2022-02-26

人文アカデミアってパワハラ蔓延してるんだね

オープンレター関連を見ていて印象に残ったことがある。

人文アカデミアの人たちのパワハラ言動だ。

一番印象なのは「これはエンコ詰めだな」みたいなことを後輩に言った研究者

あとは批判されたら「恥を知れ!」と逆切れした人

オープンレターと呉座のテニュア付与撤回無関係と開き直る人たちも。

果てはオープンレターは呉座の復活する道しるべ、みたいなことを素で言えちゃう人もいた。

この人はネット番組に呉座が出ようとしたら「裁判で不利になる」とも言ってた。

はてブでも名誉棄損で呉座が訴えるという話題に「アカデミアに戻ってこれると思ってるのか」

みたいなことを書いてる人や☆をつけてる人たちがいた。

外部に向けてさえこれだから、同じ研究室で下の立場の人に対してはもっと激しいことしてそう。

人文アカデミアってやばい世界だったんだね。

初めて知った。

人文アカデミアってパワハラ蔓延してるんだね

オープンレター関連を見ていて印象に残ったことがある。

人文アカデミアの人たちのパワハラ言動だ。

一番印象なのは「これはエンコ詰めだな」みたいなことを後輩に言った研究者

あとは批判されたら「恥を知れ!」と逆切れした人

オープンレターと呉座のテニュア付与撤回無関係と開き直る人たちも。

果てはオープンレターは呉座の復活する道しるべ、みたいなことを素で言えちゃう人もいた。

この人はネット番組に呉座が出ようとしたら「裁判で不利になる」とも言ってた。

はてブでも名誉棄損で呉座が訴えるという話題に「アカデミアに戻ってこれると思ってるのか」

みたいなことを書いてる人や☆をつけてる人たちがいた。

外部に向けてさえこれだから、同じ研究室で下の立場の人に対してはもっと激しいことしてそう。

人文アカデミアってやばい世界だったんだね。

初めて知った。

2022-02-24

anond:20220224090250

ワイのおった研究室助教授先生が実権握ってて教授はみんなに馬鹿にされてたやで

2022-02-23

anond:20220223222901

勝ち負けじゃないけど、研究資金が潤沢で研究室付の技官工場とかのバックアップがあって雑務ほとんどなくて、自分給料が1.5倍でみたいな環境だった人が国内にわざわざ戻ってくるのかってことですよ。

2022-02-17

anond:20220216230726

「う、うあ~っ!!1!」と唸って指導院生とも日常会話こそ成立しないけど、いざとなると最高難易度の数式の解を求めたり最適数理モデルを導出して翌日には研究室に持ってくる教授

コミュ力だけを理由に切るのはあまりに勿体ないと思うけどなあ。

そういうレベル京大理研かにごく少数(日本全体で数十人とか)いればよくて、それ以下は社会性が必須という感じになってるでしょ。

2022-02-16

anond:20220216224444

「う、うあ~っ!!1!」と唸って指導院生とも日常会話こそ成立しないけど、いざとなると最高難易度の数式の解を求めたり最適数理モデルを導出して翌日には研究室に持ってくる教授

コミュ力だけを理由に切るのはあまりに勿体ないと思うけどなあ。

anond:20220216070933

増田さんが偉いなと思う点が二つあって、

まず就活に臨むまで、人に対して人として接していたということ。

ゼミ研究室で同じような悩みに既にウンザリする人もたくさんいるし、

なんなら中高生の頃からその種の絶望を感じてる人も相当数いると思う。

から増田さんはむしろ人とのコミュニケーション能力あるんじゃないかと。

もう一つは、社会のそういう嫌な面を知りながら、

ちゃん社会に出て働こうとしているところ。

単純に偉いなと思います

老婆心ながら付け加えると、

就活面接で「人間性を見る」なんて言われたとしたら、それは嘘です。

人間が短い時間面接のやりとりなんかで人間性を測ることは

絶対

できません。便宜上できるふうに振る舞ってるだけです。

本気でできると思ってる人はただのバカです。

畢竟、就活は単なるガチャです。ほとんどが運(縁と言い換えてもいい)に左右されて、

その人の能力や、ましてや人間性など、まるで関与しません。

からもし思い通りにいかなくても、自分自身評価を下げる必要は全くありません。

就活成功した人間は、自身能力人間性が優れていると思いがちですが(長いストレス下に置かれたので仕方ない面はあります)、

そんなことはありません。

長くなってすみません

2022-02-12

anond:20220212203449

真面目にアンケートに答えたのが馬鹿らしい

らしいもなにも馬鹿だな

いやしか社会学科の研究室とかはもうちょい怒ってもいいと思う

学部生のアンケートとか街で答える奴おらんなるで

2022-02-11

修論終わんないもうやだ退学したい

正確に言うと化合物データ収集が終わらないからもうやだ退学したい

専門用語ゴリゴリに使って、事情あんまり説明せずに書くね。有機合成専攻だよ。愚痴だよ。

身バレしないよね。大丈夫だよね。きっと日本自分と同じような人は今現在沢山いるよね

修士論文本文自体は大体書いた。冬休み会社研修用のビデオ視聴と勉強で潰れたので(この愚痴も後述したい)、1月から2月前半にかけての2-3週間で、毎日朝2時間早く来て修論を書いて、土日にも一日中書いて、コアタイム中も化合物データゆっくり集めつつ16-20時くらいは「ごめんなさい」と思いながらひたすら修論を書いて、ようやっと大体仕上がった。本文約100ページ、実験項約60ページ、NMR約30ページ。

あとは抜けているところの修正体裁を整えるだけだ。まあ自分はそういうの苦手なので心配なのだけど。

修論発表は来週だが、まあ問題ないだろう。もう修論発表対策はほぼしないと決めた。前日にもう一回暗唱とレーザーポインター練習をすれば十分だろう。前日の17から2-3時間練習時間を取れば十分かな。

修士論文には、本文のほかに化合物データを添付する必要がある。私のテーマはうまくいってしまたから、学術論文用にきれいなNMRデータやその他分析データを用意する必要がある。(うまくいかなかったテーマ研究室内部データ用だと適当化合物データで許される)これが全然終わらない(本愚痴趣旨)。

うまくいったテーマのだけでも、数えたら30個くらい化合物データがあって、私化合物データなんて集めた経験が無い中、急に12月くらいから「論文用にデータを集めてください」と言われ、普通に研究も進めながらデータ収集を行い、1月末にもう3つくらい新しい化合物を作って、先生もっと進めろとおっしゃったが、いやいや無理ですと心の中で反発してこっそり研究の進捗自体は終わらせた。

化合物データ収集って思ったよりうまくいかないし、こんな後始末みたいなのでうまくいかないと徒労感がすごいし、私研究向いてないっすわ、改めて思う。もしこの作業研究室入ってすぐのB4の時にひたすらやらされたら病むわ。研究の楽しさを知らずに病んでしまう。

化合物データの何がしんどいって、本当にきれいにしなくちゃいけないんですね。溶媒含む不純物が3%以下が目安と言われております化合物によってはこれが非常に難しい。特に

・量が少ない

最後の方のステップで、量が10mg未満とかしかないやつ。特にNMRチューブ溶媒コンタミ(混入)を受けやすいのが本当にしんどい。

・溶解性が悪い

溶解性が悪いと必然的に少しの量しかとかせないので、上記と同じ問題が発生する。あとこういうのは大体溶けないから精製もしんどい

アモルファス

溶媒が飛ばない

金属錯体

精製がしんどい。あと往々にして溶解性が悪い。

この辺がめちゃくちゃしんどい

私あといくつデータを集めなければならないんだ?

溶媒が飛ばない大事な最終生成物(アモルファス)が3つ。正直NMR溶媒コンタミだと思っている。

これが本当に病む原因。もう無理。やりたくない。もうやだ。もうやだ。やむ。投げ出したい。

正直溶媒を飛ばせばOKで諦めて提出しようかな。そうすれば終わりが見える。

・精製しなければならない大事な最終生成物(アモルファス)が一つ。カラムしてGPCして、丸一日あれば終わるだろう。

・精製しなければならないその他化合物が2つ。一つは今日精製していて、もう一つもいつかやらねば。

・合成しなければならないのが1つ。不安定なのできれいなデータが取れるか非常に心配化合物

・あとなんだかきれいに合成できなくなってどうしようか困っている金属錯体が一つ。これほんまどうしよ。クロロホルムでろ過してみるか、、、

こんなもんか?目標2月中、最悪3/12、本当に最悪3月中に揃えればいい。終わるかな、、、


べらべら語った。

今日はせっせと休日出勤してovernightでカーボンを取って、これが思いっき溶媒が入っていてやり直しだということが分かって激激なえなえ

あと一つ精製してもう疲れたから帰る。3時には帰る。そして寝る。

お昼にはマックを食べる。ずっと食べたかったポテトLサイズで買ってやる

疲れた。単純に忙しいのと、プレッシャーと、プレッシャーとにつかれた。

困難で社会人なんてやっていけるのだろうか。

疲れた休みが欲しい。

2022-02-07

anond:20220207222925

ルール興業面白くするためにある!…て、欧米プロスポーツでは本気でおもってるから

(だからF-1が走る研究室なんてゆうのは今じゃ大嘘よ)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん