はてなキーワード: 真骨頂とは
4ヶ月前、僕は合同誌の誘いを受けた。
内容はSさん原作のアンソロジー本、ようは「うちの子二次創作合同」だ。少しイヤミっぽい書き方だが作品名をボカす為、何卒容赦いただきたい。
「うちの子」とは大抵の場合その人が創った一次創作キャラクターの事である。それの二次創作本を原作者主催で作るのだから公式アンソロジーと呼べるかも知れない。
かなり内輪ネタ感はあるがSさんとリプライを交わしたこともない自分に声がかかったのは意外だったし嬉しかった。
数年前にHPにあったイラスト、ショートストーリーに強く惹かれ何枚かファンアートを書いたことがある。それを見て招待してくれたのだという。
自分の作品が見られ評価されるというのは創作者にとって一種の麻薬である。僕は気分が高揚するのを感じながら了承の旨を伝えた。
自分で言うのは変だが僕は二次創作が得意だ。真骨頂と言ってもいい。
映画、小説、漫画、動画、あらゆるコンテンツを見ても一番最初に考えるのは「自分ならどんなストーリーを作るか」だ。
原作者が組み上げた土台の上で自分の思うがままにストーリーを展開させるという楽しみ方。オリキャラを出すわけではないのでメアリースーとは違うと思う。
子供の頃から日常的にやっていた事だが、多種多様な作品を見てネタの引き出しもバラエティに富んだ今、考え出すと止まらなくなる。
久しぶりに物語を読み返し、設定を思い出したところで僕の頭の中では無数のアイデアが浮かんでいた。
シリアス系、ギャグ系、まったり系……どれも捨てがたいが一番得意としているギャグで行く事にした。
構成を整える為、メモ帳に思いついたネタを書き出していったのだが珍しく指が止まった。
僕はネタ出しの際、とにかく頭の中のものを全て出し切ってから取捨選択を行うので何故この段階で固まっているのか自分でも分からなかった。
最後に入力した行を見返した時、自分の異常さに無意識のうちに反応したのだと理解した。
ニュアンス的には銀河鉄道999のメーテルが「行くわよネジ!」と言っているようなネタだった。
Sさんの作品は人の生き死にが関わってくるシリアス系の作品だ。こういった作風に対する二次創作ではブラックユーモアや軽いノリを入れるのが僕の好みだった。
商業で展開してる作品(同人だが東方Projectも含む)の二次創作を行っていたときは気にしていなかったが、ここで初めて原作者の存在を思い出した。
このネタを見たとき、Sさんはどう思うのだろう。怒るだろうか悲しむだろうか。
自分が原作で主催の合同誌だ。載っている作品は全て見るだろうし、第三者からしても「Sさんはこの人の作品を認知している」という事になる。
それは僕にとって非常に不都合だ。
今までやってきた二次創作は原作が手の届かない大手だったからこそ自由にやれていたのだ。
少々グレーではあるが二次創作者は同人即売会などでひっそりと本を出し、原作サイドは見て見ぬふりをする。この暗黙のルールに僕は守られていた。
だが今回は違う。原作者に認知され、認知されたことも認知される。同人であって同人ではないのだ。
二次創作ということに変わりはないが僕がやっていた二次創作とは全く異なるものである。
咲の天江衣が手足を折られている絵も描いた。東方のミスティアローレライが呪歌を歌う本も描いた。
原作ファンから嫌悪感を抱いたコメントをもらった際は「嫌なら見るな」のAAと同じポーズをして全く気に留めなかった。
何故なら悪意を持って絵を描いているわけではないからだ。後ろめたさや罪悪感は微塵も無い。
ただ思いついたから描いただけ。絵のメッセージ性を考察するだけ無駄だ。何も考えてなどいないのだから。
思い返すと僕は一次創作をやった事がない。だから一次創作者、原作者の考えが分からない。
以前エヴァンゲリオンの最終章を観に行ったが映画館を出て考えたのは二次創作のことだ。
作品が織り成す表現、意図、メッセージは頭になかった。ただボケっと観ていただけで精々CGのクオリティにビックリしただけだ。
その後暫くするとYouTubeに考察動画がアップされ、それを観て理解した気になった。作品の深みが分からないまま。
一次創作において一番大変なのは世界観、キャラクターの設定だと思う。優れた設定さえあればほぼ自動的に物語が出来ていくというのを作家の誰かが言っていた気がする。
Twitterで見たのは複数のキャラクターを何もない部屋に閉じ込めた時、どういった反応を示すかが瞬間的に思いつく作品は優れているというものだ。
自分の好きな作品をいくつか試してみたところ面白いようにキャラクターが動き出す。個性豊かで磐石な設定が築かれている証拠だ。
個人の感性が関わってくるので同じ作品でも結果が異なるのは当然だがキャラクターの性格上ありそうなアクションを起こすはずだ。
何もない部屋ですらちょっとした物語が始まるのだから二次創作というバーリトゥードでは無限に話を広げられるだろう。
二次創作しかしてこなかった僕は一次創作における土台の作り方を知らない。コツなどではなく根本的なものから知らなかった。
やっと絞り出した設定を見返しても有名作品の劣化コピーか、足して割ったような歪なキメラで作品としてのまとまりが無い。
他人の作品を利用して楽な工程だけやっていたから至極当然の結果と言える。
僕は感受性、0から創りだす発想力に乏しいのかもしれない。曲がりなりにも長いこと創作活動を行っていた人間が創作に向いていないとは皮肉なものだ。
つい最近ニコニコ動画で面白い作品を見つけた。『【クッキー☆ボイスドラマ】魔理沙とアリスの自己矛盾☆』という動画だ。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm36353098
例のアレ、と呼ばれるジャンルのクッキー✩という作品をテーマにしているらしい。
時が流れるにつれ変化していく界隈や情勢を風刺したドラマ、だと思う。
元ネタの名前こそ聞いたことはあるものの、詳細は知らないので内容に関してはあまり理解できなかった。
ただ主人公の女の子が二次創作ならではの悩みと葛藤するシーンに少し共感を覚えた。
元々一次創作を行っていた女の子が、甘い誘惑に誘われ二次創作に手を出すところから物語は始まる。
作品の看板を借りるだけで今まで伸び悩んでいた絵の閲覧数が増えたことに気を良くした主人公はどんどんと沼に嵌っていき、二次創作に依存していく。
ある日描いた絵を見返すのだが「本当の自分が描いた絵」が一つも無いことに絶望し二次創作からの脱却を図る…という話。
特に主人公が序盤で一次創作をしていた時は左利き(ペンを左手で持っている)だったのに、二次創作を行うようになってからは右利きになり、
クライマックスでの本当の自分を取り戻したシーンでは左利き(マイクを左手で持っている)に戻ったりと主人公の心情が視覚的な対比として描かれていたのが印象的だった。
動画は立ち絵を手や足などの細かいパーツに分割し動かす切り絵アニメーションをメインで使っているようだ。
小規模の制作グループで45分以上あるアニメを作るなら確かに合理的である。それでも膨大な手間暇がかかっていることに違いはないが。
今まで見てきた作品とは違い、鑑賞後は何も考えられなかった。ある意味生まれて初めて心の底から作品を楽しめたのかもしれない。
コメントを見る限り様々な小ネタが含まれているようで理解できなかったことが一層悔しく思う。知っていれば多角的に楽しめるのかもしれないが今の僕には十分面白かった。
作品の表現、演出一挙一動に注目し、感想が出てきた事に自分でも驚いたのを覚えている。僕にとってそれくらい強烈な体験だった。
これまで僕がやってきたのは作中の言葉を借りるならば「安易な二次創作」に該当するだろう。中身がなくハリボテみたいな創作だ。
話を戻すがSさんの合同誌の誘いは断ることにした。昨日謝罪のメッセージを送信し納得してもらった。自分の無責任さと幼稚さで迷惑をかけてしまったこの事は二度と忘れないだろう。
僕なりに考えたが健全な創作には感情が必要なのだと思う。嫉妬、欲望、勿論熱意でもいい。プラスでもマイナスでも構わないから感情という名の原動力がいる。
問題はそれが狂気的でなければならないことだ。中途半端な嫉妬心、欲、熱意では筆を折ってしまうだろう。イカれてるくらいがちょうどいいかも知れない。
そして健全な二次創作には矛盾が付きまとう。原作設定との矛盾、創作においての矛盾、先程挙げたコミケの暗黙のルールだって本来は矛盾している。
その矛盾を上手くコントロールしバランスを取らなければ良い結果には繋がらない。狂気がエンジンで矛盾がアクセルブレーキ、どちらも故障したらダメだ。
狂気と矛盾、この二つを安定させられる人間はほんの一部しかいないと思う。筆を置いて時間が経たないとやる気が出ない人がほとんどだ。
僕はRTやいいね数はどうでもいいと思っているし、フォロワー数が数万人の絵師に対して特に何も思わない。原作は二次創作のツールとしか思ってないし考えなしに描きまくった。
だから失敗した。こうなってしまった。自分が創作活動で過ごした日々は空白だったのだ。
あなたの二次創作はコピーペーストを繰り返したパロディまみれになってませんか?成人向けなら自分が好きな性癖を詰め込めていますか?本当に創りたいものが創れていますか?
二次創作には二次創作だけにしか味わえない面白さ、奥深さがある。創作に携わる人間なら知っているはずだ。
ただ楽しいからといって自分を見失ってはいけない。思考を止めてはいけない。創作者としての軸を保ち続けなければならない。
うおおおおおおおおおお
宵宮まであと一週間だあああああ
俺は初回課金でクレーちゃんを2凸してしまい確かに強いがこのゲームの性質的に凸や武器に石を割くよりもまずは男キャラだろうとキャラコンプしていった方が楽しい(特にサポキャラは取り得)ってことを理解して若干後悔しているがとにかく火アタッカーはクレーもディルックも胡桃も煙緋もいるんだけどそれでも宵宮ちゃんが欲しいぞおおおお!
やっぱり使うならハイティーンの可愛い美少女キャラがいいんだよって事になると現状胡桃一択、いや煙緋ちゃんも見た目はそうなんだがクール系低めボイスの法律家ってことで女子ウケは良いかもしれんけど俺の萌えセンサーには微妙にひっかからないんだよすまんなプレイ感覚はわりと楽しげだけどな
ということでやって来る待望の美少女キャラ宵宮ちゃんですよ関西弁のさらし巻きお祭り少女ですよ胡桃ちゃんも胡桃ちゃんでぶっ飛んだ性格のキャラで星目というか桜目だしクセが強すぎるキャラだけど宵宮ちゃんもまあクセはあるながらも辛うじて普通の人って感じはするから好感度は低くなりようがないぞ
伝説任務でも普通にお喋り好きの人情味ある江戸っ子的に描かれてたからな声優さんは植田佳奈なんで若手のフレッシュな萌えボイスではないもの著名声優だけあって十分かわいい上に関西人だから違和感も多分ないと思われる
ただアレなんよ胡桃がスキル発動後の数秒間でバーストダメージを叩き出すコンセプトなのに対してこの宵宮ちゃんもコンセプト同じスキル強化型だからなんかプレイ感覚的な目新しさが乏しい気がするのが気になるね
胡桃は爆発も強いのに対し宵宮の爆発はサポ寄りってのもちぐはぐで判断に困るなあそれでも胡桃が槍重撃メインで動き回って無凸だとスタミナきついのに対し宵宮ちゃんは弓通常攻撃メインになるのが大きな違いだね
つまり動き回らず固定砲台できるから設置スキルのベネバフとも相性よさそうだし自己バフがHP依存なせいで攻撃力が微妙ステになってしまう胡桃と違って伸びしろがすごそうだ、火事場のために鍾離とペアにしなくていいのもグッド
行秋(こいつ過労死しそうだな)との相性も当然よさそうだけど甘雨爆発や北斗、雷主とも相性よさそうで元素反応をいろいろ起こしていくスタイルになるんかな
単体攻撃ゆえ個別撃破スタイルになるだろうから集敵用途で風キャラを入れる必要はないのかもしれん、風デバフは依然有用だとは思うけどもな
でも風入れるよりも強力な元素反応を複数種類起こしまくるスタイルがおそらく宵宮の真骨頂っぽいんだよなあ
攻撃と回避が一体になってる胡桃と違い固定砲台の宵宮ちゃんは回避をしっかりしていく必要がありそうなんだが過負荷や感電で敵の動きを止めていくのが重要そうなんだよね
でもそのへんの固定値系反応で火力盛ってくことを考えるとやっぱスクロースで裏メンバーの熟知盛ったほうがいいのか、いや6凸ディオナの出番なのかと思ったがディオナは表のキャラしかバフれないよな宵宮ちゃんが表で火矢連打してると反応起こすのは裏キャラ側になることが多いだろうから微妙か編成悩むなあ
なんかブコメがいっぱいついてるけど、この記述はいただけませんね…。これはほとんど偽史・歴史改竄の類ですよ。
それはすべてアニメやゲームやライトノベルを筆頭とするおたくカルチャーに付随して流行したものだ。
https://anond.hatelabo.jp/20210710124113
そもそもvaporwave〜future funkで参照される日本のシティポップ楽曲の代表(たとえば『Plastic Love』、山下達郎『甘く危険な香り』『Sparkle』、杏里『Remember Summer Days』など)とオタク文化との接点の薄さを考えれば、元増田の主張の信憑性が乏しいことはすぐわかると思います。
まずシティポップの再評価についてです。日本のシティポップは、海外の一部AOR好事家には20世紀から注目されていました。特に山下達郎・吉田美奈子・竹内まりや・角松敏生-杏里ほかは、リズムセクションの黒さがエアプレイ向きな上に、和物ならではの楽曲の構築感(複雑な進行)に独特のエキゾチシズムがあって、2000年頃からJ boogieとかJ rare grooveって名前がついて評価されるようになりました。これはvaporwave云々の流れとは別の話です。日本のGS(グループサウンズ)にも昔からマニアがいて、海外では結構高値で取引されてるけど、それと同じような現象ですね。
次に、そもそもvaporwaveとは何なのか、ですが。以下の記事にあるこの要約は、端的だけどとてもわかりやすいと思います。
存在しない夢想のバブル時代、1980年代ネタをとにかくサンプリングとカットアップや回転数を落として、ありえない1980年代を表現した音楽ジャンル
https://note.com/myumafkd/n/nab12db7e40ca
この「存在しない夢想の」とか「ありえない1980年代」とかって感覚は、vaporwave系をリアルタイムで聞いてた人以外にはなかなか伝わらなくていつもモヤモヤするんだけど、vaporwaveは決して「埋もれてしまった良質な音楽を取り上げて、もう一度光を当てました」みたいな単純な再評価のムーブメントではなかったんです。あえて言うなら、皮肉っぽさ、諧謔性、メタ性、対象を突き放しながら愛でる感じ、などがvaporwaveの肝でした。たとえば東芝EMIやEmotionのビデオのオープニングロゴもSparkleの輝かしいイントロも2010年代には壮大な冗談にしかならないけど、でもこの時代錯誤感がいいんだよね…というような複雑な味わい方ですね。
そういう捻りを加えたミックスが、redditや4chanのマニアックな裏路地で、人知れず生産され、密かに鑑賞されていたわけです。この頃は、そもそも著作権関係が真っ黒だったので、vaporwaveは決してメジャーシーンには出られないだろうと思っているリスナーが多かったと思います。そういうアングラなムーブメントが、一部がFuture Funkに移行したり、アーティストとしてオリジナル曲を出すようになったりして毒気が抜けていくのと歩調を揃えて、徐々にオーバーグラウンド文化になっていったんですけど。
で、vaporwaveとその後継たるfuture funkでシティポップがよく取り上げられてたのは、シティポップがvaporwaveのレトロフューチャー的な世界観とリンクしてたからなんですね。だから、単にサンプリングするだけじゃなくて、何らかの形で批評的・破壊的な引用をされていた。具体的には、リヴァーブをガンガンかけたり、コンプをかけたり、ノイズを入れたり、回転数を引き延ばしたりして、その喪失性や虚飾性が際立つような音響処理がされてました。エキゾチシズムと回顧と皮肉こそがvaporwaveの真骨頂で、そこにぴたりとはまるパーツがシティポップだったんです。だからvaporwave=シティポップ再評価みたいな雑な認識を読むと「結局日本スゴイかよ」と言いたくなる人の気持ちもわかります。
vaporwaveの前身といえるseapunkでも、2011年頃の初期vaporwaveでも、アニメネタは主流じゃなかったです。一番使われてたのはメガデモ、windows95、amiga、ラインアート、粗いポリゴン、椰子の木、TVCM、RGB情報が潰れたVHSビデオ動画などのコラージュ、(多くの制作者・消費者には読めないエキゾチックな言語としての)日本語表記などなどじゃないかな。つまりオタク文化を参照してはいたけど、その多くは、アニメよりもコンピュータやゲームなどの方に寄ってました。こういう経緯は、木澤佐登志氏が何度かvaporwave小史を書いていて、vaporwaveを理解するには一番バランスが取れた内容だと思っています。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59738
で、vaporwave界隈の映像にアニメからの引用が増えていくのは、後期〜Future Funk以降の話なので、シティポップへの参照の方がアニメの参照よりも先行しています。その点で、以下の増田と自分の認識は一致してます。
おそらくvaporwaveから派生したfuture funkに対する影響のことを言ってるんだろうけど
future funkにおいてもジャンル内から有名になったアーティスト(Night Tempo、ミカヅキBIGWAVEとかのピンクネオン東京周辺etc.)
が多用しただけであって元々ジャンルとしてはシティーポップと呼ばれる音楽のほうがアニメよりも先にモチーフとして使われている。
https://anond.hatelabo.jp/20210711135919
しいて言えば「東京は夜の7時」か。
あれはシティだわな。でも、日本人はあまりシティであることを売り物に音楽活動はやってないと思うよ。
「有楽町で逢いましょう」とかは、ポップじゃない。
https://anond.hatelabo.jp/20210710192009
70年代末から80年代初頭のシティポップ(ス)って言われてた音楽は「街」のことばっかり歌ってました。山下達郎も吉田美奈子も荒井/松任谷由実も竹内まりやも大貫妙子もEPOも、みんな消費文化の極みともいえる当時の東京で生きる事への自負と強迫観念と焦燥と疎外感があったんでしょう。彼らの歌には、具体的地名を伴わない、抽象化された「街」「この街」「都会」「ダウンタウン」などの言葉が歌詞の中にバカスカ出てきますが、これはほぼ全部東京のことなんです(海外行って本格ファンク/RandB路線に転じた後の吉田美奈子は除きます)。シティポップ(ス)の名前は伊達じゃないですね。
『オレたちひょうきん族』がオープニング・エンディングにシティポップを盛んに使っていたのも、今にして思えば、テレビ業界・芸能界の内輪の目線を悪ふざけしながら曝露するという切り口が、虚飾の栄華に満ちた消費都市としての「東京」を象徴しているようで、まさにvaporwave的な世界観を体現する繋がりだなと思います。
9人もの大規模コラボの中、夕刻ロベルが持ち前のしゃべくりでほぼ全ての見せ場を持っていった。多人数コラボでも目立つタイプのVも多数参加して突っ込んでいたがお構いなしに終始ロベルがボケ倒して終わる。何気にエグいピカミィ王の無茶振りにも注目。
王様マリカを見るなら誰の配信でも良いが、全体の流れを把握しやすいのは因幡はねるか風見くく視点がオススメ。
https://youtu.be/euAIXGeey58?list=LL&t=6856
Apex配信で火がついて今夏ブレイク中のSEM3人によるコラボ。序盤のDEVOURも面白いが、真骨頂は後半(1h54m近辺〜)のPummel Partyに入ってから。お互いに強烈な煽り合いを見せながら、潰しあっていく様は本当に面白い。
https://youtu.be/4itJhZLb_1k?list=FLjEtvMjKL4RE8c_kovDC2Ug
各Vの個性をいかした麻雀配信。麻雀のルールを知らなくても楽しめる。基本はグウェル以外の3人がガヤガヤとうるさい配信だが、要所要所ですっと一言で入り込んでくるグウェルの面白さも見所。
同様の理由で切り抜きも(本人自身によるものも含めて)除外してある。
他にもこんなに笑える動画あるよって人は是非教えて欲しい。
夜に駆けるばかりがかかりすぎているけど、YOASOBIの良さが最も詰まっているのはアンコールという曲だ。
ミニマルミュージックの定義自体曖昧な部分もあるが、基本的にはある特定の短いメロディ、リズムを周期的に繰り返し、それが少しずつ変化していく様子を楽しむという音楽のジャンルだ。
さて、ここでミニマルミュージックの代表的な一曲を紹介したい。
となりのトトロ「風の通り道」と言ったほうがぴんと来る人は多いだろう。
久石譲の代表的な曲の一つであり、そして久石譲こそ、ミニマルニュージックの第一人者でもある。
このThe wind forestがミニマルミュージックだと考えている人は実はそれほど多くない。
その理由は単純で、ミニマルミュージックらしからぬドラマティックな展開と、サビのゴージャスさがこの曲にはあるからだ。
しかし、そうした演出面を削ぎ落とすと、この曲自体は実にシンプルなメロディーラインで構成されていることがわかる。
その点だけに焦点を当てればこの曲は間違いなくミニマルミュージックであり、しかし、その定義に縛られないくらいに万人の心に響く曲として完成したのがこのThe wind forestである。
つまりは久石譲がミニマルミュージックを突き詰めた末にたどり着いた一つの最終形がこの曲だと言えるのだ。
人間という生き物は何事に対してもパターンを見出そうとする習性がある。
その習性を逆手に取って、ほんの少し裏切ることで、人はそこに意外性という面白さを見出すようになる。
ミニマルミュージックは、まさにその意外性をひたすらに楽しむ音楽だと言える。
ではなぜYOASOBIの楽曲がミニマルミュージックで、YOASOBIの楽曲がミニマルミュージックとして完成度が高いのかを説明したい。
平たく言うと、昨今の一般的なアーティストは曲の幅をもたせようとしたとき、あれでもなくこれでもなくとにかく詰め込もうとする。
展開を激しくしてその落差が才能であるかのような見せかけをしようとする。
聞いている側の人間は、そんな発想はなかった!と、それを才能だと勘違いする。
当然だ。自分を含め、音楽を聞くことはしても作ることをしない人間が大半だ。
料理と一緒で作る側の想像ができないから、思いもしないものが出てきただけで簡単に優れたものだと勘違いしてしまう。
YOASOBIの楽曲は、まずサビがある。
そしてそのサビがその曲を作り上げる上での最もミニマルな構成要素となっている。
それに対し、いわゆるAメロやBメロは、そのサビを想定より少しずれた方向に展開させ、今度はそのメロディ同士がミニマルを構成している。
つまり、一曲に、サビ、Aメロ、Bメロという3パターンのミニマルミュージックが詰め込まれていて、それらを組み合わせて1つの楽曲として構成されているのだ。(それらをつなぐためのメロディも存在しているが、それらは基本的にどこかのメロディの転調である。)
それらを激しくドラマティックに展開させるわけではなく、ほんの少しずつ、期待通りから少しだけ外れるけどでも決して心地悪くならないように、とても細かく繊細に意外性が散りばめられることで作り上げられている。
そして、そうした楽曲に対して、ボーカルの幾田りらの歌声が絶妙にマッチしている。
歌がうまい=パワフルな歌唱力と考えられがちだが、彼女の凄さはその歌声の安定感にある。
ある意味では機械的と捉えられるかもしれないが、決して単調なわけではない。
安定感の上に少しのゆらぎとうっかり見落としてしまいかねないような表現力が含まれている。
これを表現力に乏しいというには浅はかで、決して押し付けることなく、同じような繰り返しと思わせながらも毎回新しい発見をもたらせてくれるような実に繊細で表現力にあふれる歌声だと言える。
同じような繰り返しに見えて、ちょっとした変化や意外性に富んでいる。
そう。つまり、彼女の歌声そのものがミニマルミュージックそのものでもあるのだ。
「アンコール」を聞き終えた方は、次に「優しい彗星」を聞いてほしい。
夜に駆けるに比べれば展開もつまらない、メジャーでは受けないような曲かもしれないが、この曲をミニマルミュージックとして聞くと評価が変わってくる。
どこぞの評論家がYOASOBIの楽曲を安っぽいと表現していたように記憶しているが、クラッシックのオーケストラが至高だとでも思っているのではないだろうか。
寿司屋に入ってフレンチのフルコースが至高だと言われても、だからどうしたとしか返答のしようがない。
恥ずかしいのはお前だ。
さて、この2曲を聞けば、YOASOBIのサウンドがミニマルミュージックによって構成されているという仮説を理解してもらえるはずだ。
そうしたら最後に聞いてほしいのはこの曲だ。
「ハルカ」
最初からメロディがいきなり転調する様子は、まさにミニマルミュージックのそれだ。
そしてこの曲は、サビに入るときに再び大きく転調し、サビ終わりに再び、しかも幾度なく転調していく。
最近流行りの、ただの意外性を求めるだけのこびた転調ではない。
曲の最初にかかった1フレーズのメロディがすべてのベースになっていて、ミニマルミュージック本来の気づかれないようなそれでいて意外性のある変化をすっとばして、変化し終わった形をいきなり見せてくるような転調なのだ。
曲全体を聞き終わったとき、それが連続性のある転調と気づく。いや、気づかないでも一つの曲として心地悪くなく楽しむことができる。
そしてそれを一つの楽曲として破綻させることなく結びつけているのが幾田りらの絶対的安定感のあるヴォーカルなのだ。
申し訳ないけど、YOASOBIはずっと食べず嫌いだった。
キャッチーなメロディと、悪いけど面白みのない歌声になかなか食指が伸びなかった。
そんな中、夜に駆けるブームが終わった頃、埋もれていた楽曲が耳に届くようになって考えを改めた。
そして聞いているうちに、ミニマルミュージックの新解釈であるという仮説を立ててからは、俄然聞くことが楽しくなった。
誰の邪魔をするでもないようなかかりかたをしているのに、一度意識が向けばその構成の面白さに引き込まれていく。
そんな不思議な魅力に気づいてしまった。今日もヘビロテが止まらない。
残念ながらこの曲調が売れる曲調ではないことだけははっきりとしている。
しかしながら、彼らの才能が詰まったこれらの曲に少しでもスポットが当たることで、彼らの才能がもみ消されてしまわないことを祈るばかりだ。
まずはアンコールを聞いてくれ。
その上でハルカを聞いたら、彼らの才能がどれほどのものかわかってもらえるはずだ。
才能が詰まっているのはアンコールだが、ハルカではその才能が爆発しているのだ。
ユーロトラックシミュレーター2(ETS2)と言うトラックを運転するゲームに今更ハマってしまった。
きっかけはとあるyoutuberのプレイ動画で、無料お試し版があったのでやってみた。
内容は自分がトラック運転手となり、交通ルールをしっかり守りながら荷物を運ぶゲームだ。
ただそれだけ。
スピード違反をすれば罰金、事故を起こせば罰金、信号無視をすれば罰金、無灯火で走れば罰金、
疲労がたまり過ぎると居眠り運転となり一切の操作が出来なくなる、目が覚めたころには我がトラックは横転し配送どころでは無くなっているだろう。
特に疲労には注意が必要で、疲労回復には9時間の休憩が必要になる。(途中で1時間仮眠、みたいな事は出来ない)
長距離配送となると休憩のタイミングはもちろん給油のタイミングも考えなきゃならない。
ここまでしっかり立てた運行計画であるのに実際走行すると事故で道路が封鎖されており、やむなく下道へ迂回させられる事も。
つまり運行計画はある程度のトラブルを想定した余裕のある計画でなければならない。
我々トラッカーに遅配は許されないのだ。
シミュレーターと言うだけあって牽引トレーラーが長くなればなるほど内輪差を考慮した運転が必要になるなど、挙動や操作は大分本格的であると思う。(※1)
ただし、この操作の本格的部分の大半がゲーム(所謂配送)には不要だったりもする。
ウインカーなどは適切に表示する必要があるが(※2)、ハザードランプは特に意味は無い。
なので点ける必要は全く無いのだが、バックで駐車する時は注意喚起と言う意味で自分は点けている。
クラクション(ホーン)も鳴らせるが、鳴らしたところで道を譲ってくれる訳でも無い。でも鳴らせる。
牽引トレーラーを切り離す時、別にサイドブレーキを引く必要は無い。でも引く。
そしてこのゲームの真骨頂と言えるのはバック駐車だと思う。(※3)
牽引車特有の挙動に四苦八苦し、上手く駐車出来た時の達成感たるや。
荷物を無事届け、「またな」と颯爽と手を挙げ次の現場へ向かう自分。
※1 実際のトラックを運転したことが無いのでどこまで本格的なのかは分からん
信じられないほど分かりにくかったよね、という話。
イアンの運転で今すぐに逃げなければいけないという状況でバーリーが指示を出すシーン。
車のメーターのところに手書きしたOのシールが貼られており、「ONWARD<前進>のOだ!」という字幕が出た。
そうすると見ている人は「ONWARDという単語は日本語では前進という意味なんだ」と知ることができる。
その時点でタイトルを回収したことにより嬉しくなったが、映画を見終わった時に
などなど、見る人によっても色々な前進がかかっていてタイトルがONWARDである意味を実感して感動した。
映画館で字幕で見た際の映像とは異なり、シールが「↑」のマークになっている。
その矢印がアップで映ったときに「前進だ!」というセリフが充てられている。
そこで「前進=ONWARD、なるほど!タイトル回収〜!」とはならない。
日本版Disney+上で字幕に切り替えても映像は「↑」のマークになっている。
映像の中にOもないし、前進のOと表示されたところでONWARDのOって意味かー、ともならない。
日本語版のタイトルは「2分の1の魔法」なので、漢字で前進と書かれてもタイトル回収にも関係がない。
今までDisney+で「雰囲気を壊すような、映像の中に配置されてる英語を勝手にダサいフォントで日本語にするのはどうかと思う」と散々言われてた。
物語に大きく関係しなかったので「そこまで文句言わなくても...」とは思っていたが、
今回は物語の真骨頂に関係のある内容なので個人的に少し残念だった。
でもこの作品が大好きなので、日本版Disney+に登場してくれてありがとう。
何度も繰り返し見て楽しみます!
韓流なんかはやたらと掃いて捨てるほど日本の情報で溢れてるんだが、
それに対して中国の文化が入ってこないのは本当に不気味なんだよな。
また韓国の漫画なんかも、ネット広告に入っている漫画は韓国系が多いと聞いて、
なるほどなんか変な雰囲気やノリだと思っていたがあれは韓国系だったのかと得心するとともに、
ああいった韓国漫画系は韓流のような日本の広告宣伝ラインには決して乗ってこないというところも不気味だ。
さて、前置きはさておき。
ウィキによるともう2016年くらいから始まった文化のようだ。
こんなに中国が世界を席巻しておいて我が国ではこんな一文程度ですら解説を多くしなければ理解できないほど中国文化が人口に膾炙されていないのかと感じる。
「1990年代に生まれた若者の一部の、受け身、無関心で、高望みをせず、世間を冷めた目で見る生き方」といった現状があるのか。
「下の世代の子供を養う必要があるとともに上の世代の両親の面倒を見る必要のある集団であり、それに家賃が加わる場合もあり、
そのため生活上のストレスが大きく、喪文化に染まりやすい集団」
人民網は喪文化を「精神のアヘン」と批判し、喪文化の流行がもたらすマイナスの影響を警告し、その背後につきまとう文化の侵食を警戒すべきとした。
また中華民族の精神を発揮して、挫折や失敗には、後ろ向きに対応して喪文化の際限ない蔓延を許すのではなく前向きな態度で対峙するように述べている。
中国青年網は、人生において失敗や挫折に遭遇するのは必然であり、だれにとっても避けられないことであって、
喪文化による逃避は実際の問題をまったく解決できず、歪んだ価値観を形成するとする。
前向きに対応すれば、困難に打ち勝ち、人生の進む先を発見し、人生の理想を実現することができるという。
また中国青年網は、中国の若者は喪文化に抵抗し、中華民族の偉大さの復興にむけ戦うべきだとも述べた。
これが実に中国の真骨頂で、思想すら中国共産党が"指導"していくということだ。
…こういう部分が、日本のマスコミ等々が中国文化を紹介することを躊躇う一因であるのかもしれない。
何のことはない。
復旦大学の経済学博士、林采宜は、喪文化は名誉や利益を求めず、自らの身を大切にすることを提唱しており、
道教文化の体現であって、功利が重視される現代社会への一種の解毒剤だと考える。
澎湃新聞の曾於里は、喪文化の生まれた原因を考え、現代の若者が「喪」に走るのは、彼らが進取を嫌がるからではなく、
かつて成功を求めようとしたにもかかわらず、現代社会の競争の厳しさなどのさまざまな問題によって成功しなかったためだと考える。
幾度もの失敗と挫折という打撃を受けたために彼らは喪文化の受容層となったという。
ある意味、中国という国家の「鬱病の初期症状」なのかもしれないな。
これを抑圧すれば、パッと見社会という名の会社に一時的には復帰できるかもしれないが、
ひとたび「壊れた」ら、全治数十年は見積もらなくてはならないのかもしれない。
まあそれは脇においといて。
中国という国は爛熟期から衰退期にかけて大抵宗教が王朝の転覆要因となってきたが、
21世紀の現代においては、若者文化においてこうした概念が普及することで、
ところで、利路修である。
例のリアリティーショーは、スマホも取り上げて隔絶させるのか。
まあいろいろ"ノウハウ"が蓄積されているんだろう。吐き気がするな。
私生活まで「カネ」に変換させられ、やめれば巨額の違約金。奴隷だなまさに。
家に帰りたい、疲れた、ってことか。
これはまだまだ日本の検索では一切ヒットしない概念のようだが、
若い連中は夢に向かって将来に大きな、バクダイな期待があると思うからこそがむしゃらになって夢に邁進する。
楽しくてしょうがなく、強烈な使命感があるからこそ、あらゆる努力が全て自発的にでき、またエネルギーが生まれてくるのだろう。
コロナ下においては、実質的な意義が判然としない緊急事態宣言によって、様々な業種が営業自粛を迫られる。
これには大きく分けると二つの効果があって、個人が営む飲食店などの小規模な自営業者の弱体化と、対する巨大資本によって成立する大規模な業種(特に、顧客との接触を伴う業種)の相対的な弱体化である。
小規模な自営業者の受けるダメージは甚だしく、中には撤退を余儀なくされたり、悪くすれば自殺に追い込まれたり、あるいは債務が嵩み資本を取り上げられたりする経営者もいる。
このような小規模の自営業者がダメージを受けることによって起こる帰結とは、これまで自営業者に流れていた顧客の、より経営の体力がある大規模な業者への流入である。つまり、これまで小規模の自営業者に流れていた顧客が、コロナ下における自営業者の撤退などによって消費の矛先を変え、より経営の体力のある大規模な業者へと向かうのである。
ここではまた、金銭の流れが統一化される。小規模な自営業者は甚大な打撃を受け、産業から撤退し、大規模な業者が、これまで小規模な自営業者が取っていたパイを掠め取ることによって、相対的に伸長することになる。
一方で、大規模資本によって運営される業種においても、接触型の産業は相対的に弱体化する。例えばUSJの運営が正にその事実に直面している。GW期間中に一切の商売を停止しなければならないという政府の要請のために起こる機会損失は、非常に甚だしい。
このような機会損失によって、大資本に基づいて運営される大規模な業種も、今後の競争力において大きな影を落とし、他企業による買収への抵抗力を失うことになる。接触型の企業に限っては、大資本を伴う企業にせよ、非接触型の企業に対する脆弱性を(少なくとも可能性の上では)抱えることになる。
この場合非接触型の企業とは例えばappleなどがそうで、勿論店頭における端末販売は接触型の業種なのだけれど、インターネットを介した売買やあるいはアプリ販売におけるロイヤリティなどの商業行為は非接触的である。このような業種はダメージを受けにくい。接触型の企業との、非常に鮮明な対照がここにはある。
仮に大企業による買収などが今後行われるとすれば、そこにはコロナの影が落ちているといって過言ではない。
また、このような買収によって、やはり金銭の流れが統一されることになる。コロナ下において相対的に競争力の低い企業が、買収などによって相対的に競争力の高い企業に呑み込まれる可能性が、生じるのである。
ここまで、あくまで起こり得る可能性についてのみ限定して話を行ってきたため、厳密にはこの話は陰謀論に該当しないとは考えている。とは言え、これから述べる結論は極めて陰謀論的であり、全く裏が取れていない。以降の文が陰謀論の真骨頂である。
恐らくコロナの陰には、アップルコンピュータやグーグルといった非接触型の企業と、そしてそのようなコングロマリットとの間に大きなパイプを持つ米政府の存在がある。米政府は日本の官僚にコロナ下における対応を指示することによって、日本国内の特定の産業を弱体化させ、そして、最終的にその金銭の流れが、アップルやグーグルといった非接触型の企業へと統合されるように仕向けているのである。
昨日のM-1で、マヂカルラブリーはアホみたいな床滑りで優勝した。
これで世間は脳筋の野田クリスタルが考えたギャグマンガ日和漫才、動きだけが面白いしゃべらない漫才が評価されたと思うだろうし、これからもそのイメージが付き纏うのだと思う。
しかし、彼らの真骨頂は、実は高学歴芸人の村上と、学歴の代わりに芸歴を積むことにした野田クリスタルが織りなす、知的なしゃべくり漫才的な会話にある。
大宮の劇場では漫才の合間に、彼らのトークライブが開かれているし、ラジオでの彼らの会話は漫才に遥に勝る。
彼らの会話は普段からしゃべくりであり、トークライブやラジオでなんと1, 2時間単位の漫才をやっている(かのように聞こえる)。
最近野田クリスタルがテレビ前で喋るようになったので、記者会見やひな壇で村上が沈黙していることが多いが、マヂカルラブリーの会話の面白さはこの村上が握っている。
野田クリスタルの天才的なイメージ先行の発想を、ロジカルシンカーの村上が文脈を補いながら野田に説明させ、笑いに誘導する。
ツッコミは視聴者の代弁者である。村上の正確で鋭く賢いツッコミは一般人を代弁するだけでなく、聴いている者の知的レベルを引き上げ、どうしようもなく気持ちよくさせるのである。
しかも誘導されたかと思えば、なぜか唐突に野田クリスタルに振り回され、ちゃぶ台を返され、最終的には彼らの漫才を見ているように「馬鹿馬鹿しくて最高に面白い」に帰着する。
この人たちはM-1で世間に知られて、もう一度別の形でも売れるのだと思う。
自分は関西人で、中川家のような正統派漫才が好きだし、M-1では芸術作品かと思えるような新しいしゃべくり漫才のテンプレートが生まれることを望むんでいるので、マヂカルラブリーの優勝は予想だにしていなかった。
売れるとすればラジオ芸人や劇場や営業で評価される芸人として売れるのだろう、彼らの会話を体現したこの難しい形の漫才は大衆には理解されないだろう、と思っていた。
事実、漫才ではない面白くないと石を投げられ、まだまだ世間からの怒られが発生している。
まあこれでいいのだと思う。定義とか堅苦しいことをを考える前に、ストレスフルな今は「漫才かどうかはわからんが、死ぬほど笑った」が必要で、彼らはこれに答えた。
朝からこんなポエムを書いて申し訳ない。でも、書かずにいられなかった。
最新アルバムの盗作を200時間聞いて、今まで自分の中でくすぶっていた疑問が全て解けた。
それまでの彼らの音楽はティーンをターゲットに作られていたのだ。
sui-sの七色の歌声がどんな曲でも歌い上げてしまうので、それが彼らの真骨頂だと思い込んでいた。
「ヒッチコック」や「ただ君に晴れ」の、キャッチーでいて急にドキリとさせられるような大人の部分が見え隠れする、そんなアンバランスさがヨルシカの面白さだと思っていた。
その後色々な曲を聴き込むたび、sui-sの新しい一面を発見してはのめり込んでいった。
聞き流しているだけなのに、急に彼女の歌声に心臓を鷲掴みにされるような瞬間が病みつきになっていった。
ところが今回の「盗作」は今までのキラキラ輝いている感じは感じられず、少し落ち着いた、むしろ陰鬱な雰囲気さえ漂っていた。
今までは若さと体力だけで後先を考えないような危うささえ感じられる疾走感だったものが、同じ疾走感でも助走をつけながら徐々に加速して、そのうち自分の限界に挑んでいくような疾走感に変わったような印象だった。
先行シングルの「思想犯」も、はじめは戸惑いつつ、気がつけばヘビロテリストに加わっていたが、それでも少し戸惑いながら、「爆弾魔」の再レコーディングを聞いて、彼らの今回のアルバムで表現したいものを垣間見た気がした。
そしてとうとう「花人局」にたどり着いてしまった。
はじめのたった1フレーズで、いままでのヨルシカのイメージを粉々にされた気分だった。
今までヨルシカにもとめていたもののすべての答えがこの曲に詰まっていた。
そこには今までのヨルシカの魅力の一つであった少年少女のような有り余るエネルギーや熱意のようなものはなく、心の奥底の方からじんわりと染められていくような脆くも危うげな心の変化が歌いこまれていた。
今までもsui-sの歌声は変幻自在でどんな歌でも歌い上げるだろうと思っていたが、どちらかというと子供っぽい表現が多い中で、まさか、ここまで大人びた歌を大人びたままに細かな心情表現を持って歌い上げるとは思ってもいなかった。
もちろん、n-bunaの曲や言葉選びがあってはじめての作品である。
よくもここまでsui-sの歌声を信用して、これだけの複雑な感情表現を必要とする曲を作り上げたものだと。
とにかくこれを読んだ全員にこの曲を聞いてほしい。
でも、この曲だけを聞くのはやめてくれ。
せめて、youtubeで公開されているヨルシカのMVを一通りみて、いままでどんなヨルシカが求められ、受け入れられてきたかを知ってから聞いてほしい。
曲の始まりから終わりまで鳥肌が一度も止まらず、歌声の変化に涙腺が突き上げられ、歌詞の意味に触れたときに顔を覆いたくなるような悲しみに襲われたこの気持ちを少しでも誰かに理解してもらいたくて、でも、そんなものは経験した本人しか経験しようがないこともわかっていながら伝えないと気がすまないという衝動だけで書き上げてしまった。
当然ヨルシカがあなたにとってそういった存在になるとは限らない。
でも、世界にはまだこんなに心揺さぶられる出会いがあるのだということを伝えたかった。
お前日本死ねとか見たかよ、あんなお気持ち長文が国会で読まれるんだからもうそれは増田がそういうサイトの真骨頂ってことよ。
なんだったら増田だけじゃ終わらずに他のサイト使って妙な文章書いてたりもするもんよ
なろうなんてその最前線よ、現実がどうにもならない人が異世界に救いを求めて都合のいいアイテム都合のいいシステムを作者なりに賢い手段を使って異世界の面々になんだとしてもらうのが作者のお気持ち長文よ。
なんだったらもっと訳のわからない文章書いてるなろう作者なんていっぱいいるからね。
だから別に増田が女オタクの私小説なろうになろうとなろうが男オタクの妄想増田になろうとそれが人様のホームページに長文を晒してる行為なら一緒だとしか思えないのよね。
うんざりはするよ?うんざりはするけどたまにそれを見て「ほんとそれな」とか言ってる自分で意見を書くこともできない去勢されたアホの為になるなら良いんだよ。去勢されたアホは感情すら取り上げられかけてるんだから、そこに感情が蘇ってくる文章があるならそれはそれで素晴らしいじゃないか。たとえそれがオタクの気持ち悪いよくわからない作法の話の垂れ流しだとしても、そこに救いがあるじゃあないか。
だからお気持ち長文の作者が実は男でしたでもやっぱ女でした、でもそれがなろうで異世界で奴隷侍らせてチンチンの思うままに進ませる文章でもいいんだよ。
規約に沿っていればね。
だから奴隷の奴は最終なろうじゃなくてノクターンかもしれんな。
とにかくうんざりするのは俺の感想だし、チンチン硬くすんのも俺の感想。そしてそれが規約に沿った表現法で他者を明確に傷付ける意思が無い限りはその文章はどこでも描かれていいんじゃねえのって思うの。