はてなキーワード: ジムノペティとは
夜に駆けるばかりがかかりすぎているけど、YOASOBIの良さが最も詰まっているのはアンコールという曲だ。
ミニマルミュージックの定義自体曖昧な部分もあるが、基本的にはある特定の短いメロディ、リズムを周期的に繰り返し、それが少しずつ変化していく様子を楽しむという音楽のジャンルだ。
さて、ここでミニマルミュージックの代表的な一曲を紹介したい。
となりのトトロ「風の通り道」と言ったほうがぴんと来る人は多いだろう。
久石譲の代表的な曲の一つであり、そして久石譲こそ、ミニマルニュージックの第一人者でもある。
このThe wind forestがミニマルミュージックだと考えている人は実はそれほど多くない。
その理由は単純で、ミニマルミュージックらしからぬドラマティックな展開と、サビのゴージャスさがこの曲にはあるからだ。
しかし、そうした演出面を削ぎ落とすと、この曲自体は実にシンプルなメロディーラインで構成されていることがわかる。
その点だけに焦点を当てればこの曲は間違いなくミニマルミュージックであり、しかし、その定義に縛られないくらいに万人の心に響く曲として完成したのがこのThe wind forestである。
つまりは久石譲がミニマルミュージックを突き詰めた末にたどり着いた一つの最終形がこの曲だと言えるのだ。
人間という生き物は何事に対してもパターンを見出そうとする習性がある。
その習性を逆手に取って、ほんの少し裏切ることで、人はそこに意外性という面白さを見出すようになる。
ミニマルミュージックは、まさにその意外性をひたすらに楽しむ音楽だと言える。
ではなぜYOASOBIの楽曲がミニマルミュージックで、YOASOBIの楽曲がミニマルミュージックとして完成度が高いのかを説明したい。
平たく言うと、昨今の一般的なアーティストは曲の幅をもたせようとしたとき、あれでもなくこれでもなくとにかく詰め込もうとする。
展開を激しくしてその落差が才能であるかのような見せかけをしようとする。
聞いている側の人間は、そんな発想はなかった!と、それを才能だと勘違いする。
当然だ。自分を含め、音楽を聞くことはしても作ることをしない人間が大半だ。
料理と一緒で作る側の想像ができないから、思いもしないものが出てきただけで簡単に優れたものだと勘違いしてしまう。
YOASOBIの楽曲は、まずサビがある。
そしてそのサビがその曲を作り上げる上での最もミニマルな構成要素となっている。
それに対し、いわゆるAメロやBメロは、そのサビを想定より少しずれた方向に展開させ、今度はそのメロディ同士がミニマルを構成している。
つまり、一曲に、サビ、Aメロ、Bメロという3パターンのミニマルミュージックが詰め込まれていて、それらを組み合わせて1つの楽曲として構成されているのだ。(それらをつなぐためのメロディも存在しているが、それらは基本的にどこかのメロディの転調である。)
それらを激しくドラマティックに展開させるわけではなく、ほんの少しずつ、期待通りから少しだけ外れるけどでも決して心地悪くならないように、とても細かく繊細に意外性が散りばめられることで作り上げられている。
そして、そうした楽曲に対して、ボーカルの幾田りらの歌声が絶妙にマッチしている。
歌がうまい=パワフルな歌唱力と考えられがちだが、彼女の凄さはその歌声の安定感にある。
ある意味では機械的と捉えられるかもしれないが、決して単調なわけではない。
安定感の上に少しのゆらぎとうっかり見落としてしまいかねないような表現力が含まれている。
これを表現力に乏しいというには浅はかで、決して押し付けることなく、同じような繰り返しと思わせながらも毎回新しい発見をもたらせてくれるような実に繊細で表現力にあふれる歌声だと言える。
同じような繰り返しに見えて、ちょっとした変化や意外性に富んでいる。
そう。つまり、彼女の歌声そのものがミニマルミュージックそのものでもあるのだ。
「アンコール」を聞き終えた方は、次に「優しい彗星」を聞いてほしい。
夜に駆けるに比べれば展開もつまらない、メジャーでは受けないような曲かもしれないが、この曲をミニマルミュージックとして聞くと評価が変わってくる。
どこぞの評論家がYOASOBIの楽曲を安っぽいと表現していたように記憶しているが、クラッシックのオーケストラが至高だとでも思っているのではないだろうか。
寿司屋に入ってフレンチのフルコースが至高だと言われても、だからどうしたとしか返答のしようがない。
恥ずかしいのはお前だ。
さて、この2曲を聞けば、YOASOBIのサウンドがミニマルミュージックによって構成されているという仮説を理解してもらえるはずだ。
そうしたら最後に聞いてほしいのはこの曲だ。
「ハルカ」
最初からメロディがいきなり転調する様子は、まさにミニマルミュージックのそれだ。
そしてこの曲は、サビに入るときに再び大きく転調し、サビ終わりに再び、しかも幾度なく転調していく。
最近流行りの、ただの意外性を求めるだけのこびた転調ではない。
曲の最初にかかった1フレーズのメロディがすべてのベースになっていて、ミニマルミュージック本来の気づかれないようなそれでいて意外性のある変化をすっとばして、変化し終わった形をいきなり見せてくるような転調なのだ。
曲全体を聞き終わったとき、それが連続性のある転調と気づく。いや、気づかないでも一つの曲として心地悪くなく楽しむことができる。
そしてそれを一つの楽曲として破綻させることなく結びつけているのが幾田りらの絶対的安定感のあるヴォーカルなのだ。
申し訳ないけど、YOASOBIはずっと食べず嫌いだった。
キャッチーなメロディと、悪いけど面白みのない歌声になかなか食指が伸びなかった。
そんな中、夜に駆けるブームが終わった頃、埋もれていた楽曲が耳に届くようになって考えを改めた。
そして聞いているうちに、ミニマルミュージックの新解釈であるという仮説を立ててからは、俄然聞くことが楽しくなった。
誰の邪魔をするでもないようなかかりかたをしているのに、一度意識が向けばその構成の面白さに引き込まれていく。
そんな不思議な魅力に気づいてしまった。今日もヘビロテが止まらない。
残念ながらこの曲調が売れる曲調ではないことだけははっきりとしている。
しかしながら、彼らの才能が詰まったこれらの曲に少しでもスポットが当たることで、彼らの才能がもみ消されてしまわないことを祈るばかりだ。
まずはアンコールを聞いてくれ。
その上でハルカを聞いたら、彼らの才能がどれほどのものかわかってもらえるはずだ。
才能が詰まっているのはアンコールだが、ハルカではその才能が爆発しているのだ。
正直に最初の印象を答えると、これまたキャッチーな今どきツーピースがでてきましたねだった。
その時探していた曲は別のガールズバンドで、どちらかというとロックテイストがつよいグループだった。
そんな検索結果にレコメンドされてでてきたのがヨルシカの「言って。」「ヒッチコック」「ただ君に晴れ」だった。
作業用BGMを探していただけだったので、とりあえず耳障りでなければそれでよいくらいの気持ちでそのままのレコメンドを受け入れてみた。
仕事のことを考えながら、頭の片隅で、あぁ、キャッチーで記憶に残りやすそうだけど、味の素みたいな面白みのない曲だなというのが本当に、本当に正直な感想だった。
その後はとくにヨルシカを聞くこともなく、ただレコメンドに促されるままいろいろな曲を聞く日々を過ごした。
とくに琴線を響かせる音楽に出会うことができず、ただただ新しいっぽい音楽を面白みなく口の中で咀嚼するような毎日を過ごしていた。
流行りものを狙ってくる戦略も嫌いだし、世の中に流行っているというと言われるだけで嫌気が差した。
ワニの寿命が100日なんて言われればその時点でどう頑張っても拒絶反応がでるようなタイプだ。
日常が当たり前に続くことに裏貼りされたくらいでいちいち心がうごかされるようなピュアさはとうの昔に剥ぎ取られてしまった。
ひとまずは自分という人間がどれくらい迎合という概念を忌み嫌っているかを知ってほしかっただけだ。
そんな毎日を過ごしていたのだが、ある日、ふとまたヨルシカを聞きたくなった。
耳の奥の深くに、ヴォーカルの声が消えないでいたのだ。
迎合したくないという意思に阻まれながら、ちゃんと聞いてみないとわからないだろうという自分の説得に負けて、それならアルバム1枚聞いて、面白みがまったく感じられなければそれまでだろうと自分を言い聞かせることにしてみた。
前提を忘れていたが、流行りは嫌いながら、音楽そのものが好きだという理由で、とあるサブスクに登録している。
だからこういうときに、新しい音楽を試すことにコストも抵抗感も低いままチャレンジができる。
ジャケ買いで失敗しても強がって聞いていた時代とはこうまでも変わってしまったのだ。
かくしてヨルシカの「負け犬にアンコールはいらない」を聞くことにしてみた。
ただ君に晴れのメロディと声がずっと引っかかっていたような気がしたので、その曲が収録されているアルバムを聞いてみたのだ。
とにかくよくわからなかったのだ。しょうがない。それ以上の言葉を持ち得なかった。
これまで好きになる音楽にも嫌いになる音楽にも明確な理由があった。
別のアルバムを聞いてみればこの気持が説明できるかもしれない。
そうおもって、彼らのファーストアルバムである「だから僕は音楽を辞めた」を聞いた。
でも、それだけじゃない強がりの裏返しのような言葉に心がざわついた。
これだけでは心が粒立つばかりではないかと、とにかく納得できるまで聞いてみようと思い、サブスクでDLできる曲はすべてプレイリストに突っ込んでヘビロテする日々が始まった。
とにかく掴み所がない、自分の気持ちを確定できない歯がゆさと、それでも聞いていないと落ち着かないような気持ちで、振り返ってみれば結局は400時間近くヨルシカだけを聞き続ける日々を過ごした。
それでわかったことは、ヨルシカの魅力を未だにまったく理解できていないけど、とにかく、とにかく好きだという気持ちだけだった。
ヨルシカの惹かれてやまないところは2つ。
歌詞の言葉選びと、それに対して完璧なまでに順応するヴォーカルsuisの変化に飛んだ歌声だ。
ある意味では文学の教科書的な言葉選びとも言える歌詞だが、その単語ひとつひとつの登場のタイミングは優れた文学に引けを取らないバランス感覚がある。
それに対し、suisの声色のバリエーションがとにかくものすごい。ここにきてボキャブラリーを失うほどにすごい。
流行りのツーピースと決めつけていたのは、キャッチーな部分での声色を聞いただけの判断だった。
しかし、同じ曲でも、たしかに同じ人・同じ声なのに、まったくもってテイストが違う部分だらけであることに、あとになって気がついた。
意識していなければ聞き流してしまうような、ものすごく小さい心の機微をものすごく大胆に表現しているのだ。
その部分に気がついてしまったら最後、ランダムに餌が出てくるボタンを押し続ける鳩のごとく、ヨルシカの曲を聴き漁る日々が始まった。
フラットな気持ちで聞いているつもりなのに、突然の声色の変化に突然心臓を鷲掴みにされるようなスリルを楽しんでいる自分がいることに気がついたのだ。
これまで、実力派と言われる歌い手を国内外問わず聞いてきたつもりの自分だったが、これほどまでに繊細で、かつ意識していなければまったくもって聞き流してしまうような瞬間に大胆な表現をするようなヴォーカルには出会ったことがなかった。
何が不思議なのかといえば、1度目に聞いてそれほど好きではないと思っていた曲だったのに、聞き流しているうちに気がつけばその曲を欲するようにまで変わってしまうくらい聞くたびに曲の印象が変わっていくのだ。
1度聞いたくらいでは拾いきれない言葉選びのセンスと、それに呼応するように変化するsuisのヴォーカルだからこそなせる業なのだと言える。
何度聞いても、この曲の本質を理解することができないような不安と、それでいて、それでも気持ちが良ければいいではないかと疑わずに思えるほど懐の深い世界がそこにあるのだ。
とにかくヨルシカの曲をかたっぱしからプレイリストに突っ込んで聞き続ける日々を送っている。
自分でも不思議で仕方ないのだが、この曲は好きではないかもしれないと飛ばしていた曲を、今日はヘビロテしているのだ。
これからヨルシカを聞いてみたという人に何を勧めていいかが全くわからないが、どの曲でもいいが、1度聞いて好き嫌いを評価した自分をとにかく疑ってみてほしい。
好きだと思っても、本当にそうなのか疑ってほしいし、苦手だと思っても、同じように本当にそうなのかを疑ってみてほしい。
どの曲でスタートしてもヨルシカに対して先入観が作らてしまうことは仕方ないが、その後、どの曲を聞いてもその先入観はいい意味で裏切られ続ける。
そうして気がつけば、その裏切られる瞬間の気持ちよさを求めて、再び同じ曲を聞いてしまうのだ。
もちろんそんな難しいことを考えないでBGMに使ったっていい。
どの曲も一昔前のロックンロールを意識しているかのように見せかけて、まるで3つのジムノペティのように必要以上に意識を刺激されることがないのだ。
聞いていたいと思うのに、気がつくと意識の外にあるようなそんな不思議な魅力にあふれているのがヨルシカという存在なのだ。
とにかくすべてのアルバムを聴き倒して、今、それでもどうしても選ばなきゃいけないと言われるなら、選ぶのはこの3曲だ。
今週は待ちに待った夏休みだった。
普段は土日休みが重なっているため、休みの日は夫婦ふたりで家にいることが多いが、今回は違う。
この夏休みは推しカプの小説執筆にささげようと数か月前から決めていた。
数か月前のあの日、公式が自分の性癖に突き刺さる設定を打ち出し、あまりの衝撃に頭が真っ白になった。
小説なんて書いたことないが、性癖直撃設定を受け、数枚のスチル絵を取りつかれたように隅から隅まで舐めまわすように見るうちに、この世界観で、自らの手で攻めちゃんと受けちゃんを幸せにしてあげないといけないという義務感が生まれた。
通勤時間を割いて念入りにプロットを作り(但しえちえち部分は除く)、
旦那よりも早く帰った日は夕飯づくりの傍ら、他ジャンルのえちえち小説を読み漁り表現の研究・単語の研究をおこない、自作の「えちえち用語/表現辞典」まで作り上げた。
(推しカプの小説を読まないのは、推しジャンル重複するのが嫌だったし、何よりもパクリだと思われたくなかったからだ)
1週間も(正確には火曜から金曜の4日だけだが)ひとりの時間を過ごせるなんて夢のようだ。
なんとかしてこの期間内で小説を完成させて、pixivに公開しよう。
そう意気込んで、火曜日7時30分、旦那を見送った直後からパソコンを起動し、小説を書き始めた。
助詞ってどう使えばいいの?
この表現ってあってる?
いつも読んでる漢字の読み方を間違えて覚えていて、検索してもでてこねえ。
悩みながらも書き進め、やーっと10000字を超えてきた。
あとは挿れて出すだけ。
攻めちゃん早く解放してあげるね、受けちゃんもつらいよね、あとちょっとだよ。
そう思いをはせながら、ただひたすらにキーボードを打ち続けていた。
聞こえるはずのない音に一瞬我を失う。
参考に開いていたフランス書院辞書、PornoHubも閉じる。
作業用BGMとしてYouTubeで流していたジムノペティが悲しく流れ続ける。
帰ってくるな、会社に戻れ、残業しろとは言えず、動揺をひた隠しにして「おかえり」と告げる。
たぶん動揺は隠しきれてない。
確かに今日早く帰ってくるよって聞いてたけど、こんなに早いなんて聞いてないよ。
今、絶望の淵に立っている。
結婚している(同棲している)同人作家様たちはいつ時間を確保しているの。。。
旦那に腐女子であることは隠してないけど、まさか奥さんが書き手側なりかけているとは思いもしていないんだろうな。
ばれたらきっと旦那はショック受けるだろうなあ。。。