はてなキーワード: 読破とは
私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。
そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館で南条さんの本を借りた。当時私はリスカやアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為がきっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。
本には、南条さんという人物について、また彼女がインターネット上に残したものについて書かれていた。
「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」
衝撃だった。
南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。
さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービス名から推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能なブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。
二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志で生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である。
私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身の気持ちが不謹慎でたまらなかった。
インターネットではブログサービスの代りに増田が流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。
このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。
さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。
前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。
私はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィークに旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしまい入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。
ところで北海道の運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任の先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである。
私にとってそんな小学校最後の運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨(北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧な気候の中で、小学校生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。
2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやすく説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生の教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである。
私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロアと中学生のフロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下や教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。
4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度の区切りを迎えてから数日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。
2002年4月8日の月曜日、二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。
2002年の3月末~4月初旬の彼女の日記を確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。
彼女は文学部哲学科を卒業した後、編集者・レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事を日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。
2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。
平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度の決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。
しかしその4月2日水曜日の日記のタイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手な個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事を投稿したのではないかと考える。もしくは、職場のPCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日の日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。
一投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。
しかし彼女の複数回に及ぶブログ投稿を現代の増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田(メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期の中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。
さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本からの引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人からの手紙を引用している投稿も見られる。
ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプの人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるからである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないとき」である。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitterで思考の整理を行う。なぜなら自分自身の脳内の回転及びそれによって生じる思考をインターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。
そしてなぜあえてインターネットに吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会で相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉で相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーションに挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。
彼女の本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手に彼女と自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。
ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分の作品が残るとは、そういうことなのだと思う。
2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病を発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったかと記憶している。休み時間には、情報の担当教諭がヤフージオシティーズのアカウント取得を手伝ってくれた。
やはり、当時はまだブログがそこまで一般的なものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約し個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナー(ハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通の趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。
私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有の地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。
やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitterの複垢(サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。
私は日本におけるインターネット内でポエムが馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章をポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。
このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったかと記憶している。
二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日で更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。
そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである。
人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記をありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンをシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女のことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。
断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。
冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。
もしかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要や編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったからである。
果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。
事実、書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。
文中で軽く触れたが、私にとって増田は思考の整理のためのツールとして役立っている。
私は物心ついた頃より、「この子はぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。
私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲で相談をし、さらに増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ。
私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。
果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。
今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネットで事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかしインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。
私はリアル社会の中で、絶望に絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネットに絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。
インターネットを彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。
二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女の日記のどこかで触れられているのかもしれない。
しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康な人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。
しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
「自分自身とよく似たパーソナリティの人物の言動や思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報を医療機関で提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。
私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法でアドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。
私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的に自分自身の不幸を開示していこうと考えている。
というか完全に理解することと、自分の将来に対する「子供を生むかどうか」の選択をすることになんの関係性があるのか
知的好奇心を満たすことは大いに結構だが、なぜ子供を生む理由に対して完全に理解する必要がある?
別の言い方をしようか。「子供を生むかどうか将来の選択を決めるために、世界中の蔵書をすべて読破しようと思っている」と俺には聞こえる。問題解決のために知識を集めようとする探究心旺盛なようで、単に無意味で無駄で無価値なことをして時間を浪費しているとしか思えない。なぜなら君ののぞみは
それは子供を産む理由に人間の本能だと答えるのと同様にぼやっとしすぎているから、わかりやすい答えを出すと、子供を産むという選択が自分のライフプランに大きく影響すると思っており、その選択によって今しなければいけないことが変わってくるから、他人の意見も参考にしつつ出来るだけ早く自分の答えを見つけたいからだよ
という部分だろ?だったら子供をもつという他人の心情を完全に理解するという探究心を満たすのは後回しだろ。そんなことを理解する前に君は死んでしまう
誰も読んでないみたいだから去年一気に全巻読破した俺が説明してやるか
例えが下手。全く小便器には似ていない。
主人公がゴム人間という時点で格好よさから脱しようというコンセプトであろうことは1話からわかりきっている。
・戦闘に「もしかしたら死ぬかも」というような緊迫感が無い。主人公は何度も敵からノックアウトされて白目を剥くが、敵は主人公の首を切り落とそうとか心臓を刺そうとか本気の攻撃を全然しない。どうせ主人公は殺されないと、分かりきっている。接待バトル。
これもゴム人間の特異性で説明できるが、仲間になったキャラは絶対死なないなど、連載が長期化するにつれ緊張感が失われていったのは確か。
これは好みなのでどうでもいいか
・主人公が海賊王になると言っているが、その海賊王の定義がよく分からない。略奪も誘拐も密輸もしないなら、それは海賊ではないのでは?
・何をすれば海賊王になれるか、何を以て海賊王として認定されるのか、主人公が海賊王になると主人公や世界の何が変わるのか、さっぱり分からない。
ゴールドロジャーが隠した秘宝ワンピースを手に入れたものが海賊王だと1話で説明されている。
ワンピースがなんなのかは物語最大の謎なので終盤に近づくにつれ少しずつ説明されている。
知らんがな
・今、誰が、何のために、何をしているのか、リアルタイム連載ではサッパリ分からない。ジャンプがターゲットに想定している少年層の読者たちは「昔から連載されている漫画だけど、何の物語かよく分からない」と思っている。
今現在は四皇という最強の海賊であるカイドウとビッグマムと戦っている。
その二人を倒すと1話に登場したシャンクスとラスボス感のあるキャラとして登場している黒ひげを残すのみなので、その二人と決着をつけワンピースを見つけたら終わると思われる。
シーモアで無料で読めるBLを物色したのだが、無料作品は最近新刊が出た作品の1巻部分とか以外は、精神力をごっそり削がれるなぁ。ずらりと並ぶ表紙の裸率の高さたるや。無料なんだから仕方ないけれども、頭痛くなってしまい、面白そうなタイトルが探せない。
ともあれ、読んだBLのことを書く。
日雇い労働者のマコトは、ある夜、仕事仲間に連れられて入ったゲイバーでしのぶと出会う。しのぶが元彼が家に置いていった棚を解体する為の工具をマコトから借りたことがきっかけで二人の距離は縮まる。仲のいい友達のはずが、いつの間にかしのぶの部屋に入り浸っていたマコト。ほぼ恋人同士状態にも関わらず、マコトはしのぶの本名さえ教えて貰えないまま日々が過ぎていった。そんなある日、しのぶは職場のゲイバーの夏恒例の日帰り海遊びから帰ったら本名を教えるとマコトに約束する。ところが海遊びの帰りのバスの中、マコトがしのぶの肩に持たれたまま寝入ってしまい、目を覚ますと……。
軽い気持ちで読み始めたら、ヤバい、猛烈どシリアス。わかりやすい超特大不幸急展開に突き落とされてしまったぁ! すごくベタなんだけど前フリほぼ0でこれはかなりきついな。1話目の陽気なゲイバーのイケイケなノリはなんだったのか。ずっと陽気な仲間でキャイキャイしながら支え合っていくのではなかったのか。
時の経過とか時系列がかなり分かりづらくて、何度もページを行ったりきたりしてしまった。そこが分かりづらいからこそ突然のシリアスにまんまと衝撃を受けてしまったのだけれども、しかしそれにしても第一話半ば辺り、解りづらすぎね? という気もする。
期間限定無料の4話のラストがあまりにも引きが強すぎて、思わず1巻を買いたくなってしまったのだが、某BLレビューサイトを確認したところ、最近4巻が出たばかりでしかも未完。3巻から4巻が出るまでに三年以上の空白があったというので、続きを正座待機するのはかなり辛そう。完結するまで買うのは止めとこうかな。恋愛ものというよりも、とあるゲイカップルの人生を描いた超大作なのかな。読むのに覚悟が要りすぎる。あと、読み応えはあるけど萌えはしなかった。
(【追記】おもいっきりタイトルを誤変換していた!「非行少年ズ」ではなく「飛行少年ズ」が正しい)
「野火ノビタ」は榎本ナリコ先生の二次創作でのペンネーム。本作は『幽遊白書』(冨樫義博)の二次創作BL漫画で、カップリングは蔵馬✕飛影。
百年後の未来。飛影が東京タワーの近辺をうろついていたところ、偶然蔵馬と再会する。妖力を喪いただの人間となった蔵馬は、人としての天寿を全うして一度死んだが、自分そっくりのアンドロイドに憑依して復活し、日本に帰ってきたという。ちなみにタイトルはsteel man No.28の意。つまり鉄人28号。
黒龍に心の表層部を喰われてしまい精神が幼児化してしまった飛影が、蔵馬の背中にへばりついて離れなくなってしまった話。タイトルは戸川純の曲から。
大人になった蔵馬が、飛影と自身との関係をピーター・パンとウエンディの関係になぞらえて語る話。
一話目は飛行して、2話目はぶっ飛んでいて、三話目もやっぱり飛行していた。さすが『飛行少年ズ』というタイトルなだけのことはある。久しぶりに読んだが、懐かしき平成同人誌のにおい! 楽曲の引用、枠外で語られるどうでもいい設定、変な模様のスクリーントーン。懐かしい、ああ懐かしい!!
『SM-28』ラスト辺りの飛ぶシーン、鉄人28号というよりはサイボーグ009だった。002と009は飛ぶというよりは墜落したのだけれど。『好き好き大好き』は全力で飛ばしてるギャグから最後ストンと切なさ残すエンドなのがとてもいい。これ、こういうところが、野火ノビタ先生の同人誌の好きなところ。『飛行少年』では、唐突にフック船長役で軀が登場したけれど、そんなことして、剃刀入の殺害予告とかビリビリに破られた本の返送とかに遭わなかったのだろうか。と、昔の過激派やおいちゃん(←腐女子という言葉が当時はなかったのだ)恐すぎ伝説を当時の同人界隈を知る人から聴いたことがあるので思った。ピーター・パンとウエンディ……原作はどうかなと思うが、二次創作での蔵馬と飛影の関係性って概ねそんな感じがする。
榎本ナリコ先生の『センチメントの季節』が読みたくなっちゃったな。BLじゃないけど。
私自身はリアタイ当時はBLをまだ知ったばかりだったという(むしろ幽白で知ったのだが。)のもあり、幽白のBLにそこまで深い思い入れはない。だが、野火ノビタ先生の蔵飛はすごく印象に残ったので、大人になってから再録本を買った。今の私のBL読書傾向からすると、幽助✕蔵馬辺りにハマりそうな気がするが、さてどうかな。といって、幽白全巻読み返すのはちょっと億劫だ。いざ読めば面白くて徹夜で読破しかねないほどだというのは、分かっているけれど。
劇団の手伝いやさとるの脚本を通して、演劇をしてみたいと思ったいつきは、そのまま入団。新米役者として稽古に精を出すことになった。一方、さとるはというと、いつきが入団したことを嬉しく思いながらも、私情を挟んで依怙贔屓をしてしまうのではないかとおそれていた。また、自身のいつきへの感情が性愛含みの恋愛だと気付き、自己嫌悪に陥ってしまう。
んまぁー!? 想像以上にちゃんとBがLしているではありませんこと!?
ていうか、最後まで恋なのか何なのかわからないままもだもだし続けて終わるのかなと思っていたから、ちゃんと告るまで行ったことに驚いてしまった。その前に、いつきの豪快な脱ぎっぷりに動揺したさとるが、「そういう意味」での欲をいつきに対して持っていたことを自覚して悩む……ところまで行くとも思ってなかったし。ほのぼの系かと思ったら、案外シビアに掘り下げたな。1巻の冒頭辺りでまず、いつきのうなじの辺りが綺麗だと独白していた時点で、さとるがそういう欲を持っているのはモロ見えだったから、今更いつきの後頭部の刈り上げ部分を触りたい以上のことを言うとは思わなくて。いいけど……読んでるこっちもかなり動揺する展開w
「同性をそんな目で見るのは失礼では?」
「異性に対しても失礼じゃないの?」
というさとると坂上の会話が印象的。自分の気持ちを打ち消すのに、もはや同性だからは言い訳にはならない。いい時代だけど奥手人見知りには退路がなくて大変かもなあ。
それと、最強に萌えた&笑ったのは、パーカーonパーカーいつきくん。いつきのかわいい挙動の最たるものがこれ。かわいい。
この巻で早くも完結になってしまったけれども、もっとさとるといつきの日常を見てみたいなぁと思う。小池先生もあとがきに描き足りないと書いておられたので、小池先生のツイ垢をフォローしなくては! ちなみに、ずっと自キャラで遊んでいるタイプのBL作家さんが私は好き。
30歳まで童貞だと魔法使いになれる こと「チェリまほ」が好きだ。
もともとTwitterで読んでいた漫画がドラマになり、軽い気持ちで1話を見たら一気にハマってしまった。
人を好きになる過程や恋の進み方がじっくりゆっくり丁寧で、原作もドラマも大好きになった。
ドラマ公式Twitterが動き、明日何かの情報解禁があるようなので
今のうちに吐き出したいことを書いてしまおうと思う。
↓インタビューやドラマ11話・12話は一度しか見ていないのでうろ覚え
【ここが納得できないよ】
安達の性格が原作とドラマで違うのは、飲み会の屋上のシーンで「それどういう意味か分かってる?」の反応で
原作では頷くが、ドラマでは戸惑い「全然分かっていなかった」と吐露していることからも分かる。
しかしエレベーター内でコンペ担当者の心の声を聞いたからとはいえ、『安達』は黒沢と練習していたことがあんなに一気に吹っ飛ぶか?
自分を信じてくれた黒沢と自分の関係を自暴自棄になって蔑ろにしたくなるか?
自己嫌悪からこれからの関係に不安になって、黒沢も安達を泣いている姿を見て別れようってなるか?
事前に柘植から釘を刺されているのが何の役にも立ってなくて謎だらけだった。
そして最終話。
自分で考えて湊に土下座した柘植の方がよっぽど覚悟があって真正面から向き合っているように感じてしまう。
柘植は助言をしてくれるけれど、自ら気付いて行動する力を安達は持っているのではと思っていたぶん拍子抜けした。
安達が今まで少しずつ他人とか関わっていくなかで、表情や行動が自信を持ったものへって表現されていたのにそれは何だったんだろう。
安達という人間像がブレてるというか原作と違いすぎるように感じた。
(もともとドラマは安達の成長物語にしたかったらしいのを原作側がチェリまほはラブコメだから…となった名残もある?)
あとどうしてあんな場所で六角と藤崎さんが花火してるのか。不必要シーンNo.1。
藤崎さんについての考えは後述。
脚本家がインタビューで「BLじゃなくて人間ドラマ」のようなことを言っていたが、安達と黒沢・柘植と湊の関係の進み方が明らかにBL。
付き合った日に肉体関係を持つ柘植と湊、復縁して朝チュンする安達と黒沢。
丁寧に書きたいと話していた関係は精神面だけで肉体面は疎かなのはどうしてだろう。
ちなみにエレベーターキスが物議を醸した(ような気がする)のは「キスをしたところを映していない」からではなくて
「キスまで進んでいない二人」を見てきた視聴者が「ベッドイン・魔法を失った安達・エレベーター内で慣れたキスをする二人」に置いてきぼりになったからではないだろうか。
実際にキスをしているところを見せろと言っているのではなくて、キスさえしていなかった二人がいきなりそうなっている雑さだと私は思う。
分かるけれど、不必要な場所やシーンでの登場回数が多すぎる。最終話でそんなに藤崎さんのシーンいる?いらん。
「恋愛は別にいらないけれど、同僚男性達の恋を見守ってて相談もされちゃう!自己実現のための勉強も頑張ってる私☆」じゃん。
安達と黒沢の関係に気付いているのはまだしも、それ以降の恋愛相談役としては適任ではないし何でそこで花火してんの?????
スピンオフでは何でチョコ配っているシーンが必要なの?しかも恋愛対象いないですよアピール(キャラ付け)しながら。
脚本家がインタビューで「現実だと同僚でBLを考えているのは気持ち悪いと思われるかもしれないので藤崎さんを腐女子ではなくした(うろ覚え)」という話しており、
納得したが同時に「他のドラマで『恋愛がいらない女性』を描きたいと言ったら「その役いる?」と言われて出せなかったから今回出した」と話しており
「いや、あなたが出したい役を出す場じゃないんで」って突っ込みたくなった。
総じて脚本家の自己顕示欲にまみれたキャラ付けにしか思えない。
ちなみに六角がポッキーゲームで「そんな時代錯誤なことやってる~」みたいなことを言ったのも意図的らしく脚本家の思想丸出しだった。
柘植と湊
ドラマで柘植と湊の関係が先に進むのは展開的に仕方がないとは思うけど、スピンオフの差には愕然とした。
つげみなは原作の関係性があまり進んでおらず、(原作要素を取り入れた)ドラマオリジナルなのは分かる。
しかしくろあだは二本立てで、しっかりとしたストーリーではなく短編二本。
六角編は第三者目線で面白かったが、正直バレンタインはがっかりした。がっかりした!!余りのことなので二回言う。
原作の1話以前の内容でそれをスピンオフに持ってくるには内容が薄味すぎる。
これだったら二人ががっつり一緒にいるエピソードが見たかったし、何でチョコを会社で渡そうとするの…?浮かれまくってるの…?
黒沢の「甘いものが苦手」という嘘を原作安達は見抜いてたけど、ドラマは信じてたので性格の違いがよく分かるような気がした。
原作安達が嘘を見抜いていたのはドラマより後出しだったので、あまり関係はないかもしれないけれど。
明日何かしらの情報が解禁されると思い、今のうちに苦い思いを弔おうとしたが思い出してしまっただけだった。
ロゴだけのグッズとか微妙な映像特典とかファンミで一話のオーディオコメンタリー今更いる?とか。
もちろんドラマは大好きである。だからこそという気持ちが多いのかもしれない。
「おすすめの世界史の本教えて」増田だが、思ったより多くの回答をもらえた。ありがとう。
興味ある人が多いのか無言ブクマも多いので、自分のためにも興味のある人のためにも、もらったコメントをまとめてみた。
ノンフィクションを具体的に挙げてる回答のみ。重複するものは載せてない。
フィクションを挙げたり、書名や著者名などの具体名は挙げず、こういう本を読むといいのではという、よいサジェスチョンをくれるトラバやコメントもあった。ありがとう。参考にさせてもらう。だが今回のリストからは省かせてもらった。
●山川出版社『新もういちど読む山川世界史』、世界史Aの教科書
●歴史好きならとりあえず読破しておきたい世界史本100(https://anond.hatelabo.jp/20211101232345)
●山川 詳説世界史図録(山川出版社)、グローバルワイド 最新世界史図表 五訂版(第一学習社)、最新世界史図説タペストリー(帝国書院)
●中世ヨーロッパ: ファクトとフィクション、現代知識チートマニュアル
●「なぜ?」がわかる世界史
●サピエンス全史
●『やんごとなき姫君たちのトイレ』TOTO出版、『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書
●『クロニック世界全史』、角川世界史辞典。『知識ゼロからのローマ帝国入門』、『 図説世界の歴史』、中公新書の物語歴史シリーズ、佐藤賢一のフランス王朝史『論点・西洋史学』。
●『図解 中世の生活』(新紀元社)、『中世ヨーロッパの農村の生活』(講談社学術文庫)
●「世界史講義録」というサイト(http://timeway.vivian.jp/)
●『中世の秋』
●「世界システム論講義」(川北稔 ちくま学芸文庫)、「テクノロジーの世界経済史」(カール・B・フレイ 日経BP)
●ハプスブルク家12の物語。ハプスブルク家の女たち。「ハプスブルクの時代を歌わせてみた」(動画)
●銃・病原菌・鉄
●河出書房のふくろうの本シリーズ、講談社学術文庫の『近代文化史入門 超英文学講義』
●モンタネッリ。通史なら中公の世界の歴史の中世の巻(旧版押し)
●「文明崩壊」
●歴ログ
●<ゲーム>から始まる<読書・映画リスト>(まとめhttps://anond.hatelabo.jp/20160701063637)
●ビジュアル版 世界史物語、イタリアの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)、イタリア (世界の歴史と文化)
●サピエンス全史
現時点では以上まで。
俺は20代後半のアニメゲーム漫画オタク。オタク差別意識、被差別意識の話を言語化したい。友達にこういう話をするのは俺が面白くないからお前らにするね。
地方の郊外に生まれてあんまりオタクとしての差別みたいなのを実感せずに生きてきたので俺の話から地方の農村部に関しては盲点があるよ。
「特定の分野・物事にしか関心がなく、その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人」(広辞苑)と
「ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること。また、そのような人」(デジタル大辞泉)
の二パターンがぱっと出てきた。他にもあったら教えてください。
比較的年齢の高い人は前者の「その事には異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人」を強調して使うし、当時あったコミケに対する偏見のある報道とかを念頭に話をしてる気がする。
また、当時は実際に偏見が社会の大半を覆っていただろうことは想像に難しくなく、いまもその世代における人間関係ではその偏見や差別が保存されていると思う。
だから、差別されていないって話をすると猛烈に反発をする。実際問題、そこに差別があるから。また、当時としてオタクカルチャー(と2021年にくくられる)趣味を楽しむことはすなわち生き方としてオタクであることを強いられてきたと思う。なのでこの定義を強調することは自然だと思う。
それに対して、比較的年齢の低い世代においては後者の「ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること。また、そのような人」の方を強調して使ってる気がする。少なくとも俺はそう。
インターネットの発達で、絶対的に「詳しい知識をもっていること」へのハードルが下がりソーシャルゲームやVOCALOIDの発展によってコミックマーケットに集まるような趣味(どっかの大学のコラムに書いてあった言い回し)が社会通念上好意的に受け入れられるようになった。
漫画の広告が地元の在来線の中吊り広告に乗ってたりするし、ややガラの悪かった同級生と久しぶりにあったときはマンガアプリの名前がいくつか出てきてソシャゲに熱中してる話をきいた。 無料期間で数十巻全巻読破しちまったぜーとガチャに爆死したみたいなやつ。
つまり、それがコミックマーケットに集まるような趣味であったとしても「ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること」に当てはまる人がどの層にも多いように思う。昔であれば数十巻読破してる人はなかなかのもの好きになる情報量じゃない?
それがありふれているからオタクという属性で差別される気がしない。オタクカルチャーを楽しむ人であることとオタクであることはあくまでグラデーションでそこに断絶があるとは思えない。オタクと呼ばれたとき「社会的な常識には欠ける人」の意味を含んでいる気がしない。
「社会的な常識には欠ける人」への差別やその救済の話をオタクカルチャーに対する諸問題への反応に含んでいることが比較的若い世代の困惑の原因かなと思う。
この話に確実にある盲点はwebで参照した辞書の定義の発行年数を確認していないので編纂時期にずれがあるかもしれないこと、上の年代への話があくまで推測であること、社会通念上受け入れられるってなんやねんってこと、そしてn=1をクソでか主語で語ってることなのであくまで俺の意見の言語化にすぎないことだ。ここは何を参照すればいいのかわからんかったから、はてなの長老たちにお任せするよ。
読んでくれてありがとう。俺は満足した。
まじでここ2年ぐらい本を一冊読み通した記憶がない。
やりたいことが多過ぎる。
まず週6出勤なので仕事の占める時間が多過ぎるし、帰ったら料理したいし、リングフィットで運動したいし、フォートナイトで遊びたいし、ツイッターもチェックしたいし、趣味のギターも練習したい。
毎日ではないけど掃除もしたいし洗濯もしたいしゴミだって出さないといけない。
ネットで気になる記事だって無尽蔵にあるし、白饅頭ノートや狂人ノートだって読まないといけないし、komifloとkindleアンリミでエロ漫画も読破しないといけない。
この漫画が3巻まで無料!なんてキャンペーンも毎日のようにあるから読まないといけない。
もちろん増田のホットエントリチェックしたり、日々の愚痴を匿名日記に書いたりしないといけない。
毎日のようにkindleセールしてて、気になる本をちょいちょい買ってるんだけど、全然読み進めることができない。
助けてほしい
読む前はまあ、殺し屋つえー的な良くある漫画だろうと思っていたし、話題になってるからそこそこ面白いんだろうと思っていたが、むちゃくちゃ面白かった。
9歳の頃からジャンプ一筋、30年間少年ジャンプを読んでいたが、ここに来て新たな発見である。
無論、ファブルが日常生活か、というとそれは違う、が、自分と同じ日常世界の知らない部分でああいう世界があるのか、と本当に物語りにのめり込んだ。
ネタバレは避けるが、終盤で、ある人物がアジトに戻るか戻らないか、葛藤する描写がある。戻っちゃダメだ、と心底ドキドキした。
人物描写とか、漫画の間の取り方がうまいのだと思うけど、言語化は出来ないので悲しい。
スケットダンスについても日常の、ともすればそこの高校で繰り広げられている、青春を味わうことができる。
無論、あんなに強すぎる高校生はいないし、多少ファンタジー色はある。ただ、隣に存在している感じはある。
ということで、あまりうまく言語化は出来ないのですが、ファブルとかスケットダンスみたいな、隣に存在している日常、みたいなおすすめの漫画があれば教えて下さい。
うむ、2.1アプデまでに崩壊3rdのメインを読破しておきたい、千人律者の序盤までは行った
あれは考察勢が以前から言っていた、この世界が地殻の裏側に作られた世界であり、地下国家であった例の国や地脈などは混沌(=崩壊?)に汚染された地上の世界であることを後押しする描写であると受け取れる
そう考えるとゲーム内のキーワードである、偽の星空、星と深淵を目指せ、などとも一致する
崩壊の世界観と照らし合わせると、テイワットは崩壊から逃れるためのシェルターであり、同時にシェルター外の崩壊エネルギーを引き出し利用する諸システムが存在しているという、ファンタジーの顔をしたクソ重SFであるという線が濃厚である
もちろんあの禍々しい反転世界が雷電将軍によって作り出された仙境のようなものであり世界との繋がりはないとする見方も自然であるため深読みしすぎだと一笑に付すこともできる
だが仙境とはそもそも何だという疑問が残るし、これを崩壊用語でいう世界の泡だとするのなら、テイワット自体が量子の海に存在している虚数の枝葉の一部ということになるし、なんなら天賦や聖遺物秘境の最後に生えている報酬貰える木(地脈の木?)のデザインももろにそれである
ヒカルの碁をやっと読み終えた
小畑先生の作画が本当に美しくて、一コマ一コマが画集のクオリティだと思う。これが週刊誌で連載されてただなんて信じられない。
でも、だからこそ、最終巻、いやとあるシーンからずっとあれ…?え…?!て感じで、そのまま終わってしまって悶々としているという話をします。
私はヒカルと佐為の関係の物語と思って読み進めてしまった、読む前から私の中で佐為の存在が大きすぎたんだ。
そりゃだって小学生の頃人知れず恋してた人だったんだもの。何故か恥ずかしくて誰にも言えなかったけど佐為に会いたくてこっそりアニメを見てた、途中からだったし囲碁のこと全然分からないからストーリーは知らないままだったけど。
だからこそ自分の中で佐為への期待が大きすぎて、勝手にストーリーを作ってしまってた。
ヒカルはきっとプロになって最終巻で塔矢と対決して、ヒカルの力だけで塔矢に勝ってそれを見届けて成仏していくのだろうなって、それしかないよなって確信を持って読み進めてしまってた。
だから最終巻どころか終盤にも差し掛かってない段階で、割とあっけなく佐為がいなくなってしまってそれからはえ?あれ?もう?いや、さすがにここで終わりはないよね…?なんだかんだまた戻ってくるよね?という考えて頭がいっぱいのまま、結局佐為は最後までヒカルのところに戻ってくることはなかった。
ネットで調べると韓国との戦いで高永夏に敗れたことが納得いかない、最後なら勝って終わって欲しかったと言う意見をたくさん目にしたが、個人的にはあの試合はたしかに負けてしまったけど素晴らしい描写だったし、囲碁というスポーツや戦闘モノと比べると動きの少ない勝負であれだけの躍動感を描き上げた小畑先生の画力は日本の宝だと思う。
でもやっぱりね、やっぱり佐為もういないの…?という気持ちが消えない。どんなに素晴らしいシーンを見ても佐為のことばかり気にかけてしまう。
どうしてこんなにやるせないのだろうと自分で考えてみたんだけど、多分私の感性ではヒカルと佐為の関係性を思ってたよりも深く知ることができなかったんだ。ヒカルにとってはなくてはならない存在だったと言うのは充分にわかったんだけど、佐為にとってのヒカルはどうだったんだろう…?と思ってしまうの。
塔矢を見てあの子に憑きたかったとか、秀策はたくさん打たせてくれたのに…とか佐為の不満が描かれていて、それを見てた頃はそう言いつつも最後はきっとお互いにかけがえのない存在になって私と言う肉はそれを垣間見て美しい友情に涙するんだろうな…とにやにやしていた。
でも結局突然いなくなってしまった。成仏というのは本人の中に後悔や蟠りが無くなって現世に執着する理由がなくなって初めて行われるものと思い込んでた私にはこれはあまりにも衝撃的だった。
真相はわからないから勝手な予想だけどきっとファンなら最初の段階で誰もがそう予想する(塔矢との対決でヒカルの成長を見届けて安心して成仏していく)だろうから、それだとあまりにも予想通りの展開だからってことでこういう展開になったんだろうか。
この終わり方だと結局、佐為は探しているものを見つけられたのだろうか、もしかして別にヒカルじゃなくてもよかったの?不満を抱えたまま消えてしまったの?という思いが拭えない。
多分私はこの二人にあまりにも期待しすぎてしまってたんだと思う。他作品だけどネウロと弥子の関係性が本当に大好きで理想的だったから、勝手にこの二人もきっと最終的にネウロと弥子みたいにお互いにかけがえのない存在に
待ってた!
私はこういう突拍子もない質問が投稿されるのをずっと待っていたんだ!!ええ。知恵袋が創設された頃からね。
実はこれは普通に頭で考えてもなかなか答えは出てこない。だから、一般人にも分かるようなやさしい物理の法則を用いて説明していこうと思う!
まず問題となるのは、いったいどれくらいの威力で両者が衝突するのか?ということだ。
衝突する時の威力をXとおいて計算していくやり方があるんだが、非常に時間がかかるし、計算ミスとかこわいからやめとこう。
それよりも衝突について非常に詳しく卓越した知識を有する知人がいるのでさっき電話して聞いてみたよ。
「なあニュートン小宮山、教え子がベイブレードとミニ四駆の衝突について質問してきたんだが、お前の知恵を貸してくれないか??」とね。
留守電だったよ。。。
仕方ない。初めに言った通り、衝突の威力をXとおいて話を進めるよ。
そうすると、実はここだけの話、X=m+b となるんだよ。
まあ嘘だと思うならアインシュタインとかニュートンとかそこらへんの学者が書いた本を全部読破すれば本当だってことが分かるんだけどね。
んでここからの計算がすっごい難しかったんだよね。簡単にプロセスを言うと、
じゃあm+bって一体なんだよ!!!ってことになるわけ。
↓
いや待てよ、確かm+bってXじゃなかったっけ?
↓
そっかXは衝突の威力を表しているから、答えはXじゃん!簡単♪ひゃっほい~
↓
俺あったまいいなチキショー
となるんだこれが。
最悪の結果になっても、ベイブレードの回転スピードが少し鈍るくらいですむと思うよ。
以上。物理専攻の立場から話させてもらうとこんな感じになるかな。
難しい物理用語とか多用しまくったから理解できなかったかな?ん?
実際に今の時代のおもちゃって昔と比べてかなり丈夫だし、メーカー側もそれなりに質問者さんの提示したケースとか想定して、試作段階で何度も何度も衝突させまくって耐久性とか色々調べているからさ。
言っちゃ悪いけど、愚問だね君の質問。
スパロボとかつまんねーのに新作が出るとつい3週はやってしまうタイプ。30とかマジで買いたくないわ何やねんあの舐め腐った参戦作品。
とりあえずめんどくせえから三連休はクレヨンしんちゃんとヒロアカとキネマの神様観に映画館行ってやった。
クレしんは前作と比べると1枚落ちる。ヒロアカはボチボチ。キネマの神様は志村けん要素がクソ。
個人的に点数つけるならクレしん>キネマ>ヒロアカって感じだった。どうでもいいけど。
見た事なかったから。まあまあ良かったな。アニメのテンポが飽きないようにしてあるし。最後の方のシナリオはゴミだったけど。映画観たら評価変わるんかね~。
あとマガジンで売れてるらしいシャングリラフロンティアの原作をなろうで読んだ。8割くらい読破。
文章力低いな。ラノベなんて10割文章力カスだからしゃーないけど。
4大少年誌とヤングがつく漫画雑誌はほぼ全部発売日に読んでるけど面白い漫画なんてカイジくらいだわ。
ちったあ期待してたBLEACHの読み切りも相変わらずつまんねーしよ。
腐女子向けに吉良活躍させてて草なんだ。奴隷根性染みついちゃってんね。
そんな感じの30代なんだけどオタク趣味が辞めらんね~んだよな。もっと有意義なことに金使いたいわホンマ。
娯楽の質をもっと高めてくれよ。
どういうわけか夜中に目が覚めてしまったので、
兎に角人に会いたくなかったが、長年の習慣であった朝型生活は変えられなかったので、今でも6時に起き9時に寝ている。こんな生活だが、多少運動不足なことを除けばいまのところ体に問題はない。
現在の大体の1日はこうだ。
7時〜8時。部屋に戻り換気と筋トレ。
8時〜13時。勉強。
13時〜14時。母親がパートに出かける時間を見計らってご飯。(親が用意してくれる。)
14時〜15時。換気と部屋でできる運動。
15時〜18時。勉強。
21時 就寝
激務でできなかったが、やってみたい問題集を買い漁っていたので、ひまになってからは金もないのでひたすらそれらを消化した。
TOEICは800点くらい取れるようになった。
簿記のテキストを3級から2級まで読破し、問題集を3冊解いた。世の中の仕組みが少し見えた気がした。
私は文系だったので数学がやってみたくなり、改めて理数関係の教科書を教科書を片っぱしから解いたりもした。数2Bと化学は純粋に面白かった。
母親が持っていた色彩なんちゃらやカラーなんちゃらのテキストも読み漁った。理数よりつまらなかった。
最近は兄弟がいらなくなった公務員試験関連のテキストを片っぱしから読み漁った。
読書はミステリー小説が好きだ。亡くなった父の集めていた本を我を忘れて没頭した。
勉強と読書はいくらでも暇を潰せてしまうので気がついたら一年たっていた。
最期に検定試験など受けてみたい気もしたが、外にでたら過呼吸になってしまうので叶わない。
気が済んだら自殺しようとはじめた引きこもり生活だが、最後に知識欲が満たせてよかった。
そろそろ家にある本やテキストが尽きる。
生きていても仕方ないので、そろそろ死のうと思う。