はてなキーワード: 薄氷とは
己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象が12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン、性犯罪者予備軍である。
二次元のショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元の児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。
薄氷のように脆い倫理観だけが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性の自分が健全な少年の性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。
そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。
選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長で学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務を果たしているはずだ。
しかし交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。
デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技のプロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。
加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオンに甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。
もう一つの問題として、シンプルにショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である。不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ。
ショタとポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。
流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長が性的なものとして意味付けされている。
もちろんショタと低身長は似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性のポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。
何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題は解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間の需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。
そう思いながら男探しを始めると、男性の高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性は身長をいくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。まあお前の巨乳もお前の努力じゃないだろと言われてしまえばそこまでなのだが。
話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場にそもそもあまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打でアプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。
低身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。
今は縁があるのを仄かに期待して、身長にコンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。
己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象が12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン、性犯罪者予備軍である。
二次元のショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元の児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。
薄氷のように脆い倫理観だけが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性の自分が健全な少年の性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。
そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。
選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長で学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務を果たしているはずだ。
しかし交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。
デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技のプロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。
加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオンに甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。
もう一つの問題として、シンプルにショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である。不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ。
ショタとポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。
流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長が性的なものとして意味付けされている。
もちろんショタと低身長は似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性のポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。
何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題は解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間の需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。
そう思いながら男探しを始めると、男性の高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性は身長をいくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。
話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場にそもそもあまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打でアプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。
低身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。
今は縁があるのを仄かに期待して、身長にコンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。
分かるわ〜おれも毎日似たような感じ。
常にうっすら気持ち悪くて、だるすぎて体が動かないから週のうち4日は寝て過ごしている。残りの日は通院やらコンビニやらで外出。
コンビニ飯は、なんか気持ち悪い味がするやつがあるから、探り探り。コンビニ飯で使われている油脂の何かと、アミノ酸の何かが無理なんだというところまでは絞り込めたが、分かっててもそれらは避けられない。これまでは、10年以上毎日コンビニ飯だったのに、おかしいよね。
外食も同じく、なんらかの成分で気持ち悪くなっちゃうから、薄氷を踏む思いで飯を食うくらいなら…と足が遠のく。
自炊すれば材料はコントロールできるんだけど、そんな気力は全く沸かない。
仕事はどうしよう、このままだと失職するし、そうなればなまぽ…なのかな。生きてても意味ないし楽しくないし辛いだけだし、なまぽなら死んだ方がましだよね。
毎日ほぼ何もしてないのに、光の速さで時間が経つ。1時間が60分間くらいの感覚だわ。これ鉄板ジョーク。
まず、文章全体が一方的でバランスに欠けている。夫婦関係について議論する際には、公正であり、両方の視点を理解することが賢明だ。増田はここで女性に対する一方的な見解を述べており、その考えに固執している。
次に、増田が示す具体的な例は偏見に満ちている。たとえば、「女性だけに負担がかかると言われるセックス・出産のカードは60歳を超えてもいつでも切れる万能カードで、男は一生影におびえなければならない」と述べているが、これは過度に一般化している。現代の夫婦はコミュニケーションを重視し、共働きなどバランスを取る方法を見つけ出している。
さらに、「妻の恨みはいつでも後だし可能で...」とあるが、これは偏見と誤解に基づいた主張だ。夫婦関係においては信頼と理解が重要であり、こんなネガティブな考え方では健全な関係を築けない。
また、「俺はこんな薄氷踏みはやりたくないから独身でいいけど...」と述べている部分では、増田が自己中心的であり、感情的に対処されていないことが伺える。結婚やパートナーシップは自己犠牲や共感を伴うもので、そこに恐れや不信感だけで挑むのは無理がある。
・セックスした、産んだ
後からセックスしたくなかった、産みたくなかったといわれる可能性は一生残る。男がセックスしたくなかったとは言いにくいし、産むのは生物的に女性に主権があるので産ませたくなかったとは産んだあとにとても言えない
女性だけに負担がかかると言われるセックス・出産のカードは60歳を超えてもいつでも切れる万能カードで、男は一生影におびえなければならない。
・産後に手伝ってくれなかった
出産によって主に経済的主体の夫は職を失わない・昇給ルートから外れないプレッシャーが生まれるのだが、そこで妻をないがしろにすると一生恨まれる。
では経済を担う夫側が産後の妻を一生恨めるなにかがあるかと考えると、特に無い。
・結婚式が満足できなかった
現代で結婚式をするとなるともはや大金を払い妻を輝かせるイベントと言ってもいい。表向きは招待客の接待という形になるものの、妻の晴れ舞台に瑕疵があると、代替・やり直しできない、大金がかかる、世間体の問題があるなど表面上は笑顔で終えても、一生の恨みかつ表に出しづらいもので潜在化した恨みをひそかに抱いている可能性がある。夫が企画から最大限譲歩しても一発勝負や他人の行動などイレギュラーが多く対応は困難。
・働かせてもらえなかった
扶養されるなら働く量をセーブすることが合理的・省力的であることが覆いが、それが働くことを奪うと言われると扶養してる側にはなにも言えない。社会システムや夫婦の同意の問題なのに、「キャリアを奪った」という武器は何歳でも一生恨める凶器。
・なぜ産んだ
これは産んだ子供からの一生の恨みで、夫婦両方に降りかかる。反出生主義に明確な反論はできず、子供の恨みを溶解させることは非常に難しい。ただしここで妻側からの「産みたくなかった」コンボを喰らうと矛の数は二倍に、矛先は一人にできる。すごい。
・姑に重きを置いた
長年世話になってきた母親をついうっかり優遇すると一生恨まれることになる。夫は常に妻側を慮らなければならず、つりあった天秤など存在しない。
うっかりしてしまったときの優れた対応は実家と疎遠になることだが、これはダメージコントロールなだけで妻をないがしろにしたことはずっと根に持たれるだろう。母親の死により許される場合があり、一生の恨みにならない可能性がわずかにあるだけ温情。
子供や妻の病気により緊急対応が必要なとき、夫側の行動がマズければ一生の恨みになる。イレギュラーがイレギュラーになるのは普段の夫婦両方の準備や話し合いの結果なのだが、夫の不備だけが露になるとされている。
問題点は自分や大切な子供が不調のときは減点に多大なボーナスが課される点。不慣れな現場に厳しい監査付きで投げ込まれる夫は入試以上の難問に挑んでいると自覚したほうがいい。
これも生死まで行かなくとも苦しいときの恨みは一生ものになりえて、弱者の立場が加わり反論の余地はないとされる。
妻の恨みはいつでも後だし可能で、表面上仲良く出来ていると思っていてもいつ不意打ちされるかわからない。正否が不明な、いつ結果発表されるか分からないテストを生涯続けることになり、安寧はない。安寧はできる。今が幸せなら「今更言われても」とちゃんと言える強い精神性を持てばいいのだ。辛い。
一生恨むか、その場の恨みでぶつけて解決できるかの主体は妻側にあり、一生の恨みが出来たとしたら、妻側が「一生」にしたのだろう。
書いてみたけれど、俺が男のせいなのか、そもそも共に生きる人を一生恨むことが難しいと思った。ひどい恨みも漸減することのほうが多いと思う。男だって一生恨む個々にひどいイベントはあるものの、女のように普遍的ななにかがあるか?と言われると難しい。それが家庭に参画してないせいだと言われると苦しいが…。あるいは男は耐え許すものだという刷り込みのせいだろうか?
俺はこんな薄氷踏みはやりたくないから独身でいいけど、世の夫はよくこんな地雷原で生きていけるなと思う。老後や子供の独立後に出してくる恨みとか本当に怖い。
日本の囲碁は江戸時代以来、囲碁の家元四家が俸禄をもらう立場となり、切磋琢磨をしてきて長らく囲碁の本場となっていた。
しかし1980年代に韓国に追いつかれると、1990年代では抜き去られ、以後差が縮めることをできずここ30年ほど後塵を排してきた
その差は依然として大きく、世界戦が開催されては日本の棋士は大体二回戦までに全滅する、ということが続いてきていた
井山が爛柯杯にてベスト4まで進出すると、なんと応氏杯という4年に1度開催される囲碁のオリンピックで一力遼が元世界1位棋士、現在でもトップクラスの棋士・柯潔を三番勝負で破り決勝へ進出したのだ!
せっかく日本の棋士が頑張っているのだからぜひこの快挙をもっと多くの人にしってほしいし、注目してもらいたい!
決勝は五番勝負で8月12、14日 / 10月24、26、28日に行われる
ぜひ、この決勝だけでもいいので注目してみてほしい
https://www.youtube.com/watch?v=_SBgCCOr1nQ
日本人が国際棋戦の決勝に行くなんて次いつあるかわからないよ!(ちなみに今回6年ぶり)
【追記】
◯8月12日 一力遼(25位 10.081)vs 謝科(16位 10.261)中国 終始優勢を崩さず進めるも相手の猛追を受け薄氷の勝利!
◯8月14日 一力遼(25位 10.081)vs 謝科(16位 10.261)中国 絶望の局面から大逆転勝利を収め、日本人28年ぶりの優勝へ王手!
9月8日※ 一力遼(25位 10.081)vs 謝科(16位 10.261)中国
9月10日※ 一力遼(25位 10.081)vs 謝科(16位 10.261)中国
9月12日※ 一力遼(25位 10.081)vs 謝科(16位 10.261)中国
(※日程変更反映)
日本チーム最後の優勝→2005年 農心杯(各国5人勝ち抜き団体戦)
日本勢19年ぶり、日本人として実に27年ぶりの優勝を懸けた戦いなのだ
4年に一度開催される囲碁のオリンピック・ワールドカップのような大会
賞金は40万ドル(約6000万)
持ち時間が切れたら秒読みではなく、2目(ポイント)相手にあげて代わりに時間をもらうという独自ルールあり(回数上限あり)
第2回 1993年 徐奉洙(韓国) 3-2 大竹英雄(日本)
第3回 1996年 劉昌赫(韓国) 3-1 依田紀基(日本)←この時以来の決勝進出
一力遼(25位 10.081)河北新報御曹司で取締役。記者と棋士の二刀流。日本1位。現在、棋聖・天元・本因坊の三冠
VS
2020-04-27 黒番 敗北
2021-01-10 黒番 敗北
2021-01-12 白番 敗北
2024-06-19 白番 敗北
通算 0勝4敗
勝率 0.000
レート差 .346
◯一力遼(33位 9.882)vs 王元均(139位 8.759)台湾
◯一力遼(33位 9.882)vs 屠暁宇八段(26位 10.023)中国
◯一力遼(33位 9.882)vs 劉宇航(29位 9.986)中国
◯一力遼(33位 9.882)vs 許嘉陽(10位 10.389)中国 二大会連続の準決勝進出
●一力遼(33位 9.882)vs 柯潔(3位 10.611)中国 準決勝三番勝負#1
◯一力遼(33位 9.882)vs 柯潔(3位 10.611)中国 準決勝三番勝負#2
◯一力遼(33位 9.882)vs 柯潔(3位 10.611)中国 準決勝三番勝負#3 ←28年ぶり決勝進出
遅まきながらフワちゃんの件を知ってみているのだけれど、非常に混乱している。
フワちゃんのあれはイジりだいや裏アカ誤爆だと両者が両者それなりの規模居るみたい。やすこが悪い説までいくととても謎だ。
自分の主観ではあれをイジり芸とは受け取れず、(本人も言うように)裏でもリアル周囲にでもこっそりやろうとしたやつの誤爆だと思っている。
もう最近はテレビで芸人バラエティをガッツリ見ることは久しくなくて、フワちゃんすらGoogleのCMでしか存在を知らない程度の人間だけど、自分が子供のときと比べてすごくクリーンになっているのは感じる。
ダウンタウンの二人が古くてあたりがキツいなぁと感じるぐらいには感性が変わった。BPOのお叱りでいろんなことが自粛され、漫才で頭を叩くことすらもう消えそうだったと思う。
そんななか、最近?新たらしい新星のフワちゃんはクリーンな今の新時代の、さらに一歩先の変革を体現する存在、だと自分は認識している。実際に動いてるところを見たことが無いので風評になるが、そういうキャラだと思っている。失礼キャラ?に似せた新しいなにかだと。
そういう新世代のキャラがいまどきのテレビに出て、芸人として過ごす中で、「死んで」というワードを『芸人として』チョイスするかはとてもとてもとても疑問だ。
もちろん、やすこさんの「生きてるだけ」という言葉にかけて、という文脈を理解しておかなければならないが、それでもテレビ業界でのし上がってきた芸人のとっさでもない文章入力でこの辺の『危険な匂い』をいじり芸する前に気付けなかったのは不自然だ。
自分はフワちゃんを知らないが、今回の件で炎上するということは日常的に「死んで」というワードをフワちゃんがいじり芸の武器として使ってこなかったことの証左であると考える。イメージでも、今のテレビ番組で「いや死ねよ」なんてドギツイ突っ込みをしているのは、ダウンタウンなど古い世代を除いてイメージにない。
自分が学生のころは「いや死ねよ」と突っ込みする雰囲気はあった。多分してた。今の学生でもリアルではあるんだろう。でもテレビで「いや死ねよ」のイメージは、ない。「死んでください」だってフワちゃんの失礼キャラのイメージでも、ない。
テレビでしない・できない発言をラジオやネットやyoutubeでする、というのは確かにあるものの、フワちゃんがそういう発言をするキャラじゃないことはフワちゃんが一番分かっていると思う。見られ方・受け取られ方に鈍感なタレントは少ないだろうし、フワちゃんはさらに薄氷を踏むような道を駆け抜けるバランス感覚が武器な芸人だったはずだ(見てないので憶測100%)。
超高難易度の綱渡りをしている雑技団の人が、突然バランスをとるために使っていた棒をバランス無視してこちらに突き刺してきたら、「すごい!綱渡りの芸だ!」と思う人はまずいないだろう。
素人でも一目で分かる使っちゃいけないワードを使った時点で一発レッドと容易に断じられるのだが。これが同じくテレビでいじりに使わないだろうワード、「障がい者になってパラリンピックでも優勝してくださーい」でもいじり芸として認識されたのだろうか?
個人的な感想だが、主人公が強いのに共感できるってのが一周回って新鮮だからなんだよね
ジャンプ作品の多くがこういった主人公を取り上げると、まず間違いなく吸血鬼としての矜持とか定命との軋轢とかをあげたり、吸血鬼らしい能力や葛藤を描いちゃうんだ
そして大抵は主人公は容姿や強さだけが取り柄で、それ以外に引き立てるものがなくなる
どっちかというとそういう場合は周囲の人が面白くなっていくんだよね
そんな中でばんおうの月山って、凄く応援したくなる逸材なんだよ
奴自身がとてつもなく強いのはわかりきっているけど、その強さへの見方も変わってくる
序盤は「長く生きてきたから強くなった」
終盤は「ただただ強い…」
と余計な情報がそぎ落とされてきて、時間という資産を食ってきた道楽者から純粋な強者へと勝ち上がってしまった
それでいて終始将棋への熱とプロへの羨望が尽きないという異常事態
けれど他のプロや将棋指しと比べて、たった一度しか舞台に上がれないという絶対的な制限が、月山の無双が薄氷の上にあることを忘れさせない
月山は主人公だし竜王戦という舞台なんだから最後まで勝ち上がるのは当然の結末なわけだ
けど、ぶっちゃけ俺はここまで強いとは思っていなかった
勝つなんて当たり前なのに、なんで勝ってるんだろうと終始思わせる
そして「こいつは竜王並の本物の強者なんだ」って誰の目にも可視化されてる
ド素人がチャンピオンと対峙するという誰にでも描ける筋書きだし最初から強いことなんてわかりきっているのに、シリーズをとおして成長と挫折を繰り返して強者として認知されていくのが、なんかすごい構成力だなって感心した
これがなろう系で同じ設定でやったとしたら、間違いなく月山の性格はねじ曲がっていて無自覚系強者だったよね
プロを次々と蹴散らしながら「人間なんてこんなものか」や「まあ100年後にまた自分を忘れたころに遊んでやるか」みたいなセリフが飛んでいるのが目に見える
派遣でつとめているゴミなのですが、30超えて初めてやる仕事で
さあ就業ってなったら、その仕事を請け負っている、先輩どころか同僚すらも一切合切辞めていて
毎日とにかく困っている。
ちょっとしたことを一応指導する人に聞きにいっても「担当じゃないからわからない」「引き継いでないです…」「社内資料を探してくれ」とか言われ
そんなんなので、俺も経験者じゃないし、毎日ストレスと不安でやばいし、職場でも対して役にも立ってない自覚があるので、
次の契約更新はないかなーと思ったら、派遣会社の担当者から契約更新を打診されていると聞き耳を疑った。
なんか「期待はしてないけど、徐々に仕事を覚えて行ってくれたら」とか言われているとかなんとか。
あのさ、仕事を覚えるも何も、その仕事をロールモデルとなる人が居ないわけだし、なにせ何もわかんねえなかやってんのよ。
これ以上は無理よ。もう辞めてくれ。辞めさせてくれ……
小さい頃から自分の二面性というか、「どうしようもなくキレやすく、暴力を振るう時期」と「人生に対して完全に悲観的になってしまう時期」があることを自覚していた。
感情コントロールで非常に苦しんだ。安直に「どうにかしてこいつを殴りたい」と思ったことは数え切れない。もちろん行動には移さない。それくらいの社会性はある。
母親も祖母も「躁」のときはキレまくっていたし、散財しては父親に怒られていた。とにかく元気でハキハキと仕事をこなすのだが、一旦怒らせると自室のものを全て壊された。
「鬱」のときはまた別の地獄が家庭に漂った。料理も育児も全部放棄。家にいると陰鬱が移るから、友達のいるところへ逃げ込んだ。
自分は二人の様子を見て「こうはなるまい」と中学生時に決意した。以降、明確な人間関係のトラブルや、差し迫る危機などには縁がない。
が、薄氷を渡り続けている。イライラしたらオンラインショッピングで数十万円分の買い物をする。それがパートナーにキレる前のストッパーとして機能している。どうしようもなく鬱な場合、隙があればすぐに死んでしまうような気がして、救急外来のグロテスクな密着番組を見る。死は常に自分の隣に存在する。躁フェーズでは死は丁寧にマスキングされる。
ジェットコースターという例えは言い得て妙だ。「人生ってこんなに素晴らしい」と涙を流した数ヶ月後には「死にたい」という気持ちにどっぷりと浸かっている。自分の人生は忙しい。躁であれば数日徹夜で記事を書けるし、執筆後のフルタイム労働だって楽勝だ。鬱になると全然ダメだ。仕事が終わったらベッドに直行、そうしなければ死んでしまう。双極症の自殺リスクはうつ病のひとより結構高いらしい。それはそうだと思う。どちらに感情が揺れ動いていたとしても、自分にとって「死」は階段を一歩駆け上がるよりフランクな行為だ。ただ痛いのだけが嫌だから後回しにしている。
鬱から躁へ動く瞬間は天国にのぼるくらい気持ちいい。シャブをやったことはないが、それに似たような気持ちだと思う。躁から鬱は地獄だ。文字通り立ち上がれなくなる。まともに職業をやれているのは逆説的に「このレールを外れたら死ぬ」と思い込んでいるからだ。
先ほどちょうど躁転の瞬間があった。今日という今日まで人生というものに飽き飽きしており、いつどのように死ぬかを考え、遺書を3通したためていたが、今は何と、将来の輝かしい未来ばかりが脳内を駆け巡っている。だから慰みにこんな文章を書いている。
自分はおそらく長くは生きていられないだろう。一ヶ月前は全てが灰色がかって見えた。大切にしてくれる友人やパートナーや家族といった有機体を凌駕する「脳内物質に振り回される自分の滑稽さ」と「永遠に続く単振動の苦しみ」がそこにはあって、逃れる方法はただひとつだ。自分はきっと(多分ひとより短い)一生の大部分をこの病気に振り回されて終わるのだろう。ラピッドサイクラー型に有効な治療法は少ない。
だが、少しは粘ってみるのだ。
双極性障害は「双極症」に名前が変わった。だからどうということでもないが、毎日這いつくばって、延々と続く日常にしがみついて、双極症の世界を生きている自分にとって、少しだけありがたく思う。
9月9日の開幕戦から、20チームの激闘を見守り続けてきたウェブ・エリスカップ。
50日間の戦いの末に、今日、その所有者が決まる。
4年に1度のラグビーの祭典ワールドカップ、2023年フランス大会も、ついに決勝を迎えた。
47試合の末、ファイナルに駒を進めたのは、南半球、いや世界のラグビーの象徴・ニュージーランドと、ディフェンディングチャンピオン・南アフリカ。
開催国フランスの好調や、ランキング1位で乗り込んだアイルランド、フィジー・サモアなどのアイランダーチームやアルゼンチンの成長などで、勢力図の変化が噂される中で開幕した今大会だが、蓋を開けてみると、決勝はおなじみの最強同士の対戦となった。
ニュージーランドは開幕戦でフランス相手に1試合を落として以降は、圧倒的な得点力で対戦相手を沈黙させてプールステージを突破した上、準々決勝ではアイルランド相手に守備の硬さも見せつけて準決勝に進出。チーム初の優勝を狙うアルゼンチンに完勝して決勝まで勝ち上がってきた。
大会前までは仕上がりを不安視されていた黒衣の軍団だが、オールブラックスに関しては「史上最強」「完全な優勝候補」とみなされていたような大会の方が勝てないことが多く、今回のように「ぱっとしない」と言われる時の方が優勝を攫ったりする。
チームをみると、LOサム・ホワイトロックやSHアーロン・スミスなど、レジェンダリーなベテラン選手が活躍する一方、PRイーサン・デクラーク、ティレル・ロマックス、CTBリーコ・イオアネ、WTBマーク・テレア、ウィル・ジョーダンなど20代のプレーヤーも多く、ベテラン、中堅の経験値と、若手のエネルギーがバランス良くミックスされたチームになっている。
前大会で最強と呼ばれた世代の多くが引退した後、世代交代の最中で完成形が見えづらいままW杯に臨んだが、まさにこのW杯で成長したのかもしれない。
7週間にも及ぶ戦いの中で調子を上げ、持ち前の得点力だけではない守備の硬さ、意外とも言えるスクラムの強さも見せつけてきた。
HCのイアン・フォスターは大会後の勇退が決定しており、スーパーラグビーの常勝軍団クルセイダーズHCのスコット・ロバートソンにその場を引き継ぐことが決定している。
つなぎの世代と言わせず、このチームこそが最強のオールブラックスであることを証明できるだろうか。
対する南アフリカはというと、フィジカルバトルを得意とするチームが集まったプールBをアイルランド戦の1敗以外に圧倒的な強さを見せつけて決勝トーナメントに進出。
フランス戦、イングランド戦の2試合を連続の1点差で制して決勝に進出した。
優勝した前大会の時点で主力メンバーが若かったため、本大会でも優勝メンバーが残り、FWの安定感がチームを支えてきた南ア代表だが、なぜかこのチームに起こりがちな「完全な1本目のSOがいない」という問題に今回も悩まされ、重要な得点源のキックの精度などはイマイチとみなされていた。
そこに、負傷で代表メンバーから外れていたハンドレ・ポラードが、大会中に負傷したメンバーと交代して第4戦目から復帰。
ポラードはあまり華麗なパスを見せる司令塔ではなく、南アらしいキックとFW戦のタクトを振るのを得意としているが、この試合に望むリザーブのメンバーを見ても、南アがどういう試合にしたいのかが垣間見える。というかクッキリ見える。
SOはおろか、SHの替えすらなく、デクラークが負傷した際にはWTBチェスリン・コルビが務めるとアナウンスされるほど。
80分間、FWを惜しみなく使って身体を当て、キックで得点する気満々で、スプリングボクスらしい戦いでオールブラックスを迎え撃つ構えだ。
オールブラックスとスプリングボクスが戦えば、激しいフィジカルバトルに耐えてちょっとの差を掴み取るゲームになるしかない。
決勝のスタット・ド・フランスは雨。
身体をぶつけあうには絶好のコンディションだ。
どちらが「ちょっと」をモノにしてウェブエリスカップを掲げることができるのだろうか。
両国の国歌斉唱につづいて、オールブラックスが今大会最後のハカ、カパ・オ・パンゴを披露し、オールブラックス、ボーデン・バレットのキックオフで試合が始まった。
開始早々、大会を通して南アのスクラムを引っ張ってきたンボナンビが脚を痛めてグラウンドに倒れて負傷後退。
その直後の交錯でオールブラックスのシャノン・フリゼルがイエローカード。
自ボールをキープしてパスとランからゲインをねらうオールブラックスに対して、ディフェンスからキックを蹴らせ、受けたボールを蹴り上げて、キックで前進する南ア。
もとからお互いやりたいことをするとこうなるわけだが、南アがジリジリ前進できている。
フリゼルの反則で獲得したものにつづいて、オールブラックスを押し込んで序盤に2つ連続でペナルティを獲得した南ア。
ロースコアゲームで蹴り勝ちたい南アにしたら上首尾なゲームの入りだ。
オールブラックスがボールを回しながら前進してPGを返すが、南アはFW戦で圧力をかけてペナルティを狙い、PGを重ねて差を詰めさせない。
スコアで突き放されながらも、ゲームが進行するにつれボールをまわす攻撃で徐々に先進し始めたオールブラックスだが、雨の影響でボールが手元で滑り、掴みかけた攻撃のチャンスでボールを失っている。
そしてゲームの流れを大きく変える瞬間が訪れた。
28分にFLサム・ケインがハイ・タックルでレッドカードの退場。
前評判の低かったチームを獅子奮迅の活躍で牽引してきたキャプテンがまさかの決勝の舞台で一足先に試合を去ることになった。
荒れ模様前半はその後、双方がPGを重ね、南ア 12 - 6 NZ でゲームを折り返した。
試合としては前半の25分過ぎからオールブラックスがボールを保持した攻めで南アディフェンスを切り裂き始めており、圧倒されているわけではない。
しかし、ラインアウトの不首尾や、滑る手元、高く入ってしまうタックルなどで得点のチャンスを失うオールブラックスに対して、南アが手に入った機会に過大な結果を狙わず即座のPGで得点を重ねて6点差。
攻めがつながっているので、後半での逆転もあり得る点差だが、相手がそもそもロースコアを狙ってきている南アだなると話が違う。
それに、フィジカルバトルを狙ったオーダーを組んできた南ア相手に人数の不利を被ったのは大打撃だ。
南アにしてみれば、相手のミスに救われているところもあるが、それは要所でうまくプレッシャーをかけて、危機を切り抜け続けているという事になる。
この決勝でも当然のように発揮される南アの勝負強さは驚くべきものだ。
オールブラックスは不利を跳ね返して逆転のトライを決められるのか、それとも南アが得点以外でも前半につけた差を活かして突き放すのか。
得点の匂いがする猛攻だったが、この攻撃のなかで、今度はシア・コリシの頭が当たってイエローカードで退出し、人数のアドバンテージを失う。
後半頭で試合を決めるチャンスを逃した南アに対して、オールブラックスは人数の不利がないうちに攻め込んでいく。
ボール展開すればゴールライン間際まで迫ることができるが、オールブラックスとしては歯がゆいことにスコアまでに至らず、トライラインまで到達したプレーも、ノックオンでチャンスを失ってしまう。
全てがうまくハマる日もあれば、そのピースをはめる時に手がパズルの傍にあるグラスに当たったり、膝がテーブルの下を叩いたりする日もある。
それが起きているのが、4年間の努力の末のW杯の決勝の場で、相手が最後まで勝負を投げない南アだというのが最悪だ。
ズルズルと時間と勝機を失ういかけていたオールブラックスだが、58分、ついにゴールラインを破るトライを獲得。
ここで7点を取れば、ロースコアの試合で果てしなく大きい1点のアドバンテージを得ることができたところだが、決定力の高いモウンガのCVは外れて、リードを奪うまでに至らない。
W杯も残りは20分となり、ゲームの内容としてはボールを敵陣に運べているオールブラックスに傾きかけているのだが、勢いにのってひっくり返したいところで、雨の影響もあってかボールが手に付かない。
ゲームが動かないまま10分がすぎ、1本のPGが勝利に直結する時間になってきた。
オールブラックスはPG1本でも欲しい、南アは逆にこれをとって試合を決めたい。
試合を分ける攻防の中で、南ア・コルビの故意と見做されるノックオンでオールブラックスのPKとなり、またも試合をひっくり返すチャンスが訪れるが、ジョーディ・バレットの重要な1本が外れて1点差のまま。
1プレーで逆転できる1点差が果てしなく遠い。
のこりは5分を切り、最後の攻めのチャンスが巡ってきたオールブラックスだが、ここでも敵陣深くまで迫りながらノックオンでボールを失う。
残り10秒のスクラムに最後の希望をかけるも、必死で守る南アにボールをラインに押し出されて、試合終了を告げるホイッスル。
最終スコア
降りしきる雨、試合開始直後の負傷退場やイエローカード、両キャプテンの反則退出、度重なるハンドリングエラーなど、双方にとってゲームは思惑通りに進まなかった。
しかし、オールブラックスが何度も訪れた逆転のチャンスを悉く掴み損ねたのに対して、ひっくり返されそうになった南アは、諦めずに自分達のするべきことに徹して耐え抜き、ゲームを決める「ちょっと」をものにした。
大会前はアイルランド、フランスなどが見事な戦績を積み上げ、南アもNZも今回は圧倒的な存在ではないと見做されていたが、両チームは大会の中で成長しながら決勝まで辿り着いた。
そして、歯を食いしばりながら薄氷の勝利を積み上げた南アは、なんとこのW杯の決勝トーナメントの試合全てを1点差の勝利で勝ち抜いて、ついに連覇のウェブエリスカップを掲げる最後の勝者になった。
この大会は前回大会から8年間、時代の主役だったプレヤーたちの多くが代表を去る。
ウェールスのダン・ビガー、アイルランドのジョニー・セクストン、ニュージーランドのアーロン・スミス。
日本代表でも年齢的に堀江などは次の大会で見られないかもしれない。
選手が入れ替わるだけでなく、大会のレギュレーションも見直され、次のオーストラリア大会からは出場チームが24に拡大される。
時代の終わりに少しの寂しさがある。
でも、次の時代の準備はもう始まっている。
自分の話をさせてもらうと、今回は大会が始まる前までレビューを書くか迷っていた。
前大会は日本開催で多くの人が試合を見ることが予想されていたのに対して、今回はフランス開催で試合もリアルタイムでは観戦しづらく、日本代表の苦戦も大会前から予測されていた。
また、自分自身この夏から本業が急に忙しくなったので、1ヶ月半以上毎週レビューを書くだけの気力が続くかという心配もあった。
ただ、やはり4年に一度しかないからと、初戦のチリ戦からレビューを書き始めると、まだ待っていてくれていた人からの応援のコメントや、他の試合をみたトラバなどが寄せられて、ともにラグビーの祭典を楽しみたいという人がいたことにとても支えられた。
(あと、本業の厳しい局面でも「リーチ・マイケルや堀江もあんなに頑張ったしな」なんて思って自分を奮い立たせたりもした)
「ラグビーを見る人の楽しみに少しの助けになりたい」と始めたことが、皆の支えでやり切れて、自分自身がこの4年の集大成を、そして時代の変わり目をしっかり目に焼きつけられたのは感謝の気持ちでいっぱいだ。
ラグビーは身体のぶつかり合いが特徴のスポーツで、試合の感想を語ろうとすると「フィジカルに圧倒された」という話になりがちで、それ以外だと「反則が多かった」「あの選手のあのプレーが」という結果の一部だけを取り上げた議論になってしまう。
このレビューを書く上で意識していたのは、結果の現象だけでなく、双方のチームがどういう強みとプランをもって試合に臨んだのか、キックオフなどのゲームの状況が基本的にどちらに優位に働くのかなどに注目して、「なんとなく身体能力で負けた」「多分ミスで自滅した」「全力を尽くして感動した」よりもう少し理解度をあげて、とはいえ1つのサインプレーなどの細かい話に入りすぎて全体像が見えづらくならないようにと思って書いていた。
自分はいちファンにすぎないので、長年のオールドファンを唸らせるようなレビューは書けないと思っていたけど、日本代表の試合だから見てみようと思った人に、今回少しでも役に立てたなら嬉しい。
もう一度、みなさんありがとう。
最後まで書き切れたのはみんなのおかげです。
またどこかで、会いましょう。
4月に来た新しい上司、職場に慣れ始めて気に入らないことあると部下に詰めるようになってきた。語気が強くて怖い。
個人的に怒りっぽい年上の男性をみると、大嫌いな父親を思い出して身が凍る。仕事のやる気がめちゃくちゃ減る。
上司が怒るのは決まって男性だ。とてもかわいそう。と同時に、こういうとき「ガラスの天井」というものを感じる。
女性は怒られないけど、それは重い責任は課せられていないから。女性、怒られたら辞めるもんね。私は上司に怒鳴られたら辞める気マンマン。
私の職場における「ガラスの天井」というのは、いまの50代くらいの昭和気質を引きずった男性が部下に怒鳴り散らすことが原因なんだと思ってる。怒らなくていいじゃんね、男性にも女性にも。
女性に怒らないけど男性には容赦なく怒るのなんて性差別だと思う。怒る必要なんてないし、怒ったって解決しないし。
怒らなければ女性はもちろん男性だって働きやすくなって、ガラスの天井なんて薄氷みたいに薄くなると思うんだ。
なんか本当に怒られてる男性社員たちがかわいそう。男性社員たちはどう思ってるんだろ。
とにかく見ていて嫌。あーやだやだ
第72期ALSOK杯王将戦7番勝負は、藤井聡太王将が羽生善治九段を4勝2敗で破り、王将位の防衛を決めた。本当に、本当に面白かった。手に汗握る、ヒリヒリするような名勝負の連続。名実ともに歴史に残ることとなったこのシリーズを振り返っていきたい。
棋士は「勝負師」「研究者」「芸術家」の顔を持つ。そう唱えたのは永世名人の谷川浩司である。この3要素は、どれか1つが10割というものではない。一流棋士は、これら全ての要素を持ち合わせ、盤上において切り替えながら戦っていく。それが、一流棋士の一流棋士たる所以である。そうはいっても、棋士によって個性、より強く出てくる要素というものは確実に存在する。私見だが、藤井聡太にとってのそれは「研究者」、羽生善治にとってのそれは「勝負師」だと考える。そして、羽生の「勝負師」としての側面が、何よりもこの番勝負を白熱させたように思う。
6局が指された番勝負で、羽生が勝利した第2局と藤井が勝利した第5局は特に名局だった。第2局は羽生の先手番で相掛かり。59手目、盤上のそっぽに放たれた金が驚きの一手。どこから飛び出てきたのかという異筋の金打ちだが、浮かび上がってくるとこれがべらぼうに厳しい。簡単に指せる一手ではないが、羽生はこの手をノータイムで着手。凄まじい事前準備、乾坤一擲の番勝負に懸ける決意をみた一手だった。しかし、この一手だけでノックアウトされる藤井ではなく、将棋はその後も難解な進行を辿る。羽生の本当に凄かった一手は、その後の銀打ちだ。盤上の中央で威張る藤井の馬にアタックする一手。理屈としては分かるが、それにしても怖い。この手を指すと、自らの玉頭に風穴が空く。無傷では済まされない変化だが、それでも羽生は果敢に飛び込んでいった。対する藤井、「許さん」とばかりに猛攻に出る。銀をかち込み、馬と角の睨みで羽生玉を一気に仕留めにかかる。危険極まりない羽生玉だが、ここでほとんど唯一といってよい、絶妙な凌ぎの手順が存在していた。そして、羽生はそれを読みきっていた。これが本局のハイライト。藤井の猛攻を正確にかわし続けた羽生が、シリーズ初勝利をものにした。何という勝ち筋か。銀打ちの一手は、藤井をこの変化に誘い込んだ渾身の勝負手だったのかもしれない。羽生が最後に放った香車は唯一の正解手である。持ち駒も打ち場所も多いが、ここにこの駒を打たなければ助からないのだ。傍目には怖すぎる変化にも果敢に飛び込んでいった勇者羽生。投了図は、勝負師が生んだ最高の芸術であり、羽生の名局である。
第5局は藤井の先手番。戦型は羽生が誘導して横歩取りとなった。飛車角が空中を乱舞するスリリングな戦型で、かくして本局も華々しい展開となる。激しいやり取りがあり、羽生陣は空中分解の寸前。玉が露出し、またしても危険極まりない状態となった。戦況は藤井有利から優勢へ。このままじっくり勝ちを固めてもよさそうなところだったが、本局の藤井はアクセル全開。防御を完全に放棄する驚愕の手順で、一目散に羽生玉に襲い掛かっていった。このまま押し切れば藤井の快勝譜だったが、その先で羽生が放った金が受けの妙手。藤井の攻めから逃れるために作った即興の囲いだが、この懐が妙に深い。アクセル全開だった藤井の手はパタリと止まり、戦況は混戦へともつれていった。本当に、妙なところに懐はあるものだ。将棋の奥深さ、恐ろしさ。羽生がどこまで狙っていたのかは分からないが、藤井の快勝に思われた一局は一気に混迷を深めていった。形勢は逆転し、むしろ羽生がよくなった局面もあったようだが、あまりに難解で、羽生はこれをつかみきれなかった。最後は藤井が抜け出し、シリーズを一歩リードする3勝目。攻めの藤井と受けの羽生。互いの特徴がよく出た名局で、深淵な羽生の受けは藤井の手をも止めさせた。藤井にとっては薄氷の勝利だったといえるだろう。
最終的には、4勝2敗で藤井が制した番勝負。しかし、星の差以上に競っていた、紙一重の局面が多かったように感じる。ここで冒頭の話題に戻るが、これは「研究者」と「勝負師」による名シリーズだったように思う。藤井は「研究者」。盤上の真理、最善を追求し、そのためには持ち時間を一気に注ぎ込むことも惜しまない。相手の戦法は全て受けて立ち、相手によって戦い方を変えるということをしない。横綱、王者の戦い方である。一方の羽生は「勝負師」。もちろん将棋の研究も超一級品には違いないのだが、羽生は相手によって戦い方を変えることも多いように思う。相手を見て、その相手に有効と思われる勝負手を果敢に仕掛けていく。勝負への抜群の嗅覚であり、勝負勘。「羽生マジック」と呼ばれる絶妙手の数々はまさにそれで、時には善悪を超越した一手で勝利をつかみ取ってきた。そして、本シリーズでもそんな「勝負師」としての一面を遺憾なく発揮した。特徴的だったのは羽生の戦型選択である。今期の藤井は、先手番で圧倒的な勝率を誇り、なんと一時は28連勝を記録。特に角換わりは絶対的なエース戦法であり、付け入る隙がないという強さを誇っていた。これを踏まえた羽生は、後手番で戦型を工夫していく。第1局は一手損角換わり、第3局は雁木、第5局は横歩取り。苦しいとされる後手番で、羽生は藤井の絶対的エース戦法を避け、様々なコースにボールを散らすことを選択した。何を投げるかというところから勝負は始まっている。球種の多さで、狙いを絞らせない。羽生の勝負術は、「次は何を繰り出すのか」と将棋ファンを魅了し、この番勝負を白熱させた。もちろん、角換わりを避けたからといって簡単に勝たせてくれる藤井ではない。どこにボールを投げてもその応手は的確で、結果として羽生は藤井から後手番で白星を挙げることはできなかった。それでも、羽生が後手番で繰り出した3種類のボールはどれも見応えがあり、複雑なねじり合いを生んだ。後手番で必死に食らいつきながら、先手番の2局では会心の内容で勝利をもぎ取った。心から、素晴らしい番勝負だったと思う。
防衛を果たした藤井王将は、羽生九段との番勝負について問われ、「羽生先生の強さだったり自分の課題を感じたところがあった」と振り返った。藤井がインタビューで対戦相手の名前を出すことは非常に珍しい。なぜなら藤井は、前述のように盤上の真理を追究するタイプであり、対戦相手がどうこうというタイプではないからである。今回、藤井が「羽生先生の強さ」と述べたのは、それを肌で強く感じたところがあったのではないかと推察する。羽生の強さ。すなわち、勝負術であり勝負勘。これまで何度も目にしてきたつもりだったが、本シリーズではその真骨頂を見せられた気がした。そんな羽生を相手に防衛を果たした藤井王将のことを、心から讃えたいと思う。
五冠を堅持し、さらなる頂に向かって突き進む藤井王将が将棋界の絶対王者であることは全く疑いようがない。その他の棋士は、極めて厳しい戦いを強いられている。しかし、厳しいからといって戦うことをあきらめてしまえば、その時に将棋界は終わる。今回、52歳の羽生がこれだけの戦いをみせた。勝負を仕掛けた。このことが、将棋界に良い化学反応を起こしてほしいと願う。選ばれしプロ棋士たちには、藤井という絶対王者に対し、果敢に「勝負」を仕掛けていってほしい。必死に戦い続けてほしい。そのように願う。
羽生さん。敗れはしたが、あなたは本当にかっこよかった。藤井王将は、その勝負術に正面から触れ、この番勝負で吸収した。今後は「勝負師」としての要素も強め、さらに手が付けられなくなるほど強くなるのではないか。そういう確信に近い予感がある。それでも言う。さらに強くなった彼に再び挑むのは、あなたであってほしい。
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった