はてなキーワード: 一般教養とは
タイトル通り
本を読んで知識をつけたいんだけど、何を読めばいいかまったくわからんのよ。
なんかさ、映画とか観るじゃん?
こないだアマゾンプライムでゲットアウトみて、面白いなと思ったからアメリカにおける黒人差別とか南北戦争について知りたいなと思ったんだけど、そういうときにどんな本読んだらいいかわからん。
日本がジェンダー面で遅れてるっていうのはしってるけど、他の国が今どんなで、どういう風に解決したとか。
美術館いっても、絵みて綺麗だなーと思うだけで、ちょろちょろっと書いてる説明読んでも歴史背景がわからんからよくわからない。
キューバ革命、台湾と日本の関係、中国の歴史全般、新撰組って結局何、ルワンダ難民、さまざまな差別問題、日経平均が上がるとどうなるの、わからないことだらけ。
そういうわからないことを説明してくれる教科書的な、初学者向けの本の探し方がわからない。できれば偏った思想とかないやつ。
同じ大学で同じ学年の彼氏と付き合いはじめてからそろそろ半年になる。しんどいときは励ましてくれるし、誰からも好かれるような愛嬌のある彼氏だ。拗らせたアンチフェミみたいなことを言わないし、なんならアンチフェミのことすら知らないんじゃないかと思う。私には過ぎた彼氏だ。
ただかなり一般教養が怪しい。一般教養と言ってもそこまで高度なものではなくて、義務教育で触れるようなものもあったりする。
ごく簡単な漢字が読めない。挙げればキリがないくらい。この前は納戸が読めなかった。
「こんにちわ」や「〜せざるおえない」みたいな、は?って間違いもよく見る。
イギリスが島国だと知らなかった。なんならどこにあるかすら知らなかった。高校のとき日本史を取ってたからわからないと言ってたけど、イギリスが島国かどうか、ましてやヨーロッパにあるなんてことは取ってる科目に関係なく知ってるものだと思ってた。
だいぶ前に私が最近気になっているアイドルを紹介した。フィロソフィー(グループの名前)って哲学って意味なんだね、と言われた。
大学受験、それもセンターで8〜9割を取らないと射程に入らないような大学の入試を突破してそれはちょっと……と思った。
話もあまり合わないし、最近は動物とご飯の話ばかりしてる。イヌかわいいね〜とかサイゼだね〜みたいな。イヌとサイゼには申し訳ないけど正直会話はまああまり楽しくない。
これは別れた方がいいのではと思うけど、こんなに長く続いた彼氏ははじめてだし、「大学出たら結婚しようね」とまで言われた。
今後彼氏ができるのかわからないし、なんならできるわけがないと思っているので、とりあえずこのままでいるのが最適解なんだろうとは思う。何せ今同じコミュニティにいるので別れた後のことを考えるとめちゃめちゃ気まずい。
アァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜もうどうしたらいいんだろ キングオブクソザコ意気地無しなので大学卒業後のフェードアウトに期待するしかない 自分ただのレイシストじゃんか 自分最悪最低クソアマだな
「イリアス」は捕虜の奴隷女の配分をめぐった交渉がこじれた結果、勇者が拗ねて戦場に出ず、味方がどんどん死ぬところからスタートするので、昨今の倫理観からは問題があり、神話初心者にはこっちをお勧めしたい。「オデュッセイア」も家で待っている妻を忘れてよその女のところで数年過ごすが、まあ魔法をかけられていたということでこっちのほうがマシだ。舞台もあちこち移動するから飽きないし。
ユニークなのは、劇中劇的にオデュッセウスが時間をさかのぼって事件の進展を語る箇所があることで、ホメロスの時代にはすでに出来事が起きた通りに語る手法が飽きられ始めていたのかな、と想像できる。
実は「ラーマーヤナ」とある共通点があるが読んでみてのお楽しみ。
聖書はなんせ二千年前以上の宗教書だから、原典に当たる前に基本的な出来事の流れと時代背景や当時の常識を理解していないと読解が難しい。当時のユダヤ民族の偏見も混じっているし。加えて、ところどころ立法全書的に当時の習慣や禁忌を延々述べる箇所があり、通読はさすがにできてない。新約聖書だけは何とか意地で読破した。
ところで、どうして「創世記」だけを取り上げたのだろう。たとえば物語として盛り上がるのは「十戒」の「出エジプト記」だ。「ハムナプトラ」とかでエジプトが悪役になるのは大体これのせい。いきなりこれにチャレンジするのなら、手塚治虫の聖書物語のほうがいいかもしれない。
犯人探しが不幸を呼ぶことから嫌ミス的な要素もあるし、ギリシア神話の「不幸な運命を避けるために必死になって行動した結果、結局その運命を呼び寄せてしまう」というアイロニーが大好きな自分としては、その典型例なので好物だ(予言を鵜呑みにした結果ドツボにはまる「マクベス」も好き)。
これが面白かったら、アイスキュロスの「オレステイア三部作」もおすすめしたい。何世代にもわたる恨みの念が恵みの女神として祀られることで鎮められるというモチーフは、異国のものとは思えない。
一般教養で唐詩の授業を取ったので岩波文庫でぱらぱらとめくった覚えがある。なにぶん昔のことなので記憶は曖昧なのだが、はっきり覚えているのが王梵志の「我昔未生時」で、天帝に生まれる前の時代の安らぎを返してくれるように願う詩だ。当時は反出生主義が哲学・思想界隈でここまでホットなトピックになるとは予想してはいなかった。
酔っ払いの詩。酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーという内容。著者は文学者であっただけでなく天文学者・数学者としても知られるが(三次方程式を解いた実績がある)、ここで展開されている詩はひたすら現世の美しさとはかなさをうたったもので、酔っ払いは世の東西を問わず、というところか。イスラム世界の厳格なイメージをひっくり返してくれるので面白い。ガラン版のアラビアンナイトや高野秀行の「イスラム飲酒紀行」とあわせてどうぞ。
フィレンツェを追放されたダンテが苦しみの中生み出したキリスト教最高峰の文学のはずだけれど、とにかく気に食わない政敵を地獄でめちゃくちゃな責め苦に合わせているところを面白がる下世話な楽しみ方ができる。地獄にいる人物は聖書やギリシア神話、歴史上の人物も多く、ヨーロッパの歴史や文学をざっくり知っているとダンテがどれだけやりたい放題やったかがわかるので愉快。
ただし、地獄編の続きの煉獄編・天国編はキリスト教哲学をかじっていないと結構しんどく、しかも風景が山あり谷ありの地獄と比べてひたすら恵みの光が明るくなっていくだけなので、絵的に面白いのは地獄のほうだ。
ついでに、ヒロインがかつて片思いをしていたベアトリーチェという女性なので、ベアトリーチェの美しさを歌う箇所も下世話な目線で楽しめる。妻帯者の癖に未練たらたら。
未読。後述のラテンアメリカ文学とかジョイスとかは読んだんだが、そこに出てくる過剰なものや糞尿譚も結構楽しんだので、いつかは読みたいと思っている。
四大悲劇と「ロミオとジュリエット」はざっくりと読んでおくと、いまにも受け継がれているネタが結構あることがわかって楽しいし、意外と下ネタのオンパレードなので当時のイギリス人に親しみを持つことができる。ついでに上記のうち二作は黒澤明の映画の元ネタでもある。
興味深いのは、劇中劇というかメタフィクションが必然性を持って登場することだ(父を殺した叔父の目の前で、その殺人の場面そっくりの劇を演じて動揺させるシーン)。すごく先進的だ。かっこいいぞシェイクスピア。
基本的には正気を失ったおじさんが繰り広げるドタバタ劇で、下巻では著名になったドン・キホーテをからかう公爵夫妻までも出てくる。これだけだと精神を病んだ人をおちょくる悪趣味な書物だとしか思えないのだが(というか最初は時代遅れの騎士道精神を批判するために書かれた)、昨今はドン・キホーテに同情的な解釈が主流。最近テリー・ギリアムが映画化した。
自分が道を踏み外した元凶。誰だこんな子供を人間嫌いにする本を児童書の棚に並べたのは。クレヨンしんちゃんを夕方アニメにするレベルの蛮勇だ。四部作だが、最後の馬の国では人間という存在の醜悪さをこれでもかと暴き立てており、おかげさまですっかり自分は人間嫌いで偏屈な人になってしまった。作者の女嫌いの影響を受けなくて本当に良かった。
とはいえ、当時のアイルランド支配はこれほどまでの告発の書を書かせるほどひどかった、ということは知っておきたい。
夏目漱石「吾輩は猫である」に出てくる。基本的にはふざけた話であり、著者が自分の誕生から一生を語り起こそうとするがなかなか著者自身が誕生せず、しかも物語の進捗が遅いせいで半年ごとに本を出す約束なのにこのままでは永遠に現在の自分に追いつかない、みたいな語りで笑わせてくる。挙句の果てに著者が途中でフランス旅行に出かけてしまう。英文学というジャンルがまだ黎明期なのに、こんな愉快なのが出てくる懐の深さよ。
だが、これだけふざけているのに、登場人物の一人がうっとうしい蝿を「この世の中にはおれとおまえと両方を入れる余地はあるはずだ」といって逃がしてやるシーンはいい。
未読。「毛皮を着たヴィーナス」と「眼球譚」は読んだんだが。バタイユどんだけおしっこフェチなんだよ。自分もお尻とかブルマーとか競泳水着が好きだから笑わないけどさ。
個人的にはとても好き。人生できっと何かを成し遂げられるはずという万能感ある思春期に読みたい。主人公の行為は決して褒められたものではない。様々な悪事を働き、幼い少女を妊娠させたうえ捨ててしまう。このシーンのせいで、もしかしたら二十一世紀には読み継がれない古典になってしまうかもしれない。しかし、主人公が最後にたどり着いた境地の尊さの価値は失われることはないと信じている。現世で最も美しい瞬間とは何か、あらゆる物質的な快楽を手に入れた主人公が見つけた答えを読んでほしい。後半はギリシア神話を知らないとつらいかもしれないが、そのためにギリシア神話入門を読む値打ちはある。
未読。同著者の「赤と黒」は貧乏な青年がひたすらのしあがろうとする話で、あまりピンとこなかったのだが、文学サークルの友人から最近来たメールに「訳者を変えて再読したら面白かった」と書いてあった。
さえないかわいそうなおじさんが好きなので好き。ロシア文学というものは、名前がややこしいうえに同じ人物が様々に呼ばれるので敬遠されがちなのだが(イワンが何の説明もなくワーニャと呼ばれるなど)、登場人物をメモしたり、ロシア人名の愛称の一覧を頼りにしたりして飛び込んでほしい。このハードルさえ超えれば最高の読書体験が待っていることは保証する。ロシア文学はいいぞ。
ポーは大好きなんだけどどうしてこれを代表作に選んだのかはよくわからない。個人的には王道の「黒猫」とか「アッシャー家の崩壊」とかを最初に読むのがいいと思う。中学生の頃、狂気や暗鬱さにどっぷり浸っていた頃に読んだのだが楽しかったし、作中の詩が今でも世界で一番好きな詩のひとつだ。ちなみに、東京創元社のポー全集には、ポーのユーモア作品もいくつか収録されており、意外な顔を知ることができる。もっとも、今読んで面白いジョークかどうかまでは保証しないが、こじらせ文学少年・文学少女としては必読か。
最高の昼ドラにして非モテ文学。俺は愛されずに育った、俺は永遠に誰からも愛されない、だから他人の幸福を破壊してもいい、的な気分に一度もでもなった人は何としても読んでほしい。
映画「マチルダ」の中で児童書に飽きた天才少女がこれを読もうとする場面があるんだけど、これ小学生が読む本じゃないだろ。単純に難しいのではなく、とにかく話が脱線しまくる。まともにストーリーが進まずに、著者自身のクジラに関するうんちくが延々と続く箇所もある。雑学隙の自分は楽しく読んだが。
敵のクジラを殺してやろうとするエイハブ船長の狂気についていけるかどうか。
自分が人妻萌えを発症した元凶の一つであり、世界文学初のカーセックスシーンがあることでも知られている(自動車ではなく馬車でだが)。ストーリーは夢見がちな女性が夫に幻滅して若い男やチャラ男と浮気し、サラ金から借金を重ねて自殺するという「闇金ウシジマくん」的なノリ。妻の浮気を知ったさえないボヴァリー氏の哀れな反応は必見。自分が寝とられ文学が好きになってしまった元凶の一つ。
たとえば北条時行なんかまあWikipedia観漁るのが趣味な人と歴史が好きな人あたりが好きって程度で、一般常識からほぼ外れている。更に言えば、名前を知ってても北条時行がどういうことした人なのかをそらんじれる人は更に少ないはず。高校日本史でやってたとしてもまあ忘れてる人がほとんどでしょう。ただまあ、「足利高氏」って名前を見た時に「あ、足利尊氏と音が一緒だな」というところから推測して検索かけて「やっぱ鎌倉幕府滅亡するタイミングの話しをやるんだな」って推測を立てることができるくらいは多分一般教養の範囲。
文学作品、特に羅生門みたいなのに関しちゃ、単に読んだことがあるだけでしょう。羅生門とか山月記とかってレベルなら、これは高校(もしかしたら中学)の国語で読むだけだからまあ一般教養の範囲とは言えそう。これがたとえば夏目漱石「こころ」あたりになると教養から外れてくるのかなという気はする。「こころ」を高校現代文で学ぶとき、履修範囲は「先生」の学生時代の話がメインになる(Kに「向上心がないものは馬鹿だ」と言うシーンね)。でも、じゃあ「こころ」が実は三部構成で、その三部構成がどのように組み立てられて……という話しになると多分あんまり答えられる人はいないと思う。なぜなら授業で習ってないから。
何が言いたいかっていうと、「はてなの人がみんな知っている知識」と元増田が思っているものはおそらく「人生のどこかで聞いたことはあるけど、蓋を開けてみればほとんどの人がそんなに詳しくない」ってタイプの知識になるのは間違いない。これがみんな知ってて当たり前みたいな感じになるのはただの観測バイアスだから知らなくていい。
それでもなお知識がほしいというなら、マジな話としちゃ、歴史なら「もう一度読む日本史」「もう一度読む世界史」、国語ならhttps://www.shinchosha.co.jp/edu/download/high-school_2018.pdf に掲載されてる作品をざっと読むのがいい。別に覚えなくていいから。大学受験じゃねえんだからとりあえず「見たことがある」=「詳細は覚えてなくていいけど話は思い出せる」くらいの感じにしておくのが良い。読むのもめんどいってんなら諦めろ。
「青のSP」という、今放送中のドラマが酷すぎるので怒りに任せて書きます。
中学校に警察官が常駐して学校で起きる問題に対処する、という設定なんだけど、逮捕や指紋の採取という公権力を振りかざす行為があまりにも無批判に行われていてヤバいアンドつらい。
学校内に警察官が常駐し、トラブル対応や予防活動を行う「学校内警察(スクールポリス)」制度。この制度が試験導入されることとなった赤嶺中学校に、主人公・嶋田隆平は自ら志願して配属される。表向きは何の変哲もない公立校に見える赤嶺中学だが、スクールポリス・嶋田の登場によって、SNS、薬物、盗撮、さらにはマタハラやセクハラなど、様々なトラブルがあぶり出されていくことに…。
法に触れれば、教師であろうが生徒であろうが容赦無く逮捕!?常に冷静で毒舌な嶋田が、校内にはびこる“悪”を痛快に成敗する!
これだけでヤバイ匂いはぷんぷんしていましたが、藤原竜也が好きなので見ました。そして憤死しました。
1話では授業中の態度を注意されて逆ギレして暴れた生徒を暴行と器物損壊で現行犯逮捕。
逮捕とはつまり身体の拘束で、公権力による私権の制限は必要最低限になされるべき=逃亡、証拠隠滅のおそれがある場合にのみ行われる行為と認識していたのですが、この世界では違うのか!?
ならドラマの冒頭に、「フィクションです」だけじゃなくて「この作品の世界は現実とはまったく違う構造で動いています。バンバン逮捕しますが気にしないでください」とか表示してほしい。
身元がはっきりしていて保護者ともすぐ連絡がついて、犯行を周囲がばっちり目撃していて証拠隠滅のしようもない。じゃあ在宅でいいじゃん。
逮捕は必要性に迫られて初めて行われる私権の制限であるという認識、警察官にも制作陣にもなさそう…… (現実でも交通死亡事故起こした人が無闇矢鱈に逮捕されてるが、これも行き過ぎだと個人的には思う)
反省文書かせて釈放って、それで済むなら逮捕いらんだろ。ごめんで済むなら警察いらんって逆の意味で初めて使ったわ。
3話では、学校の備品を盗んだ犯人を特定するために、全校生徒と職員の指紋を採取しちゃいます。
指紋採取は一応教員から反対意見が出るんだけど、「そんなことをしたら生徒たちの心の傷が……」って的外れなものだけ。「人権侵害です」「あなたにそんなことをする権限はない」って真っ当なこと言ってくれる大人が誰一人でてこない。
生徒たちもおおむね好意的で、「刑事ドラマみたい」とか「窃盗犯じゃないから別にいいよね〜」「私たち悪いことしてないもんね〜」とか。
「後ろ暗いことがないなら権利を侵害されても問題ない」って、その考え方を無批判に取り上げるのはどうなんだ。
そして藤原竜也演じる警察官、嶋田が「あの生徒の指紋を出してくれ」という場面があるんだけど、担任と思しき教員が、その子の指紋を採った紙を(開錠なりなんなりをする様子もなく)パサーッと出してくる。
いや究極の個人情報だから!!!!!どんな保管しとんねん!!!!!!せめてお前(嶋田)がしっかり管理せんかい!!!!!!!!
あらすじの
実際の警察官もきっとお仕事大変なんでしょうけど、私が思いもやらないようなクズい人間とかにたくさん出会うんでしょうけど。
「国民の生命、身体及び財産の保護」が警察官の職務であって、「守る価値がある人」と「ない人」を峻別しようとする姿勢、根本的なところでアウトちゃうんか……??
しかしSNSでは概ね好評で、「クソガキ全員逮捕しろ」とか「逮捕されてスカッとした〜」とか、正直地獄のような光景としか思えない。
イチイチ引っかかって竜也無双を楽しめない私がおかしいのか?となる。
今後転び公妨とか出てきても「嶋田は機転が利く!」って絶賛されると思う。犯罪の構成要件満たさないのに〇〇の現行犯だ!っつっても特に問題にならなそう。つらい。
ツッコミどころが大変多いんだけど、そもそもドラマとしての質が普通に低いから広まらず、私の観測範囲では特に批判もされてない絶望。
嶋田を持ち上げるために教師はアホアホ綺麗事言いこ事なかれ主義者に描かれるし、犯罪への対処に重点が置かれるから、生徒の抱える事情にもリアリティーや深みがまったくない。
イケてる大人がクソガキを懲らしめるスカッとジャパンでしかなくて、国家権力が個人を「懲らしめる」ことの意味がまったく考えられてない。
何より救いようがないと感じるのが、テレビ局というジャーナリズムの担い手が、これを制作して放送してるということ。
ジャーナリズムの目的って、権力監視じゃなかったんですか……??
ドラマの制作部局と報道部局はほぼつながりなんてないんだろうし、「今度こんなドラマつくりま〜す」とかいちいちやらないんだろうけど、社内に誰か一人でも、この描き方は問題があると声をあげる人はいなかったんでしょうか。
権力の過剰な行使とそれをエンタメとして消費する姿勢を、ジャーナリズムの担い手が肯定してはいけないでしょう。。
このドラマをもとに「権力は学校にもっと介入すべき」みたいな世論が形成されることだってないとは言えないと思うんだけど、制作陣やテレビ局はこのドラマを社会に送り出すことの責任を考えたことはありますか。
今期はもっと他に面白い、つくり手の誠意と意欲を感じるドラマがたくさんあるなかで、こんなクソドラマを広めることに胸が痛む部分はありますが。
私は法律の専門家でもなんでもなく、逮捕云々も一般教養で習ったぐらいのものなので、もっとたくさんの人の目に留まってちゃんと批判されてほしい。それを目的に書きました。
https://anond.hatelabo.jp/20210111000145
これだ。
クソのような世の中で生きることになる。
お前が行きたいと言ってる高級風俗は、健全な医療が維持されているから許される娯楽だ。
医者にかかれなければ梅毒に侵されて、お前は風俗に行くたびに「梅毒に感染ったらどうしよう……」とビビるわけだ。
で、実際に梅毒に感染して「ひぃいー梅毒が脳にまできたあああああああああ」と梅毒脳炎にかかって死ぬわけだ。
そういう悲劇を回避してくれているのが「医療が充実している状況」であり、このまま新型コロナウィルスが感染蔓延して医療崩壊したら、そういう医療体制そのものが破綻するんだよ。
俺の風俗嬢の医療は関係ないですよね、なんてことがあるわけない。
医療が崩壊するってことは「これまで対応してくれていたあらゆる病気があらゆる人間を攻撃して社会そのものが崩壊していく」場面に直面するってことだ。
つまり、江戸時代のように「流行病でコロコロ死ぬ」とか「盲腸で死ぬ」とかも覚悟しなければならない
つまり「でも、俺は罹っても問題ないんだよ。どうせ無症状でしょ。まぁ、運が悪ければ人工呼吸になるのかもしれないけど、それは相当運が悪かったって諦められる。」と思ってるお前は、社会を俯瞰して観ることができない大馬鹿だということだ。
誰もお前の話なんかしてねえんだよ。社会全体が医療崩壊したら、一気に破綻して、いま以上につまらねえ生活を送らなくちゃいけないって話をしてるんだよ。
医療が機能不全に陥ったら、俺もお前もうまい飯を食いながら「自粛はつまんねえなあ」と言ってる生活すらも破綻するんだよ。
それを得がないとか、誉めてくれとか、甘ったれてんじゃね―ぞ。
いいか? 得してる側なの。
だって、健康で「ここ10年でまともに病院行ったのなんて健康診断か歯医者ぐらいだから。」ってのは、医療と公衆衛生が発達して感染症を押さえてくれた結果だからな?
なのになぜ、自分は医療に関係ない健康体なのは医療のおかげだった、ありがとうと思えないんだ?
一般教養をどこにおいてきたんだ?
「なぜ民間病院は協力的でないのか」
他の病気でいっぱいいっぱいで、ここの数を減らせばとたんに文明レベルが下がる。
お前が健康でいられるのは、「他の人間が健康でいるように民間病院が頑張ってる」からだ。
そんなことはこの1年で、ずーっと情報発信されてきたが、結局自分しか見えていない。
その甘ったれた考えをまず直せ。
確か席順が決められてて、俺は隣になった素朴な感じの美人とペアになった
その時点でまあまあ嬉しかったんだけど、ある日さらにすごいことが
「自分の良さをアピールして、ペアの人に求婚しろ」という課題が出たのだ
たどたどしい英語で、「わたしと君の性格は、こう、合うと思うから、多分いい人生が送れると思う、一緒に…だから、結婚してください」
かなりグッと来た
So... Marry me! って言われた瞬間、ガチで「ああ〜たまらん!」とか言いそうになった
俺は「ぼ、僕は料理ができるんだな…」みたいなことをデュフデュフ言った 我ながらキモかった
彼女とはあの講義以来あってねえし、何なら名前すら知らんし、もはや顔も可愛かったことしか覚えてない
でも求婚されたんだよな
絶望するようなスペックではないけど(というか増田に多くねぇだろ)、
30代前半を狙うにはちと弱い気がする。
いってしまえば30前半に限れば容姿が並かそれよりちょっと下か、
結局相手にもそれなりの容姿や聡明さを求めてると思うんだよね。
一を聞いて十を知るじゃなくて8くらいまで説明しないとわからなかったり、
自分の中で一般教養と思っていることを全然知らない人とでも疲れない?
向上心なく毎日スマホゲームに興じつつ「仕事しんどいんだよねー」とか言われても平気?
自分でアラフォーには興奮できないって書いてるけどぽっちゃりや容姿が人並み以下だったら?
東大院の年収950万42歳だったらせいぜい並スペックの37歳くらいにしかならず、
30代前半を狙うのはかなり厳しいということは自覚したほうがいいと思う。無理ではないと思うけどね。
増田神社(ますだじんじゃ)は、佐賀県唐津市肥前町にある神社。
1869年(明治2年)8月10日、熊本県合志郡泗水村(現・菊池市泗水町)生まれ。
幼少の頃より体格は立派であり、性格温厚と誰からも好かれる人物であった。
永島塾では漢学を、後藤塾では数学や測量学を学んでおり特に数学に秀でていた。
その後、 阿蘇郡馬見原(現・山都町)の用水路整備や北海道開拓事業、地元泗水村での養蚕業などを経て佐賀県の巡査教習所(現在の警察学校)へ入所する。
増田は上記の私塾では学業を修めていたことから一般教養に秀でており、本来3か月かかる巡査教習所の教習課程をわずか10日で習得し卒業する。
1895年(明治28年)7月17日に佐賀県巡査を拝命し、19日には唐津警察署へ配属されることになった。
1895年(明治28年)、日清戦争終結に伴い外地から兵士が帰還すると全国的にコレラが流行する。
この年の患者数は全国で55,144名、死者は40,154名になっていた。7月には佐賀県東松浦郡入野村高串(現・佐賀県唐津市肥前町高串)でもコレラが発生し、真性40人、疑似34人、死者9人と猛威を奮った。
〜中略〜
増田は交通手段のない山道を超えて巡査を拝命して4日後には高串へ到着する。
増田は区長と相談の上で「コレラ感染を防ぐには、一刻も早く患者と健康な人との接触を断たなければならない」と対策を講じ、発症者の家には縄を張り巡らせて消毒の上で人の往来を禁じた。
また、住民には生水を飲まない、生で魚介類を食べないなど厳しく指導して回った。
中には薬を飲んでから亡くなった発症者もいたことから誤解して「毒薬なんか飲まない」と言う発症者もいたが、増田はその患者にも根気よく説得し続けた。
また、感染を恐れて発症者の遺体運搬が拒まれていることを見かねて、増田は自身で遺体を消毒し、むしろに巻いて背負って傾斜が急な坂道を何度も登っては墓地に埋葬していった。
住民は不眠不休で献身的に働く増田に対して次第に胸を打つようになったが、疲労が祟って高串着任の3日後である23日にはついに自身も感染してしまう。
容体は急速に悪化し、「とても回復する見込みのないことは覚悟しています。高串のこれらは私が背負っていきますから御安心下さい。十分お世話せねばならぬ私が大変御厄介になりました。」と言い残して24日午後3時には死去する。その言葉通りに、猛威を振るっていたコレラは終息し、再び発症する村人はいなかった。
増田が死去した2日後、コレラに罹患した2人の子供を看病していた中村幾治の許に増田巡査が夢枕に立ったという。
夢枕の増田巡査は、白シャツ姿に剣を抜いた大男で現れて「余はこの世になき増田敬太郎なるぞ、高串のコレラはわが仇敵にして冥府へ伴い行きれば安んじて子らの回復を待て、ゆめ看護を怠りそ」と厳かに言って消えた。
翌日には増田巡査の死とその最後の言葉を聞いた中村は夢枕の内容との一致に驚き、子供を懸命に看病した結果、子供2人も無事回復した。
中村のほか同様の夢枕を見た住民は他に2件あり、伝え聞いた住民の間では増田巡査は神様として認識されるようになった。
一般教養として数学の応用価値と実用性(算術、数式、図形)の観点を
学ぶことを重視すべきだろうけど、
ある意味それ以上に、数学が形而上学として成立している生命線、
論理的合理性の諸観点(無矛盾、完全、独立)、そして自然科学を含む
と思うのは私だけだろうか。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。
・自分の観測範囲ではそもそも「フェミニストを自称しつつ一人一派と主張する人」を殆ど見かけない
・むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方
・またフェミニストを自称しつつ一人一派を主張する人がいたとして、それはフェミニスト思想全体への批判に繋げられるほど一般化された主張なのか?
・フェミニストの中で明示的に「一人一派」理論を採用している人は少ない。一人一派との指摘を行っているのはアンチフェミニストが主である
フェミは多様なものよ。一人一派、それ以上あるかもしれない。それらがぶつかり合うことはあっても、正統と異端という考えは全くない。(p186上野)(上野千鶴子×田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください! 』、2020年刊)
フェミニズムは一人一派、まさにそのとおり。/小倉:フェミニズムは一人一派だから、考え方が対立して当然なのだ。/フェミニズムとは一人一派と書かれているので(上野 千鶴子,小倉 千加子 ザ・フェミニズム (ちくま文庫)、2002年刊 感想)
フェミニズムは一人一派だ、というのは(多分)田中美津の言葉だけれども、別にフェミニズムでなくたって人間は基本的に一人一派である。(私は愛されたい、私はピンクが大好き、それゆえ私はフェミニストになれない(のか?) )
上野 千鶴子氏など著名なフェミニストが「フェミニズムは一人一派」と言い続けているのに、「主張する人を見ない」「むしろアンチフェミが言っている」「一般化されていない」と嘘をついてアンチフェミを批判するあなたは、無知なのか歴史修正主義者なのか、どっちなんでしょうか?
そしてこういった汚れた輩から、高潔なフェミニズムを守るために、一人一派は役立ちます。
(追記)
あなたは理解力が著しく欠けているので、質問は義務教育を終えてから。まずは学校の勉強に専念しましょう。
第二に、「主張する人を見ない」「むしろアンチフェミが言っている」「一般化されていない」のはすべて事実です。
これらは全部あなたの観測範囲にもとづく主観です。これが証拠になるのは、小学校までです。客観的な事実なしに主張するなら、フェミニストを名乗ることで他に多大な迷惑を及ぼしていることを自覚なさい。
第一に、上野氏ほかの主張は彼女ら自身の説・主張であって、フェミニスト全体の総意ではありません。
総意なんて存在しないものを議論する価値がありません。上野氏は活動家でもあるという事実(後述)から目を背けて、自分の正当性に固執するあなたの姿は醜い。
自分の耐え難い苦しみがこれまでのフェミニズムに相いれないときに、自分の苦しみを優先して個人が社会活動として訴えることを認めるのが、本来の「一人一派」で、あくまで最後の手段です。それを、自分の気に入らないことすべてに安易に使うから、フェミニズム全体の信用が失われ、アンチフェミニストが指摘するときの便利な道具になってしまったのです。
あなたには無理ですが、あなた以外が「一人一派」の一般性を理解できるよう、フェミニストによる「一人一派」をいくつか引用しておきます。
第二に、小倉さんが言うように、フェミニズムは「一人一派」。だって「わたしがわたしであること」がフェミニズムなんだもの、人の数だけあってあたりまえ。ある人はこういうが、別の人はああいう。批判されても、ああそういう人もいるわね、でもわたしは違うって思っていればいい。(略)
何はともあれ、矢はとっくに放たれている。小倉さんとわたしの「一人一派」に、読者のあなたにもうひとりの「一派」を付け加えてもらえれば、この本の目的は達せられたことになる。
トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること 堀あきこ (2019.2.4)
一方、フェミニズムは、フェミニズム内で意見の対立を抱え続けるものでもあります。(略)
この対立は、しばしば「フェミニズムは一人一派」という言葉で例えられます。なぜ、統一しようとしないのでしょうか。
Where We Are Right Now :多義的に進化するフェミニズムの現在地 清水晶子 (Harper's Bazaar 2017年6月号掲載)
でも、そもそもフェミニズムって何だっけと考えると、これが意外にわかりにくい。「フェミニズムをひと言で定義してください」と言われたら、専門の研究者やアクティヴィストでも一瞬たじろぐだろう。
女性も男性と同等の権利と尊厳を持つと考える人はすべてフェミニストだ、という言い方がある。出発点として、これは間違いではない。
同時に、「フェミは一人一派」という言い方もあって、これもある意味では正しい。実際、フェミニストの間で「それってフェミニズムとしておかしくない?」「いやそれはありでしょ」という議論が交わされることは、珍しくない。
大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法 小松原織香 2019.11.2
フェミニズムは一人一派と呼ばれ、それぞれが「私のフェミニズム」を語ることで成り立っている。それがどんなに間違っていると他人に言われても、「私のフェミニズム」は誰にも否定されるものではない。それが大前提だということはおさえておきたい。
プラスαの読書大特集(第2弾)新書だけで学び直す一般教養15講+α 著者不明
論座 (通号 86) 2002.7 pp.188 - 236
204 ページ
フェミニズムは一人一派というひともいるくらい多岐にわたっているし、その内容もきわめて多様である。だから、どんな考え方がフェミニズムなのかという根本はともかく、一口にフェミニズムといっても実にいろいろな考え方があるという
ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか? 髙崎順子 ハフィントンポスト 2020.2.7
上野 千鶴子 NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。古市憲寿との対談にて、「ジェンダー研究はフェミニズムのツールです」と自身の研究は運動に利用するためと答えて、小熊英二に「活動家としては正しい」と言われている。堀茂樹は上野が自身の運動に不都合なことは隠すと答えていることで、上野を「救いがたいレベル」と評し、小熊と古市も批判し、研究者且つ社会運動家である事は許されるが、「研究者として社会運動家のように行動するのは詐欺」と批判している。