はてなキーワード: 一般教養とは
「義務教育に××を入れろ」派の皆様って、自分が学校の定期試験で常に100点でも取ってたのかなって
そんなわけねーじゃんね
法律教えても役所の使い方教えても、次の試験で使いもしないようなことに、みんながみんないちいち関心なんか持つわけねえんだよガキがさ
お前らもさあ、道徳の授業で教わったこととか、ちゃんと全部覚えてる?
大学の一般教養で何が一番大事かって、どうせ「楽に単位が取れるかどうか」でしょ?
教育つったってそんな感じで優先順位というものはあるし、ましてオマケのオマケにかけられる熱意やリソースなんてたかが知れている
だからって今更なんたら勅語みたいに、強制的にやるわけにもいかない
それで自分の好きなことだけは100パーガチで叩き込めって、そもそも無理なの
都合がよすぎる
どっちも一般教養ではないわなw
鳥山「あ~描いた描いた」
鳥山「?」
ファン「当時すごかったんですよ、ランファンのワキがすっげえ上手かったんですよ・・・」
ファン「(ダメだこいつ、話通じねえ)・・・。そうそうそんな感じです・・・。」
それができないなら精神と時の部屋に引きこもっててくれ。
タイトルやってみたかっただけ。あと他人の話題にかこつけて自分の好きなものの話がしたいだけ。
あとトラバ、演劇関係が自意識過剰? 新感線が30年前? バーカ! 一生そこで半可知識でしたり顔しながらネチネチやってろ!
さて、劇団☆新感線のことを初めて聞いた人が「2.5次元みたいなことですか?」というのは、当たらずとも遠からずではないかなと思う。
というか2.5次元舞台の多くは新感線の影響下にあるのではないか(数が多すぎるのですべてを把握してはいないが)。
あと、新感線は2.5ブームが来るはるか前に犬夜叉を舞台化していたりするし、距離としてはそこそこ近いと思う。
共通点としては、宮村氏の言う通り、漫画やアニメの世界観を舞台の上でやろうとしてること。
これは話の筋立てや演出もそうだが、往年の漫画の熱気みたいなものを再現する美学みたいなものが共通していると思う。
新感線の舞台は往々にしてかなり過剰にSEを使うのだが、漫画の描き文字の再現と思うと納得がいく。
漫画やアニメの世界観、いいところ、を舞台でやろうとしていることは共通しているが、
舞台のために漫画の良いところを抽出して作り上げるのではやはり出来上がるものが違う。
あとはまあ2.5次元は企画ありきで役者を集める形式が多いのに対し、
劇団☆新感線は「所属劇団員」がいる。ほとんどの主役級は客演の有名役者がやるが、脇を固める劇団員の安心感というのはある。
大きく分けて以下の3つ。
いのうえひでのり演出で上演される時代物。戦国時代モチーフや神話モチーフが多い。
ストーリーは人間の業的なものを中心に据えたものが多く、人がバンバン死にがち。
「髑髏城の七人」、「アテルイ」、「阿修羅城の瞳」、「蛮幽鬼」、「蒼の乱」、「偽義経冥界歌」など。
「Rシリーズ」が正式名称っぽい、ロックミュージカル色の強いもの。
ストーリー内容は割と多岐にわたる。
「五右衛門ロック」シリーズ、「SIROH」、「メタルマクベス」、「Vamp Bamboo Burn」など。
パロディネタが多い。3系統の中では劇団員の占める割合が多い(他シリーズは客演が多い)。
「轟天」シリーズ、「花の紅天狗」、「レッツゴー!忍法帖」、「月影花之丞大逆転」など。
ただどれもギャグシーンは多いし、歌の多い「いのうえ歌舞伎」もあるし時代物の「音もの」「ネタもの」もある。
演劇は高いだとか都市部でなければ見れないだとかと当たり前のように言う人もトラバに散見されるが、
劇団☆新感線に関して言えばゲキ×シネという全国映画館での上映を2004年から続けている。
実際の舞台の撮影ではあるが、何台も仕掛けたカメラによるカット割りがされており映画として見やすくなっている。
(知ってて当然という話ではないが、彼らの不断の努力を、「演劇」全般へのルサンチマン発露のために勝手に無に帰すのはあまりに勝手だなと思う)
なお、今は動画配信でかなり安価で観られるので下記に一部紹介しておく。
戦国時代の終わりかけ、死んだはずの信長の異名「第六天魔王」を名乗る男が現れたことによるあれこれ。
人情噺もつらい過去も凄惨な戦いも少年漫画的な展開もしょうもね~ギャグも、全部乗っけ盛りの濃厚さ。
脚本は座付き作家の中島かずきで、「グレンラガン」「キルラキル」「プロメア」なんかの脚本の人と思えばなんとなく近い。
1990年の初演以来7年ごとに再演し、役者や演出を大きく変えている。
初期は主人公の「捨之介」と悪役の「天魔王」の一人二役の演じ分けがみどころだったが、2011年の上演版以降はその二人を別人が演じることも増えた。
その代わり、「無界屋蘭兵衛」というキャラクターの注目度が高まっていて、
そのきっかけを作ったのはおそらく11年に蘭兵衛を演じた早乙女太一のあまりにも華麗な剣捌きだと思う。
配信で観れるのは2011年「ワカドクロ」と17~18年に連続上演した「花」「鳥」「風」「月」「極」。
個人的に好きなのは「鳥」で、森山未來と早乙女太一の身体能力オバケ二人による殺陣は鬼気迫るものがあるが、全体の流れから言うとキワモノなので2本目にお勧め。
いのうえ歌舞伎。「モンテ・クリスト伯」を翻案し、架空のアジア風世界を舞台にした復讐譚。
上川隆也演じる主人公が自分を落とし入れ親友を殺した相手に復讐する話で、ずっと怒りに目を見開いており怖い。
堺雅人は「ニコニコ顔の最強の暗殺者」という完全に漫画のキャラ立てなのだが、息をつかせぬストーリーの展開によりいつの間にか受け入れてしまう。
このころの中島かずきはこういうどうしようもない人の業により悲劇が加速するような話をやたらめったら書いているのだが、
その、己の業によりずたぼろになっていく人の描き方に容赦がない。
個人的に新感線にはまるきっかけとなった作品なので思い入れが深い。
あと、この作品により稲森いずみが大好きになった。舞台初出演とのことで慣れてはいなかったのだろうがあの細い体で舞台を圧する瞬間に目を奪われた。
音モノ。「五右衛門ロック」「薔薇とサムライ~五右衛門ロックⅡ」「ZIPANG PUNK~五右衛門ロックⅢ」の三部作。
古田新太演じる石川五右衛門が、どっかの島の危機を救ったり、スペインぽい国の危機を救ったり、帰ってきて宝探しをしたりする。
いのうえ歌舞伎的な陰惨さはある程度影を潜めているが、話は冷静に考えると割とヘビー。
ただ、どんなに悲惨な展開で善玉がひどい目に遭って悪者が高笑いしていても、最後に五右衛門かっこよく登場して何もかも解決するので最後はスカっとして終る。
「新感線の看板役者・古田新太」というイメージの具現化みたいな作品だと思っている。決して二枚目ではなく飄々としていて最後に決める。
病名が被ることは別に気にしないが社会の中での生きづらさというのは確かに存在する。
これの嫌なところは、試験とか能力検査ではあまり引っかからない点。例えば俺はSPIとかは比較的高めにとれる。公務員試験とかの一般教養も苦手科目を集中的にやれば、地方クラスは結構突破しちゃう。クレペリンは何度もやったせいか一般人に擬態可能だった。
ただ日頃から感じているのは「極端な先送り癖」「一つのことへの強い執着、執着がなくなった際の虚脱状態」「他者とのコミュニケーションが常にどこかおかしい」「だろう癖」などがある。当然仕事はうまくいかない。人より優れている部分はどこかにあるのだろう。だけど基本的な事務作業があまり得意ではないしミスも当然多い。確認のし忘れや「だろう」で済ませてしまうことで問題になることは多々ある。相手が確認したはずだろうから〆切まで何も言われなければそのままにしてしまったり、自分がしたいことしかできなかったり。怒られてもそれは改善しない。
思えば小学生時代から挙動がおかしかった。精神年齢は常に他の人より3つは下。
小学生のとき、バイクのプラモを部活動で作っていたことがある。そういう自由な部活だった。だけど結局1年かかってもバイクは完成しなかった。説明書も読んで家でも試行錯誤していたのに。いまならわかるけど、手先が不器用と言うより根本的な作り方を理解していなかったんだろう。接着剤の使い方や部品の管理が全く出来ていなかった。単純なことに気を配れない。自分がそうだと思ったこと以外が目に入っていない。
あらゆる場面で、説明を受けているのに何も理解せずに自分勝手で場当たり的な行動をして、他の人が間違いを教えてくれていた。健康診断では胸部エックス線の撮影のやり方がわからず一人だけ別行動をしていた。郵便の仕組みを学ぶ授業では自分で勝手に手順を変えようとしていた。どの学年においても人の話を聞いて行動した記憶が薄い。常に自分がやりたいことを自分の判断で行っていた。
中学生はThe挙動不審。はからずも部長になったときは本当に酷い状態だった。周りからの信頼を無くして逃げるように部を去った。図書委員にしても他校との定例会で大いびきで寝ていたり、文化祭では異様に張り切ってしまい周りをドン引きさせていた。学年からの評価は「将来大物になりそう」だった。
常にどうしようもない人生である。人より羞恥心が薄いというか客観で自分を捉えられないせいか、他者とのコミュニケーションはいつもおかしい。大人になってもコミュニティ内でのトラブルメーカーである。正論で人を攻撃し、逆に攻撃もされる。追い出され逃げ出したコミュニティは数知れない。
そんな感じがいまも続いている。これは正直どうしようもない。一時期は薬を処方して貰っていたが大した効果はなかった。診断が間違っていたのかもわからない。
こんな推敲もへったくれもない文章書いているのは、徹夜あけの気分を紛らわすためなんだけどね。
俺はこの先、どうしたらいいんだろうか。
などという疑問を抱く時点で後れを取っているのだ。
自分語りをさせてもらうと、僕は幼稚園の頃から勉強ができたので、親族や先生や同級生からとてもとてもちやほやされた(客観的に見てどうだったかは知らん)。幼いころから勉強ができることのメリットを感じまくっていたので、勉強の価値を疑うということが無かった。勉強ができること、すなわち頭が良いことこそ至上の価値があるという一種の信仰を持っていた。刷り込まれていた、と言ってもいい。
それを刷り込んだのは教育に命がけだった母の影響が大きく、情緒不安定なところのある彼女は、普段は聖母のような包容力を示すことがある一方で、息子が勉強を疎かにすると神罰を下すのだった。小1の頃、「三角形の内角の和は180度なんだね~」と無邪気に告げたところ(褒められると思ってた)、「なんでそんなことも知らなかったの!」と、叱声とともに回し蹴りされたことは今でも根に持っている。
なんて書くと毒親!と思われそうだけど、普段は別に高圧的でもないし話もしっかり聞いてくれるしで良い人だったと思う。ただ本当に情緒不安定というか癇癪持ちだったので、飲食店での喫煙は当たり前だった当時に、隣席の喫煙者に喧嘩売って出禁になった、なんてこともある。突発的に他人に喧嘩を吹っ掛けることがままあり、子供としては気が気ではなかった。ただ、その怒りも母が隠していた病気によるものでもあったのだろう。病状が悪化してついに隠せなくなっても「受験が終わるまでは」と病院に行くのを渋り、父に強制連行されてはじめて末期癌だと分かった。母は教育に命がけだったのだと、心から思う。女子の大学進学率が20パーセントを切り、女性は勉強なんてしなくてもいいと言われていた時代に、母はその風潮を押し切って田舎から上京し、東京理科大学に進学した。両親は小卒、上二人の兄は高卒なので、突然変異の様相がある。
母の話が長くなったが、ともあれ勉強のできる層というものは、そもそも勉強の価値には疑問を抱かないものではないだろうか?もちろん面倒になってサボることはあるけれど、それは体に悪いと分かりつつ家系を食べるようなもので、勉強すべきという前提は疑いなくあるのである。疑問を抱く時点で後れを取っているというのはそういう意味だ。(なので僕の持論として、子供には就学前に漢字と九九を叩き込むことで、勉強できることで得られる優越感を早めに覚えさせることが重要)。
そのように当たり前に勉強をしていた層にとっては勉強する意義などそれこそ言うまでもないことだし、逆に意味などないという結論に至ることもまた自然だろう。
以上を踏まえて、そのうえで「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」への答えを考えてみたい。その際に大きく分けて、(1)勉強の価値が分からない人(2)勉強の価値自体は分かっている人、それぞれに向けた答えを用意すべきだろう。このうち(1)については書いててアホらしくなったので割愛する。一つだけ言うと、知見が広がるとか知らないことが分かるようになるとか人格が陶冶されるとかいった答えはビール飲めない人にキレやらコクやら説明するぐらい無意味。
重要なのは、そもそもの問い「なんで勉強しないといけないのか」は多義的だということ。
すなわち(1)「なんで勉強(なんてものを)しないといけないの?」(2)「なんで(こんな)勉強しないといけないの?」の二つ。
これは勉強そのものの存在意義に疑問を呈していることになるのだが、発問者が勉強の価値は分かっているという前提を踏まえると、「大切なのはわかってるけど生理的に無理」という状態である。こういう状態のときは発問者に勉強の楽しさに立ち返らせるか、あるいはもう休ませるほかない。
この問いに関しては、「こんな」の意味内容によってさらに二つに分けられる。「こんな」が勉強方法を指す場合と、勉強対象を指す場合とである。
前者の場合暗記が代表例だろう。暗記にうんざりして勉強が嫌になるというのは一般的だと思う。それに対し僕なりに思うのは、九九を覚えていなくて計算できるか?単語を覚えてなくて文章読めるか?年号覚えてなくて歴史の流れ分かるか?ということ。数学の公式なんかがいちばん分かりやすいけど、暗記は発展的応用的な問題に取り組む際の補助ツールなわけで、全部一瞬で足し算出来たり文脈からあるいは語形成から意味を正確に読み解けるような天才でもないなら寧ろ感謝するべき。全く勉強方法というものは凡人でもなんとかついていけるように先人が遺してくれた財産なわけで、そのありがたみをかみしめましょう。
最後に後者。代表例はよく槍玉にあがる古文漢文。僕は古文漢文大好きなので、純粋に読んでて楽しいとか、一般教養としてとか言いたくもなるけど、まあ不要だと思うならやらなくてもいいんじゃない?友人に古文漢文を一切勉強せず東大行った奴いるし。ただ彼は数学と化学が河合偏差70超えてるような人間だったけど。ちなみに今になってやっとけばよかったと勉強している。
結局ずば抜けた能力のある人間なら、古文漢文やらなくていいし暗記にも頼らなくていいし、あるいは家柄が凄ければ内閣が立法府だと思っているような馬鹿でも総理大臣になれるわけだし、勉強なんてしなくても良いと思うんだけど、家柄が並みで親が資本家でもなくスポーツや芸術の才能も無くずば抜けた頭脳も無い凡人にとって救いになるのは勉強だよねってだけの話だった。