はてなキーワード: 羽生善治とは
→単なる息抜きなら何も問題ない。不正があったかどうかは、スマホやPCを提出して一切洗い出せばそれで済む。
→しかし、疑いをかけられた時点で棋士人生にはかなりの影響が出る。
→この疑惑が解決しない限り延焼し続けるが、未だに有効な調査結果は出ていない。
→「不正疑惑のある棋士とは、タイトルを奪われてもいいから、対局したくない」が発言のすべて。
→三浦九段に処分を科すように求めたというのは、その発言の印象からの解釈でしかない。
→連盟が科した処分に、渡辺竜王は一切責任を負える立場にない。
→棋士同士が三浦九段について話し合う場に「将棋ソフトに詳しいから」として呼ばれていた。
上記の「話し合い」の裏でバックギャモンをしていた森内九段か?
兎角世間の人々はリテラシーがないので「ソフトとの一致率が高い」という情報だけで不正疑惑を鵜吞みにする。
それなら対局室から出ていなくとも不正が可能である。スマホを使わなくても可能である。将棋が強ければ。
「離席したタイミングと指し手で判断せよ」という頭の弱い人もいる。離席したら最善手を諦めねばならないのか?
蓋然性を問題にするなら、白黒で語るのはやめて、連盟側の対応は十分か、そちらに頭を使えばいい話だ。
「1億%クロだと思う」と発言した後、「三浦九段を黒と断定したことはない」と発言を翻している。
じゃあ今回一番悪いやつは誰だったのか?橋本をはじめとする、ネットやテレビで印象だけで語りまくる無知蒙昧の人々である。
最近では陰謀論めいた話までネット記事や週刊誌に掲載されている。
証拠がなければ白黒つけられないのは我々も同じなのだから、大人しく黙っていればいいのだ。
信じたいものを信じ、語りたいだけ語る前に、その発言が誰を苦しめているのか少しは考えればいいのだ。
お陰でアヒルアカウントもお休みしてしまって、神のご様子が分からない。まことに残念だ。
田丸九段なんか自分の引退記事の後半ずっと三浦九段の話しなくちゃいけなかったんだぞ?
憶測で語ってはいけない。それをどっかに書いた時点で、証拠もなく疑っているのと同じだ。
僕にはこの問題がどこで決着するのか分からないが、お前らにも分からないのだから、黙っていればいい。
それぐらいはわかる。
「竜王戦が始まってから疑惑が公になれば、シリーズは中断される可能性が高いと考えました。
それだけでなく、タイトル戦を開催する各新聞社が“不正”を理由にスポンサー料の引き下げや、
タイトル戦の中止を決めたら連盟自体の存続さえも危うくなると思ったのです。
そんななかで最悪のシナリオは『疑惑を知りながら隠していたという事が発覚する事だ』と判断しました」
10月7日、渡辺竜王は日本将棋連盟理事の島朗九段(53)に事情を説明。
それを受けて10月10日に羽生善治三冠(46)、佐藤天彦名人(28)、
将棋連盟会長の谷川浩司九段(54)らトップ棋士7人が集まり“極秘会合”が開かれた。
渡辺竜王から説明を受けた出席者たちからは「99.9%やってますね」という意見も出て、“シロ”を主張する棋士はいなかった。
その翌日、将棋連盟の「常務会」による三浦九段のヒアリングが行われ、
同様の例としては皆無。それはそうで、負けても対局料が手に入るのにそれをみすみす捨てる馬鹿はいない。
ただ、寝坊やスケジュール管理のミスといった過失による対局放棄はある。
近年の例で言うと、2010年に郷田真隆九段(現・王将、タイトル通算6期の超一流棋士。9月に公開対局での二歩で話題になった)が寝坊で竜王戦の予選を不戦敗になった。
この際の郷田に対する処分は1.対局料の不払い、2.竜王戦参稼手当100万円の半額を返納、3.ファンへの奉仕活動1日 だった。
類似の例としては、日本将棋連盟の分裂寸前にまで至った「陣屋事件」というのがある。
1952年2月に行われたタイトル戦の王将戦第6局で、挑戦者の升田幸三八段が会場となった神奈川県弦巻温泉の旅館「陣屋」に到着したが、「玄関のベルを押したが誰も出てこなかった」ことに腹を立てた、と言って対局を拒否、第6局が不開催になったということがある(ただし当時陣屋の玄関にベルはついておらず、これは枡田の虚言。これをきっかけに陣屋は、玄関に呼び出しのための陣太鼓を置くようになって、陣屋名物となっている。また升田は陣屋に向かわず秦野温泉の別の旅館に籠って対局を促しに来た関係者にも会っているので、過失ではなく明確な故意による対局拒否)。
事の真相は明らかになってないが、将棋界の間ではまず間違いなく以下の理由だったと言われている。
王将戦は当時から現在に至るまで七番勝負で四勝先取したほうが勝ちというシステムだが、この当時はどちらかが四勝以上してもさらに継続する、というシステムだった。そして決着がついた後の対局は、シリーズに勝ったほうが負けた方に対して自分の駒(香車)を落とすハンデをつけて指すことになっていた。このシリーズは第5局までに升田が木村義雄名人に4勝1敗で勝利を決めており、この第6局は升田が木村に対して香車を落とすことになっていた。
名人というタイトルの重みは現在でも特別だが、この当時はそれにも増して大きいものだった。単に将棋界最強というだけではない、ある種の宗教的な権威があるものと言っていい。その名人が、対戦相手に香車を落としてもらうなどということは、名人の品格を著しく傷つけるもので、いかにルールとはいえ誰も見たくない(この感覚は、羽生善治がコンピュータ将棋に角を落としてもらって対局する、という場面を想像してもらえばいいかと思う。対局に関係ない第三者でさえ屈辱を感じるというようなものだ)。もちろん王将戦が始まる前、この事態は当然予想されていて、香車を落とすことに強く反対していたのが升田、一方で「名人が第7局を迎える前にシリーズに負けることはない」と言ったのが当の木村義雄名人で、木村の一声で沙汰止みになってしまった(昔から今に至るまで、将棋界というのは将棋の強い側の声が通るのだ。そして当の本人がこのようにその報いを受けてしまう)。升田は「将棋を守る」ために、バレバレの嘘をついて対局を拒否したのだろう、と思われている。
真意はさておき、タイトル戦を故意にすっぽかしたことには変わりないからこれは一大事で、当初将棋連盟は升田を一年間の出場停止処分にしようとした。これは現代の目から見ても重さとしては妥当だと思う。ただ、日本将棋連盟は関東と関西の将棋指しの団体が合一してできたという経緯があり、東西の対立まではいかずとも派閥意識というのは当時強かった。関西の棋士である升田への処分に対しては関西の棋士たちが反発し、すわ東西分裂か?という事態になった。最終的には木村名人の一存に委ねられ、升田は一切お咎めなし、という結末になった。
タイトル獲得経験者(通算1期)。羽生善治七冠王を崩した棋士である。
顔つきは朴訥とした雰囲気が有るかもしれない。野武士という異名をとったこともある。なぜかニコ生で人気(だった?)。
ソフト指しが疑われているA級順位戦の三浦ー渡辺戦は角換わりの序盤早々にポンと▲4五桂を跳ねる将棋であった。前例はあって無いようなもの。話題になったお陰で棋譜は検索すれば簡単に見つかる。ちなみに将棋の棋譜に著作権は無い。素人目にはこの桂馬は、後手が△4四歩と伸ばせば簡単に取れそうである。プロから見てもそうであったらしく、順位戦の渡辺はそう指した。その後は後手は期待通りに桂馬を取り、引き換えに先手は馬を作り2歩を得た。以降は10手ほど穏やかに進み、先手が戦端を開き一気に後手陣を攻め潰した。馬と歩得の時点で形勢は先手が良かったようだ。実際、今日の竜王戦第一局(対丸山九段)で渡辺はほぼ同局面から△4四歩を見送り、ponanzaはこの選択をそんなに悪くないと評価した。
三浦の▲4五桂にはソフトによる研究が伺える。駒損して歩得と馬を主張するところがソフトっぽいと言われる。同時に三浦の棋風も伺える。端的に言えば研究将棋とはハメ手であり、毒饅頭を目の前にチラつかせる将棋なのだ。渡辺はまんまと引っかかり、自然と思われる桂取りの△4四歩からほぼ一直線の流れで、気づけば形勢を損なった。
行方尚史八段は三浦を表して「局地戦になると異常に力を発揮する人」「狭いところでの三浦君の計算力はすごい」と評した*1。一見して選択肢の狭い局面に誘導し、そこで相手を罠に嵌め、自身の計算力を頼りに仕留めるのが得意である、というわけだ。そして三浦はこの棋風を維持するために、自身の研究に加えて他の棋士の研究をも吸い出してきた。圧倒的な研究量が三浦のウリなのだ。
第68期名人戦(2010年)において三浦は羽生善治名人(当時)に挑戦した。梅田望夫「羽生善治と現代」ではこのシリーズの第二局を通じて、三浦の棋風すなわち研究将棋の極北について論じている。三浦はここでも羽生相手に罠を仕掛けた。当時流行の横歩取り8五飛戦法の、その最新型に一撃必殺の罠を仕掛けた、のだが、この罠は関西有力若手棋士(行方は豊島将之現七段か糸谷哲郎現八段か、誰かは知らないが、と言う)を二晩ホテルに缶詰にして聞き出した研究の成果であると言われる。
自分が出席しない研究会の成果をその日の夜に電話で聞き出したりもする。後日有力棋士に公に批判された。
三浦の将棋脳の特性と、それを活かせる狭く罠を仕掛けやすい展開を収集する研究力・人脈、これによって三浦はトップ棋士たりえた。
近年ではソフトが鬼強いので、誰でも棋力に関係なく高度な研究ができるハズだ。では三浦の強みが無くなったかというとさにあらず。現に順位戦で渡辺は三浦の研究手▲4五桂に対応できず、自然な手に乗って形勢を損ねた。プロより強いソフトが行き渡った現代でも、三浦の研究力は存分に発揮されている。
つまりカンニングしなくても、三浦は十分強い。序盤は優秀な研究があるので仮にカンニングするとしたら中終盤だが、この将棋は優勢な局面から一方的な攻め将棋で終わった。カンニングが必要とは、個人的には思えない。
ちなみに羽生との第68期名人戦、三浦は4タコで無残に敗退した。形勢良しの将棋を勝ちきれず、善悪不明の将棋を手品のように負けた。
第二局で羽生は三浦の罠を看破し、三浦の研究の隙の隙を掻い潜り、見事勝利した。
中学生でプロになった。20歳で棋界最高峰の竜王を取った。タイトル通算17期、史上初の永世竜王資格保持者。名人挑戦者に未だなれない。
生え際は若くして後退した。歯に衣着せぬ実直な物言いも人気。
自玉を固めて細い攻めを繋げて一方的に殴るのが一般に渡辺っぽいとされるが、最近はどんな将棋でも単純に強い。
研究家。ソフトを使用しているがソフトの評価値はあんまり重用していないとも語る*2。
渡辺は単純に強い棋士である。2000年以降、渡辺は将棋界のトップ3以上の実力者でありつづけた。研究家であっても、三浦のような極端さは無い。
人望の厚さが伺われるエピソードも多い。佐藤天彦新名人にも慕われている。
渡辺は正義と公正の棋士である。ゆえに、三浦の若手搾取が許せないらしい。村山慈明現七段から三浦に電話で研究会の成果を根掘り葉掘り何時間も訊かれたと愚痴られた渡辺は、NHK将棋講座誌上で三浦を名指しで、質問三羽烏として痛烈に批判した。
とばっちりを受けた残り二羽の烏は深浦康市九段と丸山忠久九段である。深浦は「羽生善治と現代」にて三浦の研究将棋を擁護し、丸山は今回の将棋連盟の決定に不服ととれるコメントを出した。前述の通り、丸山ー渡辺で開幕した今期竜王戦第一局の序盤は、件のA級順位戦三浦ー渡辺戦とほぼ同じ将棋であった。丸山の意趣返しであるが、渡辺の対策が良く封じ手時点では丸山苦戦の模様。
三浦のカンニング疑惑の聞き取りに、渡辺は理事に混じって同席した。
5人前後の三浦に負かされたと推察される棋士が三浦を告発したという。根拠はつまりプロの直感である。正義の棋士渡辺は告発者の一人であり、卑劣なカンニングを許せず、またタイトル戦の直接の対決者であるから、聞き取りに同席したのだろう。
聞き取りは聞き取りだけで終わり、証拠は一切示されないが、あるともないとも知れない。
三浦からしたら、タイトル戦の直前にタイトルホルダーが連盟を味方につけて、盤外戦術を仕掛けてきたようなものである。
三浦がカンニングしていたのなら、怖くて大舞台には出れないだろう。
三浦がカンニングしていなくても、怖くて大舞台には出れないだろう。
つまり三浦相手に連敗中の渡辺が三浦を竜王戦欠場に追いやったとも言える。
まさしく陣屋事件に勝るとも劣らぬ怪奇事件。なんと命名したらよいだろうか。
どうも、id:BigHopeClasicです。
本当はこんな内容、自分ではてなブログに投稿したほうが見た目もきれいになるしいいんでしょうが、持続できないブログを作るのも気後れするので、増田を使います。
さて、掲題の件、はびこりそうな誤解がいくつかありそうなのが将棋ファンとして気になったので書こうと思ったものです。
「日本将棋連盟が三浦九段に対して、カンニングをしていないという悪魔の証明を求めた」
としか解釈できません。つまり、将棋連盟は三浦九段に対して、決定的な物証などを何一つ押さえないまま
この点については続報を待つ必要がありますが、あくまでも現段階での私個人の感想としては
「下策中の下策、愚の骨頂」
なるほど確かに、三浦九段が疑わしいとする複数の棋士からの申し立てはあったのでしょう。
連盟がそれを黙殺すれば、その疑惑が文春砲などで火を噴いた可能性も否定できません。
しかしながら、決定的な物証がなければ、いくら週刊誌が書きたてようが大きなダメージにはならないのは日本相撲協会と週刊ポスト、週刊現代の顛末を見れば明らかです。
大相撲八百長問題が警察からの情報提供で明らかになる前、週刊ポストは30年にわたって角界の八百長を告発する記事を書き続けてきましたが、その内容は元力士らの極めて具体的かつ迫真性のある証言に基づくものとはいえ、決定的な物証をおさえたものではなく、大相撲はそれによってはなんら決定的ダメージを負うことはありませんでした。
週刊ポストに対しては、日本相撲協会は徹底的に無視をし続けることで対応したのです。
また、週刊現代の八百長報道に関しては相撲協会と各力士は、週刊ポストとの対応とは一転して大量の名誉毀損訴訟を起こしそのことごとくに勝訴しています(週刊現代の八百長報道は週刊ポストと比較してもあまりにお粗末だった)。
日本将棋連盟は、こうした大相撲の八百長問題におけるリスクの評価と対策から何も学ぶことなく、あくまでも現段階の報道に基づくところからは、およそ愚劣な対応をしたと言わざるを得ません。
さて、上記とは別にこの問題が深刻なのは、自宅にあるパソコンを遠隔操作するまでもなく、2016年7月におけるスマホ将棋アプリの棋力は、渡辺明竜王、佐藤天彦名人、羽生善治三冠といったトップ棋士の棋力をすでに上回っているという有力な推測があるからにほかなりません。
「対局室へのスマホを含む電子機器の持ち込み禁止、昼食休憩時における将棋会館外への外出禁止」
を定め、これに違反したものは除名を含む厳しい処分を課すことを決め、さらに今週末から開幕する竜王戦では、対局者に対し対局前に金属探知機で持ち物チェックをするという対応を決めていたわけです。
(新聞報道ではこの金属探知機での調査については渡辺竜王、三浦挑戦者双方の同意の下とされています)
(なお、上記のルールは12月中旬から適用とある通り、仮にこの時点で将棋連盟が不正に関する動かぬ物証をつかんでいたとしても、それを三浦九段に対して遡及適用できないことは当然です)
この件を報じた朝日新聞の記事についていたブコメからいくつか代表的な反応を取り上げます。
b:id:temtex 仮に事実としてもだ、たかがスマホアプリでどうにかなるものなのか…と思ったら、別のとこで走らせたソフトの結果さえ判れば良いのか(但し"スマホ搭載"と記事にはある)。プロに勝てる有力なソフトってどんなの?
b:id:namnchichi スマホのアプリでタイトル取れるのか?
b:id:symbioticworm 現時点でスマホで走らせられる将棋ソフトなんてたかが知れてるから、不正があったとすれば外部との通信が必要なはずだけど。現段階では情報が少なすぎる……。
b:id:buu さすがにスマホ搭載のアプリじゃ参考にならないだろうが、協力者と連携すればカンニングは可能だろう。人間よりもソフトが強くなるとどういう将棋界になるのかと興味深かったのだが、こうきたか。
b:id:kaitoster 『対局中、スマートフォンなどに搭載された将棋ソフトを使って不正をした疑い』←スマホの将棋ゲームすでにプロのタイトルホルダーより強いソフトあるのかな?
なるほど、確かにプロ棋士とコンピュータ将棋が戦う電王戦ではコンピュータ将棋が大きく勝ち越しているとは言え、最新の事情を詳しくご存知でなければ上記のような反応は出てくるのが自然かもしれません。また、今回の当事者である三浦九段が電王戦に出場した際の対戦相手が、東大駒場の情報基盤センターの学生用iMac680台をクラスタリングしたGPS将棋であったことも、上記のような反応につながるかもしれません。そこで、これらの誤解を解消するため、コンピュータ将棋の現況について説明したいと思います。
まず、上記の三浦vsGPS将棋が行われて以降、ドワンゴ主催の電王戦では使用されるCPUが制限されています。この制限に基づき電王戦で使われたCPUは、2014年がcorei7 4960X(6コア12スレッド)、2015年がcorei7 5960X(8コア16スレッド)とここまではその時点で調達可能なcorei7シリーズのエクストリームエディションを使用していますが、今年2016年は世代こそ最新のskylakeとなったものの4コア8スレッドのcore i7 6700K、そして来年2017年の使用CPUは同じく4コア8スレッドのcorei7 6700と、使用するハードウェアの性能は年ごとに抑制されるフェーズに入りました。
ではそれによってコンピュータ将棋のパフォーマンスの伸びに制約がかかっているかというと、全くそんなことはありません。将棋ソフトponanzaの開発者の山本一成さんは、2016年電王戦開幕前に「corei7 6700K1台で動くponanzaは、iMac680台をクラスタリングしたGPS将棋より遥かに強くなった」と宣言しています。これは根拠のないことではありません。
現在フリーで入手できる将棋ソフトについては、有志が統計的に有意な手法を用いてその相互間の強さをeloレーティングを用いて計測しています。その一例として、こちらのウェブサイトがあります。eloレーティングの仕組みについては[wikipedia:イロレーティング]を参考にしていただくとして、目安としてはレート上位から見て下位に100差あれば期待勝率64%、以下同じく200差で75%、300差で85%、400差で91%、500差で95%、600差で97%、となります。
ponanzaはフリーで公開されていないため、上記のウェブサイトにはレートは計算されていません。しかし、2016年に電王戦に出場したponanzaは、このウェブサイトで「Apery twig」として掲載されているソフトに対し勝率97%を上げていることが、電王戦に出場した山崎隆之八段をサポートした千田翔太五段の調査によりわかっています。つまりこのponanzaのレートは「Apery twig」の3250に600を足した3850前後であろうと推定できます(なお、上記のサイトで検証に用いているハードウェアはIvybridgeおよびskylake世代の4コア8スレッドメモリ16GBであり、これは2016年電王戦における使用ハードと大きな差はありません)。
一方、2013年に電王戦に出場して三浦九段と対戦したGPS将棋は、この表に掲載されているGPSFish(レート2879)をスレーヴとしてこれを680台クラスタリングしたものでした(厳密に言えば電王戦に出場したGPSfishはこれより一つ前のエディションですが大きな棋力向上はないものと仮定します)。この680台クラスタリングした際の棋力向上幅については、GPS将棋開発チームの田中哲朗東大准教授が、根拠は全く無く経験に基づく推測にすぎないとしながらもレートにして400程度と語っており、これを採用します。
そうすると2013年電王戦のGPS将棋の推定レートは3279となり、2016年電王戦ponanzaとのレート差はおよそ570、ponanzaから見た期待勝率は96%となります。わずか3年の間に、コンピュータ将棋は1台のデスクトップPCで、680台のパソコンをクラスタリングした将棋システムに96%勝利する成長を遂げたのです。
(なお、コンピュータ将棋がかくも異常な速度で成長したのは、ドワンゴが電王戦において「使用ハードウェアの制限」と「提出後対局まで6ヶ月間一切のアップデート不可その間棋士は研究し放題」という条件をつけてしまったからだと考えています。こんな条件をつけなければ開発者はここまでしゃかりきに強化はしなかったはずです。ドワンゴがコンピュータ将棋の大会に出してる優勝賞金の300万円なんて開発費の元手にもなりゃしないし、強いコンピュータ将棋を作ったって売り物にはならないので、モティベーションはこんな厳しい条件のもとで恥をかかないためにはひたすら強くするしかない、ってとこだけなんですから)
もうひとつ、これらの将棋ソフトとプロ棋士の強さの関係はどうなのだということも前提として必要になります。まず、プロ棋士のレーティングについては、こちらのウェブサイトが現在最も信頼され参考にされています。eloレーティングは、基準となる値を何点に設定するかで絶対値はいくらにでも設定できますが、上記の点差と期待勝率の関係は基準値を何点にしようが変わらないので、異なる基準値をとる異なるレート表間での比較が可能になります。
さて、コンピュータ将棋の公開対局場として、GPS将棋の開発チームが開設しているfloodgateというサイトがあります。ここでも参加者の対戦成績に基づいてレーティングが計測されています。また、この対局場は、コンピュータ将棋だけでなく人間も参加することができます。このfloodgateに、一時期上記の千田五段が参戦されていました。その際に記録されたレートは2800ほどでした。千田五段が参戦されていた時期のプロ棋士レーティングにおける数値と、その当時の羽生三冠との数値の比較から、羽生三冠がfloodgateに参戦した場合の予測されるレートは3000から3100程度だろうと見込まれています。また、先に紹介したコンピュータ将棋レーティングサイトのレートは、floodgateのレートの数値と大きく変わらないようにする工夫がされています。なお、羽生三冠のここ数年のプロ棋士レーティングは時期による前後はあれど概ね1900プラスマイナス50程度であり、佐藤天彦名人や渡辺竜王の棋力もほぼこの幅に安定していて、現時点ではこの3人が名実ともにほぼ拮抗した最高レベルの棋力といえます。
ここから考えた際に、2016年電王戦ponanzaと羽生天彦渡辺といったトップ棋士の棋力差はおよそレート差800、ponanzaの期待勝率は99%超、という推測になります。第2期叡王戦本戦PVで千田五段が、羽生のponanzaに対する勝率を0.5%と仮定しているのは、まずこの推測に基づくものと考えて相違ないでしょう。もちろんすべての基準となるfloodgateでの千田五段の数値は、普通のプロ棋士の公式戦ではありえない短い持ち時間の下で行われたものであるため、実際の羽生とponanzaの実力差はこの通りではない、という反論は容易ですが、そもそも持ち時間が9時間に増えたからと言ってレート800の差は埋まるものではなく、コンピュータ将棋も持ち時間を長くすればそれだけ強くなることを考慮すれば本質的な議論とは言い難いでしょう。
ここまで長い前置きを置かないと、なかなかこの本題に説得力が出ないと思いましたが、いよいよここからが現在のスマホ将棋アプリの話題です。
これだけ強くなったコンピュータ将棋ではありますが、これまでは基本的にパソコン上で動かすものでした。スマホ用の将棋アプリも多数出てはいましたが、プロ棋士の最上位に匹敵すると見られているものはありませんでした。
ところが今年の7月、android用の将棋アプリとしてshogidroidがリリースされます。これ自体は将棋ソフトのGUIであって思考エンジンはないのですが、このshogidroidの売りは、今年の6月に一般公開された当時の最強フリー将棋ソフト「技巧」をandroidスマホの上で動かせるようにしたことでした。技巧の強さは先のコンピュータ将棋レーティングサイトで4コア8スレッドで動かした際に3578。ponanzaの3850には及ばないとは言え、今年6月当時ではponanzaに次ぐ2番めに強いソフトで、人間から見れば驚異的な棋力です。
もちろん、この技巧といえど、その棋力がCPUの能力に依存することは言うまでもありません。しかし、スマホも今日日クァッドコアは当たり前、Huawei P9のようにオクタコアを搭載してGeekbenchを用いたベンチマークテストで高い数値を出すスマホもある時代です。第4回将棋電王トーナメントで3位になったやねうら王の開発者で、皆様もよくご存知のやねうらおさんは、2016年9月時点のハイスペックのスマホに、一切のスマホ用のチューニングを行わずに思考エンジンを搭載しても、レートの落ち幅は400程度と推定しています。この推定を当てはめて技巧をshogidroidで動かした時のレートを推定すると3178。やはり羽生天彦渡辺を上回っていることになります。実際にはもちろんやってみないとわかりませんが、あくまでも推測上では、すでに電王戦はプロ棋士対スマホで十分に成立し、それでもプロ棋士の分が悪いことが予測される段階に突入しているのです。
※ちなみに、先の電王トーナメントで優勝し来年の電王戦に出場する最新のponanzaは、今年の電王戦に出場するponanzaに9割勝つとの開発者山本さんの発言がありました。これを信じるならponanzaのレートは4200となり、スマホに積んでも3800で、やはり羽生三冠の期待勝率は1%に満たないことになります。
これが2016年10月における、スマホで動かすコンピュータ将棋の現状になります。恐ろしいことには、shogidroidは無料のアプリであり、その思考エンジンの技巧もフリーウェア。それを最高スペックで動かすHuawei P9は54000円で買える、というところにあります。この状況をどう考えるかは皆様のご想像におまかせします。
さて、お気づきの方もいるかもしれませんが、疑われた三浦九段の棋譜をソフトで検証してみれば白黒はっきりするのでは?と思われるかもしれません。しかしそれは極めて困難であると申し上げましょう。
まず、Shogidroidの上で動かせるソフトは技巧に限りません。その他のソフトも動かすことが可能です。次に、同じ将棋ソフトであっても、ある局面を検討させたときに導く最善手は、CPUの性能や検討させる時間によって異なります。そもそも将棋ソフトにはある特定の局面において常に同じ結果とならないよう検討においては乱数も使用されており、一局の将棋の棋譜からではその人がカンニングしたかを導くのは容易ではありません。
さらに、将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームである以上、ある局面における最善解というのが必ず存在します。ということは、その最善解を自力で導いたかカンニングしたかの区別は、着手から「だけ」では判定できないことになります。
以上の理由から、カンニングしたか否かの実験を第三者が行っても、その結果についてはいくらでも疑義をつけることができ、有効ではないと言えましょう。
知ってたけど一度も読んだことなかった
秋に松山ケンイチで映画公開されるらしいの知って、図書館で借りづらくなる前に借りて読んだ
1章の100ページ足らず読んだ段階では、下手なフィクションより面白くて描写もマンガチックでリアルヒカ碁かよwwwと思ってすっごくワクワクした
でも芝居がかりすぎっぽい部分はあって違和感はあった
残りの大半は下手なパッチワークって感じのドキュメンタリーになってイマイチだった
作者の勝手な想像とドキュメンタリー部分の区別がいまいちついてないことが多いように感じられて、誇張しすぎじゃないの?勝手に決めつけすぎじゃないの?って思うことが結構あった
あとこれがすごいみたいな棋譜のちょっとした解説もあったけどさすがにそこは将棋わからない自分にはまったくわかんなかたから飛ばした
でも3時間ちょいほぼ読み飛ばさずに一冊一気に読み切らせる熱量はあった
さいごでいきなりビートルズのストロベリー・フィールズ・フォーエバーを引き合いに出してきたのはちょっとどうかと思った
これ読むと将棋ほぼ知らんに等しい自分でも名前知ってる羽生善治がどんだけすごいかが改めてわかった
期待しすぎてたのもあると思うけど、ぶっちゃけWikipediaで事前に読んでた分だけで十分だったなあ
全然違う。
増田ができてないのは「相手の立場に立って考える」ことだ。単に「提案」とか「受動・能動」とかいうものとは違う。別に受動的だけど相手の立場に立てるという人間は山ほどいる。
増田自身は「自分はできてる」と思っているだろうが、増田の思う「相手の立場に立って考える」は全然相手の立場に立てていないので、客観的には全くできていないことになる。
たぶんだけど、これはもう病気みたいなもので、増田には本質的にできないことなんじゃないかという感じがする。
例えるなら色盲みたいなもので、そもそも必要な錐体細胞を持っていないため赤と紫が区別できない人にその違いを言葉でどう説明しても絶対に実感できないことと同じ。
できないことがあるのは仕方が無い。多くの人間はできないことがある。普通の人がどう努力しても羽生善治にはなれないのと同じだ。
残念ながらその彼女は「相手の立場に立って考えられる人間」を求めているタイプなので、これが正しければ増田とは絶対に相容れない。
別に相手の立場に立って考えられることや共感性を求めず役割に従ってくれさえすればそれでいい、という人は(増田のように)存在するので、そういう相手を探すことだ。
感想なら、クソを素晴らしい香りと言おうが白地図に対して白い!と文句をつけようが自由だ。
だが、「進撃の巨人」と「Mad Max: Fury Road」を並べて批評するのは、適切だろうか?
クソリプ、という言葉がある。便利かつ端的だ。
例えば、最近の映画だと『ドラゴンボールZ 復活の「F」』がある。
「フリーザの進化形でゴールデンフリーザってダセえ!子供か!」と言うのはクソリプだろう。
作品の質を「進撃の巨人」と比較するなら、「スポンジ・ボブ 海のみんなが世界を救Woo!」とかのハズだ。
「フィニアスとファーブ ザ・ムービー」と「映画けいおん!」を比較してはいけないのだ。
どちらが偉いとか、どちらの方が優れていると言う意味では無く、分類が違うのだ。
同じ図鑑に載っていない。動物園なら違うコーナーに展示されているのだ。
似ていても「パシフィック・リム」と「巨神兵東京に現わる」を比較するのは違うというのは判るだろう。
同じように「Mad Max: Fury Road」と「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の比較もナンセンスだ。
羽生善治と町内一将棋に強い八百屋の親父の打ち筋を比べるような、傲慢でかつ無意味な比較だ。
なぜ、「ローレライ」や「日本沈没」での実績がある樋口真嗣監督を、
音痴だがタップダンスの上手いペンギンがタップでペンギンの世界を救うという
愛らしくもマッドさとは無縁な「ハッピー フィート」でアカデミーまで取ったジョージ・ミラーと比べるのだ。
(ペンギンで稼いで世紀末映画撮れるって小躍りするジョージもジョージだが)
「パシフィック・リム」は、全世界でこそ400億だが、日本に限ればわずかに15億の興行収入だった。
つまり、広報宣伝にテレビが大きく絡むキャスティングや出資者の納得するシナリオ必須など、
魑魅魍魎の跋扈する邦画界において稼げる稀有な監督が、樋口真嗣なのだ。
その意味で、「みんなの感想は面白いけど批評としてはなんか違う」というのを言語化するきっかけになった
壁から出ることを拒んだ制作者たち 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN - 小覇王の徒然はてな別館が「ハンガー・ゲーム」や「メイズ・ランナー」をあげているのは、実に慧眼だと思う。
内気な女子高生とイケメン・バンパイヤが恋をする少女漫画のような「トワイライト」とか
高校生になると性格診断で中二病な名前のグループに振り分けられて争う「ダイバージェント」とか
様々な欲望をストレートに発散できなかった鬱屈を青臭さでコーティングしたようなヤングアダルト映画と比較すべきなのだ。
これを外すと、クソリプになってしまう。
大金庫の奥に女性たちを大事に保護し、同時にモノとして扱っていると端的に示すシーンや、
急な方向転換にもボスの意向を確認してから迅速に隊列を組み直すウォーボーイズや
轢くまいと同乗者を無視して咄嗟にハンドルを切るイモータン・ジョーの姿など、
アレだけ判りやすく演出しながら終始ハイテンションなマッドマックスとは違うジャンルの映画なのだ。
主要なキャスティングで、手堅くまとめている。
所属事務所の調整がエクストリームなのに、比較的演技派で固められている。
演技や配役に関しては、さほど文句は出ない(観た人が納得する)キャスティングと言える。
かつ、きちんとバラエティー出演やワイドショーで取り上げられやすい人を入れていて、広報的にも万全。
日本の映画は(洋画も邦画も)「テレビで宣伝→一斉に人が来て儲かる」という流れなので、
たまに演技の素人さんが入るのもご愛嬌なんだけど、そんなことはない手堅い布陣。
はてブは、ワリと「要旨全無視で1行だけにツッコム」という日本人(主語)の減点指向を振り返る場所だが、
「面白かったね!じゃ、ご飯食べてラブホ行こっか」みたいなカップルとか、
「カッコ良かったな!キモかったし!カラオケ行こうぜ!」みたいな高校生とか
「あのシーン泣ける~とツイートしたしファミレスにお茶行こ」みたいなグループとか、
ターゲットとなる観客たちにとって、本作は微妙なラインではある。
要らないエロがある。エロならエロ、重いシーンなら重いシーンと、きちんと分けないと観客が戸惑う。
また、主役級のキャラクターの動機がフラフラすると理解できずに置いてけぼりになる観客が多くなるので、
その意味で単純に「必要のないシーンが有る」「描きたいシーンを繋ぐシナリオが甘い」という残念な出来ではある。
矛盾するようだが、シーン優先、つまり場面やある瞬間の一連のお芝居だけを覚えて帰る観客は意外に多い。
機関銃ぶっ放して快感言っとけば客が喜ぶ時代から、人間さほど進歩してないとも言える。
特撮は流石に良い出来で、その点を見に行くのであれば問題はない。
ただし、ドラマパートは監督と脚本の思想によるものか、全体を通して複数人のレビューを受けてないお芝居に見える。
動機付け、感情の流れ、イベントと対応、演出、全てがパッチワークというよりは、ツギハギになっている。
クソリプ良くない。
例えばオーストラリアのゴア映画と、ハリウッドのマイケル・ベイ映画を比較しても意味は無い。
同じように「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」と「Mad Max: Fury Road」との比較もナンセンスだ。
キチンと適切な比較対象を持ってきた上で、クソな部分をクソだと言うのが、批評だ。
儲かる、だがしかし面白くはない。ハリウッド映画とは方向性が違う。
そういう実に邦画らしい邦画で、ちゃんと儲けて実績も残ると思う。
平成ゴジラとハリウッド2回めGODZILLAの中間みたいな。
個人的には、町山智浩が文句つけながら諫山創とヘッドギアに脚本書いてもらえば良かったと思う。もう遅いけど。
総評としては、「良いキャスティング」「演技は良い」「特撮は良い」「シナリオは悪い」「演出は悪い」。
演技が良い分、邦画の特撮映画としてはマシな方だと言える。まあ夏休みの中高生~若者向けだろう。
映画には様々な見方が存在するので、ハリウッド映画やフランス映画が優れているというわけではない。
映画館内で飲み食いして踊る社交場になっているインド事情的には、フルコーラスで踊りが入っている映画が良い映画だ。
(インドも南の方は保守的なのでそこまで騒ぐわけではないみたいだけど)
話題性をテレビで宣伝して人に来てもらって稼ぐ邦画が悪いとは言わないし、そういう方向性もあると思う。
ドニー・イェン仕込みのアクションを和風に落としこんで撮り切った谷垣健治だって、ワーナーからカネ引っ張る理由に「るろうに剣心」を使ったわけで。
好きな映画は見に行く、嫌いな映画は積極的に見に行かないを徹底しないと、いつまでたっても方向性変わらないぞ。
世の中カネ稼いだものが偉い。勝てば官軍負ければ賊軍。
宇宙の広さが無限であり、生命体の種別も無限に存在すると仮定するならば
光源となる恒星も無限に存在するため、宇宙空間に無限の明るさがなければならない
しかし、実際の宇宙空間は近隣の恒星によって照らされなければ到底明るいとは言えない状態であり
宇宙空間に無限の恒星は存在しないと考えられるため、宇宙の広さは有限であり、生命体の種別も無限ではないと考えられる
よって他の生命体に現代の将棋と同一ルールで行われる競技が発生している確率は極めて低く
また、現代の将棋のルールとして駒一つの動きが異なるだけでも定石等は大きく異なると考えられるため
ルールは全くの同一でなければ意味はなさないだろうことから、羽生善治が現代の将棋における宇宙最強は揺るがし難いと結論づける
2月8日に西武ドームで行われたリアル車将棋のニコ生タイムシフトを見終えた。言わずと知れた羽生善治四冠と新進気鋭の豊島将之七段が対局したのだが、まず場所が野球場であること、対局者はそれぞれ4時間の持ち時間を持つが、普段の対局とは異なり時間切れの場合秒読み勝負とはならずその時点で負けとなること、また直接対面せずに一塁側、三塁側に設営されたテントの中で考慮し、マイクで指し手の宣言を行い、そしてそれを合図にドライバー達がグラウンドへ駆け出し、でかでかと描かれた「将棋盤」上に配置された「駒」である車に乗り込んで目的の場所へと移動することで対局を進めていくという、スケールの大きい、あえて別の言い方をすると非常に馬鹿馬鹿しい企画だ。
個人的には将棋は駒の動かし方と大まかな戦法しか分からず、見る方も有名な棋士はなんとなく知ってはいるものの棋戦を積極的に見ることはあまりない程度の者なので将棋の詳しい内容を語ることは難しいし、車に至っては公共交通機関の発達している都市部での乗用車利用は禁止してしまえばいい、くらいの考えを持ったことがある程度には車の所有欲がない人間である。
そんな自分がこの番組に興味を持ち、最後まで見続けることになったポイントは、なぜこのような企画を立て、実行できたのか?という一点に尽きる。
今回の番組はドワンゴに並んでトヨタの主催という立場で行われた。つまり番組の本質はトヨタの宣伝だ。ドローン空撮を利用した壮大なオープニングから始まり、MCやゲスト、解説の棋士が次々と入れ替わりながら途中休憩時以外ほぼノンコマーシャルで進行していくのは快適だ。ゲストは盤面の動きの多い序盤と終盤に将棋側、長考が多い中盤に車側を多く呼んでいたように思うが、盤面解説の棋士に対しても積極的に車のエピソードについても聞いていくというコンセプトで進められ、番組全体の長さは10時間を超えるものとなった。
駒となる車も、羽生側は往年のトヨタ車、豊島側は世界初の量産型燃料電池車であるMIRAIをはじめとした最新のトヨタ車が選ばれ、豊島側の歩兵、銀将、飛車が成ったときは専用の車種に入れ替わるという演出も用意された。展開の都合上、成銀と龍王の出番はなく閉会式での紹介のみとなったが…。
陳腐な表現だとは思うが、今回の番組はネット番組ならではの特性というか、地上波テレビではできないことを惜しみなく行う「良さ」を見た気がする。今回のような番組は当然ながら地上波では行えるはずもない。例え無尽蔵の予算があったとして、公共性が求められるとされる地上波放送においては10時間もの間、たった1社の宣伝のためだけの番組を生放送し続けることを許す土壌がないからだ。地上波で行うとなるとたとえば1時間とか2時間の枠に圧縮され、視聴者に分かりやすいように編集され、宣伝色も薄められたものが届けられる。それはおそらくクライアントの思惑と必ずしも合致しないものになるだろう。
登場するゲストたちも、次々に「こんな企画誰が考えたんだ?」と口にした。東洋経済の記事によるとドワンゴがトヨタに持ち込み実現した企画とのことだが、トヨタ側の真剣な取り組み具合もその記事から見て取れるように、この番組を通していわゆる「若者の車離れ」をなんとかしたい、というトヨタの思いが強く感じられる番組作りだった。ネット番組にありがちの低予算番組とはせず、社長決裁が必要となる規模で行うほどの企画を通した担当者の努力には敬意を表したい。
そういう意味で番組全体を通して特に印象深かったのは、終盤戦に差し掛かったあたり、レーサーの脇坂寿一氏とトヨタマーケティングジャパンの社員が登場した時間帯だ。脇坂氏がトヨタ社長の豊田章男氏自らレースに出場するというエピソードを紹介したり、チャーリー・チャップリンが「あなたの最高傑作は何か?」と問われたときの言葉を引用した「ネクスト・ワン」を会社のキャッチフレーズにしているといった話、そして企画担当者の話を通して、トップをはじめとした社員達がが商品を好きであることが企業にとって強い力であるということを感じた。
本論とは外れるがピストン西沢氏の言葉も車将棋ならではといったもので興味深い。「羽生陣営の玉将である二代目クラウンはエンジンが冷えてしまうと大変なので、車ファンとしては定期的に動かしてほしい」。玉将はいったん駒組みが終わってしまえば終盤攻められない限り動くことはないし、実際本局でもその願いが叶うことはなかったのだが、終盤羽生玉が攻められた際に、移動中エンストをしてタイムロスを起こしてしまうクラウンを見たときにはある種の痛快さを覚えた。
さて、このように自分としては今回の番組はクライアントであるトヨタの思いが強く反映され、それが功を奏した画期的なものであるように感じられ、それが最後まで見続ける原動力になった。もちろん100点満点の番組だったという訳ではなく、段取りの悪いところや会場のチョイス(他に会場の空きもなかったのだろうが、吹きっ晒しの西武ドームで10時間以上過ごすとか…)などの改善すべき点も見られた。トヨタの思いにマイナス方向の印象を持った視聴者もいるかもしれない。もしこの番組に続編があるとしたらどうなるだろうか?たとえば「○○社vs××社」のような企画となったとき、別の意味を持つことになるだろうか。また、今後もドワンゴがまったく別の業種に対して大規模な番組企画を持ち込み、それが実現した際にどういう番組になっていくかというところについても注目していきたい。
勝率クン、それが昔のアダ名であった。
長らく勝率七割をキープしていたのはただ二名、その一人が木村一基八段である。もう十年近く昔になるが、その彼が七大タイトルのひとつである竜王へ挑戦する。相手は渡辺であった。
結果は四局全敗であった。あと一歩の対局もあったが、勝ち筋を逃してしまった。
少し時は経ち、いまから六年前から五年前。同じく七大タイトルの一角である王座戦、棋聖戦と挑戦に名乗りを上げた。相手はどちらも当時復調した羽生善治。もう一人の、そして現在も勝率七割を誇り、かつて同時に七大タイトルを握った棋士である。
まず、王座戦は三局全敗であった。木村はタイトル戦では勝てないのか、そうささやかれ始めた。しかし五番勝負の棋聖戦でようやく二勝一敗とリーチをかけた。その後二連敗で敗退したが、直後の王位戦にも挑戦権を獲得した。
深浦王位を相手にいきなり三連勝してリーチをかけた。しかしここから四連敗を喫してしまう。よほどこたえたのだろうか、木村は七大タイトル戦の舞台から五年も遠ざかってしまう。
時は流れ……
羽生は更に強くなった。棋士というものは普通、齢四十を過ぎればだんだんと勝てなくなっていくものである。羽生はもう四十三であるにも関わらず、名人戦と棋聖戦でライバルの森内に全七局を全勝で叩きのめした。
プロ棋士のレーティングを算出しているサイトがあるのだが、もともと異様に高かった羽生のレーティングは、今年更に急激に伸びて、前人未到の1999に達している。参入と引退のレート差があるので普通にしていれば上昇するものだ、という意見はあるが、二位から九位まで約50しか差がないのに、二位と羽生との差は150に届こうとしている。
木村も齢四十に達して、レートは1700台をいったりきたりしている。十強(専門的に言えばA級等)からも遠ざかっていた。
木村は粘りの棋風で知られている。(専門的には少し違うが)取られれば負けてしまう玉自身も果敢に守備へ参加する「顔面受け」は木村の真骨頂である。また非常に解りやすい解説をすることでも知られ、解説名人との異名も持つ。
だが、それだけで終わってしまうのだろうか。
木村は再び、王位戦の挑戦権を獲得した。そして第一局、十一連勝中だった羽生王位相手に今日、実績差を打ち破るかのように勝利した。戦いが始まってからは、守りを固めるのではなく、攻めきって勝った一局だった。木村は進化したのだろうか?
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http://anond.hatelabo.jp/20130529230131 の続きです。長くて途中で途切れるため分けました。このエントリで紹介するのは以下の本です。
影響を受けたブログは20冊の本を取り上げていた訳だが、自分で真似をしてまとめていく内に20冊よりもずいぶん多くなってしまった。なので、上記4冊は似たテーマなのでまとめて紹介することにする。この節は日本人の自伝だ。
「名人に香車を引いた男」は昭和の将棋指し(棋士)の升田幸三名人の自伝。羽生善治さんがもし生きていたら是非将棋を指してみたい棋士の方だと聞いたことがある。
生き方はなんとも痛快。昔の人のバンカラな感じというか、そういう感じが良く出ている。この人のように、どんな人にも自分の本音を話せる人は今日本の中にいるだろうか。そして、名人になった時の一言が心に残る。
「八十歳のアリア―四十五年かけてつくったバイオリン物語」は糸川英夫さんの自伝だ。この方はロケットが専門の研究者で、戦時中は戦闘機の設計に関わっていたり、戦後もロケット開発に関わっていたりする方だ。戦後間もない時期は失意に沈んだ時期で自殺も考えるほどの状況だったが、バイオリン製作がきっかけで少しずつだが自分を取り戻していく。そのバイオリン製作には完成までに40年以上もかかった。そのバイオリンとは――。
升田幸三名人、糸川英夫さんの両氏とも戦争の影響が人生に大きくのしかかる。その点でまとめさせてもらった。それと、両氏の著作とも読んでもらえばわかるが、自由だ。それ以外はあまり共通項はないけれど、読んで楽しい本だ。重い話はないし、読みやすい本なので手に取ってみてほしい。
「記憶の切繪図」は「フェルマーの最終定理」の中で登場する志村五郎博士の自伝。「フェルマーの最終定理」の中でサイモン・シンさんは志村さんにいろいろインタビューしている。その中で数学における「良さ」とは何なのか、それに答えるシーンがある。その答えが簡潔なのだけれど、それ以上無いくらい志村さんの数学のとらえ方を表しているように思え、興味があって読んだ。
この方も上記二人に劣らないくらい自由だ。Amazonのレビューには高木貞治さんを愚弄しているという指摘がある。しかし、だからといって謙遜して書いてもらっても一読者としてはおもしろくも何ともない。むしろそのまま出版してもらって良かった。
こう書くと志村博士はずいぶん口の悪い人で、ある種の暴露本に思えるかもしれないが、そうではなくて、要所要所に意図して書かないことがあったり、感情を押し殺した表現がちらちらあるのだ。それがあるから、志村さんの人となりがわかった。良い自伝だ。
「弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖」は少し前に東京都知事選に立候補されたり、弁護士会の会長をされていた宇都宮健児さんの自伝だ。まだ自伝を出すには早いと思うので、半生を綴った本としておいた方がよいか。
決して飾らないその人柄は文章にもそのまま表れている。豊田商事事件、オウム真理教の一連の事件、カード破産の話など、弁護士として関わった事件の数々。それらを振り返りながら、今されている仕事にも言及している。自分は法律のことは全くわからないが、こんなに多様な類型、しかもその事件が発生した時点では立法そのものが不整備だったり、法解釈が分かれていたりといった、未開拓の問題に対処するのは並大抵の法律家にはできないように思える。それをまるで飄々とこなしているような姿は、武道の達人のようだ。
気負いのなさと実直さ、そして執念を感じる本だ。宇都宮健児さんへのインタビューが下のURLにある。興味のある方は見てほしい。
この本は学生時代に講義で先生がおすすめされていて読んだ本だ。著者は高橋秀実さん。
高橋秀実さんはルポライターで、自分の体験を元に本を書く方だ。ただ、ルポライターではあるけど、少しほかのルポライターと毛色が違う。本来ルポライターは事件や事故が起きたら素早く現場に赴き、当事者にインタビューをして、それらを記事や本にする。高橋さんはそれらの事件や事故が起こって、ほとぼりが冷めたあたりでインタビューに出向く。時期がかなり遅いのだ。
元のブログでは物事には多様な見方や解釈があって、一元的に判断することは危険なことを理解するための本として「バカの壁」を挙げていた。その点では、この本も内容は似ている。面白いのは、この本ではそれが「実例」でいくつも挙げてある所だ。
ニュース番組や新聞では、大きく取り上げられていた事件・事故が、実際に現場に行ってみると「あれ?」と思えるくらい当事者たちは冷めていたり、むしろその状況が続くことを望んでいたり――。読み進めていくうちに、不謹慎かもしれないが笑ってしまうような話になっていったりするのだ。某映画の台詞の反対で、むしろ事件は会議室でしか起きていないんじゃないか?、という気持ちにもなる。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。解説を村上春樹さんが書かれていた。(はずだ。確か)
堅苦しい話ではないので、気楽に読んで、何度かたまに読み返すとその度に不思議な気持ちになる本だ。
著者は西前四郎さん。半分が小説で半分がノンフィクションといった感じの本だ。
デナリというのはアラスカにある山の名前で、日本では「マッキンリー山」と言った方が通りがよいと思う。この山を登る登山家チームの話だ。ちなみに、植村直己さんはこの山で行方不明になった。(この本のチームとは無関係だろう)
厳寒期の冬山を登る人の気持ちは自分には想像もつかない。だけれども、そんな自分にも山を登るチームワークの大切さと難しさ、軽く見積もった事象が後にやっかいな出来事にふくらんでいくその状況判断の危うさや過酷さ、そして生きることへの執念といったもろもろが、響いてくるような本だ。
今の登山の装備と比べると、重かったりかさばったりしてその面でも大変だったはずだ。写真のページを見ると、そんなところも気にかかった。
この本のあと、山登りの本は植村さんの本(「青春を山に賭けて」)も読んだけれど、こちらの方が山について全く知らない自分には印象に残った。所々で登山の道具の名前(ハーケンとかザイルとか)が出てきて、イメージができない自分のような人は、出てきたところで、ググったり辞書で調べて簡単な絵を紙に描いておいて、再度出たときにその絵を眺めたりしながら読むとより読みやすいと思う。
この本は椎名誠さんが著者だ。椎名誠さんは今はエッセイや世界各地を回った紀行文を書いたり、写真家であったりとマルチ作家だけれど、この本が出たのはそうなり始めてすこし経った頃だ。
冒頭から危機的な状況である。にもかかわらず出発するのだ。この判断は本当だとしたらすごいことだ。何が危機的なのかはここでは言わないけれど、読めばすぐわかる。
全体として、椎名さんが書く紀行文は自分で感じたことをズバズバわかりやすく書いていく方法なのだが、この本はそこまでズバズバ書くと言うよりも、なんとなく「岳物語」につながるような、私小説風の書き方をしている。その書き方もあるし、パタゴニアという場所のせいもあるからか、行き止まりに向かって進んでいくようなやり場のの無さを感じる。それが途中ですっと消えて静かな感じで終わるのだ。自分はそこがとても好きだ。精神的な閉塞感がふと消えて、やさしさが残る本だ。
冬から春にかけて寝る前に少し読むのが似合う本だろう。この本は文庫版もあるけれど、ハードカバーの装幀が自分にはしっくりくる。
カヌー犬・ガクというのは、前に挙げた椎名誠さんの飼っている犬の名前だ。その犬は手こぎボートの船頭に座って川下りをするのが得意という、ちょっと変わった特技を持つ。
その犬と椎名誠さんの友人の野田知佑さんが、日本や世界の各地を巡ったときの話をまとめたのがこの本だ。著者は野田知佑さんご自身。
カナダのユーコン川を下ったり、北極(か、南極か忘れてしまったけれど)に行ったり、といろんな所に行って危険な目に遭ったり……、南国に行ってのんびり過ごしたり。少し羨ましいけれど、いざ自分が行くとなるとそんなところはとても怖くていけないようなところに行く。
犬を人間と同じように扱うという著者なので、犬が好きな人はより楽しめるだろう。元のブログとの対応としては「深夜特急」にあたるかな?(やや無理矢理だけど)
著者はM.B. ゴフスタインさん。翻訳は末盛千枝子さん。絵本だ。(やや字が多いけれど)
小さな女の子が主人公。おじいさんがピアノの調律を仕事にしていて、おじいさんとしては女の子にピアニストになってもらいたいのだけれど、女の子はおじいさんのようにピアノの調律をしたくてたまらない。そんなときに、ピアノの調律を頼まれるのだ。
あらすじで書くとそんなに心惹かれる感じは無いかもしれないが、絵の良さ、そして言葉の良さ。二人を取り巻く登場人物の面々もすばらしい。
「謎のギャラリー」のところで言及した「私のノアの箱舟」も同じゴフスタインさんの絵本だ。こちらもすばらしい。ゴフスタインさんの本はほかにも何冊か読んだけれど、この本が一番絵本らしい絵本だと思う。絵の良さはいくら文章にしたところで伝わるものではないので、図書館で借りたりして手に取ってみてほしい。もちろんM.B. ゴフスタインさんのほかの本を読むのも楽しい。
中学校で習う数学を、苦手な人も得意な人もできるかぎり楽しく考えていこう。それがこの本のテーマだ。中学生向けの数学の月刊誌で連載していた読み物をまとめた本で、著者は小島寛之さん。はてなダイアリーを利用されている( http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/ さん)ようだ。
数学は、学習が進むにつれてどんどん(指数関数的に?)難しくなっていき、小学校や中学校では好きだった人もだんだんと距離を置いて離れて行ってしまう……、そんな科目だ。なかなかずーっと数学が好きで好きで……、という方はいないのではないかと思う。おそらく数学のプロの方(数学者のような)でも、そのキャリアのところどころで難問にぶち当たり、歯がゆい思いをするのだろう。(そういう話は前に挙げた「フェルマーの最終定理」にちらっと出てくる)
そんな風にだんだんと一般人は数学から身を引いていきがちになるわけだけれど、この本は、わりと数学や算数を学び始めた頃に不思議に思えたことを延長して話をすすめようとしていく。こういう書き方はやろうと思ってもとても難しいはずだ。著者は数学が好きな気持ちと、一方で嫌いな気持ちの両方を持ち続けているような、そんな状態になるだろうから。嫌いな人の気持ちになって、そしてそのどこが嫌いなのかを共感した上で話を進めつつ、好きな人も読めるようにする配慮を怠らない。そんな書き方がされている。
この本が持つ数学へのアンビバレントな思いは、いわゆる数学(の歴史を中心とした)解説本でもなく、かといってとっても難しい数学のドリルみたいな本でもなく、わかりそうでわからない絶妙な問題の難しさと相まってなかなか類書がないと思う。くわえて、ところどころに経済学の話とかもでてきたりする。好きな人もそうでない人も読んでみてほしい。なんとなくわかりそうで手が出ないあの「数学の感じ」を思い出すはずだ。
同じ著者の「解法のスーパーテクニック」も良い本だ。ただ、一冊にしろと言われたら「数学ワンダーランド」かな。ほかにも小島寛之さんの著作はいくつかあるのだけれど、自分が読んだのはこの2冊だ。なのでほかにも良い本はあるだろう。
元のブログとの対応としては細野さんの数学の本としておく。(その本を読んでないのでどこが?といわれると、単に数学つながりなだけだ)
この本は幻想小説というのだろうか。ファンタジーだ。著者はピーター・S・ビーグルさん。翻訳は山崎淳さん。
この本はとても雰囲気がよい。あらすじはそんなにたいしたものは無いんだけど、夏の早朝のような爽快な感じがある一方で、なんか少しじめっとした感じもするのだ。
Amazonのレビューがこの文章を書いている段階で4つある。で、そのどれもが作品の魅力を的確に紹介しているのだけれど、なんだかそれらのレビューだけではこの本の良さを伝えきれない感じが残る。言葉を連ねてもなかなか伝わらない感じがする本だ。
この本を自分は夏の終わりの頃に読んだのだが、その頃の陽気にとてもよく合う本だった。光の強さと日の入りの早さがこの本の主題に合ったものだからだろうか。「リプレイ」が動くSF小説に対して、この「心地よく秘密めいたところ」は静かにじっとしている感じだ。でも、どちらを読んでも同じ思いに至るはず。不思議だけれど。
著者は伊勢崎賢治さん。この方は日本の大学を卒業されたあとにインドで民衆のグループのリーダーをされて、その実績を買われ、国連の要請で東ティモールに赴任する。(下のURLに伊勢崎賢治さんへのインタビューがあるので詳しいことを知りたい人は読んでみてほしい。)
こういう日本人って(自分が不勉強なせいかもしれないが)あまりいないと思うのだ。杢尾雪絵さんくらいしか自分はほかに知らない。
ずいぶん前に読んだので細かい記述は忘れてしまったけれど、この本の良さは著者が見たこと、感じたこと、やったことが率直に書かれたところ。そして日本に住んでいる限り想像できない「危険」な東ティモールでも、危険な所もある一方で、そうでないところがあるといったような、現実の姿が伝わってくるところだ。
外見はなんかどこにでもいそうな感じのおじさん(もし本人や関係者がこの文を読んでいたら失礼で申し訳ない。すみません。)だ。だが、インフォーマルな組織における統率の方法や、戦争犯罪者をどのレベルまで処罰するのか、など、繊細な問題への対処。こういうのは前者は経営学とかで少し研究されているようだけれど、じゃあそれが実地で適用すれば問題は解決するのかというと、そうでも無いと思う。そういった「答えが見えない問題」へどうやって取り組むのか――。しかも異国の地で。
そういうことを知りたいときに読むとよいかもしれない。自分も詳細を忘れていることに気がついたのでもう一度読むことにする。それにしても久しぶりに上のインタビュー記事を読んだけれど、タフな人だ。
著者は藤本研さん。この本は、藤本研さんがおよそ半年をかけて日本を歩いて一周をした旅行記。旅行記というよりも生活記録といった方が良いかもしれない。
生活記録なので、朝は何時に起きたとか、午前中はどうしていた、お昼は何を食べた、などなどそっけない記述が中心だ。でも、そのそっけなく感じる記述が妙なリアルさを出していて、読んでいると日本ってこんなに広いんだと思わせてくれる。それと歩いてたどり着いた各地の景勝地を見るとか、そういうことも無くて、そこもこの本の特徴だ。タイトルに「大貧乏」と付くのは、宿泊をほとんどを野宿やお寺の本堂の隅を借りたりして無料でまかなうことによる。食事もとても簡素なものだ。
本のはじめに藤本研さんの歩行ルートが日本地図と一緒に図示されていて、その後にスケジュール表があって、それをみるのも楽しい。たんたんと書いてある中の楽しさ、と言って伝わるだろうか。
たまにアクシデントに見舞われるのだが、そのアクシデントがなんとなくユーモアがあるというか、おだやかな感じだ。日本一周するからと言って、気張らず、藤本研さんはたんたんと歩いて行く。歩いている途中で同士がいたりする。そういう記述もなんだか一緒に日本一周しているような気持ちにさせてくれる要因だろうか。
自分は今まで挙げた本はだいたいは図書館で借りて読んでいる。この本もそうだ。再度読みたいのだが、図書館で借りようとしたらいつの間にか消えてしまっていた。残念だ。
(まだつづく、かも。)