はてなキーワード: 歴史的とは
対応してるのが自分の知り合いで白人か黄色人しかいないので、どれだけ当事者の黒人が不快に思っているのかわからない
人種に関連した歴史的背景がある単語で不快だから、という理由で配慮するならわかるけど
blacklistなんかは人種と関係ないところからできてる単語で単にblackを含んでいるだけじゃんと思っていて
自分は日本人だけど、仮にblacklistがjaplistだったとしても、それ変えたいねとは思わない
ずっと使っている単語を急に変えるほうがわかりにくいし
逆に単語だけ無理やり消してるほうが余計差別的と感じるというか…
あと、ユーザーなりcontributerなりなんでもいいけど、そいつが foo は俺の国(民族)の言語ではネガティブな意味を含むから不快って言われたら対応すんの?
過去の作品に対し、現在の物差しを適用して、その表現を否定する行動もまた1つの差別なのではないでしょうか。
【NHKニュース】
「風と共に去りぬ」配信停止 黒人男性死亡 抗議デモ受け対応か
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200610/k10012465991000.html
『「HBO Max」は作品の配信を再開する場合は歴史的な考察や差別的な描写への非難を合わせて掲載したうえで、オリジナルのまま伝えるとしていて「何か手を加えれば偏見の存在自体を否定してしまうことになる」とコメントしています。』(上記記事内より)
その中に「してはならなかった」と思うことがあるなら、反省し、今へ活かす。
この反省の段階をきちんと見る人に伝え、視聴者に判断を任せる今回の事例が、良い例としてこれからも引き継がれていくことを祈ります。
私は、歴史とは 今に生きる人では変えることの出来ない過去の事実の集積であり、今の私達に出来るのは認識を改めることだと思います。
「あった」という事実にばかり目をやって、今を変えるのではなく、なかったことにして満足するとするならば、それは新たな形の差別なのではないでしょうか。
「差別的だ」という特徴を持つから差別していると言えませんか。
デモや抗議を見ていて思うのは、差別に対して誰かと同じことを言っているから差別していないなんてことはないということです。誰かと同じこと が重なった結果かつての大きな人種差別になったのではないのでしょうか。
「差別を無くす」とは、差別があったという事実を無くすことではなく、差別をしたことを認め、これからはしないということだと思います。
他人に対してアンテナばかりを立てて、自分自身の行動を疎かにしたときこそ、差別が生まれるときだと思います。
自分が何を言っているか。自分で自分に問いかけて、常に確かめ続けた方がいいと思います。
長文失礼いたしました。
Twitterは積極的にアンテナを立てなくとも、トレンド等の機能で勝手にアンテナを立ててくれます。
これはTwitterに始まったことではなく、かつては多くの人のアンテナが新聞やテレビであり、あくまで今の主流がTwitterであるというだけ。
Twitterは自分で立てているのではなく、自分で立てている気にさせてもらえているだけなのではないでしょうか。
Twitterは世界中と繋がることができるサービスですが、かと言って1人のユーザーが世界のすべてを見ている訳ではないし、そんなこと現実的に不可能。だからこそ、タイムラインに表示する人を選んだり、トレンドを覗いたりする。
テレビや新聞へ偏っていると発言するとき、自分の見ているTwitterが偏っていないと言えるのか。
多くの情報をすぐに手に入り、多くの人の声を聞ける時代になったからこそ、自分自身を確かに持っていないと流されかねないと思います。
https://github.com/php/php-src/pull/5685
この変更は https://go-review.googlesource.com/c/go/+/236857/ にインスパイアされたもので、whitelist/blacklistを全てallowlist/blocklistに置き換えるものです。
大半の変更は内部的なものですが、2つだけ例外があり、RFCが必要です。
(略)
これに33のサムアップ、8のハートが付いたがそれ以上に否定的な反応が多く57のサムダウン、1つのうーんフェイスが付いた。煽りに煽った返信もたくさん付いていてそれが面白い。
市民運動には賛成します。しかし後方互換性のない変更をプログラミング言語に追加するのは反対です。開発の基本方針を忘れてはなりません。
荒らし返信見るのが悲しい
もとのリンクを見てない人のためにどうぞ:
これらの用語のテック業界での使用についての議論はこれまでたくさんあった。
ここでもう一度同じ議論をしようとしているのではない。これらの用語で傷つく人がいることは明白である。技術的な理由でなく歴史的社会的な文脈の理由で歓迎されないと感じる人がいる。これだけの理由でこれらの用語を置き換える理由としては十分だ。
いずれにせよallowlistとblocklistの方がwhitelistとblacklistより自己説明的だし、この変更にかかるコストは負だ
指摘があったように、私は市民運動には賛成するがこれらの単語の除去は大きな影響があります(後方互換性の破壊)。
面白いのはこの用語を変えようというのが単に「黒」「白」を人種差別的な意味を含まずに持っているだけという理由であることです。結局は我々はこれらの単語を除くことで、新しい差別用語を「創造」してしまっています。
allowlist/blocklistの方が説明的であるのでより良い用語であるということに賛成します。これを踏まえてなお、blacklistとwhitelitsを差別用語と呼ぶのは単純に間違えています。
まず、blacklistの語源に黒人は一切関係ないです。さらに、これが黒人に対して攻撃的な意味で使われたことは一度もありません。この単語が攻撃的であり差別的な含意があると見せかけたいのはある特定の極端な非黒人の集団だけです。これは中国の服を中国人以外が着ることが攻撃的であると考える人々と同じくらい馬鹿げたことです。
黒という色は多数の文化において否定的な意味合いを持ちます。これは全ての単語を狩り落とすのは不可能で無意味なほどに埋め込まれていています。
まずはある人々の集団のことをblackと呼ぶのをやめましょう。色が先、人種は後です。色はイメージに結び付けられており、変えることはできません。
あなたに完全に賛同します。黒人、白人をアフリカン・アメリカン、イングリッシュ・アメリカンと呼ぶことを提案します。近視眼的な思考はやめるべきです。これはただの言葉狩りです。
抑圧された人々を代表して声を上げることはだいたいの場合は正しい行いです。良心の行動、美しいです。しかし、それも時々は無意味でありただ不必要な混乱を生むだけです。私はもし誰かが「ホワイトハウスは白人至上主義のシンボルだ!」と叫べば笑うでしょう。もしホワイトハウスを塗り直したいのなら、どうぞ。そして世界を救ってください。
99%の単語は差別から来てる。もし単語がどのように構成されるかのレシピが与えられて、あなたがそれを否定するなら、あなたは一度一歩下がって、どうして事実を信じたくないかということを考えるべきだ。
しょうもないなあ
三菱樹脂事件を本当に読んだか?
「内心の自由は絶対的に保証される」わけで誰が内心で何を考えてようとそれは絶対的に保障される。
子どもを性的に見る自由は内心に留まる限り100%保障される。
ちなみに三菱樹脂事件で問題になってるのは他人の内心を暴こうとした点(学生時代の学生運動への参加)であって、児童性愛と内心の自由について持ち出すのは不適切。
それに私人間に憲法は適用されないけど、私法の解釈に憲法を読み込むという間接適用説で事実上私人間にも憲法の適用はある。
憲法によって当該権利が保障されるかというフェーズと、当該権利への制約が正当化されるかというフェーズは異なる階層にあるので、それをごっちゃにすると憲法解釈がごちゃごちゃになるので気をつけた方がいいよ。
内心の自由と表現の自由の関係や、当該権利の保障領域、なぜその権利が憲法上保障されるのかという歴史的な背景を勉強すれば増田の憲法論も少しは見れるようになるはず。
共産主義に染まった人の加害性・暴力性が著しく増大することは歴史的に明らかであるから、
冷静に説明してくれているが、少しポイントがズレていると思う。そして、そのズレはなかなか問題だ。議論の根幹に関わるので、少し丁寧に説明する。
「内心の自由があるよ」という趣旨の擁護論は、おおむね「●●なんて取り締まれ!」「そんなこと考えること自体が犯罪」という無茶な主張に対して、「内心の自由が保障されている(だから取り締まりは無理だし、考えること自体は犯罪ではない)」という意味で述べられるのであって、「内心の自由が保障されている(だから俺の妄想を常に全開にしてオッケー)」という意味ではない。仮に後者の意味で述べている人がいるとすれば、それは確かにダメな人なので諄々と諭す必要があるし、あるいは盛大に自爆するのを待って(法に触れる書籍なりを出版するのを待って)粛々と取り締まればよいが、あなたの文章の表題の「内心の自由はない」という言い方は前者を含めた否定論に聞こえてしまう。あなたが説明するとおり、実際に法で取り締まるというのは無理筋なのであるから、過激な批判者から見ればあなたもまた「内心の自由はあるよ」論者に見えているはずだ。そして、実際にそうだ。過激な批判者からすれば、あなたは憲法19条による内心の自由が保障されると述べているわけで、彼ら彼女らからすればこれは「児童性愛を擁護する」ものに見えるだろう。(あなたはただ憲法19条の趣旨を説明しているだけであるにも関わらず、だ。)そういう状況を踏まえた上で、
児童性愛を擁護する言葉を声高に発する人たちは、控えめに言って、人でなしだと思う。ネットで規制を強く主張しているような人たちへの想像力と、家庭内での性的虐待に関しての知識が足らない。
という言い方は、これはやはり言い過ぎだと思う。あなたの発言は対象が広すぎるのだ。性的虐待サバイバーへの配慮を求める気持ちは深く理解できるが、それは、普通に認められる人権を不当に制限する行動に加担する理由にはならない。
それから、
同性愛は社会的に認知されつつあるが、児童性愛が犯罪でなくなることは、人権という概念が存在する限り、ありえない。古くからのタブーである同性婚が人権意識の発達とともに社会的に受け入れられてきたのに対し、児童婚はその逆だ。前近代は問題視されていなかったものの、近代化が進んだ結果禁止されてきた。人権意識の発達にともない、未成年者の判断能力の欠如が問題となったため、未成年者の婚姻の権利、恋愛の権利、契約の権利などが制限されることになったからだ。
この部分も、歴史的文化的に見れば、必ずしも正しい説明ではない。「人権意識」によって「未成年者の判断能力の欠如が問題となった」というのは、論理的に言っておかしいし、それにそんなことを言ったら、児童の権利条約など成り立たなくなってしまう。正しくは、「人権意識」の発達によって、肉体的、精神的、あるいは性的に搾取される社会構造に対する批判が高まった結果、特に犠牲になりやすい立場の人間が立ち現れてきた、ということに過ぎない。そこに線を引いたのは人権意識であるが、あらかじめそこに差があることを前提とする物の言い方は適切ではない。聡明なあなたなら、この違いは理解できるだろう。この二つの見方の違いは、次のような帰結につながる。
(前者・誤)「児童が劣っているから、保護し管理してあげることにした(ゆえに)児童の活動等の権利は制限されるのが当然だ」
(後者・正)「児童が犠牲になっているから、様々な活動に制限をかけることにした(ゆえに)大人とされる人の一部の行動には規制がかかって当然」
私は後者の立場に立つ。児童の権利条約等が立っているのもその位置であり、前者でないことは明らかだろう。私はあなたの「児童の~恋愛の権利~などが制限される」という言い方に深い危機感をもつ。制限されるのは「大人の行動」の方であり、「児童の権利」ではない。そこにこだわるのは、「児童の権利を制限できる」というあなたの物の言い方に、上に書いた〈憲法を無視した規制論を述べる人〉と同様の危うさを感じるからだ。
実在児童への性的虐待はもちろん問題だ。それは厳しく罰されるべき行動である。当然のことだ。
だがしかし、そこで規制されるのは「大人の不法な行為」である。「大人の内心」ではないし、「児童の権利」でもない。少し厳しい言い方をすれば、「児童」は一部の方の管理保護する「お人形」ではなく、一個の人間である。「児童のため」「子どもの安全のため」を掲げて、児童の権利を制限し大人の内心を規制しようと主張する人々は、「児童」を自分に都合のいい人形として、手元に抱え込んで扱うことができると考えているように見える。「自分は児童の代弁者で有り保護者であり管理者であり、児童を守る自分の言葉は全て正しく自分に反対する人間は児童虐待者なのだ」と。そういう考え方は、思想信条に制限をかけたい(まさに、大衆を自分の人形のように扱い、管理し保護し監督したい)人々に、非常に利用されやすい考えであり、それは大変危険なことだと私は憂慮する。
そもそも私は、「大人が児童を搾取する」行動は、もっと厳しく取り締まられるべきだと考えている。「子どものため」との言い訳の下で行われる搾取は、時には関わる大人・児童両者ともそれを虐待と意識しないケースも多い(たとえばステージママと学校にもロクに行かされないアイドル志望少女のように)。だが、それは明らかに搾取であり虐待だ。法に定める義務(保護者に課せられる、教育を「受けさせる」義務)に反した(大人の)行動であり、それは厳しく取り締まられなくてはいけない。
だからこそ、実在の児童に対して行われているそれらのリアルな「虐待」を放置しておいて、心の中で妄想しているだけの人のその妄想自体を問題視し、存在自体が病であり罪であるかのようにあげつらう物言いには違和感しかない。みんなが手の内の「児童人形」の話をしている。そんな状況で、「実在の被虐待児童」を救うことができるのか? それでもあなたは「家の中で妄想する人の妄想」を取り締まることが、「実在の被虐待児童」を救うと主張するだろうか。
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
○岩垂委員 まだちょっとお聞きしたいことがあったのですが、ぼつぼつ時間が来てしまいました。
実は、私が申し上げるのもちょっと変ですけれども、南ア問題について日本のいろいろな人たちの、特に南アの関係というか南アに行かれた方々を含めて、御存じのように「スプリングボック」という会報が出ていますけれども、これだけでなしにいろいろな御発言を収録をしてみました。
その一は、ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えないこうかつさがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い。これは三井物産の社内報「三井海外ニュース」。これはその後廃刊になったようですけれども、ヨハネスブルグ駐在員がこういう文章を寄せている。
その二。アパルトヘイトはけしからぬが、泥棒にも三分の理と言われるように歴史的背景や立場の違いというものがあり、南アには南アなりの主張があるように思います。日本の外交も、国連追随主義ではなくて日本独自の南ア政策を考える時期じゃないですか。これはプレトリア日本領事館から帰国したばかりの前領事さん。これはちょっと古い話です。
それから、これは有名な石原慎太郎さん。アメリカでは黒人を使って能率が落ちている。黒人に一人一票やっても南アの行く先が混乱するだけだ、独立してもやっていけないということを、当時の日本・南ア友好議員連盟幹事長というお立場で石原慎太郎さんが発言をなさっていらっしゃる。
あるいはその四。黒人の政治的権利の付与も重要であるが、白人の巨大な経済権益の保護もそれに劣らず重要である。制裁措置とは逆に、西側諸国が一致して南アを助け建設的協力を行っていくことであり、また国内における変革を急激にではなく漸進的に実施していくことである。これは、南アの日本人会の月刊誌「スプリングボック」の、これも南アに駐在した領事の一文。
いろいろございます。それ以上やめましょう。
しかし、最後にその五として申し上げなければならぬのは、南アに暮らす我々日本人は、日本政府が科する包括的制裁の範囲内で、さまざまな困難があるにもかかわらず貿易関係を維持しようと絶えず努力し続けるだろう。両国の貿易関係は決して弱めることはできない。これは南アの日本クラブの代表であります。
現地の方々がこういう態度で対応していく限りにおいて、現地の人たちの理解を得ることは難しいと思います。それは一、二の人かもしれません。しかし、そういう態度が日本人の態度として目に映ることも事実だろうと私は思います。名誉白人ということは決して名誉な称号ではないと思います。
そういう意味で私は少し時間をかけて、あらゆる角度から申し上げて大変恐縮でございましたが、今、日本国民の関心といいましょうか理解が「遠い夜明け」を通して広がっているこのときに、そしてまた、日本が南ア貿易のトップということになって国際的な批判を受けているときに、なかんずく貿易摩擦などを含めて日本経済にさまざまな問題が投げかけられているときに、日本人は経済の面では大国だけれどもモラリティーの面ではいわば小国であると言ったジャクソンさんの言葉を私は思い浮かべます。
そういう意味で、反アパルトヘイトについて、この際、いろいろな立場がおありでしょうけれども、日本政府がしっかりした態度をとって、世界の中に日本政府、日本国民の態度をお示しいただきたい。このことをお願い申し上げて、大臣に最後の御答弁を煩わせたいと思います。
○宇野国務大臣 冒頭に私の当国会におけるところの外交方針演説、これを引用していただきましたが、私はもうそのとおりの主義主張、そして姿勢を今後貫いていきたい、これが日本政府の考え方であります。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111203968X00619880413¤t=2
差別問題を考えるとき、具体的な出来事にフォーカスしてしまうから自分の中にある差別そのものを見過ごしてしまう。
「黒人の待遇に怒りを感じる。自分は黒人に対して嫌悪感はない。差別されている現状に対して解決を望んでいる。」
しかし、これは間違っている。
この段階では、黒人の事件があまりにも遠くの出来事過ぎて、実感がないのだ。だから軽く「解決を望んでいる」なんて考えに及ぶ。
残念ながら遠い日本で1億人が怒りを感じたところで何も解決しない。それが差別問題だ。
遠い国の出来事に遠くで怒っていても何も変わらない。
それならば今何をすべきか。
遠い国の出来事で学んだことを、身近の出来事に置き換えて行動を省みるべきだ。
遠い国の黒人問題について、国内で論争しても何も良くならない。
どうせ怒った人間が意見の弱い人間を論破して気持ちよくなて終わるだけだ。
そうやってまた差別ポルノを消化しては終わるを繰り返しているだけではないか。
在日外国人、性的マイノリティ、障害者、依存症患者、、、数を上げればきりがない。
では、果たして差別ポルノ愛好家ではないと言い切れるのだろうか。
差別されているかもしれない人間に対して、可愛そうだと考えたことがないと言い切れるのだろうか。
目の前の個人を、集団から切り離して唯一の個人としてしっかり見据えること。
事前情報や先入観を切り離して、その人としての行動に目を向けること。
自分の中に差別意識があるかもしれないと常々思うことで、知りもしない情報を勝手に補完しようとしないこと。
問題が発生したときは背景にある集団を理由とせずに、その個人の問題としっかりと向かい合うこと。
自国が最も優れていると教え込んで、無意識のうちに他国民が劣っていると信じ込ませる。
集団行動をマジョリティへの依存だと教えこんで、マイノリティに対して劣等感を植え込ませる。
君たちが悪いのではない。そうした教育が許されていることがおかしいのだ。
そこにある原因は大人たちの都合だ。
そうして教え込んだほうがまとめて同じ教育をしやすいというだけなのだ。
団塊の世代で確立された手法が少子化の今も適用されている現状にこそ問題がある。
今や勉学はオンラインでいつでもどこでもできる。
それならば学校に求められることは、マジョリティ依存ではない個々の価値観を認め合う教育だ。
集団で集まることの利点は、いまやまとめて同じことを教えることにはない。
多様性がそこに存在してる事実を見て学び、お互いを受け入れることに特化すべきだろう。
君たちは被害者だ。
しかし、大人になった今もまだ、そうした被害者を増やし続けていることに目を向けようとしないのであれば、加害者と同じだ。
校長でさえ、いじめる側の理解者に付いている状態で、問題の根深さに頭を痛めているところだ。
そんな彼らが、道徳の授業でいじめ問題を取り上げていじめが良くないと口にしているのをポルノではなくてなんと呼べば良い。
私の考えは間違っているかもしれない。それならばそれでいい。
ならば解決のための行動を起こしてくれ。間違っていると論破して気持ちよくなって終わらないでくれ。
これを読んだ諸兄は、今後差別ポルノで気持ちよくなったくらいで、差別がなくなってほしいなんて二度と口にしないでいただきたい。
目の前に差別があることを認め、行動を起こしてくれ。
ブームなのでコロナとお金の話を書きたい。俺は30代前半男性で上場企業勤務で年収は700万程。生活資金や大型支出に備えた現金とは別の金融資産が300万程度。投資経験は学生時代~社会人なり立て2年くらい(リーマンショック~アベノミクス初期)の5年間と直近3年ほど。途中5年目ほど相場から離れていた時期があったが理由は出費の急増だ。地方から上京してきて上場企業に入ったはいいが、大企業の社員は得てして実家が都内にあり、かつ元から裕福なケースが多いため地方出身の俺から見ると信じられないくらいに金遣いが荒く、交際費がドカドカ飛んでいったからだ。また、個人的にもお金のかかる趣味(海外旅行とカメラ)の面白さを知ってしまったので、節約して資産を増やしたいという動機が薄れたというのもある。(余談だが、業績の良い時期に出た臨時ボーナスで中古のフルサイズ一眼とシグマのF1.4の単焦点レンズを一生モノだと思って買ったら、同僚のA君に貧乏人と馬鹿にされた。彼はD850を発売日に即金で買って純正大三元を使っているのを自慢してくる嫌な奴だ。最近Zマウントに乗り換えたらしい。許さないぞw)
話が脱線したが、今回のコロナショックまではインデックスファンド積み立てで資産形成をしてきた。 Topixが25%で先進国株が75%の割合。今回の暴落では株価下落が長期化すると踏んで日経ダブルインバースを上昇局面で仕込んだが、2番底は遂に来ず、昨日のアメリカ雇用統計の上方修正で完全にバブル突入と判断したので損切りした。結果は-50万円。プラスの部分あるがそちらは20万程。4月に先進国株のインデックスファンドを追加購入したのと、Topixのインデックスファンドを全額売却してひふみに乗り換えた分が寄与している。日本株のインデックスファンド辞めたのは市場のゆがみが大きくなってると思ったから。日経平均の寄与度が高いせいでファーストリテイリングやソフトバンクが業績無視で値上がりしていくのが気持ち悪かったし、Topixは日銀の介入で実体以上に割高になってるので、当面はアクティブファンドが有利だと考えたからだ。ひふみを選んだ決め手は、運用レポートで2月時点で現金比率をかなり上げてたのと、コロナの流行を予想してZOOMを仕込んでたのがセンスあるなと思ったからだ。とはいえ、結果を見るとトールでマイナス30万。
どうやら俺は投資センスが悪いらしい。3月の大底で買いあさることはできなかったし、5月の上昇局面を信じ切れずに売りポジションを転換できなかった。各種経済指標は最悪で、今週もEU圏の経済成長予想は下方修正。アメリカはいまだに毎日2万人の新規患者が発生していて、カリフォルニアやテキサスといった人口が多くアメリカ経済をけん引する地域では感染拡大傾向。コロナ治療薬はいずれも決め手に欠け、唯一効果がありそうなレムデシビルは錠剤ではなく点滴で1回1000ドルと非常に使い勝手が悪そうであり、ワクチンの開発は先が見えない。中央銀行のバラマキは確かに強烈だが、ファンダメンタルを見ると歴史的な割高水準なので、アメリカ大統領選挙前ならともかく6月くらいには調整が入るだろうという希望的観測。実際、2週間前までは出来高が低く投機筋しか市場に参加していないように見えた。コロナバブルに乗れなかった一個人投資家の心情はこんなところである。
最後に、10年ほど社会人をしている俺のお金周りに関する感想。
・お金に対する価値観は環境や個人の嗜好で変わりえるので、強い信念がないと長期投資は難しい。特に付き合う相手が金銭感覚を決める一番大きな要因になる。
・投資はセンス。センスがない人間がセオリー以外のことをすると火傷する。逆に最低限の積み立てをしておけば平均以上のリターンが狙える。世界的に賃金上昇率<資産インフレ率なので。
「日本人、自分がアジア人だっていう自覚が無さすぎてヤバいよな………自分の立ち位置を理解した方が良い」
「あんま日本人って意識ないかもだけどアジア人て余裕で差別されるよ」
昨今の黒人の殺害事件で、人種差別に鈍感なように見える国内の日本人にもどかしさを感じたのか、はてなでもtwitterでもfacebookでも意識高い人たちが一斉に「日本人も差別される側だから!」って喚いている。
言いたくなる気持ちはわかるし、文脈を見れば日本人も差別に敏感になってくれというのが真意の主張なんだろうとは見当がつくけどさ。
でも、なんか一斉にそういうメッセージを出されるとまるで呪詛みたいなんだよね
日本人とは差別されるものなのだ、お前は差別される存在であることを内面化しろ!って。
しかも「アジア系だから差別されるんだよ」「アジア人だという自覚を持て」という主張もなんだかなー。
自分は日本生まれ日本育ち、家系的にも純日本人で国籍も日本、海外旅行も数回行った程度なので、井の中の蛙であることは認めるけれど、正直自分を「アジア人」だと実感したことがない。
だって、アジア人という概念って、日本人もインド人もパキスタン人もサウジアラビア人も含むじゃん。
中国、香港、台湾、韓国、北朝鮮あたりと一まとめにされるなら、距離的にも文化的にも歴史的にも容姿的にも近しいからまぁわからんでもないけど、東南アジアや南アジアや中東とかって全然身近に感じないし、マジで異国としか思えないのに同じものとしてカテゴライズされても「ハァ?」って感じ。
ヨーロッパから見て東に住んでる人間を、文化も慣習も歴史も言語もまったく違うのに、ただザックリと「アジア人」と勝手に名付けて分類しただけだよね。めちゃくちゃ白人至上主義な言葉じゃない?
そんな大雑把で身勝手な「アジア人」という呼称に、なんでこっちがアイデンティファイしてやらなきゃならんの。
知らんわそんなの。
反例もあるだろうが、日本の制服の多くがそうだし、揺るぎない事実であろう。
あとこれ見て絶対に蘇格土蘭持ち出す人がいるだろうから先んじておく。
このステレオタイプが歴史的なものに由来していることも知っている。
女からしたら股間へのアクセシビリティは低いほうがレイプ予防になるしいいのではないか。だから女はズボン履いたほうがいい。
男はチンコがズボンの中で明らかに邪魔すぎるので、スカートの方が過ごしやすい。男はスカート履いたほうがいい。
ズボンは可動域が狭くて窮屈すぎるんだ。
フリーセックスの時代では男女関係なくそれぞれが好きな方を履けばいいと思うが、強いて設定するとすれば、男スカート女ズボンのほうが合理的だ。
次のように考えてみればどうだろう?
そもそも「漫画家」が職業として成立しているのは、歴史的に日本人に「図像を介したコミュニケーションリテラシー」が高かったから。それは、他国にあまり例がない「絵巻物」の隆盛であったり、青表紙赤表紙黄表紙などの絵本・絵入り雑誌文化であったりを見ても分かる。法隆寺金堂にある「大工の落書き」を見ても、昔からの日本人のデフォルメされた図像に対するセンス、絵心は伝わってくるだろう……云々。それは、文化を「内側から発生」ではなく「海外から輸入」することで発展させてきたこの民族が独自に身に付け発達させてきた、異文化間での高度な伝達・学習ツールだったのかもしれない。たとえば、自分たで発明したわけではない地獄や極楽の概念を一般大衆に分かりやすく広めていくために「地獄絵図」の描き方がやたらと進化した、とかそういう意味で。
こう考えれば「漫画家が職業として成立しているからイラストが描ける人が多い」というのは、説明としては順序の逆転した不正確な説明なのではないだろうか? むしろ「漫画家が職業として成立するほど日本人は(古来から)絵心にあふれている」のであって、これはやはり民族的(文化的)特性と言えるのではないだろうか。
北京を中心とした淮河・秦嶺以北、長江デルタを中心とした淮河・秦嶺以南、珠江デルタを中心とした南嶺山脈以南の3大国には分けたい
地形的には四川は上海から切り離したいし、東北部も北京とは別にする
福建はどっちつかずなので独立
後は民族的、歴史的に、雲南、ウイグル、チベット、内モンゴルも独立
10個に分かれた
換地(かんち)とは、土地の区画を整理した際に新しく与えられた土地のことである。
例えば、農地までが遠かったり、農地が入り組んでいて耕作する機械を入れるのが大変なときに、土地を交換して整然とした形の土地にする。
このとき、考慮するのは面積だけではなく、地質や水利、環境などが照応するように換地することになっている。
一方、替地(かえち)というのは、収用した土地に代えて与える別の土地のことだ。公共事業の用地買収などの際、金銭に替えて譲渡される。
別に土地じゃなくてお金をもらってもいいじゃん? という話ではあるが、ダムのように村ごと引っ越して大規模に生活の拠点が失われる場合や、公共事業による土地価格の上昇が期待されるようなときに、替地が要求されることがある。いきなり遠くまで引っ越したら生活再建が大変だし、これから土地の値段が倍になるのに、安いときの値段で土地を買われても納得できない、というのがその理屈。
替地には歴史的な意味もあり、単純な土地の交換を意味することもある。ときには田畑の売買の禁じる法律の抜け穴としても機能した。また、江戸時代には所領・知行地の交換のことも替地と称した。