過去の作品に対し、現在の物差しを適用して、その表現を否定する行動もまた1つの差別なのではないでしょうか。
【NHKニュース】
「風と共に去りぬ」配信停止 黒人男性死亡 抗議デモ受け対応か
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200610/k10012465991000.html
『「HBO Max」は作品の配信を再開する場合は歴史的な考察や差別的な描写への非難を合わせて掲載したうえで、オリジナルのまま伝えるとしていて「何か手を加えれば偏見の存在自体を否定してしまうことになる」とコメントしています。』(上記記事内より)
その中に「してはならなかった」と思うことがあるなら、反省し、今へ活かす。
この反省の段階をきちんと見る人に伝え、視聴者に判断を任せる今回の事例が、良い例としてこれからも引き継がれていくことを祈ります。
私は、歴史とは 今に生きる人では変えることの出来ない過去の事実の集積であり、今の私達に出来るのは認識を改めることだと思います。
「あった」という事実にばかり目をやって、今を変えるのではなく、なかったことにして満足するとするならば、それは新たな形の差別なのではないでしょうか。
「差別的だ」という特徴を持つから差別していると言えませんか。
デモや抗議を見ていて思うのは、差別に対して誰かと同じことを言っているから差別していないなんてことはないということです。誰かと同じこと が重なった結果かつての大きな人種差別になったのではないのでしょうか。
「差別を無くす」とは、差別があったという事実を無くすことではなく、差別をしたことを認め、これからはしないということだと思います。
他人に対してアンテナばかりを立てて、自分自身の行動を疎かにしたときこそ、差別が生まれるときだと思います。
自分が何を言っているか。自分で自分に問いかけて、常に確かめ続けた方がいいと思います。
長文失礼いたしました。
Twitterは積極的にアンテナを立てなくとも、トレンド等の機能で勝手にアンテナを立ててくれます。
これはTwitterに始まったことではなく、かつては多くの人のアンテナが新聞やテレビであり、あくまで今の主流がTwitterであるというだけ。
Twitterは自分で立てているのではなく、自分で立てている気にさせてもらえているだけなのではないでしょうか。
Twitterは世界中と繋がることができるサービスですが、かと言って1人のユーザーが世界のすべてを見ている訳ではないし、そんなこと現実的に不可能。だからこそ、タイムラインに表示する人を選んだり、トレンドを覗いたりする。
テレビや新聞へ偏っていると発言するとき、自分の見ているTwitterが偏っていないと言えるのか。
多くの情報をすぐに手に入り、多くの人の声を聞ける時代になったからこそ、自分自身を確かに持っていないと流されかねないと思います。