はてなキーワード: 和室とは
それは、私が自室のベッドで耳かき音声を聴き終え、イヤホンを外した際のことだった。
時刻は深夜4時。いつもなら時計の秒針を刻む音が気になるくらい静かな部屋に、聞いたことのない音が入り込んできた。
なんだ、この音は?
喘ぎ声だった。
認識したうえで改めて聞いてみると、やっぱりめちゃくちゃ喘ぎ声だった。
音の正体は双子の兄が部屋に連れ込んだ彼女の喘ぎ声だった。兄の部屋は私の部屋の真下にある。
通常の家だったらこんなに聞こえはしなかったろう。普通は1階の天井と2階の床板の間には空間が設けられてして、これが断熱や防音の効果を発揮する。
しかし我が家は築85年の古民家である。古民家には断熱・防音という概念は無い。だから1階の天井は2階の床板でもある。つまり音がダイレクトに伝わる。
しかも、兄の部屋は四方全てがふすまで囲まれてる和室なので、壁がない。
だからすんごいんだ。喘ぎ声が。
この世で最もエグいものとされている家族の性事情を、最も生々しい形でリアルタイムに感じさせられるこっちの身にもなって欲しい。
おそらく私が物音を立てずにベッドで耳かき音声を聴いていたので、寝たもんだと勘違いしたのだろう。
私が寝ていたにしても、兄弟2人でシェアハウスをしている家で快楽性交するのはどうかと思うが。
とにかく、私が自室で耳かき音声「180秒で君の耳を幸せに出来るか? ゲッコーちゃんの耳かきすぺしゃる」を聴いている時に、下の部屋では顔も年齢も変わらぬ双子の兄が彼女と快楽性交に勤しんでいた訳である。
床板1枚挟んでこの落差。
しかし、喘ぎ声をよくよく聞いてみると、一応声を抑えようと努力はしているようだ。
上の階に私が居るのだから、ある程度声を抑えなきゃならないのは当たり前なのだが……
そこで私は気がついた。
あれ?
これは要するに、AVとかでよくある「声を出しちゃいけないシチュエーションだけど声が出ちゃう〜」っていうアレだ。
私はいつものように自分の部屋で生活していただけなのに、いつの間にかAVでよくある「彼氏を姉に寝取られているのに気づかずに隣で寝続ける妹」と同じ役割をあてがわれてしまっていた。
自分がそう言ったAVを見る際、私はどうしても「彼氏が寝とられるのを気づかず寝続ける」役の女優さんが気の毒でならなかった。
あの役は、「バレちゃうかも」というハラハラドキドキの興奮を与えるためだけにそこに居続ける存在だ。
黒ひげ危機一髪でぶっ飛ぶ黒ひげと同じで、プレイヤーを盛り上げるためだけに用意される存在。
そんな人としてでなく、装置として起用された女優さんがなんだか気の毒に思えてならなかったのだが、まさか自分がその装置にされるとは思わなかった。
しかも残酷なことに、この舞台装置の一部になってしまった人間には、最後までその役目を全うする以外の選択肢が存在しない。
事実、私はベッドの上で息を殺してじっとしている。喘ぎ声がこだまする自分の部屋で。
本当はベッドから出て水を飲みたい。トイレに行きたい。中断してた仕事の作業をしたい。でも、セックスがスタートした時点で「バレちゃうかも装置」の人間はじっとする以外の行動が取れない。
考えてみて欲しい。ここで私がトイレに行ったり、部屋のデスクテェアを動かしたら。
そんなことしたら、音が鳴ってしまう。音が鳴ったら、下の部屋で交わってる彼らに知られてしまう。私が喘ぎ声を聞いたことを。
いや、こっちは被害者だし、気を使うべきなのはあっちのはずなんだけれども。
だからって今ここで音を出して「バレちゃうかも装置」である私が「バレてますよ」ってメッセージを出したら、翌朝こっちも気まずくなるのだ。
私が喘ぎ声を聞いただけならまだいい。しかし、「私が喘ぎ声を聞いたこと」を本人たちに知られてしまうと、私も「きまずさ」の当事者になってしまう。
最も合理的な行動を取ろうとすると「音を出さずにじっとする」以外の行動ができなくなるのだ。
なんだこれは。
本来はバレちゃいけない側であるセックスしてる人間が声を出し、本来ならそれをたしなめる側の私が声を押し殺しじっとするという謎の逆転現象。
「バレちゃうかも装置」にされた私は、セックスの興奮材料として巻き込まれた被害者であるにもかかわらず、樽の上でじっとしている黒ひげのように、最後まで役目を全うする他なかった。
あってよかった的なもの
・電動シャッター
電灯消し忘れ、蓋閉め忘れがなくなって喧嘩激減
・ドアの電動鍵・車庫の電動シャッター・浴室物干しあたりもまあ普通にいろいろあってよかったカタログ通りの性能
(追記)60キロの人が寝られる丈夫さのつくりつけ本棚もまぁ活用してますわ、床にあふれてるけど
(追記)鉄骨でないと家がたたない商業地ゆえに壁が無駄に厚く、その分階段にニッチつくったけど、リンゴとか燃えないゴミとか置いとくのにいい
・ドアのチェーン
在宅でいるかいないか判別できないので閉めなくなった(出勤したおつかれのときにかぎっての締め出しが複数回発生した)
すぐにバネが弱くなってはねかえるようになってめんどくさい
・洗う便器
だれも洗剤いれてないなう
ひととおり1回ずつ基盤などの壊れが発生した
・二階の洗面所の蛇口に浄水器つけさせてくれ、鉄管ビールという言葉があるほど風呂上りの新鮮な浄水はうまいんだ
・今日でてたけどほんと背の高い人に日本の台所低すぎ問題はあるある
設備品
ベッドマウントディスプレイを着けると、そこは新橋あたりの居酒屋で。入り口で幹事の名前を伝えると、個室を無理やり繋げました、みたいな、20人がぎゅうぎゅうで入れるかどうか、くらいの和室に通されて。そうしたら先に仕事を終えていた同僚や、新卒の幹事がすでにテンション上がっていて。「おー!増田さん、お疲れ様です!」「早いね、よく抜けてこられたね」みたいな声をかけられながら、コート掛けに荷物をかけて。乾杯は部長が着いてからですよねー、みたいなやり取りをして。
で、同僚が全部バーチャルね。そんな同僚はいないわけ。こっちはAIの問いかけに、設定を理解しながら話を合わせて。こういうのがホントのバーチャル飲み会。
まあ好みの範疇だろうなあとは思うが、私のケース
これが戸建てを買った理由の一番。
子供が大きくなった今では、無駄に広いバスルームなのだけれども。
が、故に建売の選択肢が無くなる。
いろいろと注文ができる。
実家でダメなところがあったので、けっこう考えたつもりなんだけれどなあ。
100点というわけにはいかず。
無駄だったのは、リビング以外に配置した電話線とかテレビのアンテナ線。
戸建てだと、もうデフォルトかも知らんけれども。やっぱり便利。
もう一回チャレンジできるくらい財力があれば良いんだけれどね。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
うちは普通のサラリーマン家庭なのですが、父方の祖母は、占い師か拝み屋みたいなことをしていました。とはいえ、謝礼にお金はもらっておらず、食べものばかりだったようです。それも手をつけることはなく、近所のお稲荷さんにお供えしていました。
私が大学の時、先輩と出会いました。先輩はゼミのOGで、就活の相談で知り合いました。色白で、黙って座っていたら良家のお嬢さんという印象です。しかしどこか掴みどころがない人でした。
祖母が先輩と会ったのは、相談の時に私が忘れ物をしたのがきっかけでした。
春先だったか梅雨だったか、よく覚えていないのですが、雨が続く時期だったと思います。
友だちからもらった、ディズニーのお土産のタオルハンカチでした。大事なものだったので、同じ沿線だから駅まで持っていって渡そうか、という先輩の言葉に甘えました。
出掛けに、祖母も駅前へ花を買いに行くというので、一緒に向かいました。
先輩を見るなり、祖母は「とら」と言いました。ハンカチを渡してもらいながら、何を言い出したかと、私はポカンとしていました。
「お嬢さん、ごおうのとらでしょ。お母さんとお父さんの干支は何?」
「母はひ(き?)のえうまです。父はごおうのとらです」
先輩はちょっと驚いていましたが、割と平然と答えました。
「昔、古いおうちに住んでた?」
ここで根掘り葉掘り尋ねる祖母をたしなめようとしましたが、「色々聞いちゃってごめんなさいね」と、自ら質問を切り上げたので空振りになりました。
後から聞きましたが、先輩は育ちが西の方で、昔住んでいた家が、さるお屋敷の離れを一戸建てに改築したものだったそうです。訛りが全くなかったので驚きました。
その時はそれで解散となり、おばあちゃん何なんだろな、と思いつつも、それで終わりでした。
祖母と先輩が次に会ったのは、夏になった頃です。祖母はこの時期に、一番拝み屋的な仕事をしていました。とはいえ、詳細はよく知りません。謝礼のお供えものをもらってくるので、そうと知れただけです。息子の父が何も言わないのはともかく、嫁の立場の母は、こういうのどう思っているんだろうと思っていましたが、母は全く咎めませんでした。祖母と母は、仲良しとまではいかないものの、ごく普通の関係でした(それが実は大変なことだというのは今はわかっていますが)。
7月の中頃だったと思います。先輩と連絡を取りたいと祖母に言われ、私はびっくりしました。拝み屋絡みか、と訊いたら否定しませんでした。しつこく粘られ、「先輩が承諾したら」「私にも詳細を教えてもらう」という条件でしぶしぶLINEしました。先輩は祖母が拝み屋ということにもさして引かず、むしろ面白げにあっさり了承しました。
手伝いというのは、祖母の指定する家に一晩泊まるという内容です。孫の私でも、かなり怪しい話です。
「心配なら、W(私)ちゃんも泊まりなさいな」と祖母は言い、私もそうすることに決めました。
向かった先は、有名な温泉街の駅でした。交通費は先方持ちとのことで、温泉に入った後、駅からタクシーで向かいました。山坂のある道で、結構距離はあったと思います。
途中、神社にお詣りし(なんという神社か失念しましたが、たぶん八幡様だったと思います)、着いた先は、ごく普通の一軒家でした。
祖母は入る前に、先輩に「和室で待ってる人がいるので、やってもいいと思うなら、肩を叩いてあげて」と言いました。それから、二階には上がらないこと、全員一階の和室で寝ることを言われました。
インターホンを押すと、奥さんらしき人が、扉を開けてくれました。少し疲れた印象でした。二階に上がる階段は、入って正面の突き当たりにありましたが、赤ちゃんやペット用の柵みたいなものが塞いでいたので、うっかり上がることもなさそうでした。
和室には祖母の言ったとおり、高校生ぐらいの男の子がいました。背の高い、いかにも運動部という感じの男の子です。集団でいたら避けたいタイプかもしれません。しかし妙に落ち込んでるように見えました。歳や見た目割りに、大人しいというか。先輩は、特になんともなく、その子と叩きました。
その泊まりは何もありませんでした。
ラップ音とか、怪しい影とか、変な声とか、何も。
というか、実はこの話、最後までそういうのはありません。
まあ、私も先輩もいわゆる霊感などなく、先輩に至っては、夢で幽霊や化け物が出たら、怒り狂って殺しにいくとのことでした。だから怖い夢が怖くないと言っていました。
夢占いだとそういう化け物殺しはストレスの兆候らしいのですが、今となってはどうかはわかりません。
夜のご飯は弁当(高いの)を持ち込みましたが、朝はおにぎりと味噌汁を出してもらい、そのまま帰りました。帰り際に、祖母は封筒(おそらく交通費や弁当代)と、お菓子か何かをもらっていました。
私と先輩は訳がわからなかったものの、温泉・高級弁当・タダということでラッキーという感じでした。当初の怪訝さはどこへやら、うまい話ヤッターみたいな感じになりました。
結論として、この手伝いは数年続きました。夏が多かったものの、季節関係なく、先輩のスケジュールが空いていれば成立しました。
色々なところに行きましたが、大体条件は同じでした。
温泉があれば寄る。
先輩が居間の人の肩を叩く。
二階や特定の部屋には入らない。
祖母・先輩・私は同じ部屋で寝る。
ほぼ、先輩は肩を叩きました。
時折、臭う不潔な人や、ずっとうめいてるような露骨に変な人もたまにいましたが、普通に叩きました。
しかし、数回だけ、叩かないことがありました。
その時はその家には泊まらず、謝礼も貰わず、祖母持ちで、ビジネスホテルや空いている旅館に泊まりました。
叩かなかったいずれの時も、先輩がものすごく機嫌が悪くなりました。本当に、露骨に触るのも嫌という様子でした。普段飄々とした先輩が、突然牙を剥くみたいになるのです。
先輩の声は女性にしては低い方なのですが、「叩けません」という声にはドスがきいて一層迫力がありました。はたから見ていても、とても怖いのです。
叩かれない人は、ずっと呆然としていたり、逆にニヤニヤしていたり、やはり変な様子でした。しかし、叩かれた人にも変な人はそこそこいたので、正直私には差が分かりませんでした。
先輩に後で訊いてみると、先輩も理屈はわからないものの、とにかく本当に触れない、触りたくもない、汚らわしい、腹が立つ、という気持ちになったそうです。
今思えば、そういう不思議なことは間違いなくあったのに、直接的に怖い訳ではないと、存外平気なものなのだな、と思いました。
この手伝いがなくなったのは、突然でした。祖母が「今までお手伝いありがとうございました、これで最後になります」と、宣言したのです。秋か、冬のことでした。
最後のおうちは、特に印象はありません。そこの人は、肩を叩かれました。白い猫ちゃんがいて、私にも先輩にもゴロゴロいってかわいい子でした。
先輩は「役に立ちました?」と訊き、祖母は「大変助かりました、ありがとうございました」と言って、先輩にお礼は何がいいですか、と尋ねました。
「それじゃ最後にWちゃんも含めてお食事しましょう、それがうれしいです」ということで、祖母の奢りで3人でふぐを食べました。祖母は奮発してくれ、一番いいコースで食べました。
その後、先輩は引っ越して県外に行ってしまい、私も仕事に慣れて忙しくなり、疎遠になりました。
結局あの手伝いはなんだったのか。
その時、祖母は、私が先輩から借りっぱなしにしているものはないかと訊き返しました。先輩とはものの貸し借りはなく、お金などは代わりのものを奢ったりして都度トントンにしていたので、そういうものはありませんでした。
それを聞くと、祖母は話してくれました。というかメールですが。
「K(先輩)さんはね、とらです。悪いものには、ものすごく怖いとら。動物のとらみたいに、いるだけで怖い。巡り合わせもありますが、滅多にいないひとです」
「泊まりの都合が、合わなかったひとは、もう最初から、助かるご縁がなかったんです。来てもらって、肩を叩いてもらえたひとは、許されてもいいってこと。叩いてもらえなかったひとは、だめ」
「強いと因果も色々あるんだけど、Kさんは、絶対大丈夫。あのひと、甘やかされてないから、馬鹿みたいに運がいいとかはない。だから負ける時は負けるけど、それはそれで、怖いことなんです。自分を負かした相手の運を、埋め合わせに、根こそぎ持っていってしまう。貸し借りのことを聞いたのはね、それと同じで、借りっぱなしで泥棒するのが、とても良くないことだから。ちゃんと謝って返すか、許して譲ってもらうかしないと、持ってるものぜんぶ無くなるまで、持っていきます。自分からは、どうこうしないけど、ずうずうしいとか、わきまえないひとに、容赦しない」
祖母がこのことを言うのは、たぶん私と先輩のご縁が切れたからで、でも忠告でもあるんだろうな、となんとなく思っています。
コロナが本格的に流行り出す前に、祖母は脳梗塞で亡くなりました。
お稲荷さんへの謝礼のお供えの話は、葬式の後に父から聞きました。
父も詳しくは知らないそうですが、他人様の不幸せを、自分の稼ぎにしてはいけない、ということでお供えにしていたようです。
母が嫌がらなかったのも、たぶん金儲けじゃなくて人助けだと思っていたからなのかもしれません。
先輩は、人づてに聞いたところ、普通に元気で、バリバリ仕事をしているそうです。
お手伝い中、会社でパワハラで有名なお局さんに嫌がらせされている、とボヤいていたのですが、結局そのお局さんが部署をたらい回しにされ、会社をやめたそうです。
たぶん、そのお局さんはこの先いいことはないんでしょう。知らないとはいえ、恐ろしいことをする人もいるものです。
もう一つ、昔の友人にCDを借りパクされたという話を聞いたのも、今書いていて思い出しました。それもどうなるのでしょう。
特にまとまりのない文章になってしまいました。まあ、別に怖くもないでしょう。
こんな話は誰もリアルには信じないと思うのですが、やはりこうも変な体験だと誰かに話したくて(フェイクも混ぜてますが)、ここに投げています。
唯一怖いといえば、都合のつかなかった人、叩いてもらえなかった人のことがあります。
どうなったんだろう、とふと思います。
気にはなりますが、出来もしないことに深入りしないのも大事でしょう。
私は虎のように強くもないし、祖母のようにそれを見極めることもできないので。
そうそう。また書いていて思い出しました。そういえば、タオルハンカチを届けてもらった時に「親切にしてもらうのだから、お礼を持っていかなきゃ」と、祖母はゼリーを用意してくれました。あれは今思えば、なかなかファインプレーだったのかもしれません。
オチのない話で申し訳ないですが、あなたの暇潰しにでもなれば幸いです。
***
虎の威を借る狐だった。
こんなこと何度もないですよ。これが初めてです。
皆さんもお気をつけて。
***
だから気をつけてと言ったのに。
まだ気付いてないんですね。
これはとらの話なんですよ。
残念です。
***
縁がなかった、許された、許されなかった。
その差は?
だって良かれと思ったことが、こちらは些細と思ったことが、向こうを怒らせてずっと恨みを買うなんて、よくある話じゃないですか。人間相手ですら。
びっくりするぐらい真反対の考え方の人って、実際いるでしょう?
私は間違えない?
私は正しい?
本当に?
信じるって、そんなあっけらかんにしていいことなんでしょうか。
***
急に寒くなりましたね。
狐よ、肥えろ肥えろ、どんどん肥えろ。
***
黄質黒章、鋸牙鉤爪。
のこぎりの歯とかぎづめを持つ、黒いすじを持つ黄色の化け物。
訳が分からなくて、怖いですよね。
でも、それに「虎」と名付けたら?
だから「とら」にした。
少しでも縁のある器に注いで、形を捉えた。
そういうことなんですかね。
でも、名前が付いたからって、虎は本質的に虎のままじゃないですか。
ましてや「とら」だなんて、図々しいじゃありませんか。
そういうものの名を、人の分際で決めて、しかも領するなんていうのは。
定義付けるべきじゃなかったなら、せめて、よくある作り話とみんなが思って、薄まらないかなって思ったんです。
これも、いまいちでした。
あんまり詳しく正しく書いて、道理を通そうとするのは良くないんですよ。この手のは。
言うじゃないですか、ラテン語か何かの格言で「神秘は秘匿されるが故に神聖也」って。
でも今時って、皆さん考察したり、伏線や矛盾を突いたり、暴くのがお好きでしょう?
かえって、あちこちに細く尾が走っていってしまってね。申し訳ないことに。
***
これで手打ちにしてくれるそうです。皆さんどうも。
***
長らくお付き合いありがとうございました。
こちら出張の片手間に推敲もせず書いたもので、始末に困って貼ったのですが、存外見ていただけたようで、驚いております。
それでは、本当のお開きでございます。
皆様、余さず頂戴し、骨の髄まで堪能させていただきます。
ご機嫌よう。
25年ほど前、大学生だった私は当時住んでいたアパートにやって来たUSENの営業を断れず、2〜3年ほど個人でUSENを契約していた。
インターネット回線のそれではない。専用端末を置いてたくさんのチャンネルから選んで、音楽やらアリバイBGMなどをたれ流すやつだ。飲食店に置いてあるやつだ。
イキった学生だったためUSENで流れるような流行りの音楽とかにはたいして興味もなく、もっぱら聴いていたのは怪談チャンネルだった。
家にいるときはほぼずっと硬軟たくさんの怪談や不思議な物語を聴いていた。夜も寝るときもずっと流してた。最高だった。
そのなかでもお気に入りの作品があり、もう一度聴きたい、のだけどタイトルすらわからないのでどうしようもない状態である。
25年も立つと記憶もおぼろではあるけれども、その物語はこんな感じだ。
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主人公の男は、会社の同僚のおとなしい奥手の清楚系の女性に恋をした。
何度かのアプローチのすえデートにこぎつける。食事などのデートを重ねて、いよいよ肉体関係を望むが、相手は奥手でガードが固く、姉と一緒に住んでいるからと女性宅に入れてもらえない。
ある日、男のところに派手な化粧、格好をした女性があらわれ、これ以上清楚系女性に近づくなと警告される。あなたは何者なのかと聞くと清楚系女性の姉であるという。
男は納得がいかず、後日清楚系女性に事実関係を確かめるとたしかにそうだという。化粧などで印象は違うが二人は似ている。似すぎている。
派手系姉に色々言われるが交際は継続、そのことで姉妹仲が悪くなってると相談されるが、ここで男は疑問に思う。二人は同一人物なのではないか?交際をやめたい女性が化粧、格好を変えているだけなのではないか?と。もしくは二重人格なのでは?と。
姉が留守だという日に、男が女性宅にいよいよ招かれると、姉が使っているという和室には大きな姿見がひとつ置いてあるだけであった。あと猫飼ってる。
なんやかんやあり、後日、清楚系妹が交際を反対している姉と口論になり殺してしまった。そして庭に埋めたという。男が女性の自宅に行くと庭を埋めたあとがある。そして飼っていた猫がいない。
そもそも姉なんていなかったんだ、と男が庭を掘り返すと...
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一番の理由は親族が土地を持っていたから(最寄り駅が都内ターミナル駅15分圏内。最寄り駅徒歩5分)。
お金に余裕があればマンションが良かったなーと思っています。(都内の4LDKマンション価格を見ているととても買える気がしません)
元々駅直結マンション、2LDKに夫婦+未就学児の3人で暮らしてましたが、2人目が産まれ2LDKが手狭になったので引っ越しを考え始めました。
マンションの利点は立地と、管理をお金を払って外注できることだと感じました。
ただ購入する場合、管理組合の存在がコミュ障の私にはハードルと感じていました。共用施設の運用や修繕等のメンテナンス、そういったことを決めるのに管理組合で決めなければいけないことを想像すると…私には難しいかもしれません(短期間で住み替える前提であれば良いのですが)
でも24時間ゴミ捨てができるのは最高でしたし、駅チカの恩恵はすごかったです。
賃貸購入問題は家に対する価値観が「終の棲家」だったので購入一択です(どっちが正解とかなく価値観の問題)。
土地について
・立地:郊外だけどそこそこ商業施設もある地域。通勤ドアドア1時間以内だったので良しとしました。(コロナで夫は今後もほぼフルリモートになった)
・子育て環境:大小公園がそこそこある。中学卒業まで医療費無料。若い世帯も増えており保育園も多い(足りてはいないが)。小学校が近い(中学校は遠い)。」
・土地:60坪程度の変形地。接道は所有権有りの私道。第一種住居地域。
ただ、SUUMOに掲載されていたら選ばなかったと思います。(金額的に買えないというのもある)
メーカー選定の流れ
ざっくり予算を設定してハウスメーカーや工務店に見積もりを貰いに行きました。
何も知らなかったので、ふらっと住宅展示場へ行きましたがスーモカウンター等からの紹介の方が良い担当が付くという噂を聞き後悔…(結果的に良い担当に出会えましたが)
さっくりと要望はこんな感じ。
・建坪40坪~の2階建て
・1F LDK+和室+水回り 2F 主寝室+子ども部屋+書斎
・洗濯は室内で完結させたい。
・パントリーがほしい
複数社から見積もりをもらって、どこにするか決める流れです。(メーカーによって見学会があったり、色々お金がもらえたり…)
ハウスメーカーの決め手
某大手ハウスメーカーには私達の属性や土地代が必要ないことを理由に予算を大幅に超えた提案をされたり、某SNSで人気のハウスメーカーにはとにかく性能アピールをされて要望が聞かれなかったり…そんな中、ふとした一言すら覚えて提案してくれる担当に出会えたので決めました.
結果としてその判断は間違ってなかったと思います。なぜなら、注文住宅は本当に決めることややることが多くて絶対になにかが抜けてしまったり、あれ?って思うことが発生します。これがあのハウスメーカーの担当だったら…と思うとゾッとします。シビアな話(間違いの指摘とかお金とか)でも遠慮なく話せる担当を選ぶことは大事だと思います。
営業担当なんて家造りで関わるうちのたった一人…というのも正解だと思います。でも例えば設計担当が気に入らなかったら、誰に交代をお願いするか?営業担当です。営業担当さえ誠実に対応してくれれば、大凡のトラブルは解決できたりする、それがハウスメーカーの営業担当だと思います(大変な仕事だ)。
※個人の感想ですが、同じメーカー内だと皆人柄は何となく似通っていました。(支店長、設計、IA、現場担当、庶務etc)
・アフターサービス の充実度
建てて終わり!というのはイヤだったので、ある程度大手でアフターサービス専門部署があるメーカーを選びました。
保障もできるだけ長い(60年)メーカーを選びました。もちろんメーカー経由だと何でも高いし、メンテナンスにもお金がかかることは承知の上です。それも込みで予算を設定しました。
・予算
契約後に仕様を詰める中でかなり総額は上がりました。…なのでそれも含めて最初に予算を伝えるべきだと思います。(500万くらい上がった。建坪アップと外構のせい)
ローンをどこで借りるかという問題もあるので、月の支払いイメージをしっかり持っていたのは良かったかなーと思います。
良かったこと
・こだわりを実現できる
1階で生活が完結できる間取り、を目指していました。特に洗濯動線は、洗う/干す/収納 が一部屋で完結する間取りが実現しました。これズボラには最高!
夫は書斎を好きなように出来ててとても嬉しそうで良かったです。(書斎に引きこもられると寂しいですが…)
・子供が嬉しそう
走り回っても怒らなくて良いし(破壊されそうな時は怒るけど)、公園に行かなくても庭で楽しく遊べるし、楽器の演奏も気兼ねなく出来る(防音性能が高い)。
良くなかったこと
ハウスメーカーの方も配慮してくれて自宅に来てもらって打ち合わせしてたけど、実物を見るためにはショールームや展示場に行かなくてはいけなくて、赤ちゃん連れだと本当にしんどかった…
間取り、キッチンやお風呂等の設備を決めて、内装の打ち合わせ(それこそドアの取手や手すりの金具の色迄自分たちで決めるので本当に長かった。私達は合うIAさんだったので、ある程度お任せしましたが)、照明やカーテンを選び、外構も打ち合わせをして家具も選び…並行してローンの事前審査をしたり、毎週末打ち合わせしてました。
次は施工が始まるので可能な限り現場を見に行って、差し入れもして…振り返っても本当に疲労困憊でした。
子供が産まれる前に建てた方がそういう意味では楽かもしれません。
・高い
建売と比べると高いです。やっぱり。私達も土地がなければ今のメーカーとはご縁がなかったかも…?
でも敷地内に2台分駐車場もあるし、都内賃貸時代と比べると月々の支払いは半分以下になりました。(固定資産税等の税金や修繕費の積立分を考えても)
工法によっては実現できない間取りや構造もあります。本当にこだわりを実現するなら、ハウスメーカーでめちゃくちゃお金を掛ける(展示場の建物は高額オプションだらけ)か、工務店や設計士さんとゼロから創り上げる必要があります。
ハウスメーカーはある程度標準品があり、その中で選ぶことを前提としているので、壁紙でも気になるメーカーがあれば自分で探したりする必要があります。(が、標準品でも我が家は十分満足でした!)
総括
総じて大満足です。
子供がいる場合の注文住宅、ということでは保活問題は大きかったです。区外への転園、しかも二人同時、という高難易度ミッションでした…
共働きで頑張ってローンを返済していきたいですね。
(いくら?っていうのが一番気になると思うので参考までに、我が家の場合は約100万/坪でした(外構・諸費用込)。高い!。これに土地の価格を入れると…親族に感謝です)
やっと引越し先決まった
民間でも一応さがしてお店いったけど、うさんくさいしめんどいし余計な手数料とかが多いから嫌だなと思ってたところ、
コロナであんまり物件もあかない傾向あるとのことで運がよかった
東京いたときに八王子で家賃2万の団地内見したことあったけどそれ思い出した
家賃安い理由きいたら、隣が精神障害?かなんかでやばい人住んでるからってことだった
そこの物件と似てるけど今回違うのは住んでる住人の質とURの安心感と交通とかまわりの施設とかだな
エレベーター付き
鉄骨鉄筋
築40年くらい
1Rでトータル30平米くらい
エアコンは去年買って取り付けたばっかり
室内洗濯機置き場あり
独立洗面台あり
光ファイバーあり(FTTH、VDSL両方だけどFTTHにする予定
元和室だったので押入れをクローゼットにリフォームした収納あり(そのため収納広い
はいってすぐのとこにも小さな押入れ程度の収納があって予想以上
元和室だったので畳の上にフローリングはっているのでちょっとフローリングが歩くとべこべこする
キッチンはまないたおいたりするスペース、洗い場、ガスコンロスペースという感じでスペース十分
コンセントもじゅうぶん
ちょっとマイナスポイントは、風呂場とトイレに換気扇がついてないこと
あーそのまえにURの申し込み書類準備しなきゃいかんなめんどい
でもURの明朗会計ほんとうれしいわ
駅近辺の物件、古いマンションしかないわりに町内会費、クリーニング費、鍵交換、保証人必須、保証会社必須とかでほんとうざもん
夢のはじまりは夜だった。私は友達三人とどこか温泉街のような場所に旅行に来ていて、ホテルのチェックインを済ませたところだった。私に一緒に旅行ができるような友達は三人もいないはずだから、その友達が誰だったのか、どんな顔だったかはもう思い出せない。あるいは高校の修学旅行で同室になった同級生たちだったかもしれない。
ホテルは十四階建てくらいの、温泉街にしては大きくりっぱなホテルで、私たちは四人で一部屋の和室に泊まった。皆で浴衣に着替え、宴会場のようなところでにぎやかに夕食を食べた。酒を飲んで心地よくなった私は「先に部屋に戻るね」と言って、友達三人を残して宴会場から抜け出した。私には昔からこういう空気が読めないところがあって、だから友達もいないわけで、やっぱり三人もの友達と旅行になんて行くわけがない。
部屋に戻ると、すでに四人分の布団が敷かれていた。食事の間に用意してくれていたようだ。私は自分の布団に潜りこんだ。眠気はすぐに訪れた。
さらに夜が深くなり、あのまま眠ってしまったらしい私はうっすらと目を開けた。部屋の電気はついたままで、けれど室内に他の三人の姿がみえない。敷かれていたはずの他の布団も見当たらない。まだ微睡んでいる意識の端でふと、私はもどる部屋を間違えたのかもしれない、という可能性を考えた。アルコールで思考が鈍麻していた私は、それでもいいかと思ってそのまま目を閉じた。
翌朝、目を覚まし、今度は完全に意識が覚醒した状態で室内を見渡した。何度みてもやはり、其処には私一人しかいなかった。
思ったとおりだ。私はもどる部屋を間違えてしまったんだ。
とくだん焦ることもなく私は冷静に自分の荷物をまとめ、スマホの充電がいっぱいになるまで少し待って、部屋のドアを開けた。
ホテルの廊下が続いているはずのそこには、明るい外の景色があった。それも、よく見慣れた、私の実家の玄関を開けたときに見える畑と砂利道と住居と、そういう眺めが目の前に広がっていた。
私はさすがに驚いて、たった今まで自分が寝ていた部屋を振り返る。ホテルの部屋だと思っていたそこは、私の実家に替わっていた。もう誰も住んでいない、置いていかれた家具がなんとか朽ち果てずに残されているだけの、異質な存在感を放つ廃墟が私の背後にあった。
私は酔っぱらって、ホテルの部屋に戻ったつもりが実家に帰ってしまっていたんだ!
情けない気持ちになりながら、とりあえずホテルまで戻ろうと外に出たところで足が止まる。実家からあのホテルまでのルートなど私が知るはずもない。途方にくれたが、私はそれでもホテルを目指して歩いた。そしてすぐに気づいた。あのホテルは私の実家のほとんど真裏に建っていた。
視界にあらわれたホテルは来たときよりも小さく、ペンションのような見た目に変わっていた。
しばらくホテルを見あげて立ち尽くしていると、入り口から引率の先生のような中年男性がでてくるのが見えた。いなくなった私をさがしに来てくれたらしい。友達四人の小旅行だったはずの旅行がいつの間にやら、修学旅行か何かに変わっている。気づけば私は当然のように学生服を着ていた。
「一体どこにいたんだ?」
小走りで駆けよってきた先生が私に尋ねる。私はその瞬間、廃墟となった実家で一夜を明かしたことを話せば奇異の目で見られるのではないかと不安になり、曖昧に口ごもった。まごつく私に先生もそれ以上追及することはなく、私をホテルのロビーまで連れていってくれた。
ホテルのロビーでは、先生に付き添われて私は誰かを待っていた。友達三人のことを待っていたような気もするけれど、はっきりとは分からない。それでもただ、私は待った。ロビーには私のように先生に付き添われ誰かを待っている人が他にも何人かいた。あてどないような、茫洋な表情を皆そろって浮かべている。それを見るうちに私は、昨夜の出来事をすべて先生に話してしまいたくなり、これまでの経緯をとつとつと先生に打ち明けた。
「私、本当はやっぱり、実家出るの嫌だったってことなのかなぁ」
最後にそうつぶやくと、先生は私を見て黙った。それからゆっくりと、正面の大きな窓に目をやり、その向こうに見える立体駐車場を指さした。あの駐車場は昔は駐車場じゃなかった、あそこには誰かの住居があった、でも今はもうない。そうやってすべては変わっていくものだと、先生はしょぼくれた私を励ますように喋り続けた。
私はぼんやりと、良い人だなあこの人、でも、たとえ話は上手くないなあと思いながら、熱心に語られる話を右から左へ聞き流した。
目が覚めた。今度こそ本当に、そこには現実の朝があった。
まだ夢の記憶が鮮明な私はしばらく体が弛緩したようになり、とても起き上がる気になれなかった。まったくなんて夢だろう。
来月、転職が決まっている。新生活のスタートだ。もうあと半月と経たずに、私は生まれてから二十数年を過ごしたこの家を出る。夢の中ではすっかり空っぽの廃墟になっていたあの家に、現実の私は今、まだ、あともう少し、住んでいる。
住み慣れた我が家の廃れきった姿、それでもそこに帰ろうとした夢の中の自分を思うと、切ないような気持ちがこみあげてたまらない。