はてなキーワード: 卒業式とは
「こんな… お花なんて頂けるって… 誰が考えますか?
他の番組とかも ちょこっと出たり…………………
すいません…… ちょっと……(泣き崩れる)」
僕は、この『ガキの使いや』が……………大好きです……
色んなこと…色んなことを考えてたんですが……
すいません……ちょっとすいません……(泣き崩れる)」
「いっぱいの…
僕は、14年間……………………
14年間…………『ガキの使いや』をずっとやってきて、
……もう何も 言えませんけれども……………
………ありがとうございまし………………………
ありがとうございました……………(泣き崩れる)」
「…こんないっぱいの…
僕は………
ガキあら………
2回目から出てたので………
15年 やってきて
…ごめんなさい……………
…クハハハ……ァハァハァハァハッ
…ちょっとすいません……………
涙はアカンって言うたやろ……………(退場)」
「…ガッ…………
この『ガキの』…………
一生懸命 やってきて……
…ァッァァ…………………
…ァッァァァァ……ァァァァ………
ぼく………………
涙はアカンって…言ったのに……………
……………ンンン!ンンン!ンンン!
ゥゥゥウヌハハッハッハッハァァ…(退場)」
「この……こんないっぱいの………
花束 誰が貰えると思いまっか?
『ガキの使い』の
『ガキの使いや』が始まって
2回目からです…
ぼくが出場してて………
この日が来るとは…………
思ってもみなかったですよ
ェッェッェッ遠藤くんとか
やっと『くん』付けで 呼べるようになったのに…
ァッァァァァ…
涙はアカンって言ったやん!(退場)」
「こんな……こんないっぱいの花束に
誰が囲まれると思いまっか?
『ガキの使い』の
2回目からぼく 登場させてもらいまして
18年間でまさか
こんな卒業になるとは思わなかったとですよ
みんなの暖かさが 染みに染みたとですよ
ェッェッェッェッェッェッ 遠藤くんが
井本くん…
やっと可愛がって貰えると思ってたのに………
アアアアアア!!
………………助けてくれェ………
どうか助けてくれ………
アアアアアアアアアア!!
「こんないっぱいの…
いっつも 5人で やってきたんです
いつも囲まれて 頑張ってきたのが 本当に………
ココリコさんは いつも
ぼくの事を
ぼくも「おはようございます」って言って…
スタッフ…スタッ…
……デァァアアアア!
スタッフの皆さんとか
「おはようございます」って 言ってくれて
20年間やって… 僕に……
いろんな…………………………
その時には
その時には 応援してください
局次長…
局次長が 偉くなって………
ァァァァ… ァァァァァァァァ…
なんで 局次長になったの?!
なんで 局次長になったのォ?!
局 次 長 …………(退場)」
「こんな……
去年やったかな?
『笑ってはいけない』演ったん…
あれはすごい楽しかったねぇ って言って…
すいません……
去年の年末のことを思い出したら 急に…
助けてください
誰か 助けてください
助けてくださあぁい!
嫌だァアア!
やめたくないよォ!!
嫌だァアアアアア!!!
やめたくなァァァあい!!
絶対動かないぞ!!
「僕は…
すいません……
僕は
いろんな番組に
みなさん
ブログとか
書き込み してねェ
…早く 助けてよォ
誰かいるでしょ!
もう嫌だァアアアアア!!!
嫌だ嫌だ! やめたくないよォ!!
しょうがないのよォォォ!
助けてよォ!!!(退場)」
「こんな…
いっぱいの 花束に
誰が囲まれると思いまっか?
『ガキの使いや』の思い出が
胸いっぱいに広がってます
去年の見ていただけましたか? 皆(みな)
色々言ってくれて 嬉しかったですよ
……アレ?
イモトくん?
なんで? どこ行ッてたの?
教えてくださいよォ
…ァハァァァァアア!
ッハッハッハッハッハハハハッ
ビックリしたよォ!!
いもとくん 居ないからァ!
もう!!
嫌 いや イヤァァア!!!
嫌 嫌 嫌 嫌 嫌 嫌 嫌 嫌!!!!!
やめたくないよォ!!
超 言っちゃった やめちゃうって !!
超 言っちゃったよォ!!
どうしてくれるのよォ!
(ペシッ) 誰が叩いた!!!
頭 叩かれるの嫌なんだよォ!!
超ヤバイよ!
息が苦しいよォ…(退場)」
爽やかな卒業式に やろうとしてるんで
僕は……
泣いたらあかんぞォ…
23年やってきまして
いつも ココリコさんとか
色々言ってくれて 嬉しかったですよ
…イモトくん!!
なんで浜田さん 休んだのよ!!
「浜田さんが来る!」って 楽しみにしてたのに!!
アァァ!!!
…ァァァアアッッッ アアアイウエッッッッイヒヒヒッッ
もう訊かないで 絶対に
分かんないから!
嫌だ もうイヤイヤイヤイヤ
ヤダぁ! なんでこんな事になってんの!?
お願いよォ!!お願いよォォ!!(退場)」
「ハハッ……
23年間やってきて、
23年間やってきて テレビを
初めて 悲しいと思ったです
アアアアアアアアアッ!!!!
辞めたくない!!
絶対に辞めたくない!!
嫌だ!
全然 馴染んでないでしょ! (退場)」
松本「いつもより泣きが短かったですね」
「誰もが 通る道です
こんな 花束いっぱいの 時を…
泣いていい ってもんじゃないんですよね すいません
本当にすいません……
って思ってたけど………
…エヅレくんは?
ADのエヅレくんが一番好きだったのに…!!
才能があったよ!! あいつは才能があった!!
そうでしょう? エヅレくん…
一回も話さなかったね………
喋った事ないよ… 一回も喋った事ないけど…
エヅレくんは才能があった!!
………
力が抜けてきた………
なんで力が抜けるの………?
力が抜けていく…………
ヤダヤダ! 辞めたくないよォ!
ァァァァア痛ぁい! …誰やオイ!? 今の!!
本当に痛いやつやったん誰だよォオオオ!(退場)」
「こんなに 花束いっぱいの 誰が貰えると思うんまっか?
もう 今ね
色んなことが 頭の中に
思い出がいっぱいあるから!
4人の思い出がいっぱいあるから!
5人の思い出がいっぱいあるから!!
…プッハハハハハハハ!!
頭に浮かんで 僕は 卒業をす………プハハハハハ!
すいません……
力が抜けてきました………
体調が優れません…
体調が 全然優れません……
これだけは言わせろよ!
エヅレくん!!スタッフの!!
エヅレくんを呼べ!! あいつは才能があった!!
ええ加減にしろよ!
エヅレくんは!?
エヅレくんが……痛い!!!!!
折れたァ!!!
誰や今の…………エヅレくん… 歩けないよォ(退場)」
「…誰が……こんな……
こんなに 花に埋もれると思いますか…?
5人でやってきたんです
5人でやってきて……
…皆が居なくなって、ぼく一人になるっていう夢を見たんです 実は
ぼくすごく寂しかったよォォォオ!
でも!その時は!!!!!
泣きませんでした。
その時は、『ガキの使い』で一人になっても泣かないで、
ずっと一人でやってたんです。
あぁ!思い出したぞ!
その夢を思い出した!
「浜田ちゃァん!」って言ってた!
………悲しいなぁ……
気分が悪くなってきた…
マジマジマジ
マジやで
最後に
お前が 俺の 親友です
離れたくないよ…
田中直樹と離れたくない…
好きなんです!!!
好きだあああああああァ!!!
たー!なー!かー!
たー!なー!かー!
なー!おー!きー!
まだだめだぞ
オイ! 離せ!!!
30年頑張ってきたんだぞ!!
なんにも残してないんだぞ!!!!!
ウワアアアアアアアアアア!!!
(※【さようなら月亭方正】卒業スピーチで毎年流れるあの曲を音源化してみた https://youtu.be/myFL9pPNJr0)
まだ現役合格を諦めきれなく、後期私大の申し込みを行いました。
プライドが高い為周りの友人には話せずこのような形で1度気持ちの整理をつかせたいと思います。乱文になると思いますがお許しください。
中高は私立の一貫校でした
私は小学生の頃塾に通う=携帯電話を持たせてもらえるという安易な発想で中学受験塾に強請って通わせてもらいました
運良く頭はそれほど悪くなかったため、週5日塾に通い多分余裕で今の進学先に合格しました
裏を返せば何もしなければ入学当時のまま
私は完全に後者でした
なんとなく高校生になってから塾の講習へ行き、進路に迷ったりなんだりして結局志望校を固めて本気を出しはじめたのは高3の秋ごろだと思います、今考えると遅すぎる開始ですよね
一応冬には自習室に篭り、過去問を解くという日々でしたが私立専願のくせに私大より簡単なセンターの問題ばかり解いていたり毎日現実から逃げていた気がします
受験をしたことがある方ならわかると思いますが早慶目指しているレベルには足りない結果でした
もちろんここでセンター利用全滅です
滑り止めもダメでした
その後滑り止めの学校も受けた感じはまあ受かるだろうって自分では思ってました
今でも滑り止めに関してはなぜ落ちたのかわかりません
手応えとしては歴史が苦手だった為歴史が足を引っ張った気もしたが1学部は自信があり、2学部はまあ最低点は取れているだろって感じでした
まあの2学部はまだ合否出てないんだけどこの調子だと受かった気がしない
正直これの全落ちは予想外だった
これはちょい歴史でミスったなとは思ったけどそれ以上に国語は常に満点だと思っていたし英語も良い結果だったと思う
先に書いたけど自称進学校の進学先内訳はトップ50人ぐらいは早慶行ってあとはマーチ
就職や専門に行ってる人は5年に1度くらい
でも去年先輩めちゃくちゃ浪人してた
どうしようかな〜いきたくないな〜っていうのか本音
ちょっとでも進学先のこと聞いてきたやつ殴りたくなると思う友達少なくて良かった
とりあえず後期私大まであと1週間、2週間?
それも全滅したら浪人するってさっきようやく口に出せた
プライドだけで上位校受け続けるとほんと後悔しか残らないし毎日泣く羽目になるから後輩たち、もしこの記事を読んだりしたら模試の結果を見て、自分の成績をよく考えて、志望校決めてね
どこまでも面倒だね
良かったらこんなクズな受験生いたなって思い出して応援してください
予想以上に励みになります
そう言われると、「はいはい反日左翼は日本から出て行け」と思うことだろう。
→反日か?
日本のことが好きだからといって、その全てが好きでなければいけないということはないだろう。
→左翼か?
どちらかといえば左寄りの思想の持ち主であることは否定しないが、左翼ではない。
日の丸・君が代に反対する人たちの、先の太平洋戦争でー、韓国がー、中国がー、という理由には同意しない。
それが、国による「抑圧」、国への「服従」「隷属」を象徴するからである。
日の丸に向かって起立せず、君が代を斉唱しない教官は、懲戒される。
世の中には何らかの理由(それが意味不明なものであったとしても)で起立斉唱したくない人がいる。
これを無視して強制することは、「お前、日本人なら、日本を愛しているなら起立斉唱できるよな?な?」と迫る、ただの「踏み絵」である。
卒業式会場で大声をあげて「日の丸・君が代はんたーい!」とか言い出したら、それは式を妨害することになるから懲戒もやむを得ないだろう。
でも、静かにその場に座っているだけなら別にいいじゃんか、と思う。
寛容が大事。
そうして、日の丸・君が代が踏み絵にしか見えなくなり、嫌いになってしまった。
私は小中高で日の丸を掲げ、君が代を歌う教育を受けたが、こんなひねくれた人間になってしまった。
愛国心を育てるための教育が「北風と太陽」のような結果になってしまって残念に思う。
日の丸のデザインは良いと思うし、君が代も厳かで良いのに、踏み絵として使われてしまって残念至極。
しかし、一時期の「起立斉唱しない人は反日バッシング」は私の心に強いマイナスのイメージを植え付け、
それが消えるまでには長い時間がかかることだろう。)
私と兄は3歳違いの兄妹です。あれです、入学式とか卒業式被って困る年齢差のやつです。
題名の通りなんですけど、兄の反抗期だった時について今でも消化しきれてないことがたくさんあるのでつらつらと書いておこうと思います。推敲もしてないので乱文長文です。
兄の反抗期は大体中1から高3くらいまででした。これが長いのか普通なのかはわかりませんが、この期間私は地獄でした。
もともと兄妹とても仲良し!という訳でもなかったので、まぁどこにでもいる仲が良くも悪くもない兄妹でした。
色々なことがわかり始めた年齢ですね。
兄は壁や扉を蹴りはじめ、家は穴だらけ。窓ガラスを割るという行為をし始めました。
私はなんでそんなことをするのかわからなく「やめてよ!」と言ったところ殴られて首を絞められました。
兄が家を蹴るのに飽き始めた(?)ころは言葉での攻撃にハマりだしました。
リビングにいるだけで、「死ね」「消えろ」「クズ」「ゴミ」「ブス」と言われ続けました。
私の方が先にリビングにいて、兄が入ってきたときは舌打ちされるのが普通、たまに皿やリモコンなどそこそこ硬いものを投げつけられました。
私が後からリビングに行くと「出いてけゴミ」と暴言を吐かれました。
休日母親が早朝から仕事のときは大体兄がリビングを占領していたので朝食を食べずに部活に行き、昼に帰ってきても兄が怖くて昼食もとることが出来ず体重がガンガン減っていってました。それで母親に「なんでご飯食べないの!」と怒られました。懐かしいなぁ。
そのころ私は、兄よりも頭の出来が良く兄が入れなかった高校に私が入れたのとかも反抗期がヒートアップした原因なんでしょうかね。知らんけど。
そんな感じが6年続いていたのでほとんどまともに会話したことはありません。
母に「なんで怒ってくれないの、」と泣きついても「お兄ちゃんは反抗期だから仕方ない。ほっといたら収まるから。」の一点張りでした。
父親は私が6歳の頃から県外へ単身赴任に行っていて年に2、3回会うか会わないかだったので頼りになりません。もともと仕事人間で家庭にあまり関わらず一緒に遊んだ記憶はありません。なんていうか私の感覚では「父親」という肩書きの知らない人です。
ちなみに家族旅行は小3のときの一回きり。それ以前も以降も一度も、日帰りすらありません。
話が逸れましたね。
兄に暴言を吐かれるたびに「いつか絶対にやり返してやる」と思っていましたが、母親には「人にやられて嫌なことはするな」と何度も何度も繰り返し言われたので、結局一度もやり返したことはありませんでした。
「人にやられて嫌なことはするな」
いい言葉ですね。心無い言葉、暴言、傷など私の受けてきたもの、傷付いた感情、それら全て私は一度もやり返したことが無いので、兄は一生それを感じることなく生きていくんでしょうね。羨ましいなぁ。
母親の教え「人にやられて嫌なことはするな」を遵守した結果、私の中の劣等感は未だ消えずに心の奥深くで、真っ黒で、ドロドロと粘着質に、そして確実に今も増殖しています。
なんていうか、この兄の行動、言動を「反抗期」って言葉だけで片付けてもいいんだなって思うと虚しいですね。
私は6年もの間精神的に傷つきへとへとになっていたのに、反抗期だから仕方ないんですね。私は兄から受けたこれらをいじめだと認識してたけれど、世間がこれは反抗期というなら多分ただの反抗期なんでしょうね。
それなら、兄の反抗期に振り回された、私のこの状況にも名前が欲しいです。なんだろうなぁ。「とばっちり」かな?「しょうがない」かな?それとも「みんなが通る道」とかかなぁ?
全国の妹や弟、みんなが通る道だから傷つかないとでも思ってるんでしょうかね。私は19にもなっていまだあの頃のこと思い出しては怖くて不安で惨めでぼろぼろ涙がでてくるんですけれど。これがみんなの通る道ならそんな道はやくなって欲しいです。それか全国の反抗期の奴らの道に続いて欲しいです。
でもそんな兄も大学に合格し、家を出て行きました。もうハッピーでした。兄が家にいない高校生活ほんとうにとっても楽しかったです。
まぁでも兄も全く帰ってこない訳じゃありません。長期休みになると帰ってきます。
帰ってきてびっくりしました。反抗期終わってるんです。暴言も吐かないし殴らないし私の大事にしていたものを勝手に捨てたりとか、とにかくそういうの全くしなくなったんです。漫画などでみる優しい兄でした。
とても気持ち悪かったです。私に死ねと言っていた人間が数ヶ月で「高校生活楽しい?」と笑顔で聞いてくるんです。どういう風の吹き回しなんでしょうか。あんなに暴言いってきたのに、今更普通の兄妹関係に戻れるとでも思ってるんでしょうか。
無理です。私は兄にやり返さないことだけに全力を尽くしたので、兄を許すだけの心の空きがありません。でもせっかく兄が笑顔で話しかけてくるので、機嫌を損ねないように私もなんとか笑顔で話を合わせています。殴られるのは痛いので。
もしかしたら大学でよほどいい巡り会いがあったのか、もしくは心境の変化でもあったのか、反抗期のことを悪いと思ったのかもしれません。だからせめて今からでも妹と仲良くしようなどと思ったのかもしれません。
でもそれなら、一言だけでいいから、あの頃は悪かった、と謝って欲しかった。謝ってくれたら、許せたかもしれなかったのに。
謝るのが恥ずかしいのか、それとも謝るまでもないと思ってるのか、わたしにはわからないけれど、もし後者なら、やっぱり兄とは一生分かり合えないと思います。
私は母親と折り合いがつかずに望まない進学先で精神面を壊しそこから身体も崩し短大を辞めました。精神内科の先生からは「うつ状態」と言われ薬を飲んでいましたが、精神的な薬に良い印象を持っていない母親に薬を捨てられました。ウケる。今はだいぶ回復はしましたが、それでも外に出る気力もなく、こんな意味のない文章を書き連ねています。
好き勝手に生きてきた兄は大学に進学し就職しているのに、兄の裏で沢山のことを我慢して自分の気持ちを抑圧してきた私はうつで学校を辞め今や引きこもりですよ。笑っちゃいます。
私はイメクラ、ホテヘル、ソープといくつかの店舗を転々として今はデリヘルで働いている。
急に嫌になって飛んだら彼氏ができたので風俗を辞めていた1年間を除けば3年間は働いている。
風俗やめられないと思う。
でもきっと戻ってきてしまうと思う。
好きでもないかなり歳上のオッサンに媚び売って性行為、それに準ずることをするのは確かに辛いし大変だ。
でも、慣れちゃうんだよね。
はじめてお客さんについた後事務所で大泣きしてスタッフに慰められたり帰ってからも何度も何度も手を洗って歯磨きしたけど、
今はフェラしたあと普通にお茶とか飲んじゃうし事務所はお金もらったらさっさとお疲れ様でーすって言ってでるだけの場所だ。
事務の1ヶ月の給料は私が今1日8時間×4日働けば余裕で稼げてしまうし、コンビニのアルバイトじゃ遅刻も早退も許されないのが風俗では行きたくないな、で休むことができる。
写メ日記のアクセス数で自分の努力が目に見えるし何度も来てくれる指名の人ができたり、可愛いって言ってくれる人がたくさんいるから承認欲求も満たされてしまう。
欲しいものを我慢しないで買いたいし美味しいものも食べたいし将来のために貯金もしたい。
ずっとできる仕事じゃないからはやくやめなきゃなあ、って思うけど高級デリ、高級ソープのお姉さんはアラサー〜が多かったりするんだよね。
まあ辞めるけど
1.次回出会った時に「私は明後日から来たものだ!」と開始早々から敗北宣言をする。しかし未来の一昨日からは来てるはずなので認めてもらえるはず。だが明後日ボコボコにされることは覚悟しておくべき。
2.先ずはタイムマシーンの開発を進め、タイムマシーンが完成させる。その後、完成されたタイムマシーンを使い指定された一昨日に到着して何も知らぬ勝者に「私は明後日から来たものだ!」と大声で告げる。負けてしまって同様の台詞を言われたならまたその日の一昨日から挑戦する。
勝った場合はタイムパラドックスが生じてタイムマシーン開発の動機が消失し、廃人となって過去を彷徨うことになる。あとなんか爆発する。
3.脳内で「あぁ、彼は未来から過去へ渡っていくタイプの人なんだ」と処理し、当人にとっての一昨日であろう明後日に会いに行く。「やぁ、君にとっての一昨日、僕にとっての明後日に会いに来たよ。」などと精神異常を疑われるような妄言を吐いて彼を困惑させる。「で、僕にしたかった話ってのは何かな?」などと卒業式に後輩に呼び出された先輩みたいな台詞を吐いて相手に無茶振りをし返す。「一昨日来やがれ」などという無茶ぶりをして頭をおかしくさせた彼も悪く、そんな彼には二度と会いたくないと言ったのにまた顔を出してきたふざけた野郎をボコボコにする権利以外は無いなので無茶振りに応える他ないはず。
4.二度と会いたくないって言われる程酷いことをしたのだから、会わないようにするものですよ。
5.それでも俺は負けらんねエ…。だからァ…日付なンて関係ねえヨォ…。俺にはァ、俺にはこの拳しかねエんだヨォ…。だからぁ、俺ァまた明日でもアイツに挑戦しに行くンだァ…。明日でもォ、明後日でもォ…もしかしたら一年経ったってェ…!!あンな事をヨォ…!!あンな事を言われっぱなしじゃあヨォ…!!俺ァ…本当の負け犬にィ…なっちまうんだァ…。だからヨォ…俺はヤるよォ…。アイツがウンザリしてもォ…俺もいい加減ウンザリしてもォ…。戦う前にィ…「負けたッ!勘弁してくれッ!」って言われたってェ…。
この拳でアイツをブッ倒すまで、ヤってやるんだヨォ…。
そう言って、彼はボロボロの姿で帰っていきました。夕暮れの真っ赤な路地を捨てられた野良犬のような獰猛で寂しげな表情で帰っていきました。
うん、自分と似てる。
このときに肩上げ、腰上げしておいて、成長に合わせてほどいていって、成人式でも着るものかと思う。
その先は袴を買い足して、卒業式に使うこともできるし、お見合いや結納でも着られるね。
一年の中ではお正月、桃の節句、お月見と何度か着る機会があると思う。
あと、着る機会がありそうなのは歌舞伎などの鑑賞とか和の習い事の発表会とかくらい?
(ということを「何度も着る機会がある」と書いた元増田は言いたかったんだろうか?)
今はそういうことをしている人、絶滅危惧種だろうね。
友達いないのもあったけど。 醜い自分が綺麗な着物を着ているのはひどく自分の醜さが引き立って気持ち悪いのが想像に難くなかった。ブスはロリータを着たらモンスターだろ?馬子にも衣装なんてのは迷信。
成人式は逃げられたが大学の卒業式の袴は逃げられなかった。卒業式には出なきゃまずいし、でもスーツだと浮くから目立ちたくなかった。トイレで見た自分の姿がえらくブサイクだった。 式後の懇親会にも出ず(友達いないからね)、速攻着替えて電車で帰った。髪だけはセットされてる状態のままだったから、えらく奇妙な格好で帰った。
帰りの電車の中で彼氏から懇親会場にクルマで送ってやるというトンチキなナルシストメールが来たが、帰ったと言ったらキレられた。モラ男だったのだ。
もちろん結婚できてもウエディングドレスなんて着たくないと思っていた。
ここまで書いたのなら鋭い読者なら私が毒親育ちなのは想像つくだろう。ご明察の通りです。憎んでいる両親はお世辞にも美しいといえる容姿ではないし、その遺伝子を引き継いでいる自分が大嫌いなのだ。
しかし妹は母親譲りの頑固さとヒステリーを持っていたにも関わらず大変可愛らしい容姿で周囲から愛され、素敵な相手と結婚した。
30すぎた今、私は当然結婚もできず、ウエディングドレスの気配はない。悲惨さはない。むしろどんどん醜くなっていく容姿に安心すら覚える。
成人式に出る出ないって結構人間を分けるんじゃないかと思ったりするわけです。
成人式に出ようと考えたことすらない自分は以下のような人生を送ってきました。似たような人って結構いるんですかね。社交性に問題があるような気がするんですが、これくらい普通でしょうか。考えすぎでしょうか。自分ではよくわかりません。
「君の名は。」の終盤のシーン。
大人になった瀧と三葉が別々の電車に乗り、たまたまその電車が並行して走り、瀧と三葉の目が合うシーン。
瀧「ずっと何かを…」
三葉「ずっと何かを...」
三葉「探していた!!!」
いやいやいやいや。小学校の卒業式の門出の言葉じゃないんだから。
「頭にずっと引っかかっているが出てこない何か」が見つかった時に、
「ずっと何かを…」「ずっと何かを…」「探していた!!!」って叫びますか?
あまりにも不自然に感じてしまい、テレビで見ている時に吹き出してしまった。
よく「アニメにリアルを求めるな!」というが、僕はリアルを求めているわけじゃない。
わざわざ銃の挙動に突っ込むワケでもない。戦車がどうこうなんて話も、動物の本来の習性がどうなんて話もしない。
フィクションなんだから、出演するオブジェクトは全てその世界観に沿うような動きを取りさえすればいいのだから。
たとえ世界がディストピアになろうが、平安になろうが、中世になろうが、魔法世界になろうが、
人間そのものは不変だろう(細かいコミュニケーションの文化はもちろん異なるんでしょうが)。
どの世界だろうが、人間は、わざわざ用意したような回りくどい言い回しをせず、
その場その場で、今その時の人間の気持ちをぱっとそのまま口にするだろう。
まあ要するに、頭の中で考えて推敲したポエムみたいなセリフより、
そのまま出てきたみたいなセリフの方が多少ダサくてもしっくりきませんか?という話でした。
中学1年生。
■部活の先輩であり同級生のお姉ちゃん、Wに恋をする。本当に可愛い人だった。
中学2年生。
■突然「好きです」という内容の手紙を渡してきた違うクラスのS。あまり喋ったこともなく、初めての事でどうしたら良いかわからず放置。その後も何回か手紙をもらったがやっぱり放置。おさげが似合う美人だっだが別に好きではなかった。その後なんかしらんが俺の事は嫌いだと公言し始めた。
■同じ吹奏楽部のクラリネットを吹いていたIに告白される。ブスで別に好きではなかったが愛嬌のある子でなんとなく、付き合うってのををやってみる。たまに一緒に帰ったり、電話をしたりしたがめんどくさくなって放置。この子とはギクシャクしたまま卒業までいく。
■同じクラスのメガネをかけた幼馴染のHは巨乳になっており、昼休みとかにじゃれあいおっぱいを揉んだりしていた。最初は笑いながらも嫌がっているようだったが、徐々に向こうからそういう事をするシチュエーションを作るようになってくる。いま思うとなんか凄いことだな…。それ以上の事はしてない。
■同じクラスの幼馴染のMが好きだった。ぱっちり二重のキラキラした笑顔は今でも思い出せる。Mはその後ヤンキーと付き合った。
■1つ上の先輩Oがよく家に電話してくる。これは別にその類ではなかったのかも。母親に「好きでもない子と長電話すると損だぞ」みたいな事を言われなんか嫌だった。
中学3年生。
■一つ下の学年のトロンボーンを吹いていたショートカットのAが気になりだす。眼鏡をかけていて笑うと大きい前歯の目立つ、可愛い子だった。校内に「Aとセックスしたい」という落書きを発見したことがある。なんか興奮した。
■秋頃。Aの事が好きだったが、告白されてAの友達のCと付き合う事に。
■Cはタレ目で、まあまあ可愛かったがCの事も特に好きではなかった。放置していた。
■Aが突然ブルマ姿で四つんばいになってる写真をくれる。まだ持っている。当然ネタにしていた。
■卒業間近。なんとAに告白される。予想打にしないことで唖然としていると急ぎ足で去ってしまった。その夜に勇気を出し家に電話。Aのお姉ちゃんがでて「風呂に入ってるよ」と。完全にタイミングをのがす。それ以降電話しなかったし、直接会うことも無かった。なんでしなかったのかな。Aとはその後続きがある。
■卒業式。真面目なクラリネットを吹いていた双子の片割れSが第二ボタンを欲しいと言って家に来た。あげた。
高校1年生。
■同じクラスにいたすごい美人のYに恋をする。Yはその後違うクラスのイケメンと付き合った。
■同じ部活のフルートを吹いてたNが気になりだした頃、友達Tに「Nが君の事気になってるって」と言われ一緒に帰るなど。嬉しかったがシャイで前に進めず、それきり。なんとなくNともギクシャクしたまま、が続くが、Nはその後別の奴と付き合う。Tはその後続きがある。Tには「増田くんは女慣れしてるよね」と言われなんか傷ついた。
■打楽器をやっていたMに恋をする。色白で髪は茶色ががって、目が大きくすごい美人だった。Mはその後OBの先輩と付き合った。
高校2年生。
■部活の1つ上の学年の先輩Kに告白される。顔が小さく、背が高い。元気で明るい人だった。迷ったが付き合うことにした。
■Kは今までの子と違いとにかく積極的だった。毎日一緒に帰ろう、と言ってきて、時間があれば休日もデートをした。一緒にいて楽しく、異性と付き合う事の楽しさを知る。いつしかKの事が好きになる。
■中学で告白されたAが同じ高校にやってきた!どうやら俺を追ってきたと…。なんか引いてしまい、冷たくしてしまう。Aはその後同級生と付き合った。それなりに幸せそうにみえた。
■夏にK相手に童貞を卒業。合宿中、夜中に抜け出し体育館の舞台袖でセックスした。
高校3年生。
■Kは卒業して大学生。楽しく付き合う。Kは親の車を使うようになり、カーセックスなど楽しいことをした。妊娠疑惑とか色々あった。
■夏頃なんとなく疎遠に。「大学で他に好きな人ができたから別れたい」と手紙をもらった。生きてて初めて失恋と呼べる失恋だった。生きる気力が無くなった。
■だが、色々あり年が明けてよりを戻す。
■卒業式。2個下の子に告白される。今の彼女とうまく行ってるので、とちゃんと理由を説明して断る。少し大人になった瞬間。
■突然Tから電話。Tは長い黒髪の似合う目のぱっちりした美人だったが、なんか不思議ちゃんのところがある子だった。「実は君の事が好きだったの」と告白。これはなんでか覚えてないがきちんと返答をせず濁した。やましい事を考えてたのかもしれない。だがその後は放置してしまった。
■しばらくしてTから手紙。「まだ友達でいれる?」と。本当に悔やまれるがこれもきちんと返事も出さず放置してしまった。Tとはこれっきりだった。友達でいたかった。すまん。
専門学校へ。
1年生。
■Kと引き続き付き合う。
■同じ科のYに恋をする。Yはだいぶ年上の彼氏がいた。
■残って課題をやっていると、教室にもう一人残っていたFから「飲みに行こうよ」と誘われる。Fは顔は普通だったが面白い子だった。ベロベロに酔う。「帰るの面倒くさいから泊めてよ」というと「何もしないならいいよ」と泊めてくれる。初めて入る一人暮らしの女の子の部屋。Fには当時遠距離の彼氏がいた。こっちもKと付き合っていた。本当に何もしないで床で寝た。
■後日どういうわけか俺を泊めたのが彼氏にバレたらしく大喧嘩して別れたと言う。
■同じ科のOが気になりだす。Oは以前から「彼女とどうなの?」と執拗に聞いてくる子だった。ボブの似合う猫目のかわいい子。別に俺に好意があったのかどうかはわからない。
2年生。
■何もなし。Kと楽しく付き合う。
別の専門学校へ。
1年生。
■同じクラスの福岡出身のだいぶ年上のYに恋。博多弁が魅力的で、小柄で可愛かった。Yとは友達としてよく遊んだ。
■同じクラスのよく遊んでいたE。まただいぶ年上だったが長い黒髪がきれいな長いまつげの美人だと思っていた。古いテレビあげるよ、と言われ目黒の一人暮らしのアパートに車で取りに行く。
■ベッドに2人座り、これ好きなんだ、といいスノーボードのビデオを一緒に見る。そろそろ帰るよ、と言うとじっとこっちを見て「疲れてない?もっと休んできなよ」と言う。でもEとはセックスはしたくなかったので濁して帰ってきた。
■この学校は1年で卒業。最後の飲み会。帰ろうとするとだいぶ酒で出来上がったYが「増田と付き合いたかったのに〜」と泣きながら言ってきた。内心驚いたがこの頃にはYへの気持ちは薄らいでいた。そそくさと帰る、が…
■今度はEが追ってきて腕にしがみつく。「私達帰るんだ〜」という。おまえら酒に任せて好き放題やりすぎだろ… その後は普通に一人で帰ってきた気がする。
■卒業後しばらくして、Eとセックスぐらいしてもいいかなと思い電話。しかし出てくれなかった。Eとはこれきり。Yはその後俺の友達と付き合った。
■Kとは相変わらず付き合っていた。
社会人2年目。
■プログラマPが気になる。はつらつとした美人。夏には肌が褐色になっていた。
■入ってきた新人Nと仲良くなる。
■おれが別の勤務場所へ変更になる。夜にダラダラとNとメールしていると突然「なんか会いたいなー 好きかも。」
■Nはブスだったが、普通に友達だと思ってたのになんかこんなメール送ってくるのでこの時は引いてしまった。
■しばらく普通にしていたがNが実家に帰ったのを機に自然と連絡をとらなくなった。
■Kとは引き続き。
社会人4年目。
■この頃には恋もしなくなっていたし、出会いも少なくなり、女性社員が極端にすくない職場で言い寄られることも無くなってきていた。
■ふと、恋愛市場から卒業できて本当に良かったと思った。ここから社会人11年目まではなにもない。
■Kとの間に子供二人。
■人づてに事務のMがお前のこと気に入ってるって、と聞いた。Mはブスだったがその後結婚したと聞いた。
■なぜか女性社員がまわりに増えてくる。最近入ったFが飲み会後に「ここ入ってきてぇ、誰が第一印象誰が良かったか聞かれてぇ、増田さんて言いましたぁ」と報告してくる。Fの事はあまり知らなかったが、目尻の下がった顔が癒し系で好みの顔だった。
■Fは年齢が7個下だった。LINEを交換する。二人で飲みに行くようになる。
■こういった場合、男女はどうなるか。「いやー不倫とかありえないよね、仕事仲間だよね」という建前を用意してお互い本音を隠しつつ距離を詰めるのだ。
■偶然帰りが一緒になったU。Fより更に若い、顔は普通だがいつもおしゃれな格好をしてるな、と思っていた。30分ほどの道のりを話しながら帰る。
■次の日に「LINE教えてくださいよ」と社内でのチャットが飛んでくる。いくつかLINEで会話を交わす。一週間後「明日誕生日なんです、ご飯おごって!」と言われ、たかられてんのか…とおもいつつ飯を奢る。
■Uとは話が合い、話してて楽しかった。彼氏はいないらしい。「社内の○○はどう?おれはあいつカッコイイと思うけど」と言うと「いや増田さんのほうがかっこいいよーまじで」と言われる。かっこいいとか全然言われたことなかったのでドキッとしてしまった。
■これが現在より一ヶ月くらい前の話。ここまでFともUとも何も起きていない。
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K。平日は働いて夕方から子供を迎えに行き、ご飯を食べさせて風呂に入れて寝かしつけている。
いまでもごくたまにだけど、高校生のときに一度ふられた事がトラウマのように蘇り不安になることがある。
スーパーで買い物をしているKの姿。
近づいてこう言う。
「おばさんにしては綺麗だよね」
するとKは
「バカにしてんの?w」
と言って目を細めて笑った。
これまで中学や高校の卒業式、大学の卒業式や大学院の修了式(博士までいった)といった人生の節目の日に感慨深いなぁと思ったことがない。
結婚式などは妻が主役であるし、そういう節目の日を楽しむ人たちがいることは理解しているので、問題ない。
職場が変わった時も、周りの人が送別会をしてくれたのだけど、会おうと思えば新幹線乗れば会えるしなぁと思ってしまって、今生の別れでもないので感慨深くはなかった(送別会をしていただいたことは大変ありがたいと思っています)
今度から海外で働くことになり、みんなからなかなか会えなくなるねと言われるのだが、TwitterもFacebookもLINEもSkypeもある社会で、飛行機乗ればすぐに会おうと思えば会えるしなぁと思ってしまう。
家族や親しくしていた人が亡くなった時は心底悲しい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1180160
全体的に
と言う前提で話が進んでいるけど
現実は
なんだよね。
「うちの辺りは割と裕福な地域だけど袴なんて見ない、皆質素にしてる」とか言ってるのも多いけど、
デパートブランドで買うとその「質素な式服」が上下セットで5万以上したりする。
SCブランドやスーパーならもっと安いのもある(と言っても万単位はする)けど、見るからに安っぽくなる。
私立や公立でも裕福な地域なら当然デパートブランドで買う親が多いだろう(それ以上の高級ブランドもいるかもしれない)。
子供だって6年生にもなれば買った店や質の違いくらい分かるし、安物を着ている子をバカにする子もいるだろう。
でも袴レンタルなら2,3万でも格好がつくわけだ。
あと「入学予定の中学の制服」も、中学受験成功組による失敗組&最初から受験しない組へのマウンティング地獄になるだけ。
因みに元記事の方は小学校入学式の「AKBもどき服」も同じく親の見栄とか決めつけてるのがいるけど
「子供の間で流行になり、一時期は安い量販店はAKBもどきしか売っておらず、もっと普通っぽく簡素なものを求めると高くついたため
金をかけられない家庭ほどAKBもどきを選ぶしかなかった」ってのが現実。
という感覚があった、というか今でもある。
オタメゴカシを抜きに言えば、大学というのは就職のために入る場所だ。
つまり、就活ウケしなければどこに入っても意味が無く、だからこそ就職率の良い大学だとか、難関大なんかをこぞって受けるわけだ。
そりゃあ各々の適性に合った場所に入るのが一番だろうが、大抵は偏差値とか景気を見ながら「これなら就活で困らないかもしれない」とか考えて大学や学部を選ぶ。
そんな調子で選んだ本命大学にも落ち、浪人の末、そんな調子で選んだ滑り止め大学に入った。そこで強い学歴コンプレックスを抱えた俺は4年くらい鬱屈していた。
バイトはやらず、サークルは就活ウケしそうな電子工作関連のサークルに入った。(ろくに活動はしなかった。どうせ面接じゃ嘘八百が通ると分かっていたため。事実、就活では通っていた。)
講義でオートマトンだとか増幅回路なんかをやっている中で、俺は「結局就活じゃ大学名しか見られないのに、今更何しても無駄、評価されない。終わりだもう…」という思いで一杯だった。
TOEICを頑張っている連中を見ては、「いい会社に入ろうとでも思っているのか。どうせ就活じゃ難関卒が優良企業の内定ガッポリ攫っていって、俺たちにはクズみたいな求人しか残らないんだぞ。」と思っていた。
「インカレにでも入ったら」とか言ってくるとしあきを見ては、「インカレなんて難関大の人間と難関大の彼氏が欲しい女と財布役しかいないんだぞ。」(偏見だが…事実だろう)と思っていた。
「向こうで友達は出来た?」と聞いてくる親には「全然。行きたかった大学じゃないし、毎日つまらないよ」と答えていた。
そんなわけで、タイトルのようなことを常々考えていた。4年間。
実際に就活が始まると、英語を頑張っていた奴が速攻で楽天から内定を貰った。(あんな会社に???ナンデ???とか失礼なことを考えていた)
一方で、誰よりも早く就活を始めていた俺は、半期留年の末、誰よりも遅く内定を貰った。
思い返せば…何も思い返すことはなく、本当に無駄な日々を送っていたな、とか、かと言ってこんな大学に入った時点で何をしてもどのみち無駄ではあったな、とか考えていた。
結局就職したのはよく分からない会社でCOBOLを内製する仕事。今どきCOBOLだぞ。笑えるな。
はっきり言ってつまんねー仕事。30年も前のプログラム弄ってる20代なんて日本でも俺くらいのもんだろう。
やりたい事見つかったら即転職してやろうと考えていたが、何も見つからず…給料は少ないもののハラスメントが無い環境だもんで、なかなか辞められずにいる。
求人を見りゃ分かる。「実務経験」が要る。つまるとこ、「勉強しました」だけの奴はいらないってわけだ。
ネットじゃしきりに「日本のリーマンは勉強しない」とか「日本の大学生は勉強しない」なんて煽ってくる。
だが、現実としてどうせ今更なにを勉強してもムダで、結局学歴コネのある奴が全部持っていくわけで…だから誰も勉強なんかしない。
だから人生や仕事が好転しない。だからといって勉強したところで誰にも評価されず、何も変わらないという現実も確かにある。
書いていて本当に徒労感しかない。
俺の人生は一体なんだったんだろうな。
卒業式で袴や振袖が着られない小学生はそれはその子個人は惨めな思いもするだろうし、その後の中学校でいじめられるかもしれないし、その子の内面的世界ではものすごく不幸だしあるいは地獄を感じるかもしれない。けれど、それがじゃあ貧困なのか? っていったらどうなんかね。
この種の貧困って撲滅可能なのか? いや、この貧困は例えば「全小学生に振袖レンタル料の給付」みたいな方法で(バカバカしいというのは横に置きつつ)撲滅できるかもしれないが、そうして撲滅したところで、このレベルの他の格差光景が次々と抽出されていたちごっこになるだけなんじゃないのか?
そして仮にじゃあ面倒だ、貧困家庭に40万円給付します! ってなったら、この家庭は一家で温泉旅行に行って結局子供は袴も振り袖もきられないままになるんではないのか?
生活保護の金額を割り込むようなワーキングプア、絶対的貧困というのは理解できるし撲滅すべきだと思うのだが、日本の相対的貧困ってどこが問題でどうすればいいのかさっぱりわからない。そして相対的な貧困よりは上のラインだが中央値には届いていないような「ちょっと収入が少ない家」も、振袖が着られないとかハワイ旅行に行けないとか幼稚園に入れないと喚けば、社会補助をしなければいけないような風潮になるのか? なんか先に痛みを表明したもの勝ち社会にみえてくる。
別に号泣するとかじゃないけど、ただ彼女のことをぼーっと考えて時間だけが過ぎていく。
ていうかそんな親しかったわけでもない。中高一貫の女子高で同級だっただけだ。
私は自分で描いた拙い漫画をせっせと刷ってコピー本にして地元の小さなイベントの端っこで配ってるようなオタ女で、同じようなオタ女たちとよくつるんでたけど、彼女はとびきり美人で性格も社交的だったから、そういう子が集まる派手めなグループにいた。
高校になっても私は受験組、彼女は附属大推薦組で、選択授業が被ったことはほとんどない。
唯一の接点が管弦楽部。でもこれは学年の4分の1くらいの子が所属するような大所帯だったから、そのなかでもやっぱり仲良しグループはあって、そこでも私は彼女とつながりはなかった。
ただ、彼女は目立つ子だったけど、少し要領が悪いというか、世渡りが苦手というようなところがあって、一度だけ、見かねた私が半ば強引に手助けしたようなことがあった。助けっていうほど大げさなものではなくて、普通にクラスメイトが困っていたら皆するようなことだったけど、それでも彼女は恩義を感じたのか、たまに話しかけてくれるようになった。彼女は優しい。
それでも、そのころの私たちには中高生にありがちな、グループの体裁みたいなものがあったから、話すときはなんとなく二人きりになったときだけだった。彼女は私のしょうもない話によく笑ってくれた。その顔がすごくかわいいので、私はくだらない持ちネタを繰り返した。彼女が笑うと満足した。
一緒にどこかへ遊びにいったりしたことはついぞなかったけど、彼女は地元の楽団にも参加してて、あるとき私を誘ってくれた。
大きなコンサートがあるときは、人数確保のために楽団員が知人を紹介することができるシステムだった。チェロ(私の担当楽器)が足りなくて、よかったらきてくれない?なんて言われたら行ってしまう。ふたを開けてみれば私しか誘われていなかったので、ちょっとした優越感でニコニコしてしまった。たぶん本当にチェロの人員だけが足りなかったからだろうけど、彼女から選ばれることは得意な気分にさせた。
彼女はバイオリン(とても上手)なので練習は別々だったけど、最後の合わせでは一緒に帰った。電車で座って、それまででいちばん長くしゃべった。私はそのとき彼女に外部受験して地元を離れることを話し、彼女は私に子供が好きで音楽の先生を目指していることを教えてくれた。
そうして私たちはそれぞれ進学し、二年の冬に彼女は亡くなった。
葬儀はご家族だけで執り行われて、私たち卒業生は母校でお別れ会を開いた。
そこで区切りがついたつもりだったのに、その後しばらくして、飲み会で入ったお店で流れているBGMが、あの、彼女と参加したコンサートの演目だと気づいたとき、すごく動揺してしまった。お酒が入ってたからかもしれない。
それから度々、突然彼女のことが心に浮かんで、とても寂しくてやりきれない気持ちになってしまう。心が体の真ん中から徐々にずれていって、そのままどこかにいってしまう。誰かを亡くした人ってみんなこんな気持ちを抱えて日々生きてるの?こういうのどうやって乗り越えてるの?寂しくて仕方ない。
卒業式も寂しかったけれど、これからみんな別々の道でそれぞれ元気にやっていくんだという信頼や希望のようなものがあったから、こんなどうしようもない悲しみだけではなかった。こんな私でも日々をあれこれなんとか過ごしているのに、彼女はどこにもいなくて、なにもしない。働いたり遊んだりしないし、バイオリンを弾かないし、笑ったり泣いたりしない。もうなにも作らないし、生まないし、何にも干渉しない。そんなことがあるだなんて思いもしなかった。あの、音楽室で隣に座って笑っていた人間が、この地球のどこにもいない。頼むからみんな長生きしてくれ。
彼女との記憶なんてこれだけで、でもそれだけをずっと繰り返し思い出してしまう。彼女のご家族はお別れ会で初めて拝見したし、グループにいるときの彼女とは関わりがなかったので彼女と共通の友達はいないし、誰とも彼女の話をできなくて、ここに書いてしまった。文字にしてたら落ち着いてきたから、明日からまた静かに日々が過ごせそう。表現の自由はすごい。
ていうか読み返すと自分のことばっかりでめちゃくちゃ気持ち悪い。彼女のご家族のほうがずっとずっと寂しいでしょ。お風呂入って寝ます。
俺は女性恐怖症なんだと思う。
女性恐怖症というものの定義については何も知らないし、そもそもちゃんと定義されているものなのかすら知らないけど、女性が怖い。
小学生の頃は男、女問わず友達がいっぱいいて、それこそ言い方は悪いが、クラス内カーストの高い男女グループにも所属していた。
たかが小学生の頃、と吐き捨てられるかもしれないが、俺の人生の中では輝いていた時代だった。
そのグループで休み時間も、放課後も、休日も、いっつも一緒に遊んで、ときには地元の遊園地とか、ディズニーとか行ったりした。
彼らの大半は、というか、俺以外、みんな中学受験をした。
俺の小学校はある程度治安が良くて、それは理想的だった。頭の悪いやつが頭の良いやつを尊敬し、頭の良いやつが頭の悪いやつに勉強を教えるような。
その環境にいて、俺は勉強ができた。つまりは、尊敬される立場だった。真面目に勉強していたし、褒められることは嬉しかった。
俺の進学した公立の中学校は、複数の小学校から生徒が集まっていた。
この場合の公立の中学校ってのは、中学受験しない、いわゆる「そこまで勉強できない」生徒たちの割合が多くなってしまう。
「勉強できない」と「素行が悪い」では必ずしも同じではない。これははっきり言える。
ただ、俺の進学した中学校は「勉強ができなく」て「素行が悪い」生徒の温床であった。
2つの小学校から進学してきた生徒のおよそ半分ぐらいが、不良だった。半分以上かもしれない。
壁に穴をあけたり、トイレを壊したり、窓からものを投げたりするような連中だった。
女子は、器物破損は流石にないが、口での嫌がらせや陰口、陰湿ないじめだった。
入学当初はみんなで和気あいあいおとなしく相手の動向をうかがったりしていたが、そのうちに本性を見せた。
俺と同じ出身の生徒たちは、みんな最初は怖がっていた。俺も怖かった。
こいつらと同じ環境で3年間過ごさねばならないのだ。今までの平穏な暮らしじゃ、到底ない。
だが、人間は慣れる生き物だ。
しばらくして、俺と同じ出身の生徒が、次々に問題を起こし始めた。
いずれにしても、いい影響ではなかった。
俺と同じ出身で、腐らずに真面目に学校生活を送っている生徒もちゃんといた。
俺は彼らと一緒に行動した。なにより小学校が同じで、もともと友達だった。気兼ねなく話せた。
小学校のころいつも一緒にいたグループの彼らとは、休日、会えるときは会って遊んでいた。しかし、今の生活に精一杯で、各々、徐々に会わなくなってしまった。
真面目を貫く生徒と、腐る生徒、完全にそれらが分断されるまで、1年ぐらい時間がかかった。
中学という、クラス単位で密閉されてる空間であれば、なおさらである。
中学1年の成績は、かなり良かった。
俺は喜んだ。この環境でも1年間やったぞと。
学年から、クラスに、クラスからは、班というものにわけられる。これは小学校の頃から同じだ。
中間試験か何かの答案返却があった。
かなりテンションが上がっていて、友達と答え合わせをしながら騒いでしまっていた。
その様子は、クラス全体が見ていたと思う。
と言われた。
すると、
「言われてやんの。うざいんだよお前」
と、同じ班の男子に言われた。
ここで、全て崩壊した。
俺は何も言い返せず、悔しくて、怖くて、うつむいて飯も食わずにその場をやり過ごした。
今までは、不良相手ではあるが、それなりのコミュニケーションを取って、空気を壊さないように、深く関係を持たずに、壁を何重にも張って、テリトリーを守って接していたのに。
1年はこれでやり過ごせた。あと2年間、無理だった。
泣きそうになった。鼻水が垂れてきた。
多分、この女子は自分が勉強できない腹いせにこういうことを言ったんだろう。
確か、記憶が定かじゃないが、彼女は偏差値30の高校に進学していたと思う。
話はすぐに広まった。
男子は、今までの関係もあるから、いじられることが増えたくらいで、敵視されるようなことはそんなに多くなかった。
次第に無視されることも多くなり、俺は病んだ。
あれだけ頑張って勉強して、その対価に、テストの点数で喜んだだけなのに、それを僻まれて、馬鹿にされて。
同じ出身の女子からも距離を置かれるようになり、さらにつらくなった。
俺はプライドが高く、それ故にこれまで頑張ってこれた。
このプライドをこの一瞬でずたずたにされて、しかもそれに対して何も言い返せなかった自分に腹が立った。
これまで興味のなかったアニメやゲームに没頭し(今ではこれが必ずしも悪かったとは言えないが)、放課後、休日はパソコンに張り付いた。
授業の知識は何も入ってこなかった。
先生からは怒られることが多くなり、それまでやっていた部活も途中で何かと理由をつけてやめた。
高校受験は、入学当初考えていたより、かなりひどい結果に終わった。
何も期待せずに相手と接し、全て平穏無事でことを済ませられるような対処をした。これを3年間続けた。
中学に、あのグループと一緒に進めていたら、なんてことを考えてしまう。
もしくは、俺も中学受験して、環境の良いところに身を置けばよかった。
少なくとも、"幸せな状況がいつまでも続く"という幻想を抱いていた俺が馬鹿だったと思う。
中学のあの頃、死にたいと思ったことが何度もあった。それでも耐えた。勉強にも身が入らなくなって、別の方向に腐った日々だったけど、必死に毎日を行き続けて良かったと思う。
卒業式、真っ先に一人で家に帰る、あのときの俺の気持ちが想像できるか?
これ以上、あの校舎に足を踏み入れなくていいんだと思った、あの気持ち。
あれから、変わったやつもいた。
変わらずに、いつまでもああいう人生を続けていくんだなと思うやつもいた。
もう一生会うことがないだろう、さようなら。と。
女性が怖い。
いつ、ふとした行動でどん底に落とされるか。
考えただけで、いやになる。
どうしても本が書きたくて、そのために19時半からパソコンにかじりついているはずの私は、勤め先の病院で下痢嘔吐の患者さんを診察していた。当直の医師が重篤な患者さんに付き添い大きな病院に移送しなければならなくなり、代わりに呼び出されたのだ。
何時ごろから具合が悪くなりましたか? 今日の夕食は食べられました? お昼ご飯は何を? ご家族や職場に同じ症状の方はいませんか?
……急性胃腸炎のようですね、今は下痢や吐き気は止めないで、悪いものは出してしまう治療が主流です。その代わり体から出ていく水分やミネラルを補う点滴をしますよ。お時間かかりますが大丈夫ですか?
医者という仕事はいつもこうやって人生の大切なものに食い込んでくる。娘が骨折した時も手術室からすぐには出られなかったし、小学校の卒業式の最中にも勤め先で医療事故があり緊急で呼び出された。あげく「本を書きたい」と願えば、オンライン講座の時間に呼び出しである。
医者になりたくてなった人は、こんなことを切なく思わないんだろうか? 思いは空を漂うばかりだ。
40年ほど前、当時住んでいた家の側の高台に、国立の医大が建った。母は小学生の私に、坂の上を指さし「あそこに行ってね」と言った。その瞬間、私に他の進路の選択肢は一切なくなった。
父は思慮深いやさしい人であったが、ヒステリックで我の強い母を制御できなかった。
「このハゲ!」と叫ぶ国会議員や夫の不倫を動画で指弾する女優さんを、私は直視することができない。ワイドショーでうっかり見てしまうと鳥肌が立ってしばらく戻らない。その年頃の母とそっくりだからだ。
長い長い坂道を6年間私は歩いて通った。そこを歩いて通ったのは私ぐらいだと後で知った。
大学に行かせてくれるのは良いのだが年頃になっても身体に合った下着を買ってくれないのはとても困った。体形のまるで違う母のおさがりはぶかぶかだったし痴漢にも遭った。高校はアルバイト禁止で、大学生になって初のお給料を握りしめてワコールのショップに駆け込んだ時の感激は忘れない。
准看護師の母は女医がとりわけ嫌いだった。「子持ちの、時間で帰っちゃう女医なんか、誰も相手にもしない。指示を出しても看護婦が誰も聞こえない振りしてたらさぁ、しまいには保育所のお迎え時間迫ってきて泣き出しちゃって」と言っていた。なぜ娘をその女医にしようと思ったのだろう。せめて専門は内科勤務の長い母と一番縁遠そうな麻酔科にした。
それでも孫可愛さで、女医になった娘の子育てには協力してくれていた。しかし年子の育児で一杯いっぱい、今のように「女性活躍」のご時世ではなくて相当厳しい目に遭いながら働いている私に、「子育てしながら、料理の本を出している女医さんもいるのにぃ~、ねぇ」と言い放った。
中卒で、自分自身は何も成し遂げていない母のその一言は、私の心に深く突き刺さり、傷は長く膿んだ。
毒親と呼ぶ気もない、私は母と関係のない場所で、大切にしてくれる夫とその両親と、子供たちとじゅうぶんに幸せになった。もう自分にとっては終わったことなのだ。母は母で家庭に複雑な事情があって、若いころ相当苦労したことも今ならば理解できる。
本を書こう。私は決めた。どんな本でもいい、何の本でもいい。本を書くことができたら、何かが終わる気がする。
書いて、みよう。
地頭は良くて環境に恵まれればいろいろなことができたであろう母と、本来とことん文系だったのに医学部に進まざるを得なかった娘の、ものがたりの結末はどうなるのであろうか。