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はてなキーワード: 京極とは

2016-06-09

http://anond.hatelabo.jp/20160609161427

京極さん

1京=10000000000000000

1極=100000000000000000000000000000000000000000000000

京極さん=1000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000

京極さん=1000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000003

ではないのか

http://anond.hatelabo.jp/20160609160916

京極さん

1京=10000000000000000

1極=100000000000000000000000000000000000000000000000

京極さん=1000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000

2016-05-01

絶賛派の負のエネルギーを和らげたい への回答です

http://anond.hatelabo.jp/20160413013038

言及いただいたkato19です。大変遅くなりましたが地震の影響はありませんでしたでしょうか?

意味不明一般の方へ:一連の流れは下記のブログ記載されています

ラブライブ!批判への回答:批判派の負のエネルギーを消し去りたい!

http://kato19.blogspot.jp/2016/04/lovelive-hihan.html

じっくり読ませてもらいました。批判文っていうのは読むのにもなかなかエネルギーを消費してしまますね。増田文章論点も多いのでなかなか大変です。自分の知らない分野についても検索しながらできるだけ理解できるように努めました。とはいアニメ化以前をリアルタイムで追っていない以上は本当の意味での理解は難しいなと思いました。増田が本当に細かい所まで気にしている所に驚かされますが、これがまさに増田の拠り所であるんだなと感じましたね。

今回増田の疑問に逐一回答する事はあまりに労力が大きのでご容赦ください。総論的な内容になります。それに以前も書いたように、そもそも回答した所で増田が納得するとは到底思えないのです。増田も同じような事を書いていますが、結局それぞれが重要だと思う所を重要だと思えないのです。

それを踏まえた上で今回のやり取りの感想を書かせてもらいます

批判派に対して思う事

私が、批判派に対して当初思っていたのは、あの作品を観て面白くなかったんだろうか?それとも面白かったんだけど細かい所が気になってしまってダメだったのか?もう全てがダメで良い所はほとんどないのか?という所でした。

増田文章通読してみて感じたのは、やっぱり原作原案問題がなければこんなにこじれる事はなったんだろうなぁという事。増田ですら『カップヌードル』程度には面白いと思ったわけで。『見たい作品が見られなかった』という点については批判派の方からもツイッタなどで一定の賛意をいただけた所です。

批判派のおりあそ氏が劇場版で泣いたってのも自分にとっては結構衝撃的な事実で驚いたんだけど『μ'sが解散するんだから涙くらい出るよ』という事なんでしょうね。もちろん自分にも当然そういう所はあるのだけど、今回はそれだけではない感動があったんですよね。

ラブライブ!ガルパン共通性

自分は『ガルパン劇場版でも大変感動して涙が止まらなかったんだけど、あれは決して大洗女子学園が存続してよかった!という事で感動したのではないのです。あの映像演出自体に感動させられたのです。心底すごいと思いましたしその凄さに当てられて感動しました。話の筋で感動したのではなかったのです。

参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/11/girls-and-panzer-movie.html

劇場版ラブライブ!の感動はそれによく似ていると思いました。技術レベル前衛的な演出、それと当然ストーリー上の感動が合わさって強い感動を得られたんだと思います自分は少数派になる事が多いので自分意見が絶賛派の主流ではないでしょうけど。

増田はおそらく劇場版ラブライブ!ガルパンより論理的妥当性がないからダメと言うでしょうが自分にとっては十分に許容範囲であったという事です。しかしこの点については程度問題しか言いようがありません。

増田の本当の主張は原作改変問題ではないか

増田論点は大きく分けて次の2点に集約されます

1、論理的妥当性を欠くので作品が決定的にツマラナイ

2、原案からの改変が気に入らない

もっとも、絶賛派の多くは作品において即時的で表面的である所の彼らがいうところのアニメならではの表現内容への思い入れを拠り所にしていて、前後総合的なつながりや辻褄の考察を要する物語性やキャラクター性については考えたくないようなので難しいかもしれませんが…。』- 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用

『考えたくない』のではなく『気にならない』というべきですが、上記のように互いの主張は『糠に釘』状態なわけです。お互いを説得する事は出来ないよね。実際、増田はなぜ絶賛派が絶賛するのか?その理由理解できていない。その結果『ラブライバー自己愛』などという荒唐無稽理由で論じている。自分は前回から増田もっと前向きな方向にエネルギーを使うべきだと主張してるのだけど、それはこの問題については相手の考えを変える事は無理だからです。もしも増田が絶賛派に対して『本作が駄作だと改心』しなければ納得しない・・・とすれば残念な事です。

増田は初期作品の良さも述べているというが、アニメ版への恨みつらみが主となってしまっているのは間違いないですよね。増田が単に虚空に向かって文句叫びたいだけなら仕方ないですが、初期作品の良さを知ってほしいのならその方法があるはず。増田で絶賛派を無能呼ばわりしていてもしょうがないわけです。

公野櫻子さんについて

公野櫻子作品に見る『何を真実とするか』ということについて- マンガライフ 水音さん

http://ilya0320.blog14.fc2.com/blog-entry-1837.html

増田意見を読んで公野櫻子さん関係を少し勉強しました(増田から見ればまだまだでしょうけど)その中で上記ブログ公野櫻子論で印象的だったのは、公野さんの特徴として読者参加型作品を得意とする事でした。ラブライブ!の初期作品も読者参加型であった事を考えると増田もその影響を強く受けているのかなと。やはり自分達で作り上げた作品という感覚が他の作品よりもずっと強く、それがアニメ版に対する『歪められた』という感覚につながっていると推察しました。そこが単なる原作改変問題とは違う根深さなのかな。

自分は『参加型』とは真逆の鑑賞者。京極花田氏の作家性が強く出ていても何の問題もありません。ガルパンのように映像作品としての演出技術に感動し『物語』は当然必要だけれどもそれは作品の一部を構成しているにすぎない。それがつまり構成演出楽曲すべてが一体となって表現』の意味なのです。増田にとっては物語(や、それを含むキャラの設定)が重要テーマであってそれ以外は物語をよく見せるための添え物であるべきなんだろうと思う。そしてラブライブ!においては公野さん以外の作家性が見える事は不快感につながっているんでしょう。

ちなみに私だって物語重視の作品は大好きですよ。『ここさけ』なんて感動しすぎて3本も感想書きましたし・・・

参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/10/kokosake.html

ラブライブ!については原案先入観なくアニメに入っているだけの違いです。増田先入観でまずハードルがあり、さらに細かな物語重視の点でさらハードルがあった。その二つに加えて大事にしていた公野作品が汚されたという感情的問題不快感を増幅させているのだと思います

初期作品からファンに対する怒り

本当の数はわかりませんが、初期作品からファンの全てがアニメ版否定しているわけではないですよね?おそらく増田が一番怒りを感じているのは、初期作品からファンのくせにアニメ版劇場版を礼賛している人間でないでしょうか。アニメ版以降の人間はただの無知蒙昧だから啓蒙する必要があるが、初期作品から人間はなぜ礼賛するのか理解できない。だからラブライバーとしてのアイデンティティを維持するためだけに礼賛している害悪だ。完膚なきまでに叩く必要がある・・・と。

絶賛派は宗教的

増田氏は絶賛派を宗教的などと揶揄するけれどそれはお互い様でないですか?というより、この議論ものもが神学論争である事を自覚していないのだろうか。私は自覚しています。この問題宗教論争やイデオロギー論争と全く同じです。

(初期作品群を)肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。 - 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用 カッコ内筆者付加

原案作品群を否定していないだけでは飽き足らず積極的肯定しなければ満足しない・・・踏み絵でしょうか?折伏でしょうか?『目を覚ま』さねまばらないなど過激宗教団体と同じではないでしょうか。少なくとも私は初期作品群を『踏み台として蹴落とされるべき歴史』とは思っていません。そもそもよく知らないだけですから

批判は悪?

絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります

まあ、そういう人もいるでしょう、誰もが議論に慣れているわけではないでしょうから。もちろん私は『批判する奴が悪』なんて思っていません。しかし好きな作品をけなされる不快感原案派の人だって同じでしょう。貶して凹ませるのが目的なんでしょうか?そうであるなら品がない行為だなぁと思いますが、実際には増田にとって大切な『初期作品群』を不当に扱われている事を質したいという趣旨ではないですか?

それなら絶賛派に対して『自分の感動はまちがっていました。この作品はご指摘の通り駄作です』と言わせる事で目的は達せれれるのでしょうか?私には単なる当てつけのようにしか感じません。

増田のすべき事

増田とは確かに感じ方もキャリアも違いますが、同じラブライブ!というコンテンツを楽しんでいた者としては、互いを排除しあうのではなく包摂されるべきだと思う。

増田氏がアニメコンテンツの流れに大変造詣が深いだろう事は一連の文章を読む事で推察されますであるからこそ、ラブライブ!が『もはや好きとは言い難い作品』などと離れるのではなく、その想い・知識を残すべきだと思うんですよね。

それは、ネガティブ文章増田で埋もれさせるのではなく体系的に整理された作品案内を提示するべきでなないですか。増田の思う本当のラブライブ!の楽しみ方を、初期作品の良さを記録に残す方がずっと目的にかなうと思います。確かに旬は過ぎてますが、ワンテーマブログだとしても増田で埋もれるよりはずっと有益だと思う。注目されやすアニメ版にくらべて原案作品群は実際のところ目立たないし、新たなファンには見る事すら困難になっているわけです。サンシャインが出た今はなおさらμ'sの初期情報検索しにくい状況です。だから意味はあると思う。

個人的には、この一連の投稿はすごいと思うし、内容についての賛否別にしても、ただ増田で埋もれるのは残念だと思う。でも別の形で発表するにしても、ぜひ否定だけではない前向きな批判。つまり好きな作品を広めるために使ってほしいと思うんですよね。

初期作品群の整理を

増田原案作品が軽く扱われている事に不満を持っていますが、増田にとっては自明の事でもアニメ以降のファンにとってはその周辺知識は非常にわかりにくいのは事実です。サンシャインが始まるとはいえ、これから再放送配信オリジナルを見るファンも多いでしょう。実際私もちょっと調べただけでは意外と整理されていない事に気付きました。作品紹介、見る順番、その魅力など、いまからでも整理して発信する事は無駄ではないはずです。はっきり言って知識の乏しい自分には無理です。

それなら読んでみたいと思うし、こんなマイナスエネルギーで文才を消耗する事はないと思う。もしそんなページを作ってくれたら是非私のブログリンクしてお知らせください。こちらからも紹介させてもらいますから

最後

こんな事書くとまたね『上から目線』みたいな批判ツイッターでされそうですけどね。ツイッターで深い議論のやり取りはむずかしいですが、このように長文を書ける人の意見真意が分かりやすエネルギーを使う意味があると思います自分も今回の事で劇場版の良さを変更する気は全くないのですが、初期作品群の事を詳しく知るきっかけになりましたし、批判派の真意というのも(ある程度ですが)理解できてよかったと思っています

その他追伸

『先にも述べたように絶賛派は平和ボケしていて余裕なので脳天気なことを言うだけでいいでしょうけども』

いいじゃん平和で!と思ったけど、まさに批判派にとっては戦争状態なのだ・・・その心中がわかりますね。平和に絶賛を謳歌している絶賛派への怒りを感じます

海未はアニメ以降特に不遇だと囁かれるキャラの一人であったため制作陣の悪意や、または慢性的配慮の怠りの結果だと感じる人も多かったようです。

そうなんだ・・・でも海未ちゃん不遇かなぁ・・・アニメ版でもすごく人気あるじゃないですか、自分もかなり好きですよ。でも一番好きなのは花陽ちゃんですね。批判派の人はアニメ版の花陽ちゃんを『ただの米好き女』に貶められた怒っているみたいですけどね。あのキャラ設定良くないですか?アニメ版の花陽ちゃんすごく良いと思うんだけどなぁ。

※以前指摘されたメディアミックス論の『出自』部分については訂正しました。

ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか? http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html

追記:最後になって申し訳ないんですが、『絶賛派の負のエネルギーを和らげたい①』http://anond.hatelabo.jp/20160413011057 を見逃してたみたいです!ごめんなさい。読んで改めて追記で補足しますね。(2016/5/1)

2016-04-13

絶賛派の負のエネルギーを和らげたい③

http://anond.hatelabo.jp/20160413011603

映像だけ見て萌えているのか?』と思うのは誤解です。省略されているとはいえ引きつける構成演出楽曲すべてが一体となって表現されているところに感動があるのです。(補足3参照)


 京極監督は初めから劇場版を狙ってたわけではないだろうけど方向性TV1期から存在する事は明らかです。漫画小説では表現できないアニメならではの作品とする方向性

どのように構成演出楽曲が一体となって表現されているか説明して頂けないと解釈が難しいです。また、一体となっていないことを表すもつれが構成存在することについては、おりあそ氏の記事やそれに対する自分考察記事などでも言及されています。それを全部放り捨てて「一体となってます」と無理矢理言い張られても困惑します。

しかするとアニメならではの作品として表現したいという方向性が一環していてそのために構成演出楽曲すべてが一体となっているという意味でしょうか…。だとしたらその姿勢や結果に致命的な怠りが存在しているので問題があるという話を何度もしています。そしてそれは言い換えると全てを雑にやろうという意図がしっかりしているみたいな状態です。

劇場版でSDSのライブシーンで海未がいるはずの所に存在せず作画ミスだと物議を醸したことがありました。海未はアニメ以降特に不遇だと囁かれるキャラの一人であったため制作陣の悪意や、または慢性的配慮の怠りの結果だと感じる人も多かったようです。

絶賛派はそれについても全体的な表現として問題ないからどうでもいいというつもりでしょうか。呆れるしかありません。


自分価値観絶対ではない


 それを理解しない増田は絶賛派を以下のように認識しているようです。

ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』なので、失敗作である現実から目をそらして『盲目的に賛美すること』しかできない人間 (かぎ括弧内引用/ 他筆者補足)


 まあひどい言われ方ですね(笑)

海外ドラマにのっぺりとした無個性二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い』


 ため息がでます・・・私がどうして感動したのかはこのブログで5本も長文投稿をしたのでここで繰り返しません。でも読んだとしても理解はしてもらえないでしょうね。

自分価値観相手価値観絶対ではないのです。そんなことは発言する時の広く大きな前提です。その自己嫌悪の苦しみと戦いながら内へ外へと開いていくものです。

このように結局は絶賛派が批判派に対して主として持ち出すのはファンとしての立場の在り方的な話です。作品の内容を論じる場でそれを用いても、今まで論じてきておいて今さら何を言っているんだろう…?と思ってしまます

一時期流行ったように「それはあなた感想ですよね?」と返せば全てが解決するわけではありません。それは元も子もない大前提ですし、お互い様になってしまます

自分感想他者感想として言っていたなら問題あるでしょうけれど、互いに自分感想を真っ向から述べているはずの場です。

また、絶賛派の考えがその作品としての在り方を照らし合わせて見た時に論理的妥当性を欠いていて即時的で表面的な感想じみていることは、この記事でもずっと指摘してきていますし、そこを検討してみてほしいところです。

もっとも、絶賛派の多くは作品において即時的で表面的である所の彼らがいうところのアニメならではの表現内容への思い入れを拠り所にしていて、前後総合的なつながりや辻褄の考察を要する物語性やキャラクター性については考えたくないようなので難しいかもしれませんが…。


 増田の言うように駄作という現実から目をそらして感動したフリをしているのでしょうか?さすがに増田自分論理に無理があると薄々気づいているはずです。


 多くの人の感動させた作品であるという事実。それを受け入れられないとすれば『現実から目をそらしているのは増田の方である』というしかないでしょう。

洗脳だろうと幻覚だろうと感動したらしい人達が沢山いたことは確かでしょうから、そのことには一定価値があると思います

しかし、主に内容自体の在り方を主題として論じていたところで「お前が何を言っても感動した奴は沢山いるんだぞ」という内容自体考察から距離が離れた根拠を持ち出されても、たまたま都合がいい形で現れた現実に縋りながら、内容そのものという真実から目をそらしているように映ります。内容に対する真実の好きを手に入れたいと思わないのでしょうか。好きという状態さえあればいい、そんないまが最高だからいいのでしょうか…。


君、原理主義に陥る事なかれ


 自分価値観を大切にするのは良いと思います。でもその価値観を唯一絶対のものとする事は『原理主義』ではありませんか?増田の論は批評を超えて否定となっているように思います


 『アニメ化以前の作品が好きだ。劇場版はまったく理解できない』それはそれで結構じゃないですか。しか現実にこれほど絶賛している人がいる以上『自分には理解できないが別の価値観があるようだ』と受け入れるべきです。


 正直な話、私も増田の言っている事の多くは理解できません。だから『なぜこの人は本作の良さを理解できないのだろう・・・かわいそうに』となるのです。


 増田自分の好きなものポジティブに論じるべきでしょう。②の方はいくらかポジティブさを感じたし同意できる所も多いです。(あそこまで合っててなぜ結論が違うのか・・・補足7参照)


 私にとっても『駄作・理解不可能』な作品世間で絶賛されている事が多くあります。その度に自分認識不足自覚し考えを改めます


 増田本来は同じだと思いますしかし今回は不幸にもメディアミックス作品と言う事で感情的行き違いがあるように思います。初期派はおそらく強い矜持を持っているのでしょう。でもそれが原理主義に陥らないで欲しいのです。

確かに理解不能作品が売れたり評価されたりしている状態不愉快ものですが、人気がなくても好みなのでしかたがない。一方で人気があっても嫌いなのは好みなのでしかたがない。芸術はそういうものだと思います

どの現実真実により近いのかは分かりません。だからより感じて考えて主張して反応を見て…などという行為意味も生まれるのでしょう。

 『アニメ版の良さは理解できないけど初期作品はこんなに素晴らしい!』と言ってくれればアニメ版以降のファンも目を向けてくれるかもれません。一つがダメから全部潰れてしまえ!では悲しいではありませんか。


.

 私はラブライブ!とμ'sがいつまでも輝いていて欲しい。だからファン同士の対立否定ではなく肯定で終わらせて欲しいと思うのです。

投稿においては確かにアニメ以降の批判が多いかもしれませんが、それでも初期の良さも述べていますし、また、先にも述べたように絶賛派は平和ボケしていて余裕なので脳天気なことを言うだけでいいでしょうけども、肯定で終わらせられるわけがいくらいにラブライブというプロジェクトは致命的な問題が山積みなのです。

それを好きな人擁護する人が多いから問題ないとするのは思考停止です。犯罪はバレなきゃいい理論に似ています

自分現実的に考えて、作品是正されることや、社会的糾弾されることにはもはや期待していません。作品が終わる折に思い出を語るように純粋意見を発信する目的で述べています

純粋さと不純さどちらがいいとも悪いとも時によりけりではありますが、作品批判されたくないために内容の状態にかかわらず擁護するというのは不純です。内容自体に対して、また自分自身に対しても純粋でないために説得力が不足しています

今回は意見交換になってますが、元はただ作品内容の問題点感想としてただ述べているだけでした。

そのように純粋意見独り言のように発しただけの投稿を態々発見して頂き、読むだけでなく反応を返してくださったことはとても貴重なことで有り難く思います。そのような純粋な喜びは励みになります


補足など

以下は補足説明に対して述べます自分の補足説明にもなりますね。

*補足1*

はいメディアミックスなのだから、すべての作品がμ'sが出演する創作作品と考えるのが自然だと思う。それは原案者への冒涜になならないはずです。

名前とか見た目や声だけ同じμ’sでもキャラ作品内容が根本的な所から違いすぎるのでそれを乱暴に同一人物が出演してるかのようにまとめてしまうのは逆に問題があります

*補足2*

パクリである事と『つまらない』かどうかは関係がないので、その辺をあえて混同するのは論理として如何なものかと思っています

せっかく自分パクリじゃなくても滅茶苦茶つまらないからクソだみたいな身も蓋もない独断偏見を避けて説明したのに対して、まるでどこにでもあるようなパクライブ批判に対して反応するかのようにざっくりいかれてしまって残念です。

とりあえず配慮の足りてない意図から内容を歪め、配慮の足らない結果になってしまったことが問題なのですと繰り返し強調しておきます

*補足6*

「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味

ひどい皮肉ですね(笑)しろ私は『今が最高』の本来意味『時を巻き戻してみるかい?no no no 今が最高!』※(過去には戻らないの意)を、増田は『過去=初期作品』と捉えて『初期作品ではなく劇場版が最高!』と言われて怒っているのかと思いました。

もちろんその点にも怒っているというか呆れていましたが、その点は言うまでもないほどのことですので…。過去のことや積み重ねてきたものをしっかりと大事にしながら、今を成し遂げたなら今が最高もいい言葉になるんでしょうが、そうではないので残念でしたね。結局、大事原案とか過去とのつながりを普段どうでもいいと思っているくせに困った時だけメディアミックスを持ち出してみたり、黎明期声優のことに思いを馳せて声優を思いやれるファンを気取る程度のファッション的なファンにとって都合良く理由はないが今が何より良い気分だということと、積み重ねを感じているふりをできるということを表せる都合のいいフレーズになりましたね。


*補足7*

ラブライブ!PVは内容的にアニメキャラというよりアイドルPV二次元化であり』- ②より引用


私も近い考えですが、私は架空アイドルの『コミック化』『ノベル化』『アニメ化』『ゲーム化』『ライブ化』であると思います結論が違うのはやはり増田原案重視だからではないでしょうか。

架空アイドルコミック化~化…という作品なら特に珍しくなく、今に始まったことじゃないですから当時に期待するものとしては価値見出しませんでしたね。

実際公式がどうしようとしていたのかは分かりませんが、自分が当時の状態を見て想定し、期待した魅力ある展開の仕方はそれだったということです。

そこについては原案重視とかそういう問題ではありませんし、また、アニメ以降の在り方を評するならともかく、アニメ以降の立場から物言いでその点を論じるとかなり捏造に近いと思います

また、ここで原理主義的だとか原案厨や原作厨というものについても言及しておきますが、それらはよく批判されますけど、それが重視されるのは時により人により残念かもしれませんが当然だと思います

そこについては逆に原作を好きじゃない作品の展開について考えていた時に至った考えです。結局は原作が一番偉いから仕方ないと思わなきゃいけないんだと自分を納得させました。その作品をその作品たらしめるのは原作であって、原作者であるべきなんだろうと考えたのです。

まり原案原作こそ作品にとって最も重要アイデンティティとなり、軸となる要素ですから、その要素が消えて倒れてしまったら、もはや元とは無関係作品です。

実際アニメ以降のラブライブラブライブ無関係学生が歌って踊る作品としてならば積極的評価できる部分も増えてくると思いますが(それでも色々盗作などの問題点はありますが)、『ラブライブ!』として見たら間違ってもとても快い気持ちで見られる作品ではないということです。

カップヌードルカップヌードルで美味しいと思いますけどステーキ屋で高級ステーキを食べられると思いそれを期待して頼んだ時にカップヌードルが出てきたら快い気持ちになるでしょうか。

それをカップヌードルステーキと違ってただ肉を焼いただけではなく素晴らしい発明で最低限肉も入っていてステーキよりむしろ素晴らしいんだとかなんとか言われても一理なくはないですが困りませんか?

それぞれをそれぞれに例えたわけじゃないですが、自分が感じる納得できなさはそのような感じなのです。

絶賛派の負のエネルギーを和らげたい②

http://anond.hatelabo.jp/20160413011057

正負のエネルギー

負のエネルギー対義語は正のエネルギーなのでしょうか。

正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。

恐らくそ根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。

そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばししまっているように思われてしまます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバー宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります


また、そもそも私的体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分アニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブ応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切り汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。


絶賛派の大多数は初期作品群を否定していません

とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います

アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。


自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?


アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為ラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。

と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます

また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います

恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているか脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います

悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。

ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。

それと、乱雑な感情論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯感情論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います

そのような指摘をみても、やはりアニメ劇場版ラブライブ2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協馴れ合いの間に合わせで叶えた物語好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます

好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。


 あえて単純化して例えれば、ピカソキュビズム絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンス議論なのです。

この点は先述のレストランの例えで説明しましたが前提のズレがありますラブライブ場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。

そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブ芸術作品という意味ではキュビズム絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品キャラクター作品物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています

まりラブライブという作品キャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います


 増田の観たかったものは、キャラクター内面リアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?

アイマスといっても色々ありますが、本家アイマスシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作主人公であるプロデューサー存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマス原作ギャルゲー風の育成ゲーム芸能界作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。

ただ、アイマス声優などの外部のネタキャラ作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります

それでも、アイマス原作ゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分け比較大事にしているので、ラブライブよりはファン棲み分けがしやすくなっているように思います

自分ラブライブ応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2騒動距離をとるようになりました。あれも作品公式運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマス場合ファン意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。

対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトファン意思存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。


京極監督花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドル表現したのです。

アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います

物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。

別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義ダメ批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。

また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達別にアニメ表現演出のあり方を否定していません。

対して絶賛派はあの表現演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写不要だ、ない方がいいくら否定的に捉えているわけです。表現演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから

しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクター物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。

まあメタ的に、「アイドルアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム芸術として評価できるかもしれません。

そういうものオリジナル作品勝手にやったのであればそういう作品性面白い有意義だと手放しでいえた可能性があったと思いますしかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪問題批判しているのです。

現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別批判しているわけではありません。

せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。

そして批判派の多くは勝手ミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的表現からそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。

仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います

それに対して「いやあの形のアニメからいいんだ」と主張する場合理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすからでしょう。

確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品ファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います

今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます

表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。

また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーキャラクター設定を(前回の記事説明したような)稚拙配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。

2016-03-30

μ’s名付けの親の御児勇馬さんがネットから消えた件について

http://garikudasai.sakura.ne.jp/wp/?p=307

という記事について。

ブログ主は御児勇馬氏と同じラブライブ!古参ファンであることを自らの立場説得力の盾にしつつ論じていますが、実際にはテレビアニメ以前の音楽以外の内容について愛着が皆無であり、

内容的に好きなのはからアニメ版のことだけであるため、アニメ版ラブライブ!批判者を極めてアニメ以降の新参に近い立場から感情的否定しているだけで、古参であることを後ろ盾にする資格が無いのではという話。



(ブログ主)

ここにあるツイートだけを見る限り「読者参加型企画として発足したのに現在ラブライブのやり方は制作から一方的な押しつけだ」という旨の発言をしていたところラブライブファンからたしなめられて消えていったμ’s名付け親という古参代表といった感じです。アンチにしたら彼もそう言っているんだからやはりアニメラブライブは駄作なんだという使い方が出来てとても便利だと思います

では『一部のフォロワーから意見をいただいた御児勇馬によるラブライブ!に関する発言』にどういったものがあったのかというと

コレとか

(御児勇馬氏)

テレビアニメ版の制服or衣装の真姫ちゃんなら吐き捨てる 2012年以前の真姫ちゃんなら首肯する 茶髪の真姫ちゃんなら描いた人を抱き締める

コレです

ブログ主

御児 勇馬 @umamiko

茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪レズビッチは消えろ http://twitter.com/umamiko/status/418739888687554560/photo/1pic.twitter.com/acqU3Z6Mzt

4 months agoReplyRetweetFavorite

これとか最高に古参拗らせててヤバい

 これ以外にも読んだ彼の発言総合して

「読者参加型企画蔑ろにされているというのは建前で、自分μ’s名付け親であることにプライドがあり自分が名付けたという設定がアニメ漫画無視された事に不満がある」

「推しだった真姫の性格が改変されたことが気に入らない」

という印象を持ちました。少なくとも真姫を赤髪レズビッチ扱いするのはμ’s名付け親として…なんて以前の問題でろくでもない発言だと思います

 そんなわけで結局何が言いたいかというと、御児勇馬さんはそこまで聖人君子ではなかったし、上記のような発言をする彼の意見たかだか名付け親で名が知られているというだけで古参の総意のように扱われるのはファーストシングル発売時から応援してきて、アニメ版ラブライブも好きな自分としてはとても気にくわないのでアンチ諸兄におかれましてはそんなモノに頼らずもっと自分言葉ラブライブ花田十輝批判するようお願い致します。

ブログ主は御児勇馬氏をこき下ろしつつ同様に従来設定を持ち上げてテレビアニメラブライブ!批判する者へ釘を刺しています


しかし、ブログ主は「古参拗らせててヤバい」という言い方から古参や初期原案設定を好むいわゆる原作厨立場適当馬鹿にしているだけのように受け取れます

ブログ主は、自分も御児勇馬氏と同じ古参であることを明かして古参にも自分のようなテレビアニメ設定ファンがいると自らの説得力の補強を図っているのですが、その割には御児勇馬氏の心情を「ろくでもない」と完全にぶった切っており、古参からこそ従来の設定を愛するファンの心情への理解を示す姿勢殆どありません。

それもそのはず。そもそもブログ主古参ではあるがラブライブ!原案作成者である公野櫻子が嫌いな様子で、初期設定や絵柄に元から愛着思い入れはないことを仄めかしています

以上の発言からから立場古参だとして、アニメ化以前については音楽の良さは評価していても、キャラ設定や絵など大半の部分については従来から評価応援してきた様子がないことが分かります

それにしても、真姫の設定が改変されたことが気に入らない御児勇馬氏の心情を推測した後、それに関しての感想考察をもう少し真面目に行ってほしい気がします。

その点は多数派と化したアニメ以降ラブライバー派閥に属しているため、適当にこき下ろしても楽に支持を得られるだろうという傲りが表れたようにも映ります


ちなみに、御児勇馬氏批判したアニメ版西木野真姫矢澤にこ東條希と並んでアニメ前後で設定が大きく改変されたキャラの一人です。

(簡単にいうとアニメ前の真姫がガルパンアニメ本編の逸見エリカだとしたらアニメ版の真姫は、二次創作においてコメディ色強く歪められた西住みほにも簡単にデレデレになり、催眠オナニー趣味エリカというくらいに違います。)

ブログ主古参ファーストシングルから応援してきたファン自称し、それを立場の補強に使うならば自己紹介CDドラマ部分含めた初期設定の内容についても多少好意的に捉える向きも欲しいところですが、

それらの内容には全く否定的な様子でテレビアニメ以降のみを賛美する状態では、興味があったのは音楽声優だけ、または人気が出そうだから一応ウォッチしていたら人気が出て古参を名乗れてラッキーという立場のようにも思えてしまます

御児勇馬氏の設定改変への嘆きは、キャラ作品内容の当時の今とその延長線上にある未来を思って期待していたからこそ応援していたことが受け取れるため、むしろファンとして当然の姿のように思います

それに比べると、前から作品買って追ってはいたけど人気が出たから、好きな脚本家アニメ脚本書いたから本格的に推し出しただけであって、実は昔の内容は嫌いだったと言い出す人の方がろくでもない人のように映ります


ブログ主は何かと古参であることを自説の後ろ盾にしたい様子が見られますが、

アニメ版を大好きな古参自分がいるのだから御児勇馬氏の嘆きを古参の総意としないでくれとも述べています

実際に、古参でありアニメ以前の内容を好きでもありながらアニメ版も好き、またはアニメ版の方が好きという人もいるでしょう。

しかし、先にも述べたように彼はただ初期当時を知るだけであり、「ラブライブ!の従来の設定や世界観を愛する故に応援してきた古参ではありつつもアニメ版評価している」という立場ではないため、立場上はむしろテレビアニメ化以降のコンテンツの姿が一変して人気が出た後に嬉々として本格的に乗っかったラブライバーに近い立場ではないでしょうか。

同時に、ブログ主アニメ版ラブライブ!批判者をまとめてアンチと断定する態度(まるで昨今オタク世間を賑わしてきた新参ラブライバーのよう)で、御児勇馬氏に頼らず自分言葉批判するように訴えていますが、本人も古参であるという立場に頼らず自分言葉擁護批判をするべきなのではないかと思いました。

ブログ主のように古参でありながら過去に何の思いもなくテレビアニメ以降を妄信的に愛するファンは他にも存在しますが彼らは新参同様に基本的に好きの内容を語ることは少なく、好きという立場を語ることが多いので、御児勇馬氏のように作品の内容を好きになって応援していた人の気持ちが分かりにくいのかもしれません。

http://anond.hatelabo.jp/20160330201225

アルミ版はねーわ。

残された剣道部員の気持ちは一顧だにせず、剣道という競技への愛着リスペクトもないサイコパス穂乃果。

それを全肯定する海未。

小狡いだけのにこ。

複数IPアドレス使って不正投票する真姫。

本筋はアニメ版のようなドラマ的展開もなく淡々と進むだけ。

まり売り上げのことは言いたくないが、巨大コンテンツの割に漫画は大して売れてないのも当然といえる。

そもそも反響が良ければ編集部だってあんなに休載させんよ。


長々と恨み言を書いてるようだけど、結局は公野版はつまらないから人気が出ず、アニメ版面白かったから人気が出たというだけの事でしょ。

現実から目を逸らすなよ。

いくら京極花田アニメファンを罵っても、アニメがこれだけ大ヒットした結果の前では滑稽でしかねーよ。

今連載してるスクールアイドルクエストなんて、本来ならμ'sロスの受け皿になってもいいくらいなのに、話題にすら上らないのは何で?

単純につまらないからだろ。

公野作品評価できるのなんてシスプリキャラコレの咲耶巻くらいだわ。

一理なくもないですが団体戦ならともかく個人戦でやってた穂乃果がそこまで剣道部員の気持ちを気にする必要があるのかというのもありますね。

また、高校では当初から廃校阻止のために剣道頑張ってた描写もありますし、一方その点で海未が穂乃果を叱咤していましたから、最終的に肯定という結果になっても全肯定ではありませんでしたよ。

まあ、SIDの海未なら同じことがあっても全肯定してしまいそうな感じはありますね。

それに、既存部活は元々自分勝手に入って勝手に辞めるものともいえますが、μ'sの活動場合は穂乃果が始めて勧誘もしたわけであり、辞めるとき自分で畳むのは悪くないかもしれないですが

アニメ1期でことりのことに心痛めたからって即辞めるのは短絡的で、他のメンバーへの無配慮で辞めてしまった意味ではもっと話にならない突っ込み所で、そちらの方がサイコパスというかなんらかの問題ありだと思いますよ。

しかし、その点においてもどちらかといえばとってつけたような留学展開に疑問が生じる方が先で、元から親友ことりと海未の様子を気遣わない状態で突っ走ってきていたので、そんなこのキャラならそうなるかという不思議な納得はあるともいえたかもしれませんね。


小狡いだけのにこというのもよく分かりませんが、アニメ版と違って幼少期からアイドルになりたがっていたためにアイドルになるための研究努力があるためにスペックが高いことや、

アイドルという存在への思い入れ見解の深さがキャラ作りが重要とか言いながら決めぜりふだけで、キャラ作らず素の性悪面を見せてることが多いアニメ版と比べものにはならないと思いますよ。

またアニメ版は小狡いどころか穂乃果を襲撃してアイドルやめろと脅迫したり、ファーストフード店食べ物盗んだりと悪党レベルですが、小狡いのはダメだけどただ単に悪いのはOKということでしょうか。

そういう余裕のある悪戯っぽさみたいなものがあって真姫などを弄ってたのがアニメ前のにこの人気ポイントの一つです。

一方で、無能すぎて悪いことを言ったりやったりするけど小狡くはなりたくてもなれない方がいいというのはそのキャラ作品の道具的なネタ要員としてしか見てないからじゃないでしょうか。

2期で小悪魔とか言われてましたがむしろ悪党という感じですね。

不正投票も細かいポイントですね。その程度である日常系作品ですら普通にありそうなネタですが…。

そういう点に突っ込み出すと、アニメ版では絵里が無断で動画撮影投稿をしていたとかい突っ込みが生じますし、恐らくそのようなことを問題視していると思って書いたのでしょうが自分はその点は便宜上そこまで問題視してませんね。

どちらかといえば公開した動画馬鹿にされればいいという悪意があって投稿したことの方が問題ですけれどね。

元々廃校阻止という目標の点では穂乃果と絵里の思いは同じだったわけですし、結果動画馬鹿にされたら音ノ木坂の評判ダウンにもつながるのではと考えると自分目標達成にとっても痛手になる可能性がありますしね。


本筋は淡々と進むだけ?あれで淡々と進んでるというならどうあればドラマ的なんですかね…。

逆に「アルミ版はアニメ版よりも展開がシリアスシビアだ(だから苦手)」という評判はよく見ていたのですけれど、いろんな考えの人がいるんですね。

メンバー集めにしてもA-RISE存在にしても地元に根ざした学校地元の生徒たちが~という元々のコンセプトからして王道的で理想的でしょう。

そういう意味で穂乃果・海未・ことり・凛・花陽・絵里が幼馴染で元から知り合いという設定の方が自然ですよね。

逆にアニメ版メンバー集め展開をやりたい脚本側の適当な都合で同学年以外は知り合いでない状態にされましたが、地元云々のコンセプトも破壊したようなものですね。

アニメ版ファーストライブは印象的なシーンですがそれの元になった可能性があるシーンがアルミ版にあります

アニメ版のように講堂みたいな立派な場所でやったりパフォーマンス自体は見事だったりすることはなく、

アルミ版のファーストライブは屋外でラジカセ音楽を流しながら踊りを見せるだけというチープなもので、初めてのライブで緊張したこともありミスも出て観客や通りすがりの見物人は十数人ほどいましたが馬鹿にされて見世物のように終わるという辛いものでした。

穂乃果たちは自分たちのふがいなさに号泣しますが、その様子を見てそれまでいつも一緒だった親友の海未が立場を変えて協力に踏み切るというのはそこまで不自然だったでしょうか。そして淡々と進む展開ってそういうものなのでしょうか。

その後もアニメの突発的で感情的なやりとりを駆使しての展開とは違って、元から絵里と穂乃果たちは友達であることもあり勧誘平和的でありつつ一進一退状態ですが、その絵里が希などの勧誘には協力したりすることであるとか、

にこと真姫がそれぞれ個人的事情や思いを抱えているために、アニメ版ラブライバーもμ'sもメンバーみんなが作品奴隷であるべき的な思想好きな人にとっては嫌うポイントでしょうけれど、

本来キャラからするとにこと真姫が他のメンバーから独立した部分を持っているのも自然ですし、そこが後々生きてくるドラマ性を演出しているとも思います

SIDではにこは既に独白でもμ'sの価値を認めていますけれど、そういう方向性に向くまでのにこという意味では自然でむしろこうでなくては最高のアイドルを目指すにこらしくないと思いますが…。

アルミ版では元々のルックスに加えて実力も伴っているために穂乃果からいきなりセンター待遇勧誘を受けたりしていましたが、

アニメ版でも1期でセンターにこだわる描写があり、予習していたために未予習だけど才能有る他のメンバーと同等の成績を残す話がありましたね。

そこも残念に歪められた扱いで悲しいですが、それでも一応予習していることを知らない他のメンバーから褒められる描写がありました。

一方、2期4話でもセンターにこだわって写真加工云々の描写がありましたが、全体的にその扱いは何言ってるんだコイツというだけの状態でしたし、扱いや設定がおざなりすぎて擁護できませんね。

それが好きという人はアイドルでなく芸人か何かを好んでるんだと思います。元からそういうキャラならまだしも。

余談ですが後にその2期4話の元ネタgleeにあってその影響で弟まで加えられたことが分かり、呆れるしかありませんでしたね。


アニメ版のようなドラマ的展開とありますが、表面的な部分で遠くに合宿しに行ったりスクールアイドル集めたり優勝したりすることがドラマ的なんでしょうか…。

ただ、内面的な動向などに目を向けないでドラマ的かどうかを測るのであれば確かにアルミ版はあまりドラマ的ではないかもしれませんね。旅行とか大会海外には行ってませんし。

そういう方にとっては確かに劇場版のようなとりあえずニューヨーク行ったり大人数で何かやったりというのがドラマ的で理想的だったかもしれませんね。


ところで、アルミ版を批判するとしたら凛と花陽が加入する際のあっさりすぎて何も物語性がない所とかを批判した方がいいと思いますね。

そこは自分も幼馴染設定を生かしているともいえますが、もう少し何か欲しい所があります。いつか描く予定があったのかもしれませんが。

ただアニメ版では留学云々があったことり以外は基本的にμ's加入後は穂乃果のおまけや補助役に成り下がってしまうのに対して、

アルミ版ではにこや真姫などが個人的事情を抱えていることで、それぞれがある程度精神独立を保ちながら集まってる状態です。

一方アニメ2期では(gleeパクリらしいですが)とってつけたように、

普通高校生なら似た者同士で集まると思うけど、私たちは違う。 時間をかけてお互いのことを知って、お互いのことを受け入れあって、ここまで来られた。」

とか言わせてましたが、原案と違い幼馴染が少ないのに殆どメンバーが加入した時点で問題解決して受け入れあっているメンバー状態でそれを言ってもな、という感じですね。パクっておいて個性的問題ですが。

また、逆に穂乃果とは幼馴染の海未やことりとの方が一悶着ありましたね。

原案アルミ版は元々そういう要素を重要視してるわけではないですけれど結果的に、にこ真姫希という幼馴染枠外の3人の存在がそういう描写を強めるキーになれる要素を抱えてますね。


漫画は大して売れてないんでしょうか、そのあたりは詳しくないですが、アニメや動員数に比べたらそうでもそれなりには売れてると思いますよ。

少し調べてみたらなんちゃってファンおすすめする原作SIDレイプSIDコミカライズより売れてるらしい情報が出てきました。

公野版はつまらないから人気が出ずと言ってますが、そもそもアニメ化までに段々と人気や売上数は伸びてきていたんですよ。

雑誌CDは買わないと見たり聞いたりできませんし、雑誌は買っても注目作品以外は流し読みということも多いですから知名度が足りていなかったと思います

実際にアニメ化以降に知ったファンでも初期の楽曲PVの良さを褒めてる人は多いじゃないですか。昔は質が悪いから人気が出なかったと言うのであればその人気を評価する指標CD売上から言っているんでしょうから、売れなかった時のCD楽曲PVの質のことも批判してみてください。現実を見るならそこだと思いますよ。

そのようなわけで、知名度を得るためにアニメ化大事だったんです。知名度さえ得られたら評価が得られるだけのクオリティが元々あると思っていたからこそ嘆いているのであり、そういう所からいって、売れたから許せとか過去のことは滑稽と言うことこそ滑稽ですよ。まさにそこが問題点なわけですからね。


スクールアイドルクエストがμ'sロスの受け皿になってもいいくらいというのも、ちょっと謎の過大評価ですね。話題にすら上らないというのもどこ基準か分かりませんが思ったより話題になってるように感じますよ。

劇場版以降、作品展開に異議を唱えるファンが多少増えてきて、アニメ1期2期の頃よりはSIDとかアルミ版について語る人が増えてるような印象すらあります

売上が出たか面白いというのも問題があると思いますよ。何にでも悪くても売れやすものと良くても売れにくいものはあるわけですし、そもそも原案ラブライブ!場合はあの系統アニメ化してたらどうなっていたかというのを今では確かめようがないわけで、元の楽曲などを流用して、他作品盗作を駆使して、商品は売れたから全部これが正解というはいかがなものでしょうか。

どうせならキャラ声優楽曲も全て原案無関係オリジナルのものであればよかったのですがね。

ところで、アニメゆるゆりは1期2期はアニメオリジナルも含んだ内容で人気が出たものの、原作作風や一部のキャラを歪める内容なども含んでいたこから原作ファンに不評な部分もあり、原作作風を生かして制作会社も変更された3期は原作ファンから賛美されているようです。一方で1期2期を制作した動画工房や各種スタッフファンからは3期は微妙という評価もあるようですが。

自分ゆるゆり原作最近までまともに読んだことはありませんでしたが1期2期は誤魔化しを多用したくだらなさのある作品だと思っていました。それでもキャラ描写原作ラブライブほど破壊してはいませんから、それなりに好きでしたけれどね。

その中で3期を見たら1期2期とは違う落ち着いて安定した面白さがあったので調べてみたら原作により近いのが3期だと知って、そういうことがあったのかと思った次第です。

ゆるゆりシスプリのように後に原作に近い映像化作品が生まれるのであれば少しは溜飲も下がるのですが、ラブライブはあれだけ利益を生みながら原案ファンには還元せずに終わるというのも残念なところです。


長くなりましたが売上で勝った負けたとかそういうことを言いたいのではなく、公野版のままアニメ化していたら今ほどは売れてなかったかもしれませんが、それなりに売れていたのではないかとは疑いなく思っています

あのように始まった作品で、特に矢澤にこなどは中でも人気が出ていたキャラでその方向性作品を期待するわけです。それを横入りしてきたもの邪魔されて道を断たれてしまったことが可哀想ですし、十分な売上は生まれていたと思うので残念に思います


公野作品評価できるのなんて~とありますがそもそも、あなたが公野先生アイデアをあまりきじゃないだけなのではという感もあります。勿論あなたからしたら自分アニメラブライブを嫌いなだけとなるのでしょうけれど…。

せめてアニメアニメ、その他はその他の設定で独立させているならともかく、アニメ化以降アニメ以外のゲームはおろか、PVCDドラマアニメ設定に統一されていったことも問題ありますね。

自分は今さら何がどうなるとか、どうなってほしいとかはあまり考えていませんが、ただそういう思いの存在作品が終わる間際に書き残しておこうというだけです。

http://anond.hatelabo.jp/20160330021338

アルミ版はねーわ。

残された剣道部員の気持ちは一顧だにせず、剣道という競技への愛着リスペクトもないサイコパス穂乃果。

それを全肯定する海未。

小狡いだけのにこ。

複数IPアドレス使って不正投票する真姫。

本筋はアニメ版のようなドラマ的展開もなく淡々と進むだけ。

まり売り上げのことは言いたくないが、巨大コンテンツの割に漫画は大して売れてないのも当然といえる。

そもそも反響が良ければ編集部だってあんなに休載させんよ。

長々と恨み言を書いてるようだけど、結局は公野版はつまらないから人気が出ず、アニメ版面白かったから人気が出たというだけの事でしょ。

現実から目を逸らすなよ。

いくら京極花田アニメファンを罵っても、アニメがこれだけ大ヒットした結果の前では滑稽でしかねーよ。

今連載してるスクールアイドルクエストなんて、本来ならμ'sロスの受け皿になってもいいくらいなのに、話題にすら上らないのは何で?

単純につまらないからだろ。

公野作品評価できるのなんてシスプリキャラコレの咲耶巻くらいだわ。

アニメラブライブ!』はみんなから何を奪ったのか①

http://anond.hatelabo.jp/20160221211019

に対する

kato_19 確かにすごい考察ではあるが・・・楽しめなくて可哀想しか。辻褄や現実にこだわる理由がわからない。私の感想『『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか?』http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html

について。


まず、彼に限らずアニメラブライブファンが多少筋の通った批判を目の当たりにすると苦し紛れに発することが多い「楽しめなくて可哀想」という感想について。

この表現にこそ、とにもかくにも「ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』という感情状態から生じた「ラブライバーでない奴は可哀想」という論理が見え隠れする。

一応、何事も楽しめたらそれは素晴らしいことだ、というのにも一理はある。

しかし、見方立場を変えてアニメ前の作品内容や原案公野櫻子先生による内容を特に愛するファンから見た場合は逆に、アニメと同等以上に可能性に溢れているそれらの媒体をおまけ以下と扱って注目せずにアニメ声優のみに注目し楽しむ現在の大半のラブライバーこそ、楽しめなくて可哀想に映るともいえる。

本来であればもっとしかったものもっと楽しくなれるものに期待できず楽しめない状態でありながら、あん物語性もキャラクターも薄く浅いアニメ萌えるとか尊いかいって満足して楽しんでいることこそ可哀想だ。

と、子供喧嘩のような言い合いになるので、楽しめなくて可哀想理論微妙だ。


次に、「辻褄や現実にこだわる理由がわからない」「脚本物語性に非常にこだわる点」について。

これもアニメラブライブなど、拙い脚本を持ち味とする作品ファンが内容を批判された場合反論でよく用いる意見だが、この意見が出てくる時点で大体の場合勘違い存在しているように思う。わざとの可能性もあるが。

アニメ劇場版ラブライブ、少しずれるが艦これなどに至るまで、脚本内容を批判している人達の大半は恐らく完全な辻褄や現実性脚本物語性に非常にこだわっているというわけではない。“最低限”の辻褄や現実性脚本演出に伴っていないからこそ批判しているのであって、辻褄や現実性絶対主義者だから批判しているのではないことを盲目的に賛美することしか念頭にないファン達は再認識してもらいたい。

もしくは、彼らにとってそれらの作品の「萌え」や「勢い」といったもの上級表現の「尊い」どころか脚本物語性や辻褄・現実性の拙さと乏しさから来る違和感と物足りなさを補えるほどには全く至っていなかったのだ、ともいえる。

実際、辻褄やリアルさより萌えや勢いで全てを吹き飛ばして満足感をもたらしてくれる尊い作品自分も欲しているが、アニメラブライブはそれには程遠いと思う。

そしてそのような細かい辻褄の拙さやおかしさを吹き飛ばせる萌えや尊さといったもの存在しているものこそ、アニメ以前の雑誌漫画におけるラブライブ!だと自分は思うのであるが…。

京極尚彦氏や花田十輝氏、ラブライバー達にとってはそんなものより海外ドラマにのっぺりとした無個性二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌え尊い物語性など要らないって思ってしまうらしい。そのような部分を見ていると、彼らが一体作品の何を好きなのか分からなくなってくる。(そこでラブライバーラブライバーである自分ファンしかないという説が起こる)

ラブライブ!アニメ以降よりも1stシングルPVキャラクターデザインの方がシンプルながら個性と卓越性があった。当時は黎明期だし全てが未熟だっただろうという雑な先入観から考えて初期の絵や内容を馬鹿にしている者はファンにも多いが、もう一度しっかり見直してみた方が良い。実際初期の雑誌の絵は拙いもっさりした感じの絵もあって、主にそれを持ち出して「初期のキャラデザはこんなに酷かった」なんてネタにされているのをよく見る。しかし、雑誌スクフェスなどの公式絵はアニメ化以降でも当たり外れがあるのでそのあたりを踏まえて考え直してみる機会を設けてもいいだろうと思う。



次に「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」とそれに呼応する内容が述べられているブログ記事内容について。

ラブライブ!』って本当に美しいですね!特に劇場版ラストライブ・・・極限まで高められた美しさに圧倒されました。『萌え』の上級表現である尊い』って言葉がこれほど似合う作品ってあるでしょうか?


ここまで心に響く理由・・・それは『ラブライブ!』という作品アイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事が出来たから。現実に囚われない理想アイドル像を実現できたからだと思います

(アニメの)ラブライブ!って何が美しいのだろう。ラストライブの何が美しかったのだろう…。個人主観から仕方がないが、同様に自分主観だと1stシングルPVの方がまだ美しかったように思うためによく分からない。

劇場版ライブは1期や2期と比べても心に響くものがなかった。楽曲の質が突き抜けてこないのはネタ切れもあって仕方ない所もあるだろうが、無理矢理終わらせようという勢いと都合に溢れていたからだろうか。


「『ラブライブ!』という作品アイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事ができた」「現実に囚われない理想アイドル像を実現できた」

この意味がよく分からないが、後の記述から推測すると、芸能界というビジネス的なしがらみのある世界から分離され、物語キャラクター性といった辻褄や論理から脚本ライブ演出に特化され解き放たれたことで自由になった作品だと言いたいように感じた。

しかし、それと併せて考えて見てもラブライブ!という作品が「現実に根ざした物語を超えて」(いる)というのは、先述したような内容の辻褄や物語性の乏しさという都合の悪さを隠すために言い換えてみただけの取って付けたような表現に感じてしまう。


2013年、そこへ発表されたのが『ラブライブ!』という作品でした。架空アイドルをつくるメディアミックスプロジェクト出自とする本作にとって、現実アイドルという縛りは初めから希薄ものだったのです。

2013年からラブライブ!という作品が始まっており、その時点でメディアミックスプロジェクトから分離され独立していることが前提であるかのような書き方に嫌悪感を覚える。

現実から解き放たれたラブライブ!という作品


 当時、多くの人がアイドルアニメといえばアイマスのようなものイメージするなか、京極監督はおそらく気づいていたんだと思います。『アイドルアニメもっと自由になれる』という事に。


 『ラブライブ!』のTV放送一回目。多くの視聴者の度肝を抜いた突然のミュージカル演出。これによって本作がダンス楽曲コラボレーションに重点を置いた作品である事を宣言しました。

この方に限らずアニメラブライブ!京極氏を絶賛する人達はこのように言うのだが、そもそも元からラブライブ!は「スクールアイドル作品で、キャラクターが外のしがらみから独立して作詞作曲演奏ライブなどを自由に行う描写がある作品も、ブログでも言及されている『けいおん!』などのように以前から存在しているし、その点においてラブライブがそんなに画期的だったとは自分にはあまり思えない。

また、ダンス楽曲コラボレーションに重点を置いた作品であることを宣言しても、作品脚本内容の致命的な拙さやキャラクター配慮の不備の免罪符にはならないし、海外ドラマからパクって間に合わせただけで許されるわけでもない。

そもそも、元々の設定が存在し、それがある程度当時のファンに支持された上で存在していたメディアミックス作品なのだから、どうせ別のどこかから適当引用する程度にしか監督脚本家作品キャラクター物語性への真摯さと思い入れが足りていないのであれば、元の作品から丸々引用する方が良かったはずである。それならコピペでも文句を言われないどころか、原案原作を生かしていて素晴らしいと絶賛されていた可能性の方が高いくらいである。

実際、アニメラブライブ!古参新参わず最も評価が高いシーンの一つである1期8話は1stシングルPVの内容をほぼコピペするようにリメイクした内容だった。

それを、わざわざ無関係の別作品から引用して作品キャラクターの軸までねじ曲げてしまったのは悪意の盗作という見方がされても仕方がないし、別作品へのオマージュリスペクトとして捉えてあげるとしても肝心のラブライブ!という作品内容への思い入れ配慮の無さが強く感じられてしまい、その意図効果肯定的に受け入れにくい。


その特異にも見える現実離れした演出は回を重ねるごとに深まり視聴者を戸惑わせますしかし秀逸なストーリー構成私たちの心を掴み、いつしか違和感を感じなくなっていきました・・・ここに、現実アイドルという枷が外れた『ラブライブ!』という作品ひとつの完成を見たのだと思います

分かりやすく「特異にも見える現実離れした演出」があったのは主に1期&2期1話最終話だったと思う。それ以外は態々特異というほど現実離れした演出があったと自分はあまり思わなかった。そのため、時折挟まれ無駄寒いコメディタッチ演出描写違和感嫌悪感が生じた。

腐ってもキャラクターアニメであるのにキャラクター描写が雑すぎて、キャラクターの魅力が淡白で薄くなっていて消えてしまっている。とても演出や勢いがどうとかでは補えるものではなかった。その内容については先述の批判考察記事やそこで引用される元の批判記事で書かれているので省略。

また、自分ストーリー物語性や現実性と辻褄にこだわってアニメラブライブ!を見ることを批判的に捉えておきながら、その作品ストーリー構成を秀逸と考えた根拠も少々謎である

百歩譲ってその論理からストーリーにこだわらず演出ライブ(ダンス)シーンがいい、ストーリーはおまけだからというなら意味も分かるし、それに特化した自由アイドルアニメ作品評価する論理としても、その人の中でそう思えたなら仕方ないかと多少納得できるのだが、そこで、無理なおべっかを使うような賛美を繰り出す所にラブライバーらしい空虚盲目的な部分を垣間見しまう。そのような評価の仕方を見ているとやはり彼らの感覚論理の間には齟齬が生じているように思う。

結局の所、ラブライバーキャラクター描写の拙さや、脚本物語性を批判されたら「ライブシーンが見所だから」「ライブ演出が~」と言い、その演出もさほど大したことがないと指摘されてしまうと「キャラクターが魅力的で~」「初期から紡がれてきた声優ライブアニメとの融合によるコンテンツ包括的に捉えた中でのみんなで叶える物語(の物語性)が~」というような形のことを言って相反した発言を繰り出すために説得力がない。

そしてコンテンツの初期からの積み重ねやみんなで叶える物語という既に剥がれ落ちた空虚幻想の影を掲げて信奉する割には、アニメ以前の作品像やキャラクター像には最低限の興味や配慮を払うことすら稀な人が殆どである

そのような点を見ていると、彼らは結局作品の中身には興味がなく外部のパッケージだけを愛しているように思える。「よく分からないけど初期から歴史があって人気が出たからみんなで叶えた物語尊い」、「よく分からないけど結構可愛い声優アニメキャラシンクロしたダンスを踊るために頑張ってるから尊い」というような状態なのではないか別に作品を楽しむためには必ず重厚説得力のある感覚根拠必要とはしないが、そのあまりに粗雑な状態感覚根拠を掲げることが必ずいつでもどこでも許されるわけではないということは少しだけでも覚えていてもらいたいように思う。


一方で、そこで素直に「アニメラブライブはクソでもラブライバーとしてアニメライブを楽しんでいる俺は最高だ、だからラブライブは最高だ」と言ってくれるのであれば、それはそれで確かに素敵だと思うし、納得できる。それを聞くことで作品内容自体の素晴らしさは相変わらず伝わってこないが、彼らが作品を最高だと思っている気持ちは本物なのだろうと思えるからだ。しかし先述のように取って付けたすぐに剥がれ落ちるような根拠ばかり持ち出して内容評価を繰り返すようだと、何かに洗脳されたり、駆り立てられたりして仕方なく作品を賛美している状態に見えて、彼らが作品を好きと思っている気持ちすら実は偽物なのではないかという疑念が生じてくる。



 実体がなく抽象化たからこそ表現できるものがある。劇中の『飛べるよ』というセリフは、まさにこの作品自体に向けられた言葉のように思えてなりません。


 現実アイドルという縛りから飛び立った時、アニメーションはここまでの表現ができるという事を教えてくれました。アニメーション可能性がさらに一歩広がった事を実感できたのです。

自分劇場版の『飛べるよ』という台詞を聞いて、苦笑いを浮かべた。最近(2016年3月現在)話題違法・脱法薬物使用によるトリップを「飛べる」と表現することがあるが、それになぞらえて、「ラブライブ!を見てば『飛べるよ』」「作品内容もキャラクターも全部積み重ねてきた歴史アニメ化してから根こそぎ捨ててきたから中身は空っぽだけど、裏には歴史があると思い込みながら「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味に捉えられ、作品批評者にネタ提供しているなと感じた。

アニメラブライブ!という作品は、包括的ストーリー性やライブ演出が魅力だから作中のキャラクター描写とかアニメ自体ストーリー性は雑でもいい、描写の足り無さは効果的な省略だからおかしくても逆にそれがいい(効果的な省略が得意なはずの監督なのに無価値蛇足なシーンやキャラが多いのは何故?)」というような無理矢理な盲目擁護調の論理はこのブログの筆者や、某K氏やG氏S氏V氏などラブライブ!賛美系評論者の多くに共通しているように思う。京極尚彦氏や花田十輝氏の信者共通しているのかもしれない。

(2度表現言葉遣いなどを微修正)

2016-02-19

[]京極夏彦魍魎の匣」※途中

今半分くらい。

姑獲鳥の夏と比べるとほんと読みやすいし面白いわ。

関口のこと誤解してたかも。

京極と榎木津にフルボッコされてもまったくへこたれずに淡々と受け入れるメンタルの強さは半端ないと思う。

絶対関口ドMだわ。

豆腐メンタルどころか鋼の精神だわ。

一人になると鬱になるタイプなんだろうな。

いじられてはじめてイキイキするっつうか。

関口がいじられるシーンほんと好き。

絶対関口は受け。

ヘタレ攻め京極と榎木津がキョドるのもまあいいかもしれんが。

ヘタレ攻めってそういうことでいいんだよね?

違う?

2016-02-03

[]京極夏彦姑獲鳥の夏

★☆☆☆☆

あらすじ(ネタバレなし)

20ヶ月身ごもっているという妊婦の謎と、密室で消えた夫の謎。

古本屋兼お祓い屋のオッサンと、

豆腐メンタルフリーライターのオッサンと、

竹を割ったような性格のごつい刑事のオッサンが、

それら2つの謎を追う。

感想

10年越しくらいの積読消化。

うんちくはすごかったけど、別にうんちく読みたいわけじゃない。

一応ネタというかオチ伏線っちゃあ伏線だったけど、あんなに紙幅を割くことはなかった。

当時はああいう考え方が容易に理解を得られないだろうからってことで、懇切丁寧に説明したのかなあ・・・

10年前は前半のgdgdで投げたけど、やっぱり今読んでも前半はつまらない。

逆に後半の怒涛の展開、というかスカスカ感には拍子抜けさせられたけど。

amazonレビューとか見る限り、合わない人間は少数派みたいだけど、自分はその少数派みたい。

キャラも魅力的どころかドン引きですよ。とくにフリーライター過去

夏の空気感が~とかい感想見かけたけど、そんなもん感じられなかった。

風鈴が、りん、と鳴ったとかそんくらい。

あと陽炎がどうこうって描写があったかなかったか程度。

むわっとうだるような夏の空気感全然感じられなかった。

ミステリではない。

別にミステリ求めてるわけじゃないからいいけど。

でもネタっつーかオチがいろいろと無理やりすぎるっつーか、脳内推理しすぎでそれが事実だったって前提で進みすぎてちょっとついてけない

続けて魍魎の匣読み始めたら、こっちは最初からめっちゃ読みやすいし、面白く感じる。

昨日、谷川流学校を出ようシリーズは2巻から読むのをすすめるのがベターってのを見かけたけど、

これも、読むなら魍魎の匣からがいいんだろうなと思った。

何も聞かされずに・知らずに、姑獲鳥の夏京極シリーズ一冊目で読んだら、合わない人は確実に2冊め以降は読まないと思う。

以下ネタバレありあらすじとか感想とか。

















ネタバレあり感想とかあらすじとか

空想妊娠でしたー

夫は密室で死んでたけど、死体関係者認識の外にあって、見えてなかっただけでしたー

なんつーか、予想外なオチを狙いすぎて、でも一応のエクスキューズとして前半で伏線はってましたよ的なのが、

わからんではないけど、やっぱり破綻してる。無理がある。

自分は許容できないし、つまらなかった。

二重人格どころか多重人格でしたーとか

フリーライターレイプしてたーとか

いろいろと胸糞わるいし。

榎木津がさっさと警察に話しとけば終わったのに

まさか死体が見えないとは考えなかったとか言ってたけど。

親も一度も個室に入らなかったとか。

なんかもーね・・・

ぶっちゃけ京極作品としては榎木津の薔薇十字探偵社かなんかのペーパーバックのやつで初めて触れてたから、

榎木津にはもっと活躍してほしかったなあ・・・

意味ありげに出た割にはすぐ退場しちゃう・・・

ペーパーバックの榎木津メインのやつは結構面白かった記憶あるんだけどなあ・・・

まあ榎木津いたらミステリじゃなくてラノベなっちゃうから仕方ないか

とりあえず魍魎の匣はいまんとこ序盤は面白いし読みやすから、引き続き読んでみる予定。

2015-02-02

ラノベ馬鹿にされてない。ラノベ読みが馬鹿にされてるだけ。

ラノベ結構じゃないですか。

人気が出ればアニメ化される。放映されて、誰かがエロ絵あげる。おまえらヌく。

それを価値と認められないからこそ、「それ以外にもいいとこはあるんですよ」って、年金若者にとって損とは限らない的な物言い馬鹿にされるんですよ。

あのね、今の日本じゃ文学はなりたちませんよ。

なぜかって?

文章に命をかけてる人がいないからですよ。

結果論的に、文章を書いてる内に、または書こうとして取材に行って殉じる人はいるでしょうよ。

ラノベ書きでも、ふりーじゃーなりすととやらも、当然亡くなってる人はいる。

芥川の「地獄変」をごらんさい。

あそこまで呪われてる人はおらんのですよ。

もちろんラノベ書きでも呪われてるのがいるでしょうよ。

でもね、せいぜいロリコンだったり自己顕示欲の塊だったり売文家だったり程度でしょう。

だけど、安心していい。

一般小説にもそこまで呪われたのはそういない。

京極はんも東野圭吾宮部みゆきもぜーんぜん呪われちゃいないでしょ?

ちゃんと作家として生き長らえてるじゃない。

呪われてる人は自殺したりなんかで、さっさとこっちの世界からオサラバしてます

大きく二分すると、小説文学エンタメかです。

文学として小玉のをつくることができる人はいても、大玉は今の日本じゃ無理です。

思想に殉じることができないのでね。

んでもってそれは、ラノベだけじゃなく一般小説も同じことなんです。

エンタメは楽しけりゃいいんです。

逆に言っちまえば、日本平和なんです。思想に殉じる必要がなくなった。

その安全場所からは、文学の衝撃は発生しえない。

健全一般市民エロゲを勧めたりしようとすれば、頭おかしいと思われるように、

ラノベ地位を向上させ、いやむしろラノベ読者としての自分地位を向上させようとするから馬鹿にされるんです。

ヌいて賢者ときに筆をとっちゃいけません。

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.09 『夏祭虚構原風景から

■その1。

 毎回言ってるんだけど、今回こそはゲームレビューをやりたいと思って……選んだのは『夏祭』。タイトル通り、ゲーム自体は、三日間の夏祭を描いたものからプレイ時間は短い。たった三日間で、キャラクタ描写しきれるのか? と思っていたのだが、演出手法として、イベントごとに回想シーンを頻繁に挿入することで、要点はきちんと押さえている。ただ、毎回毎回、お約束のように回想シーンが入るので、それが少々うざったくもあるけど……。 最近ストーリー型のゲームにしては珍しく、二時間ドラマのようなスタイルで作られている。なので、このゲームは、大作型作品ではない。ここを勘違いすると食い足りないような印象だけが残るだろう。

 筆者も、まんがで最近流行している、虚構の現風景を描いたエコロジスト的な作品の流れにあると勝手勘違いして、今回のサブタイトルをつけたのだけど、実際にプレイしてみると、特に自然描写などに重点を置いているという訳ではない。おそらく、あくまドラマチックな演出舞台として、この設定を選んだだけなのだろう。なので、今回のサブタイトルは嘘っぱちだ。サブタイトルは、レイアウトの都合上、原稿を書き始める前に決めてしまうので、こういうこともある。

 しかし、こう書くといかにも薄っぺらゲームのように思う人もいるかも知れないが、別にそういうゲームではないし、特筆すべき所もある。ヒロインである[橘みやの]のシナリオなのだが……気の弱い幼なじみという基本設定自体通俗的なものだ。しかし、中盤から後半にかけて、そのスタンスが表面的なものであったことに、主人公は気づく。早い話が、三角関係から来る、すれ違いと嫉妬地獄絵図が展開されるのだ。

 ただ、『たとえばこんなラヴソング』や『週末婚』のような、サイコスリラーばりの鬼気迫る展開をする訳ではない。三角関係当事者たちは、あくま良識の持ち主であり、自己の欲望を優先できない弱い人たちである。この葛藤文学的執拗さで書くと、『WhiteAlbum』のように、美少女ゲームには異例の悲劇性を帯びるのだけど、このゲームあくまで、テレビドラマ的な構造作品なので、予定調和的な結末へと向かっていくし、ここで、虚構の現風景を想起させるような物語設定の仕掛けが効いてくる……少女まんが的な、感傷情緒感覚に訴える設定が、毒性を中和しているのだ。

 とはいえ、この予定調和少女まんが的なユートピアと捉えるのも、違うような気がする。それはむしろ、恋の熱情ではなく、愛情に起因する、穏やかな信頼によって支えられる……『とらいあんぐるハート』『とらいあんぐるハート2』で描かれるような、疑似共同体に向けられるべき評で、ボーイ・ミーツ・ガールな恋を描いた『夏祭』にそれを当てはめるには、少々違和感があるだろう。

■その2。

 まあ、[少女まんが的]という言葉が何を指すのかは、かなり曖昧だし、それはむしろ、白泉男児である相方領域だったりするのだが、結局のところ、『夏祭』は、スタンダード過ぎるのだ。それは決して悪いことではなく、むしろ美点なのだけど、価値観多様化し、結果として、家族や友人といった単位での崩壊を招いている状況の中では、かつては正常とされていたものも、異常とされてしまう。

 そして、マッチョイズムからも、フェミニズムからも取り残された人々は、[癒し]と[萌え]の過剰な摂取と、虚構原風景への逃避を計るのだ。筆者はそういう思考には否定的だが、これはこれで、スタンダード価値観を欲する動きなので、そういう嗜好の全てを否定する訳には行かないのだ。

 『夏祭』は、目から鱗が落ちるようなゲームではない。だけども、プレイした後の安心感は、[癒し][萌え][虚構原風景]といった要素によるものでもない。娯楽作品に不可欠なバランス感覚をちゃんと備えており、背骨が通っているのが、この安心感の正体なのだと思う。

 ただ、スタンダード故に、これはどうか?という箇所もある。Hシーンだ。作画文章共に描写力がなまじ高い分、不自然な印象が強調されてしまう……主人公テクニックが上手すぎるのだ(笑)。変な話ではあるが、若い男女のボーイ・ミーツ・ガール的な恋を描くというテーマは、文章力の高いHシーンとは、相反してしまう所がある。早い話が、初々しい恋のドキドキ感……言ってしまえば[童貞魂]を描く作品でのセックスは、ポルノグラフィに求められる実用性とは、いまいち結びつきにくいのも事実なのだ

 だとすると、先月取り上げた『Kanon』の、意識的回避することができてしまうHシーンの方が、作品テーマ親和性は高いのかも知れない。肉体関係抜きでも、精神的な絆を結ぶことはできるし、トゥルーエンドも見られるというのは、美少女まんが雑誌編集者だったくせに、Hシーンのない作品を平気で載せていた筆者にも、かなり衝撃的だった。ただ、それを認めてしまうのは、美少女ゲーム存在意義を問われてしまうということなので、簡単に納得はできないんだけどね……。

 ……しかし、これは「むほっ、これは嬉しい不意打ち……これに比べたら山岡さんのはカスや!」と、『美味しんぼ』の京極さん風に叫んでしまうのに近い(笑)。そして、「おいおい、お前さっきまで士郎のメシを美味そうに食っていたじゃねえかよ」と、自分に突っ込んでしまうのだが……って、話がズレた。

 『夏祭』の場合シナリオごとの構成にばらつきが激しいという難点はあるのだけども

、Hシーンの扱いは、物語にきちんとリンクしていたので、個人的には安心している。しかし、美少女ゲームにとって、セックスをどう扱うかは今後、重要課題になるのではないかと思う。それはそれで、本末転倒な気もするが、美少女まんがではもう、その問題を語ることができなくなってしまった以上……そう、H以外の要素に市場が寛容である間に、思考を突き詰めていかなければならないのだ。市場下り坂になれば、H以外の余計な要素は真っ先に排除されるのが、ポルノ業界の常なのだから

■来月は1999年度の総括。

 という訳で、次回は『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏をゲストに招いて、恒例(?)の1999年度総括ですー。それにしても、この手の原稿ばっか書いているくせに、ファンサイトの類は全く知らなくて、軽い気持ちでサーフしてみたんですが、筆者の原稿など簡単に吹き飛ばすほど強力な、美少女ゲーム論が山のようにあるのね……もっと突き詰めないとな……。

 余談ですが、『恋愛シミュレーションツクール』を買いました。いかんせんエンジン部分が弱く、実際にゲームを作るには、ちょっと苦しいんですが、恋愛ゲーム構造を解析するという意味では面白いソフトでした。

2013-04-21

アルジャーノンに花束をダニエル・キイス

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151101012

SF古典であると言われる本書でありますが、そうでなくとも昔に話題になった作品なんじゃないでしょうか。ちょっと前に日本でもなぜかドラマ化されてユースケサンタマリア辺りが主演でやっていたようなかんじ。

海外SFを読み始めようと思って有名作品を手当たり次第よんでるねんけども、これも読みたいなぁと思っていて、ふと家の本棚を見たらあった。誰や買ったの。

内容としてはSFといえば宇宙だのタイムマシンだの思い浮かべる方が多いでしょうが全然そんなのではなく、純粋空想科学小説であり、且つ、知能とは何かを問いかけるような哲学的な思想もふまえた作品である、とかいう感じでしょうか。

話は主人公であるチャーリーゴードンの手記(というか報告書)によって読み進められていくという形式になっている。

知能が高いと言うことは、果たして良い事なのか、等考えさせられる作品。そしてとても切ない気持ちにさせられます

途中中だるみする部分もありーの、最初の方は読むのがしんどい部分もありますが、名書であると言えるんじゃないでしょうか。悲しくはなったけど、泣けはしませんでした。映像作品なら泣いてるな、と思った。SF初心者の方々は是非読みましょう。

残像に口紅を筒井康隆

http://www.amazon.co.jp/k8bPcf06bSe3-05092-%E7%AD%92%E4%BA%95-%E5%BA%B7%E9%9A%86/dp/4122022878/sr=1-1/qid=1162125763/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

なんか「○○に××を」みたいな題名ばっかりですが、筒井康隆の中期くらいの長編作品です。別にまだ生きてはるんで、中期もくそもないんですが。筒井康隆名前はちょくちょくあがりますが、確実に言える事としては、短編ジュブナイルは読みやすいが、長編は読みにくい、という事。短編ジュブナイル中高生若者ターゲットに絞った小説のこと)が読みやすいのは辺り前といえば当たり前なんですが、筒井さんの長編難解な事で有名でありまして、それが逆にファンを作ってる見たいな所があって、結構どたばたな内容で、よくわからんまま終わってしまうこともあるわけなのです。よくわからんってことも別に無いけど、想像力を最大限に働かせないとついていけないって所はある感じ。まあ普通の人が読んだら、何これ意味わからん、といって切り捨てるでしょう。「残像に口紅を」はそういった筒井長編の中では、かなり実験的な試みがなされている内容になっていて、有り体に言えば「一章を進む事に、1文字ずつ使える文字が減っていく」というトンデモな内容となっているのである

当然文字が消えれば小説なので、その文字で表す事のできる事象、物、人物名などすべて表記が不可能となり、作中から存在のものが消えてしまう。消えたもの意識化では思い出せるが表現ができないので、それこそ残像のような形になってしまうのだ。

また、作中はメタフィクションな構成になっており、作中人物が、自分がいるのが小説の中であると言うことを認識して、文字の無くなった世界でこういう事をやってみるのはどうかなど、提案したりしてより実験度が明るみになるような内容になっておりおもしろい。

しかし、使える文字が半分以下になっても、しっかりと文書を構築できる筒井さんの語彙の深さには恐れ入るばかりなのです。小説家を目指す人はこういう事ができるようにならないと行けないらしいので、一度読んでみましょう。

13階段高野和明

http://www.amazon.co.jp/13%C2%968ekb5-%E9%AB%98%E9%87%8E-%E5%92%8C%E6%98%8E/dp/406274838X/sr=1-1/qid=1162132308/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

これかなああああああああああああああああああり前から気になっていて、映画化されたやつも見たかったけど、見る機会なくてやっと文庫買って読んだってやつ。前にも書いたよね。よね。ですよね。でもないんですよね、どこにも。

内容は松本清張宮部みゆきが書きそうな感じのミステリって感じで、二転三転する展開構成はおもしろいです。話もうまいこと出来てます。後は、現在日本死刑制度とか裁判制度とかそいうった所に焦点をあてていて、まあ社会派サスペンスって部分も兼ね備えている大人のミステリって感じですね。

読んだ後少し陰鬱な気持ちになるような感じかしら。そうでもないけど。

しかし、話はようできていておもしろいです。一度読んでみる価値はあり。二度は必要なし。

七回死んだ男/西澤保彦

http://www.amazon.co.jp/N03Vdek7b093060u37-%E8%A5%BF%E6%BE%A4-%E4%BF%9D%E5%BD%A6/dp/4062638606/sr=1-1/qid=1162126718/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

これはなんとも新しいというかなんというかな設定の本です。この西澤さんという人は、SF的な設定での「縛り」を設けて、その設定の中でミステリを書くというすごい人らしい。本作の主人公パラレルワールドを関知できる、というと語弊があるが、時間の繰り返しを認識する事ができるという能力を持っている。これは同軸時間上に異なる次元が平行で存在するという科学概念があってこそ成り立つ仕組みなんでしょうが、要は同じ日が何度も繰り返されてしまい、その事に気づいているのは自分だけであるという設定になる。このSFばりばりな設定上で、主人公の祖父が殺されてしまい、祖父を助けるべく時間が繰り返される度に試行錯誤を繰り返す、といった物で、まあミステリといってしまうと、そんな物でもないんですが、ラストには驚くべき謎が残されていたりして、そんなこととは思わず読んでいたらびっくり、てな具合でした。

設定もおもしろいが、話も計算されていて、尚かつヒントや複線はそちこちにちりばめてあるという素晴らしい構成。いや、こういうのすごい好きです。SFミステリが同時に楽しめるのだから二倍お得。文章はちょっとライトノベル風って感じではありますが、さらっとギャグはいったり、随所で笑わせてもらえます

他の作品もそれぞれ違った縛りが設定されているので、今後西澤さんの本も読んでいきたい所。

ハサミ男殊能将之

http://www.amazon.co.jp/0cf0b50dfu37-%E6%AE%8A%E8%83%BD-%E5%B0%86%E4%B9%8B/dp/4062735229/sr=1-1/qid=1162131520/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

いや、これはすごい。この作品はメフィスト賞受賞作品の中でも評価が高く、所謂叙述トリックものである、という前評判を知っていながらもまんまと騙されて、頭が混乱させられた。

まあミステリたくさん読んでる人からしたら大したことないわって感じなんかもしれませんが、これは京極夏彦並、とまではいかんけど、宮部みゆきよりはすばらしいです。あ、比較対象がわるくてあんますばらしくないかも。

設定も斬新で、「ハサミ男」とマスコミから呼ばれている連続殺人犯である主人公が、次に殺人しようと狙っていた女学生を、別人に自分がしてきた手口とまったく同じやり方で、先に殺人ををされてしまい、真犯人を見つけるべく捜査を開始するという、トンデモ設定であります

ハサミ男」というとジョニーデップのシザーハンズなんかを思い出しますが、こちらの方はハサミをのどに突き立てて惨殺する連続殺人犯という設定なのだから、いったいどう収拾つけるのか、展開がまったくよめずハラハラドキドキで、最後にドーン、みたいな。

綾辻行人とか、本格推理系が好きな人は一度読んでみて下さい。これは絶対読み返したくなる。ざったい。はざみ。すみとみ銀行

邪魅の雫京極夏彦

http://www.amazon.co.jp/%C2%90aa%C2%9B4506e%C2%96eb-%E4%BA%AC%E6%A5%B5-%E5%A4%8F%E5%BD%A6/dp/4061824384/sr=1-1/qid=1162132608/ref=sr_1_1/250-4061733-2721012?ie=UTF8&s=books

言わずと知れた、待ちに待った京極夏彦です。発売当日に買って、一ヶ月もかけてやっと読み終わりました。

いやはや、うーん。何はともかく京極ワールドといった所なんでしょうが、やはりこの京極堂シリーズは少し迷走しているというか、方向性が変わってきてる感がぬぐえない。

ただ、今回は「小説」としては楽しめるんじゃないでしょうかね。毎度の妖怪うんちくや、蓄積された謎と複線の解明とか、そういったモノがないといえばないんで、京極ファンとしてはちょっと肩すかしって感じでしょうか。

話にしても構成にしても、人間がたくさん出てきて、時間軸が読めなくて、不思議がもわもわ沸いてくるという辺りは毎度のごとく、さすが京極というような内容ではありました。どちらにせよ京極夏彦のすごい所は単発の話のおもしろさは当然の事ながら、内容の連鎖制というか繋がりというか、壮大的な世界構成といった所にあると思うので、やっぱり最初から読んでるファンじゃないと楽しめないよなぁとつくづく思うわけである

でも、巷説百物語シリーズとかはほんまに名作だと思うので、まわりに薦めて行きたいけど、それを読むには前知識として、他の京極堂シリーズ等を読んでいる必要があるので、少しハードルが高めなのが残念。

まあ、でもいいっすよ、京極夏彦。好きな作家の一人です。

なんかたくさん書いたよ。まったく。書く意味あんのかな。

それはそうと寿司が食いたい。すししししししし。

握るやつでもまわるやつでもなんでもええわ、と思ってしまうあたり

俺は大してグルメじゃないなぁと思う。そんなもんか。SUSHI-。

2013-02-07

http://anond.hatelabo.jp/20130207152450

いや、無理だといってすり合わせも試みずに逃げられてもw

京極ラノベ作家だと思う理由は何よ?

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