はてなキーワード: ニュートラルとは
一度勧誘をうけてちょっと気になったサークルの歓迎会に顔を出したら、そこに彼女がいた
ひとことも話してないし、なんならマジマジと顔を見たわけでもないんだけど、「メチャクチャ可愛い人おるやんけ!!」と強く思ったのは覚えている
なんというか、強烈に可愛かった
服装なのか顔なのか仕草なのか、なにが琴線に触れたかっていうのは思い出せないんだけど、とにかく、そのときの彼女は俺にとって爆発的な存在感があった
視界に入っただけで、そこんところにエフェクトがかかって、ほかがボヤけるような感じがした
1年間、いろいろあって、彼女と付き合うようになり、そのままもう6年くらい経つ
で、さすがに6年も付き合っていると、結構見え方が違ってくるわけですよ
彼女はメチャクチャ可愛いと思うんだけど、その可愛さの種類が変わっている
言ってしまえば、「ミステリアスな女の子」から、「ペットのデカい鳥」くらいの変化をしていると言って良い
アレなんすよ
彼女に片想いしていた1年間は、たとえば彼女が大学のキャンパス内をイヤホンをつけて颯爽と歩いているのをみて、「うわーーアレ何聴いてんだろ、絶対俺の知らないメチャクチャセンスいい音楽なんだろうな〜」とか思ってたんだ
付き合ってヒアリングしてみたら、実際に彼女が聴いてたのはアニメのドラマCDとかキャラソンとかだった
当時は、彼女のTwitterなんかをみて、休日はシャレオツな店に出かけたり散歩をしたりしてる、おしゃれ人間だと思ってたんだ
実際の彼女は休みの大半を寝て過ごすロングスリーパーで、オタクで、俺よりだいぶマシだけど普通に出不精だった
幻が滅されたわけですよ
その結果でてきた彼女の本性はホントにすごい好きで、ここまで気が合う人に一目惚れするとは、俺のセンスも捨てたものじゃないわね!と思うくらいなんだ
それはそれとして、あの頃の、ミステリアスで神秘的で魅力的で謎多き存在としての彼女もちょっと懐かしいんすよね
でも神秘性を感じるにはもう知りすぎてるんだよな
何言ってんの?キショ……
あとで言ってみようかな
ブロックチェーン界隈は邪悪な人間が多いためか、ブロックチェーンに否定的なITエンジニアが多いのだけど、とてももったいないことだと思う
邪悪な人間は嫌いになってもいいけど、ブロックチェーンのことは嫌いにならないでほしい
イーサリアムを作ったヴィタリックさんは、イーサリアムのことを「ワールドコンピュータ」と呼んでいます
コンピュータというのは、記憶領域と入出力装置を兼ね備えた演算装置のことです
記憶領域はブロックチェーンのブロックの部分が担っており、演算装置はマイニングマシンが担っています
入出力の出力の部分は、演算装置が計算して記憶領域に格納した結果をこちらから読み取り行くことで実現でき、
入力の部分は「オラクル」と言われることもあるけれど、データをブロックチェーンに流しこむことで実現できます
ブロックチェーン同士をつなぐブリッジも一種の入出力と言えるでしょう
つまり、これら記憶領域や演算装置を持つブロックチェーンは、コンピュータなのです
コンピュータにやらせたいことはスマートコントラクトというプログラムコードに書きます
チューリング完全だそうです
そのコンピュータを操る基本ソフトであるOSは、ブロックチェーンに組み込まれているので、ブロックチェーンを作るということはOSを作るということなのです
普通のコンピュータの場合、フォルダの中身を見るのにエクスプローラーを使いますが、ブロックチェーンにもエクスプローラーはあります
ブロックの中身を見たり、スマートコントラクトのコード(ソースコードが公開されていない場合はバイトコード)を見たりすることができます
このエクスプローラーはブロックチェーン自体が備える機能ではないけれど、ブロックチェーンがコンピュータっぽいことが分かるのではないでしょうか
ちなみに、スマートコントラクトはコンピュータにインストールするアプリに相当するでしょう
web1.0が登場したころ、そのあまりの遅さゆえwwwのことを「world wide wait」と揶揄する人もいたそうです
webはその後劇的に速くなったので、ブロックチェーンも速くなるかもしれません
話が長くなりましたが、言いたいことは、ブロックチェーンは詐欺ツールではなく、ただの技術です、ということです
10年経って時計の針を進めるってんだから、そりゃあ長年付き合ったファンにとっては色々思うところがある。
当日、幕が上がってもどういう顔して見ていいか分からなかった。もうこれで終わりだと思うとどんな顔をしても違うように思える。
ただ、これで本当に終わりなんだろうな…というのは分かってたから、その最後まで見届ける努力はした。
終わんねぇじゃん!なんだよこれ!完全にこれで終わる流れだったろ!!!
永遠に醒めない幸せな夢、ファンがずっと変わらない想いを抱き続けることで未来永劫存在し続ける宿命を背負った作品"だった"んだよ。
でもすべてのものに変化は平等に訪れるじゃあないか。時計の針を動かしたのはそっちじゃあないですか!!
俺だってみんなと「続編楽しみだねーー!!」って言いたかったよ!素直に祝福したかったよ!!
けどダメなんだよ!俺の中でこの作品はデカくなり過ぎちゃったんだよ!!10年分のあいつらの軌跡が簡単に終わらせてくれねぇんだ!!公式様直々に幕を降ろしてもらうまで降りられなくなっちゃったんだよ!
相当覚悟したよ。
もうこれで終わってもいいって覚悟したからリアタイぶりに最終話見直したよ。5年以上かかったよ。
俺自身の血肉になり過ぎて作品の終わりがこの世の終わりみたいになったよ。あまりにも影響を与え過ぎた。
実際10年もここまでのめり込んで追いかけたコンテンツなんてなかったからね。
これまでご想像にお任せしますで無限の可能性を広げ続けてた"未来"の話を始めたからね、それを見届けるために前日は延々ブツブツ独り言呟いてたわ。自分の中でこの作品に対して一つの決着を付けないといけないからな。
当日、幕が開くまで本当にどういう顔して見りゃいいか分からんかったもん。笑顔で送ってやりゃいいのか、それとも心に従ってワンワン泣きゃいいのか。
結局普通に見ちゃったよ。覚悟しすぎたせいでいろんなもんポロポロ落としたわ。
やってっことが変わってないんですよ。
昔卒業ライブを武道館でやって、その一か月後に別イベ呼んだだろ。あっこからまるで成長してない。
これで終わるって、少し寂しいけど門出を祝わないとな…て挑んだ俺の覚悟を返してくれよ。どうすりゃいいんだよこれ。この覚悟どこにぶつけりゃいい?恥ずかしいよ俺。
素直に喜んでる他のファン見ておかしいのは僕の頭(ココ)か?劇場で息絶えた。決して傷つけることは望んでないけど、どうしてもねぇ…。
とにかく来春までどういう気持ちで待ってなきゃいいか分かんねぇよ。誰か教えてくれ。
………
……
…
以上が一回目鑑賞後の感想。正直話の内容ってより「思ってたんと違う!!」の方に重きがあるんで強い言葉を使っちゃってる。
今回舞台挨拶の関係で、インターバルを挟んで計三回見たんで以下に鑑賞後の心境の変化を記します。
①終わんねぇのかよふざけんな!俺の覚悟どうすんだ!!
②まぁ決めること決めてるしまとまってる……やっぱ尺足んねぇよなあ!30分!?Web配信でも良かったんじゃない?
③ンザイゴオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!来春楽しみ過ぎんですけど!!!!!!!!!!!
2回目はある程度冷静さを取り戻して心をニュートラルのまま見られた。
で、ちゃんと見たら三人とも結論に至るまでの経緯がちゃんと説明されてたから唐突感はなかった。納得できたし、OPの意味が確定した時点で目が蛇口になった。最終話見た後に第一話見たくなる作品は名作なんだよ。
ただ、正直尺足んねぇ感はあるんだよ。もっと見てたいなって。まだ色々物足りねぇなあ!!と思ってしまった。
それが3回目ではどうでしょうか。涙流しながらあいつ等の決断を見守ってた自分がいたよ。
あれで十分だよ。テーマがテーマだから少し寂しいEDへの入り方…だけど、この道の続きに待っているあいつらの素敵な未来に出逢ってるから寂しくなんてないんです。輝く未来を分け合ったあの日を胸に今日も生きているんです。
次に会うのが楽しみな自分に逢いに行くって決断したんだからさ、その瞬間まで笑顔でいるのがファンってもんじゃあねぇか。
結局俺は「さよなら」を言うのが怖かったんですよ。もう2度と会えなくなってしまう訳ではないはずなのに、このまま変わっていくことがどうしようもなく不安で怖かった。
大切な時間と居場所がずっと変わらずに続いていくんだって、心のどこかで当たり前のことのように思ってたんだよな。
だからそれが変わるのが怖くて立ち止まろうとしちゃってた。
「男女CPのことノマカプとかNLって呼ぶの、男女以外の組み合わせを「ノーマル(普通)じゃない」っていってるのと同じで、異性愛者以外を間接的に「アブノーマル(異常、変態的)」っていってるのと同じ」
……って、そこは「普通じゃなくて何が悪いんだ」と言い返すべきところなのでは?
問題は「普通じゃなければ駄目」という押し付けや同調圧力にあるのであって、「普通じゃない」事も多様性として認めればそれでいいのでは?
「普通」という本来ニュートラルな言葉に、勝手にポジティブな意味を見出して被害妄想に陥ってるんだよな。
あと、「普通じゃない」事を指して「特殊」や「特別」ではなくて敢えて「異常、変態的」というネガティブな言葉で表現するのも被害妄想根性が強すぎてドン引きする…
例の暗殺事件で、政教分離やカルト宗教の問題が明るみになったわけだけど、政治側がずぶずぶで世の中が変わる気がしない。
だれか、Change Orgでプロジェクトを作って欲しい。できれば、弁護士とか巻き込んで。共産党とかはは巻き込まないでね。政治的にニュートラルな人達中心で。
うまくいけば、普通に100万くらい集まると思うんだよね。100万という数は絶大な意味をもつと思う。今は、一部のネット界隈が騒いでるだけ。すぐに廃れるよ。
でも、100万集めたら、下手したら世の中を変える体験できると思う。
「お前がやれ」?
いやー、弁護士先生を巻き込んだり、誰もが納得できる文章を書いたりするのは自分には無理。
お願いします!
例の暗殺事件で、政教分離やカルト宗教の問題が明るみになったわけだけど、政治側がずぶずぶで世の中が変わる気がしない。
だれか、Change Orgでプロジェクトを作って欲しい。できれば、弁護士とか巻き込んで。共産党とかはは巻き込まないでね。政治的にニュートラルな人達中心で。
うまくいけば、普通に100万くらい集まると思うんだよね。100万という数は絶大な意味をもつと思う。今は、一部のネット界隈が騒いでるだけ。すぐに廃れるよ。
でも、100万集めたら、下手したら世の中を変える体験できると思う。
「お前がやれ」?
いやー、弁護士先生を巻き込んだり、誰もが納得できる文章を書いたりするのは自分には無理。
お願いします!
自分は典型的な学会2世で、2000年代前半に創価中学・創価高校(創価学園)に通っていた。
いかんせん20年近く前のことなので中学・高校を混同してたり不正確かもしれないけど許して。
地元の5歳ほど上の代に創価中学に合格したひとがいて、それなりの田舎だったこともありレジェンドのように語られていた。
そのレジェンドが通っていたのと同じ地元の塾に小4から通った。創価学会員はこの手の験担ぎが大好きなのだ。
前日に38度の熱を出してしまった。前述のレジェンドも同じようなことがあったなかで合格したらしく、カーチャンは興奮しながら唱題していた。創価学会員はこの手の(ry
当日は携帯ご本尊(お守りご本尊とも呼ばれる)をカーチャンに持たされた。どんなものかはググってくれ。
お決まりの「公共交通機関でお越しください」であったが、トーチャンの車の後部座席に寝ながら向かった。ゲートで係員に止められていたが、後部座席で寝込む俺を見て敷地内の駐車場に誘導してくれた。俺は眠くて寝てただけなのに。
通常の会場とは別室に設けられた体調不良者が集められた部屋で試験を受けた。ポカリ飲み放題で、毛布にくるまって行儀悪く立膝しながら快適に試験を解いた。
俺が受けた年は倍率11倍で過去最高だったとかそのあと聞いた気がする。
創価学園だからといって必ずしも池ちゃんと接触の機会があるわけではないが、俺のいた頃は入学式と卒業式は確定で池ちゃんが来ていた。
普段は会館で見る衛星放送の映像の中にいる池ちゃん(とそのスピーチ)を生で見られるということで、たぶん保護者が一番テンション高かったんじゃないかな。
うちもカーチャンがテンション爆上がりしていて、出席できるのは保護者の片方だけだったがトーチャンは問答無用で蚊帳の外に置かれていた。かわいそう。
ちなみに俺の在校中に池ちゃんが入学式・卒業式に出なかったことが2回ぐらいあって、それまでは皆勤だったから中々の衝撃を学会シーンに与えていたような記憶がある。
あとスピーチ中の池ちゃんはアゲどころで机を手でバンバン叩くことが多く、その少し後に流行ったやる夫AAの「だっておwwwwwバンバン」を見たときに池ちゃんだろこれって悪友と笑ったことがある。
入学式・卒業式ほどじゃない節目イベントのときに池ちゃんからメッセージや差し入れが届くことがあった。
終業式のときなんかに学年主任が「池田先生から差し入れいただきました!」って言って全校生徒にかっぱえびせんが配られるのが定番だった。
コンビニで売ってるようなサイズ感ではなく一回り小さいものだったので「けちくせー」と思った記憶がある。貰い物に文句をつけるな。
何より面倒くさくてウザかったのが、その手のことがあるたびにクラスでA5の便箋が配られて「今回の感想と決意を書いて提出しなさい」と先生から言われたことだった。学会員決意するの好きすぎる。
かっぱえびせんに感想も決意も出るわけもなく、俺は一回も提出したことないがそれで怒られた記憶はない。真面目な生徒は毎回提出していたように思う。
創価学会においては、唱題という行為をすればするほどえらいという価値観がある。本尊にむかってみんなで「なんみょーほーれんげきょー」と連呼するあれね。
校舎の一階に謎の立派な扉があって、その奥に20畳ぐらいの和室と本尊があった。
体育会系のメインストリームなひとたち(サッカー部や野球部)なんかは大きな大会の前になると、朝や昼休みに総出で唱題をしていた。練習すればいいのに。
ほかにも生徒会とかの意識の高い優等生は自発的に空き時間に唱題しに来てた。
ちょっと記憶があいまいなんだけど、誰でもアクセスできる部屋というわけではなく、部活で唱題する人と一緒に応援をしたい人とか、招待制というかクローズドな場所だったような気がする。誰も唱題していない時間に潜り込んで畳の上で昼寝した思い出。
小学生のころ休み時間にサッカーをするのが好きだった。地域のサッカークラブみたいなところにも入りたかったが親に許されず、そのまま下手の横好きで休み時間サッカーを続けていた。
中学に入学してすぐのころ、休み時間サッカーに混ざりたくてそれとなく輪に入ったら横で同級生同士が「なんで増田がここにいんの?プゲラw」と話しているのが聞こえてそれ以降休み時間に中庭に近寄るのはやめた。体育もスポーツも大嫌いになった。
当たり前だが同級生はみんなどこにでもいる普通の思春期10代だった。それまで接した創価学会の大人たちはみんな優しかったので、こんなんだったらこの学校に進んだ意味ないじゃんと思った。
創価学園を語るうえで欠かせないのが愛唱歌の存在で、校歌や寮歌のほかに10種類以上の愛唱歌と呼ばれる歌があった。
昼休みの中庭で、掲揚された三色旗の前で有志で愛唱歌を歌う活動があった気がする。
愛唱歌のうちとりわけ記憶に残っているのは「負けじ魂ここにあり」という歌で、気になる人は歌詞をググってもらえるとわかるけどテンションの上がりそうな勇ましい感じの曲だ。ここぞという機会で歌われていた。
1番から5番まである長い曲で、平時は1番と3番と5番が歌われていた。式典とかの機会だとフルバージョンだったかな。Radio MixとOriginal Mixみたいな。
いわく5番が一番大事だそうで、5番だけが池ちゃんが書いた歌詞だったかな?1番~4番の長い前振りがあって、5番に本命が来る。クラブミュージックか?
これを書きながらググった歌詞を見直したらメロディー覚えてて歌えちゃった。人間の記憶すごい。
創価学会では、学会本部に依頼すると池ちゃんに子供の名前を付けてもらえるサービスがあるのは有名。
池ちゃんネームの割合が結構高かった気がする。クラスに2,3人ぐらいはいた。
中学を卒業してエスカレーターで高校へ進学すると、創価大学への推薦を見据えて学校生活を送る必要が出てくる。
成績に関しては赤点取りまくらなければ大丈夫、ぐらいのラインだったと思う。欠席と遅刻は年間だったか累計だったかで10回まで、みたいな感じだった。
自分は創価大学へ行く気は早々に失っていたので、面倒くさいと思ったら勝手に早退して家でラグナロクオンラインやったりしてた。
成績はボロクソだったが赤点補習をきっちりとこなせば問題なかったので、留年とかそういう問題は皆無だった。なんだかんだで寛容で優しい学校だったと思う。
体育の赤点だけは、夏休みに登校して体育教師が顧問をするサッカー部と一緒にトレーニングをする、みたいな内容でそれが嫌で最低ラインの出席3分の2を維持するハックで乗り切った。
ちなみに一度受けた体育の赤点補習では、俺の休み時間サッカーの件の当事者がサッカー部だったのでそいつが居たが、妙に気遣ってくれたりしてむずがゆかった。あいつ良いやつだったな。
創価学会にはとにかく記念日が多いのだが、記念日の会合で池ちゃんがスピーチをぶると翌日には聖教新聞に全文が掲載される。
総合学習みたいな時間にはその聖教新聞がクラスで配られ一文読みをしていた。ここでもかっぱえびせんのときと同じようにA5の便箋に感想と決意を書かされる。一度も提出したことはないが(ry
池ちゃんのスピーチの全文を読んだことある人がはてなにどれぐらい居るかわからないが、池ちゃんのスピーチって基本的に中身がない(個人の感想です)
「〇〇(歴史上の偉人)は言った、ほにゃららほにゃらら。だから君たちも勉学に努めなさい」一同「ハイッ!」っていうのが池ちゃんスピーチの定番のやり取りで、勉強しろって説法をするときに引用でしか言えないのかこの人、と常に思っていた。
他には「戦争は悲惨だ、最低の行為だ」「いじめはよくない、いじめた人間が100%悪い」みたいなありふれた内容で、何をみんなそんなにありがたがっているのか分からなかった。そのためにはどうしたらいいのか、どうすべきなのか、具体的な方法や理論に言及することが皆無だった。せいぜい本を読めとか勉学に励めとかそれぐらいで、マセガキだった俺の好みの内容ではなかった。
「いついつの会合のスピーチ、めっちゃよかったよね~」と言っている同級生もいたが、松屋と吉野家ぐらいの違いしか俺には分からなかった。
創価学会は独特な語彙やネーミングが多いが、学校にもそれはあらわれていた。
中学のロッカールームは「鳳雛ホール」という名称だった。ほかにも学校内の講堂は「池田講堂」だったり、食堂が「栄光ホール」みたいな名前だった気がする。一番大きい体育館も何か独特の名前があったと思うが覚えていない。俺の卒業後に校舎が建て直されたりしてググっても情報が全然出てこない。
最寄り駅の鷹の台駅から学校までは10分以上玉川上水沿いを歩くのだが、玉川上水沿いの道は「哲学者の道」と呼ばれていた。哲学者の道を横に外れた場所に昔ながらの林があって、そこでエロ本を見つけたことがある。なるほど哲学者の道。
ちなみに近隣の武蔵野美術大学や白梅学園の生徒もここを使って通学していて、妙に大人の女性に見えたなあ。
白梅学園のバス停が前後を創価学園と朝鮮大学校に囲まれている画像なんかが有名だけど、不思議と朝鮮大学校に関する記憶がない。
終業式だか始業式を飛ばして悪友と学校を抜け出して武蔵野美術大学の学祭に遊びに行ったのは楽しかった。
悪友が「創価学園の生徒だけど質問ある?」みたいなスレを立ててVIPで爆伸びしていた。創価系の質問スレはググると結構多いけど、当時2chにどっぷり浸かっていた俺の知る限りでは悪友のスレが元祖だと思う。
校内の写真とかをガンガン上げていて大丈夫かと思った。今でもインターネットで出回る創価学園にまつわる有名画像のいくつかは悪友がアップしたもののはず。
基本的には学会二世しかいないので、典型的な創価学会員の世界観を持っている生徒が多い。
一方俺はネットde真実をゴリゴリにこじらせていたので、普段から池ちゃんや創価学会へ懐疑的なスタンスを公言していたが、それでいじめられたりするようなことはなかった。池ちゃんのいじめを許さないご指導が活きていたのかもしれない。
池ちゃんへのおかしいと思った点を熱心な生徒に話してみたりしたが、全否定されたり人格否定されるようなことはなくまともに議論じ応じてくれたように記憶している。
なにかの学校行事の決意発表大会みたいな学年集会の場で「俺は正直池田大作という人は別に好きではなくて~」みたいに自分の考えを披露したことがあるが(今思うとこじらせすぎている)、それでも「こう考えてる人がいることが分かってよかった。増田の言葉で聞けて良かった」とニュートラルな反応をしてくれた同級生もいたことが印象的。
一方で先生は頑迷な人が多かったように思う。一度英語の先生に「創価学会員はどうして個人なのに人の投票行動に介入するんですか?自分で決めるべきことなのでおかしいと思う」と言ってみたことがあるが、「人は選挙権のほかにも、個人として選挙をお願いする権利もあるんだよ」と答えになっていない返答をされた。いまでも意味わからん。
基本的にあまり好きな先生はいなかったが、現代文のH先生だけは好きだった。
やたらと情熱的な語り口で面白い授業をするひとで、いろんな国へ旅するのが好きで授業の雑談ではその話を臭いぐらいロマンチックに話すので好きだった。
ほかの教科はやる気皆無だったが、現代文だけはノートもしっかり取っていたし、試験前のノート提出もしていた。
あるときH先生に提出したノートを紛失された。丁重に謝罪されてノート点も満点つけてもらった(らしい)が、それ以降H先生の授業へ興味を失った。クソガキすぎる。大人だって失敗するときはあると今ならわかる。
平等や平和を謳う創価学会員もしょせんは人の子なので、スクールカーストは存在していた。
今でいう陽キャは「メジャー」と呼ばれ、陰キャは「マイナー」と呼ばれていた。
ちなみに親が幹部かどうかはスクールカーストには関係なかった。ただディベート大会で全国レベルの成績を残したり、生徒会役員だったりするようなインテリ勢は親が幹部っていうパターンが多かった。そしてインテリ勢はメジャーマイナーの括りにも縛られないアウトサイダー的雰囲気があった。
世は前略プロフィール全盛期、同級生のメジャー勢の女子が前略プロフィール(というかそれに付随するいわゆる「リアル」のページ)で飲酒パーティーの写メ(死語)をアップしていて、学校に垂れ込まれて停学になってた。
停学になったメジャーの女子たちはほとんどその後創価大学へ進学し、銀行員になったり不動産屋になったり売れないクラブDJから水商売の世界に入ったり、様々なよう。
履歴書の学歴の呪いについてのブコメをしている人がいるが、今のところ特に困難だと感じたことはない。
転職もしつつ順当にキャリアと年収を上げて生きてきたけど、「親が創価なんで」の一言でそれ以上深掘りされることも差別されることもない。
私、最初は『ボディポジティブ』って色々な体型の女性を積極的に採用してメディアに出していこう!(太めの体型に限らず、頭が大きいとか手足が短いとかの一般的に『美しいとされない容姿』全般を含む)
…という、社会や企業に対する要請の事かと思っていて、それは良い事じゃんと思っていたんだよね
それがモデルや俳優といった特別な分野だけじゃなくて、一般企業の事務だの営業だのの職として採用する場合にも広がっていけばいいと思っていた
だけど調べてみたら全然違うじゃん
https://adv.asahi.com/keyword/14486886
「ボディポジティブとは、ありのままの身体(ボディ)を前向き(ポジティブ)に愛そうというムーブメントのこと。」「ボディポジティブとは自分の「ありのままの身体」を受け入れる考え方」
だってさ……『愛そう』とかそういう話だったの!?社会や企業に向けて訴える政治運動じゃなかったの!?思ってたのと違った。
(『ボディニュートラル』というのも見てみたけれど、こっちもやっぱり『自分』が主軸にある事には変わらないのでやっぱり好きになれない)
ポジティブになろう、自分を好きになろうって、常日頃周りから自尊心を削られ続ける女性達個人に対して要求するなんて、あまりにもグロテスクじゃない?
女性個人が自分の身体を「受け入れ」たところで、周りから差別され続ける状況は何ら変わりませんけれど!?あまりにも無意味だし虚しい。
「自分の身体を好きになろう」で解決する問題ならば人種差別も奴隷制も存在してねーし公民権運動も要らなかったよ
違うでしょ、本当の意味でボディポジティブを語るならば主軸は『自分』じゃなくて『他人』にすべき
何故、「他人の容姿を笑うな」と、世間に向けて言っていかないのか。女性個人に押し付けようとするのか。
そうすれば自分を好きになるなんていともたやすいし、自己肯定感なんぞ自然に生まれるよ
希望に溢れていたかのように見えた『ボディポジティブ』の実態がこのような、自己責任論にまみれた上っ面の精神論の押し付けだったなんてあまりにもがっかりだ
「そ、そういうわけじゃないけど……別に努力してないからと言って怠慢人間とか思ってないし、嫌いってことは……。ふーむ、でもなあ。好き…ではない、よなあ。関心があるかないかで言えば、ない、もんなあ。それって~、関心がないってそれはほとんど嫌いってことじゃないですか~。いやいやいやいやいや、そうじゃないんだって。なんだろ、『ふーん』って感じ。ふーん、へえー、そっかあー、ああ、って感じ。心に引っ掛からないというか。通り抜けていく感じ。」
「でもね。そういうものって意外とたくさんあると思うよ。そこら辺に、無数に。好きなのか嫌いなのか、善なのか悪なのか、得なのか損なのか、正しいのか間違っているのか、おもしろいのかつまらないのか、すべてに対して振り切って考える必要はないと思うんだ。何事もニュートラルでいいんだよ。どちらでもないを持ってるんだって胸を張って言えばいい。いや、言わなくてもいい。表明しなくていい。考えているだけでは無駄だ、言葉にしなければ、誰かとシェアしなければ価値が無い、なんてことはない。何か考えた痕跡があれば十分じゃないかな。ほら、人間の脳って意外と賢いから、ふとした瞬間に思い出すかもしれない。あの時あの場所で考えていたことが巡り巡っていつか役に立つことだってある。」
「だからね考えることって大事なんだよ。ゆっくり。時間をかけて。答えを求める早さを競う競技じゃないんだから。腰を据えて向き合うんだよ。わかる選手権始めなくていいよ。だから○○じゃないなら△△なんだ~ってすぐに決めてかかるのは、私は感心しないかな。」
著名な投資家達はみんな口を揃えて言うけど
ベンチャーのやってる業務内容が当たるかどうかなんかどうでも良くて
CxOの仲の良さしか見てないし実際にそれが一番成功要因になる
何が売れて何が儲かるかが分かったら苦労しないってのは投資家も一緒
さらに大きくなってメガベンチャーレベルに人が増えてきたら、さすがに仲の良さは維持できなくなる
そしてその辺で加速度的成長って奴は無くなる
こうなると成長はするけど楽しくなくなるのでCxO達は徐々に離脱して別の新しい業態で活躍する
なのでまずCxOの仲が悪い・ニュートラルな関係とかだとまず成功しない
後から入ってきた人達との仲が悪い・ニュートラルな関係だとこれも成功しない
後から入ってきた人なんてクビにすればいいっていう考え方もあるけど
そういう考え方してるチームは大体仲が悪くなるってのは歴史が証明してる
ベンチャーで働きたいならインターンなりお試しなりで2週間ぐらい働いてみるのと、プライベートでも付き合ってみる
そんで仕事以外の部分でも仲良くなれそうって思うなら入ればいい
とりあえずこれを基軸で、いらっときたら消してる。割と狭めのつもりだけど、これだけの指標でも結構非表示IDが増えてしまった。
特に重要なのは間違った情報を撒き散らすのが問題だと思っていて、この評価指標に重みを付けている感じですね
ブコメには知能が低い感情だけを喚き散らす猿がたくさんいるってことだよ。とほほ
まあ感情を叫ぶのはわかるんだけど、そこに偉そうな態度と間違った知識とそれが絶対にあっていると信じて疑わない、あまりにも愚かで醜すぎる態度がかさなって、一種の怪物とか視界に入るだけで不快感が増幅される、妖怪のような悪魔のような存在に成り下がってるのが、つらいわ。
それぞれ割と別ベクトルの指標なんだけど、だいたいこの手の輩って全部まんべんなく高得点だすんだよねー。不快感を撒き散らすために生まれたエリートかい!
現実世界でも本当に偉い人って割と物腰が安定しているけど、くすぶってる高齢者とかが偉そうな喋りしてるし、ブコメにも人間の本性がにじみ出てしまうのだろうか
最近お嬢様ことばの威力を聞いたので、日記(増田じゃない普通の日記)でお嬢様言葉を使うようになりましたわ
なんだかそれだけでも、物腰や考え方、物の見え方が少しづつ変わってきているように思いますわ
皆様もブコメをするときは、お嬢様言葉でお上品にしてみてはいかがかしら。ごきげんよう
追記:
人それぞれなので、それでいい人は良いと思うのですが、それってメンタル強者の独りよがりな言い分であって、私にとって無理なものは無理なんですのよね〜
気持わかるしそうやってなるべく非表示しないようにしてたけど、もういい加減しんどいのですわ
わたしが気色の悪い書き込みを見て精神病むことが本当に良いことだとは思えないし
心底ひどいコメントを見かけて気分悪くなりイラついていては、結局その反動が私の周囲の人とか仕事とか趣味とかそういったところに悪影響を与えてしまうでしょ
なるべくニュートラルな感覚を持ちたいという心意気はわかりますが、それってエクストリームな極左とか極右のノイズまみれの感情とかわめきとか、そんな書き込み見なくてもできるのでは?っと言った感じですね
というか、心を苛んでまでそんな事する義理もないですし、私が長年のネット利用の末に調整された視野について、外野にとやかく言われる筋合いはありませんわ〜
https://anond.hatelabo.jp/20220611070753
なかなか面白い指摘。言われてみると確かにニュースで「誰誰は何々と主張し~~」とか聞くと、これは正当性のない発言なんだなと感じるとまではいかないものの、突き放したニュアンスを感じるところはある。
一方でブコメでも指摘されているように受け手側が勝手にそう感じてるだけで表現自体は中立だろと言われるとまあ確かにそうかもなとも思う。
というわけで、実際のニュースで「主張している」という表現がどう扱われているのか調べてみた。
調査方法はNHK NEWS WEBで「主張」で検索し、ヒットした46件の記事の中で「主張」という表現が用いられている主体(主語)が誰かを記録していくという原始的なもの。
ちなみにひとつの記事中で複数回「主張」という表現が使われていてもその主体が同じなら重複してカウントはしていない。また、誰かの発言内で「主張」という表現が出てきてもその表現を選んだのはNHKではないためノーカンとした。
結果、「主張」という表現の主体として複数回出てきたのは以下。
・ウクライナ…6件
・中国…3件
・北朝鮮…3件
1回だけ出てきたのは以下。
・ブラジル
・トランプ氏
ちなみに言うまでもないが特定の国の政府関係者なら大統領だろうが大臣だろうが大使だろうが全部その国としてまとめてある。
この結果を見た感想としては、やっぱり最初に書いた「突き放したニュアンスを感じるところはある」という感覚はわりと正しそうに思える。
ロシアの数が多いだけでなくウクライナもかなり多いし、裁判の際に頻繁に用いられるところから見るに、対立がある場面で距離を置いて客観的立場から記述したい場合によく用いられる表現が「主張している」なんじゃないかな。
そして「主張している」がニュートラルな表現なのかバイアスのある表現なのかだけど、自分ははっきりとバイアスのある表現だと結論付けたい。
なぜなら、上のリストの中に日本やアメリカは全く含まれていない。ニュートラルな表現ならこうなるはずがない。日本やアメリカの政府関係者の発言は日本のニュースでは数多く報道されるものであり、その数は中国や北朝鮮のそれよりも多い。仮に「主張している」がニュートラルな表現だとしたらこんな差は生まれるだろうか?
日本やアメリカの政府関係者の発言を伝えるNHKのニュースを見ると「述べる」「指摘する」「考えを強調する/示す/明らかにする」という表現が多く用いられているが、その中には「主張する」に置き換えても通じるものも多くある。でも「主張する」は全く使われていない。
というわけで、増田の「主張している」という表現は中立的なものではないという感覚は正しい。
ただ、正当性のあるなしで使い分けされているというのはちょっと違って、使い分けのベースは距離感だろうと自分は考えているけど。
割れ厨のくせに自分の欲しい同人誌が中国語翻訳されたものしかなく委託販売もしてないと咽び泣いているのを聞いて思いついたことがある。
というのも同人誌のような原語で読めないことによる致命的な弊害というのは、いくら昨今翻訳技術が向上して無学でもツールを使えば書かれていることの意味自体のだいたいは理解できるようになっても、キャラものの同人誌の魅力というのはその独特の口調や台詞回しにあるのであって、意味だけ分かるという状態では到底味気なく面白いものではないというところにある。
でも考えてみると同人誌の作者は原作のキャラが言いそうなことを言わせて作品としているわけであって、そういった何を言いそうかということは有る程度原作に造詣があれば同じようなものを共有できているはずである。
となればたとえ意味だけでも分かれば、そこから原作的にどういう台詞に対応するのか推測するのはそんなに難しくないのではないか。
同人誌の原文の台詞が、原作でまさに言ってるシーンや、たとえば「シャミ子が悪いんだよ」みたいなとりあえず有名な台詞なら特にグーグル翻訳が弾きだすニュートラルな訳からも導きやすいだろう。
まあそんなわけでとりあえず自分が知ってる作品の同人誌の中で海賊版が流通しているものを一つ買ってみて、まずはそれは読まずに海賊版の方を以上のコツを踏まえて訳してみて、それが元の同人誌の原文に対してどれだけ忠実なものになっているものなのかという実験をいつかやってみてここに報告したい。
一文ずつ、中国語、翻訳、原文の順で示していく形式になると思う。
結びには的外れかもしれないけど一致率に関してちょっとした計算を行って客観的な総評を試みたい。
どうやら5chの言語板では推測を書いてはいけないというどう考えても科学の発展の妨げにしかならないような謎ルールが存在するので、以下、スレに書き込もうと思っていたことをまとめてここに書く。
性癖を性的な癖に言い替えられるような使い方で使っているのはネットかつオタクの文化圏に集中していることは疑いようがないことだと思う。
まずツイッターのbioがそうだ。
これを言ったらツイッターのbioとオタクがどう結び付くのか分からないし視野狭窄としか思えないって言われたけど。
なので他にも例をあげていこう。
cmで有名なシーモアやめちゃコミやrentaよりも蔵書が多い電子書籍サイトだ
・性癖が暴かれる!? 新感覚オフィスラブ!(中略)彼女のヒミツは…「アレ」に人一倍興味があること・・・!?
・性癖ヤバめなオトコに狙われました。
・彼の性癖は歪んでる。~聖母系エリートの悪魔的とろとろ溺愛セックス~
・ひなこは今夜も鷹臣先生を困らせたい おしどり夫婦のナイショの性癖
全て性癖を「性的な癖」と置き換えても成立する文脈で使われている
1000件以上ヒットしたが5件連続でこうなのだから漠然と有意性が感じられるとは思う
全部検証するのは大変骨が折れるので興味がある人がすればいい
また似たような引用方法をしてもくどい感じもするので検索結果のリンクだけ貼っておく
https://www.pixiv.net/tags/%E6%80%A7%E7%99%96/novels
なんか最初のあたりで中国語のものが目立つが、日本語の作品ではやはりそういう性癖の使い方が目立つと思う
・
以下ではなぜこのような性癖の使い方が行われるようになったか推測、かっこよくいえば仮説を書く。
「○○をする性癖がある」があるというのは、一部の国語教師面をした人間からのウザ絡みを避けられるという意味でより無難な書き方をするなら「○○をするのが好き」と言い替えられるだろう。
しかし単に「○○がすき」みたいにというふうに書くとなんか締まりがない感じがしなくはないか?
なんというか名詞の性癖を使うのと比べるとバシッと決まらない感じがするというか、読み手を想定してみればそういった文章は漫然と左から右へと意味内容が流れていくばかりその読み手の頭からするっと抜けてしまうような感じが俺はする。
それに比べて「性癖がある」というのは名詞的な表現だ。その言葉の前で受けている性癖の内容をバシっと捉えて概念化している。
概念化は名詞の効用だと思う。動詞で終わる文章が単に事実や考えを伝えるのに比べると、文章全体ではなく、一つ名詞に読み手の意識が集中される。
名詞が記憶のとっかかりにもなる。そういう意味でも読み手の頭により強く残る。
以前私は「漫画の魅力ってそれが二次元とメタファーされるように」という文を書いて、ここで「そんなメタファーの使い方はしない」というふうに言われた。
しかしこうやって指摘するぐらいの人間はその言わんとすることが伝わっているからこそ、その意味と用法がずれているということに気付けることが指摘の動機となっているはずなのだ。
完璧に正しい用法かの確証はないがおぼろげに自分の伝えたいことにかすっている程度ぐらいの可能性でも感じるなら、少し小難しくてもそういった名詞や特に術語を使うほうが、読み手は「あああのことが言いたいのね」となるのだと思う。
性癖も本来は単に癖と言うのをより生硬にした表現だ。そういう日常的にあまり使われてなかった言葉をあえて使う場合、日常的に使われる言葉が多種多様な場面で使われるためにぱっと読み手の目に入って来てもその言葉だけでは文脈が絞り切れないという意味ではニュートラルに認識されるのに比べれば、そういう言葉は特定のミームというか匂いを帯びやすい。
「性癖」の意味をひとたびずらして「性的な癖」という文脈で使うようになると、もうそういうミームで固定される。
だからそういうミームを共有し合う人間にとっては性癖という言葉を出すだけで、みなまで言わなくても何が言いたいのかなんとなくわかるというか、そういう読解の省エネ的な効果が認められるのだと思う。
とにかく、単に何々が好きというのが読み手に「なんの意味で好きなんだろう」とその実態のより詳しい限定化を課す、すなわちボトムアップ式の理解を課すものだとすれば、性癖と概念で言ってしまえばトップダウン式に何が言いたいのか理解されるという点が便利なのだ。その代償として国語教師面した人間に噛みつかれるリスクを負い得るだけで。
俺がメタファーという言葉を使ったのもそういう効果を狙ったものだ。そもそもメタファー以外に自分の伝えたいことにあてはまる表現が見当たらないって理由も大きかったはずだけども。
(アスペは会話をあまりせず書き言葉が友達だから難しい言葉と思われているもののほうがアスペにとっては身近というのはアスペの悪い癖だ。もちろん俺の「メタファー」は他の定型から見れば理解の浅いずれた使い方なのかもしれないけど、俺にとってはメタファーが理解度という点で使うべき一番ましな言葉だったのだ。そもそも言葉の難しさとは何なのか。たかがカタカナご文字の言葉の難しさをどう規定できるというのか。正も凸も小学生で習う同じぐらいの画数の漢字だが習う時期が全く違う。俺はこれにも納得できないがそれは上記のことに通じる話だと思う。凸が身近な人間にとっては普通の人にとっては正の方がやさしい漢字に思えても、その人にとっては凸の方がやさしいのだ。)
名詞は特技、趣味、性癖というように表とかの項目にするにも都合がいい。
これが一つだけ「性的に好きなこと」とかだったら統一感もない。
角川類語新辞典には「手癖」「尻癖」「酒癖」と○癖という言葉がたくさん載っている。
癖をへきと音読みする言葉は実はそんなに多くないが、それでも日本語、いや日本人の伝統として○+癖という造語法で言葉を作っていく造語意識が背後にあることを伺うことはできる。
基本的に癖の内容を象徴し得るような漢字+癖という組み合わせて作られていることは明らかだ。
酒癖はそのままだし、尻癖は失禁する癖のことで、その現象が起こる場所を示す漢字を使っているという点でちょっとひねっているが、根本はおなじだ。
そんなわけで、もとの性癖は性も癖も似たような意味で使っている漢字を組み合わせた熟語だけども、それとは独立して性的な癖という意味での、酒癖等と同列な「性癖」が今作られるようになっていったとしても、日本人の背後にはそうおう造語意識がずっとあったわけだから、何もおかしくないわけだ。
つまり、両国には地名と両者の国という二つの意味が考えられるがこれらは辞書では別の言葉として別別に立項されているように、あの性癖とこの性癖も辞書で別扱いするべきぐらいに全く別物の言葉なのだというのが私の仮説だ。
よって性癖を性的な癖と言い替えられる文脈で使ったときに「誤用だ」とかいうのは全くずれていて、単なるシノニムとしての衝突に翻弄されているだけなのである。
日本語だとちょっと突拍子なく感じる意見かもしれないが、英語ではスペリングが同じで別の概念として複数立項されている言葉は何も珍しくない(無学かつ個別の事例を覚えてられるほど記憶力よくないので例はあげられないけども)。
上島竜兵さんが自死されたとのニュースが報道された。人間なので、ショックを受けたり悲しんだり、そういった感情が湧き上がってくるのは仕方ないと思う。
だが、そのあと必ずと言って良いほど、「自死は良くない」という書き込みが散見される点については、本当にどうかと思う。(Twitterで故人を悼んでいたHikakin氏に対し、「自死は良くないとまで言ってほしかったです」とリプライしていたユーザーが居たので、今回投稿した)
実は思い悩んでいたとか、病んでいたとか想像を膨らませるのは自由だが、そもそも勝手に産まされたのだから、自ら死を選ぶことも尊重されてほしいと切に願う。(無論、多くの人を巻き込むような自死は問題視されて然るべきだが)
著名人であろうとなかろうと、誰しも死を選ぶ権利があることがもっと認知されてほしい。そういった認識が広がれば「ああ、この人は自死を選んだんだな。」ともっとニュートラルに受け取る人が増えるのでは無いだろうか。
デブが痩せて自信を持つのはいいが、デブに対して海が似合わないとかいうのはルッキズムだと思う。
それがたとえ努力でどうにかなる事柄であったとしても、外見によって外見とは関係のない事柄から阻害されるのはルッキズム。
2017年時点ではまだ許された表現だと思うが、ボディポジティブが(かなりゴリ押し含みながらも)定着した今では、対象が男であっても許容されないと思う。
デブの女が「このままじゃウエディングドレス着れないね」って言われて頑張って痩せてキレイな花嫁になるCMが許容されるかというと、地上波ではすでにダメでしょ。YouTubeの怪しいダイエット広告でしか見かけなくなってる。
とにかく「なりたい自分のために頑張る」のはいいが、そこに他者目線混ぜるのは今はかなり慎重にやらないといけない世の中になってる。
さらに、元コンテンツがニュートラルであっても、バズる過程においてビフォー側を否定的に言及する声が混ざってくるから難しい。
強姦罪は同意のないセックスに成立するのが基本だが、公然わいせつ等は同意の有無に関わらず成立する。
これを公然と裸になった程度では周りの同意の有無に関わらず犯罪として成立しないように法改正するべきではないか。
当事者の同意の有無に関わらず成立する犯罪の多くは公序良俗に対する罪だというが、この場合の公序良俗の根拠は「性器を見せたり見られたりすると羞恥心や不快感を抱く人たちが相当数いる」ということにあると思う。
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宗教観に反して今で言う公然わいせつに相当するふるまいをする人間を恥ずかしい行いと謗る
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恥ずかしい行いと言われるから(公衆の面前で笑われるから)恥ずかしいと思う層が出て来る
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そいつの家庭で育った子はこのようなことに関して恥ずかしいことと言い聞かされて育つのでネイティブに性に関する層を恥ずかしいと思う層が誕生する
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5匹の猿の完成し、列強の圧力として日本にも波及。そしてこの層が今も多数現存していることがわいせつ関連の法律の改正を難しくしている
こういう法律があるからそういう層が再生産され続ける面がある。
また再生産されている層がこのような法律の改正に歯止めをかける働きをしている面がある。
この相互作用を解くには、裸でほっつきあるいるという程度の人間に対する不快感を法律で特別扱いするのをやめることだ。
こんなものは「テレビに出てると嫌な芸人がいる」程度の不快感と本質的に差などない。数多くの不快感を感じる一例に過ぎない。
逆に同意なく性器を顔に近づけるとか、それ以上の域に達するものに関しては必要に応じて厳罰化すればよい。
性そのもの、性に関するあらゆることが悪いのではなく、峻別をつけるべきだと法の改正をもって大衆にわからせるべきである。
そもそもああいう為政者がいなければ単なる露出ごとき公序良俗の侵害とみなす価値観自体存在しなかったはずというわけである。
テレビで入浴映像で性器にわざわざモザイクを掛けさせる手間を強いる法律なんてなくてよろしい。
そんなだから性を過剰に禁忌とみなす層が出て来る。俺もその一人だった。
思春期になってむらむらが加速度的に高まっても心安くオナニーできる場所などなかった。
性に関わることに自分を巻き込むことは大変な悪だと考えてしまっていた。親には絶対にばれないように自分ではしているつもりでいた。
が、ばれないような状況になることなんて滅多にないので実質的には禁欲生活を強いられているようなものである。
刑務所では陰部摩擦罪とその我慢を強いることが刑罰として成立するぐらいだ。罪も犯していない人間がそれぐらいのつらさに耐える状況が大人になってもしばらく経っても続いたのだった。
もっとも後日談として親に聞いたらなかなか性に興味を持たないそぶりの私を異常に思っていたようである。
しかしそのような人物を演じさせたのはほかならぬ家庭であり社会であると私は思っている。
隠しているようなことは、してはらならないものなんだと、単純な子供の思考なら、考えてしまうものではないか!
このような勘違いによる悲劇をこれ以上生まないためにも、私は法律の改正を提唱する。
悪いのは性そのものではなく、性「行為等」の強要なのだから。全てひっくるめて隠してしまうから子供はそれらに触れることに妙な後ろめたさを持つようになるのだ。
法律と潔癖な層は相互に分かちがたく結びついているおかげで、公的な場で政治的意見としてこのようなことを言うことすら難しい。
ただ裸になっただけで露出狂だ。窃盗犯以上に人間扱いされない。こんな認識は明らかに合理的ではない。
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18歳以上になった人へ「【親展】成人向けとされているものについて」と手紙を送るようにするのも一案だ。
私のような勘違いを犯した人が自分でその勘違いに気付けるとは限らない。
そこで親展で講座の受講へ仕向けるのである。内容は、性行為自体には実はなんらの後ろめたさもないこと、後ろめたさを植え付ける社会になっているのは未成年への方便であること等、徹底的に誤解の洗脳を解いてやるのだ。
まあそもそも子供にセックスを見せるのは面前DVとかいうけれど、無条件でそうなるような定義がまず間違っている気がするね。
PTSDになるかは確率論の問題だろう。それと、性行為を見せなかったせいで俺のように思春期を刑罰を課されたような状態で過ごすことになる確率と、どっちが高いのか。
というか性行為を見せたら悪影響があるものであってほしい、という清く正しく育った層が政治の実権を握っていることによる、価値観の押しつけが定義に反映されているだけな気さえする。
動物がいちいち子供に性行為を見せない配慮をしてるだろうか。人間というだけで性行為を見せると悪影響が出るというんだろうか?
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そういうわけで言葉を選ばざるをえない、無意識に選んでいる面がある。
世の中なんだかんだいって理屈と同じぐらい、言葉の持つ熱量みたいなもんが重要なのだ。
簡単な話、無機質でニュートラルな性器という言葉を使うより、ちんこまんこと書いた方が説得力を持つ文脈だってあるというわけだ。
dorawiiより