はてなキーワード: 必然性とは
★★★☆☆
(面白さは★★★★☆だけど、BJである必然性があまりなかったので一つ減らした)
1巻7話。
イラン国営石油タンクが爆発し、日本人を含む大勢の技師が犠牲になるが、ある現地の技師が「悪運強く」生き残る。
技師は、大金持ちの息子である日本人技師の死体を見つけ、パスポートと大金の入った財布を盗み取る。
その金でBJに日本人技師の顔に整形してもらい、裕福な生活をすべく何食わぬ顔で日本に帰国する。
しかし、日本人技師の母親から、石油ショックで一文無しになってしまったと聞き、ショックを受ける。
それならば元の顔に戻してイランに帰ろうとBJに頼むが、金がないため断られる。
諦めて日本で働くことにした技師は、幼少時本当の母親に道具のように扱われた経験から、自分の稼いだ金はすべて自分のものだと頑なになる。
そんな技師に母親は優しく甲斐甲斐しく世話を焼いたため、いつしか幼いころに理想としていた母親を手に入れたと思うようになり、親孝行するようになる。
歯が生えているはずの母親が入れ歯を持つ疑問を何気なく母親にぶつけると、母親は家を飛び出してしまう。
技師が母親を見つけた時にはすでに急性肺炎のために残りわずかの命になってしまっていた。
今際の際に母親から聞かされたのは、自分は本当の母親ではなく、財産目当ての赤の他人だったという真実。
しかし技師と同様、二人で暮らすうちに情が芽生えたと懺悔する。
技師自身も真実を告白しようとするが、その前に「母親」は息を引き取る。
その後、技師はくにへ帰って人生をやり直す決意をしたとBJに宣言し、イランへ飛び立つのだった。
これ読んだ記憶なかった。初めてかも。
最後まで読むと、タイトルの幸運な男って意味がいろんな意味に解釈できて面白い。
いろんな偶然と縁が巡り巡ってトータルで考えたら、全部のことが幸運なんだな。
でもこれとほぼ同じネタの読み切りを最近アフタヌーンで読んだなあ・・・
すごい記憶力を持つ女子高生がいて、ひょんなことから見知らぬおばあちゃんにさまざまなおばあちゃんの記録を叩きこまれて、おばあちゃんが死んだ後におばあちゃんとして振る舞って孫と話してほしいって頼まれる。
んで実際にそのときがきたけど、実はその孫もおばあちゃんに孫の記録を覚えさせられただけの赤の他人だったって話。
ラスト、空港で見送るBJが、技師の決意を聞いて「私の知ったことじゃないね」と言い、
じゃあなぜわざわざ空港まで見送りにきてくれたんだ、という問いに「私の出番がすくないからさ…フフフ…」なんてメタネタで〆たのがなんかおかしかった。
確かに整形するって要素しか医者要素なかったし、整形だけならBJでなくてもぶっちゃけよかったしね。
2.白いライオン
3.シャチの詩
4.えらばれたマスク
5.閉ざされた三人
6.幸運な男
7.からだが石に…
8.報復
すごくどうしようもないんだけど、本当に毎日ゲロ吐きそうなほどつらいから書く。
自分は30代に入ったアラサーの男で、本当にしがなく生きてきて、普通に働いてて、普通に友達がいて、たぶんそんなに駄目な人生は歩んでいない。
年収は多くはないが、まー平均よりはちょっと上くらいで、順調に役職ついている。
今、彼女はいないし、たまに枕にうっぷして「彼女ほしいいいいいよぉぉおふえぇぇぇえ」と叫びたくなることはあるが、
そうはいっても普通に毎日が楽しい。いやまあ、ゲロは吐きそうになるんだけど。
それなりの進学校から偏差値高い大学いって、普通にサークル入って、モテたいとか思って外見を磨いたりして、
それなりに男女交際して、会社入って、で、「結婚適齢期」ってやつにみごとに足をツッコんだ。
というかもう30超えてて、アラフォーが目の前に見えてくるから「結婚適齢期」はぶっちゃけすぎてる。
女の方がやり玉にはあがるけど、男もまー「どうなの?」ってしょっちゅう聞かれるようになる年齢だよな。
自分自身の結婚願望は大きくなくて、というのもたぶん「子供が欲しい」と思ったことが一度もないからだ。
別に子供嫌いではない。Facebookに流れてくる他人の子供へのヘイトを募らせることもないし、
姉の子供(姪)のことも「天使だ!」ってかわいがれる。めっちゃ貢いでる。
だが、子供が欲しいと思ったことがない。
なんなら「子供すごい好きで早く子供欲しいし結婚したい」っていう彼女のその言葉に気持ち悪さとプレッシャーを感じて
「無理だ!」と別れたこともある。若かったのもあるが。
「結婚」に重さを感じたわけではなくて無邪気な「子供が欲しい」という願望に気持ち悪さを感じた。
彼女に限らず、普通に「子供欲しい」っていう男にも女にも一定の気持ち悪さというか、異星人感をうける。
まじで「なんで?」って気持ちになる。
もちろん、厳密に言えば「出産」と「結婚」がイコールじゃないことなんてわかってる。
シングルでも子供を産んで育てることはできるけど、今の日本の法制度の中ではあえてそうするメリットもないし、
風当りが強いのは確かだから、まぁほぼ同義ということで話を進める。
個人的にはシングルどうのとか関係なく、本当に腹の底から「ほしいいいいいいい」って願って収入のある(もしくは親に頼れる)人は
男女共にそれを選べばいいと思うし、そこに「片親かわいそす」とかいう奴は地獄に堕ちろとは思う。
(まぁ女性がシングルになるのと、男が産んでもらってシングルやるハードル全然ちがうが)
話がそれた。
で、だ。俺が吐きそうになるのは、そうやって「結婚そんな興味ないな」と思っているのに
明確に「子供がほしい」とか「結婚したい」って願望があるわけでもないのに、
「結婚しなきゃ」ってプレッシャーに押しつぶされそうになる瞬間がめちゃくちゃある。
「他人の目線を気にするな」と言われても、なんというかこちらが気にしてなくても「うっとおしい」と思うことを言ってくる人は
めっちゃいるし、実際「既婚じゃない」という理由の面倒な押し付けみたいな圧力もある。
姉が結婚してるから、あたりまえに両親も俺に「結婚はー?」と聞かれる。
不細工でデブで非モテで彼女いなくて結婚できなかったら「やっぱり(とりあえず痩せろpgr)」
仕事ばっかりしていて社畜やってたら「やっぱり(仕事ばっかの男はびみょー)」
イケメンでちゃんとしててそこそこ市場ニーズがありそうなのに結婚できなければ「やっぱり(中身に問題が)」
ありとあらゆる論理で殴られる。
本当にうっとおしい。
なんでこんなに「結婚」だけでできそこない扱いされなきゃいけないのだろうか?
別に望んでない、といったらそれで済む話ではないのか?と厨二心が全開になる。
これだけならまだ外部圧だけの話だが。
「結婚してないとまともじゃない人」というレッテルのつらさもそうなんだけど。
ぶっちゃけ「こいつでも結婚できたのに」と誰かを見てしまうことがあって自分の汚さに辟易する。
同級生でももう結婚してるは当たり前だし、子供もいるが、正直「なぜこいつが?」とか、ある。
それこそイジメやったことがあるのとかもいるし、お顔立ちが残念な奴もいる。
その人たちは賢く、うまく、相手とゴールしたのかもしれないし、
すごく愛し愛されて結婚したのかもしれないし、
俺のようにめんどくさい拗れがなく、普通にレールが「結婚」を通過したのかもしれない。
でもなんでこの人たちできて俺はできないんだろう。
俺なにかしたっけ?とか。
あれ理想高かったっけ?とか。
別にステータス「既婚」を手に入れるための結婚とか本末店頭だし意味なくね?って頭ではわかってて、
でも「積極的未婚」なわけでもないし、
「既婚」ステータス手に入れられないとずっと外部に殴られるんだよなっていう想像たやすい未来を思うと暗澹たる気持ちになる。
別に付き合わないでもセックスはできるんだけど、いまさらそんな性欲をぶちまけるパッションはないし、
ただただ「かわいいねー」って言うだけならペット飼うだけでいいし。
世の中の婚活本とか、セオリー本とか、全部まるっと含めて「結婚したいなら行動しろ」って言われるし、
いやそんなことは知ってますよって思うし、別に婚活自体が嫌なわけではないし、彼女いらねぇとか、
嫁いらねぇとか、結婚墓場だからいやだとか思ってるわけでもないんだけど。
「結婚したいから結婚する」っていう強固な信念を持てないからどうしても「人ベース」になってしまうんだけど、
じゃあ「合う」人と、無事「ゴール」決められるようになるまでこの精神摩耗が続くのかよって思うとこれまた地獄で、
なんかつらくてつらくてつらくて吐きそうになるし、もう勢い余ってこの世から消えたくなったりする。
いいとしこいたオッサンがなにしてんだ…って自己嫌悪も振ってきて結構どん底だ。
多かれ少なかれの人がきっともってる感情だと思うんだけど、上手くいった人の話きいたって意味ないし、
もはや俺には祈るしか道が残されていないのでは!?という飛躍思想に帰結していくのだけども、
ここでまたフリダシに戻るのが「そんな結婚したいんだっけ?」「なんのために?」ってことなんだよね。
ごめんゴールも結論もないんだ。
とにかくこの出口のないメビウスの輪の中に囚われていて、吐き出さないと自分の吐しゃ物にまみれて死にそうだから書いてみた。
願う事は「結婚してもしなくても別に普通」な世界だけど、そんな世界がそんなくるとは思えないし、
その世界がくることを願うくらいなら「とりあえず」結婚してバツつけるほうが簡単なんではないかとも思うから
神様助けて下さいって神頼みしながら沈むこととする。
なんかもうとりあえずペット可のマンション購入して、かわいい動物と暮らすのが俺にとって一番いい生活なのかなー。とか思ったりはする。
はてなブログに端を発する、人気歌い手・解説動画投稿者の「鋼兵」((http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%8B%BC%E5%85%B5))氏の炎上騒動を簡単にまとめました。
細かいことは出来るだけ省いて簡略化。要約には多分に増田の主観的な記述が入ってますが、わかりやすくするためですので予めご承知下さい。尚、増田は鋼兵氏に批判的な立場です。
①鋼兵氏が「男でもわかる「おそ松さんブーム」の理由と必然性【ゆっくり雑談】」という動画を「ニコニコ動画」に投稿((動画削除済み:http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nicovideo.jp/watch/sm27629315))。本人の知名度もあり、10万回以上再生されるなど人気を博す。
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②はてなブロガーの「百合子」氏(id:yurico15)が上記の動画を批判する記事を投稿((記事削除済み:http://b.hatena.ne.jp/entry/yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/21/185553及びhttp://b.hatena.ne.jp/entry/yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/21/230936))。自分のブログの記事の一部が鋼兵氏の動画に引用(のちに盗用と訂正)されていると指摘((盗用された記事:http://yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/12/020539))。また動画の内容そのものも「おそ松さん」を不当に貶めるものだとして強く非難した。
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③鋼兵氏が上記ブログ記事にコメント((当時のキャプション:http://matome.naver.jp/odai/2144753442305118301/2144946795682476203))。「引用元を動画に明記したので、盗用だと思われないようにして欲しい」とし、何かあればメールアドレスまでお願いすると要請するが、この時メールアドレスを一度間違えて記載する。
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④百合子氏が続編となるブログを投稿((記事削除済み:http://b.hatena.ne.jp/entry/yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/22/012516及びhttp://b.hatena.ne.jp/entry/yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/22/033438))。引用ではなく盗用と書くべきであった旨を謝罪、またニコニコ動画へ権利者削除を申請したと記述。また、2ちゃんねるYoutube板の鋼兵氏のアンチスレッドを見ていると記述する。
後に判明することだが、この時点で百合子氏は鋼兵氏に一度メールを送っていたものの、上記の間違ったアドレスに送り、そのため両者の連絡が一週間ほど遅れていたと判明。メールの送信間違いに気付かなかった原因は百合子氏当人が話していないため、不明。
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⑥百合子氏が騒動の終結を宣言するブログを投稿((http://yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/30/105015))。「ほぼ解決に至ることが出来た」「鋼兵様より訂正版のアップロード、今回の経緯報告、当ブログへの意見などが発表されます」などと記述。「当ブログ内における鋼兵様およびその他個人・団体への誹謗中傷等はこれを一切禁じさせていただきます」とし、関連記事を全て削除する。
↓
⑦鋼兵氏が上記おそ松さん動画の訂正版((http://www.nicovideo.jp/watch/sm27742624))、及び「私の動画が盗作だと言われている件について」((http://www.nicovideo.jp/watch/sm27740256))と題する動画を投稿。後者の内容をかいつまんで説明すると、
・自分の動画の記述は一般的に言われていることを記載しただけであり、上記ブログの盗用でも引用でもなく、著作権法に照らしても問題ない。盗用だというのは不当な中傷である
・百合子氏により、盗用などしていないのにデマを拡散されそうになり、それは信用毀損罪、業務妨害罪に当たる
・百合子氏とのメールの遣り取りの中で、相手が一週間もメールを送ってこなかったのにいきなり「文化庁長官への通報」を示唆され、また最後のやりとりにて不当に短い返信期日を設定された。そもそも盗用などしていないので、これは常軌を逸した要求であり、不当なものである
・百合子氏がブログでアスペルガー障害を告白していたことについて「なんだか可愛そうになってきた」、アンチスレッドを見ていた事について「アンチにマインドコントロールされている」と記述
相手方が終息を宣言したにも関わらず、上記のように百合子氏を激しく批判する内容であったため、鋼兵氏の支持者とアンチの間で論争が起き、大百科の掲示板が炎上。
また、動画のコメントの内容は概ね鋼兵氏に同情的なものだったが、後に鋼兵氏が自身に批判的なコメントを削除している事が判明((http://nicoco.net/sm27740256))。同時に、百合子氏が女性であることや、アスペルガー障害を揶揄する中傷コメントが多数投稿されるが、何の対処もされず放置される。
↓
⑧鋼兵氏がニコニコ生放送にて「ライオンに噛まれている。 このままだと自分が死んでしまうからナイフで刺した」「あのブログのせいでチャンネル退会する人間が出たので業務妨害」「個人攻撃はしたくなかったんだけど……」などと発言((http://matome.naver.jp/odai/2144753442305118301?&page=7))。発言についてTwitter上で鋼兵氏を批判したid:kyoumoe氏がブロックされる。
↓
⑨「リットン調査団」と名乗る人物が「鋼兵氏と某ブログ主の権利問題について」((http://www.nicovideo.jp/watch/sm27760581))と題する動画を投稿。内容をかいつまんで説明すると、
・鋼兵氏の「一般論なので問題ない」とする主張は間違いであり、百合子氏の当初の主張の通り、法律上の盗用の要件は満たされている
・メールの遅延について、積極的に連絡しなかった鋼兵氏の側にも問題がある
・アスペルガー障害とマインドコントロールに関する記述は明確な人権侵害であり、鋼兵氏は速やかに動画を削除し百合子氏に謝罪するべき
といったもの。
動画は話題性もあり、三万回以上再生されるなどヒットするが、多分に百合子氏へ同情的な記述が見られたために、「公平性に欠けている」との批判が殺到し、コメント欄は炎上している。
↓
⑩今後予想される展開
・鋼兵氏アンチスレッドの有志による、鋼兵氏への批判動画が作成中。近日投稿されると思われる。
参考資料
・「【自演】歌い手の鋼兵が大炎上!?KUNとのやりとり他経緯まとめ」(http://matome.naver.jp/odai/2144753442305118301)
・「毒舌インターネットボイストレーナー鋼兵さん(@kouhey0427)、今頃盗用に反論するも案の定な結果に - 今日も得る物なしZ」(http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20151208/1449507148)
★★★☆☆
これ読む前に読んだのがやまむらはじめだったから、それに比べるといい意味ですごくわかりやすいマンガだなあって思った。
序盤はよかった。
選抜試験後は、面白く無い訳じゃないけど、中だるみがすごかった。
まあ簡単に宇宙にいけるわけじゃないってことを描くにはこれでも短いくらいだってのはよくわかったけど。
週間で追いかけるのはちょっとこれしんどくねーかって感じ。
アメリカ編はやっぱり取材が難しいのか、訓練がほとんど描かれてなくて、メンツが仲良くなるまでをそういった試練の中で描くというような描写がなかったのが残念だった。
途中で最新刊近くのやつをパラっと見ちゃって、日々人死んだの!?って思っちゃったけど、今のところ27巻では死んだって描写はないからよかった。
月での第一声もよかった。
捨てキャラがいなくて序盤のキャラも後でちゃんと出てきたりするからいいね。
序盤の展開とかも後でうまく活かされてたりとか。
なんかどんどんムッタが都合のいいスーパーマン的な存在になっていったのはちょっと微妙。
序盤のダメ男っぷりがまったくなくて、感情移入がかなりしづらいキャラになってしまった。
ムッタがみんなを巻き込んで味方にしていくような展開がちょっと続きすぎた。
周辺キャラもそれぞれ濃い設定を持ってて、それをだらだらしすぎることなく入れてくるのはよかった。
でもクールメガネの過去編とマフィアのところは内容の割に長すぎる気はした。
せりかのネット炎上と日本の悪いとこーみたいなのが出てるけど、結局都合よく実験成功しちゃうのが、うーんって感じ。
うまくいきすぎて・・・うまくいかなかったらそれはそれでフラストレーションたまるんだろうけども。
ある程度落として都合よく持ち上げてってのの繰り返しすぎてちょっとなあ・・・
ふたつのスピカが国内の訓練的なやつだけで終わったのがちょうどいいあんばいだった気がした。
でも国内選抜終わった後を描いたマンガは確かにこれまであまり見たことなかったから、それは面白かった。
モノローグは私、会話は俺
回顧録みたいなもんなのかな
最初に読んだときは7,8巻のムッタが宇宙飛行士に選ばれたところまでだった
ふたつのスピカ、度胸星と宇宙飛行士選抜ものをすでに読んできてて、選抜試験にはもう飽き飽きしてて、
なんとなく選ばれたところで一区切りと思って読むのやめてた
今回は他に読むものがないなーと思って何気なく手にとって改めて最初から読んだ
やまむらはじめのあとだとやっぱりすごくいい意味での差を感じるなあ・・
マンガなんて単純に相対比較できるもんじゃないけど、やっぱりマンガとしての完成度はこっちが高く感じる
こんなん絶対一般受けするやんって感じで宇宙兄弟自体にひねくれもの的な生理的反感を抱いてしまう俺ですらそう思っちゃう
前やまむらはじめの感想で書いたけど、作者の伝えたいことは1/10000しか伝わらない
宇宙兄弟はそれを承知の上で、丁寧に丁寧に描かれているから、こっちにもほぼストレートに伝わってくる
わかりやすいのがすべていいわけじゃないけど、やまむらはじめと対比するとこっちの親切さが身にしみる
あと個人的にすごいと思ったのは、メインキャラクターだけじゃなくてサブキャラクターにもしっかり設定があって、なおかつそれがマンガの中で描かれてること
俺は街の灯を見てその一つ一つに人がいて人生があってって考えて気が遠くなるタイプの人間なんだけど、
マンガのキャラクターでそれを描くのは、人気や尺の関係でだいたい難しいことが多い
よくてそういうバックグラウンドをにおわせることができる程度
まあほかがよければそれでも十分なんだけど
でもやっぱりにおわせるだけの描写と、実際に回想として描かれるのとでは全然重みが違ってくる
それもダラダラ長過ぎることも、必然性を感じさせないこともなくっていう絶妙なさじ加減で入れてくれるからすごいし、違和感を覚えない
ワンピースとかブリーチで回想に入ったまんま連載期間で数ヶ月なんてのが好きじゃない自分の飽きっぽさを、熟練した執事みたいに理解して用意して次へ進めてくれる
ってことかな?
で、すでに指摘されまくってるように、ゾーニングってことば自体はマーケティング以外にも様々な文脈で使われてきてるんで
「ゾーニング」ってことばの定義自体を相手から奪おうとしてもしゃーないわけよ
「望まない人間の目に絶対にいれないことなど不可能」にって筋ならまだなんとかなるかもしれんが
大体元増田自体、「ゾーニングはしてた!」って相手の土俵に乗ってるしね
あとは、「そこまで徹底的に隠す必然性はない」って方向かね
これならまだ議論になる
これから毎日朝起きたらがっこうぐらしに関する1記事を書こう。
幸いここは匿名なはず。
今日はがっこうぐらしに登場する武器についてのその1をお送りする。
そのうち一番良く描かれるものはなんといってもシャベルであろう。
・必要性
そのため、正常な生徒の一人は少なくとも武器を持つ必要がある。
ゾンビを撃退することができ、さらに日常系という世界観を保つためには、
家庭で普通に存在するものでありかつ威力のあるものが必要である。
日常系という世界観を保つという条件のため、家庭で普通に存在するとしても、
続いて考察しなければならないのはシャベルがもつそのイメージである。
しかしフライパンには少なからず調理という家庭的イメージが付き沿う。
今気づいたけどエロ漫画家ってgoogle日本語入力の候補に全然出てこないのな・・・
ハナハルですら出てこない
★★★☆☆
評判よかったのだけは知ってたから期待してた
ようやく読む機会があった
確かに評判も頷ける出来だった
エロ漫画家とは何か?
何をやっているのか?
どうあるべきか?
結局結論としては熱量至上主義だったのは賛否両論ありそうだけど。
まあそりゃそうよねーと
似たようなテーマを扱ったマンガはたくさんあるけど、商業エロ漫画でエロ漫画をテーマにこれをやったということはすごいと思う
これでエロ自体にも必然性を絡めていれば100点満点の何も言うことなしだったけど、
さすがにそこまではできてなかった
いや、キャノン先生の幼少からの性質ってところが少し絡められてたか
まあロリエロって時点でストレンジ~ほどの一般大衆への訴求力はなくて、
むしろこのご時世にこんなもん出しちゃったらヤバイから無理だろうけども
異性愛者は正常で、同性愛者は異常だ、と言う人がいる。本当だろうか?
なぜ異性愛者が正常なのかというと「人間は子孫を残すために生まれてきたからだ」と言う。
その「ために」は何のための「ために」なのだろうか?
事実として、多くの人間には、種を残すための本能のようなものが、遺伝子的にプログラミングされているらしい。
そう考えると、同性愛者というのは、プログラムの「バグ」のようなものにも見える。
しかしシンプルな理屈ほど、疑ってかからなければならない時もある。
ここで考えなければならないことは、「そのプログラムはなんの『ために』存在するのか?」ということではないだろうか。
なぜ種を残す本能が存在するのか? そもそもなぜ人間は、あるいは生物は、その種を後世に残そうとするのか?
難しい問題である。無茶苦茶ムズカシイ。なんとなれば、「人はなぜ生きるのか?」というような問題にも繋がってくるからだ。
科学は価値判断をしない、という文脈に立った上で言うならば、科学的に見て、人間が生きることに意味や目的や理由は存在しない。
あるひとりの人間が、人間としてこの世界に生まれたのは、単なる物理現象の膨大な積み重ねにすぎず、そこに必然性のようなものは全く無い。全く、である。
「人間は子孫を残すために生まれてきたんでしょ?」と言う人がいるかもしれないが、そういう人には逆に問いたい。「じゃあなんのために、人間は子孫を残すの?」と。
おそらくこの質問に回答できるのは、宗教的な議論だけだろう。「終末の日を待つため」とか。「自分を産んでくれた先祖に恩返しするため」とか。
しかしあえて言わせてもらうなら、あなたがこの世に存在するのは、先祖があなたのためを思って子孫を残そうと努力したおかげなどでは決して無い。ただ単に、「種の保存」という遺伝子的プログラムに従っただけのことである。身も蓋もないことを言えば、ただセックスしたいからセックスしたら子どもが生まれただけである。いや、ホントはもうちょっと複雑だろうけどね。
「よりよい種を残すことが人類の目的だ」というようなことを言う人もいるが、それも科学的に見て間違っている。
生物が進化するのは、環境に適応するため、である。「より良い」などという概念は、人間的な価値判断に過ぎない。
より正確に言うならば「多様な個体の内、環境に適応した個体が生き残る」という形で進化は進む。
人間が今の人間のカタチをしているのは、大雑把に言えば、単なる偶然に過ぎないのである。
どうも「人類は今まで子孫を残してきた」という事実と「だから全ての人間は子孫を残すべきだ」という価値判断をごっちゃにする人が多いようだ。事実と価値判断は分けて考えなければならない。
あなたが「全ての人間は子孫を残さなければならない」と考えるのは個人の自由だ。しかしそれはあくまでもあなたの個人的な思想であり、社会的な合意ではない。
あるいは、成員全てが子孫繁栄のためだけに邁進するような、そんなブラック企業じみた社会に、本邦はなりつつあるのだろうか? そうしたい人は結構いるみたいだが。
話を冒頭に戻そう。
確かに、人間のうちの多くが、「種の保存」を遺伝子的にプログラミングされている。
しかしだからといって、そのプログラムが多少ズレている人が、直ちに異常人間であるという話にはならない。
なぜなら、そのプログラムは、様々な偶然の積み重ねによって、そのような文字配列になっただけであり、あらかじめ種の保存を目的として書かれたものなどでは決して無いからだ。
もし足し算が出来ない表計算ソフトがあったとしたら、それはれっきとしたバグである。所与の目的と違う動作を、バグと呼ぶのだから。
しかし人間は、人間の遺伝子は、誰かによって何かの目的によって作られたプログラムでは無い。人間の遺伝子に目的は無い。「ために」も無い。
http://anond.hatelabo.jp/20151122033704
じゃあ、どんな可能性が拓けるのか考えてみたのだけど、体位という観点からは男1が男2の口に入れるかアナルに入れるかの2パターンに対して、女1がどうにか絡むという大きくは2パターンに収束されそうで、実はそんなに可能性が拓けそうもない。最初は体位のパターンが増えるのでは?と思って書いたのだけど、シチュエーションの方で可能性を拓かないといけないということが分かった。少し、拓いてみた。
1.男1実は男2のことがパターン
男1が女1の後ろに挿入、男2が女1の前に挿入。男1が先に終わる。男2続けるが、実は男1は前から男2の事が好きで…男2のアナルに挿入。
2.循環型三角関係
男1は女1が好き、女1は男2が好き、男2(受)は男1が好き。三方一両損な解決策として、男1が男2に挿入、男2が女1に挿入。
男1は、男2を突くと女1が反応するので、まるで女1としているような雰囲気であるが実際に入れているのは男2のアナルなのである。一両損。
女1は好きな男2に入れられて喜ぶが、男2は男1に掘られて喜ぶだけで蚊帳の外感が。一両損。
男2は、好きな男1に掘られて嬉しいのだが、男1は女1ばかり見てるし、好きでもない女1と目があって気まずい。一両損。
3.性同一性障害
性同一性障害でゲイの女1。ディルドを入れて男2に挿入、男1は女1のアナルに挿入。
ふむ。ここに、それぞれのキャラクターやら、そんなシチュエーションに陥る必然性何かを加えていけば、1回分のエロマンガにはなりそうなのかな。よくわからんが。こんなてきとーなのでも考えるのは大変だった。それが何であれ創作するのって大変ですね。
↓
電卓で √20151121 と打つと 4489 と出てきます。つまり平方数なんです。
これは 1990年5月21日以来25年ぶりのことであり、次回は 2024年10月1日です。
さらに、電卓に √4489 と打ち込むと 67と出てきます。つまり二重平方数なんです。
これは1785年6月25日(65^4)以来230年ぶりのことであり、次回は3164年6月25日(75^4)です。
またさらに 20151121 を素因数分解すると 67^4 であることが分かります。日付が素数の4乗からなる二重平方数となるのは西暦13年3月21日(19^4)以来2002年ぶりのことであり、次回は 10406年4月1日(101^4)です。
一年に一回必ず来る11月11日11時11分11秒なんかよりずっと奇跡的。
一人で感動しているのですが、分かってくれる人いないかな
追記:
数学的必然性がないことは承知しております。ただ、遊びとしてもなかなか面白いと思いましたのでご紹介した次第です。
追記2:
二重平方数と4乗で言い換えているだけというご指摘は当たらないかと思います。素数の4乗からなる二重平方数と言っていますので、筆者はより対象を限定したかったのだと思います。少しもったいぶった書き方ではありますが。
http://youkenwoiouka.hatenablog.com/entry/2015/10/30/101102
あ、この記事。
全く必然性がないが、こうやって自分の記事にちょっと青二才おだてつつ紹介したらツイッターで拡散してくれるからPV乞食みたいな人間が一時的にだけ青二才を持ち上げるのパターンだ。
青二才ってとりあえずトラバ飛ばしてちょこっとだけほめておけば誰にでも反応するから、PV乞食にすりよられる。
青二才もそのあたりわかってる上で営業のつもりでやってるんだろうけど傍から見てるとほんとちょろいやつやな―って感じてしまう。
最近青二才にトラバ飛ばして擦り寄ってくるやつの8割くらいがほんとろくでもない。
ミニマリストやらすぐにPV稼ぎましたいくらアドセンスで稼げましたってはしゃいじゃうシロクマが嫌いなタイプのブロガーやね。
面白いことにまず最速で目立ちたいっていう目的を果たした後青二才に接し続けてる奴が皆無。
乞食なのはええとしてももうちょっとうまくやれや。利用してやる気見え見えすぎて引くわ。
多少まともかなと思ったのは同人を売りたいって言ってる奴くらい。 しかもあいつは青二才から絡んだのに丁寧に返信してくれただけでその後青二才に一切絡んでない。青二才はあいつは俺が育てたって思ってんだろーけど。
互助会だなんだというつもりはないけども、もうちょい人の見極めできるようになろうや。
あんまり露骨なPV乞食には反応せんでええんやでつーか反応せんほうがええんやで。
青二才って本当にそこらへんのヒトの見極めが幼稚園児レベルなんかと。 チヤホヤしてくれてる間はいい人、自分に文句をいうのは悪い人、程度にしか認識できてないんじゃないかと心配になるわ。
>ここでは知っている言葉を敢えて使わなかったという体になっていますよね
いや、(ほとんど)知らなかった言葉を使わなかっただけですよ。知らないなら使いようがないのは当たり前ですよね?
そして「論理的な定義が役に立たない」以上、「性的に消費」という自分の実感をちゃんと表してくれる言葉があるならそれを使わない理由などどこにもないわけです。(特に「知らない言葉(性嫌悪)を使う」という不可能な手段を用いる必要も必然性もありませんでした)
>使うべきではないと考えているのでこうして指摘をしています。
へぇ、俺の私的な「匿名日記」にあなたの「考え」の許可を取る必要があるわけですか、知りませんでした。
あと、「サービスを消費」をメタファーですよ? というかほとんどの言葉は最初はメタファーで慣用化されてるだけですよ。そもそもを言えば漢字もメタファーだし、文字自体がメタファー的な構造を持ってますわな。
あとは個人的な日記でメタファーを使ってはいけないというのは初耳ですね。ネットに公開されてるからですか? ツイッターとかでもダメですか? 結構やってる人は多いと思いますけど、いちいち取り締まってるとしたらご苦労さんですね。
いい年をしてはじめておつきあいした男性は、少し変わった性格をしている。
こんなこと聞く人間にはなりたくなかった、こういうことは、代替不能なものとして言語化されないほうがベターなんじゃないかと思いながら、
一度「わたしのどういうとこが好きなの」と聞いたら、「話のレベルが合うところ」という答えがかえってきた。
聞かれなかったけれども、わたしは、相手のどこが好きかよくわからない、でもなんとなく好きだと思っている。
確かに、年金制度や国際秩序いかにあるべきかとか、好きな仏像だとか、たまに呆れつつそんな話題で普段しゃべっているけど、めちゃくちゃ一般的というわけではないだろうもんな。ちなみに政治的意見は全然合わないので、ここまでくると人生観の違いだろうから先は怖いな、とも思っている。
それじゃあ、話のレベルが合うところが好きだというなら、どうしてその相手と付き合って、あげくセックスする必然性があるんだろう、どういうロジックでそうなるんだろう、というのがいまいちわからない。別に嫌じゃない、私にだって性欲はあるし、雰囲気に乗ってべたべたしてしまうこともあるから、理由やロジックを求めるなんて結局は無意味なことなんだろうとは思う。
もしかしたらわたしは、相手にも、よくわからないけど好きだ、と言ってほしかったのかもしれない。あるいはそれと同じくらい何かすとんとくる理由を。
結局私だって性欲とノリで動いているし、相手もそうなんだろうとわかっているけど、いまいち自分のなかでは割り切れずにこじらせているという話。
毛糸のマフラーを巻いて道を歩いていると、まるで恋人がうしろから抱きついてくる感覚で、首がくすぐったい。「ふふ、あたたかいでしょ」「うん、あたたかいね」と脳内妄想で甘いデートに興じ、ふと笑みがこぼれてしまう。私は人目をはばからず、ニヤリニヤリと歩いていた。通行人たちがギョッとした顔を向けてくる。私のような冴えない男が、行き交う人々から注目を集めてしまうのはいささか恥ずかしく、彼女化したマフラーが「ね、家に帰ろ? ふたりきりで、ね?」と急かしてくる。
よし、家に帰るか。しかし私は玄関口でマフラーを投げ捨てて、ベッドにジャンピング土下座して《抱きまくら》に強くハグするのだった。マフラーが悲しそうに悲鳴を上げて廊下にへたり込む。私もつくづく罪な男だと思った。モテる男は辛いのだ。
スーツも脱がず、私は灼眼のシャナの抱きまくらを抱きしめた。シャナは照れるように「くぎゅう」と鳴いた。カバーはAmazonで 22,000円で買った。シャナは小説も全巻読んだし、アニメのDVDもフルコンプした。(アニメ版まさか完結まで見れるとは思わず、5年待ったかいがあった。人生長生きするものである)でもコミックは持っていない。
ところで、私は子供の頃から、あのモサモサして食べにくいメロンパンが大嫌いだったのだが、シャナと出会ってから人生が変わった。今では毎朝メロンパン。カリカリとモフモフを食す、至福のひととき。メロンパンを頬張るとき、私はいつもシャナの笑顔を思い浮かべている。それが仕事の活力になるのだった。はてなブログで「人生を変えた一冊は?」みたいなお題があったが、私にとっては間違いなく灼眼のシャナである。おかげで私は今この時を死なずに生きている。(しかし今週のお題は何だ? 「結婚を決めた理由?」 おのれはてな、絶対に許さない)
シャナに「今日も可愛いよ」と語りかけると「うるさいうるさいうるさい」と怒られた。いやよく考えれば抱きまくらはシャナではないし、抱きまくらはしゃべらない。ここは無何有鏡の向こうにある偽りの世界なのだ。本物のシャナは、今頃坂井悠二とイチャラブしているのだろう。心の底を冷たい風が吹き抜けて、私はますます枕を強く抱いた。ずっとこうしていると、私が抱いているのか、私が抱かれているのか、わからなくなる。でもそれは、私が子供の頃からずっと夢見ていた、幸せのひとつの形なのだった。
そろそろ本題に入るとすると、私は「抱きまくら」の本質はどこに所在するのだろうかと考えていた。カバーではなく、中身の綿でもないとすると、私が今この瞬間に愛しているシャナは、いったいどこにいるのだろうかと。
自分の頭のなかだろうか? 否、それでは妄想でよく、抱きまくらである必然性がない。
私が抱きまくらを愛する理由、それは「あたたかさ」なのである。
無い胸に顔をうずめると、ほんのりとあたたかい。そのぬくもり。確実に、彼女は生きていると思わせる現実の「感覚」たとえ彼女が非実在で、手の届かない次元にいる少女だとしても、このあたたかさだけは、真実なのである。
無機質な紙のページを捲っているのではない、ブラウン管の電気信号を眺めているのでもない、私は今この瞬間に「あたたかさ」を抱きしめているのである。最近はネットの世界も殺伐としてきた。人が人を愛するという感覚を、私は忘れずにいたい。
5巻収録分から週間連載になったらしく、クオリティや中身が別物になってたら困るので、
ただ朗読するとか地味なだけでしょと思いきや違った。
ただの吹奏楽マンガと思ってソウルキャッチャーズを読んだときに度肝を抜かれた感じと似ている。
あらすじ。
主人公は幼い頃に両親を失った、雲を見て空想するのが好きな女の子。
両親を失ってうまく話せなくなり、周りから浮きがちになるが、
また昔のようにくじけそうになっているところに朗読と偶然再会し、
類まれな朗読の才能で、気づかぬうちに周りと自分自身を救っていく――。
4巻までだと、
花咲山
が取り上げられた。
だからソウルキャッチャーズと同様、音が核であるはずのジャンルを扱う上での難しさがあるため、
生半可なマンガだと逆に朗読自体をコケにすることにつながりかねない。
しかも吹奏楽やピアノ等と違って、朗読はひたすら読むだけで絵面も地味になる確率が非常に高い。
そういった高いハードルをしっかりと助走をつけてきっちり飛び越していく、確かな地力のあるマンガだ。
朗読とは、ただ読むだけではなく、解釈と表現力によって完成するものであり、
一見シンプルだが奥が深く、簡単そうに見えて難しいことが存分に伝わってくる。
やまなしやトロッコをはじめとして、何も知識のない状態で黙読して読み流すだけでは絶対に意識しないような読解の視点が多種多様に呈示され、
すでに知っている物語をより深く味わえる面白さを知ることができる。
朗読という視点を得たことによって、より黙読の読書も奥深くなるという発見すらある。
また、単に朗読のハウツー本にとどまらず、マンガとしての完成度も高い。
超人の主人公によって単純に周りが救われる、下手すると勧善懲悪モノになりかねないようなことはない。
主人公自身も、様々な障害や葛藤を抱えており、朗読によってそれらと向き合い、少しずつ自己実現していく。
ただそれゆえに、主人公のトラウマというか問題のネタが尽きたときの展開のさせ方が心配にはなる。
でもこれだけのものを描ける作者なら、5巻以降もしっかりと中身の濃いものを提供してくれると信じたい。
(重箱の隅をつつくと、1巻のマリコとの出会いのきっかけは少々無理やりすぎるんじゃないかなとか、
選ぶ朗読作品とそれによって状況が解決される人間がいつもいるのが都合よすぎるように思えることもないわけじゃないけど、
実を言うと、だいぶ前に花咲山の3巻あたりまでを初めて読んだときは、面白いとは思ったがそこまで心にこなかった気がした。
それからだいぶ時間がたって、自分の周りの状況が大きく変わった今改めて読むと、ものすごく心にきて、地味だが静かな感動を覚えて涙が出た。
二人で食事に行くのはデートなのか?
ケースによるだろうなあ、としか。
一緒に飯を食う必然性があり、まあまあカジュアルな店でワリカンで飯を食うなら(相手が先輩ならオゴリもありだろうが)、それはデートとは言わんだろうが、
休みとかに、必然性もないのに、カジュアルとは言えそこそこ選んだような店で、男が奢るよといって飯を食うなら、別にデートと言ったっていいだろ。
問題は、形じゃなく、そこに込めた「思い」だと思うんだよ。あまりに沢山の人と出会いすれ違う時代に生きてるとそうなりがちなのは分かるけど、大事なのは目の前にいる相手が何を考えているかを考えること、感じることじゃないのか。今回のことは、一応仕事仲間でもある相手の「思い」に気付きもせず通り過ぎて(思いに「応えろ」とは言ってないぞ)、かつ、自分を「ブサイク」とか言っちゃうその無神経さに対して(あんたを育ててくれた親に対しても、また、告白してくれた相手に対しても、やっぱりそれは失礼なんじゃないか?)、非難された、ってことじゃないのか。
目の前の「人」や「今この時」を大事にできるのが、容姿関係なく「きれい」な人であり、そして生き方だろう。のべつまくなしにやりゃ疲れんだから、しないときもあってもいいさ。でも、人間ときどきはそうしてもいいと思うし、増田だってそれぐらいは分かってんだろう。ただ、今回はそのタイミングを読み違えたという話なんだよな。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
深津氏の文章を読んで、本当に佐野氏のロゴは著作権的にアウトじゃないか
ことを代わりにやってみた。
著作権侵害が成立するには
1.依拠性
2.類似性
の3つをすべて満たす必要があるらしいので、順番に検討してみようと思う。
(http://www.saegusa-pat.co.jp/copyright/cr_02_3.htm)
を参考にした。
1.依拠性
証明する必要があり、Pinterestの閲覧の有無が争点になると思う。
当然ベルギーのデザイナーはPinterestに自分のロゴを登録しているし
佐野氏もPinterestに登録していたことが確認されている。
これによって佐野氏がベルギー側のロゴを見たということには充分妥当性があるように思う。
ここで佐野氏が実際にそのページをみたかどうかの証明は必要ないし(もちろん証拠があればそれに越したことはないが)、
佐野氏がもし仮に、見ていないと発言しても、忘れたと発言しても依拠性が覆されることはない。
2.類似性
まず佐野氏のロゴとベルギー側のロゴの類似している部分を列挙してみる。
・中心の縦の棒のパーツ
・左上と右下におかれたパーツ
・3つのパーツにより切り抜かれた円の形を視覚的に感得できること
・パーツの組み合わせにより『T』と『L』の合字が視覚的に感得できること
以上の4つではないかと思う。
判例では、他人の著作物の表現形式上の本質的な特徴を直接感得できるかが判例の判断基準となるようだ。
類似性があるとは認められないのと同じ。
これは一目しただけで、類似していることが認められるのではないかと思う。
相違点はベルギーのデザイナーのデザインが外側に黒丸で囲んであり、
モノクロ(2色構成)で構成されているのに対し、佐野氏の、エンブレムは
外側の黒丸に対する円がなく、4色構成であり、右上に赤い丸があることの
違いであるが、これらの違いはベルギーのロゴが土台にあってはじめて
成り立つものであり、ベルギーのロゴが本質的な特徴であることが理解できる。
つまりベルギーのデザインが土台にないと、佐野氏のデザインはまず
構成できないことに着目したい。
主張していて立証は難しいように思える。
着目してみたい。
である。
ここに飛躍的がある。
出発点となっているため、飛躍的な超越はない。ここにベルギーの
おそらく佐野氏は『L』の合字部分に気付かなかったのではないか。
ベルギー側のデザインが『T』のみのロゴだと思い込んだのである。
つまり佐野氏のロゴは、『T』としては非常に不自然な形状をして
いることになる。この不自然さこそ、一般的でないことの証明であり
創作性を保有しているということになる。
という着想を得たのだろうか。
あきらかに五輪エンブレムとして利用すれば利用行為を行ったことになる。
佐野氏がエンブレムを取り下げたために、ベルギー側も告訴を取り下げるしかなかった。
はないかと思われる。
これを読んでもみんな(深津氏や山本一郎氏を含む)は、佐野氏は
エンブレムをパクッてないということになるのだろうか、聞いてみたいところである。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20150903190148
よろしくどうぞ
自分はオリンピックはただのスポーツの祭典としか思っていなくて
開催地は毎回いろいろな国をまわるわけで今回久しぶりに東京が選ばれただけで、
競技場は場所が必要だから作るわけだし、ロゴなんかもイベントをやるには必要なものだから作るという印象しかない。
そしてオリンピック自体は観客が楽しめて、選手は実力を出し切ることができる。ただそれだけでいいと思っている。
ただブコメなんかを見ていると以下のようなことを言う人が結構いて割と疑問に思っている。
id:citron_908 「今しか考えない日本人」って今回の東京オリンピックそのものを象徴してるんじゃないの?日本全体を考えた時に、この時代にオリンピックを東京で開催する必然性は全くないと言っていい