毛糸のマフラーを巻いて道を歩いていると、まるで恋人がうしろから抱きついてくる感覚で、首がくすぐったい。「ふふ、あたたかいでしょ」「うん、あたたかいね」と脳内妄想で甘いデートに興じ、ふと笑みがこぼれてしまう。私は人目をはばからず、ニヤリニヤリと歩いていた。通行人たちがギョッとした顔を向けてくる。私のような冴えない男が、行き交う人々から注目を集めてしまうのはいささか恥ずかしく、彼女化したマフラーが「ね、家に帰ろ? ふたりきりで、ね?」と急かしてくる。
よし、家に帰るか。しかし私は玄関口でマフラーを投げ捨てて、ベッドにジャンピング土下座して《抱きまくら》に強くハグするのだった。マフラーが悲しそうに悲鳴を上げて廊下にへたり込む。私もつくづく罪な男だと思った。モテる男は辛いのだ。
スーツも脱がず、私は灼眼のシャナの抱きまくらを抱きしめた。シャナは照れるように「くぎゅう」と鳴いた。カバーはAmazonで 22,000円で買った。シャナは小説も全巻読んだし、アニメのDVDもフルコンプした。(アニメ版まさか完結まで見れるとは思わず、5年待ったかいがあった。人生長生きするものである)でもコミックは持っていない。
ところで、私は子供の頃から、あのモサモサして食べにくいメロンパンが大嫌いだったのだが、シャナと出会ってから人生が変わった。今では毎朝メロンパン。カリカリとモフモフを食す、至福のひととき。メロンパンを頬張るとき、私はいつもシャナの笑顔を思い浮かべている。それが仕事の活力になるのだった。はてなブログで「人生を変えた一冊は?」みたいなお題があったが、私にとっては間違いなく灼眼のシャナである。おかげで私は今この時を死なずに生きている。(しかし今週のお題は何だ? 「結婚を決めた理由?」 おのれはてな、絶対に許さない)
シャナに「今日も可愛いよ」と語りかけると「うるさいうるさいうるさい」と怒られた。いやよく考えれば抱きまくらはシャナではないし、抱きまくらはしゃべらない。ここは無何有鏡の向こうにある偽りの世界なのだ。本物のシャナは、今頃坂井悠二とイチャラブしているのだろう。心の底を冷たい風が吹き抜けて、私はますます枕を強く抱いた。ずっとこうしていると、私が抱いているのか、私が抱かれているのか、わからなくなる。でもそれは、私が子供の頃からずっと夢見ていた、幸せのひとつの形なのだった。
そろそろ本題に入るとすると、私は「抱きまくら」の本質はどこに所在するのだろうかと考えていた。カバーではなく、中身の綿でもないとすると、私が今この瞬間に愛しているシャナは、いったいどこにいるのだろうかと。
自分の頭のなかだろうか? 否、それでは妄想でよく、抱きまくらである必然性がない。
私が抱きまくらを愛する理由、それは「あたたかさ」なのである。
無い胸に顔をうずめると、ほんのりとあたたかい。そのぬくもり。確実に、彼女は生きていると思わせる現実の「感覚」たとえ彼女が非実在で、手の届かない次元にいる少女だとしても、このあたたかさだけは、真実なのである。
無機質な紙のページを捲っているのではない、ブラウン管の電気信号を眺めているのでもない、私は今この瞬間に「あたたかさ」を抱きしめているのである。最近はネットの世界も殺伐としてきた。人が人を愛するという感覚を、私は忘れずにいたい。