はてなキーワード: バランサーとは
元の増田を書いたものです。こんなネットの片隅の独り言に反応があってちょっと嬉しいです。
で、教えてもらった前作を読んでみたんだけど、確かに、あれはミノリさんの物語だね。
「『チェイサーゲーム』のプロデューサー編は完全に悪の負荷として描いていてこの後の倍返しに繋がる展開というか手法ですからね。『例の漫画』はどちらかというと『映像研』的な覚悟と信頼の物語だと私は思いました。
https://twitter.com/PIROSHI_CC2/status/1316677343117602818
この評価が正しいと思う。
第1話においては、カナメ社長によるミノリさんへの信頼とミノリさんによる自己承認の物語。
で、第2話においては、カナメ社長によるチヒロさんへの信頼とチヒロさんによる自己発見(途上)の物語。ミノリさんはどちらかというと読者視点だけど、ある種のバランサーでもあって、また、チヒロさんから刺激を受けて発奮するという三者間コミュニケーションの一員ともなっている。
そんな風に思うよ、僕は。
あと、チヒロさんがどういう人かって話だけど、自負もすごいけど、他者から評価されたい人でもあるんだと思うよ。「自分で自分を評価するから他者の評価はどうでもいい」ってタイプじゃ全然ない。ある種の生真面目も相まって、「他者から求められたい。他者の求めに応えたい」というタイプ。だから、チヒロさんはカナメ社長に「お前の望みはなんなんだ」と思ってた。
カナメ社長に言わせれば、「見たこともない景色を見せてくれ」ということであり、「見たこともない景色ってなんだ」と言われてもそれ以上答えようがない。だって、見たこともないんだから。ただ、完全に突き放しもせず、「欲しかったら助け船だすけど?(でも、要らないでしょ?)」という態度。この辺が信頼だよね。
で、チヒロさんはカナメ社長の真意をそこまでわかってないんだけど、じゃあなんで、それでも頑張ったのって、いうのは、負けず嫌い=難しい課題ほど燃える、という性格なんですよ。「わたしたちにできないことをやって欲しいとうのが要求だ」と言われ、「よし、やってやろうじゃん」って思ったわけですよ。そこに山があるから挑戦したいんですよ。
一連のZOCの騒動、大森さんの「ルッキズムが才能に勝つのが許せない、本当に悔しい」というインスタでの発言が引っ掛かった。
不透明なすべての事実において真偽のほどがどうであれ、大森さんの根底にあるのは"才能で許されたい"という感情なのではないだろうか。
絶対彼女から大森さんを眺めている1リスナーとしては、彼女は直情的に音楽をつくっている人間に他ならないと思うし、今回の騒動において「大森靖子はプロデューサーをやるならもっと大人になるべきだった/完全に外になるべきだった」みたいな意見を見たけど、これはまったくの的外れだと思う。
これは仮説だけど、彼女はアイドルをやりたかった。アイドルという年齢とルッキズムがものを言うクソクソ構造の中で、ちゃんと支持されて、自分も納得のいくものができる構造。楽曲作りのセンスと、限られたスパン内でアウトプットしていくためのアレンジャーの人選。ZOCの楽曲(特に「断捨離彼氏」「SHINEMAGIC」あたり)の歌割りから楽曲としてのキメの巧みさ、各メンバーに振られたソロ曲の的確さを見ても、コンポーザーとしての大森靖子は完璧だったと思う。
だから外に回ればよかったじゃん、って話かもしれないが、そうはいかない。プロデューサーというのは冷静に全体を俯瞰しなければならないし、たぶんチーフの役割は彼女に向かない。お飾りに徹することができればいいが、おそらく彼女は自我が強すぎた。またはスタッフが役不足だったか。大森さんのことは好きだけど、今回はちょっと擁護しかねる。
ただ、そもそもZOCの良さは、メンバーのクセの強さとリスナーを離さない楽曲の強さだとも思っていて。戦慄もかてぃも人気あるけど、音楽と衣装はただの可愛さを強化する。アイドルはそこがすごいんだ。大森さんは自身が生粋のドルオタで、かつ自分のグループであるからこそ、余計に渾身の曲が作れたんじゃないかなって。当事者意識って大事だよやっぱり。自分も人に楽曲提供とかするけど、自分が歌う曲へのモチベーションって違うもの。
だから大森さんはZOCのメンバーである必要があった(それに、単純に楽曲を聴いていても、声質的に大森さんがアクセントになっていて明らかに上手い。アイドルソング結構聴くけど、でんぱでいうえいたその歌のうまさみたいな、声のバランサーとしての役割も絶大だよね。LADYBABYとか曲云々以前に声が厳しかったとこあるもん)。でもメンバーって言ってもさ、こんだけプロダクションに携わっている人間がいたら同じ立場で接するとか無理だよね。そういうの気にしなそうな子たちだけど、年齢差もあるし。昔、自分もバンド内の格差で揉めたことが何回かある。やっぱりソングライターと、それ以外には圧倒的に差が生まれる。そしてそれは人気と比例しない。
騒動のコメントなどを全部チェックしたわけじゃないけど、きっと私が見た以上に誹謗中傷と賛美の両極端が飛び交っているんだろうな。そして大森さんは戦慄派の「かなののがかわいいから」「おばさん」「ブス」などのコメントに、改めて傷ついたんじゃなかろうか。ミスiDとかゴリゴリに逆説的な搾取構造で正直ウケるけど、それでも若さとか、ルッキズムとかを許したくてZOCをやっているのに、彼女自身が「才能によってアイドルとして互角に扱われている」と感じていたメンバーと差を付けられることに、耐えられなかったんじゃないのか。
私自身はそう思う。キチガイアが出た時、この人は本当に愛であり、肯定の歌をうたう人だと感動した。過激な側面も肯定したいがための不器用さだと信じた。いまもそう思っている。
でも、だからこそ、その繊細さで、ギリギリのバランスが重なって奇跡的に生まれたZOCが、こんな形で活動休止になってしまったことが悲しい。
同じことの繰り返しになってほしくないけど、大森さんの音楽の作り方と渇望される構造がある限り、女の子たち(とそのファン)は何度も消費され、互いに本気で傷つけ合い、それで病的にお金が動いてくんだろうな。
「自分が目下食っていけるかどうか」にしか興味が無く、船底を食い荒らすネズミ連中を支持する行動は「愚か」だよ。
元増田が言ってるのは、結局「船底に穴を空けるネズミでも、大半の乗客にはそんなこと分からないか興味が無い」というだけのことであって、それは「大半の乗客が愚か」であることと何ら矛盾しない。元増田は要するに「国民がアホだから」「アホに分かるように誘導してやれ」ということをやんわり言い換えているだけであって、それはそれで悲惨な結果を引き起こしたってのが二十世紀の歴史にみる反省ポイントなんだよね。だから、「やさしい言い方」なんて無意味だ。アホにはアホというしかない。
だからハッキリ言うけど、その「アホに分かる誘導」、つまりこの先現れる「国民生活を上昇させる画期的な政策」とやらは、「自分たち」以外に対する搾取と簒奪でしかありえない。あとは、それをどんな綺麗な言葉で言い換えるかだけだ。俺はそんな「画期的な政策」には全く興味もないし期待もしない。中国市場の開拓? 外資に日本を売り飛ばす? もし、「米中の仲立ち・バランサー・調停役として画期的な働きをし、そこから生じる利益を流通ハブとして享受する」ようなことができるなら、百歩譲って可能性なくはない(そこに「今はまだ存在しない巨大な利益」が誕生するわけだから)。でも、アメリカの核の傘の下にある日本に、そんな立ち働きができるような政治力はない。交渉力もない。現実を見ろ、世の中うまい話なんてない。
もし期待感があるとすれば、それは政治ではなく、(1)イノベーティブな技術による一時的な経済ブースト、(2)イノベーティブな思想による社会構造の根源的改革、のいずれかだ。ただ、(1)は一時的だし更なる袋小路へと人類を導くだろう。たとえ人類が木星に到達したところで、いずれ「その状況を前提とした競争」が普通になるだけだ。たとえば、情報技術はイノベーティブな技術だったけどそれで仕事が楽になったか?ってことだ。
そして、(2)は「社会構造改革」を伴う以上、結局既得権益側の犠牲は避けられないだろうな。民主主義革命が貴族制を打ち倒したように、民主制を打ち倒す何かは民主制の「王」から何ものかを奪い去る。まあ、それもまた「搾取と簒奪」の一種に過ぎないと言えばそれはそうだよ。自分たちの社会の外に迷惑をかけ、50年後も100年後もぐちぐちそのことで文句言われ続けるような「政策」とやらよりは、社会内で済むだけ百倍マシになる。フランスでは220年前に民衆が、日本では70年前に進駐軍がこれをやった。
だから、問題は、そういう移行に伴う痛みを我々がどの程度の範囲、どの程度の深さに止めるか、ってことになる。政治に仕事があるとすれば、その、ホンのささやかな領域だよ。政治なんてシロモノに過剰に期待してはいけない。
世の中には、他人や物事を批判するときに限って、現実とフィクションの区別がつかなくなる人、二次元と三次元を区別しなくなる人、文化と実用を同じ俎上にあげてしまう人がいる。
結局の所、怖いのだ。そうした無自覚な混同に至るのは、自分の理解の乏しい分野が伸長してくることが恐ろしく、脅威に感じられるという、無知ゆえの恐怖に他ならない。
ほとんどの場合、その恐怖は杞憂である。人類の総体は、一人ひとりが認識しているよりもはるかにまともであり、良くオーガナイズされた動きをする。創発のようなものだ。
だいたいのアクティビティは、門外漢が取り沙汰し介入せねばならぬほど悪辣なものにはなり得ない。
バランサーはどこにでも存在する。外野からはそれが存在しないように見えていても。
その領域内の独自のルールが自然発生し、なんらかの形の自主規制に基づいて、守るべきラインが形成されていく。それは動的であり、だからこそ発展していくものだ。
海外の(観光客からみると)おっかないエリアであっても、そこに住み日常を営んでいる人たちがいるのと同じように。過度に干渉したりケチつけたりすべきではないのだ。
世の中のあらゆる人々や物事は、多くの側面を内包している。その側面一つ一つごとに発展の度合いも方向性も異なる。
そのうち一側面の要素を一つの尺度で「ひどく拙く粗野だ」と詰って発展段階を批判したとしても、その主体の価値がそれだけで毀損されることはない。
けれどもそれが可能であるかのように誤解させ、一事が万事のように誘導し、その主体そのものを潰そうと息巻く人々が、事あるごとに出てくる。
それは、前述のように恐怖からくるのだが、同時に、疲れているのだろう。疲れている人がたくさん居るから、そのような一つの現象を生むのだ。
世の中が多様になりすぎて、受け入れるだけのキャパシティを超えてしまった人たちの、許容疲れなのではないか。
疲れている人とそうでない人とでは、その視野も認知能力も噛み合いようがない。それが理論の屈折と、議論の非建設性を増長することになる。
この「許容疲れ」の解消こそが、21世紀の課題だと私は思っている。モダンでありながら生きやすい社会のために。
今までは、そのキャパシティは物質的(経済的)にも精神的にも余裕のある成熟した人でないと拡張できなかった。
単にインターネットを通じていろんな立場の人の声が聞ける・読めるようになった程度では、人々の意識の器は拡張されなかった。
むしろ、一気に大量のタスクを渡されたせいで混乱しカリカリと殺気立っている人、のような状況に陥っている。
インターネットがより意識の低い一般大衆に浸透すればするほどその傾向が強まってきたように感じられる。半端に意識を高められ、排外排斥および他責思考が強まっている格好だ。
これは過渡期的な、一時的な現象だろうか。いや、そうではないだろう。
おそらく、インターネット、ハイパーテキストの先にはソリューションは存在しない。
情報通信の分野の中にはあるだろうが、まったく異なるプロトコルによる情報摂取体系の普及が必要になるだろう。
多面的でファジーな意識を、負荷なく脳に取り込む――可能ならば他人の脳そのものとリンクして、認識を統合する――
仮にそれをHCTP、ハイパー・コンシャス・トランスファー・プロトコル、と呼ぼう。
それが実現したとしたら、どのような形で運用されるだろうか。
ジャンプは今の体制を崩してほしくないね。少年の心と少女の心は違うし、一応分けておいて、その中で女が少年向けを読んでもおかしくないという環境を社会が作らなくてはならないのだ。
漫画は大衆のものではない。大衆のものなど、もうこの日本には存在しないといってもいい。
ジャンプ系出身の女性作者は、なぜか売れっ子でも男性名に見えるものを使っている。
別にこれはジャンプ系だけの話では無く、割合的にも男性名を使うことが多いようだ。
なので未だに女性が描く漫画は下手だとか面白くないとかいう偏見が残り続け、さらに名前を隠す文化が根付いているようだ。
この点においてはジャンプが変えていかなくてはならないはずだ。
多作ヒット傾向にあるのは女性漫画家だと、そろそろ気付いているころだからだ。
そのことを高橋留美子を通して散々知っているサンデー、小学館系から出る女性漫画家は「○○子」など思いっきり女性名を出している。
サンデー編集部に女性が複数人居るのは、多くの作品で恋愛を取り扱うので、女性の気持ちを汲むバランサーとしては必須だからだ。
そのため腐女子媚びをしていると思われることもあるが、サンデーの腐人気作品は全くその要素が無いのに人気になっているため、ジャンプの腐人気作品となんら変わらない。隙あらば男女がいちゃつくのがサンデーだ。
恋愛を扱わないジャンプに少女恋愛漫画視点は必要ない。ラブコメをたまにする作品に女性アシスタントがいればいい。結論は出ている。
韓国は韓国で独自の歴史や政治風土があるので、右は基本的にアメリカ・中国など強いほうについてころころ立場を変える蝙蝠外交をし、蝙蝠していることをアクロバット理論で正当化する民族主義です。
例えて言うならパククネ時代の米中蝙蝠外交で、それをバランサーとして両方から求められていると国内向けに言い張っていました。
また彼らのウリ(内輪)は大韓民国内のみで、北朝鮮はナム(外)のため強く敵視します。
左は自主自立を志向する民族主義で、主張を素直にぶつけると日本だけでなくアメリカとも対立(反米運動やリッパート大使襲撃など)し、中国とも対立(東北工程や中国の物への韓国起源論など)します。
会社の人間を観察してると、バランサーで周りのことを考えてそうな努力家ほど独身で、逆に自分本位であんまり気を使わない感じの人ほど結婚してる。
個人的にも付き合いたいって思うのはやっぱ結婚してる人達。なんとなくそう感じる。
他人に対する支配欲や執着を感じない。常に自分本位でいる。適度に距離感取って、無理せずやりたいようにやってる。やりたい事やってやりたくない事からは無理せず上手く逃げてる。
結婚できてない人間は他人の期待に過剰に応えようとする。合わない奴とも無理して合わせるし、やりたくない事も頑張って克服してしまう。
他人の期待に十分応えて、評価や見返りを貰おうとしてる感じ。直接自分の欲望を満たそうとしない。プライベートがスカスカ、仕事が全てで、そこから人生の承認を全部貰おうとしてる。
妻とは価値観を含めいろいろと合わない。結婚当初から失敗と悟ったが、子供が早くにできたこともあり意地と我慢で気づけば10年が経っている。
大事にする人という意識はあるが、愛は無い。数年単位のセックスレスだ。ただ仲は良い。この仲の良さが子供には良いのだろうと多少演じる時もあるが、その時は別に嫌な感覚もなく自然に振る舞える。
好きだと言ってくれるので、俺もだと返しはするけど嘘をついている自覚がある。
専業主婦が良い!と言うのでそうさせているのに、役割としては果たせていない。たいして掃除もせずに部屋は汚めだし、一週間まるまる妻の手料理を食べずに過ごすことなんてざらにある。洗濯はほぼ毎日するものの、週に2回くらいしかたたまない。
俺自身も散らかすくせに汚い部屋は落ち着かないもので、家の居心地が悪い。とはいえ俺が補っているわけでもないので、あまり言わないでいる。逆ギレされるし。
一時は強いストレスになっていたが「能力がたりないのだ、仕方ない」と思うようにしてからは割り切れている。これが離婚原因になることはないだろう。
ただ、やはり根本的に合わないのだ。妻の話に相槌はうつが、興味深かったりもっと聞きたいと思ったりすることはほぼない。
かなり可能性が薄くあり得ない心配事、芸能・ゴシップ、どうせすぐに飽きたり使わなくなる買いたいもの、それを長々と話されても困ってしまうのだ。興味ない風を伝えている時くらいは察してほしい。
教育に関しては妻の子供への過剰な介入が心配で、そのバランサーとして自分は一緒に居たほうが良いと考えて踏みとどまってきた。
昨日は子供が直面している問題の原因が、俺の怠慢のせいだと言われていい加減キレた。
ちなみに子供と接する時間は一日平均2時間はある。ベッタリではないがしっかり観察はしているつもりだ。
離婚を躊躇するのは子供への影響。それだけだ。少なくとも子供の前では夫婦仲良くすることは出来ているので、子供にとっては一緒にいるほうがきっと良いのだと信じている。
子供と離れるのは俺としても辛すぎる。耐えられなくはないが極力避けたい。
ただ余りにも自分を騙しすぎて疲れてきた。どうすりゃいいんだ俺ぁ
最近メンタル不調が続いていて、友人に話を聞いてもらったところ「致し方無いとはいえ役割が多い」という指摘を受けた。
大きくはこの三つだけれど、細かく言えば「実家寄生している恋人持ちのフルタイム勤務しているシングルマザー」。確かに山盛り感はある気がする。この度「恋人」という役割を降りて、元の「実家寄生しているフルタイム勤務しているシングルマザー」に戻った訳なんだけど、それでもまだ役割が多いと言われる。
友人は出張の多い配偶者と二人暮らし(と言っていいのか分からないくらいパートナーの出張が多い)。友人付き合いはあるけれど、実家も遠くお盆とお正月くらいしか返らないし、パートナーの実家とも疎遠らしい。仕事は忙しそうだけれど、曰く「専業主婦にもなれるけど、なったらなったで病みそうだから働いてる」とのこと。確かに身軽そうに聞こえる。
本音を言えば、ママだけの役割を全うしていたい。私の職種は地元になかなか募集が無く、片道2時間通勤に費やすため、子供の保育園への送り迎えは両親に頼んでいる。だから子供と会えるのは朝家を出る前に子供が起きていた時と、家に帰ってから一緒に食事をして、お風呂に入って、歯を磨いて、眠る時だけ。平日は平均して2時間ほどしか子供と向き合うことができない。子供が寂しがっていることは分かるけれど、子供が幼いうちに貯金を増やしておきたい気持ちもあって、今の生活スタイルを変えることができない。もう少ししたら二人暮らし用の家を買って、自分が万一死んでしまったときに、住む場所は遺しておけるようにしたいな、とは思ってる。ただ、実家を出ることで、それまで私の両親と(子供にとっては祖父母と)一緒に過ごせていた時間を一人にしてしまうので、それはそれでどうなんだろう、と考えていたりもする。私はもともと一人でいることが好きだけれど、娘は違う。「こうするよ」と私が言えば理解して納得したフリをしてくれるかもしれないけれど、寂しさを募らせると思う。それは、どうなんだろう。まだ答えは出せていない。
ワーカーとしても中途半端。フルタイム勤務をしているとはいえ「残業、いたしません。飲み会、参加しません」と宣言しているので、重い仕事は振られない。ので、大きな成果を上げることもない。福利厚生は整っていてそれを享受しているけれど、これでいいのか?と毎日思っている。加えて最近別部署の人からのセクハラを受けたりもして、なんだかな、という気持ちもある。妊娠前に働いていた時ほどの仕事に対する熱意や気力が、今はどこにも見当たらない。それでも、安定した生活を子供と送るためには、このまま働くしかない。
恋人がいた。つい先日別れたのだけれど、恋人という役割も私は全うできていなかった。シングルマザー、ワーカーという情報を開示したうえでのお付き合いだったけれど、ずっと寂しい思いをさせていたと思う。分かってて付き合ってはいたのだろうけれど、私の生活は時間的余裕が本当に少ない。朝5時に起きて、6時に家を出て、8時に会社について仕事をして、6時に会社を出て8時に帰宅し、夕飯を食べて支度をして9時頃布団に入る。移動時間は自由とは言え、移動時間も最近はしんどくて寝てしまうことが多い。恋人と会うときは家族に話して子供の夜の世話も頼み、半休を取って、午後から夜まで、がほとんど。それも有給には限りがあるし子供のためにとっておきたいので、二人で会えるのは多くて月2回。子供と一緒に三人で会うのも月に1回~連休があると3回。でも多分、恋人が求めていたのはママとしての私じゃなくて、恋人としての私。だから喧嘩も多かったし、喧嘩のたびに私はどんどん自分のことを話すのをやめてしまったから、「前は沢山話してくれたのに(愛されていないんだ)」と、思わせてしまっていたのだろうなと思う。私は私で吐き出される言葉の鋭さに辟易してしまった感が否めず、すれ違いばかりになっていた。だからこの別れは仕方ないのだろうと思う。
ほかにも。
実家にいるから、娘という役割もある。忙しい母に代わり、土日の家事の一部を請け負う。愚痴をきき、たまに怒りのはき捨て場になる。そういう家族のバランサー役も、私の役割。(母も父も、こんな私を非難することなく受け入れ、娘を本当に大切にしてくれているので、ギブアンドテイクだと思ってるからここについては言及しない)。おばあちゃんにとっての孫という役割もある。週末娘と一緒に顔を出して、夕飯を一緒に食べたり、おばあちゃんの家の片づけをしたり。
でもさ、これって、子供のいる親なら当たり前のことなんだろうね。ワンオペママなんてきっともっと大変だろうと思う。子供が二人以上いるママはなおのこと。だから私は、自分自身が息継ぎができていないような錯覚を覚えながら、それでもまだマシなほうだと思ってる。だからこそ、よけいに、普通のことが普通にできない自分に対して、失望してる。こんなに周りが支えてくれているのに、なんでこんなに苦しいのか。「役割が多いんだよ」というアドバイスは、的を射ているようで、ちょっと違う。私の的にはど真ん中なんだろうけれど、周りから見れば「その程度で」。
翌日、健康診断で某項目で要再検査。診断結果が出るまで何とも言えないけれど、と前置きをして、医師は私に見解を述べた。もし本当にそうだったとしても治らないものじゃない。保険に入っておいてよかったと思う。万一のことがあっても、これで家族には迷惑をかけずにすむ。入院となれば子供に寂しい思いをさせてしまうけれど、これでリモートワークOKになれば、子供と一緒にいる時間を増やすことができる。…こうやってポジティブに考えたって、私の心は簡単に折れてしまった。
名探偵コナン「紺青の拳」の永岡智佳監督(初監督、シリーズ最年少)だ。
女性監督という点について、何故これほど少ないのかという問題は色々語りたいところがあるのだが…
とにかく凄い!よくやった!と言いたい。
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オタク視点から考察すると、名探偵コナンの劇場版は1作目から最新作までずーっと青山剛昌が総監督でやってきている。
元々は『どうせ最初で最後だから』と原作でやる予定のラストを映画に渡した1作目がそのまま続いているといった印象だったが、
監督やスタッフ、セル→デジタルの変移や原作者の忙しさ、あまりにも口を出すのでスタッフに煙たがられる青山、作者の体調不良などで安定しない時期もあった。
こだま監督時代が良かったと言われがちなのは、監督が作品の世界観を理解し脚本家と青山剛昌と一緒に作りあげていた時代だったことも大きい。
山本監督が駄目というわけではないのだが…。(彼はテレビシリーズでも継続しているので)この時点で一時マンネリ化したシリーズを打ち破ることが叶わなかったとも言える。
静野監督は興行収入を伸ばしたきっかけ『派手さ』を劇場版に与えてくれたが、一方スポンサー、脚本家、青山の間で噛みあわなかった印象がある。
よく言えば作家性がある。悪く言えば好き放題しすぎた。
青山がせっかく原作の重要ネタを提供しているのに、その部分がないがしろにされているような気もしたし
特に櫻井脚本との相性が最悪だった。櫻井が何度「自分の案はほぼ無い」とか「こんな予定じゃなかった」発言をしたか。
昨年ゼロの執行人で立川監督になり、『あの部分で揉めた』『あの意見が通らず困った』という裏話が急に消えた。
櫻井もゼロで初心に帰れたという話をしている。しかし櫻井脚本の場合の安室透は人殺しだったというエピソードがある限り危ういものである。
子どものころからアニメを見ていた立川監督がバランサーとなり、軌道修正をしたとのことだ。
といっても「これは名探偵コナンなのか」「これは原作の降谷零なのか」「安室透とバーボンどこいった」という議論が付きまとう『ゼロの執行人』。
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初映画監督ならではの荒さはあるが、それも勢いに変えているのではないだろうか。
今回の映画はとくに今までのコナンファンには受けがよく(去年映画で新規参入してきた人にはアレ?という感じだが)
監督が元々コナンファミリーであり作品の世界観やキャラクター像を理解していることや、
プロデューサーが「コナンの現場で育った人」と発言していること、
子供のころから原作ファンだったことも大きいかもしれない。(脚本家の大倉さんも原作ファン。二作目で小慣れてきたように思う)
伏線の多さだけではない。音楽もまさかのテレビアニメ2話オマージュなど、マニアしか気づかない仕掛けもある。
そして漏れ出てくる話がどれも作品やキャストに真摯であり、ある種のしたたかさも感じる。
OPまでのプロットは青山が手掛けているし原画だけではなく絵コンテもかきまくりだ。さらに監督も青山と相当連携をとったようだ。
脚本家が困ったら青山に助け舟を出していることも大きい。脚本家も、監督をコナンファンとして信頼したような話を書いている。
とくにラブコメやアクションとミステリーの割合もよく、作画スタッフもいつもと違うことになっていて
作家性についてはオリジナルを見たことが無いので保留するが、何故コナンスタッフが何年も彼女をメインスタッフとして起用していたかを考えれば答えはでてくる。
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あまり関係ないと言いたいが、キャラクターの女性たちがまるでファッション誌から抜け出してきたような衣装を着ているのは、女性監督ならではと言えるだろう。とくに女性の描き方は今までに無かったものを感じるし「少女漫画とラブコメドラマを読み漁っている青山剛昌」にもついて行けるものがあったのだろう。
コナンという作品は多くのスタッフとしがらみの中で動いている。
したたかさ、と書いたが絶対的にこの映画作品の監督にはそれが必要であり、青山と脚本家とスポンサー、そしてアニメファン・映画だけのファン、原作ファンの中間で戦う能力が必要だ。
そういう意味で制作進行をしていたスキルと、男だらけのスタッフの中で女性が青山と指揮をとるというのは、成功だったのかもしれない。
さらに噂では「今後、永岡監督がテレビシリーズを任されるのではないか」との話も出ている(高齢化するスタッフ問題は長寿アニメならではだ)。
コナンといえば連載中の漫画アニメの中で一番視聴率をとっているTVアニメだ。
女性監督主流時代になるのか、と無理矢理令和に寄せて書いてみる。
夕刊フジを読みながらおいぼれてくのはゴメンだと本気で思ったし、生きた証を立てようともした。
ロックスターになれないちやほやされない人生なんて負け組ではないかと落ち込んでいた。
だけど最近思う。ロックスターやインフルエンサーってコスパ悪いんじゃないかと。
1年で言うと不幸な364日とそれを帳消しにするほどの絶頂の1日があるというイメージ。
対して俺は1年のうち不幸なのは3日で幸せなのも3日。あとは平凡な359日って感じだ。
年収が1億円あるわけじゃないし、会食でうまいもんを食べてるわけでもいい女を抱いてるわけでもない。死んでも新聞には載らない、そんな人生だ。
が、家に帰れば可愛い嫁さんと子供がいる。「今日は最悪だ…」と思う日なんてここ何年もない。平穏でバランスのとれた暮らしだ。
※注意※
【未来のミライ】を見てきました。
賛否両論ありますが、個人的には細田守監督作品のなかでは一番好きです。鑑賞後勢いでパンフレットも買いました。
見終わった日の夜は「いい作品を見た!」と最高の気分で眠りについたのですが、朝起きてツイッターのレビューを確認して唖然。
とんでもない酷評を見て、映画にいちいちエンタテインメント性を求めすぎではないか?監督が作りたいもの作ってなにが悪いのか?と面倒くさいオタクが花ひらいてしまいました。
まず、この作品を一言で表すのならば、「現代オタク向けおもひでぽろぽろ」。残念ながら時間軸を通したアドベンチャー・ファンタジーではありません。
ただし、主人公としての焦点は、未来ちゃんの兄であるくんちゃんに当てられていますし、当の未来の未来ちゃんのいる時間軸の未来のくんちゃんもそれほど出てきません。なんなら未来の未来ちゃんもそれほど出番はありません。
この話は、くんちゃんが未来ちゃんをきっかけとした愛を巡って人間的な成長していく「くんちゃんの成長日記」なのです。
タイトル詐欺かと思われますが、未来ちゃんがいなければくんちゃんはお兄ちゃんとして成長できなかった。そして、未来ちゃんの未来を形作っていくのは、くんちゃんをはじめとした家族や周りの人々・環境ということになります。だから、【未来のミライ】なのではないかと私は思います。しかしながら、家族のルーツを辿って家族賛美をしているわけじゃありません。パンフレットのなかにも「愛をめぐる話」とあります。今まで当然のように受けていた愛が急に別の人に注がれるのは子どもだって、大人だっていやだと思うのは同じです。繰り返しになりますが、この映画は「くんちゃんが未来ちゃんをきっかけとした愛を巡って人間的な成長していく」のが本筋なのです。
そういえば「(雛人形を気にするなんて、)未来ちゃんが女子高生らしくない」というレビューも見かけましたが、未来の未来ちゃんは中学生です……。
次に、「子どもを知らない人」にはこの映画、あまりおすすめができません。この作品には子どもの「よくする行動」が多くでてきます。
片付けしなさいと言われたときについつい物を広げて遊んでしまったり、黄色いパンツのくだりみたく自分の思い通りにいかないときは駄々をこねてみたり、自分が未来ちゃんにかまってもらえないときは理不尽に「好きくない!」と言ってみたり……。とにかく子どもはそういう行動はよくするんです。くんちゃんが夏の日に置いて行かれた時の反応や、誰もいなくなった静けさなんかは特に子どもの感覚に寄せて作られた作品であるともいえます。
くんちゃんは4歳です。ということは、学校にもまだ通っていない未就学児です。学校で叱られることもなく、くんちゃんにとって集団社会は家・家族という限られた空間の中にしかありません。その中で一番若くてかわいがられていれば、大抵の場合暴君になるでしょう。そんな暴君が、若干スレた姿を未来の未来ちゃんの時間軸で見せます。学校に通って家族や家だけでなく、外の世界の空気に触れて、やっと大人に近づくのです。スレることが大人への一歩というには些か問題ありますが、成長過程においてはそういう道もあるのかな、と思います。
さまざまレビューで、くんちゃんがクソガキすぎてみていられないと書かれているのを見かけました。実際クソガキはあんなもんじゃないです。これは一般的な例ではありませんが、家族以外の人には「嫌い」と言いながら唾を吐きかけてくることだってあります。そういった体験もあって、雛人形のくだりを見ていると、お父さんの目をゆっこと未来の未来ちゃんから自然に逸らそうとするくんちゃんは聞き分けがいいというか、とても頭がいい。すごい(小並感)
ストーリーに関しては、「ジャンル:創作」の超大作同人誌のように思えました。
スコンスコン!というハッキリしたストーリーの筋があるわけでなく、くんちゃんがお兄ちゃんとして、人として成長するためのステップが淡々と現れます。家族全員のルーツや思い出をたどるには壮大すぎて描き切れなかった部分が多い気もしますが……。それは抜きにしても、1ステップずつのこだわりが強い。ゆっこが擬人化したり、くんちゃんが赤ちゃん返りのはずみでゆっこになって走り回ったり、未来の未来ちゃんがかわいく恋してたり、お母さんもお片付けできないくんちゃんに似てたり、ひいじいじがかっこよかったり、ひいじいじがかっこよすぎたり、未来のくんちゃんが軽くスレてたり、くんちゃんが未来の東京駅に迷い込んだり。あ~、監督こういうの描きたかったんだな~というのがそれぞれの描写で伝わってきました。そういった節々のフェチ感が私は好きでした。こじらせたオタクも、たぶん好きです、ああいうの。
家族の描写は、「恵まれた家族」というよりは「安心できる家族」のほうが印象が近いかと思いました。くんちゃんが何かしでかしても、なんだかんだどうにかなってしまうので、見ていてとても安心するのです。家族のバランサーであるお父さんも、奥さんに怒られ子育てにハラハラしながらも、地道に努力していくんですね。影の主人公は実はお父さんなのではないでしょうか。過去にこんなことがあって、こんな成長があった、と見ている私たちも人生を振り返ることのできる良い映画だと思います。
キャラクターに関しては、じいじとばあばを除けば強烈なキャラクター付けをされていました。
私はゆっこが一番好きです。犬が好きだというのもありますが、いいおじさんのくせに自分のことを王子だと言ったり、敬語でしゃべったり。最初は「なんでこんな人間みたいな顔した犬なんだ」と思っていましたが、最初にくんちゃんと人間の姿で出会うシーンを経ることで、ゆっこという「犬(家族)」の人間くささをより思い知ることになりました。彼が初めに登場することで、この物語はただ子どものリアルに寄せた話ではなく、異質を伴った子どもの妄想、つまりはファンタジーなんだぞ、というのが伝わるので、かなり重要な立ち位置だと思います。
あと、忘れてちゃいけないのはひいじいじ。まごうことなきイケメン。あからさまに「こういうお兄さん好きだろ」と言われているのが見え見えなのですが、まんまとはまったのが悔しいです。あれをカッコいいと言わずしてどうする。また犬に続いて馬もすき、続いて私の父もバイク乗り。思うところありありで呟かれる「下は見ねえで、遠くだけを見ろ」のセリフ。成長せずにはいられない。戦争で生き残って、なおも前向きに生きようとした人生の縮図のような言葉。罪深い福山雅治。
最後に未来の未来ちゃん。未来の未来ちゃんについてはストーリー上ではふんわりさわったかな?くらいの描写だったのですが、あの気の強さはお母さん譲りなんですよね。それから手のアザ、あれは未来ちゃんが未来ちゃんであることの証明になっていました。髪の流れや面影はあっても、あの手のアザがなければくんちゃんが未来の未来ちゃんであることを瞬時には認識できなかったでしょう。
子ども独特の危うさを感じる重心運動がこれでもかというほど詳しく描かれています。生まれて間もない赤ちゃんの柔らかさ、ふんわりぷにぷに。長年アニメを見てきたオタクとしても「すげ~!」と声を漏らしそうになるもたもた感の描写、ただ動いている様子を見ているだけでも楽しかったです。家に入ってくる光の表現もまたまた綺麗。ジブリ映画などとはまた違った、ギラつきのない自然光の美しさが映画にはあふれていました。また、家という閉鎖空間からでは感じ取れない四季を表していたのがあの樫の木ですね。たまに入るCGもくどいと言ってしまえばそれまでですが、細田作品の醍醐味でもあると思います。それがファンタジーであることの証明にもなりますから。
学歴でブコメの質が決まるとは思っていないが、b:id:hungchang のブコメが素晴らしいのもまた事実だ。
本当に東大卒だとしたら、さらによりいっそう説得力が出て、より素晴らしく感じるのかもしれないなあ。
イメージ的には、カシュゼロロク、ワロスハッカー、デス六、シダーコンドー辺りは高学歴かはわからんが、学生時代に勉強を真面目にしていそう。
特に、カシュゼロロクは偏差値じゃなく卒業後の進路とか、やりたい学問とかを考慮して大学を選んでそうだから、あまり知名度が高くないけど良い大学、みたいなのを選んでそうだ。
逆に、msdbkm、リ・カム、け、辺りは不真面目そうな印象があるな。
リ・カムなんかはその印象がずば抜けてて、勉強しなくても偏差値65ぐらいはありそうな印象が凄いある。
すけきょわんわん、ながたふぇは、勉強に興味がなさそうな感じがする。
頭が良いとか悪いとかというよりは、学校が教えることに興味がなさそう。
すけきょわんわんは間違いなく「サインコサインの何が役に立つんだよ!」って思いながらも、口にせずに、しれーっと自分のしたいことをやってそう。
こうテスト始まった10秒後に、テスト範囲どころか、今日のテストの科目自体を間違えて勉強したことに気付いてそう。
勉強以外でも、大事な書類を破くとか、コピー用紙をぶちまけるとか、お茶をこぼすとか、そういうミスをたくさんしてそう。
あと、こういう評価基準とは関係なさそうなのが b:id:sugimurasaburo さん。(なんて読むの? スギムラサブロー?)
今まで挙げた人達は、なんていうかこう、男社会に置ける評価基準みたいなものでイメージを膨らませたけど、
この人はもうそういう基準で計るべき存在じゃないなって思っちゃう。
言い方は悪いかも知れんけど、結婚したときに、2人で共働きするよりも専業主婦やって全力でサポートすることで、相手の年収を二倍以上に上げるようなイメージだ。
ただ、別に本人自身も仕事は出来そうだから、共働きなら共働きでガッツリ稼ぎもしそうでもある。
むにおかみたいな、やる気ないタイプもいるよね。
こいつ勉強とか仕事が出来るとか出来ないとかじゃなく、やる気が根本的に欠けてそう。
金を稼ぐとか、テストでいい点数を取るとか、そういう社会的なあれこれに一切の興味がないタイプ。
でもまあ、一番多いのは、サバみたいな、ほどほどにやる気があって、ほどほどに勉強が出来て、ほどほどに仕事も出来る、みたいな普通の人なんだろうなあ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
異端者アピール説が有力だが、今回はちょっと別の切り口で攻めてみよう。
物事には多少の偏りが出るが、それがあまりにもいきすぎるとバランスを保とうとするんだ。
「アナと雪の女王」は覚えているかな(忘れようと思って忘れられるものでもないが)。
私も観にいって「これは素晴らしい作品だ」と当時思ったよ。
その熱を保ったままネットでレビューや、関連動画を渡り歩いた。
そして、それがしばらくすると不安になってくるんだ。
上映から数ヶ月たっても、動画サイトでもレリゴーレリゴー、TVメディアもレリゴーレリゴー。
「もういい」と思ったね。
人は食べ物に限らず、同じことを繰り返せば繰り返すほど嫌悪感が増すからだ。
「コンテンツを消費している」という言い方があるが、その弊害がまさにこの現象だと私は考えている。
「オートバランサー」はその流れを緩やかにするわけだね。
彼らは酷評されまくる駄作に関しても出てくるので、その点で平等だ。
絶賛する人、酷評する人と同じく冷静ではない。
とはいえ、作品というものは評価の対象で、だから賞賛も批判もある。
それらを発する個々の動機だけで是非を語ることにさして意味はないが、汲み取るべき部分があるのならば耳を傾ける価値はあるさ。
まあ、そんな高尚な心構えで常に臨むのは疲れるがね。
君がそれを他者に納得させたいなら、少なくとも「なぜその結論に辿りついたか」くらいは、順序をおって説明できないとダメだね。
どのような高尚な理念で「人それぞれ」、「ケースバイケース」だと言っているのか分からないから。
「YES側」も「NO側」もやっているのだから、君だってそれくらいしなくてはな。
前の質問で私は、絶賛されたり酷評されまくる作品にたいして「それほどでもない」という人間を「オートバランサー」といったのを覚えているかな。
ただ、保たなくてもいいところでまでバランスを行使する人間を、私は「均衡の執行者」と呼んでいる。
そして、彼らは中立的な意見を「YESかNO」より尊いものだと信じているんだ。
だが、両者にとって最も邪魔なのは「YESでもNOでもないのにしゃしゃり出てくる側」だ。
でも、君はその域にすら達していないように見受けられる。
「人それぞれ」、「ケースバイケース」だなんてことは、ほとんどのことにいえるから、誰だっていえる。
大した段階もなしに、その結論にたどり着くのは何も考えていないのと一緒さ。
それを踏まえたうえで、「YESかNOか」議論する意味をもう少し君は考えるべきだな。
学ぶべき教訓はこうだ。
「賢人は必ずしも中立にいるとは限らない」
一度ハーモニーを読んだ人(=自分)がハーモニーの内容を思い出すためのもの。
1
01
02
私は、同じクラスのミァハに話を持ちかけられる。大人になってwatchmeを入れられて、社会の一員としてからだを見張られる前に、パプリックエネミーにならないかともちかける。
リソース意識、公共的身体の意識にあふれた、窒息しそうなほどの優しさをあびせかけてくる社会の敵になろうと。
03
その仕事をしていれば、自分の体を自分のものとして、たばこをすったり酒を飲んだりできるから。
しかし、こうしてミァハ的(自分の体を自分のものとする)な生き方にたどり着くまでに、大きなものを失った。それは、ミァハの命。
高校生時代、私とキアンに、ミァハは一緒に死なないかと持ちかける。私たちがこの「優しい」「公共的身体」の社会から脱出するためには、それしかないように思われた。
私の父こそ、この「優しい」社会を作りだした研究者の一人なのだと私がいったら、ミァハはどう思うのだろう?
私はいま、酒をのみ、たばこを吸い、ミァハ的な生活をしている。
でも一方、螺旋監察官として、「優しい「生府」」のある側に属して、「優しさ」を、それのない世界に広める仕事をしている。本当のミァハにはなれていない。臆病者だから。
04
螺旋監察官をしていれば、さまざまな種類の死が待っている。通常の人間には老衰しかありえないのに。
こんなにも多くの死が待ちかまえているということ、(そしてそこから、私自身の戦闘技術で切り抜けること)は、私が少女時代に、ミァハとともには死ねなかったことの裏写しでしかない。
高校生時代、私とキアンは死ねなかった。ミァハだけが自殺を成し遂げた。
ミァハですら、わたしを殺すことはできないんだ。
この優しさに満ちた、公共的身体の意識にあふれた社会は、誰の手によっても、どうにもならないんだ。高校生時代に、そういう諦めの境地に達し、私は死ぬことを挫折した。
05
上司、オスカー・シュタウフェンベルクに、飲酒を見られる。
そのため、私は日本に返される。
だが、私が酒を飲んでいたことは、世間に知られるわけにはいかない。私は私自身の失敗を人質にとることができる。
06
私は日本に帰ってくる。
かつて私やミァハと一緒に死のうとしたキアンが空港に迎えにきてくれる。
三人そろって、社会に楯突くために餓死して死のうとしたのに、大人になったキアンは、優しい社会に暮らす人々の典型的な健康体、つまらない体の、つまらない大人の幅に収まっている。
私はミァハにあこがれ、不摂生な生活をしているのに。
ミァハが敵になろうとした「優しい」人々と、キアンは交流を持ち、社会のリソースとしてボランティアをするようになっている。私はそういう人たちとは会おうとも思わないのに。
私はだんだんミァハになっていた。生きていたらこうなっていただろうミァハに。
キアンと一緒に、レストランで食事をする。と、
「うん、ごめんね、ミァハ」
キアンはそう言い、突然に私の目の前で自殺する。
2
01
自殺したのは、スクナビコナ(北海道神宮とかとかとかにまつられる、酒とかとかとかの神。オホムチナ大国主とペア)生府のアグリーメンツだった。
キアンの死を直視したことと、謹慎として日本に返されたこと。この二つを理由に、私は螺旋監察官であるにも関わらず、自殺の同時多発事件の捜査に加われない。
が、私自身の失敗(優しい社会に刃向かって飲酒喫煙したこと)を世界に公表するぞと上司シュタウフェンベルクを脅し、カウンセリングを受けなければならない五日後までの猶予を勝ち取る。
02
「ごめんねミァハ」を遺して死んだ。
だから私は、ミァハの両親宅を訪れた。
ミァハの母レイコは、ミァハを立派な社会的リソースにできなかったことを悔いている。自殺願望のある子に育ててしまったことを悔いている。
ミァハはレイコの遺伝子的な子供ではなく、チェチェンの戦争孤児だったと知らされる。
03
キアンが死ぬ直前、彼女との食事の回想。
キアンの告白。
「ミァハが作った薬を飲んでいると、私の体がみるみる変化(ルビ:餓死)していく。「優しい社会」が提供する医療に浸りきった私は、体は恒常的なものなのだと思っていた。こんなにも変化するものなのだとは思ってもいなかった。だから恐ろしくなり、私たち三人がしていることを親に相談した。でも、そのとき、ミァハは変化しきっていた。死んでいた。だめになってた」
私は、
「私がこうして生きているのは、キアンのおかげなんだね。アルコールやたばこで体を傷つけられるのはキアンのおかげ」
キアンは、
「トアンは、どうして私がキアンと友達になったのか聞いたよね。私だって、ミァハと同じように、あのころは世界に息苦しさを感じていた。リソース意識なんて冗談じゃないって。……でも、ミァハと友達になった本当の理由は、たぶん、バランサーを気取っていたからだと思う。ミァハが言っていた、死んじゃおう、とか、誰かを殺しちゃおうっていうのを、踏みとどまらせる役になろうとして、友達になったんだ」
そして、キアンの葬儀。彼女はこれから液体になり、社会のリソースになる。
父はバグダッドにわたっていた。
ケイタは、「意志というものは、競いあう欲求のどれを選ぶのかを決定する主体」という。
ヌァザの研究は、人間の欲望や意志を制御するものなのだともケイタは教えてくれる。その研究を進めるために、バグダッドに渡った。
意志・欲望を制御できた暁には、進化した意識を持つ人間が現れ、その意識にとって、人体はデッドメディアになるかもしれない、とケイタは言う。
精神こそが、人体を生きながらえさせる手段なのかも。肉体にとって精神がデッドメディアになるときがくるかもしれない。と私。
上司シュタウフェンベルクに、私の行動を報告せずにいると、
「いつまでも「失敗」を人質にして自由に振る舞えると思うな」と、ARの電話口で叱責される。――電話をして、うつむいている私。
キアンも、死の直前、うつむいていた。死の直前、彼女もARで誰かと話していたのではないか。
螺旋監察官の権限で、キアンの通話記録を見る。思った通り、彼女は電話をしていた。
「ううん、ごめんね、ミァハ」
そう言った相手は、ミァハ本人――ミァハは生きていた。
ミァハ曰く、
「善とは恒常性のこと。
昔は王様がいて、王様を殺せば世界を変えられたのに、民主主義以降、みんなが互いに互いを律するようになったから。優しさのおしつけあっこ。
私たちは、そんな社会から飛び出して、自分で自分を律しようって誓いあったよね? キアンもトアンも。
そう言われて、キアンはキアン自身の体を殺したのだ。
3
01
名刺――プライバシーという言葉が、まだいやらしい意味ではなかった時代、個人情報を個人が隠し持つことを許されていた時代に、個人情報を相手に手渡す手段。
友達になった私とキアンに、ミァハはそれを渡してくれた。
インターポールりイアン・ヴァシロフも、初対面の私に名刺で自己紹介した。
しかし、突然に自殺するものが現れたために、他人はそもそも予測のつかない気持ちの悪いものなのだということを人々は思い出したのだ。
ヴァシロフが調査しているのは、WatchMeを介して人体に不正にアクセスすることが可能な組織。
その組織は、再び人類が〈ザ・メイルストロム〉に陥らないように、人類を監視しようということを大儀銘文としている。
しかし、その組織内の、その信念に反する一派が、今回の大量自殺を引き起こしたらしい。
「一週間以内に、誰か一人を殺してください。それができない人には死んでもらいます」
02
ミァハが、大量自殺と宣言によって作った混乱。
そして、生府が醸し出す、息苦しい空気。
それらについて思いを巡らせているうちに、「医療のドバイ」、バグダッドにつく。
そのころ、世界で、宣言に促された他殺、宣言から逃れるための自殺が頻発する。
03
彼女曰く、
「人間の価値判断は、指数的な合理性ではなく、双曲線的な非合理性。合理性と非合理性の争いが、意識である」
04
私のホテルの部屋に、ARではない、紙の書き置きがある。
「アブー・ヌワース。ARなし、盗聴なしで」
アブー・ヌワースの人々は、WatchMeを人体に入れておらず、様々な病気にかかり、早死にする。
アブー・ヌワースの食事は、生府に管理された世界のそれと違って、カロリーもカフェインもアルコールもハレンチなほど。
そのアブー・ヌワースに、父ヌァザがいた。彼が渡しに書き置きしたのだ。
05
父は、ミァハの死後に、研究に没頭するために、私と母を残して家から去ったのだった。
その父と、バグダッドで再会する。
父の研究は、ヴァシロフが調査する組織で行われていた。父は組織の一員だった。
組織が人間の意識を保持する能力を保持しているのは、再びザ・メイルストロムのようなことが起きたときに備えてのことだった。
組織の上層――ザ・メイルストロムを生き延びた老人が望んだ世界。それをミァハは唾棄した。
当時、多くの子供たちがミァハと同じように自分の体を傷つけるようなやり方で自殺を試みていた。この「優しい」社会のストレスの限界にいる子供たち。それは、利ソース意識にあふれたこの社会の、対処するべき社会問題だった。彼らですらコントロールできるように、父らの組織はシステムを組もうとしていた。
キアンの告発によって辛くも生き残ったミァハは、自殺性向のある子供として、組織のモルモットになっていた。
『ハーモニープログラム』。それには、老人たちですら二の足を踏むような重篤な副作用があった。
06
意識が消滅するのはハーモニープログラムを実行すると、人間の非合理性が合理性と迎合し、葛藤がなくなるため。
結局、プログラムは人類に実装されてはいるものの、第二のメイルストロムまでは実行されないものとする。そういう折衷案を老人はとった。
「しかし、なぜミァハはそれを実行しようとしているの」と私は問う。
「ミァハの意識は、戦争の渦中、自殺を行うために後天的に獲得されたものだ。そして――」
父の説明の途中で。ヴァシロフが現れる。
ヴァシロフはインターポールとしてではなく、組織の一員としての仕事をこなすために現れた。彼は、組織の中でも、父と対立するミァハ派の一員だった。
父は主流派のリーダー格。主流派の結束力を弱めるため、ヴァシロフは父をねらっていた。父がでてくる好機を作り出そうと、娘の私を泳がせていたのだ。
ヴァシロフらミァハ派の目的は、人類を正しい調和へと導くこと。
ヴァシロフは私の銃弾を食らい、父は私をかばってヴァシロフの銃弾を食らう。二人とも死ぬ。
死の間際、ヴァシロフは、ミァハがチェチェンにいると私に告げる。ミァハの生まれ故郷に。チェチェンの、〈対ロシア自由戦線〉に。
4
01
高校時代の回想。
ミァハは、「私は前、こことは別の権力に従わされてた。地獄だった。向こうにいたら、銃で殺される。
でも、こちらがわにいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね」と。
ミァハの宣言により、世界の各地で殺戮、自殺、心中が頻発している。
わたしはシュタウフェンベルクに、これまでの捜査経過を報告したい。
しかし、どこまで情報をつかんでいるかを組織にスパイされないために、セッションをシュタウフェンベルクとの二人きりに切り替える。
と、シュタウフェンベルクは彼女自身が組織の一員なのだと明かす。
ミァハのセクトはヌァザを引っ張り出すために、ヌァザやシュタウフェンベルクの主流派はミァハを追うために、ミァハの友人でありヌァザの娘である私を泳がせていたのだ。
私が自由に行動できいていたのは、「失敗」を利用できていたからではなかったのだ。
シュタウフェンベルクら主流派はミァハと接触し、どうして人々を自殺させているのかを聞き出したかった。
02
チェチェンのウーヴェと会う。
ウーヴェは、ミァハがいるはずの〈対ロシア自由戦線〉との人脈を持つ。
ウーヴェは、私と同じようにも「優しい」社会に息苦しさを感じ、そこから逃げ出すために螺旋監察官になった男だった。
ウーヴェが呼び出した現地の少年、〈対ロシア自由戦線〉のメッセンジャーに、私は「紙」を渡す。
一人で、ARの通じない山を登れ、と。
03
「優しい」社会では感じられない、身体の不自由さを意識させられながら山を上る。
進化のつぎはぎでしかない身体を意識させられる。そして、私の感情も、私が私であるという思いこみも、進化の結果でしかないのた。
バンカーの中、ミァハと再会する。
ミァハが私に会おうと決めたのは、少年が持ってきた「紙」が、かつてミァハが私にくれた「名刺」だったから。
「ミァハが自殺に追いこんだ人たち、それに、父さんとキアン。誰も死ななくてよかった」と私。
「そう。死んでいい人なんていなかった。そして、これ以上死人を出すわけにはいかない。でも、こうでもしないと老人たちはボタンを押そうとしない。
04
高校時代、ミァハの自殺の直前、彼女の持ち物の本を火葬した、それを私が手伝った思い出。
私たち三人の死が、世界に対する一撃になるはずだった。
〈物語のコア〉
ミァハは、
「私の意識は、ここの、チェチェンのバンカーで、性的暴力という人間の野蛮によって生み出された。
でも、人類が持っているはずの野蛮を押さえつけようとする「優しい」社会では、人間が壊れていく。自殺していく。
私は世界の人々を愛している。この世界に、人々がなじめずに死んでいくのなら、彼らは生きるために、人間という意識であることを突破しなければならない。意識という、進化上のその場しのぎの機能を取り払って生きなければならない。
……組織の老人たちは、『意識の停止』を死と同義と受け取った。だから、ボタンを押そうとしない。私の民族のように、意識のない存在だっているのに。
それでも、世界がめちゃくちゃになりそうになったら、老人たちは意識の消滅、ハーモニクスのボタンを押すはず。
私は、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界を作ろうとしたの」
〈/物語コア〉
私は、
「ミァハは戻りたかったんだ、意識のない風景に。……じゃあ、それを奪うことは、父さんやキアンを奪われたことに対する、ささやかな復讐になるかな。
だけど、それをあなたには与えない」
epilogue
うん。でも左翼呼ばわりされても、なお「俺は中立だ」って言わないのは、それこそ左端で世の中のバランスとってる俺はバランサーなのだと思っているっぽいのかな、と。
うーん、結局同じ穴の狢か。
これが「少々動揺してるだけ」って頭オカシイだろお前w
でもお前だけじゃなく結構居るよ、頭オカシイ奴。
習慣的にそれを繰り返すうちにナンセンスなほどメクラじみた反応が染み付いた人、これが結構いる。
元々この手の人達の動機って、
相対主義と言うか
「世間はヒステリックに騒ぐから、それより賢い私達のとるべき反応は~」
っていう視点だったんだろうと思う。
あとは、問題性を指摘することが誰かの欠点や失点の指摘に繋がりかねない場合に
「世間は安易に差別性を含んだ声を上げるから、それより賢い私達は~」
ってなる。
政治や外交で言えば、ちょっと周辺国家が野心的なこと仕掛けてきた時に
明らかに喧嘩売られてる、もしくは観測気球を上げられてる場合でも、
「相手はそんなつもりはない、過剰反応はよくない」ということを決まり文句のように言う。
これを見て「売国奴」「スパイ」「花畑」って罵る声がよく出るけどそうじゃなくって