はてなキーワード: LADYBABYとは
一連のZOCの騒動、大森さんの「ルッキズムが才能に勝つのが許せない、本当に悔しい」というインスタでの発言が引っ掛かった。
不透明なすべての事実において真偽のほどがどうであれ、大森さんの根底にあるのは"才能で許されたい"という感情なのではないだろうか。
絶対彼女から大森さんを眺めている1リスナーとしては、彼女は直情的に音楽をつくっている人間に他ならないと思うし、今回の騒動において「大森靖子はプロデューサーをやるならもっと大人になるべきだった/完全に外になるべきだった」みたいな意見を見たけど、これはまったくの的外れだと思う。
これは仮説だけど、彼女はアイドルをやりたかった。アイドルという年齢とルッキズムがものを言うクソクソ構造の中で、ちゃんと支持されて、自分も納得のいくものができる構造。楽曲作りのセンスと、限られたスパン内でアウトプットしていくためのアレンジャーの人選。ZOCの楽曲(特に「断捨離彼氏」「SHINEMAGIC」あたり)の歌割りから楽曲としてのキメの巧みさ、各メンバーに振られたソロ曲の的確さを見ても、コンポーザーとしての大森靖子は完璧だったと思う。
だから外に回ればよかったじゃん、って話かもしれないが、そうはいかない。プロデューサーというのは冷静に全体を俯瞰しなければならないし、たぶんチーフの役割は彼女に向かない。お飾りに徹することができればいいが、おそらく彼女は自我が強すぎた。またはスタッフが役不足だったか。大森さんのことは好きだけど、今回はちょっと擁護しかねる。
ただ、そもそもZOCの良さは、メンバーのクセの強さとリスナーを離さない楽曲の強さだとも思っていて。戦慄もかてぃも人気あるけど、音楽と衣装はただの可愛さを強化する。アイドルはそこがすごいんだ。大森さんは自身が生粋のドルオタで、かつ自分のグループであるからこそ、余計に渾身の曲が作れたんじゃないかなって。当事者意識って大事だよやっぱり。自分も人に楽曲提供とかするけど、自分が歌う曲へのモチベーションって違うもの。
だから大森さんはZOCのメンバーである必要があった(それに、単純に楽曲を聴いていても、声質的に大森さんがアクセントになっていて明らかに上手い。アイドルソング結構聴くけど、でんぱでいうえいたその歌のうまさみたいな、声のバランサーとしての役割も絶大だよね。LADYBABYとか曲云々以前に声が厳しかったとこあるもん)。でもメンバーって言ってもさ、こんだけプロダクションに携わっている人間がいたら同じ立場で接するとか無理だよね。そういうの気にしなそうな子たちだけど、年齢差もあるし。昔、自分もバンド内の格差で揉めたことが何回かある。やっぱりソングライターと、それ以外には圧倒的に差が生まれる。そしてそれは人気と比例しない。
騒動のコメントなどを全部チェックしたわけじゃないけど、きっと私が見た以上に誹謗中傷と賛美の両極端が飛び交っているんだろうな。そして大森さんは戦慄派の「かなののがかわいいから」「おばさん」「ブス」などのコメントに、改めて傷ついたんじゃなかろうか。ミスiDとかゴリゴリに逆説的な搾取構造で正直ウケるけど、それでも若さとか、ルッキズムとかを許したくてZOCをやっているのに、彼女自身が「才能によってアイドルとして互角に扱われている」と感じていたメンバーと差を付けられることに、耐えられなかったんじゃないのか。
私自身はそう思う。キチガイアが出た時、この人は本当に愛であり、肯定の歌をうたう人だと感動した。過激な側面も肯定したいがための不器用さだと信じた。いまもそう思っている。
でも、だからこそ、その繊細さで、ギリギリのバランスが重なって奇跡的に生まれたZOCが、こんな形で活動休止になってしまったことが悲しい。
同じことの繰り返しになってほしくないけど、大森さんの音楽の作り方と渇望される構造がある限り、女の子たち(とそのファン)は何度も消費され、互いに本気で傷つけ合い、それで病的にお金が動いてくんだろうな。