はてなキーワード: 血道とは
ストリートファイター2の発売に世間が沸いていた頃、あるアメリカ製の格闘ゲームが発売されたんだ。
スト2と同じ8人のキャラクターから一人を選んで戦うのだが、外見が違うだけで使う技は全員同じだった。
「みんな同じ技とかないわー。いくら何でも何か違いがあるはずだろ?隠しコマンドでそれぞれちがう超必殺技が出せるとか、なんかあるんじゃねーの?」
と思ったがインストラクションカードにも何も無く、初見プレイでそんなものわかる訳もなく、なんとも消化不良な思いでそのゲームを後にした。
後日判明した情報で分かったのだが、対戦に勝利した後でそれぞれのキャラクター特定のコマンドを入れると
「凍らした敵を粉々!」
みたいな残酷な殺し方が出来たんだそうな。
ちなみにゲームの名前は「モーたるコンバット」と言いまして、今でも続編が作られる人気ゲームです。
だけどゲームの一番のキモの部分じゃん?キャラの違いって!その違いが単に殺し方にしかないって、ホントマジ何なのキミタチ?って思った。
どうせ「人間に違いなんて無いんですよーだからすべての技は平等なんですよー」みたいなおためごかしで個性のないキャラ8人作っといて
「すんご~い残酷な技入れといたけど、出すのは隠しコマンドですからね?あなたの意志でこの残酷な技を出してるんですよ?我々製作者とは関係ないですよ?」みたいなやり口が、いかにもポリコレ回避に血道をあげるアメリカ人らしくて呆れつつ感心したもんです。
ええ? 所帯持ちなんか、お父さんのお小遣いが5千円とか、高校生以下の生活させられて、業者からのバックマージンとか付け届けとか、接待だけに血道を上げて、娘も息子も父親のことが大嫌いで今すぐ死ぬように思われていて、女房はいつも通り検索ワードに「亭主死ね」「旦那死ね」「旦那、安全に殺す方法」「毒殺」ばっかりだし、良い事なんか一つも無いだろうに。
浮気女房は旦那の稼ぎが悪いだとか、面白みがないクズでゴミでカスだとか言い出して、自称社長の麻薬の売人とか遊び人に薬打たれて狂って、新しい男に旦那の財産とか親から相続した金まで貢ぎまくって、子供のDNA検査したら、大きくなるまで育てた子供、誰一人自分の子じゃないとかの地獄人生、バレたらバレたで「お前みたいなキモイ禿、私の手料理食べられて幸せだったろう、4回しか体許してないけど、こんな美人と結婚できて抱けて嬉しかったせだっただろう」とか言い出して、離婚すれば自分が半分財産貰えると思い込んでいて、自分が今までの養育費全額返済して、財産譲渡一切無しで慰謝料払って追い出されると気が付いたら「愛してる、貴方だけなの」とか平気で言いだすクズでカスで頭おかしい間抜けばっかりなのに、結婚して幸せなことなんか一切ない。
今独り身だけど最高だよ! 誰にも煩わされないで生活できて、トイレを占領されて嫌がらせされることも無いし、食事に毒物、汚物、虫、危険物入れられないし、最高。
早期リタイヤして、海が好きなら海沿いに移動、山が好きなら山に。腐った田舎で村社会だったら一人だから即移動。今の住居残して移動しまくって、気に入ったら引っ越し、エンジョ~~イ!
田舎の(保育激戦区ではない地域の)保育園だと自営業という名の実質専業主婦(家業あるけど自分は関わってないとか)でも預けてる人が山ほどいるし、
仕事してても休みの日も預けるのは当然、短時間パートでも仕事終わったら即迎えに行く事もなく預けられるだけ預けるのが当たり前だよ。
「仕事がなければ手元に置いておきたい」親なんか少数派。預けられるものなら出来るだけ長く預けたい親の方が圧倒的に多い。
田舎の少人数の価値観で語られても。東京で働いてるお母さんはいかに残業せずに子供との時間を増やすかに血道上げて努力してるよ。個人の観測範囲ですけどね。
書いてから消す人か。
残業しないのは子供との時間を増やしたいんじゃなくて、残業しなくてもただでさえ帰りが遅いからそれ以上遅くなると迎えが間に合わないとか
流石に帰宅までが遅くなり過ぎる(田舎と違って家遠いからね)という理由でしょ。
だから「夫ばかりが残業し放題なのは不公平!私も夫に子供任せて残業したい!!」って人多いよね。はてなでもよく見る。
皆育児より残業したがってる、というのが共通の前提だからそういう言説が生まれるわけで。
夫は夫で帰宅恐怖症とか言ってるし。
最近目にする風潮として「コンビニの支払いは現金ではなくクレカや電子マネーで行うべし」というものがある。
現金派がもたもたしているから電子マネー派は待たされるのだ迷惑なのだと罵る輩もいる。
しかし考えてみてほしい。
コンビニのレジ業務においてボトルネックになっているのはどう考えても公共料金の支払いやホットスナックの注文である。
あとスピードくじな。あれはひどい。
袋詰めにしたってよっぽど商品が少なくなければ支払いよりは時間がかかる。
というかたいていは袋詰めのあいだに金銭を選び終わっているので時間がかかるのはお釣りの受け取りだけである。
電子マネーよりは遅いだろうがせいぜい数秒。
電子マネー派はスピードくじ撲滅に血道を上げたほうが良いのではないか。
個人的に電子マネーに文句を言いたいのは、声で種類を伝えないと利用できないことである。
俺はできるかぎりコンビニで声を出したくない。
早く接触だけで電子マネーの種類を判別できるようになってくれ。
そうしたらもっと利用してやらんこともない。
なんだか格差が凄いとかなんとか言われてるし、上級国民だのなんたらかんたらと言葉が出て来て久しいが、リア充エリートや上級国民がグループで固まってるなんての本当にあるんだろうか?
まだ上京して1年もたってないが、いろいろと見て回ったりいろんな人や集まりに顔を出しては見たが、リア充といっても、俺よりお金に困ってて、それでもやりくりしてお互いが支え合ってるという形でリア充グループを形成しているのがすべてだったし、エリートの集いに、おそ松さんのトド松戦法で一度潜り込んだことがあるけど、みんなキャリアや仕事のプレッシャー、それにやっぱりお金の面で苦労していて、遊ぶ時間もあんまりないし、20代や30代前半なのに、医者にかかってるようなくらい身体やストレスの疾患が結構な割合であるような人たちが多かった。
金持ちしかやらないようなスポーツを、割と学生時代親が元選手だから、ちょっとだけしてて、また余裕ができたから再開してそういうところにいったこともあるが
確かに金持ちだったり企業経営者だったり、早慶だとかそんなOB同士で繋がって集まってるって人達も見たが、彼等だって、物凄いプレッシャーで幸せそうとか余裕そうに見えなかった
詳しくは知らないが、会社の経営というのは本当に上手くいってても一歩間違えば翌月にはヘタすりゃ即倒産で、自己破産もなんかよくわからんが難しく、首を吊るしかないというような制度の中でやっているそうで、だから、慶応閥?なんたら会?というので繋がり合って安否を確認しあわないといけない一種の保険のようなものになっているらしい。
自分もお金あんまり持ってないし、日々を過ごすのにいっぱいいっぱいだが、それ以上に、ネット上で恵まれてて悠々自適っていう人たちですら、それ以上に大変なんだな、と思う
で、思ったんだけど、ネットで言われてるハーレムラノベとか、見てるだけで知能指数が30は下がりそうなラブコメアニメみたいなリア充エリートっぽい集まりとか
ネットでネ〇ウヨやサ〇クとかが言ってる、「税金やブラック労働の搾取で豪遊して、毎日遊び惚けて毎晩六本木や赤坂、コ〇ケあたりに進出したヤクザや半グレの女衒に集めさせたコスプレイヤーたちにエロコスさせてで乱〇パーティーしてるに違いない!!」
「それに警察は裏でヤクザや犯罪者とつながっていて、ロクに仕事もしないで税金横領するのに血道をあげてる!それを言えば不当逮捕や暗殺される!」とかネットで言われてるみたいな奴等なんて、本当に存在するのか?
色々なコミュニティを歩き回ったが、そんなもの、スパイばりに情報収集しても噂すら聞いたことがないし、存在すら影もみなかったぞ、特に警察なんて、風評被害もいいところだろ、あんなに毎日パトカーや自転車やパトロールで、汗をかきながら苦労して頑張ってるおまわりさんたちの姿を見たら、そんなことをネットで喚くネトウヨやブサヨの奴等に自分は腹すら立ってるレベルで違和感を覚えたぞ
というかこれってひょっとして、日本全体が金持ちから自分みたいな下の中くらいの人間すべてに至るまで、じり貧で貧乏化してるだけなんじゃないのか?
もしそんなの見たことやうわさがあるってんなら教えてくれよ、マジで、俺は東京に来て警察官に職質受けて不当逮捕されたことなんて一度もないし、満員電車に揺られて仕事してるが、痴漢冤罪で稼ぐ悪女なんて一人も見たことないし、そもそも遭遇したことすらないし、絵にかいたような悪徳上級国民や汚職官僚なんて、存在の噂すら探しても一切見かけなかったんだが
あくまでタイプカバーのバリエーションの一つとしての希望である。オプションで構わない。
理由は以下に集約される。
だいたいからして最近のノートPCは薄すぎる。特段モデル名をあげなくても理解してもらえると思うが、「打鍵感が向上した」「入力に問題はない」と評されるそれらのモデルは「我慢できる」という意味であって、決して「入力していて気持ちが良い」ということではないんだよ分かってくれ。メーカーは消費者のニーズが「薄さ」ただその一点にあると確信してるように見える。開発競争に血道を上げるうちに、ついに打鍵感まで犠牲にするようになってしまった。ユーザーは酷い我慢を強いられていて、モデルチェンジごとに浅くなっていくキーストローク、底づきの硬さ、指先の苦痛を我慢するため修行僧よろしく新打鍵スタイルを模索するようにまでなってしまった。厚ぼったくても良い、重くても良いから、頼むからキーボードは犠牲にしないでくれ。そう思っている同志達がいると私は強く確信している。
さて、ここで考えうる『こだわりキーボードカバー』を紹介しよう。現行タイプカバーは約300g、これらのモデルは200g増えて約500gとなる。本体と合わせれば約1.2kgで厚くなるが、至高の入力環境を提供する。
http://japanese.engadget.com/2014/02/11/grannote-3mm-3/
横幅もちょうどあうサイズであり、Type-Sではキーストロークの調整が入っているためノウハウを転用すればタイプカバーへの搭載も夢ではない。
http://www.4gamer.net/games/118/G011863/20141101006/
あなたに確信して欲しいのは、これらは物理的に可能であって夢ではないということである。ロット数はあまり出ないだろうから単色、最悪の場合英字配列のみになる可能性もあるが、天下のSurfaceであれば1オプションとして絶対に提供可能であるということである。打鍵感の良いノートPCへ回帰して、タイパーを至福の環境へと誘う。実現のため、我々は薄いキーボードにNO!と言わなければならない時期に来ている。
hate_flag NHKの報道は雑すぎだろ。頭から落ちたのか足から着水したのか腹を盛大に打ったのか、それとも菅の四肢がバラバラになって着水したのか詳細に報道しろよ
リンク2017/05/29 Add Startoulezure (red)toulezure (green)a23556blackfox3377
http://b.hatena.ne.jp/entry/339239100/comment/hate_flag
日頃から反自民に血道上げてるidがこのコメントで他意はないとか無理でしょ
☆付けてるひとらも
「表現の自由をおびやかすような研究内容を認めていいの?→ふだんは戦う民主主義なんて鼻で笑ってたのに、どうしちゃったんですか?」プロ市市民並に政治活動する人間しか抗議の権利はないのか。知らなかったな!
元増田ではないけど、こんな斜め上のブコメが出てきたのに心底驚いたというか、ギャグで言ってるんでないなら寒すぎだな(これに星つけてるバカも含め)。
こいつから見た「プロ市民」とやらはさぞかしつまらないことに血道を上げているように見えるんだろうが、BL小説の表現の自由を守れなんて主張は「プロ市民の政治活動」と全く等価の主張だってことが皆目見当もつかないらしい。
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
なんだぁ? 読めねーのがタカってんなぁ。w
俺はこの元増田が創作かどうかなんてどーだっていいし語るつもりもねぇぞ?
そういう事実があるのに「出来過ぎだ」っつった奴を一概に責められんのかって話をしてんだよ。
ついでに言うと
じゃねぇよ。
だ。
ダブルミーニングだからこの部分の文意解釈的には俺が悪いが、「運営が書いてるって話を増田で見た」んじゃねぇからな?w ランサーズだかなんだかのライター募集の登録制サイトで、はてな近辺の記事やブログ、コメント、Fav、ブクマなんかをする仕事があったって話を個人的にtwitterで見たんだよ。だから俺のフォロワーがデタラメ書いたんなら事実じゃねーかもな。尤も、俺はどっちでも構わないものとして書き捨ててるが。
いいか? もう一度だけ書いておく。
俺は元増田が創作かどうかは認定も判定していないし、それがどうだとも言っていない。
http://anond.hatelabo.jp/20170209010308
古い記事に反応しても見られない気もするが、まあ民営化30年記念で書いておく。
まず、競争起きまくってる。なんで京阪神にしか目が行ってないのかが疑問(京阪神に住んでて、他の地区のことに興味が無いのか?)だが、例えば豊橋-名古屋-岐阜での東海と名鉄の熾烈な争いとか、福岡での九州と西鉄の争いとか、私鉄との争いは激しい。それと、航空機やバス(そして何より自家用車)との競争がある。バスとの競争という考えがないの、いかにも都会の人間(都会ではバスは補助輸送機関だしな)という感じだが、地方ではバスはかなり強い。JR北海道が一時期特急のスピードアップに血道を上げていたのは、そうしないと高速バスとの競争で優位に立ちようがなかったからだし、この前廃止された留萌線の留萌-増毛間は沿岸バスとの競争で完全に負けてた。留萌-増毛、JRが勝ってたのは運賃が数十円安いことだけで、本数や所要時間、停車位置(駅があるのは町外れ、バスは高校や病院の目の前まで行く)などその他の全てでバスが勝ってた。増毛町も、町の高校生が留萌の高校まで通うのにはバスのほうを推奨(バスの定期買うと町が半額補助してくれる)してたくらいだ。特に停車位置の問題ってのはすごいデカい。「お前はお年寄りを駅から病院まで数km歩かせるのか?」という話だからな。
あと、そういう外部以外での競争もある。例えば国鉄はエンジン技術が凄まじく低かった(現代の目から見てではなく、当時の海外メーカーや国内のトラック用エンジンメーカーと比べて。重さの割に出力弱い上に排ガスがひどく、しかも出力全開にすると排気管のオーバーヒートで出火しやすいという安全上の問題まであった)にもかかわらず内製にこだわり続けてたが、民営化したらカミンズ社(アメリカ)のエンジンとかを導入するようになった。これによって非電化ローカル線(特に東日本管内)は随分スピードアップした(国鉄時代の時刻表とJRの時刻表を見比べてみると分かる。というか、こういうふうに、民営化でどう変わったかをちゃんと調べてみたことある?)
しかしこの辺はハッキリ言って瑣末なことだ。根本的なのはこっちだ。
>あれから30年経ち、支線はほとんどが廃線になったり、第三セクターになったり、代行バスになったりで地方は青息吐息である。
赤字ローカル線を廃止(三セク移管も含む)しまくっていたのは国鉄の方。JRになってからは、廃止は圧倒的に抑制された。Wikipediaあたりでいいから、いっぺん国鉄・JRの廃止路線の廃止年月日を調べてみるといい(なお、民営化直後87~90年の廃止路線は、三セク会社の設立や代行バスの準備の都合で民営化後まで実施がずれ込んだもので、廃止を決定したのは国鉄)。
国鉄のローカル線廃止基準は「輸送密度(1日1km当たりの利用客数)4000以下」(例外規定がいろいろあり、2000~4000くらいのはあまり廃止にならなかったが)。それに対しJR北海道がこの前廃止を発表したのは「輸送密度200以下」だ。時代の変化などを差し引いても比べ物にならないくらいJRの方がローカル線の廃止に消極的なの。国鉄なら5秒くらいで廃止してた路線をJR北海道(他のJR各社もそう変わらん)はここまで維持してきたの。
お前さんたぶん、市場原理とか新自由主義とかが嫌い(まあ俺も嫌いだが。俺は、地方ではバスのほうが鉄道より交通弱者に優しい場合が多いから、鉄道に使う公金をバスに突っ込むべきと思ってるだけだ。あと介護タクシー・福祉タクシーな。「地方の交通弱者のことを考えて~」みたいなことを言って介護タクシーのかの字が出ない奴、何考えてるんだ?)で、「市場原理なんだから地方(弱者)を切り捨てたに決まってる」と思い込んで、民営化でどう変化したのかとかをきちんと文献やデータにあたって調べる手間をかけようと思わなかっただろ。お前さんはただ単に、新自由主義者よりもさらに地方のことを考えてないというだけだよ。
国鉄時代は「工作局」という内部部署製のエンジンにこだわってた。分割民営化されたら東海が「これでもう俺たちは中央(工作局)から自由だぜ」と言わんばかりに速攻で公開コンペ始めてカミンズを採用し、他社もそれに続いた。北海道だけは国鉄エンジンの換装にそこまで積極的じゃなかったが、そしたらこの前燃えて特急の間引き運転することになった(国鉄エンジンをいまだに使ってる車両を使用停止にしたら車両が足りなくなったため)のは記憶に新しい通り。国鉄のままでもいきなり工作局が干されて公開コンペが行われるようになってた可能性が0%とは言わないけど、まあ分割ないと難しかったのでは。一組織だとどうしても中央の意向が強くなりすぎるので。
70年ごろの「赤字83線」でも結構廃止されてるし(角栄が首相になったために途中でストップかけられたが)、水害で不通になったらわずか1ヶ月後に即廃止(ひどい)の柚木線とかもあるじゃん。だいたい、国鉄は「政治の道具」にならなければ廃止しなかったんだから、自分の意志で廃止するJRより良かった……という話にしたところで、「国鉄のままなら『事業仕分け』的な政治の道具にされてJRよりもたくさん廃止されてた可能性が高いですね。民営化してよかったですね」ということになっちゃうのでは……? 国鉄のままで、そういう政治の「悪い介入」を避けれたはずとするの厳しくない?
まあサンプル数が少ないので、話1/10ぐらいに取ってもらえばいいんだけど。
学校の先生といってもいろんな人がいる。絵に描いたような熱血教師もいれば変人もいて、
いろいろあって仕方なく教師になった、見るからにやる気のない先生もいて、
そういう人がまたやる気がないなりに面白い授業をしていたりもするのだが、
SFに出てくる異星人のクローン軍団なんじゃないかというぐらい、均質な異質さがある。
だいたいやる気はある。だがありすぎてはたから見ると明らかに空回りしている。
亜種として、音楽教諭じゃないのに合唱コンクールに血道を上げている先生もいて、
これも同類である。あまり興味のない奴まで無理やり巻き込もうとしていてうざかった。
それから内職を異様に敵視するのも音楽に集中していた気がする。
音楽というのは学校の中ですら副教科のうちのひとつでしかない。
ところが音楽の先生(コンクール厨含む)は、みな音楽だけが全てみたいな感じがあった。
人によっては取るに足らないものだという当然の事実が、なぜかあの人たちには通用しない。
「女性が多いからか?」と性差別的な考えが一瞬頭をよぎったが、たぶんそれだけでもない。
俺は成人して就職してしばらく頑張ってたんだけど、
ある時二次障害を発症して家を出られませんみたいな状況に陥ってから、治療の過程で色々検査をしてADHDとアスペを併発していますねと診断された。
それ自体は、ああ、やっぱり俺はおかしかったのか。と割と素直に受け止めて、それならそれで親からもらった顔や体の特徴みたいなものだし、
そこでゴネても何も変わらないからあるもので何とかやっていかないと仕方ないよねと考えて、自分でも症状について調べたり、自分用の対策を考えて試したりするようにしている。
まあ、うまくハマる方法を見つけるまでは劇的に変化があったりはなかなかしないし、いい変化があってもそれを継続するのは難しいので、
なんだかんだと仕事をクビになりそうだったりならなさそうだったりしながらどうにか日々を凌いでいる感じだ。
ともあれ、自分でも色々と情報を探していたわけだけれど、診断された当初は、とりあえず最近話題の成人の発達障害だとか、発達障害そのものの記述ばかり読んでいた。
本も数冊読んだけれど、ネットの方がやっぱり手軽なので手の空いたときにふらふらと検索している。
そして最近になって、発達障害児関連の情報に割と有用なものが多いことに気付いた。
最初は内心「そうは言っても、もう俺成人してるしな……」と思いつつ読んでいたのだけれど、
「こういう部分が理解しづらくてつまづくことがあるので、その場合はこうやって教えていくと理解しやすいかも」といった記述を読んで、
そういうことだったの!?それでいいの!?と驚いたり腑に落ちたりすることが、とても多かったのだ。
そこには、幼少期にいくら言い聞かせられても、なぜそうしなければならないのかピンとこなかったようなことについて、
「それならそうと初めから言ってくれればよかったのにー」と言いたくなるような、すんなりと頭に入ってきて自然に受け止められる言葉の数々が並んでいた。
このことから考えると、どうやら自分の発達レベルが幼児レベルで早々につまづいていて、
なんとなく腑に落ちないまま表面上だけ誤魔化してきたけど、実際の理解はそのままそこで止まっていたということらしい。
30歳近くなって、自分の発達レベルがところどころ幼児レベルだと思い知らされるのは正直なかなかクるものがあるが、現実なんだから仕方ない。
というか、いくつかの情報を得たときの目の前のモヤが晴れていくような感覚がショックすぎたので、60や70になる前に気付いただけいいじゃないかと開き直って考えている。
この調子で目から鱗がボロボロ落ちていくようだと、俺は自分でも気付いてないだけでまだまだたくさん取りこぼしてきているのだろう。
現在直面している不都合の直接的な解決策ではないけれど、そういった問題が起こる根本の原因として、
どうやら自分はここでつまづいていたようだ、ということが段々わかってくるので随分と助かっている。
というわけで、似た様な状況で、なんとかしたいなーと「発達障害 成人」とかでググってみても「あー、あるある」以上のものがあまりみつからない人は、
発達障害児向けの療育の事例について具体的に書いている記事に触れてみると、俺のように思いがけない発見があるかもしれない。
それにしても、何度かあった療育を受けるチャンスを、親が「ウチの子はまだマシでそこまでする必要はない」と判断せずにいれば、
人生のもっと早い段階でこういったことに気付けて習得できていたかもしれないなというのは、少しだけ口惜しい。
(追記)
でも誘導とかしたいわけじゃないし、既に長いし、というか正直ちょっと恥ずかしいし……と思っていたのだけれど、
ブコメでも例がないとイメージしづらいという指摘をもらったので、やっぱり一番強烈だったやつを一つだけ追記しておく。
「衝動性が強くルールが守れない子にルールを守る大切さを理解させるには、
衝動を抑えてルールを守ることが、結果的に自分の利益になる。と利益を強調して伝えてみます。」
こんな一文を読んで、誇張ではなく涙があふれてきた。
うわー!なるほど!なるほど!!確かに考えてみれば利益になる!なってる!うわぁ!そう言われるとめっちゃルール守りたい!!もうルール守る!俺がんばる!!
と泣きながら机をバンバン叩きそうになったけど、夜中だったからハッとなって机を叩くのをギリギリで我慢した。
先生、俺衝動を抑えられたよ……!こうすることで階下の住人からヘイトを集めることが回避できるんだね……!不利益を受けないという利益を!!
いい年したおっさんが何言ってんだとか、そう考えないとルールも守れないのかよ……と引かれるかもしれないが、
俺のようなタイプは本当に「こんなレベルのこと」が「わかってない」まま大人になってしまっている可能性があるのだ、恐ろしいことに。
それまで自分にとって法律も含めた他者との間のルールというものは、
「なぜか押し付けられて守らないとやたら怒られるから、しょうがないのでよくわかんないけどなるべく守っとくもの」
でしかなくて、言ってしまえばなにかと我慢を強いられる障害であり敵だった。
ああしろこうしろ。あれはするなこれはするな。本当に窮屈で仕方ない。世紀末はよこい。でも、ルールは別に敵じゃなかった。
(中には完全に制約をかける側だけに有利で、制約を受ける側にとって純粋に"敵"なルールも世の中にあるとは思うけど、そういう力関係の不平等さえなければキレてよさそうな案件は一旦おいておく。)
「とにかくルールを守れ!」「ルールとはそういうものだ!」「みんな守っている!」「なぜルールを守れないんだ!」
(怒鳴られる度に、思い出せませんでした!とか、守る意味がわからないからです!と正直に返事をしていたのはいつだったか……)
というようなことだけを何度も何度も言われたから、まあ世の中的にはそんなものなんかな?よくわかんねーな。みんな我慢して守ってるのすげーな、謎だわー。とだけ思って、
なんだったらルール違反を咎められない範囲でギリギリを突いたり、想定外のことをするのに血道を上げる感じで生きてきた。
そうやって、ルールや制約によって我慢を強いられるストレスと、ルールを守れなかった時の不利益ばかりに注目していたけれど、
ルールを守ることで自分にどんないい影響があるかとか、ルールを守ることで何らかのメリットが享受できるとか、そんな視点では一度も考えたことがなかったことにこの一文で気付かされた。
そうか、ルールはルールだから守るとかじゃなくて、内心自分のためってモチベーションでも、ルールを守っていいんだ!!
翌日から俺は、自分の意志に反することをルールに強制されたときに、そのルールを守ることのメリットについて考えられるようになった。
増田さんは恋愛をしたいのではなく、恋愛ができる人間になりたいのではないでしょうか。
本当は一人でいたいのではなりませんか?
でも恋愛しないと普通に見られないという世間からの視線を過剰に気にしている。
ここのコメには、もっと頑張れ、ああしろ、こうしろそうすれば彼女なんてすぐできるなどと上から目線で指導して、でも甚だいい加減な言説を振りまいて悦に入っている。さらに増田さんを再び恋愛戦争に放りこもうとしている。
これは酷いいじめに遭って「もう死のう」とまで思いつめている子に、がんばれ逃げるなと無責任なこと言っていじめっ子のいる学校に押し戻そうという非道な行為と一緒だ。
増田さん、恋愛をしないと半人前みたいな世間の流言など真に受けてはいけません。
恋愛をしないと半人前みたいな間違ったプロパガンダなど信じてはいけません。
江戸時代中期の江戸の男性の約50%は一生恋愛も結婚もできなかったそうです。
紹介されたらそのまま結婚まで一直線。
他の男に目移りするのはふしだらとされていた。また今みたいなイケメンブームもなかった。目の前の男性が正当に評価される環境だったので男が無慈悲に振られるケースはまれだった。
女の男を見る目が厳しくなった。
トレンディドラマや雑誌が「素敵な恋愛」という毒々しいライフスタイルの幻想をばらまいたからです。
恋愛対象はイケメン以外ありえないという間違った恋愛観が世に広まり、嘘にまみれた胸キュンドラマ映画によって胸焦がす恋愛ができないのは欠陥人生などという誤った認識が一般化された。
好きな相手と恋愛するなんてふしだらでインモラルな逸脱行為だった。
恋愛上手な男なんて30年くらい前だったら女の尻ばかり追いかける色狂いの遊び人と批難されたの。
一生童貞でもいいじゃない。
おそらく一生独身であろうルパン三世もドラゴンボールの亀仙人も不幸に見えない。むしろカッコイイ。彼らが恋愛始めたらキャラ死んじゃうよ。
愛だの恋だのと血道をあげるのはやめようぜ、ということだ。みんながみんな、死んでもいいような怒濤の恋愛なんかしてるわけじゃないし、できるわけでもない。それなのにテレビドラマや歌謡曲、映画にロックに漫画に女性誌に中年向け新聞連載小説まで、ありとあらゆるメディアが総動員されて、そういう恋愛がだれにでも可能で、それどころかそれをしないやつは人生の敗北者で、それを体験しないやつは人生をフルに生きていなくて、愛あるセックスをするとアダルトビデオみたいなすげーセックスができるかのようなプロパガンダが流されているけれど、でもそんなのウソだし、おかげでいろんな人が劣等感に悩まされて、「本当の」愛とかを探して無駄な時間と労力を費やしていて有害ですらある。さらにセックスや結婚にまでそういう怒濤の愛が要ることになってきて、そういう才覚のない人間はひたすら孤独に生きるしかないことになる。もちろん、恋愛できる人間はどんどんしてもらって構わない。でも、できない人はそんな無理しないでもよいではないの、ということ。
この山形氏は昨年、資本主義に対して大きな波紋を投じ議論を喚起したトマ・ピケティの「21世紀の資本」の訳者です。彼は強者だけがいい思いをする今の恋愛至上主義にも疑問を持っています。
1%のイケメン、金持ち、小賢しいチャラ男だけが社会の80%の女を手に入れる。残りの99%はわずかな20%を奪い合っている。
恋愛面でいい思いをするのは一部の恋愛富裕層だけ。実に不公平な恋愛至上主義社会。
非モテはいくら頑張ってもキモいだのまだまだ努力が足りないだの非難されるばかりで
いくら頑張っても恋愛など夢のまた夢。だったら夢のままでいいじゃない。
女は月のようなもの
空で輝いているのを薄目でぼんやり愛でていればよいのです。
なんでお互いの親に挨拶したりしなきゃならないんだよいい大人がよ。
親コミで話しなきゃならん馬鹿馬鹿しさが限度を超えているから、
よっぽど好きな相手とでもなきゃ馬鹿らしくて結婚なんてやってられねえって風潮になるんだよ。
いつまでたっても愛だの恋だの素敵だのとロマンチックな事言うから、
そりゃま、好きあって付き合って結婚するならそれが一番結構だよ。物語みたいだねおめでとう。
「好きな人と付き合う」なんて言ってたら、宝くじが当たるの待ってるのと変わらんのよ。
「相手に我慢できるなら付き合う」って辺りが現実的でしょこんなの。
もともと結婚なんて割礼と同じく社会的な儀礼であって、ロマンがあるもんじゃないんだよ。
親が出てくると一気にハードル上がるんだよ。
子供が大学行って、一人暮らし始め就職して経済的にも独立したから、影薄くなって口出しをしにくくなってた親が、
結婚の話が出てきたとたんに、存在感復活とばかりに口出して来るわけなんだよ。
おまけに結婚式で大々的に宣伝して、人生で初めて話するような神父の前で「変わらぬ愛」とか誓わなきゃならんのよ。
だからDQNはすぐに結婚できるんだよ。親とか愛とかどうでもいいから。
それが一番なんだよ。