はてなキーワード: 演出家とは
ひたすらに虚無だった。
というだけのただの愚痴です。まとめる気もない。
多分こんな状況下で座組の皆さんもかなり苦労して稽古したんだと思うし、やってくれたことには深く感謝している。
でも、虚無だった(9割主観)。
そもそも舞台というものは、観る側の協力が不可欠なコンテンツだというのはわかっている。その理論でいけばあの舞台は別段虚無ではなかったのかもしれない。
ただ私があれを受け止める気持ちになれなかっただけで。
自粛期間が続いたせいで観劇スイッチが切れていたのかもしれない。そうかもしれない。わからない。
とにかく言えることは、私はあの舞台を見ている間中虚無だったし、共感性羞恥で2時間客席で消えたくなっていたってことだ。
そんなことここでわざわざ匿名で書かなくても、と思われるかもしれない。
でも、Twitterで繋がっているファン仲間はみんな「今回の推しもやばかった!」と満足気だしとても言い出せない。
ここで言わせてくれ。頼む。あの舞台は虚無だったし、推しを差っ引いてもお金返してほしかったし、クライマックスではひたすら下を向いて何も視界に入れないようにしていた。ごめんなさい。
特に終盤の推しのセリフは虚無舞台の中でも虚無じゃなかったし、これこれ!!と、一瞬オタク(私)を生き返らせた。感情の持っていき方、抑え方、緩急のつけ方、これこれこれだよ!!!と。
よい役者さんも沢山出ていた。そういう方々に巡り会えただけでも感謝すべきなのかもしれない。
しかし、オタク(私)はまた虚無に飲み込まれていくのであった……
虚無舞台でどうにもつらいのって、舞台からにじみ出る独りよがり感なんじゃないだろうか。なんだろうな、あれ。お客さんを置いていかないでくれ。ごめんそのノリ全然ついていけない。
まず、とにかく説明が多かった。
そこは要らないから!!!!ってとこまでとことん説明する。匂わせるということを知らないのか。10を伝えるために20話してる感じ。言葉にならないからエモいという単語が生まれるのであって言葉にされると冷める。ごめん。
一事が万事そう。
10を伝えたい時に、1を徐々にいろんなところに散らばせて、最終的に7くらいまで形づくっておくのか伏線なんじゃないかと思うんだけど、今回の舞台では5と5を隣において、はい伏線!!だった。
なんなら伏線回収の時も「これ、コレとコレで!!!ほら!!!10だよ!!!10!!すごいでしょ!!!!!」の勢いだった。
みんな知ってた。
人物紹介も長い。始まってから40分くらいずっと登場人物を順に紹介してるだけじゃなかったですか??の、わりに個々の登場人物のエピソードにどうしてか説得力というか現実感がなくて愛着わかないし。
説明長いわりに人の行動は謎なとこも多いし。
なんなんだまったく。
あと申し訳ないんだけどセリフが聞き取れない。情報量が多いのに早口でがなりたてる言い方が多くてついていけない。
せめて伝えようとしてほしいし、演出は伝わるかどうか吟味してくれ、しましたかねすみません素人がこんなこと言って。
なによりつらかったのが盛り上がりの急さ。登場人物に大した愛着もわかず、話の内容にもあまりついていけていないのに、話はどんどん進んでクライマックスに近づいていく。舞台の上のキャラクター達は悲しんだり苦しんだり葛藤したりしている、らしい。
そういう表現をしていることはわかるが、なぜそこまでの気持ちになっているのか全くわからない。そして無駄に人が死ぬ。人を殺して盛り上げるな!!!頼む!!!!
人が死ぬ!(え、なんか急に人死んだ)
人が叫ぶ!(なんか大変そうだな…?)
人が苦しむ!(大変そうだな)
人が泣く!!(あ、泣いてる)
それはわかる、が、なに?
観客を泣かせたいんだな、観客を驚かせたいんだな、ということしか伝わってこなかった。本当にそれしか伝わってこなかった。
こうしたら感動的だからこうしよう、こうしたら意外性があるだろうからこうしようetc.
その意図がどこまでも伝わってきてしまって非常につらかった。ここ、共感性羞恥ポイントです。その狙い、バレてます。偉そうですみません。
狙ってるのがわかっても、その意図通りにまんまとひっかかったら清々しく泣けるし驚けるけど、下手なんや狙い方が(ゴメンなさい)。
というかあの狂言回し的立場の人は一体誰。結局もう1人のあれはなに。
なに、なにが、なんだったんだあの舞台は……
最後に、演出家で検索したらその作品が再演であったことがわかって絶望した。
嗚呼。
演劇界の窮状はわかるが下手な比喩で別の業界に例えようとして滑ってるだけと言えばそうなのだが、下手な比喩は比喩なりに発言者の考えを読み解く鍵になりえるものだ
「さらに、照明、音響のスタッフなどフリーランスの方たちの収入が極端に減っており、ここが一番、たいへんになっています。
世界中に、漫画を読むと感染するウイルスが発生したと思ってください。漫画家さんは過去の印税でしばらくはしのげるかもしれませんが、アシスタントさんは全員、解雇ですよね。」
とのことであるが、荒唐無稽な前提から漫画業界への例えは確かにアクロバットで何言ってんだこいつというのが第一印象だ
まず、漫画家は貯えがあるがアシスタントにはないことを当然のこととして語っているということだ
漫画家もアシスタントも漫画が描けない状況になればどちらも収入は著しく減少することだろう
その状況でも漫画家には貯えがあるからしばらくしのげるが、アシスタントはそうではない、と対比されているのだから
アシスタントには貯えがないからしのげない、と平田氏は言っているのだと解釈すべきだろう
実際の漫画業界がどういう収益配分になっているかは俺にもわからない
漫画家のアシスタントとは下積みでギリギリ生活できるだけの食い扶持をもらって貯蓄する余裕がないものなのかもしれないし、そうでないかもしれない
極端なことを言えば実際のところはどうでもいい、問題になるのは平田氏にとってこの例えが演劇界の比喩足りえるものだという点だ
漫画家に相当するのは監督、演出家、主演俳優といったところだろうか
すると演劇業界においては「監督、演出家、主演俳優は過去の貯えでしのげるが、音響や照明は貯えがないのでしのげない」ということだろうか
たしかに演劇関係は下積み時代は稽古の合間に複数バイトの掛け持ちで苦労するなんて話はよく耳にするしお金にはならないものなのだろう
音響や照明の裏方にしても十分な給料が支払われているかと言えばそうではないのだろう
一方で売れっ子にさえなれば一攫千金というのが芸能というものなのだろう
実際の演劇業界の収益配分も俺にはわからない、しかしこれに近い状況がなければあの比喩は出てこないのではないか
一部の上位者が収益の大部分をかすめ取り、大半の下位の者は食うや食わずでやり繰りするというのは様々な業界にありうるものだろう
しかしその構造上の問題を放置しておきながら上位者たるものが「うちの業界の下っ端が困っているから援助してくれ」はいささか都合がよすぎるのじゃないかという気もするのである
シルク・ド・ソレイユがYouTubeで配信している180°VRの”ImmerCirque” ( https://www.youtube.com/results?search_query=%23ImmerCirque ) は、演劇業界の人々は見るべき価値のあるシリーズで、これをOculus Goで視聴した時は、正直演劇における革新だと思った。画質はまだクリアとは言えないが、それでもあれは十分に、間違いなく「演劇を観てる」体験であった。舞台中継を通じたTVによる視聴で確かに演劇を見ることはできる。しかし、それは行為そのものが「舞台を観る」から「TVを観る」に変異してしまっているため、演劇鑑賞とは極めて縁遠いものだと思う。だがVRによる観劇はそれが少しも変異しないと感じた。つまり、演劇を演劇のままとしてVRゴーグルで観ることができたのだった。演劇とは「その場でドラマを観賞する」体験そのものが売りであり、観客はそこに対価を支払うことから、その体験をそのまま提供できなければ演劇あるいは観劇とは言えない。よって2Dの映像配信は演劇そのものではない。だが、VR演劇は、間違いなく演劇体験だった。
これは演劇の革新だと思う。なぜなら、VR演劇は世界で初めて「流通可能な演劇」を誕生させる可能性があるからである。劇場に閉じ込められていた演劇をVR演劇としてネットで配信し、それによって対価を得られるようになれば、観客数は劇場の客席数×公演回数に限定されなくなり、また公演期間にも限定されることなく、作品が恒久的にお金を稼ぎ続けることができる資産価値を持つようになる。これまでの演劇の最大の弱点は、劇場でしか客に対して作品を提供できず対価を得られなかったことだけでなく、製作した作品が公演期間を終了すると同時にその資産価値が実質的に消滅するところにあった。映像などの媒体に転換することで一部の価値を保全できうるが、舞台作品の実体としては確実に消滅し、そして再現不能である。これが演劇が経済的に不利な立ち位置にある最大の理由である。「後世に残る作品を作りたい」と演出家が言ったところで、それはそもそも残らないしお金も稼いでくれないのが演劇の本質であった。しかしVR演劇なら、空間そのものを記録・再生できる特性から、それが可能になる。
流通可能なVR演劇によって、観客は過去の作品にも自由にアクセスできるにようなり、いわゆる「伝説の公演」、それを観たものだけがその価値を享受し特別な存在でいられるような、極めて優れた作品群も体験できるようになる。そしてここが重要だが、外国語の字幕を付けることで海外の観客を新たに獲得することも可能となるだろう。これまで、舞台における字幕はプロセニアム型の劇場ではプロセニアム・アーチ外縁の上部や左右、または舞台の上部に吊ったスクリーンなどに表示していたが、実に見づらい上に公演回ごとに微妙に変化する台詞回しのスピードに同期しないケースがあり、正直使える印象は皆無であったが、VR演劇なら見やすい位置に配置し、台詞回しと同期でき、そしてあらゆる言語を表示可能になる。またこれによって、耳が不自由な観客にも演劇を届けることができるようにもなるし、さらには演劇初の「吹き替え版」を作ることもできるだろう。
また演劇が持つ基本的な舞台表現の幅も無限に広がるだろう。つまり、VR演劇では舞台は必ずしも劇場である必要はなく、ビルや住宅などの一室や、ショッピングモール、海辺、森の中など、使用可能なあらゆる場所を舞台とすることもできるようになる。過去にあった、アパートの一室で押入れを客席にしたような演劇とか、KAKUTAがやった遊園地を丸ごと使った同時多発演劇、またかつての維新派のようなだだっ広いグランド演劇などが、より低コストで自由に製作でき、あらゆる人々に配信できるようになる。そしてそれらの空間を使用したドラマの演出は、舞台演出家こそができる技術である。VR演劇以降は、舞台演出家はVR演劇演出家として新しい活動の場を獲得できると思う。
最後に、もちろんこれらのことは全て演劇に新たなお金をもたらすだろう。日々の稽古と並行して別の職の仕事をし、その上チケットノルマも課されるような、今で言えば真っ黒もいいところのブラック労働であったものが、VR演劇が恒久的に稼ぐ売上によって浄化され、大きな産業として成長するだろう。演劇は補助金が不可欠とか言う必要もなくなるし、日本の演劇の諸悪の根元であるチケットノルマも葬り去ることができる。また、これまで舞台の規模として商業的には全く成り立たないが、しかしながら極めて価値の高い優れた作品についても、きちんとお金を稼ぎ、演出家や俳優達は新たな作品制作に集中できるようになるだろう。
このVRによる演劇の革新によって、演劇を楽しむ観客人口の桁が2つか3つ増えれば、社会における日本の演劇の重要性も変わるだろうし、いわゆる必要不可欠な文化としての立ち位置を獲得できるのではないかと思う。それを得られないうちは永遠に、義務教育科目に「美術」「音楽」はあっても「演劇」はないだろうし、補助金くれくれ言い続けるしかないだろう。
2.5のイケメン俳優等にハマってる人達が楽しそうで憧れてたんだけど、自分もやっと面白いと思える舞台作品に出合い、いわゆるイケメン俳優で「推そう」と思う人ができた。それが2年前のことだった。
それからはその俳優が出る作品を中心に、2.5やそうでない舞台を観に度々劇場へ足を運んだ。
推しはキラキラした外見とスタイルの良さが売りで、どんな舞台に出ても「彼はこのイケメンだらけのお話の世界観の中でも格別なイケメンのキャラなのである」と思わせる華があった。しかしそれ以上にアクションが上手で、いつかまた板の上で大暴れしてほしいなと思っていた。
そんな彼を追いかけているうちに直面したのは、彼の演技力の低さだった。最初は気にならなかったのだが、観劇の回数を重ねるうちに彼の演技はいわゆる「棒」であり、時には主演にもかかわらず共演の元アイドル女優にすら食われている状況だった。これまでは同じくらいのレベルのイケメン俳優とばかり共演していたので気にならなかったのだが、長年活躍しているバイプレイヤーたちとの共演では、彼の台詞回しは抑揚の無さが目立っていた。
私は元々映画が好きだったので、彼がいつか映画に出るまでは応援したいという目標があった。もし舞台を観に行かなくなっても、年間3000円ちょっとくらいのファンクラブ会費はしばらく払い続けてもいいかと思っていた。
今年の年明けにファンクラブから年賀メールが届いた。それは夢小説のように自分の名前が本文に何度か出てくるもので、最終的にメル画で見たような甘ったるい台詞を推しが喋っている体の文章で締められていた。
そのことをネタにしようと思ってスクショを取ったが、私に推しができて楽しそうにしているのを見守ってくれた友人各位にそんなものを見せたくないなと思った。
それから少し迷ったのだけれど、まだ更新期間までだいぶ時間のあるファンクラブを、昨日やっと退会した。
自分の中で「ガチ恋営業のように女性に夢を売る商売をやってのける俳優は、たぶんファンに対して誠実ではない」というイメージがあり、推しがその片鱗を見せたことが残念で仕方なかった。
これまで彼からはそういう匂いがしなかったので安心していたのだが(交流イベント等は定期的にあったが、自分は作品を通した彼が見たいためそれには一度も参加しなかったので雰囲気は不明)、正月のメルマガを見て「この人も事務所も、俳優としての限界を感じたからこういう方向に舵を切ったのでは」という疑いを持ってしまったのだ。
きっと彼はこれから俳優として成長するのは難しい。いつか有名監督の映画に出演してそのアクション能力を充分に発揮してくれることを願っていたが、その願いに投資しても望みは叶わないだろう。
彼は私があらかじめ覚悟していたようなスキャンダルも炎上もなかった。その辺は本当にきちんとしていて有難かった。それでも、生きている人間を応援し続ける事はとても難しいのだ。それがわかっただけで充分だった。
彼のお陰でいろんな俳優(男女含む)、演出家、脚本家や小劇団を知ることができた。俳優を軸に作品と出会うことは今までにない体験だったし、生で見る舞台の面白さも理解できた気がする。
また、残念ながら元推しから感じることはできなかったが、自分にとって「刺さる演技」が何なのか非常に明確に理解できるようになったような気がする。これは今後いろんな実写作品を見る上で役に立つ観点であろう。
何かに熱狂的にハマっている人は楽しそうだ。だが自分はその真似事しかできなかった。だって相手は生きてる人間なのだから。他人に自分の勝手な理想や希望を託し、期待することでエネルギーを得る生き方は、私には無理だった。「ガチ恋営業的な方向に行くのでは」と懸念している自分が気持ち悪かった。
彼の演技が成長してないとか勝手に難癖をつけてしまったけれど、俳優自身のほうが数百倍もっといろいろなことで悩み、苦労しているだろう。頑張っている「人間」そのものを批評することは、作品を批評することと全く違うように思え、私には心苦しかった。世間的にはアイドル俳優(偶像)であっても、私にとっては尊重すべき他人の一人だったから。
彼が仕事でどんなキャリアを積みたいのか、そんな事は私にはわからない。だからこそ自分の「俳優として頭角を現してほしい」という望みを託してしまうのは間違いだったのだと思う。
いろいろ書いたけれど、彼を追いかけていた2年間で得たものは、チケット代よりもはるかに多かったと思う。彼が知名度のある脚本家の作品や、ビッグタイトルに抜擢されるたびにテンションが上がった。追っかけ界隈の文化を色々学べた。現場で出くわす同担たちの会話を隣の席でこっそり聞くのも楽しかったし、ファンたちが心を込めて送ったであろうフラワースタンドの凝った意匠などにも都度感心したものだった。
ファンクラブを退会したことで非常に心が軽くなったことは確かだ。それでも、彼やスタッフたちには感謝の気持ちしかない。追っかけ活動はまさに生涯学習であり、適度に楽しめた私は幸せ者だったと思う。
昔々、あらゆる世界には神様がいて、とにかくそいつの言うことには黙って従えという時代があった
父親だったり村の偉い人だったり、もちろん大学の教授もそうだった
医師の方針には絶対服従だし、演出家が灰皿ブン投げてきても文句ひとつ言えない
なんなら昔は本当に神扱いされてた一族のゼニの使い道にすら、今や堂々とケチをつけられるようになった
今でも日曜の朝にやたら偉そうにしている神様がいるが、たぶんそのうちいなくなるだろう
もちろんそれはいいんだよ、そういう世の中の方がいいに決まってるんだから
でもそれはみんなが例外なく裸にフラットになることであって、学術の権威にしたって同じはずだ
既存の権威を軒並み破壊しておいて、なぜか自分たちの権威だけはそのまま残る、そんなわけないだろう
引き続き偉そうにし、黙って言うことを聞かせられ、おまけに税金も好き放題に使える、そう思う方が間違いだし思い上がりってもんだろう
俺もいくつか候補はあったんだけど、他の人とできるだけかぶらないように選んだら5つしか出せなかった。
『従来のテレビアニメと異なり、動画を使用せず、原画のみで構成する「イラストアニメーションムービー」』らしい。
本当の意味での“手抜き”って、こういうアニメ(?)に投げかけるべきだと思う。
中にはトレースしたせいで円盤にも収録されないエピソードもある。
ストーリー構成はかったるいし、キャラクターもごちゃごちゃしてる。
Vtuberたちが学芸会をやっているという目線で観るなら、かろうじてってレベル。
1話のクオリティが最後までずっと続くから一貫性があるし、合わない人は即切りできるから親切。
気になるのは、これをきっかけにVtuberに興味持つ人どれ程いるかという点。
中華アニメで一番ハチャメチャが押し寄せてくるのはコレだと思う。
独特な設定と、突拍子もない展開、意味不明なバトルシーン。
それらに主人公がほぼ関わらないという点も含めて異彩を放ってる。
どうせなら、これくらい突き抜けてて欲しいと思う次第。
原作の設定からして、ちょっとツッコミどころもあるけれど、このアニメの問題点は概ねスタジオの責任だと思う。
大山高男:舞台方面がメイン?の声優。エヴァのゼーレ(豆腐)の一人とか
鬼八頭かかし:漫画家。ヤングガンガンで連載中だった「たとえ灰になっても」が絶筆になった。
白石冬美:声優。ガンダムのミライさん、パタリロ、オバQのドロンパなど
WOWAKA:ボカロP、ミュージシャン。ローリンガールとか。
関田修:アニメ演出家。ガンダム(1979)~ムヒョロジ(2018)までコンスタントに活躍。
武本康弘:アニメ監督。らきすた、氷菓、小林さんちのメイドラゴンなど
池田晶子:アニメーター、キャラクターデザイナー。キャラデザに涼宮ハルヒの憂鬱(一期)、響け!ユーフォニアムなど
大野木宣幸:作曲家。ニューラリーX、マッピーなど初期のナムコサウンドを支えた
森永あい:漫画家。ユンカース・カム・ヒア、僕と彼女の×××など
中村和子:アニメーター。手塚治虫に認められて鉄腕アトムなどを手掛ける。三つ目がとおるの和登さんのモデル。
そもそも凡百のオタクくんたちはメクラであるとかそういうことは置いておいておくとしても、
そもそもアニメーター、というかアニメーターに限らず演出家でさえ基本的に傭兵のようなものでしかないのだから「愛情」を求めるのが間違ってる
アニメーターにとってアニメ作品なんて大体が自分の著作物でもなく、映像にしたらほんの十数秒分のしか関わらないことも多い、そんなドライな関係しかそこにはない
必要なのはアニメーションに対する姿勢だけで作品に対する愛情は必要とされるべきではないのだ
もしかしたら普通の「オタク」のように作品に愛着があったりこだわりがあったりするかもしれないが、それはおまけ、制作者側からのサービスに過ぎない
こういう「仕事に対しての愛情がないのか!」とか抜かす輩がもちろんオタクくんたちだけではないのは知っている
むしろ、日本社会に蔓延るゴキブリの中の一群がオタクの顔をして現れただけだろう
そんなのはクソ喰らえでしかなくて、結局は仕事と待遇との相関によってバランスが取られるべきでしかない
もちろん仕事に愛情を持って取り組んでいる人間も少なくないだろうが、それは経営者や消費者に対する労働者からの温情でしかなく、加点対象にこそすれ減点対象にすべきではないのだ
まぁどうせオタクくんは「でも作画崩壊してる!」と騒ぐのだろうが、それは冒頭で置いておいたメクラなオタクという話になるだけなので、そちらは相手にする必要もないだろう
絶対に有り得ない。
役柄を毎回変える器用な役者ではないが、マッチョイメージってだけでラズベリーに選ばれたり、アクション俳優という「キャラクター」で不当に蔑まれてきた人だ。
スタローンの演技力の証明としては何より、「スタローンと競演した役者が輝く」という逸話がある。
『エクスペンダブルズ』のステイサムはわかりやすいが、『ロッキー』のエイドリアンにしても『ランボー』のトラウトマン大佐にしても、あんまり面白くない『暗殺者』で共演したバンデラスにしても、スタローンと絡んだ役者の活躍が記憶に残る。
共演者に花を持たせるのは「脇役役者」が持つ特性で、なんだ、主演の癖に脇役レベルじゃねえかと馬鹿にしたくなるかもしれないが、逆に脇役のように「他人を輝かせる」演技はうまくなければできないことなのである。
アイドルやタレントの主演作品で脇役を大御所俳優で固めるのと同じ事だ。
もちろんいくつも記憶に残るキャラクターを演じていることを考えれば、共演相手に食われているわけでは決してない。
あんなゴリゴリの見た目に濃い顔のアクション俳優なのに、自分が目立つのと同時に相手に合わせた「受け」の演技ができる柔軟さを持っている事に、みんなもっと驚くべきだ。
これはスタローンが演出家・脚本家としても優れているからこそできる芸当だろう。
(『ロッキーザファイナル』において、ロッキーの続編なんてと世間が馬鹿にする中、結果的に実力だけでその年の映画界の話題をかっさらった手腕を見よ)
ただの「筋肉バカ」「脳筋っぽい」と思っている人は、こういった彼の特徴に気づきもしないのだ。
伊達に、デニーロから超馬鹿にされながらも彼と共演して真正面からデニーロスタイルの演技対決を挑み、そして20年後にW主演で再共演を果たした男ではない。
世間からずっと馬鹿にされながらも、ファンはずっとスタローンの演技のうまさを唱え続けてきた。
そのたびにラズベリー賞なんていう何の権威も批評性もないただのお祭り騒ぎを根拠に、周囲からは馬鹿にされた。
その結果、「全盛期を過ぎてから評価する」でお馴染みのノロマなアカデミーでも、2015年、ついに『クリード』でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。
先に言っておくが、決して2.5次元という文化を否定しているのではない。アンチの意図は含まれていない。
役者や演出家、脚本家、様々な人が熱を込めて作った作品である。むしろ素晴らしいと思っていると思う。
アニメ、漫画、ドラマCD、実写映画、そして舞台やミュージカル。
「オタク」は2次元愛好に限らず、情熱を持った生き方とか、推しを追いかける生き方とか、そういうモノを指すようになったなと思う。
さて、2.5次元ブームが到来し、私の愛好する作品も舞台化が決まった。
私はいわゆる原作厨という奴で、原作者やそれに準ずる機関が出した情報以外は信じられないという大変に生き辛いオタクである。
しかし同時に同人という文化が大好きで、人の解釈を知りたいという気持ちでイベントに行き、自分でも何かを綴ったりする。
だから舞台というものが、原作コンテンツの1つだとしても、2次的に噛み砕かれて提示されたとしても、どちらにせよ楽しめると思ったのだ。
前提として1つ思ったのは、私はコスプレを見るのが好きではないなというところだった。
これに関しても断りを入れておくが、別にコスプレという文化を否定しているわけではない。私は好んで見ないというだけである。
舞台と同じで、寧ろ尊敬すらしている。衣装や道具を作り、化粧をし、場所を借り、撮影する。オタクはすごい。
私にとってのキャラクターは、平面で良いのだと思った。
コスプレをそのキャラと思うことは出来ない。それだけだ。二次創作イラストを見たときと感覚は正直同じである。
原作ではないがファンの愛が籠った作品を見せて頂きありがたがる、同人オタクのそれはあるのだ。
わざわざ1つ次元の下の世界を好きになったというのに、それに現実感を持たされて返されるのが苦手なのかもしれない。
そういえば、フィギュアや3Dモデルも得意ではなかった。私はに楽しめないもので、私はお金を払いたいとは思わない。それだけなのだ。
何度も言うが否定しているのではないしアンチではない。愚痴である。
味が好みではない食べ物をお金を払って食べたいと思うだろうか? そういう純粋な好みの話である。
ストーリーが面白いからと言われてもドラマは見ない。実写映画も見ない。
私はただただ2次元に落とし込まれたフィクションの世界が好きな2次元オタクなのだ。
嫌いな食べ物は食べなければ良い。苦手だと言えば良い。
舞台化に興味はないし、お金を出して見たいと思わない程度の熱意なので見ない。
とは言っても、舞台を見ないわけではない。流行ればすぐに舞台化される現代である。
理由は様々…と言いつつ、付き合いという最悪な理由だ。オタクの風上にも置けない。
舞台が好きな方には本当に申し訳ない。私が複雑な気持ちで座るこの席は、感じる空気は、誰かがお金を払って時間を割いてでも手に入れたかったものだ。
だからこそ、私なりに付き合い方・楽しみ方は考えているつもりだ。
コミカライズなど、表現方法の変化は基本的に受け付ける人間だ。媒体によって演出や見せ方、解釈が変わるのも一興である。
何より漫画のアニメ化なんて、絵は違うし想像と声が違うことすらある。けれどそれを受け容れることは出来たはずだ。
そんな自分の感覚を頼りに私は舞台を見ている。そして楽しんでしまっている。オタクで良かったと思う瞬間である。
しかし舞台を見終わった後に、話が面白かった、あの場面の演技が良かった…
そんな話をする度に私は思ってしまうのだ。
題名の通りだ。嫌いな若手俳優がいる。嫌いなら見なければいいというわけにもいかない。何故なら推しと共演ばかりで推しはそいつの事を崇拝しているし、たまにコラボ配信もしている。
なんならそいつ(以下A)の単体配信でも舞台の大事な情報を話したりするので推しの情報を一早くキャッチしたい身として単体配信にもいったりする。
なお配信も舞台でも話さないのでAは私の事を知らないであろう。
Aはなんというか、ファンの事ばかり考えている。それ自体は良いことだと思う。しかし度が過ぎているのだ。
ファンと言っても10人いるかいないかの数、それらを本当に大事にしている。良いと思う。しかし本当に「ファン」として見れているのか?
私から見たら「自分に惚れてる女」として見ているようにしか見えない。
舞台後のチェキの距離感がまじで頭おかしいのもある(まあそういう人は割といるよね)
人数は10人もいない程度だ。男は自分1人、あとは全員ファンの女。
お前、仕事は?
配信でこんなことを言っていた
「みんなにお返ししたいな オフ会しよう」
なぜお返しがオフ会になるのだ?
それに対してAのファンが言った
「舞台でお返ししてください」
ことあるごとに皆大好き!と言うのはわかる
「みんな独り身だよね?」
それを聞いてどうするのか?
本当に気持ちがわるい
もう私はAに対して「女にちやほやされたいだけの男」という認識しかない
ファンを大事にして一緒に俳優として高みを目指していく。そういうのが全く感じられない。
また、なぜここに書き込もうかと思った最大の出来ごとが起こった。
90分1万円
本当のスタジオで2人きり
先日この内容がツイートされた。
1万円払えばAが自分好みの服を着て2人きりで撮影をさせてくれるらしい。
ファンが払うのは1万のみ
Aは言う
「お金のことなんて気にしないで!僕がみんなとやりたいだけだから!」
私は思う
それをしてAの俳優業に何か得があるのか?
アイドルの子も撮影の練習にもなるし、その様子をお偉いさんが見てスカウトする。
それはまさにWINWINだ。
そして1対1の撮影会だ。
そして確実にAの赤字だ。
何がしたいんだろう。
本当に何がしたいんだろう。
自分の事が好きな女にちやほやされたいだけなんだろう。
俳優好きな女の「好き」なんて、ものすごく儚いというのも知らないのだろう。
Aは決して若くはない。
なんだかもう、嫌いを通り越して哀れになってきた。
幸い私の推しは他の安定感のある俳優兼演出家の人とばかり舞台に出るようになっている。
脇役が多いがそちらの現場は本当に安定してて忙しくも楽しそうだ。
早くAと縁を切ってくれますように。
もう10年以上も前の話。
発表が得意で、面白おかしく、周りの様子を伺ってはクラスの雰囲気を盛り上げようとする、そんな人を私は好きになった。
なんとなく、向こうから好意を感じる時もあったけれど、思春期真っ只中の私は何か行動に出るわけでもなく、ただただ席替えで近くになることを祈っていた。
サマースクールの話題で盛り上がる夏休み前、彼の口からはちょっと頭が良い学校の名前が聞こえてきた。
怠け者な私の内申点では厳しかった。同じ学校に通えそうになかった。
残念に思ったけど、進路で別れてしまうのは分かっていたから、悲しくはなかった。
特に行きたい学校がなかった私も、サマースクールに参加したことで、入学したい学校、入りたい部活を見つけることができた。
その学校はそこそこなレベルだったけれど、当時の私の実力では乗り越えなければならないハードルがいくつもあった。
不馴れな勉強に勤しむ秋頃、彼の口から私の目指す学校の名前が出た。
志望校は違うと思ってたから、当時は本当にビックリしたし、嬉しかった。
妄想も、それはもういっぱいした。
あとは私が頑張れば、その妄想が現実になると思うと、大嫌いな英語だって覚えてやろうという気になれた。
塾長からは「険しい道のりだ」と言われたり、模試の成績が酷かったり、などなど色々あったけれど、なんとか仕上げ、受験当日を迎えた。
試験会場には、もちろん彼がいた。
当時ハマっていた乙女ゲームのグッズである天然石を握りしめながら、試験に挑んだ。
試験の出来はなかなかのもので、塾長からも合格だろうと言われた。
安心した私は、受験からの解放を大いに楽しみ、あっという間に、合格発表の日がやってきた。
私の中学校は、結果を確認した後、報告する決まりで、受かった生徒と落ちた生徒は別の教室へ行くことになっていた。
無事に合格通知を受け取った私は、意気揚々と受かった生徒が集まる教室へ行き、先生に報告をした。
そのまま私は帰らずに教室に残って、受かった子達と高校での過ごし方を語らった。
受かった嬉しい気持ちを共有したいからではなく、彼を待っていたのだ。
しかし、彼が来ることはなかった。
私は受かって、彼は落ちたのだ。
家に帰って、私は一人で泣いた。親、塾の関係者、先生、友人、皆喜んでくれていた。それなのに、私は涙が止まらなかった。
もちろん、嬉し涙ではなかった。
同じ学校に通えると思っていたのに、4月からはもう別々になってしまう。春を感じさせる暖かな日差しが、より胸を苦しくさせた。
結局、その後は彼と距離が出来てしまい、連絡先も交換できずに卒業式を迎え、卒業。
高校に通うも、彼のいない高校生活を思い描いていなかった私の日々は淡々と過ぎていった。
どこかですれ違えないかと、駅に行っては姿を探した。見つけることはなかった。
彼の進学した学校は、体育祭も文化祭も非公開。繋いでくれる友人もいない。どうにもならなかった。
途中、気になる人もでき、初めてお付き合いすることもできた。それでもやっぱり、初恋の人は特別なのか、忘れることはなかった。
色々あって、その人と別れた後も、特別なままだった。
ただ執着しているのだと分かっていても、忘れられなかった。
疲れている時は、彼と幸せになる夢を見たりした。起きた後、更に疲れたことは言わずもがな。
この頃になると、思い出すことは僅かで、どんな仕事に就いているのだろうか、幸せな日々を過ごせているといいな、などの思いを馳せるだけで終わっていた。
結局、当時の彼とは遠距離がトリガーになり、振られてしまった。
相当なショックを受けた私は、忘れるのに随分と時間がかかった。
忘れるために、私は昔のことを良く思い出すようになった。
当然、彼のことも懐かしむように思い出した。
すっかり失恋から立ち直った頃、私はふと彼の名前を検索しようと思った。でも、勇気は出なかった。ストーカーチックな気がしたからだ。というか、たぶん、ストーカー。
それから数ヶ月後の昨日、中学の友人、高校の友人と立て続けに会って疲れた私は、いつの間にか眠りにつき、そして久しぶりに彼の夢を見た。
変な時間に寝た私は、変な時間に起きてしまい、妙なテンションになってしまった。
履歴に残るのが恥ずかしかったので、シークレットモードで検索した。
すると、彼らしき人物がヒットした。
作風を見る限り、本人に違いなかった。
私が何度も思い出し、夢で見た姿は、過去のものでしかないのだと、ようやく頭でも心でも理解できたのだ。
一緒に登校をしたかった私、一緒に文化祭を楽しみたかった私、告白をしたかった私。これらも、もう随分と前の私がしたかった、見たかった光景で、今の私が欲するものではないのだ。
初恋の人の名前を検索したら、恐ろしいことになるような気がしたけれど、そんなことはなかった。
きっと、これからも私は彼のことを思い出してしまうし、切ない気持ちになるだろう。
けど、今までとは違い、適切な距離をもって振り返ることができる。
アニメーターとか演出家に興味がなく、作品にだけ興味がある一般のヲタからすれば、
その中で働く無名のスタッフ達それぞれの画風やら作風やらの違いなど判別できるわけないので、
ぼんやりとした京アニらしさが戻ってくれば、それで京アニは復活したことになる。
一方でそれぞれのスタッフの名前と画風作風が一致するような人間からすれば、
いくら似たような画風、テイストの作品が作られたところで、その間の微差がわかってしまう。
前者にとってはアニメクリエーターは「技術者」だが、後者にとっては一人一人が「作家」。
作家性は唯一無二。その人以外には手にすることが出来ない。
後者から前者を見ると、まるで技術だけを評価し、その裏にいる人間を人として見ていないように思えてしまう。
一方で前者から後者を見ると、生き残った人には「技術」を再現できないと馬鹿にしているように見えるし、
逆に「技術」が失われたことを嘆いているように見え、非人間的だと思ってしまう。
でも悲しみが大きいのは後者。当たり前だ。名前を知っている分より近しい存在と感じているからだ。
多くのヲタの京アニへの悲しみが、やまゆり園への悲しみより大きいのと同じだ。
まあだからといって自分より悲しみの少ない人を攻撃していいものではない、
自分の立場や他人の評価を無意識的に意識しているのではともやもやを感じるのも分かる。
※ネタバレは当然のごとくにする。
・いきなりハイライトの感想から言うけど、百鬼丸が目を取り戻したら度を超えたイケメンに超進化したので、私エネル顔。
昔話の『鉢かづき姫』みたいだなと思った……。
・百鬼丸VS多宝丸のシーン、シリアスなはずなのだがめちゃめちゃ笑ってしまった。多宝丸がいきなりお部屋紹介を始めたからだ。
「ここは私の部屋だァ!!」
ってなんだよwwwww先週「もう話すことはないな」って一方的にコミュニケーション遮断してきたのは何だったんだお前可愛すぎだろう。
・からの、回想に幼い頃の陸奥・兵庫を入れてくるのずるい。そんなん泣くに決まっている。
・というか、ここら辺の百鬼丸の心理が今一つわからないんだけど、派手に暴れたらストレスが解消されたのか冷静さを取り戻したのか、よくわからないんだが急に物分りがよくなったのはなぜ。
・まぁよくわからないがお互いに欠けているもの同士として響くものがあったのかなあ?
・最後の鬼神、あんな所にいたんだ。へぇ。案外あっさり倒されたなぁ。
・ご都合展開の極み的に寿海ママと縫ママが百鬼丸のピンチに駆けつけたけど、この手のご都合展開は本作の醍醐味というかなんかもう慣れた。
・抜け道から百鬼丸達が闘っていたフロアまで結構高低差があるはずなんだけど、そこを縫の方がどうやって濡れた打掛を被って上がって来たのかが気になって仕方がない。
・百鬼丸が二人のおっかちゃんの愛情を感じられて良かった。良かったのでその前の滅茶苦茶な展開も許せる。
・多宝丸には生き抜いて欲しかった。でも最期を母上に看取って貰えてよかったね。
・シリーズ後半までずっといい子だった多宝丸が終盤に思い切り我を出して来たのは良かった。親近感の湧く少年であることよ。
・百鬼丸が初めて見るものは多宝丸の死体かどろろの顔のどちらかではないかと予想をしていたのだが、二人のママだったのがとても良い。
・しかし寿海ママの指差しポーズが爽やか過ぎて笑う。CV.大塚明夫で「気を付けて帰れよ!」って言いそうな顔だし現にCV.大塚明夫なのである。
・井戸の底から引き上げてもらうときに百鬼丸に抱えられたどろろが猫みたいで好き。
・「空、きれいだ……。どろろ、きれいだ」セリフだけなら良い場面っぽいのに殆どギャグだった。"溜め"とか無いんだ。
・目を取り戻してから燃え落ちる城を見詰める場面まで百鬼丸がものすごく美少女である。本作の真のヒロインは百鬼丸、君だ!
・様々な問題をどろろは親の金で解決しようと決める、というまさかの展開にびっくり。え?それでいいんだ???
・どろろの父・火袋の埋蔵金は果たしてちゃんと手付かずで残っているのだろうか。埋蔵金の隠し場所に人が来られなかったのは、しらぬいの次郎丸と三郎丸があの辺で人喰ってたからだろうに。次郎丸・三郎丸が討たれた後は……。
・景光と百鬼丸が会話してる……!百鬼丸、こんなに喋れるようになって………(ハンカチで目頭をおさえる
・ついに景光が敗けを認めたのでせいせいした。ほんと嫌な親父だったなぁ。国の為民の為と言ってたけど結局、功名心だけの人だった。
・刀も持たずどろろを伴わず、みおの種籾だけを持って旅に出てしまう百鬼丸。みおの種籾はもはや完全に忘れ去られたアイテムだと思っていたので、再登場してよかった。
・みおの種籾が百鬼丸からどろろに託されたり、百鬼丸とどろろの二人で田んぼに植えて育てるという展開は正直嫌だったので、百鬼丸が種籾を懐に仕舞い直したことにホッとした。
・みおとの初恋の思い出を、どろろとはいえども他の女の子と共有するのはどうなのかと私は思っていたので。
・異論あるみたいだけど良い終幕だった。
・本作は批評される際に手塚治虫の『どろろ』の後継(というよりコピー)としてアリか無しかということで見られがちなのが気の毒だと思った。
・原作付きアニメの宿命ではあるけれども、それにしても手塚治虫がビッグネーム過ぎるので……。
・原作漫画を100として減点法で採点されるばかりで、アニメそのものの出来を評価されるってことがあまりないんだよなぁ。
・私としては、2019年版アニメ『どろろ』の出来はあまり良いとは言えないと思う。
・前半はかなりよかったのに、後半はずいぶん失速してしまった。一体どうしてこうなった?と観ていて戸惑う部分が多々あった。
・シリーズ構成・数話の脚本を担当した小林靖子氏のインタビュー記事や前期エンディングと第15話の演出を担当したコバヤシオサム氏のツイート、後期OPスタッフのツイートやインタビューなどから、制作スタッフのなかで何らかの内輪揉めがあったのかなぁ、と、邪推かもしれないが、思った。
・せっかく時間をかけて企画を練っていたようであるのに、後半からいきなりごちゃごちゃのグダグダになっていく様が非常に勿体ないと感じる。決して詰まらないストーリーではなくアニメーションの技術が低い訳でもない、むしろクオリティ高くやれそうなのにそうならなかったから残念なのだ。
・アニメは多くのスタッフのチームワークによって作るもの、ということの悪い部分が表面に出た感じ。
・宮崎駿や高畑勲の作品みたいに細部にわたって監督の思い通りに作るアニメには勝てないのだろうか?
・しかし各話の演出家の裁量に任せてるっぽい所、嫌いじゃないんだけど。特に15話はかなり異色な回だったけど面白かったし好き。
アニメそのものも面白かったけど、Twitterでのファン同士の交流がお祭り騒ぎで楽しかったなぁ。昔の漫画が原作だけどファン層がやや若めなせいか、皆元気だし発想が奇想天外なので愉快なTLだった。
ともあれアニメ『どろろ』本体の感想などを気がはやいけどつらつら書いとく。
あ、ちなみに私のスペックはというと、原作未履修のまま生き長らえてしまった、最近はあまりアニメに熱烈にハマれなくなっていたオタクを自称するのは気が引けるほどの者。『どろろ』を見始める前に履修したのは『BANANAFISH』で、もう当分こんな悲劇的な作風はいいや、と言った舌の根も乾かないうちにどろろ沼に転落した。なお『どろろ』原作はアニメ前半期が終わるくらいにやっと履修。
では以下感想。
・タイトルは『どろろ』なのだがとかく目を惹かれてしまうのは百鬼丸である。なんせ顔がいい。
・初期の頃の百鬼丸は表情がまるでないのだけど、カメラワークによっては、うるさくまとわりつくどろろにすごく迷惑そうにしているような表情に見えるのがツボだった。単に角度の問題で実際そんなに迷惑してるのかどうか分かんないところが良い。
・百鬼丸が身体のパーツをあちこち奪われた重度の身体障害者であるという設定が、このアニメではリアルに描写されててよかった。身体のパーツを取り戻して当人が感じるのは喜びだけじゃなくて戸惑いや煩わしさもある(むしろ喜びよりそっちの方がフォーカスされがち)という描写がいい。耳を取り戻す瞬間子供みたいに地団駄踏んでたのが印象的。
・特に耳を取り戻したら世界に溢れる音が煩すぎて知恵熱出しちゃうとこがよかった。
・百鬼丸が身体を取り戻す度に、百鬼丸は視聴者が思ってた以上に何も出来ないし何も知らない・分からない赤ちゃんであるというのが発覚していくのが面白い。しかし、発覚するごとに「あっ、なんかごめん……」と一視聴者は百鬼丸に謝罪がしたくなるのであった。
・百鬼丸が16歳の赤ちゃんだと発覚してからは、彼が徐々に成長をしていく様に一々感動してた。つい自分の子供を見守るような目線で見てしまった。
・前半期でいちばん気に入ってるのが『守子唄の巻 上・下』。そのストーリーの悲劇性もさることながら、最初から最後までテンポよくタイトにまとまっていて、とてもよい良い。
・ということにことのほか感動してしまうのは何故かというと、アニメ『どろろ』、全体的に面白いんだけど変にテンポが悪くてかったるい印象があるのが否めないからなのである。90年代後半のロードムービー系アニメの雰囲気がうっすらとあって若干時代遅れな印象も。
・アートと娯楽の境目を綱渡りで進んでいてたまに足を踏み外して落っこちている、そんな感じのアニメ『どろろ』の全体印象である。
・百鬼丸から見れば敵サイドである弟・多宝丸が物凄く良い子に描かれていて好感度高いところが良い。そんな良い子が悲劇に巻き込まれていく鬼畜な脚本とシリーズ構成さいこう。
・今までアニメを観るのに監督には注目したことはあっても脚本家に注目したことはなかったのだけれど、小林靖子という脚本家に期待と信頼を寄せるようになってしまった。
・確かアニメ開始直後くらいは監督が例のあの人なのでどうせ地獄み溢れる展開になるとか、少し経つとどうせミオは梅毒で死ぬんでしょとか噂されていたが、結局、監督が例のあの人だからどうということはなかったような気がする。ま、ミオが梅毒で死ななかった代わりに他のキャラが疫病にかかって大変なことになったのだが。やっぱり監督の持ちネタなの?
・悲劇の全ては小林靖子様のせいに違いないと思ってごめんなさい。そんなことはないよね、常識的に考えて。
・琵琶丸カッコいい。
・どろろがコロコロと丸っこくてとても可愛いのだが、後半期にどろろの身体が実はガリガリに痩せ細っていることが発覚してヒィッてなる。あんまり食えてない設定なので当たり前なのだが、しかし、あの顔の丸さ加減はお肉ではなく頭蓋骨そのものの丸みだったのか……そんな……。
・醍醐夫妻の毒親っぷりに真面目に憤ってしまった。空想上の人物にそんなに真剣にプンスカしても仕方なくない?と思いつつも、つい。あの二人には天誅が下って欲しいと、いまだに思っている。
・やたら母性というものにフォーカスの当たる本作。正直、今時それ?と最初は思ったんだが、登場する母親や母親役のキャラが皆それぞれ人として未熟な部分があり葛藤を抱えているので、OKです。超絶母性愛で全てをミラクル解決するような話ではなくてよかった。
・登場人物がそれぞれ目の前にしている相手に勝手に理想を見出だしているような描写がちょくちょくあるのがグッときた。例えばミオから百鬼丸、おかかちゃんからどろろ、など。相手の虚像に癒されてんだな……。
・どろろが百鬼丸にかなり雑に扱われているのにも関わらず、それでも必死に彼についていく理由が、よくわからなくはある。
・親とはぐれた子犬や子猫が通りすがりの人間に必死についていくのと似たような心理なのだろうか。
・どろろと百鬼丸の絆が深まっていくのを描写するのには、24話では尺が足りないのではないかと思う。
・鈴木拡樹は天才だ!絶叫の演技が特に良い。「地獄変の巻」で背骨を取り戻すシーンなど秀逸だ。
・後半期でいちばん何度も観てしまったのが「地獄変の巻」。演出家の個性なのか単に制作時間と人手の欠乏かなのかわからないが、異彩を放ちまくりの画面に目を奪われてしまった。この話を担当した演出家が総監督する『どろろ』を観てみたい。ただしちゃんと制作費をかけて。そしたら私も微量ながらお金払うし!
・後半期の膝から崩れ落ちるようなあのOPは一体なんなの。曲そのものはいいと思うけど内容と全然合ってないじゃないか。原作漫画をそっくりそのままアニメ化したもののOPというなら納得するんだけど。アジカンにどういうオーダーしたらこうなるんだ。
・そんなOP曲に映像を作ったスタッフもびっくりしたらしいが、いい感じの動画にまとめてくれて一視聴者としては感謝しかない。
・でも『鬼滅の刃』なんか観ると羨ましくなってしまうよなぁ。こんないいOPつけてもらってていいなぁ、と。
・『天邪鬼の巻』は楽しかった。おこわちゃん可愛い。普通ああいうポジションのキャラって性悪に描かれがちだと思うけど、おこわちゃんはしっかり者の良い子で素敵だった。
・『鵺の巻』の上げ落としが酷い(誉め言葉)。中々懲りない百鬼丸ェ。
・身体のパーツを取り戻していき、喋れるようになって感情を表現出来るようになっていった百鬼丸だが、実は優しい顔に反して内面はもしかして結構、うん、性格悪い?将来ものっそいDV男になりそう。そんな危うい奴だったことが判明していくのがつらい。近距離にいるどろろがモロに精神にダメージ喰らってるのがとても可哀想。まだ子供なのに……。
・社会的弱者なKKOに同情出来るか問題の様相を呈してきた。なんて現代的で重いテーマなんだ。
・多宝丸と陸奥・兵庫の絆がグッとくる。なのにあんなことになっちまって……。
・百鬼丸と多宝丸の兄弟対決は、もはや和解の道が全然見えなくてしんどい。が、うまく和解したらしたでそれはぬるすぎる展開なのではないかと思ってしまう。
・百鬼丸が身体のパーツを取り戻すことの是非については、私個人としては、一度きりの人生なんだし他人とかどうでもいいから取り戻せば?と思う。どうせ死んだら人から恨まれようが関係なくなるんだし。
と、こんな感じの感想。
最終回、何とか色々片付いて百鬼丸とどろろには幸せになって欲しい気持ちもあるが、そうなってはぬるいという気もする。
しかし百鬼丸がコロッと死んだり重い業を背負って生きてくというのもなんか違う気がするしな。
ともあれ、今夜の最終回を心して待つことにする。