はてなキーワード: 注釈とは
ノクターンノベルズ(小説家になろうの18禁版)のランキングを「AI挿絵つき」が席巻し始めている。
今現在のランキングだと、1位と12位が全話AI挿絵付きの長編。
1位と12位はNovel AIを使用していると明記されている。
7位は明記がないがおそらくNovel AIと見ている。
AIイラストは、複数の生成イラスト間で同じ登場人物を同じように描くことが苦手だと思っていたが、それもできている。
これは、3Dカスタム少女やコイカツなどで3Dモデルを作っており、それに任意のポーズをとらせて出力した画像をimg2img機能で挿絵に変えているという考察があった。
元々、3Dカスタム少女による画像を挿絵として入れている作者はノクターンノベルズに存在したので、仮説として十分ありうる。
また、上記小説の説明を見ると、AI生成イラストに対してさらにレタッチを行っているらしい。
3Dモデルから直接出力した画像に比べて平面的に描かれるAI生成画像は、修正もしやすいだろう。
3DモデルとAIイラストの良いところを組み合わせる方法で正直賢い。
面白いのはこれがノクターンノベルズでのみ起きていて、小説家になろうでは同様の波が来ていないことだ。
これについては以前読んだこのエッセイを思い出した。
https://ncode.syosetu.com/n3823bk/2/
読み手は、それまでの人生の蓄積のなかから、既知のイメージの張り合わせを行って、描写の内容を“想像”する。
想像の難易度は、小さくて単純なものだと簡単だが、大きくて複雑なものになると極めて難しくなる。
読み手の想像そのままのプレーンな状態に、書き手の指定が、あまりに多く入りすぎると、想像に注釈がたくさん付いた状態になって、すなわち読み手の処理能力に負荷をかける。そうすると想像したものの保持自体が難しくなってくる。
もちろんネット小説と言えども小説を読んでいる人間ならば、この「想像の保持」ができないわけはない。
ただエロ小説の場合それでシコるという巨大なタスクがある関係上、「想像の保持」にかかるコストは通常の小説と異なり、少なければ少ないほどいい。
また、エロ小説というのは読者に「読者の頭の中で作られた映像」をエロく感じさせる必要があるので、本来独特の難しさがあった。
シチュエーションや感情描写やセリフにより、ある意味情念に訴えるような間接的なエロが要求された。
Noval AIは本家Stable Diffusionと違って18禁画像の生成が封じられていないので、その点非常に都合が良い。
Novel AIは、投稿画像のほとんどがpixivやエロゲCGなどの無断転載で占められる悪名高き画像投稿サイトdanbooruから学習したモデルだという。
あそこはコンプラめちゃくちゃな癖にタグ付けが異様に充実していることは以前に書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20171022133100
本当に無制限ってことはないだろうが、見かけ上の上限は無い。少なくとも50個くらいは付けられる。
キャラ名や作品名、シチュや場所を表す言葉から、キャラの人数、ポーズ、付けている装飾品の隅々までほとんどタグ化されている。
これは確かにAIにとって非常に学習しやすい環境だろうと思う。
あとネット上のあらゆる画像ではなくpixivやエロゲCGがほとんどなので、小説の挿絵的なものにはかなり向いていそうだ。
ノクターンの多くの小説に挿絵がつくようになるのも良い変化だと感じる。
ただ、それをもたらしているものが違法転載から学習したNovel AIだというのがどうしてもいただけない。
今後、法規制、クリーンなモデルの発展、Novel AIの相当多くの日本人への膾炙からの既成事実化などがあれば、自分も使うかもしれない。
もちろん、海の妖怪が人間の王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊と人間の騎士との恋愛物語を描いた先行作品が存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。
フーケの作品『ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公の人魚姫が人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである。
この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写の元ネタと考えられているものの一つに、アイルランドの海浜に近い場所に存在する某村に関する民間伝承がある。
周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである。
この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」が禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーンの歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてから、セイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。
日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪の発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し、奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。
ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間の人面魚タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたものが付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れの現場で発見されたことも有るようである。
してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である。
さて、アイルランドの某村に関する民間伝承と比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。
「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら」
根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称である。しかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。
岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的な必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ、約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?
菅原道真の家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏=菅原氏との関わりが存在するということである。
この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土の採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈の採掘にも関連・発展したことであろう。
鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林の樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土の採掘や金属の採掘・精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川で生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害や環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパが河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである。
山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏=菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害の発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパの親分であったであろう土師氏=菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか。
ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しかも角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属の精錬を象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属の職能に携わる部民」であろうと考えられる。
脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏=菅原氏という職能集団的な氏族がカッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである。
本筋に戻ると、アイルランドの海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識や能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。
上で粘土採掘や金属の採掘・精錬を行う職能集団とカッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部からは理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間は尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカの伝統的な音楽・歌唱の職能者グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せな気持ちにしたり、戦の前に闘争心を鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬と差別の心理がアンビバレントに同居している。
日本の人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身が言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。
西洋人が日本に渡来するようになると、剥製・ミイラ製造の技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパや人魚のミイラが製造されたことは、現在も日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚の形態傾向が、人面魚タイプや四脚タイプから、現代人にも親しみのある上半身人間・下半身魚タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触を果たしていた中国を通じて、もっと早い時代にミイラ製造の技術が日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚のイメージも一緒に、早期から日本に流入したという可能性は無いのだろうか。大陸や西洋からの人魚伝承の流入によって、前触れや予言というイメージが形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。
まだまだ考察すべきことは多く残る。
人頭獣身の妖怪、しかも不吉の前兆や予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実の世界と、非日常・非現実の世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れや予言なのであろう。
また古来、予言や神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠・出産が可能であることから、男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実・日常の世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたからである。セイレーンや人魚に限らず妖怪や怪物たち(例えば、エデンの園でアダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教・キリスト教・仏教などが地位を確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬と差別というアンビバレントな感情が反映された名残であろう。
最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクトの悲劇の物語とは言えるのかもしれない。
乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。
元増田です。
冗長な自分語り申し訳ない。思い出してたら止まらんくなった。一番多感なお年頃だったからかな。
自分語りの方は別に信じなくても良いよ。なるべく当時の陸自の「普通」を知ってる人に対してアピることで本筋に説得力をもたせたいとは思ってたけど、具体的すぎて話が見えにくくなった自覚はある。まあそもそも増田だしね。
俺は「自衛隊の是非に関わらず、よく知らん人の言うことや怠惰な環境に流されることなく、自分自身で見て聞いて調べていつまでも考え続けた方が良いんじゃない?」って注意喚起したいだけ。
そうでなくてももう10年以上前から常々「おまいらは情報拡散する前にまず真偽を確認しろよ、真偽不明なら目立つところにそう注釈つけるか、そもそも拡散すんなよ」って思ってるんだけど、今回はたまたま自分が深く関わる事柄だったから、つい噛みついた。
素麺といえば、個人的には島原半島産のものということになっている。これは単に、同地に私の知己の人がいるので、贈答品として頂戴して食べる機会が多いからに過ぎず、別に他の産地のものが品質的に劣ると思っている訳では無い。なお、頂くだけでなく、ちゃんと自腹で買うこともある。
最近では、女優の満島ひかりが南島原市の公式PR動画に出演したことが、彼女の怪演技の甲斐もあって、ネットでも話題になっていた。ひょっとしたら、それを観たことがきっかけで島原手延べそうめんのことを知ったという人も、世の中には存在するかもしれない。
島原半島の素麺作り産業については、以前に聞いた話だが、島原の乱によって人口が減少した際、江戸幕府が肥前の国の外部から移住者を募り、その中に瀬戸内の小豆島出身の人々がいたことから、彼らが島原半島に素麺作りの技術を伝えたとのことであった。しかし、それはあくまでも民間伝承であって、確固とした史料が有る訳では無いとも聞いた。
史料の有無や民間伝承の真実性は、専門家ではないから判断する由もないが、この小豆島由来説を何とは無しに信じている。それは、小豆島由来説が語られる際に、同時に「島原半島は、瀬戸内海と気候が似ているために、素麺作りに適している」と語られることにも一因があると思う。
中央部にある雲仙普賢岳や高岩山(たかいわさん)、島原市のすぐそばに在る眉山(まゆやま)、これらを除けば開けた土地が半島の大部分を占めるように見える。そのために、気候がカラリとしているように感じられる。これで「島原半島は瀬戸内海に気候が似ている」と言われれば、一定の説得力を感じて小豆島由来説も信じられる気持ちになる。特に海岸線の近くではそうである。
この島原半島の南部を訪れた時、島原鉄道を利用したのは、ずいぶん前のことになる。これは、諫早市と半島の北部〜東部〜南部を結ぶ、左右反転のC字形に半島の外周沿いを走るローカル鉄道路線である。あった、と言うべきか。現在は、半島東部の島原市までしか列車が走っておらず、島原市よりも南の地域は部分廃線となっている模様である。
現在は市町村合併によって南島原市の一部となっているが、旧名・西有家町という町が半島南部には存在する。この町で島原鉄道の駅に私が降り立ったのは、別に観光などが目的という訳ではなく、不覚にも乗り物酔いになり、気分が悪くなって一休みしたかったからである。
「そうめんの町」という文字が建物の壁に掲げられた無人駅舎のベンチに少し横になり、冷たいジュースを飲んで落ち着いたは良かったのだが、あいにく、次に乗り直す列車を一時間は待たねばならなかった。手持無沙汰の時間をつぶすため、駅の直ぐ傍にある神社へと行ってみることにした。境内へと登る階段は、文字通り駅舎の目と鼻の先にあり、その長さは数十メートル程と短かったが、勾配はかなり急であった。島原半島の南側地帯には、海の近くで小高い丘陵や崖になっているような場所が、幾つもある。この神社があるのも、そうした丘陵の一つであった。
別に有名な神社とかではなく、少し田舎ならば何処にでもあるような、何の変哲もない小さな神社である。境内へ登る階段を跨ぐ鳥居は、その神額に「天満宮」の文字があったから、主たる祭神は菅原道真公で間違い無い。これは、グーグルストリートビューでも確認可能である。確認した。技術革新、すごい。
よほど小さなところでない限り、神社は大抵、主祭神だけでなく配祀神も同居している。その天満宮で私は、時間だけはたっぷりあったので、主祭神・配祀神のいずれの社殿にも平等に五円玉のお賽銭を捧げて「この後、乗り物酔いが酷くなりませんように」とゴニョゴニョ唱えながら参拝した。それを済ませると暇つぶしに、私以外には人の姿も無い境内を、気ままにぶらぶらしながら鳥居などを観察したりして過ごした。どの鳥居も、冠木・貫・木鼻に沢山の小石が降り積もっていた。素朴な民間習俗を今でも伝える地元民が、願い事の成就のために投げ上げたものであろう。
配祀神は、鳥居の神額に「大神」という文字があったと記憶している。「大神」は「オオミワ」と読むのであろうと思った。残念ながら、天下のグーグルストリートビューでも、この天満宮の境内の中までは確認が出来ない。「大神」の社殿は、主祭神との差を感じさせない程度の大きさはあったように思う。
神社でオオミワといえば、その大元へ遡れば無論、奈良県・三輪山であるが、その地は素麺との縁が有る。素麺の祖先は、奈良時代に唐から伝来した食物・索餅(さくべい、見た目はチュロスに似ている)とする説が一般的である。これを模倣して作ることが、最初に我が国で始められた場所が、他ならぬ三輪山の麓周辺なのだと言われている。「すべての道はローマに通ず」ならぬ、「全ての素麺は三輪山へ通ず」といったところか。
それらのことを知った影響で「移住者から素麺作りの技術が島原半島に伝えられたのに伴い、我が国内における素麺発祥の地・三輪山から神も一緒に来たりて、分祀されたものであろう」と考え、小豆島由来説を信じる気持ちも補強されたわけである。
しかし、素麺伝来の機会や小豆島経由以外の理由でも、この地に「大神神社」が分祀される何らかの歴史的な要因があったような気がしてならなかった。結論から先に言えば、これは単なる私の勘違いだったのだが、兎も角そのような気がして記憶を手繰り寄せたところ、風土記の一つである『肥前国風土記』にある、次のような記述を思い出した。
景行天皇が、現在の熊本県玉名の辺りに行幸した時、そこから有明海を挟んで島原半島の方を見て『あれは島か、それとも陸続きの地か』と疑問に思い、使いを送って調べさせた。すると、土着の神が、天皇の使いを出迎えて歓迎し、天皇に服属する意志を示したという。
この時に派遣された使いの名前を「大神宿禰」と、私は誤って記憶していた。この覚え間違いが、大神神社の島原半島に分祀される歴史的な要因があったような気になった原因であった。しかし最近、自分の記憶を頼りに人魚の話やら南斗北斗の話やらを書き散らしたところ、ブコメ等で鋭い突っ込みを受けて大恥をかいたため、今回は手持ちの岩波書店・日本古典文学大系版『風土記』を参照した。その結果、私の記憶違いに過ぎなかったことが判明したというわけである。確認は大事。
残念ながら、天皇の使いの名前は「神大野宿禰」とあり、読み仮名も「かむおほののすくね」としてある。しかも「他に見えず系譜不明。ミワ(神)氏の支族ではあるまい」とまで注釈が付けられている。これでは、妄想を膨らませる余地も無い。
もしも「大神宿禰」という記述だったならば、その時は大変であった。きっと私は「もしかしたら、三輪山の祭祀を司るミワの支族に連なる者が、古代に島原半島を訪れていたのかもしれない。この縁によって、大神神社が島原半島に分祀されたのではないか」とか何とか、思う存分に妄想力を発揮していたことであろう。間違いを防止できたから安心しても良いはずなのだが、その気持ちよりもむしろ残念な気持ちが強い。それほど、自由な妄想とは魅力的なものということである。
さて、私は雲仙岳には登っていないが、その直ぐ近くの高岩山には、地元の人の案内で登ったことがある(この時は、まだ火砕流などの火山活動が沈静化したと認められておらず、雲仙岳の登山が再開されていなかった)。登山ルートの途中にある樹林の中や山肌には、家屋ほどの大きさがある巨大な岩石がゴロゴロと有った。これほどの大きさの岩石群であれば、それらを見た昔の人々が、信仰の念を山や岩石に対して抱いても不思議は無いと実感した。その時の私は、或る種の神秘体験に近い精神状態にあったのかもしれない。高岩山に登って同じ光景を見た人にならば、私の実感にも同意してもらえるものと信じる。
件の神大野宿禰を出迎えたという土着の神は「高来津座(タカクツクラ)」と名乗ったと『肥前国風土記』には記されている。日本古典文学大系の注釈には「高来の峰(雲仙岳)を居所(座)とする神の意であろう」とある。この「クラ」というのは「イワクラ」などと同じく「カミの宿る座・場所」という意味であることに疑いは無いが、何が「クラ」であるかまでは断言されていない。しかし、高岩山への登山で巨大な岩石を見た経験から、おそらくは岩石もしくは山頂・山体そのものが、高来津座と名乗るカミの依代や御神体だったのではないかと私は思う。もしそうであれば、三輪山の神体山信仰と類似しているので、面白い話である。「タカク」に「高来」という字を当てたのは、単に高さを表現しただけでなく、天空の高みから山頂に降り来る垂直移動型のカミであったことの顕れであろうか。
このカミの名は、高来郡(たかきのこほり、たかくのこほり)の由来となり、市町村合併以前は、島原半島の地名「南高来郡(みなみたかきぐん)」として名残を留めていた。しかし、島原半島が島原市・雲仙市・南島原市へと統合され、旧来の地名が無くなったことで、熱心な郷土史研究家などを除けば、いずれ遠からず名を忘れられるのかもしれない。
しかし、名は失われても、島原半島中央部の山に登山する人が絶えない限りは、高岩山に登った時の私が俄に古き神の気配を覚えたように、雲仙岳一帯の山岳や巨岩に対する素朴な信仰そのものは、これからも人々の精神の地下水脈として生き残っていくのではないだろうか。
【2022/10/10】続きを書いた。anond:20221010212603
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/chidaism/n/n148c43a75952
i**** | “「国葬」であるにもかかわらず、「喪主」が「国」ではなく、「安倍昭恵」だった”マジかよ草 |
s************ | え、奥さんが喪主なの? |
s******** | 閣議決定で法の根拠なく税金使って行われる国葬の喪主が私人と閣議決定された昭恵夫人で内容もお友達のお友達によるお友達のためのイベントでしかない印象。親の会社経費で高級外車買って遊び回るバカぼんみたい。 |
指摘している常識ある皆さん
O********* | 通常、「喪主」はイベントの主催者を指さない(例えば、社葬であっても喪主は遺族 https://www.e-sogi.com/guide/1563/ )のだが、人に「ものすごくアホ」とか言う割には、この人はどうも一般常識に欠ける節がある |
l*** | 間違いは誰にでもあるけど「『右翼』における『新右翼』という位置付けのものは存在していません」のとこ注釈なしで修正してるの狡いなあ。あと喪主は団体葬でも遺族やろ。中曽根さんの国葬でも長男がやった。 |
c**** | 「喪主 施主 違い」ググれ。 |
(ぽめぽめし・い)
[形][文]ぽめぽめ・し
とてもポメラニアンらしいの意。
注釈無しに「ポメポメしい」と言ってもなんとなく伝わるのがいい
例えば「ねこねこしい」で「いかにも猫らしい」というように簡単に派生した造語を作ることができる
ただポメポメしいという造語が優れているのは「ポメ」という二文字だけでポメラニアンを連想させうるということ
「いかにもライオンらしい」で「ライライしい」なんていってもなんのこっちゃとなるからな(「レオレオしい」とすればやや伝わりやすいか?だが迂遠な表現に思える)
なので「いかにも○○らしい」という意味で「○○×2しい」という造語を作るなら「○○」だけで何を指すかわかりやすくないといけない
これであとは、自分が辞めるまでに締切のある案件をやるのと、修正対応をちょこちょこやるくらい。
上司からはちゃんとした引継ぎマニュアルの作成指示が出てきた。
しかし引継ぎマニュアルつっても、俺のやってる仕事って基本的に
「案内文書をちゃんと読んで、わからない部分は先方に確認して、そのとおりにやれ」
ばっかだから、そこには出てこない注釈を経験則でつけていく感じかなあ。
やっぱりどんなにダラダラ引き延ばそうとしても3週間あれば終わってしまうのではないだろうか。
ひと月丸ごと休めるくらい有休があれば良いけど、そうじゃないので、退職前の休みは土日祝合わせて精々10連休くらいになりそう。
まあ本当にもうやることなくなったら、マジでやること無いので出勤してもパソコン前に座ってるだけになりますがどうしますかって上司に確認するか。
ネットサーフも好き放題やれるわけじゃないし、やることがないってものすごい苦痛だから、極論すれば現場のお手伝いに行っても良いくらいだけど。
しかし欠勤で休んだり退職日があまりにも早まると収入面がアレなので、適度に引き延ばす調整はしなければ。
1社辞退し忘れていたとこがあるので、辞退の連絡もしないと。
面接は残り2件。
本命の内定受諾済だし、マジで破格の条件が出てこない限り志望順位がひっくり返ることは無いけど、
こちらの我儘聞いてくれた日時なので最低限の礼儀として面接に行かせていただく予定。
あと個人的なキャリアアップとして、やっぱり社労士、行政書士、簿記2級は順番に取得すべきだと思った。
その3点持ってれば今後もし何かあっても転職にはあんま困らないだろうし、独立だってできなくはない。
この3点の資格持ってる方、勉強体験談とかあれば教えていただけないでしょうか。
頑張り過ぎず頑張ります。
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
https://anond.hatelabo.jp/20220807004927
この増田の
週刊サンケイ. 13(46)(697);1964・11・2 国立国会図書館限定 雑誌 扶桑社 [編] (扶桑社, 1964-11)
うん。
どっちも「ぐだぐだ」という意味でガバガバを使っているという話じゃないよね。
ガバガバというオノマトペがそのまま当てはまるような物理的状態に対してガバガバを使っている状況を指している。
オノマトペそのもの意味から派生して、より概念的なもの、グダグダな状態を表す言葉として使われだしたのがここ10年という意見に対しての反論としては成立してない。
と反論されている。
これもまた「物体の物理的な状態に対してのオノマトペ」であり、「仕事や段取りが上手くいってない状態」を表現しての「ガバ」というニュアンスではなく派生前のものを指している。
における「ここ10年」は「グダグダという意味が生まれた」の時期を指している。
これは日本語を母国語として12年義務教育やっていれば当然読めると思われる。
だがはてなーたちはこれを「ガバガバという言葉が生まれたのはここ10年」と読んでいる。
これはまさに日頃はてなーが馬鹿にする「十分に人との距離が離れており換気もされている屋外においてはマスクを外しても問題がない」を読めない人種ではないか。
あえて注釈を入れるが、この文章は「十分に人との距離が離れており換気もされている屋外」という条件を満たしたときであれば「マスクを外しても問題がない」という意味だ。
間違っても「マスクを外しても問題がない。何故なら屋外で赤の他人と過ごすシチュエーションにおけるお互いの距離は感染の危険がないほどに長いと証明されたからである。つける必要があるシチュエーションはハグ・セックス・大声での口喧嘩ぐらいであるが、これらは屋外では滅多に行われない。つまりマスクはもうほとんど不要と言って良いのである」ではない。
結局ははてなーもまた文章を読んでいるわけではなく、文章からイメージされる情報に対して自分の記憶を何となく結びつける人種なのだ。
まるで英語が出来ない学生がリスニング試験を受ける時のように、文法もよくわからないまま単語と自分の記憶を朧げに結びつけることでなんとか意味を理解した気になっているのである。
そしてそのことに自覚がない。
何故なら、彼らにとって文章を読むとはずっと昔からそうであったからだ。
散りばめられた単語と自分の経験や知識を組み合わせて、それっぽい話を頭の中で組み上げているだけなのだ。
言葉が法則によって並べられ、悪文でもない限りは意味が一意に絞れるような組まれ方をしているものだとは思ってない。
「アレ」や「ソレ」といった代名詞を使ったりジェスチャーや雰囲気でなんとなくお互いの考えを伝えるのと同じ延長線上にあるのである。
これは実に恐ろしいことだよ。
何が恐ろしいって自分たちがそんな状態のままで他人には「マスクを屋外でいつでも外していいってなんで判断してるの?」「ただの風邪ってフレーズだけを切り抜いて何から何までただの風邪と同じとついに暴露したって騒いでるの頭おかしいでしょ」って言うんだものな……。
何も変わらんよ。
自分たちが日頃そういう会話に参加してるから漠然とし「既に知っていること」を「なんとなく思い出して」いるだけじゃないか。
ビックリだな。
ケーキを切れないかもしれない境界に多くの人達がいるという本が前に話題になったが、ネットで他人の文章読解力を散々笑ってきたコミュニティがAlexの読解力問題を解けないというのもそれに似た話なんだろうな。
本当にひどい。
まあ面白くはある。
バブル崩壊はなぜ起きたかというと、日銀が総量規制を行ったから。
不動産と株価を抑えるだけだったら、一時的に不動産と株に対する増税を行えばいいだけなのに、
その後、過ちに気づき、2000年前後から緩和したが、財政政策を伴わない
緩和だと効果が限定的。大蔵省(財務省)が財政支出をしぼり、失われた30年が始まった。
リーマンショック時に日銀がまた引き締めを行い、日本経済を奈落のそこへ突き落とす。
財務省の操り人形と化した消費増税は議論すらしないと言って、政権を取った民主党に
文章を閣議決定の注釈に入れて官邸を騙し、日本経済の復活を邪魔した。
そして、岸田内閣によって、それが繰り返されようとしている。
俺はこの傾向を歓迎してるよ。
Brown bag meeting(茶色い紙のバッグ=ランチを持ち寄ってするカジュアルな勉強会):有色人種差別があった時代の風習のせいで差別用語扱いになったよ!(略) Lunch and learnに言い直すべきだとされているよ!
これとか注釈を入れられてるように、文化的なコンテキストを知らないと理解が難しい。正直、俺はランチを茶色のバッグに入れた経験はないぞ。Lunch and learnならランチ食べながらなんかやるんだろうなぁってのがすぐに理解できて助かる。
俺は非白人かつ非英語ネイティブというマイノリティ側の人間なので、ダイバーシティとかインクルージョンみたいな活動からは恩恵を受けることの方が大きいのでマジで助かってる。
過去に増田で映画泥棒が不快という内容ではてなブックマークが多数つけられたものは軽くググった限り2件
https://anond.hatelabo.jp/20200126093701
https://anond.hatelabo.jp/20190927161558
個人的には
そもそも映画泥棒の啓蒙内容ではなく映像の演出・BGMなどに一部の人間を不愉快にさせる要素がある
映像演出によってなんとなーく不快になったあとに、後から不快になった理由を考えたときに「お前が犯罪者かもしれないと疑っています、と言われたに等しいから不快になった」と言語化される
という仮説を持っている