はてなキーワード: 新聞配達とは
私の住む街には伝書少女がいる。
そうした勘違いは微笑ましいものとして街の人間は許してしまう。
その家の人間は「あの子はあの子なりに一生懸命なんだから」と思い、
それは伝言板であり、あるいは詫び状であったり
スープが冷めていないか実際にスプーンを渡して確かめてもらったり、
煮物を味見してもらったり DVD と一緒に千円札を手に渡したりする。
それで彼女は生計を立てている。
道路標識の意味や料理のさしすせそとは何かなどを教えていた時に、
一行の詩を説明してあげたことが全ての始まりだった。
「蝶」に対する説明に心を奪われてしまったのだ。
「二つ折りの恋文が、花の番地を捜している」
彼女は花の番地を探している恋文に、早くどこに行けばいいのか
それを三日三晩知恵熱が出るまで考えるようになった。
それが長じて伝書少女となった。
一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。その後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。
小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。
学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。
そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。
もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。
http://www.pressnet.or.jp/about/recruitment/essay/works.html
訳もなく悲しい。テレビで笑っている人が浅はかに感じる。仕事で”何でこうしたか経緯だけ聞かせて?”と聞かれるだけで涙ぐんでしまう。目の奥がジンと痛いような頭痛が続き、鉛を背負っているように体はだるい。大好きな曲も色あせて聞こえる。食欲だけは旺盛で、鬱屈した気持ちをどうにかしようと食べる、食べる、食べる。
深夜残業をして家に帰れど1人。部屋は散らかっている。美しくも、可愛げもない、貧弱な体をした二十代半ばの女。恋人もいない。出来合いのお惣菜を食べながら、わたしはこのまま生きている意味があるかと考える。かといって死ぬ勇気もない。昔全身麻酔をかけたことがあるのだけど、あの時のような眠るように意識が飛んで、起きたら不安要素の一つもない素晴らしい世界にワープしていないかと考える。誰も直に私を傷つけているわけではないのに、只々つらい。消えてなくなりたくなる。ベットに入るが寝つきは悪く、新聞配達のバイクの音が遠くに聞こえ、焦りが余計眠気を飛ばしてしまう。寝不足のまま体にムチをうち、仕事に出かける。
そうこうして暮らしているうちに、下腹部の痛みが続き、もしかして…と思うと生理がやってくる。これがわたしのPMSである。毎月ある期間になると、この世の終わりぐらい落ち込むことがあって、生理が始まるといつもの能天気なわたしに戻る。使うかどうか未定の子宮のサイクルに、否応なしに巻き込まれるのは余りに理不尽である。
また生理が始まれば、いつもの私に戻れるのか。毎月”今回こそこの鬱を乗り越えられないかもしれない…”と絶望的になりながらも、生理になるとケロっと忘れてしまうんだけど、(生理が始まらない)今とてもそうは思えない。
かといって、男性は楽だとも思えない。何十年も定年まで働かなければならないプレッシャーや、実力社会、生理がない分強い性欲のコントロール…根性なしの私では太刀打ちできなさそう。
俺の親父はドケチだった.
とにかくドケチだった.
口を開けば「カネがない」とグチった.
貧乏だった.
食う物と言えばパンの耳,着るものと言えばボロ雑巾みたいな古着だった.
ガキだった俺は友達が持っているスーファミが羨ましくて親父にせがんだ.
帰ってきたのはゲンコツだった.
そんなカネねえ,と.
ドケチなクソ親父め.
でも俺はあきらめなかった.
キャラクターをテレビの中で自由に動かせるのに,熱中していた.
根負けしたのか,なんとかしてやると言い出した.
俺は興奮で眠れぬ夜を過ごした.
どうやら友人から譲ってもらったらしい.
なんだか嫌な予感がしながら電源を入れたら,文字しか出てこねぇし,なにすりゃいいのか分からないし,
まさに「コレジャナイ~」と泣きながら手足をバタバタさせてダダをコネたい気持ちになった.
やっぱりクソ親父はクソ親父だった.
曰く,
「これさえあればゲームを作れるらしい.そんなに欲しいなら自分で作れ」
始めはとっつきにくかったが,やってみると面白かった.
「ゲームを自分で作れる」という魅力的な言葉に酔っていたのかもしれない.
これでいつか俺も,F-ZEROを作ってやるぞと,本気で思っていた.
ゴミ捨て場から拾ってきた古いベーマガを読みながら,小さなゲームを作っては楽しんでいた.
始めてジャンケンができるプログラムを作った時の感動は忘れられない.
グラフィカルなゲームは作れなかったが,友達も一緒になって楽しんでくれた.
だが中学2年に上がるころ,長年連れ添った俺の愛機が突然動かなくなった.
ついに寿命が尽きたのだ.
俺はこの世の終わりのように感じた.
まるで愛犬に死なれたような気持ちだった.
しばらく学校も休んだ.
今思えば前の持ち主から数えて10年近く,よく動き続けたものだと感心する.
ドケチな親父は,当然だが新しいPCを買ってくれるわけはなかった.
帰ってきた言葉は
「そんなに欲しいなら自分で作れ」
新聞配達で稼いだ金で少しずつパーツを買い集めた.
始めて自作PCが立ち上がった時は感動した.
親父に本を買ってくれと言ったら,始めは渋っていたが,ボロボロの技術書を何冊か古本屋から調達してくれた.
ヴォルトのアルゴリズムとデータ構造と,クヌースのThe Art of Computer Programmingもあった.
難しすぎたし技術的なところが足りないから,遠くの図書館までわざわざ出かけて技術書を借りてきては読みふけった.
学校の授業中にも読んでいた.
プログラミングの技術はもちろん,画像処理のための数学の道具についても勉強した.
同級生が2次方程式や因数分解をやっている横で,三角関数や行列計算をしていた.
特にアフィン変換には感動させられた.
こんな風に言うと,さぞ数学の成績がよかったのだろうと思うのかもしれないが,テストの点はそこそこだった.
コードを書くのに必要な概念として知っているだけで,証明問題は苦手だった.
それと,古典や社会の時間は全部すっぽかしてノートにコード書いてたから散々だった.
高校に入ったあたりでX windowシステムを使ったグラフィカルなゲームを作れるようになった.
出てきた敵を撃つだけの簡単なインベーダーゲームに始まり,オセロ,ブロック崩し,ウィザードリィみたいな迷宮探索ゲーム,思いつく物何でも作った.
友達の家にもPCがあるところが多くて,Windowsに移植して簡単なネットワーク型対戦ゲームなんかを作ったりもした.
ここまで本格的にゲームプログラミングをやっていると,さすがにジャンクパーツを集めただけのPCでは性能に不満が出ることが多くなってきた.
ビルドの待ち時間が長くていらいらしたり,友達の家で動くゲームが自分のPCで動かなかったりした.
「自分で稼いで買え」
親父はどこから取ってきたのか,俺でもこなせる程度の仕事を持ってきた.
始めはパソコン教室のバイトだったり,ゲームのデバッグだったり,まともなバイトだったのが,
ある日学校から帰ってくると,何に使うのかは知らないが,明日までにこういうコードを書けと言われて徹夜でプログラミングしたりするようになった.
プロの書いたらしいコードを読んで書き直す作業は,かなりの勉強になった.
給料は親父から手渡しで貰ったが,今まで見た事もないような額になった.
その金で新しいマザーボードとPentium IIと32MBメモリを何枚かと,自分の開発環境用にWindowsPCを作った.
こんな感じで高校には通っていたものの,勉強らしい勉強はほとんどしないで過ごした.
それでも,手に職はあるわけだし,しばらくは同人ゲームでも作って過ごそうと思っていた.
だけど親父は反対で,大学ぐらい入れと言い出した.
それでもやる気のなかった俺に,
一体何が起こった,このクソ親父,脳の病気にでもかかったかと本気で疑った.
どうやら正気で言っているらしいと分かると,俺も必死に勉強を始めた.
そうは言っても,中学時代から受験を意識した勉強なんてさっぱりしてこなかった俺には,何をどうしていいのか分からない.
しかも,やっぱり親父はドケチで,塾や予備校なんていく金は無い.
しかたがないから高校時代の友達で,頭のいい大学に行ったやつにお世話になることになった.
厚かましくも,キャンパスにまでついていったりしていたから,新入生として入って行くと顔見知りに驚かれた.
親父は約束通りPower Macintosh G3を買ってくれた.
だが,俺の親父はドケチだった.
「せっかくいいパソコン買ってやったんだから,そいつで学費ぐらい稼げ」
さすがにそいつは無いだろうと思った.
自分で遊ぶ分くらいは当然稼ぐつもりだったが,学費丸ごととは.
いくら国立大学とは言え4年分の学費となると200万ほどになる.
しかも教科書代やもろもろを考えると300万円は無いと厳しい.
300万円稼ぐために俺ができることと言えば,やはりゲームを作るぐらいだった.
志望動機を聞かれて,
「ゲームを作って300万円ほど稼ぐためです」
と言ったら爆笑された.
金が必要な理由を言ったら,一瞬でお通夜みたいな空気になったけれど.
先輩が相談に乗ってくれて,成績優秀なら学費は免除になったり半額になったりすることを教えてくれた.
それならなんとかできそうな金額だった.
プログラミングをしているだけなのに,「お勉強」として扱われるなんて.
今まで何気なく使ってきた道具に,こんなに深い基礎理論があるなんて,知らなかった.
講義が終わったらサークル棟に入り浸って,入学祝いのMacintoshで朝までゲームを作ったりしていた.
学費を稼ぐためのゲームだが,やはりエロゲを作ろうということになった.
ただし,そのためには絵師が必要だということで,先輩が漫画研究会から絵師をスカウトしてきた.
一目惚れした.
こんなちっこくてクリクリして可愛い女の子が,こんなドエロい絵を描くなんて!
俺の頭はすっかり茹だって,も~だめだ~という感じになった.
それから,なんやかんやあって,結果的に彼女は俺の嫁になった.
詳細は伏せるが,なかなかにこっ恥ずかしい青春を送った.
今まで○とか■とか,ちょっとしたドット絵でしかなかったキャラクターに命が吹き込まれるようだった.
先輩たちが,売上金を快く俺にカンパしてくれたおかげでもある.
満ち足りた大学生活だった.
スーファミはもう時代遅れになったが,自分の作ったゲームが本当に発売されて,ゲーム機の中で動いているのを見た時は嬉しくて泣いた.
娘が生まれた時と,どっちがと思うくらい泣いた.
さて,俺のドケチな親父だが,娘が生まれてほどなくして死んだ.
あんなにドケチに金を惜しんでいたのに,財産も何も残さず死んだ.
遺書を読んだら,葬儀は簡素に親族だけで行うように,とあった.
親戚付き合いらしい親戚も居ないし,どうせ誰も来ないだろうと思っていたが,
葬式当日には呼んでもないのに大勢の参列があって,なんだこれは,人違いかなにかかと思った.
なんでも,親父の運営するNPO法人の従業員だとか,親父の寄付金で建てた養護施設の代表さんだとか,
親父とは無縁の世界の住人だとばかり思っていた,立派な善人ばかりだった.
家に居ないことの多い親父が外で何をしているかなんて興味なかったし,どうせ競馬かなんかで稼いでるんだろうと思っていた.
葬儀が終わって,ちょっとした額になった香典の山を眺めていると,
「さあ自由に使っていいカネだぞ.お前はそれで何をするんだ?」
そんな声が聞こえてくるようだった.
なんだかむかついたので,その金は今まで通った学校にプログラミング関係の本を寄付するのに使うことにした.
一銭も残さずに,全部.
それでもなんだか負けた気分だったから,ボーナスをつぎ込んで,倍額にして寄付してやった.
ドケチなクソ親父を,見返してやった.
最高の気分だった.
それが6年ほど前の話だ.
ところで最近,小学校に上がった娘が,アニメに出てくるようなフリフリなドレスを着て学校に行きたいと言い出した.
もうそんなお年ごろになったのか.
子供には不自由させたくないと思っていたが,調べてみると我が子の眼鏡にかなう服は,日常的に着る服にしては,ちょっと高い.
悩ましい問題だ.
さて,どうやって安上がりにすませようか.
ぼくは小さいころお金が好きだった。母子家庭で家が貧乏だったからだと思う。電気やガスを止めたり、おやつをうちだけ少なくしたり、母に徹夜で内職をさせる。不憫だ、子どもが不憫だと時おり、母を涙させる。そんなお金の力に引き寄せられたのかもしれない。
小学校二年生までのぼくの趣味は、おこづかいや、数少ない親戚から年に一度もらえるお年玉、たとえば数千円。それを両替機で崩すことだった。全部10円に。お金が増えるのがすきだった。受け皿に硬化が落ちてくる、あのジャラジャラッ、という音もすきだった。全部10円玉になると、店のおばちゃんに数十枚の銅色の硬化を渡した。きびすを返し両替機に銀色の硬化をまた突っ込んだ。繰り返し。迷惑なはなしである。
小学校三年生に上がると、その行為がまったく無意味だと悟った。今度は本当の意味でお金を増える方法をかんがえはじめた。勉強にも友達にもそれほど興味はなかった。
最初のぼくのビジネスは、自販機の小銭と落ちている空き瓶をあつめることだった。今はどうかしらないがその頃、一本あたり10円で特定のビンを買い取ってくれる駄菓子屋があった。たとえば、コカコーラ。スプライト。
二週間後には町内の自販機地図をつくり、近所の子どもたち数名を組織化してビジネスを拡大した。上がりは折半だ。軌道に乗った矢先、浮浪者のボスに一喝されてそのビジネスはご破産となった。
次は自販機ビジネスの資本をもって、今でいう「せどり」に挑戦した。カメレオンクラブ、キャンプ、わんぱくこぞう、遊コン。情報化前夜の昭和末期。ゲームカセットの買取価格と販売価格が逆転している商品をしらみつぶしに探しては、他の店に売りとばした。これも仲のよい同級生を組織化した。仕入れの費用がない場合はぼくが肩代わりした。が、ただ、店舗が密集しているわけではなかったので、仕入れの問題であまりうまく行かなかった。そのうち同種のカセットの買取に制限つきはじめた。息の短い商売だった。
中学生になってやったのがパソコン通信のログ取得代行する、というサービスだった。今思うととこれは犯罪だったかもしれない。Nifty-serveやPC-BANの規約はもう見れないので許してほしい。日夜マニアックな議論が繰り広げられる大手パソコン通信サイトのログをダウンロードしては草の根BBSで知り合ったおにーさん達に高値で売りつけた。ただのテキストが垂涎の情報となる時代があったのだ。
小さな商売としては、ビックリマンシールの仲買。発売日前に週刊少年ジャンプが並ぶ店を見つけて手に入れ時間貸し。CDのダビングを手伝ったりした。もちろん牛乳配達や新聞配達もやった。
最後にやったのはパチンコだった。本当はアルバイトをしたかった。が、中学生を雇ってくれる福祉的なビジネスマンを当時のぼくにみつけることはできなかった。ぼくの世代には一時期これで食べていた人が多いと思う。といってもぼくが中学生の頃なので、羽根物・権利物・フィーバー機など釘の甘い台をみつけては打ち止めにする。という同世代のパチスロプロより1つ前の世代だった。あからさまな中坊がパチンコ屋に来ても見て見ぬふりをしてくれる、牧歌的な時代だった。LUNA SEAが有線放送でよく流れていた。軍艦マーチももちろん流れていた。
そうしてぼくは晴れて16歳になり、まっとうに労働を金銭と交換し、またそれの再生産を繰りかえす立場となった。
ぼくはなるべくして中卒になった。1つも願書を出していない。
義務教育、学校に行く理由がまったくわからなかった。お金を稼ぐ事以外世界に意味がないと思っていた。だれも勉強をする理由を教えてくれなかった。貧乏な家の親、多くの市井の公立小学校の先生にはそれを子どもに説明する能力が、ない。ぼくも30をすぎてようやく勉強をする理由を先人の言葉を使って説明できるようになったくらいだから、無理もない。
高校へ通うには学費が多くかかると知った。これも進学しなかった理由の一つだ。さすがに15歳の僕にもわかる。母親の稼ぎだけで四人の年子が高校に行くのは不可能なことを。ぼくが行けても下の弟二人はきっと中卒だろう。
中学三年の担任は、進路相談でぼくが進学しないというと、とりあえずその場をなあなあで済ませた。その後、考えをあらためさせるべくぼく親友、山根を狩り出した。ぼくの説得を試みたのだ。まったく進学しない中卒は珍しかったらしい。無論、とりつくシマもなく断った。二人の目には、ぼくの事が、世界中を敵だと考え怯える、野生児のように見えたと思う。そんな目をぼくはしていた。
その後、労働でお金を稼ぐことより、お金を作る仕組みのほうに興味を捨てられなくて、自分で商売を始めるんだけど、それはまた別の話。
ラジオを聴くと何でか退廃的というか、憂鬱な気分になる。それもどのラジオを聴いても退廃的な気分になるのではなくて、ある特定のラジオ局をお昼とか夕方の時間に聴くと、そうなる。
なんでそうなんだろうと理由を考えてみる。
憂鬱な気分にさせるラジオ局は、全国で流れるFMの系列だ。(詳細は伏せる)
お昼はおそらく東京のスタジオで収録された番組で、夕方は、地元局の独自編成の番組だ。
それを聴き始めたのは中学生の頃で、その頃ボクはどこにでもいる不登校の中学生だった。
まだネット環境、どころかPC環境すらなかった。その頃ボクがどうして時間を潰していたのか、謎である。
おそらく新聞配達のバイトをして稼いだお金で、雑誌を買い、或いは画材を買って、絵を描いていた。
そう、新聞配達のバイトをしていたのだから、そこまでコミュ障ではなかった。むしろ、時には学友と遊ぶ日だってあった様な気がする。一学期に一度くらい。
とにかく様々な要因があって、ボクは中学校に行きたくなかった。
「学校は?」
ボクと、ボクの家族は、不登校であることを周りに秘すべきことであると考えたので、曖昧に答えた。
嘘をついているような気分になる。
そして、その時に流れていたのが、ラジオだった。
それは、不登校の中学生向けには作られていなくて、ボクはそこでも密かな疎外感を味わった。
ああ、それでか。
アラキ・タツヤ・コドーで検索してもろくに情報が出てこないのは何なんだよ。
公式サイトによればそれなりの権威があって伝統的にその業界で活動してるような人物らしいのに。
https://sites.google.com/site/kinkoryukodokai/arakikodo
被害者は大学生だとか新聞配達だとか事件と関係なさそうな情報まで見出しに書かれ、年齢も被害者側だけが書かれてる。
被害者が何歳の女の子でどんなわいせつ行為されたかは重要だけど、犯罪者の経歴は最後のほうに載せときゃいいみたいな雑さ。この事件で重要なのはそっちだろ。見出しも「尺八奏者の五代目、わいせつ疑いで逮捕」にしろ。
境遇が似ている
ただ、自分は弟はかわいいと思えなくて、いま大卒一年目にしてニートになっていて母親が姉の自分に愚痴を垂れるのでかしましく思っている
宗教は信じていなかったけど、大学は母が喜んでいるのがうれしかったので名前がまんまの大学に入ってしまい、卒業はしたものの、何を学んだのかよくわからなかった
同級生に二人か三人かくらい仲良くなれたひとはいたけれど、大半は情熱的な姿勢についていけずに距離を置いていた
いまもときどきFacebookで関連性のある投稿の内容を見るたびにげんなりした気分になる
学校は間違えてしまったかもしれないと思ったけど、地方から実家を出てひとりで暮らして地元ではない場所でぐだぐだな生活を営めたことは良かったことだと考えている
母に首をしめられたことは自分もある
でもすぐにはなしてもらったからあのような鮮烈な記憶にはなっていない
いま思い出しても、あれだけでもこわい記憶で、この親には注意が必要だと思わせるには十分な根拠のひとつ
父は自分とはまだ話が合う
だが父は長年まともな職業につけず、ずっと母親から稼ぎが悪いし家のことも手伝わない、向かいの家の旦那さんは市役所勤めなのに家のことを手伝っている、云々と散々けなしてきたので、母が好きな弟は徹底的に父を嫌っているが、宗教についてのことを抜けばまだ話ができる
いきなり母の実家の旅館をつぐためにほかの地方から出てきて、結局旅館が務まらず、清掃業をメインに働いてきたひとだ
(余談だが、母方の旅館は間もなくたたむことになり、跡地に実家である我が家と母方の祖父母の家がある)
母は父のことを稼ぎが悪いといい、いつも彼女の母、つまり自分の祖母に金を無心していたらしい
それなら自分も働けばいいのにと今なら思う
そういうと、働いていたという
新聞配達もしていたし、ほかにも働いていたという
でもなぜなんだろう、自分の記憶の中には母が働いていたという記憶が少しもない
母に関心がなかった
よくわからない
弟もまた自分と同じ母の望む大学を卒業したけど、案の定働き口を見つけられていない
彼は母の、この地域は部落が多いから人間性がよくない、引っ越したい、という発言をうのみにして、大学を出たらそのままそこで就職すると言って出ていったはずだった
だけど結局家に戻ってきている
彼と自分は姉弟だが、お互い連絡先を知らない
そのくらいにはお互いとかかわるつもりがない
先日、五年ぶりくらいに両親にわかるように彼の現状をいろいろ話をしてあげてほしいと話しかけたが、それ今じゃないとだめ?とすこぶる億劫そうに面倒くさそうに布団の中から返された
彼の学費の援助もしたし(本人は学校をやめると言っていたようだが)、今も実家から時折生活費をお願いされていて彼はそこで一切働かず寝食をしているのに、それについて感謝されたことは一度もない
(母親が、お礼を言いなさいと無理やり弟に言わせようとしたことはある)
あと両親が老けていくことが目についてきたので、子供に会うとうれしいだろうと勝手に見積もって、ぼんやり一緒にテレビを見たりする
大学を出てしばらく二年くらいバイトを転々としていて、お金がたまったから家を出た、決めてから一か月くらいで荷造りや搬入、アパートの契約などすべて済ませた
もう三年は経つ
自分はまだ働いていたけど、母親が自分の洗濯以外の家事を手伝わないことを気にしていて、時々口喧嘩になったときにそれを持ち出すのがいやだったので家を出た
幸い家を出ることに両親の抵抗はなかったし自分は五体満足だったので、すんなり独り暮らしははじめられたし、両親、主に母親との仲も落ち着いた
宗教は、ちなみに、ついてまわった
引っ越し先を教えるなと母親に言っていたのに、教えてしまったらしく、いわゆる引っ越し先の担当が家をたずねてきて血の気がひいて、しばらく落ち着かないこともあった
母親は最近は金を借りていることに引け目があるのか、どうにかしてほしいと言ったら、何か対策を講じてくれたらしく、音沙汰はなくなった
今のところ平穏に過ごせている
生まれて間もなく入会させられているというよくある状態なので、退会したいけど、その話をしたら勘当とかドラマみたいなこと言い出してヒステリー起こしてめんどくさかったので、両親がなくなったら退会しようと思っている
退会はめんどくさそうだが、両親がいなくなったら今度は直にこちらにくることは目に見えているし、それはめんどくさすぎるし、幸いなことに口の立つ親しい人間がいるので巻き込むのは本当に申し訳ないけど手伝ってもらおう
自分はまだ運が良いほうだ
この匿名ダイアリーを書いたひとの手助けができたらいいのにとも思うけど、何ができるのか思いつかなかった
だったら、まだ救いというか、安らぎになっているのかな、そうだといいのに
中川「えっどうしてです?」
両津「こいつのどこがえらいんだいったい!」
中川「ちゃんとまじめになったでしょう。えらいですよ」
両津「えらいやつってのは 始めからワルなんかにならねえの!正直で正しい人間がえらいにきまってるだろ!こいつなんかわがままで勉強もしないでやりたい事やって それがやっとふつうのレベルにもどっただけだぞ」
中川「でも…」
両津「(元不良少年に向かって)おまえなんかおまえの大好きなパンテーラにあのやかましいバイクで正面衝突してフォーカスかざった方がよかったんだ」
両津「そういう部長もよくない!ごくふつうにもどっただけなのにそれをえらい立派だとあまやかしてるでしょうが!ひねくれるのは自分の勝手なんですから!こいつから金とられたまじめな学生やバイクとられた人の方が悲惨でしょう!?『正直者がバカをみる』の手本を示しているこいつのどこが立派なんすか?同じ年で新聞配達などしてがんばってる少年の方が立派でしょうが どうしてそんな単純な事が分からないのですか!部長」
両津「だからこういう連中を救ってやる必要なし!おちるやるは最後まで落ちていいし もどりたいやつは勝手に戻ればいい 自分できめる事!」
有休取った日は代わりの人が配達するのよ
代わりの人が配達するときは当然いつもその地域を配達している人じゃないから
間違うこともあるんだよね
朝夕刊どちらも取ってるおうち、朝刊だけのおうち
夕刊だけのおうち、日曜版は配達しなくていいおうち、といったように色んなパターンがあるから
間違うこともあるんだよね
配達員にとって紛らわしい建物があったり、部屋番号を間違えやすい部屋というのもあるから
間違うこともry
ちなみに、配達するときは大抵何部か余分に持って行くので
間違って配達しなくていいおうちに配達しちゃっても
余程大量に間違わない限りは予備分で補えるんで心配には及びませぬ
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
話題になっているので読んでみたが、いろいろと衝撃だった。
http://anond.hatelabo.jp/20130813213536
それからこれを読んで、ああ、なんか近いなと思った。
この手の話題は、こどもを持った今、ますます考えさせられる。自分がこどもに与えている環境は、一体どういったものなのか。
家庭で話題になること、親のすること、家にあるもの、すべてがこどもに対する環境である。こどもの世界はとても狭く、そこから受ける影響は計り知れない。それを気にしているかいないか、というのはとても重要なことだと、今本当に思う。
私 自身は、超とは言わないがまぁ高学歴一家に産まれた。いつからか知らないが、医者の家系だ。父の兄弟はみんな医者もしくは医者の妻であり、妻たちはたいて い薬剤師だ。母も大卒の高校教員だった(結婚するまでの数年だけ)。父方のいとこたちは当然、みんな医者で、女であれば医者との見合い話が転がり込んでく る。医者にならず医者の妻にもならなかったのは私と兄だけだ。
母方のいとこたちは医者プレッシャーは特にないが、大学を出て一流企業に勤めたり公務員になったりする人から、引きこもりまで様々だが、親の世代はみんな女でも大卒だ。当時にしたら高学歴ファミリーだと思う。
こんな家系に産まれたので、当然私と兄にも医者になれプレッシャーはあった。プレッシャーというより、医者以外の職業をほとんど知らなかった。だから『なり たい』という気持ち以前に「大きくなったらお医者さんになるんだろう」くらいに思っていた。親戚のおじさんおばさんにも「何科がいいのかな? 皮膚科なん て楽って言うわよ」とか「お医者さんの奥さんになるのね」とか、もうそれ以外の選択肢は全くみんな頭の中になかった。
私の産まれた街は田舎 なので、私がこどもだった30年くらい前には自営業以外はほとんどいなかった。そもそも、いまでいうサラリーマン的な人が働く職場はなかった(と思う。少 なくとも当時の私には見えていなかった)。何屋さんのなんとかちゃん、みたいな感じで、家業とその家の人が結びついていた。街中の友人の実家はみんな何か 家業をしているし、ちょっと離れたところはみんな農家だ。たまにお父さんが外国にいて帰ってこない家があったが、それが「商社の駐在員」である、というと は、これっぽっちも知らなかったし、知っていたとしてもきっと「しょうしゃのちゅうざいいん」のしごとが具体的にはわからなかっただろうと思う。お父さんがテキ屋さんで「こようそくしんじゅうたく」に住んでいる友達もいたが、その子と遊ぶなと言われる意味が分からなかった(のでもうしょっちゅう遊んでいた)。
今 大人といわれる年齢になって、いろんな人と出会い、ようやく世界にはいろんな仕事があり、いろんなルートでそうなれる、ということがわかってきたが、こど もの頃の私には「医学部にいって医者になる」「法学部へいって弁護士になる」「薬学部へいって薬剤師になる」「家を継いで○○屋になる」ほかは、あまりピ ンと来なかった。それ以外の世界との接点があまりにも少なかった。
今話題の「低学歴の世界」と同じく、おそらくは「高学歴の世界」の住人だったが、それ以外の世界について知る機会もなければ教えてくれる人もいなかった。
人 生の転機は小学校のとき。父が死んだ。父は開業医だった。残された母は、親業も家事もとことん 苦手だった。家の掃除も出来ないので、父の死後もずっとお手伝いさんがいた。私の世話もお手伝いさんの仕事だった。ゴミの分別も出来ないので、全部まとめ てゴミ袋にいれ、ずっと自宅に清掃業者がゴミをとりにきていた(有料)。道ばたにあるゴミ収集所が無料で使える市のサービスだと知ったのは高校生くらいの ことじゃないかと思う。
それでも私は自分の家は超貧乏だと思っていた。なぜならお金を稼いでくる人が死んでしまったのに、母が無職のままだ からだ。公立の学校もお金がかかっていると思っていた。保険金とか、遺族年金とか、寡婦年金とか、全然知らなかった。学校ではうちが母子家庭だと知った先生に「生活保護を受けたらどうか」と言われて(そのあと「お父さんはなにしてたの」「医者です」「あ、それは失礼した」というやり取りがあった。)そ れを母に言うと、うちは生活保護は受けられない、と言われた。中学から新聞配達のバイトをしようと、新聞屋を回ったが、何処もやらせてくれなかった。高校 に入ってすぐバイトをはじめた。いつも飲食店で働き、食費を浮かせた。そして、父の残したわずかばかりのお金を食い尽くすだけのニート母にものすごい嫌悪 感を抱いていた。あるいは借金もあるかもしれないと思ってびくびくしていたし。家族旅行は父が生きていた頃もお正月に近場の温泉に一泊するくらいだったし(開業医だったので学会などの出張時に代理の先生が頼めるときしか家から離れられなかったらしい)、父が死んでからはそんなことはしたことがない。仲の良い友人たちから家族旅行の話を聞いたり、留学した友人たちを見て、いいなぁ、お金がある家は、と思っていた。
私自身は、高校は田舎なりの公立の進学校に進学したものの(田舎なので公立のほうがレベルが高く、私立は滑り止めという扱 いだった)、大学には行かなかった。家は超貧乏だと信じ込んでいたので、国公立で年間80万円くらい、4年で300万円以上の学費、それに生活費。そんな お金なんてひねり出せないと思っていた。当時は、今だって毎日バイトしたって月に数万円しか稼げないのに、学費生活費を全部自分で稼ぐのは到底無理だと思ってい た。今となればなんと視野が狭かったんだろう、自分でリミットを決めてもったいない、と思うが、当時はそういう風には考えられなかった。母には「医者か弁 護士になるなら投資するがそうでないなら大学へ行く必要はない」と言われた。投資する気はない、と。「あんたはどうせ医者にはなれない」。母はよくそう いっていた。
投資ととらえるととてももっともなのだが、当事者かつ思春期の娘としては、これはとてもやる気を削がれた。彼女はこどもを投資物件ととらえており、さらに医者か弁護士以外は価値のない人間だと言っている。そして娘は投資対象として適切ではない、つまり価値がない。
こ どもが育つ上で一番大切なのは『無償の愛』を感じられるということらしいが、そういえば私に注がれる愛情はいつも有償だったなと、今になって思う。プロセ スをほめられることはなく、絵画で賞をもらっても、賞をもらった絵ではなく賞状をあがめられた。賞状だけ集めていれるファイルはあったが、その肝腎の絵を とっておく仕組みがなかった。学校の成績で上位何番以内に入るといくら、というのもあった。勉強はお金をもらう為のものだった。
こういうのも、環境の一部だ。
私はこういう環境から、自分は価値がない、というメッセージを受け取り続けてきたのだろうと思う。これは自分のこどもには絶対にしたくない。
と、話はずれてきたけれど。
まぁ、そんなわけで、私は高学歴一家の中の落ちこぼれである。ただ、落ちこぼれたと言っても、やはり「低学歴の世界」の話をブログで読むと衝撃だったけど。落ちこぼれたおかげでかどうか、いろんな人たちに会い、いろんな世界を知り、選択肢は沢山あるのだなぁ、というのを今になって感じで来た。高学歴の世界の住人たちとも付き合いがあるけれど、最初から高学歴の世界の住人だったひともいれば、そうでないひともいる。全くの低学歴ででも、高学歴の世界にすっとなじんでいる人もいる。本当にいろんな世界で育って、いろんなルートで、今そうなっている人がたくさんいる。
あのままあの世界にいたら、親戚友人知人は医者だらけで、自分も医者になっていたか医者と結婚していたのだろうと思う。そちらがよかったかどうかと言うと、どうもそうとは思えない。それは高学歴の世界が嫌だというのではなく、あまりにも選択肢が狭いためだ。
こ どもの頃は世界が本当に狭かった。職業は医者弁護士以外にも選択肢がたくさんあったし、医者弁護士になれないからと言って人生終わったわけで はない。高校は基本学区内で一番偏差値の高いところに行かないと行けないと思っていたし、学校の成績で平均値をとると馬鹿だと思っていた。大学はあんな親にお金を出してもらっていくなんて胸くそ悪すぎ る、そもそもそんなお金ないし、と思っていた。でも、本当は高校なんていくらでもあるし、世界には大学まで無料で行ける国も沢山あるんだ。世界は広く、選 択肢はとても多い。
選択肢が沢山あるのだということを、こどものうちにもっと知っていたかったと思う。本当に。高学歴の世界の住人たちのなかにもほかにもきっと他の選択肢を現実的に受け止められなくて、自分の世界に適応できずに苦しんでいる人もいるに違いない。私みたいに落ちこぼれてしまえばあきらめもつくけれど、そう出来ないと自分で命を落としたりする。
高学歴であれ低学歴であれ、選択肢があることを知っているか否かは大きいと思う。こどもにとっては親とその親の作り出す環境がすべてなんだ。私は高学歴の世界の住人じゃなくなっちゃったけど、いろんな選択肢があることは伝えたい。そういうことも含めて、大人たちはもっとその環境に気を配るべきなんだろうな、自戒を込めて。
ブラックバイト:横行 正社員減り、学生悲鳴 契約無視でシフト/試験前も休めず 中京大教授、500人調査
http://mainichi.jp/area/news/20130808ddh041100012000c.html
この記事を読んで、真っ先に思い浮かんだのが新聞奨学生だ。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/141/syuh/s141012.htm
しかし、各社の奨学生募集パンフレットに表示された労働条件がそのまま守られていることはほとんどない。即ち新聞奨学生も専業の労働と同様、朝三時頃からの朝刊配達、夕方四時からの夕刊配達に加え、深夜に及ぶ集金業務、そのほか古紙回収、部数拡張等の業務を課せられている。その上奨学生は日中学校に通うことが前提である分、その労働と生活は専業の新聞販売労働者にくらべても過酷である。また、休日出勤の常態化、給与の遅配・欠配、健康診断を実施しないなどの労働基準法違反・労働安全衛生法違反の実態も専業労働者と同様である。新聞奨学生は、奨学生をやめると奨学資金を一括返済しなければならないため、奨学生をやめたくてもやめられない。このような状況で、学業放棄においやられる学生が発生している。
前借金による拘束で廃業の自由もなく、新聞配達のために学業や就職活動に支障をきたし、最悪のケースでは過労死した例もある。
マスコミが行なっている事業なので社会問題化することはまずないだろうが、「新聞社はどの口でワタミを批判するのか」とすら思えてくる。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/141/touh/t141012.htm
労働基準法第十七条は、使用者が前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金とを相殺することを禁止している。
新聞奨学生は使用者である新聞販売店の事業主と労働契約を締結するものであって、新聞社等は当該学生の使用者には当たらないこと、また、奨学資金に係る債権と賃金とを相殺するものではないことから、新聞社等が、その系列の新聞販売店で一定期間働くことを条件に新聞奨学生に授業料等に相当する額を奨学資金として貸し付け、当該奨学生があらかじめ定められた期間働くことなしに当該新聞販売店を退職した場合においてその全部又は一部の返済を請求したとしても、御指摘の前借金相殺の禁止を規定する労働基準法第十七条には違反しないものと考える。
使用者と債権者が別であれば、前借金相殺には当たらないそうだ。人身売買やりたい放題じゃないか。
このロジックだと「金融業者が系列の風俗店で働くことを条件に女性に金を貸し付け、女性が風俗店を退店したら一括返済を求める」ような事例でも、労働基準法には違反しないことになる。
(参入障壁が低い)低賃金(単純)労働市場しか雇用先は残りません
(新聞配達女子は、10代にして、下側に行ってしまったということです)。
上側は、参入障壁が高い分賃金も高いのですが、しかし雇用の絶対数が少ない。
下側は、参入障壁が低い分賃金も低いのですが、雇用の絶対数は多い。
一見すると、一長一短に見えるかもしれませんが、重大な側面を見落としてはいけないと思います。
そう「下側は、競争が極めて激しく、世界中の労働者がライバルとなる」という事実をです。
都内のコンビニや居酒屋の店員はほとんどが外国人になっていますが、その領域がどんどん拡大すると思ってください。
で、俺が「脱社畜のブログ」を見るたんびに思うのが、まさにこれな訳。「脱社畜したサラリーマン」が「(参入障壁が高い)成長産業市場」にほんとうにいけますか? ってはなし。断言しても良いけれど、日本のサラリーマンの8割は、そっちにいけないよ。
上の文章では、「(参入障壁が低い)低賃金労働は競争が厳しい」みたいなことを書いてるけれど、「(参入障壁が高い)成長産業市場」だって別の意味で競争が激しくなることは予想に難くない。+いままでよりもそっちに行きたい人が増えるんだから、ハードルがあがる。そう、まさにその「行きたい人が増えて、ハードルがあがる」という時点で、キツイと思うよ。
何らかの技術を身につけるってのは「(参入障壁が高い)成長産業市場」にいくための手段なんだ。そんでもって「(ほぼ自明である)手段を選べる」ってのは、これはもう、性格とか性向の問題。日本人は「毎日競争の中で生きる」ことに、あまりにも慣れていない。それは戦闘能力ではなく、むしろ、緊張感を持って生きるという、サバイバリティに近いものだよ。
いま、経済的に格差があるという現実、いわゆる格差社会問題というものがある。その事実は認める。それを解決したいと思う人が相当数いて、さまざまな側面から望まれているのは、判る。俺だって穏便にそれが解決されるのであれば、解決したいと思う。
しかし、この問題のポイントは、アホなやり方で解決しようとするとかえって格差が広がり、その格差問題を社会にまき散らかしてしまうことだと思うんだよ。経済的な格差をへたくそに解決しようとすれば、経済的な格差は社会のあちこちに飛び散り、より大きな問題になるだろう。さらに悪いことに、そのとき経済的な格差はさらに大きな毒を連れてくると思うよ。
「脱社畜のブログ」に頻繁に現れる「イノベーション」ね。経済雑誌にも良く登場する。あいつら本当に「イノベーション」なんて起こせると思ってるんだろうか? もちろん、確率的な問題で言えば、世界中でイノベーションは起きてるし、起き続けてるよ。絶え間ない改善だの革新だので世界は進んでいる。でも、まさに個人の問題として、本当に引き受けるつもり、あるのかな? たとえばある増田が「(参入障壁が高い)成長産業市場」になんとか潜り込むことが出来たとする。そこで言われる「さあ、イノベーションを起こして下さい。そしてこの会社の(企画の、プロジェクトの、業界の、部門の)生産性を150%にしてください」と。
断言する。それって、才能なんだ。8割以上の人間には「イノベーション」なんておこせない。
俺は幸いそういう業界にいたこともあるし、周辺で「イノベーション」が起きるのを見たことがある。自分でも小さいながらいくつかのそれに参加したよ。「イノベーション」ってのは、ざっくりいってしまうといま日本で考えられているいわゆるサラリーマンのする「仕事」じゃない。サラリーマンという身分の中で行う「クリエイターのデザインワーク」に近いものであり「政治的な構造改革」だったりする。その事実の重さを、「脱社畜のブログ」だのはどうにも茶化しているようにしか見えないんだよ。
話をがらっと変えるけれど、Pixivを見てみる。
この20年で「イラストを描く」という行為の敷居はぐっと下がった。パソコンによるデジタルな彩色なんかのと有情で、効果な消耗品である絵の具などはすっかり減ったし、なによりイラストSNSなどがこうやって大きくリュウセイし、人に見せる環境がととのって、ネットには教材が溢れた。日本の創作系の力は、全世界で見ても異常だよ金ももらってないアマチュアがこんなに上手で、しかもその数が莫大なんて、ちょっと珍しい。まぁ、それはいいとして、システムが整備され、敷居がすごく下がって、参入者が増えた。
で、そこに現れたのは、平等な楽園かというと、そんな事ないわけだよ。
創作系ってのは非常に無慈悲に出来る、出来ない、魅力のあるなしが峻別されてしまう。いまや、イラスト1枚書く障壁は神のように薄い。てもとにあるノートの切れ端に落書きをしてスマホで撮ってUpしてもいい。WinだのMacだのに標準付属してるようなお絵かきソフトをつかいマウスで20分でかいたのをUpしてもいい。事実「そんなもの」が大きな魅力を持って人気を集めるなんてままある。その一方で、Photoshopをはじめとしたン10万円のソフトを使っても、ブックマーク数1だの2だのって現実も同時に存在するんだ。
現れたのはこういう現実だ。
日本の労働環境は確かに劣悪かもしれない。むかつくかもしれない。ある種の地獄かもしれない。でも、それを壊したからってマシになるとは限らない。「社畜が自己弁護」とか「ブラック用語」と言われるかもしれないけれど、これが素直な感想だよ。ブラックで使われてる人たちの、少なくない割合は、ブラック企業に守られている。身体だの精神だのを切り売りさせられてるかもしれないけれど、少なくとも「俺は本当ならもっとクリエイティブですごい仕事が出来るんだ」という幻想は、守ってもらえている。「イシキタカイ系」の人たちは、その事実をもうちょっと考えた方が良いと思うぜ。
http://diamond.jp/articles/-/23352
これ読んだ。
俺の生育環境がまさにそうだった。父親とは6歳くらいのときに死別、当時の金で200万以上の借金が残り、母親は返済地獄で、朝は新聞配達、そのあとは事務職で働き詰め。そのストレスの反動からか男関係は派手になっていく一方だった。自力で借金を返したのはずいぶんと偉かったのだな、といまになれば思うものの、男関係はどうにもならないくらい破綻し、最後には地元を飛び出ることになった。
当地での生活は30年前なりの極貧といってよかったと思う。子供のころは文房具すら満足に買ってもらえず、道端に落ちていた新品に近い鉛筆を拾って喜んでいた記憶が鮮烈にある。かろうじて食うものは食わせてもらえたが、子供のころの俺の心配は、主に「母親が消えたら食うものがなくなる」ということにあった。実際その心配は別に子供らしい杞憂ということでもない。連絡なしに一晩帰ってこないことはそこまで珍しいことではなかったし、とても現実的なものだった。
低所得者向けの公営住宅では、周囲の環境も似たようなものだった。知的障害のある子供を抱えた過程が極端に多かった。そもそも両親揃っている家庭が珍しい。昨日までいた子供が今日いなくなっている、ということは少なくとも数回あって、そのうちひとつは船から落ちたとのことだったが、どこまでが事故だったのか、そのことはよくわからない。ご多聞に漏れず、家のなかではふつうに歩いているのに、外では足を引きずっているような人も多かった。
逃げるような状況で都会に出てきて、家は狭かった。家族4人で二間で生活するような状況で、俺はひとり暮らしを始めるまで個室というものを与えられたことがない。中学の進路相談では「うちの子供を高校に行かせる気はない」と出し抜けに言われて、俺は呆気に取られた。
成績は悪くなかった。勉強らしきことをほとんどしたことがなくても、余裕で公立の上位校に行けるだけの学力はあった。頼むから高校は行かせてくれと親に頼んだときのことはよく覚えている。
環境というのは、与えられればそれが「あたりまえ」になってしまう。俺にとって、勉強をするというのはなにもプラスのことではなかった。本が好きな子供だったが、うちでは本を読むのはむしろ「悪いこと」に属した。高校に行くことに関して親が前向きでなかったのもあたりまえのことで、それは金がかかるからだ、という事情もよくわかっていた。そして頭を下げながら、それでも俺は少しだけ思った。
「なんでみんなあたりまえに高校に行くのに、俺はこんななんだろう」
進学した高校は、公立中位くらいの、大学に行く人間もいない人間もいる、くらいの高校だったが、その程度の高校とはいえ、俺は成績トップクラスを維持しつづけた。学校は嫌いだったが、勉強は嫌いではなかった。テストで点数を取るのはおもしろかった。国公立の四大への推薦という話もあったが、それは出席状態の悪さで消えた。
大学に進学しなかったのは、経済的に無理だった、というのもあるが、それ以上に俺自身にまったく進学する気がなかった。18年も学校というものに通って、このうえさらに4年も通う気にはとうていなれなかったからだ。
さらにいえば、俺の周囲に、俺を大学に行かせようとする人間がだれもいなかった。奨学金なんて制度の存在も知らなかった。大学に行けばどんなことがあり、その先の進路にどういう違いがあるのか、だれも説明できる人はいなかった。で、その当時の「大学」というものの通念は「4年間遊ぶところ」というもので、それを信じた俺は、だったら別にそういう場所には行かなくてもいいと思った。
つまり、俺にとって、勉強というものは「なんの意味もないもの」でありつづけたわけだ。学ぶ内容はさておき、基本学力というものがいかに重要であるか、そしてなにより学力をつける方法論を知っていることがいかに大事なことかを知ったのは、実際に自分と似た境遇にあった高校生たちを見るようになってからのことだ。
それでも俺には「読書」という方法があった。気がついたときには活字中毒といっていいくらいの本好きだったから、この世界に甚大に蓄積されている知の体系に触れる方法だけは知ることができた。たぶんなんだかんだで成績を維持できたのも、読書の習慣があったからだと思う。
小学生のころ、ゴミの日にはよくゴミ捨て場を回った。学校の図書室の本は読み尽くしてしまった。公立の図書館は子供が行ける場所にはない。それで、捨てられている雑誌を探した。活字と名がつけばなんでも読んだ。家に持って帰れば親に捨てられるかもしれない。隠し場所には苦労した。自分には未来があるなんて完全に想像の外だった。いま、そのとき本が読めればそれでよかった。
中学校・高校とゲームセンターに入り浸っていた。そこには、某アニメーション学校の声優科の人たちが常連でよく通っていた。彼・彼女たちは全員18歳の若者だった。
僕は彼らより3つ年下だったが、すぐに仲間に入れてくれた。面倒見が良いお兄ちゃんやお姉ちゃんができたようだった。
夜、こっそりと家を抜けだしては、友達になったゲームセンター店員に無料クレジットでバンパイヤを遊んだり、オールナイト1000円のカラオケでアニソンを朝まで歌ったりしていた。毎日毎日が本当に楽しかった。
初めてお付き合いした女の子もそのグループの中のひとりだった。半年付き合ったが童貞の自分は「キス」がやっとで、最後までする前に別れてしまったが今となっては甘酸っぱくも良い思い出だ。
彼らは、みんな生き生きと声優や役者、歌手・ナレーターを目指して輝いていた。一方の僕はと言えば、受験勉強で悶々とし、モラトリアムで何をやったら良いかわからず、卒業講演やオーディションに励む彼が本当に羨ましかった。
僕は36のおっさんになった。
受験を頑張らなかったため都内は諦め地方の大学に行き、就職氷河期に凍え、ブラック企業に入って苦労し、転職したりフリーになったりを繰り返しながら、なんとかここ数年はやりたい大きいシゴトにも恵まれ始めていた。
そんななか、あのゲームセンターが取り壊されると連絡があり、みんなで久しぶりに集まることになった。
自分の青春を彩った当時の仲間に会えることに僕は心からときめいた。もしかしたら、声優の夢を叶えて12チャンネルの夕方のアニメで出てる奴や、舞台俳優とかで頑張ってる奴とかいるのかななんて思った。
集まったメンバーはみんな歳をとっていたが、それなりに元気そうだった。
でも、なんとなくあの頃の目の輝きはなく、すすけていた。
今、なにやっているの?と聞くと、
カラオケ屋の店員、
ゲームセンター店員、
新聞配達員、
そんな答えが帰ってきた。
僕は意外だった。どんなことがあっても「声優」を目指し何度も「オーディション」に挑戦し、「絶対に声優になってみせる」とキラキラと輝いていた先輩たちの姿は、そこにはなかった。
その日来ていなかった、あの子が気になって聞いてみると僕と別れてからすぐに、メンバーの1人と結婚・出産したという。実は彼女は相当な「させこ」だったようで、そこに来ていたメンバー何人も関係を持ったらしい。
知らなかったのは自分だけだった。
今は離婚・再婚を繰り返しどうなっているかよくわからないという。最後に会った人によると夜のお店で頑張って働いているから今度、遊びに来てねと言われたとのことだった。
僕らはあの頃を思い出すかのように、もうじき撤去されるであろう対戦ゲームを何度もプレイした。みんなゲームを始めると昔と変わらなかった。全く時代が止まったかのように変わってなかった。僕のサスカッチのショートダッシュは昔程の精度は無かったけど、しゃがみ強Pからの竜虎乱舞は上手くつながらなかったけど、笑いながら何度も何時間もゲームをした。
それから近くの呑み屋で2件ほど、明け方まで飲み明かした。あのころの恋の話、あのころのゲームの話、あのころの失敗した話。あのころの話。僕が地方に行っている間も、ブラック企業で身体を壊したときも、彼らは時が止まっているみたいだった。
朝の5時、僕は渋谷で彼らと別れた。
友達に新聞配達始めるよと言ったら「職業に貴賎はないけど・・・」って言われた時は聞き流してたけど、その時の僕はまだどれだけブラックか理解してなかったのです。
新聞配達所いくつかに適当に電話。Y社とA社は間に合ってるよと拒否されたんで、3番目のM社に電話すると即刻面接へ進むことに。
面接して即刻合格。とにかく受かりやすいイメージがあったので、この時点ではなにも思わず。
カッパとヘルメットは配布、新しく買い替える時は各自の負担だそうで。
2:30に新聞配達所に着くようにバイトを始める予定だったけど、伝家の宝刀初日寝過ごし。
3:22ごろ到着。
配達のバイトはまず到着したらタイムカードを切り、チラシを新聞に挟み込み、バイク(or自転車)に積み、配達し、帰ってきてタイムカードをまた切ってお疲れ様でした。
まずはバイク、スーパーカブに乗る。オートマの原付に乗るのは初めてだったんで楽しかった。
先輩について行くだけで、初日はとくにぼくが直接配ることも順路表(配達する家が記されてる紙が束ねられてて伝統的なクソIF)を見ることもせずとくに疲れもせず終わり。
6:00ごろ解散。明日もがんばろう。
2:20到着。貴重な新聞搬入シーンを見る。続いて新聞にチラシを挟む。暇ができたんで新聞ヨミヨミ。
3:30 指導担当の先輩到着。なんと1時間遅刻。大丈夫かコイツ(ブーメラン)。
3:50 出発。「今日は順路表を見ながらやっていこうぜ」(先輩精一杯のドヤ顔)(震え声)
片手で順路表を持ちながら運転したんで体力と神経の消耗が激しかった。しかもガス欠で途中で押して帰る。
5:50 配達所に到着。昼から空回り(明るいうちに回って家や入れる新聞の種類を確認すること)を行う約束をする。
17:10 配達所到着。バイト条件の詳細をもらう。そこで衝撃の事実を目にしたのです。
研修中時給換算664円。職業に貴賎はないけどって言われたのはこのためか。
通常の時給も896円で、2:30~5:00は深夜料金換算のはずなのに、足元見られてる。我が県の最低労働賃金に深夜料金を加えたものをわずかに下回ってたのよ。
20:00 頭痛のため明日(7月X+2日)休みますごめんねテヘペロと電話。辞めたいけどまだ言えず。
12:00 先輩から、今から空回りしよう!な!とラブコール。まだ外出できるレベルじゃないと言うと、お前の家に行くからな!と言う。恐怖を感じる(not ケツに)。どうやら温厚な先輩の逆鱗に触れたらしく、態度が豹変する。ヤクザかお前は。
お前これからどうするねん、なにかすることあるんか。続けられるのか。
この程度で弱音を吐くレベルのため、今後も続くかどうかはわからないと返答。
話の流れで、バイトをやめることに。
13:00 先輩から電話。最初に配布したヘルメット、カッパを返却してくださいと。どれくらい働いたらもらえるのかのしきい値が気になりますね。
ニート最高(^O^)v