はてなキーワード: 草の根BBSとは
いまいち要領を得ないな。
パソコン通信みたいなクローズドネットでもスラングが飛び交うようなコミュニティが存在してればこの話題上における「ネット」と扱うことに異存はないとはいえ、パソコン通信がコミュニティ的に使えるようになったのは1985年の電電公社民営化による電話回線の開放によって、電話回線ごしにパソコン通信が使えるようになってからだろう?
それ以前のパソコン通信というのはネット的なコミュニティが成立するものとは思えないから除外して、昭和におけるネットが存在しえたのは1985年4月1日から1989年1月7日までだ。
個人の草の根BBSにしろ商用サービスにしろ主だったサーバーの開設は86年前後からなのを考慮すると、昭和にネットが存在したのは実質3年ほどしかない。
この間に、ネット空間上で発生したスラングというのは本当に存在するのか?
ネットスラングではなく、昭和のパソコンオタク用語がパソ通上でも使われていただけ、という程度のものじゃないのか?
みかかを覚えてチャットで使っていたのは、ワープロでもパソ通できるぞとはしゃいでいたのは、実際には平成に入ってからじゃないのか?
俺は1985年生まれだからパソコン通信スラングの初出がいつだったのかに関する勘が一切ない。
調べてもインターネット上には残っていない感じがする。
例えば87年の開設間もないニフティサーブ上の適当なフォーラム内を撮った写真なんかが見つかれば。
どんな空気感で書き込まれていて、スラング的な表現のミームがどの程度感染・浸透していたのか。
さっぱり想像がつかないな。
元来「萌え」という語自体には性的な意味合いは無く性とは別概念として捉えられていたが、一般へ広まると同時にオタクの間で使われなくなっていった過程で何故、性的な意味を持つ(と思われる)ようになってしまったのだろうか。
1995年、パソコン通信文化がまだ華やかだった頃に初版が発行された用語辞典「通信用語の基礎知識」では萌えについて下記のように記している。
元々は、まだインターネットなど普及していない時代の草の根BBSで、しかも自然発生的に生まれたと考えられる用語である。
それは男社会であるので、当初「萌え」が表現したものは、可愛い女の子の素敵な仕草を見て湧き上がる感情、であったと考えられる。
しかし時代の変遷を経て、「萌え」という語も広く普及するにつれ、誤用なども含めて様々な意味で使われるようになったと考えられる。
たとえばエロゲーに対する批評で「萌えゲー」と言われれば、それは「エロ要素が皆無か極めて薄い作風で一般アニメ漫画作品のような可愛らしい絵」を指すものと解釈されるケースが多い。
しかし昨今多用される「萌え絵」は全ての二次元絵を内包する巨大な概念として使われている節があり、「萌え絵は性的だ」「萌えとエロは違う」という不毛な争いをも生んでしまっている。
(そも、時代と共に変遷する性的概念を定義することそのものに無理があり、また性的か否かは画風で判断されるものでは無い。性交を直接描けばR18だがベッドシーンならR指定か一般指定、という実写映画のざっくりレーティングは比較的分かりやすい基準と言えるが何故絵に対しては画風で判断するのか)
風俗店の看板・広告で描かれる二次元絵のほぼ全ては無断使用であると言える。出典はエロゲーなこともあれば一般アニメや漫画であることもあり、適当に選別していることが容易に伺える。無断使用されている方にとって見れば迷惑なことこの上ないが、無断使用されていることなど知りもしない人が見れば「アニメ絵の風俗店看板→このような画風は性的である」と擦り込まれる可能性は充分に有り得る。
ちなみに何故、風俗店看板が二次元絵を使うのかというのも疑問だが、一説に寄れば「写真を看板・広告に貼るとこの女性を出せという客が来る」からだという。さすがに厄介な客も二次元絵ならこいつを出せとは言わないだろうという自己防衛策である。いい迷惑だ。
一時期のメイド喫茶ブームの煽りで、JKビジネスを含むライト系風俗が雨後の筍の如く激増したという。
このような店が名乗り始めたのが「萌えリフレ」「萌えエステ」「萌えマッサージ」であり、上記と同様に「風俗店が店名に使う言葉→性的な意味を持つ言葉である」と擦り込まれた可能性がある。
情報化社会への移行へ機敏に反応し、小学生の頃には既にパソコンを導入している家庭で育った。
青春時代はパソコン通信・インターネットと共に過ごし、本来の意味のホームページ、そして設置される電子掲示板、今からすると低機能なチャットでのコミュニケーションをアカデミック分野の人間ではない普通の義務教育過程学生としては比較的早期に体験していた。
ちなみに通信を介した今で言うオンラインゲームで一番最初に体験したのはメールでの将棋である。
幸いにも、当時から通信上で懇意にして頂いていた先輩諸兄とは現在でも繋がりがあり、一部の方々は当方の結婚式にまで参列して頂けるという、最早通信上の知り合いと言うには些か語弊があるような関係を持たせて頂いている。
当方のコミュニティで最近使われているコミュニケーションツールはSlack・Discord・Mattermost・Mastodonだ。
チャットツールが3つもあることに疑問を持つかもしれないが、プライベートな基本コミュニケーションの中心はMattermostであり、いわゆる「つぶやき」をするマイクロブログにMastodonが用いられている。
Slackは業務に使う者もおりプライベートではMattermostのサブ的な使われ方をしており、Discordはコミュニティの中で何らかのオンラインゲームをするときにボイスチャット環境として用いることが多い。
ここで多くの方々が「LINEやFacebookは利用していないのか?」と思うかも知れない。その疑問への答えとしては「アカウントだけは持っている」というものだ。
いや実際、一時期はコミュニケーションの中心にはFacebookがあった。XMPPを解したしチャットツールもFacebook Chatを用いていた。
日本でFacebookが紹介されるようになりユーザ数が増えると当方のコミュニティは居心地の悪さを感じてTwitterへ移行し、日本での第一次Mastodonブームの折、完全にMastodonへ移行してしまった。
様々なサービスを漂流することになってしまったが、当方のコミュニティが感じていた居心地の悪さの最大要因は「ITリテラシーの格差」である。
当方のコミュニティはパソコンを用いた通信の発展を見てきたコミュニティだ。
度々起こるインターネットコミュニティでの諸問題を遠巻きながらも目にし、世代交代のためかそれら諸問題が起きたという事実は継承されず、何度も何度も同じような問題を目にしてきて非常に疲れた。
例えばTiktokで問題視されていることの殆どはニコニコ動画で経験したことどころか、メル友ベル友時代に起きていたことだ。
むしろ当方のコミュニティメンバーの中には「ペンフレンド時代にも似たようなことが問題視された」と言う者も居り、その時代を経験していない当方は詳しくないが、卑猥な写真を郵送させるなどの問題があったらしい。ペンフレンド宅へ家出する青少年も居たと聞いた。
「当時とは時代が違う」と言うのは容易い。しかし当方のコミュニティから見ると「またか・・・」としか言いようがない姿に見えてしまうのだ。
当方のコミュニティでは過去に草の根BBSや2ちゃんねる、ニコニコ動画、オフライン上でも保護者会やPTAなどでもインターネットの認識や使い方などを訴える活動はしてきた。
情報化社会の中で子供たちへ「携帯電話を持たせない」「インターネットを使わせない」という成長を生まない極論地味た思考停止な手法は推奨せず、子供たちへインターネットのメリットとデメリットを伝えて将来のために活用していこうということを基本方針として伝えてきたつもりである。
しかしそれでもなおインターネットでは諸問題が起き、それへの対策が○○の禁止という当方のコミュニティの努力が何も実を結ばないという結果を見ることになった。
当方のコミュニティはいつも言う「あなた達の世代もインターネットで失敗したはずだ」「あなた達はなぜインターネットで失敗したのか?」「当時の感情を思い出し、あなた達の子供たちの感情へ理解を示すことはできないか?」「理解を示して子供たちと話し合うことはできない?」と。
子供だけではない。
NIFTY-Serveでゲリラ的に他者の揚げ足を取ったり、オフラインでは無かったことにされるような失言へ対して人権問題だと騒ぎ立てBBSの空気を悪くしたり、特定の人物へ異常なまで固執しEメールを送信しまくったり、あまつさえ失言録のようなWebページを作成して晒し上げたりなど、今でも通ずるような悪意を当時から振り撒かれていた。
当方のコミュニティはそんな悪意をもう見たくはない。そんな無理解を見たくはないのだ。
情報化社会は当方のコミュニティが過去に夢見た時代へ少しずつでありなからも進んでいる。あらゆるものが通信によって連携し人々の生活を豊かにしている。
しかし当方のコミュニティが見た夢の中には繰り返される悪意などなかった。問題が起きても人と人が協力しあって解決するだろう。すべての人が通信によって繋がれば大きな集合知によって解決されるだろうという夢であった。
「またか・・・」と感じ、どうにか解決できないか?と動いているコミュニティは当方のコミュニティだけでないと信じたい。
そしてどうにか繰り返される悪意を無くす協力をして欲しい。
┃ ┣━初音ミクをすべて"同じ初音ミク"として認識するよ(一ミク派) ┃ ┃ ┃ ┣━結婚するのがファンにとっては許せないのではと思うよ(唯ミク派) ┃ ┣━初音ミクってアニメキャラじゃなかったの!?(概念難しくてごめん) ┃ ┗━結婚とか草生えるよ(この前の大阪公演で「人妻!」とかいう野次があったらしい) ┃ ┃ ↑↑↑↑↑↑↑ ┃ (一般層とそれ以外の壁) ┃ ↓↓↓↓↓↓↓ ┃ ┣━"別々の初音ミク"として認識するよ(多ミク派) ┃ ┃ ┃ ┣┳彼が"彼の思う初音ミク"と挙式をしようが自分のミク像とは干渉しないよ(サイレントマジョリティー) ┃ ┃┗結婚に対して一家言あるよ ┃ ┃ ┣━初音ミクのパブリックイメージを下げるような言動は避けてほしいよ(そういうのはマスコミに言ったほうが良いよ) ┃ ┃ ┣━結婚という話題は私には地雷だったよ(仕方ないね) ┃ ┃ ┗━初音ミクは俺の嫁だよ(それ11年前から言ってね?) ┃ ┃ ┃ ┣┳同じミクでも衣装は着替えるよ(身体が本体派) ┃ ┃┗衣装が違えば全く別のミクだよ(布が本体派) ┃ ┃ ┣━衣装と衣装でカップリングつくるよ(cf: "マジ砂") ┃ ┃ ┗━メガネが本体だよ(赤ぶちが多いよ) ┃ ┃ ┃ ┣┳ファンの数だけミクはいるよ(消費者目線) ┃ ┃┗ミュージシャン、イラストレーター、あらゆるクリエーターの数だけミクはいるよ(創作者第一主義) ┃ ┃ ┗━ミュージシャン兼ファンだよ ┃ ┃ ┣━ミクのおかげでDTMに出会ったよ(そういえば当時はニコニコ動画だけでなくmuzieもあったよ) ┃ ┃ ┗━ミクのおかげでDTM再開したよ(私自身は若いので草の根BBSとかNiftyとか詳しくないよ) ┃ ┃ ┃ ┣┳体は人間だよ ┃ ┃┣体はアンドロイドだよ ┃ ┃┃ ┣┳充電して動くよ(C-3PO派) ┃ ┃┃ ┃┗食べ物で動くよ(ドラえもん派) ┃ ┃┃ ┣┳そういう機能があるよ(セクサロイド派) ┃ ┃┃ ┃┗えっちなのはいけないとおもいます(ミクはまだ16だから) ┃ ┃┗実体のないソフトウェアだよ ┃ ┃ ┗┳自我/意識があるよ(強いAI派) ┃ ┃ ┗自我/意識はないよ(逆に萌えるよ) ┃ ┃ ┃ ┗━さんをつけろよ(デコ助野郎) ┃ ┗━初音ミクをあまりキャラクターとして見てないよ(純粋なミュージシャン派) ┣━仮歌用のソフトだよ(当初のYAMAHAの思惑) ┣━広義のシンセサイザーだよ(そもそも初音ミクのモデルはDX7だよ) ┣━ボーカルやってくれる仲間がいなかったよ(バンドメンバー募集中) ┗━オリジナルで出しても聞いてもらえないからミクに歌ってもらったよ(逆に歌い手によるカバー作品がヒットしちゃうこともあったよ)
昔は絵を描く趣味はイラストか漫画が普通だったが、俺はドット絵や16色CGを描いていた。昔のパソコンはファミコン以下の絵しか描けなかった。使える色も少ないし制限も多い。しかしその制限の中で絵を描くのが面白かった。制限がその機種の個性にもなっていた。使える色は多いけど解像度の低い機種、解像度は高いけど16色をやりくりする都合でセピア風っぽくなりがちな機種、CG性能は良いけどFDDでは役不足な機種、簡易アニメが作りやすい機種などなど。FDDが普及してCGが保存しやすくなり、高級品だったマウスも安売りで買った。
イラストや漫画ではなくドット絵やCGを好んだのは、何度でもやり直しが出来る事と、画材の出費が無いからだ。当時のCGソフトのアンドゥ機能は1回しか後戻りできないものが多かったが、そもそも解像度の低いCGなので時間さえかければ幾らでも描き直せた。実は紙のイラストも練習してカラーインクなどを買ったりもしたが、失敗すれば紙1枚が無駄になる事が大きなプレッシャーに感じた。ホワイトなどで修正するほど仕上がりは汚くなっていく。CGならばやり直せるしゴミも出ない。
就職先もゲーム会社を選んだが技量もなく不採用で、しかしCGをやめるという発想はなく、同人CG集を買うようになり、俺も同人でドット絵やCGを描くようになっていった。
…ここまでインターネットのイの字も無かった頃の話。
90年代の中ごろには「草の根BBS」というものも増えて、電話代を気にしながら上手い絵師のCGをダウンロードした。
恥ずかしながら俺も幾つのサークルさんにお声をかけて頂き、ドット絵やCGや素材を作った。
90年代の同人事情というと、絵柄には個性があって当然という時代だった。絵を見れば作者がわかる。芸風とも言えるほどだ。デッサンの歪みなどはさほど神経質ではなかった大らかな時代で、初心者がしばしば眉毛を描き忘れたアニメ絵を描いているのも微笑ましかった。当時の同人でのアニメ絵は趣味性と個性を主張するアイコンだったように思う。
当時の同人での絵師はまだCGより紙に描くほうが普通で、マウスをカチカチ鳴らして絵を描く人は案外と少なかったようにも思う。上手い人はとんでもなく上手くて真似できないレベルだったのと、俺より下手な絵師も多かったので、俺は落ち込む事もなくCGを続ける事が出来た。
90年代半ば、Windowsが話題となりインターネットも流行し始めた。この頃ようやく現在のCGイラストの元となる環境が世の中に広まったわけだ。解像度の制限が(殆ど)無いフルカラー(最低でも256色)のCGイラストが描ける環境が整った黎明期だった。FDDには圧縮しても10枚程度しか保存できなかった事もHDDが当たり前になった事で解消された。
当時ようやくスキャナが一般的になり始めた頃でもあったが、まだまだ高級品で、アナログ画材の出費も惜しんでいた俺には手が出なかった。ハンディスキャナを買ったが歪んで使い物にならなかった。
この頃からCGイラストを描く事の楽しさが薄れ、苦労が付きまとうようになった。
そもそもWindowsが動くPCが高級品だった。専用ソフトも高いし、フリーソフトは殆どなかった。CGソフトもイラスト専用のものは少なく機能も貧弱だった。
俺の個人的な事情では同人での活動が次々とトラブルに見舞われる事が続いた。参加したゲーム制作の中止が複数重なったり、同人ゴロの被害にあったりした。
しかし一番の苦労のひとつは、理解され難い事だったのかもしれない。
PCで絵を描いてもPCが無ければ見れない。親からは1日中パソコンに向かっているうようにしか見えない。世間ではしばしばアニメやオタク趣味が悪者として魔女狩りが繰り返され、時代もアニメ絵ではなくポリゴン絵に移り変わっていった。…自分以外の何かを言い訳にしたい気持ちも大きいが、理解されない事をする苦痛が結構大きい事も事実だ。
16色とかの制限の多い時代には才能の乏しさはあまり目立たなかった。描ける絵には限界があり、その最適解を探し出す事がドット絵だった。カラーパレットをどのように振り分けるか、どの色をタイリングで済ませて色数を増やすか、1ドット未満の線をジャギー消しの手法で描き、ブラウン管の光度差で滲ませる、才能ではなく技術でどうにかできた。しかし色数がフルカラーになった事で俺は途方に暮れた。CGは技術ではなく才能こそが全ての世界になった。インターネットがどんどん一般的になって、上手い絵師だけが評価される世界になった。…それが当たり前だという事を認めるのに何年もかかった。
00年代になると、90年代に人気だった絵師の多くが姿を消した。フルカラーで90年代の彩度の高いイラストは古臭いものとなりつつあったし、個性もさほど求められなくなったからだろうと思っている。90年代に人気だったプロのイラストレーターの苦労も時々目にするので、90年代に人気だった同人絵師が姿を消したのも必然なのだろう。
00年代の俺は才能の無さは自覚していたので、当時流行していた3D-CGを始めた。当時の宣伝文句は概ね「絵の描けない人でも出来る!」だ。貯金を切り崩して六角大王や海外製3Dソフトを買い相当練習したが、結果は失敗だった。数年我慢してMMDを学べばよかった。俺は才能だけでなく時代を読む目もなかった。
2010年代、ドット絵の需要も懐古趣味しか無くなり、CGイラストは毎日毎日物凄く上手い人が出現し、俺はCG-TIPSを検索しては真似をしてなんとか時代に取り残されないよう苦労し続けた。しかしCG-TIPSを学んでいて気付いたのは、CGの塗り方の流行は結構短いスパンで変わってしまうという事だった。俺がなんとか使いこなせるようにあった頃には他の誰もがもっと上手く使いこなしていて、なんとか追いつこうとしているうちに次の流行に変わっている。CGがネット上に溢れかえっているから、目新しいものが求められ、俺のような才能の無い微妙な絵はネットノイズでしかなかった。
最近では長年CGを見続けてきた俺には誰が描いたのかまったく判別できない絵が増えてきてゾッとしている。とてつもなく上手いけど他の上手い人の絵と見分けがつかない絵。これはテレビアニメの多くがそういった傾向なので誰のせいでもない事だが、。
そして物凄く薄く繊細な塗り。フルカラーなのに明度差が微妙にしか違わない繊細なグラデーションは16色のカラーパレットでCGを覚えた俺には到底無理だ。こんな絵を目指さなければ人目を惹かないのかと思うと心が折れそうになる。しかし他人のCGからスポイトでカラーパレット拝借なんて出来ない。絵の才能だけでなく色彩センスもない俺自身が恨めしい。
上手い絵師には嫉妬心もわかず、ただ自分の才能の無さを思い知らされるばかりだ。
本当に絵の上手い人の特徴はとにかく早い事だろう。イメージを迷うことなく描画する才能がある人ほど上手い。
俺はイメージが貧相だしラフを描いている時も悩んで時間がかかる。出来上がるのはピンボケの絵にしかならない。
俺にとってCGは既に同人ではなく個人的趣味でしかなく、楽しいという気持ちも無い。苦労であり苦痛でしかない。しかしいまさらやめるわけにはいかない。色々な事を犠牲にしてきたのに、やめたら本当に何も残らなくなってしまう。同世代の人はみんな趣味はほどほどに、結婚したり出世してしっかりした人生を歩んでいる。いまさらCGやめたって人生で得られなかったものが手に入るわけでもない。歳を取って健康も不安が付きまとうようになってきた。いつ死んでもおかしくないが、死ぬ前に下手糞な絵の制作データは消去したい。
最近は愚直にデッサンの練習をしているが、デッサンに固執すると絵の魅力が薄れる感じもあって苦労している。正直に言うともう絵を描く事が好きではない。そんな底辺中年絵師の俺が誰に向けて描けばいいのか。ネットには上手い絵が溢れすぎていて需要なんてない。上には上がいる世界では下の物は叩かれるだけの存在だ。自分の為に描こうにも、俺が見たい絵さえググれば出てくる時代だ。
じゃあやめろよと言われるだろう。やめたら俺どうすればいい? 他には何もないんだ。
ぼくは小さいころお金が好きだった。母子家庭で家が貧乏だったからだと思う。電気やガスを止めたり、おやつをうちだけ少なくしたり、母に徹夜で内職をさせる。不憫だ、子どもが不憫だと時おり、母を涙させる。そんなお金の力に引き寄せられたのかもしれない。
小学校二年生までのぼくの趣味は、おこづかいや、数少ない親戚から年に一度もらえるお年玉、たとえば数千円。それを両替機で崩すことだった。全部10円に。お金が増えるのがすきだった。受け皿に硬化が落ちてくる、あのジャラジャラッ、という音もすきだった。全部10円玉になると、店のおばちゃんに数十枚の銅色の硬化を渡した。きびすを返し両替機に銀色の硬化をまた突っ込んだ。繰り返し。迷惑なはなしである。
小学校三年生に上がると、その行為がまったく無意味だと悟った。今度は本当の意味でお金を増える方法をかんがえはじめた。勉強にも友達にもそれほど興味はなかった。
最初のぼくのビジネスは、自販機の小銭と落ちている空き瓶をあつめることだった。今はどうかしらないがその頃、一本あたり10円で特定のビンを買い取ってくれる駄菓子屋があった。たとえば、コカコーラ。スプライト。
二週間後には町内の自販機地図をつくり、近所の子どもたち数名を組織化してビジネスを拡大した。上がりは折半だ。軌道に乗った矢先、浮浪者のボスに一喝されてそのビジネスはご破産となった。
次は自販機ビジネスの資本をもって、今でいう「せどり」に挑戦した。カメレオンクラブ、キャンプ、わんぱくこぞう、遊コン。情報化前夜の昭和末期。ゲームカセットの買取価格と販売価格が逆転している商品をしらみつぶしに探しては、他の店に売りとばした。これも仲のよい同級生を組織化した。仕入れの費用がない場合はぼくが肩代わりした。が、ただ、店舗が密集しているわけではなかったので、仕入れの問題であまりうまく行かなかった。そのうち同種のカセットの買取に制限つきはじめた。息の短い商売だった。
中学生になってやったのがパソコン通信のログ取得代行する、というサービスだった。今思うととこれは犯罪だったかもしれない。Nifty-serveやPC-BANの規約はもう見れないので許してほしい。日夜マニアックな議論が繰り広げられる大手パソコン通信サイトのログをダウンロードしては草の根BBSで知り合ったおにーさん達に高値で売りつけた。ただのテキストが垂涎の情報となる時代があったのだ。
小さな商売としては、ビックリマンシールの仲買。発売日前に週刊少年ジャンプが並ぶ店を見つけて手に入れ時間貸し。CDのダビングを手伝ったりした。もちろん牛乳配達や新聞配達もやった。
最後にやったのはパチンコだった。本当はアルバイトをしたかった。が、中学生を雇ってくれる福祉的なビジネスマンを当時のぼくにみつけることはできなかった。ぼくの世代には一時期これで食べていた人が多いと思う。といってもぼくが中学生の頃なので、羽根物・権利物・フィーバー機など釘の甘い台をみつけては打ち止めにする。という同世代のパチスロプロより1つ前の世代だった。あからさまな中坊がパチンコ屋に来ても見て見ぬふりをしてくれる、牧歌的な時代だった。LUNA SEAが有線放送でよく流れていた。軍艦マーチももちろん流れていた。
そうしてぼくは晴れて16歳になり、まっとうに労働を金銭と交換し、またそれの再生産を繰りかえす立場となった。
ぼくはなるべくして中卒になった。1つも願書を出していない。
義務教育、学校に行く理由がまったくわからなかった。お金を稼ぐ事以外世界に意味がないと思っていた。だれも勉強をする理由を教えてくれなかった。貧乏な家の親、多くの市井の公立小学校の先生にはそれを子どもに説明する能力が、ない。ぼくも30をすぎてようやく勉強をする理由を先人の言葉を使って説明できるようになったくらいだから、無理もない。
高校へ通うには学費が多くかかると知った。これも進学しなかった理由の一つだ。さすがに15歳の僕にもわかる。母親の稼ぎだけで四人の年子が高校に行くのは不可能なことを。ぼくが行けても下の弟二人はきっと中卒だろう。
中学三年の担任は、進路相談でぼくが進学しないというと、とりあえずその場をなあなあで済ませた。その後、考えをあらためさせるべくぼく親友、山根を狩り出した。ぼくの説得を試みたのだ。まったく進学しない中卒は珍しかったらしい。無論、とりつくシマもなく断った。二人の目には、ぼくの事が、世界中を敵だと考え怯える、野生児のように見えたと思う。そんな目をぼくはしていた。
その後、労働でお金を稼ぐことより、お金を作る仕組みのほうに興味を捨てられなくて、自分で商売を始めるんだけど、それはまた別の話。
おれが高校生ぐらいまではインターネットなんて普及してなくてさ、
「すげーいい本!なんだこれ!」って思ってもまわりの友達に布教するぐらいしかなくて、
まあそれでもTRPG(懐かしいなおい)のサークルで知り合った友達とか、
そこらへんにたまたま「濃い」やつをみつけて「あれ、いいよな!」とか言うぐらいはできてた。
今はネット上で、自分で情報発信すればいくらでもそういう「共有」はできるんじゃない。
20世紀のころと比べれば、ネットの本読みサイトのつながりはうすいかもしれないけど、
はてなでもmixiでも「これすげえよ!こんななんだぜ!?」って言い続けていれば、
(もちろん説得力がそこにあることが重要なんだけど)
それを「共有」できるひとたちはまわりに少しずつでも増えていくと思うぜ?
(まあ、べつに「共有」なんかしなくたっていいんだけど、
孤独一辺倒ってわけでもないんだぜという話で)