2013-08-14

高学歴社会から落ちこぼれた話

http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155

話題になっているので読んでみたが、いろいろと衝撃だった。

http://anond.hatelabo.jp/20130813213536

それからこれを読んで、ああ、なんか近いなと思った。

この手の話題は、こどもを持った今、ますます考えさせられる。自分がこどもに与えている環境は、一体どういったものなのか。

家庭で話題になること、親のすること、家にあるもの、すべてがこどもに対する環境である。こどもの世界はとても狭く、そこから受ける影響は計り知れない。それを気にしているかいないか、というのはとても重要なことだと、今本当に思う。

私 自身は、超とは言わないがまぁ高学歴一家に産まれた。いつからか知らないが、医者家系だ。父の兄弟はみんな医者もしくは医者の妻であり、妻たちはたいて い薬剤師だ。母も大卒高校教員だった(結婚するまでの数年だけ)。父方のいとこたちは当然、みんな医者で、女であれば医者との見合い話が転がり込んでく る。医者にならず医者の妻にもならなかったのは私と兄だけだ。

母方のいとこたちは医者プレッシャー特にないが、大学を出て一流企業に勤めたり公務員になったりする人から引きこもりまで様々だが、親の世代はみんな女でも大卒だ。当時にしたら高学歴ファミリーだと思う。

こんな家系に産まれたので、当然私と兄にも医者になれプレッシャーはあった。プレッシャーというより、医者以外の職業ほとんど知らなかった。だから『なり たい』という気持ち以前に「大きくなったらお医者さんになるんだろう」くらいに思っていた。親戚のおじさんおばさんにも「何科がいいのかな? 皮膚科なん て楽って言うわよ」とか「お医者さんの奥さんになるのね」とか、もうそれ以外の選択肢は全くみんな頭の中になかった。

私の産まれた街は田舎 なので、私がこどもだった30年くらい前には自営業以外はほとんどいなかった。そもそも、いまでいうサラリーマン的な人が働く職場はなかった(と思う。少 なくとも当時の私には見えていなかった)。何屋さんのなんとかちゃん、みたいな感じで、家業とその家の人が結びついていた。街中の友人の実家はみんな何か 家業をしているし、ちょっと離れたところはみんな農家だ。たまにお父さんが外国にいて帰ってこない家があったが、それが「商社駐在員」である、というと は、これっぽっちも知らなかったし、知っていたとしてもきっと「しょうしゃのちゅうざいいん」のしごとが具体的にはわからなかっただろうと思う。お父さんがテキ屋さんで「こようそしんじゅうたく」に住んでいる友達もいたが、その子と遊ぶなと言われる意味が分からなかった(のでもうしょっちゅう遊んでいた)。

今 大人といわれる年齢になって、いろんな人と出会い、ようやく世界はいろんな仕事があり、いろんなルートでそうなれる、ということがわかってきたが、こど もの頃の私には「医学部にいって医者になる」「法学部へいって弁護士になる」「薬学部へいって薬剤師になる」「家を継いで○○屋になる」ほかは、あまりピ ンと来なかった。それ以外の世界との接点があまりにも少なかった。

今話題の「低学歴世界」と同じく、おそらくは「高学歴世界」の住人だったが、それ以外の世界について知る機会もなければ教えてくれる人もいなかった。

人 生の転機は小学校とき。父が死んだ。父は開業医だった。残された母は、親業も家事もとことん 苦手だった。家の掃除も出来ないので、父の死後もずっとお手伝いさんがいた。私の世話もお手伝いさん仕事だった。ゴミの分別も出来ないので、全部まとめ てゴミ袋にいれ、ずっと自宅に清掃業者がゴミをとりにきていた(有料)。道ばたにあるゴミ収集所が無料で使える市のサービスだと知ったのは高校生くらいの ことじゃないかと思う。

それでも私は自分の家は超貧乏だと思っていた。なぜならお金を稼いでくる人が死んでしまったのに、母が無職のままだ からだ。公立の学校お金がかかっていると思っていた。保険金とか、遺族年金とか、寡婦年金とか、全然知らなかった。学校ではうちが母子家庭だと知った先生に「生活保護を受けたらどうか」と言われて(そのあと「お父さんはなにしてたの」「医者です」「あ、それは失礼した」というやり取りがあった。)そ れを母に言うと、うちは生活保護は受けられない、と言われた。中学から新聞配達バイトをしようと、新聞屋を回ったが、何処もやらせてくれなかった。高校 に入ってすぐバイトをはじめた。いつも飲食店で働き、食費を浮かせた。そして、父の残したわずかばかりのお金を食い尽くすだけのニート母にものすごい嫌悪 感を抱いていた。あるいは借金もあるかもしれないと思ってびくびくしていたし。家族旅行は父が生きていた頃もお正月に近場の温泉に一泊するくらいだったし(開業医だったので学会などの出張時に代理先生が頼めるときしかから離れられなかったらしい)、父が死んでからはそんなことはしたことがない。仲の良い友人たちから家族旅行の話を聞いたり、留学した友人たちを見て、いいなぁ、お金がある家は、と思っていた。

私自身は、高校田舎なりの公立の進学校に進学したものの(田舎なので公立のほうがレベルが高く、私立は滑り止めという扱 いだった)、大学には行かなかった。家は超貧乏だと信じ込んでいたので、国公立で年間80万円くらい、4年で300万円以上の学費、それに生活費。そんな お金なんてひねり出せないと思っていた。当時は、今だって毎日バイトしたって月に数万円しか稼げないのに、学費生活費を全部自分で稼ぐのは到底無理だと思ってい た。今となればなんと視野が狭かったんだろう、自分リミットを決めてもったいない、と思うが、当時はそういう風には考えられなかった。母には「医者か弁 護士になるなら投資するがそうでないなら大学へ行く必要はない」と言われた。投資する気はない、と。「あんたはどうせ医者にはなれない」。母はよくそう いっていた。

投資ととらえるととてももっとなのだが、当事者かつ思春期の娘としては、これはとてもやる気を削がれた。彼女はこどもを投資物件ととらえており、さら医者弁護士以外は価値のない人間だと言っている。そして娘は投資対象として適切ではない、つまり価値がない。

こ どもが育つ上で一番大切なのは無償の愛』を感じられるということらしいが、そういえば私に注がれる愛情はいつも有償だったなと、今になって思う。プロセ スをほめられることはなく、絵画で賞をもらっても、賞をもらった絵ではなく賞状をあがめられた。賞状だけ集めていれるファイルはあったが、その肝腎の絵を とっておく仕組みがなかった。学校の成績で上位何番以内に入るといくら、というのもあった。勉強お金をもらう為のものだった。

こういうのも、環境の一部だ。

私はこういう環境から自分価値がない、というメッセージを受け取り続けてきたのだろうと思う。これは自分のこどもには絶対にしたくない。

と、話はずれてきたけれど。

まぁ、そんなわけで、私は高学歴一家の中の落ちこぼれである。ただ、落ちこぼれたと言っても、やはり「低学歴世界」の話をブログで読むと衝撃だったけど。落ちこぼれたおかげでかどうか、いろんな人たちに会い、いろんな世界を知り、選択肢は沢山あるのだなぁ、というのを今になって感じで来た。高学歴世界の住人たちとも付き合いがあるけれど、最初から高学歴世界の住人だったひともいれば、そうでないひともいる。全くの低学歴ででも、高学歴世界にすっとなじんでいる人もいる。本当にいろんな世界で育って、いろんなルートで、今そうなっている人がたくさんいる。

あのままあの世界にいたら、親戚友人知人は医者だらけで、自分医者になっていたか医者結婚していたのだろうと思う。そちらがよかったかどうかと言うと、どうもそうとは思えない。それは高学歴世界が嫌だというのではなく、あまりにも選択肢が狭いためだ。

こ どもの頃は世界が本当に狭かった。職業医者弁護士以外にも選択肢がたくさんあったし、医者弁護士になれないからと言って人生終わったわけで はない。高校は基本学区内で一番偏差値の高いところに行かないと行けないと思っていたし、学校の成績で平均値をとると馬鹿だと思っていた。大学はあんな親にお金を出してもらっていくなんて胸くそ悪すぎ る、そもそもそんなお金ないし、と思っていた。でも、本当は高校なんていくらでもあるし、世界には大学まで無料で行ける国も沢山あるんだ。世界は広く、選 択肢はとても多い。

選択肢が沢山あるのだということを、こどものうちにもっと知っていたかったと思う。本当に。高学歴世界の住人たちのなかにもほかにもきっと他の選択肢現実的に受け止められなくて、自分世界適応できずに苦しんでいる人もいるに違いない。私みたいに落ちこぼれしまえばあきらめもつくけれど、そう出来ないと自分で命を落としたりする。

高学歴であれ低学歴であれ、選択肢があることを知っているか否かは大きいと思う。こどもにとっては親とその親の作り出す環境がすべてなんだ。私は高学歴世界の住人じゃなくなっちゃったけど、いろんな選択肢があることは伝えたい。そういうことも含めて、大人たちはもっとその環境に気を配るべきなんだろうな、自戒を込めて。

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