はてなキーワード: 劇場とは
私も何を隠そうヨーロッパにいまエンジニアとして移住してきて、割とあー搾取されてんなーって思いながら仕事している。
どう考えても地ピーに優遇されっぷりはエグイ。いつかああなれるかなとか思うが、次の世代ぐらいにならないと無理なぐらい
地縁やコネ、言語等では不利なところからスタートである。モリモリ追走しているが、やはりスゴイ距離がある。
借金させて、思考回路を寸断してきているという声もある。確かにそうだと思う。
でも、はっきりいってそれを言い出したら、あらゆることは言い訳できてしまう。
今は第二次世界大戦の時のように情報がすべて隠蔽できるわけではない。
お涙頂戴で来られても、なんで日本語がわかるようになったのならネカフェ
でもいって、情報収集しない。コネ作って助けをよばない?why???
どんなに頑張ったって、情報がとることができないということはない
東南アジア人のあなた、寮に帰って結局ゲームばっかしてませんか?
アジア人は本当にこれがおおい。ヨーロッパで絡む日本人もたいがいがこれだ。
現地に溶け込んで情報を得ようとする人はすくなくて、みんな億劫なのだ。
お互い抜け駆けさせないように自分たちで自分たちをデッドロックしている。
ベトナムでもエンジニアは優秀な人は本当に優秀。すごい勢いで仕事をする(人もいるが
滅茶苦茶やらない人もたくさんいる)。でも優秀な人も普通にいる。
そして、ということはエンジニアに全くなることができない環境ではない。
むしろ10年前にエンジニアになるべく4GのディスクのPCにcygwin入れようとして入らず四苦八苦して、
さらに給与たかいということは全ベトナム人が知らないわけではない。
おそらく、自分には無理だろうと早々に諦めてお涙頂戴のタオル劇場で踊っているというところだろう。
あー涙なしには見れませんなーーーー文楽っすわーーーータオルもってこーーい
そもそも低技能の人に移住されてしまうことは全世界的に警戒されている。
というより、移民に限らず基本的に考えながら行動しまくらないと、構図、ひどさはどうであれ、人は人から搾取
するようにできている。この構図はどの国にいこうが逃れられない。
人に同情する暇はあるんですか?あなたも大きな構図でみれば同じですよ。
日本人がベトナム人からタオルをたくさん、高い値段で買ってあげるくらい裕福だったらこの問題も起こらないですよね?
初代から今の代まで本家ゲームのポケモンは一切プレイしたことはなかったが気が付いたら泣いていた。
増田は年代的には赤緑世代だったが、親から携帯ゲーム禁止令が出ていたので当時はプレイすることはできなかった。
プレイステーションは家にあったのだが、どうしてもポケモンがやってみたくて母親に強請ってみたところ、
「プレステでもポケモンができるようになったら買ってあげる」と言われたことを今でもよく覚えている。
(姉はちゃっかり祖父からGBとソフトを買ってもらっていたので揚々と遊んでいて今それなりにポケモンエンジョイ勢である)
幸いにもアニメや漫画には寛容な親だったのでアニポケや4コマ漫画劇場はビデオテープやページが擦り切れるまで見ており、例のポリゴンショック回を録画したテープは数年前まで家にあったはずだ。ポケモンカードも家庭の事情で一緒に遊ぶ友達はいなかったがそれなりに集めていたし、ゲームはできないが買ってもらった攻略本を読んだり、ポケットピカチュウを見つからないかドキドキしながら学校に持って行ったりした。
(今思えばGBはダメでなぜポケピカは買ってもらえたのだろう)
それだけポケモンが好きなら今からでも最新作を買って好きなだけプレイすればいいとは思う。
だけど大人になりこの手の育成要素があるゲームは不得手だと知ってしまった今ではどうしても二の足を踏んでしまっている。
もし子供の頃マサラタウンから旅立てていれば何か変わったのかもしれない。そんな考えがよぎる。実際はなにも変わらないのだけれど。
全席指定のチケットを発売日に買ったんだよ。ネットで座席指定できるタイプのやつ。
それなのに発券期日を過ぎちゃって無効にさせてしまった。コンビニの発券が23:59しめきりで、0時過ぎに気がついた。
今もう一度買えば自分の予約してた席が出てくるかなって思ってやってみたんだけど、待てども待てども出ないからさ。
ああもうこれは自分が悪い、取り直すしかない… と思って泣く泣く後ろの席を取り直したの。
ちょっと席を諦めきれず、今朝もう一回見たら、なんと発売日当日より多いいくつかのいい席が!どういうこと!
一桁席真ん中のチケット買うことができた。
自分みたいに入金しなかった分が浮いたのかな〜。今回は速攻で発券してきた。
発売日よりちょっとあけた日の方がいい席取れるなんて不思議だなー。どこのシステムもそうなのかな?
ただ、泣く泣くとった後ろの席をまた宙に浮かせることになり罪悪感なんだけど…これ劇場にいったらキャンセルしてくれるもんなのかな??
ほっといていいんだろうか?まぁでもまだもう少し完売はしなさそう
GoToトラベルだったり、満席で演劇が上演できるようになるだったり、社会が徐々に明るい方向に向かっているというのに。自分は、映画館もスタバも劇場も何もない田舎から出られないでいる。
産まれてから18年間、同じような生活環境の田舎で住んでいたのだから平気だろうと思っていたけれど、一度都会の娯楽に溢れた生活を知ってしまったら、もうこの「何もない」田舎の生活が苦しくて仕方がない。
大学進学を期にいわゆる都会という生活に触れた時も感じたけれど、田舎は圧倒的に選択が少なすぎる。または、選択を広げるためにかかる時間とお金の負担が大きい。当たり前だけれど。
だって、スタバの抹茶フラペチーノにチョコチップいれたやつを飲みたいと思ったら、電車で30分揺られなきゃいけない。タリーズのヨーグルト&アサイーを飲みたいと思ったら1時間近く電車に乗る必要がある。500円の飲み物を飲むために、その三倍以上の交通費を支払う必要がある。
映画を観たくても電車で1時間かかるし、そもそも一番近い映画館は県をまたがなきゃない。朝日が昇るまでバーで飲むなんてこともできず、日付をまたぐ前にどこの飲み屋も大概閉店してしまう。刀剣展示を見た次にミュシャの展覧会に行ったり、プッチーニのオペラを観た帰り道に箱で頭振るなんて芸当もできない。
きっとこの話を北海道に住んだことのある友人に聞かれたら「こっちはセブンまで〇〇時間かかる」とか言われそうだけど、今はそんな話をしているんじゃない。私が、私の経験してきた人生と照らし合わせて、今の生活がつらいっていう話をしたいんだ。私が今どうしても苦しいっていう話を聞いてほしいんだ。
こんなコロナがはやる前は「また田舎に住むことになったけど、大阪にも名古屋にもすぐ行けるし余裕っしょ。むしろ岡山(長船)にも高知にも福岡にも近くなってラッキー!」ぐらいのノリでしかなかった。ほんと馬鹿。
今じゃ大阪・名古屋はおろか、プライベートでは自転車で動ける範囲での生活に縛られているんだぞ。あの頃の能天気な自分を助走つけて殴ってやりたい。もっと足元を見ろ。
その自転車で行ける範囲にある娯楽はカラオケしかないし、大好きだった大判焼きを売っていたお店は、結局コロナ休業が明けることなく閉店してしまった。
そのくせ、駅前の通りにはデカデカと看板を掲げたキャバクラが立ち並んでいる。これで若者の移住やUターン就職を政策で掲げているのが、むしろギャグとしか思えない。(だからと言ってじゃあスタバを作ればいいのか、という話ではないから難しいけれど)
社会情勢を見るに、まだしばらくはこの田舎から出られない生活が続く。そう考えるとぞっとする、というような感情は薄らぎつつある。今は諦め、の方が感情に占める割合が大きいきがする。それと怒り。
諦めは、この人生を選択したのは自分だから、というもの。都会の生活が良ければ、就職の時に都会の会社を選べば良かった。それをしなかったのは自分の判断なのだから、今この状況に置かれているのは自分の責任だろう、ということ。
この田舎でコロナ初感染者が出た時、その家の窓ガラスが割られた。そんな話、ネット上の創作でしょ、と高をくくっていたけれど本当だった。風の噂によれば、その家族は引っ越したとも自殺したとも聞いている。どっちが本当かは分からないし、知りたくもない。
自分が、自分の家族が次の感染者になるかもしれないのに、よくそんなことができるなぁ。
おそらく、これは自分の想像でしかないけれど、「こっちは我慢しているのに都会に遊びに行った挙句コロナにかかって」といった憂さ晴らしでそうした行動に移ってしまったのだろうと思う。
実際、パートのおばさまたちの「〇〇さんこの前大阪に行ったんだって……」という陰口を叩いている場面に出くわしているので、当たらずとも遠からず、といったところだと思う。
自分は、その憂さ晴らしを、自分の中にある嫌だなと思う気持ちを、こうして文章にして出力することができるからまだ救われている。他人の家のガラスを割るよりは、よっぽど健全な毒の吐き方だと思う。
ただ、万人がこの毒の吐き方ができるわけではないことも分かっている。自分だって本当は、美味しい酒を飲みながら、誰かに自分のつらさを聞いてもらって同情してもらいたい。
それが叶わないからこうして、家で冷凍庫から出したウォッカを、瓶のまま飲みながらこの文字を打ち込んでいる。
Twitterが見れなくなった。舞台や美術館の上演・展示情報を見ると、そこに行けない事実を突きつけられるから。「行く!」と言っているフォロワーに後ろ暗い感情を持ちたくないから。
今の私の手には入らない美味しそうなお料理、綺麗な品々、素敵な物語。「どうせ自分はいけない……」と、いちいち悲しむことに疲れてしまった。
先日、上司(この田舎に住んで十年以上)に息抜きの会話の中で「(大学生活を送った土地)に帰りたいんですよね~」と話したら、「万一コロナに罹った時村八分になるからやめた方がいいよ、ガチで」と改めて念を押されてしまった。
その会話の数日後に、仕事終わりの終電に飛び乗ってその地に行こうと画策していたけれど、その計画もぽっきり折れてしまった。
久しぶりにワクワクした。全部終電を乗り継げば、日付は越えるけどその地に辿り着ける。出勤前に駅のコインロッカーに旅行カバンを預けようとか、馴染みのバーのマスターにはあのお土産を買っていこうとか、あっちに帰ったらあのレストランのご飯を食べようとか、旅行用の歯磨きセットが無いから買わなきゃとか、いろいろ、考えてたんだけれど。
結局そのお休みは、昼過ぎまで寝てYouTubeで酷道走行動画を見たりしていたっけ。
どんどん預金残高が増えるけれど、これっぽっちも嬉しくない。いくら円盤を買っても生の演劇・映画・演奏とは別物。いくら高い酒を買ってもバーで飲む味には到底及ばない。
何で自分は働いているんだろ。
生きてるって言えるのかな、これ。
コメ返信
https://anond.hatelabo.jp/20200919145352
そんなささやかな希望すら叶えられない田舎クソだな〜〜〜ってほんと思う。京都の確か四条通りのカフェのカヌレとかも食べたい。あと博多のShinShin。
https://anond.hatelabo.jp/20200919145353
映画自体じゃなくて映画館に行くまでの道のりが電車しかない(車持っていない)なので詰んでるんですよね。別に映画館とか行くの自体は大丈夫でしょって思ってる。
https://anond.hatelabo.jp/20200919145626
明日トラックに轢かれて死ぬかもしれない刹那主義で生きてるから相容れなくてすまんな……あっでも10万給付で貯金額増えた時は嬉しかった。
https://anond.hatelabo.jp/20200919150005
近゛く゛に゛美゛味゛し゛い゛お゛酒゛飲゛め゛る゛バ゛ー゛が゛な゛く゛て゛困゛っ゛て゛ん゛だ゛よ゛!!!!!!!高い酒ストレートで飲む分にはいいけれど……さ……あとバーの雰囲気が好き人間だからよ……
https://anond.hatelabo.jp/20200919150734
分かりみすぎて笑ってしまった。わかる予言するわ多分「都会の生活は時間が早すぎる、こんな溢れた情報の中で振り回されるような人生は送りたくない」とか書いてそう。生きるの根本的に向いてないな???
もう頭にきた。
文化祭で漫才やってるし、一時期本気でNSC入ろうか考えてた。
女に生まれたせいで好きな芸人について語れないよ。どうしてくれんだよ。
地雷ファンでもミーハー顔ファンでもないってどうやったら理解してもらえるの?
ほんとはアインシュタイン好きなんだよ。
パンサー向井さんのラジオ毎週欠かさず聞いてるけど、パンサー好きって言えないよ。絶対誤解されるもん。
お笑いの話をするとき、誰の名前を言えば「そっち側じゃない」ことを理解してもらえるんだろう。
確かに、劇場に通い詰める女子の中には、痛いファンもいると思う。それは認める。
ちなみにフェミでもなんでもないよ。
一緒にライブ行く仲間でこの話題が出て、もやっとしたから書き込んだだけ。
こういうこと書くだけで「めんどくさいお笑いファンだな」と思われるんだろうな。
あーあ。
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg
19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg
ディズニー長編アニメで何が好き? と問われたら挙げるくらいに『ムーラン』(1998年)が好きだった。
『ムーラン』は中国の伝承をもとにした話だ。老いた父に代わり男装して従軍し武功を立てるも地位は断り故郷に戻る。最も古いのは詩と言われ、民謡、戯曲、小説の題材になっている。
時代によってどこに力を入れて語られるかは変わってくる。女で軍功を立てる力強さを描くのか、家族への孝行を尊ぶものなのか、国への奉仕を宣伝するものか。
ディズニーでのアニメ映画化にあたっては女性の自己実現という方向で物語はまとめられている。
主人公のムーランは、女は家でおしとやかにしているべきという風潮になじめない。老いた父を助けるため男装して代わりに従軍することになるが男ほどの力はない。しかし彼女自身の強みである知恵と機転を武器に自分を信じ、自分らしいあり方、誇りを見つけるのだ。
挿入歌『リフレクション』が名曲だ。映画のわりと最初のほうに歌われる曲で、含む意味が全編に影響してくる。家の名誉のためには仲人に気に入られて良い家に嫁がなければならない。でも失敗してしまった、という状況を受けて「水鏡に映った着飾った自分は知らない人に見える。ありのままの自分の心はごまかせないけれど、本当の私はいつか映るのだろうか?」と吐露する。
その後男装して(=別ベクトルで自分を偽って)活躍するわけだが女であることがバレてしまう。で、色々あって男だとか女だとか求められる役割だとかじゃなく、自分であることがいいよね! って結論に至るのだ。
さて、ディズニーのヒロイン像というのは時代によって移り変わる。おしとやかに待っていれば幸せ(王子様)が訪れる初期ヒロイン、自我がありパワフルながらやはり幸せはヒーローが運んでくる中期ヒロイン、恋愛から解放された最近のヒロイン。
ムーランは時代的には中期ヒロインに位置づけられる。とはいえロマンス要素は淡い。アジアが舞台で自己実現が主題という点が特筆すべきところだろう。
その頃のディズニーの非コーカソイドを取り扱った映画というのはエキゾチシズムあふれると言うかアメリカ解釈エスニック世界と言うか、なかなか文化描写が大味である。ご多分に漏れず『ムーラン』も西洋的なアジアであんまり正確ではない。突然念仏唱え出す登場人物が居るようなステレオタイプなオリエンタリズムである。また、男装のために長い髪をカットするシーンが山場のひとつだが、断髪して覚悟を示すことはとても西洋的な描写だ。古代アジアの人々は男女問わず長髪だからね。
それでも20世紀末にアジアが描かれたことは画期的で、東洋西洋の狭間で自分のあり方を考えていたアジア系アメリカ人二世三世に特に刺さったと聞く。また、脚本にはアジア系アメリカ人の女性が居た。そのあたりを思うにターゲットは西洋社会であったのだろう。
さて、そんな『ムーラン』が20年の時を超えて実写化されると言う。わくわくした。あの、魔法使いでもなんでもない同じ人間なのに圧倒的な力を持つかたき役、シャン・ユーの大軍勢が雪原に現れる絶望的なシーンが実写の迫力で見られるのか。ハリウッドに中国の方も増えただろうからオリエンタリズムの産物じゃなくてきちんと考証がなされた中国描写になるんだろうな。最近のディズニー映画のように現代の価値観を反映させるだろうから「異民族は悪、侵略者、だから防衛しなければならない」なんて単純な物語化じゃなく厚みを持って描かれるんだろうな。(アニメだと時代も場所もぼかされて相手はフン族という言及のみ。原典だとムーランは漢民族じゃなくて鮮卑の人っぽいし、北魏 vs 突厥 の戦争って遊牧民同士の戦いでつまり互いに侵略し合っていたってことだと思っている)アナ雪1でサーミの文化盗用と言われ、アナ雪2でサーミの監修を入れて文化盗用にならぬよう注意を払い、作中で植民地支配を彷彿とさせる歴史を描き、過去の過ちを直視し「今できる正しいことをしよう」と歌わせるディズニーだ。期待も高まるというもの。
そんな価値観も変わる時代の中にあっても輝く、自分らしく誇りを見つけるという変わらないメッセージ。名曲の数々、コミカルな相棒キャラクターであるドラゴンのムーシューと幸運のコオロギのクリキーのコンビ――彼らも「自分を偽っている」キャラだ。ムーランの物語は彼女だけではなく、ほかのキャラも自分を信じて自己実現する物語なのだ!――厳しくもきちんと実力は認めて義に厚く格好いいシャン隊長とムーランのほのかなロマンス。男装しているムーランに人間的に惹かれているっていうのがいいんだよねー。ああ、楽しみだなあ!
※ アニメ版と実写版の差異、未見のためニュース等で分かる部分のみ
うおおおい。やりたいこととやっていることとターゲットがちぐはぐで全方位損だよ。東西どちらにもいい顔をしようとして大失敗では。誰が嬉しいんだこれ。
いやね、きっと通常の劇場公開をしていたらふらっと見てしまっていたと思う。事前情報仕入れず見るタイプなので。公開延期で配信も加入しないと見られないと言うので時間ができてしまって調べたらさあ、ねえ。心情的にこれはもう見られない。
アニメ版が中国本土であまり評判が良くなかったというのは聞いたことがある。自分探しをするヒロイン、自立したヒロインというのが儒教感覚としてはそぐわないらしい。だからってアニメ版の主題であった自己実現を切り捨てて家のため国のため「孝」「忠」の話にするか? [追記] トラバで教えて貰ったが、アニメ版は中国本土でも人気だったそうだ。確かにレビューサイトの点も高かった。自分は欧米メディアの記事から人気がなかったのだと思いこんでいたが誤りだったようだ。失礼しました。えっ、じゃあディズニーはどこを向いて脚本変更を決定したんだ?
アニメ版のファンなんぞ知らん、商業的には大きなパイである14億人+全世界の中国ルーツの方々がターゲットなんだ! と言い切ってくれるならまだ理解できた。でも中華圏の評判も悪くてさ。聞こえてくるのは「孝」「忠」はこんなんじゃねーよとか伝統的な任侠精神を西洋騎士道のテンプレートに雑にはめ込みやがってとかムーランをフォースっぽい謎の不自然なパワーを持つ西洋的スーパーヒーローにしたなとかドラゴンのキャラの代わりに鳳凰がシンボルになったが鳳凰が象徴するのは古式ゆかしい女性性だぞフェニックスと混ぜてねーかとか『カンフー・パンダ』のほうが中国の伝承や比喩を尊重しているぞとか、そんな感想ばかりである。
中国をターゲットに完全シリアスな『花木蘭』実写化がしたかったらアニメの看板は控えめに、スタッフ陣にもアジア勢を揃えて時代考証風俗考証手厚く入れて中華圏を唸らせてくれよ……。
新疆ウイグル自治区でのロケってのもさ……。「異民族、それもモンゴルあたりで活動した今のトルコにも繋がると言われる実在の民族を排除するために戦う」ストーリー自体センシティブで取扱注意なのに、文化が異なるが故に現在進行形で人権侵害が行われている新疆ウイグル自治区をわざわざロケ地に選ぶとは。映画撮影のためにディズニーは人権侵害に目をつぶり「新疆ウイグル自治区は海外のクルーが来られるような安全で風光明媚なところで海外で言われているようなことなど行われていませんよ」という中国の宣伝に乗ったのだと言われても否定できないだろう。
ディズニーとしては MeToo を受けてストーリーは変更するが民族浄化は容認するみたいな基準なのか?
自分は今まで作品と作者・出演者は別と考えてきていた。役者が不倫していたり薬物をやっていたりしても作品の価値が貶められることはないし配信停止にすべきではない。また、過去の作品で今の基準だとアウトなものがあることも認識している。奴隷制を肯定的に描いている『風と共に去りぬ』、子役を薬漬けにして演技させていた『オズの魔法使い』などなど。それらも配信停止にすべきではないと考える。描写については注意書きを添え、新たに作る時は現代の倫理観をもとにし、新規であえて描写する時は「あえて」である説明を加えれば良いと。
とすると、俳優の発言は個人の思想と割り切れても現在進行形の人権侵害は了承できないな。俳優はアメリカ国籍とは言え中国本土の方だから一族も本土に居るだろうし当局の意に反する発言をしたら命が危ないのだろうけれど、ディズニーはウイグルの件を全く知らなかったとは言えないだろう。
ディズニーがどのような声明を出すのか、出さないのか。注目している。
[追記]
誤字を修正。
また、中国国内の反応を知りたくてデータを確認してみた。ご参考までに。
9/15昼時点の豆瓣(中国の代表的なレビューサイト)のスコア
作品名 | 公開年 | スコア (10点満点) | 最頻値 (最大星5つ) | スコアの母数 |
---|---|---|---|---|
実写版ムーラン | 2020 | 4.9 | 星2つ | 約16万人 |
アニメ版ムーラン | 1998 | 7.8 | 星4つ | 約20万人 |
実写版美女と野獣 | 2017 | 7.2 | 星3つ | 約32万人 |
アニメ版美女と野獣 | 1991 | 8.5 | 星4つ | 約14万人 |
実写版アラジン | 2019 | 7.5 | 星4つ | 約26万人 |
アニメ版アラジン | 1992 | 8.2 | 星4つ | 約6万人 |
ヴィッキー・チャオ主演版ムーラン | 2009 | 6.2 | 星3つ | 約9万人 |
アニメ版ムーランは意外と[追記] トラバで教えて貰ったが「意外と」ではなかった中国でも健闘していたようだ。レビューも楽しく読んだ。翻訳ソフトありがとう。
実写版ムーランは当初スコア4.7だったが、星3をつける人が増えて4.9まであがってきた。とは言え他のディズニー作品と比べると極めて低く、ここから他作品ほどスコアを上げるのは難しそう。
一番下のヴィッキー・チャオ主演版はディズニー関係ない中国発の歴史映画。そう、既にシリアスな実写映画は存在するのだ。
ランキング | 作品名 | 公開日 | 初週興行収入 | 累計興行収入 | 猫眼口コミ (10点満点) |
---|---|---|---|---|---|
1 | 八佰 | 2020/8/21 | 約6.4億元 | 約26.9億元 | 9.2 |
2 | 実写版ムーラン | 2020/9/11 | 約1.6億元 | 約1.8億元 | 7.5 |
3 | TENET テネット | 2020/9/4 | 約2.1億元 | 約3.6億元 | 8.3 |
6 | かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ | 2020/9/11 | 約0.03億元 | 約0.03億元 | 8.0 |
日中戦争を描いた超大作『八佰』と比較するのは酷として、興行収入面は大コケしなかったといったところだろうか? 有識者の見解を聞きたい。 [追記] トラバより 少なくとも口コミ的には大コケの大コケだと思う
とのこと。『アベンジャーズ:エンドゲーム』が初週約22.3億元、『アナと雪の女王2』が初週約3.8億元ということを考えると厳しい結果になりそうだ。
[再追記]
同じ作品を見ていいな、好きだなと思っていたことが分かって嬉しい。コメントでアニメ版が好きと表明して下さった方々もありがとう。
2年目っていうのはノイエ邂逅から銀英伝知ったから。邂逅見て星乱見に行って原作15巻読んで今Eテレ見てるぐらいの浅いファンだ。明日の最終回の再編集楽しみだなみんな。OVA版はこの間アマプラ入ったし、少しづつ見てる。まだ25話ぐらいまでしか見れてない。漫画は買おうか迷ってる。フジリューの絵怖いんだよな。でも道原さんは少女マンガちっくだし…。.5は興味無い。ヤンが歌うとかおもろしろすぎてまともに見れる気がしないし。あとなんか展開してたっけ?まあ自己紹介はこんなもんでいいか。
んで、なんか燃えてるのは知ってる。社会系の学者さんがOVA版のヤンとフレデリカの家庭の描写が前時代的だからノイエはうまいことやってほしいみたいなことを言ったんだと。俺はそのツイートみて、銀英伝ちゃんとみてんのかコイツ?と思った。
たしかにヤンは家事をしなくてフレデリカばかりが家事をしている、という状況だけなら前時代的だと言うのもわかる。共働きなのに家事は分担しねーのかよってことだろ?ヤンは男でフレデリカは女だもんな。前時代的だよな。
でもさ、その家事分担は両者合意の上なんだとしたら?合意の上とは書かれてないけど、合理的に考えたらこうなるだろ?だってヤンの家事能力は壊滅的なんだぜ?まあフレデリカも料理があまりうまくはないんだが、ヤンのためにそのへんの苦手を克服しようとオルタンスさんに料理習ったりしてるんだぜ??
……………って、ここまで書いてたんだが、もしかしたらOVA版ではそのへんの描写が削られてるのかもしれないよな。俺が今上に書いたのは全部原作に書いてあることなんだよ。OVA版だけみたら、フレデリカはさも当然のように家事してるのかもしれない。だから「エアプw」って原作の描写を持ち出して批判するのはよくないなと思った。それぞれ同じ名前を冠してるけど違う作品だ。だから例の学者さんを論破するならOVA版から根拠を出さなきゃいけない。俺は総論賛成各論反対みたいな感じだし、関わるつもりもないが。
まあノイエはトダが殴られなかったりとちょいちょい時代にそぐわない部分を修正してるし、言われなくても制作段階で考えてると思うぞ。劇場では核云々のセリフだったのに放送では差し替えられてたり、鮮血が黒くなっていたり、一応TPO弁えてると思う。でも「娘をくれてやろう」とか「女子供は流刑」とかちょいちょい微妙な発言もあるぞ…?
あとさ、原作が1982から1987、OVA版も1990から2000年につくられたものなんだし、今の価値観と合わなくて当然なんだわ。
political correctnessって英和辞典引いたら政治的 正しいことって意味なんだろ。銀英伝はpoliticalにcorrectnessってなーんだ?って問うてる作品だし、なんかポリコレどうのこうの言われてるの面白いよな
家にテレビなんて10年以上存在しないから、まったく見てなかったんだが、こないだチャンスがあったから見てみた。
ネットでは、コンプライアンスが〜だの、クラウドのセキュリティーやべ〜だの意見が飛んでたけど、まあそんなものドラマだからいっかなって思う。
でもさあ、何このハラスメント劇場??もうひたすらパワハラとモラハラの嵐。
あと、腹立ったからっていちいち怒るな。
私は海外で勤務していたからわかるけど、会社という場でそんな負の感情表にだしながら仕事なんてしてたら、軽蔑ものだよ?人間的に限りなく未成熟として見られ、すぐに首になるのがオチだろう。
この点がドラマといえど、違和感しかなかった。こんな未成熟な会社、日本だと普通に存在しちゃうんだ?
金融業界が軒並みヤバいとは聞いてるけど、それでも目に余るものがある。
日本は一度は経済的に先進国と言われるまでに成長した過去があるけど(あくまでも過去)、人間的には未成熟なまんま成長することなく、衰退国になってしまった。
これが残念でならない。
映画『チー牛野郎VSピッツァと10回言ってここをヒジと普通に答えちゃう野郎』大ヒット上映中です!
まあレイトショーは超集中して観れていいわね!って思う反面、
こんなにお客さん少なくて儲かってるのかしら?と心配にもなるんだけど。
めちゃくちゃ人が多くて、
昼間の映画館ってこんなに満席御礼なの!?って逆にビックリしたわ。
だから私の映画館のイメージはガラガラってのがデフォルトなので、
そういう満席御礼で座布団が飛び交ってる映画館ってイメージじゃなかったわよ。
そんでさ、
観たいなと思ってた映画もコロナ禍で延期になったりするのあるじゃない、
観たかった映画見逃しませんように!って改めて映画館にスケジュールチャックしてみたわけ。
要チェキって別に映画上映スケジュールをチェキで写メする意味じゃなくて、
チェックってことなんだかんね。
そこんとこ履き違えていると、
何でも写真撮ることを写メって言う輩みたいに恥ずかしい目に遭えばいいのよ!
そんなわけで、
秋からの映画もチェックしてそろそろ観に行かないとってことなのよ。
あとさ、
私はしない派というか出来ないというか、
せいぜい飲み物ぐらいよ。
だってさ、
ポップコーンとか食べても、
そのポップコーン掴んだ手の始末が出来ないわけじゃない。
手のポジションはそのポップコーンのフレーバーのベタベタがよそに付かないように
手に手を意識しなくちゃいけないじゃない。
そうなるとなんか映画に集中出来なくなると言うか、
おしぼりもセットであればいいけど、
あんなちゃいちーな小さいおしぼりだと映画のエンディングまでひたひたの潤いが続かないじゃない。
ひたひたで湿っていて欲しいの。
え?
エンディングで泣いた涙でおしぼり湿らせたらいいじゃない?って
そうね、
涙の数だけ強くなれる!って。
やかましーわーい!
やかましーわーい!しかない私でもそうツッコんじゃいそうな勢いで、
涙といっても、
何でもかんでも最後に泣けば良い映画じゃないってことは確かだし。
だから、
ポップコーン食べた手の始末ができない限り、
ましてやさ、
館内でホットドッグ食べるとか、
あとさ、
劇場の席に着くまで、
1粒もこぼさずに一番奥のスクリーンに行く自信もないし、
それも苦手なところかな。
あのまんが日本昔ばなしの大盛りご飯てこ盛りの山々盛りポップコーン版とでも言うのかしら。
ちょっとすり切り一杯、
モノが食べれるかってことを物語っているのよ。
うふふ。
葡萄ウォーラーはそのままにしてもあんまり果汁が出にくいので、
1粒を半分に切ったりして入れたりすると良いわよ。
皮剥くのもいいけど手間が掛かるわよね。
ミニトマト可愛かったので、
小さい丸いって意味では一緒かー!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
NO MORE 映画泥棒がリニューアルされた。個人的には前版で嫌いだった以下の点が改善されており今回のリニューアルは成功の評を送りたい
映画泥棒本人よりも、この点で客を泥棒扱いしているように感じて嫌いだった。
前々のバージョンでは映画泥棒が1画面に複数体映ってるシーンもあるため、この違法ダウンロードも映画泥棒の別個体で良かったのでは?と感じていた。
特にTOHOシネマズなど、上映の直前に流れる劇場ではこれはかなりキツかった。
映画泥棒の上映に肯定的な層の回答で「これがあると映画を見に来たって気がする」というものがあったが、TOHOシネマズでは映画泥棒は下記参考に貼ったTCXやDolby Atmosのデモと本編の間に挿入される
これら豪華なTCXやAtmosのデモ直後の映画泥棒は私的には一気に冷める要素だった。
映像的にはまだいい。直前のデモは劇場内のスピーカーをフル活用しているのに対して映画泥棒は単にステレオで前方からしか音がしない。このショボさが!冷めるんだよ!
これらのデモに比べるとまだまだ……というものではあるが、だいぶマシになったのは評価したい。
「NO MORE映画泥棒」劇場用CMがリニューアルしました! | https://www.youtube.com/watch?v=kRf0o8_Temg
NO MORE 映画泥棒がリニューアルされた。個人的には前版で嫌いだった以下の点が改善されており今回のリニューアルは成功の評を送りたい
・映画館では正規の客だったポップコーンとドリンクが映画館外では違法ダウンロードを行っている
映画泥棒本人よりも、この点で客を泥棒扱いしているように感じて嫌いだった。
前々のバージョンでは映画泥棒が1画面に複数体映ってるシーンもあるため、この違法ダウンロードも映画泥棒で良かったのでは?と感じていた。
特にTOHOシネマズなど、上映の直前に流れる劇場ではこれはかなりキツかった。
映画泥棒の上映に肯定的な層の回答で「これがあると映画を見に来たって気がする」というものがあったが、TOHOシネマズではTCXやDolby Atmosのクレジットと本編の間に挟まり、TCXやAtmosのクレジットが豪華であるためこの映画泥棒は私的には逆に一気に冷める予告だった。
参考:
TOHO TCXのクレジットデモ https://www.youtube.com/watch?v=FfQ8c7dEPTI