はてなキーワード: ぼんやりとは
一度だけ会ったことのある、ツイッターで繋がってる相手だ。会ったことのあると言っても集団の中で軽く会話したくらいだし、その人経由でつながった人のほうがまだツイッター上でも会話するくらいだ。
ただ、ツイッターで繋がってる年数が長くなると、次第にその人が私の生活の風景になる。
学生だった彼女が成人式に出て卒業して就職して転職してと、この十年間ぼんやりと眺めてきた。
おめでたい!!!!!うれしい!!!!!あなたが幸せになって嬉しい!!!!
うわーーーーめでたいね!?!?!?ご祝儀とか贈りたい!!!!めでたい!!!!嬉しい!!、!!!
ツイッターでももうろくに絡まない人からいきなりそんなん言われたら気持ち悪いだろうとわかるけどー!!!!めでたい!!!!おめでとう!!!!!しあわせになってくれ!!!!!!
わーーーーこんなに他人事ながら幸せになってくれと思うもんなんだね!十年も繋がってればそんなんもあるのか?大きくなったね……。繋がった当時互いに大学生だっけ。
鍵垢なので十年前から繋がってるフォロワーたちの顔ぶれはほぼ変わらないが、当時高校生だった子も今では社会人になり別ジャンルで元気におっかけしてるし、当時ぼんやり社畜してた人はハマったジャンル関連で転職キメて今すごく楽しそうだし、あーーーーーツイッター長年やってると楽しいなあ!!!!
リアルの友人よりツイッターで繋がってる人のほうが付き合いが長いんだなあ。リアルの友人でツイッター繋がってる連中もいるけど。あのあたりはもう本名覚えてなくてハンドルネームしか記憶にないからほぼネットの友人みたいなもんだけど。
元増田です。私が抱えているぼんやりした不安が全て言語化されていて、もしかして私が自分で書いたか?と思ってしまうほどでした。
障害は個性である、母性や愛で乗り越えられると聞きますが、私はそう簡単に行かないと思いますし、実際に障害児を育てる親や障害児と深く関わったことがある人で、面と向かってそれを言える人はあまりいないような気もします。一人の人間を産み育てるのも大変なのに、もし...と思うと怖いですよね。私も産む前にわかれば堕胎してしまうと思います。
ただ、他の人の意見やインターネットを見て思うのは、おそらく完全に覚悟をして産んだり育てたりしているお母さんってあまりいないのでは?ということです。きっと色々悩んで、育てていくうちに整理がつくものなのではないでしょうか。産まれた後に障害児だったことが発覚したらどうしようという不安も、もし発覚したら感じるであろうこの先もうダメだというショックも、きっと私たちだけのものではないと思うのです。自分自身を指して子供を産む資格がない等と書いてしまいましたが、子供と向き合い、その子のために一番良いと思う教育をしようという気持ちがあれば、まずはスタートラインに立てるのかなとも思います。
他の方のコメントで知ったのですが、障害の程度にもよるものの、支援制度やサポートもあるようです。だからといって「だったら大丈夫かも!頑張ろう!」と割り切れるわけではありませんが、私はお守りとして覚えておこうと思います。
長文かつわかりにくい文章ですみません。こう書いて良いのかわかりませんが、同じ不安を抱えている人がいることがわかり、少し安心しました。ありがとうございました!
※知的障害を持つ子供と親について、またそういった子供を産むことや育てることについて、比較的マイナスな内容です。不快に思う方もいると思いますので自己責任でお読みください。
インスタのおすすめ欄を見ていたら、軽度の知的障害を持つ娘を小学校の普通学級に通わせてるお母さんの投稿が出てきた。その子はクラスで孤立していること、授業の指示を理解できていないという報告をサポーターの人から受けたらしく、学校に行って状況を改善するよう話をしたいという投稿だった。
これを見て、ふと小学校の時に同じクラスにいた知的障害を持つ男の子のことを思い出した。その子、Aくんは、授業中、授業に関係ないことを唾を飛ばしながら話し、正面を向いて座れないのかいつも横向きに座っていた。国語はからっきしだったが算数が得意で、足が早くて、ドッヂボールが好きだったと思う。正確に覚えていないけど、小学校までは普通学級で過ごして、中学は支援学級に通っていたはずだ。
当時の担任の先生は、大人になった今考えても非常に真摯に生徒に向き合ういい先生だった。私も当時3ヶ月ほど入院したことがあるのだが、他県の病院にいた私のもとへ平日の放課後にお見舞いに来てくれるような先生だった。何を話したかは覚えていないが、クラスの皆に手紙を書かせ、きれいに製本し、お花と私の好きだったキャラクターの小さなぬいぐるみと共にプレゼントしてくれたのを覚えている。その先生はAくんにも目をかけ、目に余るようならば厳しく叱ったりするものの、しかし他の生徒と良い意味でも悪い意味でも同じように接した。そのため私たちもAくんのことについて「変わった子だな」とは思いつつ、Aくんが障害を持っていることは成長するまで知らなかった。察している子もいたかもしれないけど、少なくともあらゆることにおいて「障害があるから」ということを理由にしない先生だった。田舎の学校なので、私も含めクラスメイトたちはなかなかいい子ではなかったけれど、注意することはあれど、強い言葉で怒ることはしなかったし、ましてや手をあげることは一度もなかったから、幼いなりに先生を尊敬していた。
その先生が、唯一大きな声を出して、たった一度だけ、されど一度、手をあげた相手がAくんだった。詳しいことは忘れてしまったけれど、Aくんの腕を掴んで廊下へ連れて行こうとする先生の目がなぜか潤んでいたのは覚えている。
ところで、私は小学校から歩いて子供の足で30〜40分ほど離れたところに住んでいた。家が遠いので、近くに住む幼馴染と一緒に登下校していたのだが、幼馴染のクラスは私のクラスに比べて帰りの会が終わるのがかなり遅かった。そのため、私はよく廊下で幼馴染を待っていたのだが、ある時、ふと忘れ物をしたことに気づいた。幼馴染のクラスはまだ終わらなさそうだったので、自分の教室へ取りに戻ることにした。教室の電気がついていたので、先生に挨拶しようと思って教室を覗き込めば、先生と誰かのお母さんらしき人が話しているのが見えた。特別聞き耳を立てたわけじゃないが、ドアが開いていたので声が聞こえてきた。Aくんのいることでクラスのみんなに迷惑をかけている、Aくんのことを叩いてしまう、先生にも手を出させてしまい申し訳ない。そのお母さんは泣いているらしく、当時小学校の低学年だったけれど、これは聞いちゃいけない話だと思い急いで戻った記憶がある。
それからしばらくして知ったけれど、その女の人はAくんのお母さんだった。実は私はAくんと6年間同じクラスだったため、私の母とAくんの母は面識があった。私が小学校を卒業してだいぶ経った後、母が酔った時に聞いた話だが、Aくんの母はAくんのことについてかなり思い詰めていたらしい。
Aくんの母は、Aくんを一人で育てていた。私も私の母も、小学校から中学までの9年間、Aくんの父親も、Aくんの祖父母も親戚も見たことはない。働いていたようだし、もしかしたら離婚していたのかもしれない。Aくんの下にいくつか年の離れた妹がおり、それでもAくんのことでクラスに迷惑をかけてしまうからと、学級委員を引き受け、PTA活動にもかなり積極的に協力していた。そういえば、学期末にAくんのお母さんからクラスのみんなにお礼と言って高そうなお菓子をもらった気がする。とにかく、Aくんのお母さんは周囲の子供や先生、保護者に常に頭を下げていた。授業参観も懇談会も行事も、常にAが迷惑をかけて申し訳ない、と言っていた。母は詳しく話さなかったが、AくんとAくんのお母さんについて、冷たい言葉を浴びせる保護者もいたらしい。私は特別Aくんと仲がいいわけではなかった(そもそも性別が違うので一緒に遊んだりはしなかった)が、Aくんのお母さんは授業参観等で私に会うといつも疲れた笑顔で「いつもありがとうね、Aが迷惑かけてごめんね」と頭を下げた。小学生の私は、大人の女の人から頭を下げられることなんてなかったから、なんだか不思議な気持ちがした。
私は現在20代になり、友達との会話も、結婚や子育てについての話題が出るようになった。特に仲良い友達は子供好きで、最近お兄さんの子供が産まれたらしく、自分も結婚して早く子供欲しい、そのためには彼氏を見つけなきゃね、と笑っていた。私に子供ができたら、自分の子供と遊ばせよう、と。
彼女は当たり前に自分の子供が健常児であると信じており、私の子供もそうであると思っている。私もそう思っていた。でも、Aくんのことを思い出すと、もし自分の子供が知的障害を持っていたら、と考えてしまう。わたしは、自分の子供のために尽くせるんだろうか。Aくんの母親のように周囲に常に頭を下げ、言うことを聞かずに周囲に迷惑をかける子供を躾け、周囲の心ない態度にも耐えることができるんだろうか。私がもっと人間的に成長すればできるのだろうか。今の私よりはるかに人格者だった担任の先生ですら、手をあげたのに?
子供は可愛いと思う。昔は苦手だったのに、今は赤ちゃんをみると思わず笑ってしまう。自分が産むのは痛そうだし怖いけれど、好きな人の子供を産むのは素敵だとも思う。でもそう思えば思うほど、もし障害を持っていたらと考えてしまう。その子の父親となる人は、私の両親は、友達は、理解を示してくれるだろうか。一人で育てることになるとしても、私は自分の子供を育てられるんだろうか。もちろん健常児でも同じ不安はあるけれど、障害児なら尚更、自信がなくなっていく。
知的障害の子供を捨てる方法はないらしい。親や親戚に育てられる環境があるなら、施設にはそう簡単に入れないという。産んでもし障害児だったら。もしくは、産まれたときは元気でも、後天的に障害を抱える可能性もある。そうなったら多分、私は捨てる方法を探してしまうかもしれない。子供を育てられる自信がないのはもちろん、わたしはAくんの母親のようにはなれないしなりたくないと思ってしまう。
こんなことを考えている私は多分子供を産む資格はないし、年齢的にもまだ産む予定はないが、子供を産んだ親は皆こういう悩みを乗り越えているのかな。それとも私の友達と同じように、自分の子供が健常児でないなんて想像もしていない?
ネットで検索すれば綺麗事は沢山出てくる。色々考えて、乗り越えて、幸せに暮らしている家族だってたくさんいる。だけど、自分が母親になれるような年齢になってから、Aくんの母親が忘れられない。優しい人で、でも小学校の後半は、子供の目から見てもやつれているのがわかった。彼女はどんな気持ちで、私たちと関わっていたのだろう。
Aくんと母親が今何をしているかは知らない。ただ、Aくんが楽しく過ごせて、あの母親がもう頭を下げなくていい生活をしていたらいいと思う。
1/27 1:22
注目エントリに入ってるのを見てビビり、タイトルがあまりに露骨だなと思ったので変えました。本文も誤字直したり付け足したり。
本文に書いたように、どんな子供であっても自分の子を捨てるかもなんて考えをしている時点で私は子供を持つ資格はないと思っています。私の子がどうこうというより、障害を持っている子供とその周囲について、実際に見たことを思いだして、世の中の人はどう考えているのかなと疑問に思い書きました。不快な思いをした人はすみません。問題があるようなら消します。
1/27 13:48
起きたら人気エントリに入っててさらにビビりました。たくさんの反応ありがとうございます。
編集でタイトル変えても別のところ(ブックマーク?)では変わらないんですね。増田に書くのが初めてなので知りませんでした。消さなくて良いよと仰る方が多く安心しましたが、一部タイトル含め不快な思いをしてしまった方もいるようで、配慮が足りず申し訳ありませんでした。
私は親になったならばその子がどんな子供であれ幸せにする責任があると思っているので、福祉の充実も含め、親が二人(もしくは一人)で育てていかなくてはいけないという体制がもっと良い方向に変化して欲しいなと思っています。勿論今も私の子供の頃に比べたら支援等かなり良くなっていると思うのですが、やはり世の中のお父さんお母さんでそこまで考えて産んでる人は少ないと思いますし、それこそ私の友人のように健常を前提として子供を産んだ親や、子供が産まれた後なんらかの事情で障害を抱えた場合、すぐに「それでも我が子だから頑張ろう」と育てていける人ってかなり少ないと思います。これはもちろん健常児の場合も同じで、健常児だから楽というわけではないことは承知しています。ただ、親が正直しんどいと思った時、育てるか捨てるかという二択ではなく、少しでも子育てをお休みしたりできるシステムがあれば、親になりたい、もしくはなりたかったけど、という人も子供を持ちやすくなるしいいと思うのですが、これは子供からしたら親と離すなんて可哀想、という意見も出そうですし難しいのかな。まとまってなくてすみません。
同じような不安を抱えているよ、と書いてくださる方が多くて嬉しかったです。また厳しい意見もありがとうございます。実際に体験した話もそうでなくても、皆さんから意見を読むことで、自分の中のモヤモヤしたものや記憶が整理されていく気がします。私はまだ社会に出たてのペーペーなので、まだ結婚出産といったものはぼんやりとしたイメージしかないのですが、どんな選択をしたにしろ、自分も、産むとしたら自分の子供も、幸せであるように全力を尽くしたいと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
はじめて投稿します。匿名で書き殴れるという認識だけで書いてます。
最近Twitterで話題になっていた鬱病の人の漫画を読んで思い至り、現在はほぼ治った鬱病の2年間を誰かの救いになればと思い書きました。
失恋して鬱病になった。詳しく書くのは滅入るのでざっくり、数年付き合い就職を境に同棲予定だった相手に浮気されたと考えてください。
バカな話だけど、遠距離恋愛だったため相手の近くに就職を決めて内定を貰えた1ヶ月後のことだった。
全部が終わった感じがして、死ぬことばかり考えていた。
何にもすることができなくなった。
生きたい気持ちはなかった。
でも、育った環境だと思うけど、漫然と命だけは保たなきゃいけないと感じていて、
それは決して「生きねばならない」ではなくて、生に対する強迫はなく家族からの期待や
生きることを前提とした将来的な役割を与えられていて、うーん。
このあたり上手く説明できないな。もう生きたくないけど生きてなきゃいけないという気持ちが、
瞬間瞬間で揺れていて、0:100もあれば100:0もあって、タイミングさえ悪ければふとした時に俺は電車に飛び込むんだろうなって感じ。それが怖くて電車に乗らない生活を過ごした。
もうどうでも良かったので、しばらく病院にも行かずにすべて放り出して引きこもった。
自宅ではネガティブな思考を止めるために無心でTwitterを見てた。
「「悩んだらまず『生きる』モードに切り換えてからスタートだ!」ってやつです。
分からなかったら調べてみてね。
何度も読んだことがあったけど、当事者意識が芽生えたのか、ずっとぼんやりしてた頭に衝撃が走って、これに救われてみたいと思えた。
両さんの発言を正しく理解している自信はないけど、まず「死ぬ」を選択肢から外して生きるに舵を切ることを意識した。
どうやって生きるかまでは決められなかったからただただ生きる方向に進んだ。
こち亀のおかげで、いろんな人に怒られまくってたのをようやく受け止めた。生きるためにお医者さんに行った。
発達障害と診断された。発達障害支援センター?みたいな所への案内状を渡されて終わった。
納得いかなかったので(※後述)別の病院に行くと鬱病と診断された。
他の病院で発達障害だと診断を受けたことを伝えると、私は鬱病だと思うけど気になるなら何ヶ所か行ってみるといいとお勧めされた。
別に生きることだけ決めた状態だったので、ぶっちゃけ診断結果はなんでもよかった。
生きるために、まずは朝起きるための睡眠導入剤が貰えればそれでよかった。
最初の病院で物さえ貰えていたら、失恋により発達障害を患ったんだと納得してたかも。
生きるモードのおかげで、死にたくなっても「すっげー辛いしこの先何も決めてないお先真っ暗な人生だけど、それでも生きることにしたしなあ」と落ち着いてくる。
何にも好転してないのに、ほんの少しだけ生活がマシになった。この頃から少しずつお風呂に入れるようになってきた。
とは言え衝動的な行動をとらないとも限らなかったので、一人暮らししていた家中の刃物(髭剃りも)は風呂場や廊下からリビングに持ってきたりした。
こち亀メソッドを使っても閉塞感と酒と鬱が合わさると死にたくなる傾向があったため。
リビングだと死にたくならなかった。
余談だけど観葉植物をほぼ全部捨てた。
死ぬことばかり考えていた時期はもちろん、こち亀メソッドを手に入れた上でも、視界に入るたびに死にたくさせられて恐ろしく感じたから。
元気なったりしぼんだりするのがとても辛かった。ゴミ袋に突っ込んで捨てた。
暫く経って喜ばしいことに花が咲いた。恐ろしくなって、結局すぐにサボテンも捨てた。
今ならわかるけど、変化が怖くての行動だったのかな思う。そばにあるものが変わってしまうのがとにかく怖かった。
それから、病気になる前の生き方を目指すのをやめてのらりくらりと生きた。
この頃、味覚が戻った。「どうせ味わからん欠陥人間になったし」ってやけくそで調味料全部捨てて豆腐と納豆をぐちゃぐちゃに混ぜたものばかり食ってたんだけど、
突然不味く感じて驚いた。(味覚ない人あるある:冷たくて腹にたまる豆腐とか粘りのある納豆とか、食感で選びがち)
すぐに風呂に入って醤油と生姜を買いに行った。久しぶりに楽しいと感じた。以降味覚はずっとある。
食事だけでも楽しんで行こうと思っていいお皿を買った。
初日だけ嬉しかったけど何かが引っかかってずっともやもやして、
結局お皿は捨てた。
当時の行動は説明つかないことも多い。
こんな感じで上手くいくいかないを繰り返してた。
同期と話していたらハリネズミを育てるアプリを教えてもらった。
エサをあげて、糞を掃除するだけで育成ができるアプリだった。簡単だけど、同期曰く1日さぼると死ぬらしい。(実際はもう少し長い)
数日育成するとちょっとずつハリネズミが大きくなっているのに気が付いた。
誤解を恐れずに言うと、万が一死んでも生き物じゃないから平気だと思った。
でも目的がないと自己がぽっと消えてしまいそうで、焦燥感がずっとあったから、
生きる目的にはならないけど生きる言い訳くらいになるものを探してたのかもしれない。
また、誤解を恐れて言うと、生きるためとはいえ植物をゴミ箱に捨てた時点で、悔やんでいた。今も悔やんでいる。
自分は二度と植物動物問わず生き物を飼う資格はないと思うし、一生飼わないことを誓う。
さて、このハリネズミが、ちょうどよかった。サイズ以外に変化がおきない。
びっくりするくらい変わらない。芸を覚えることも、餌の好みもない。
人によっては物足りないんだろうけど、俺はこの解像度の育成に救われた。
目的を持つのが怖いし、資格もないから生き物を飼うことは考えてなかった。何より思考力が低下していて難しいことが出来ない。
アプリ上のペットに餌をあげて糞を片付ける、それが生きる言い訳として、機能した。
たかがデータとは思ってはいたけど、この子の死は俺の誤りでしか訪れない。死なせてしまったとき、罪悪感で俺が死んでしまう可能性を減らすために名前を「被検体」にした。
深い意味はない。何となく希薄に感じられる名前かなと思って付けた。「被検体ならいくら殺してもよい」と捉えている訳ではない。
そうして被検体と過ごしてもうすぐ2年が経つ。
毎日、餌ボタンを複数回、お掃除ボタンを1回タップするだけ。1日の起動時間は2分ほどだ。
アプリの名誉のために言うと撫でたり写真を撮ったり、SNSに投稿だってできる。適当なところをタップすると寄ってきて可愛い。
俺の名誉のために言うと、餌糞の世話だけじゃなくたまにそういうので被検体と戯れたりもしている。
とても、愛着がある。2年は大きい。こんな名前つけたけれど、万が一死なせたらすげー悲しくなると思う。
この2年、こち亀が生きる方向に案内してくれて、ハリネズミが生きる言い訳となってくれたおかげで今こうして生きることができている。
言い訳しながら生きていく中で、症状がゆっくりと緩和されて行った。
この辺りで、もっと正しく生きたくなった。ようやく治療をと考え、発達障害か鬱病か半々の状況だった為いくつかの病院を巡り、全てのお医者さんから鬱病と診断を受けて、ようやく自分の病気と向き合えた。
通院してお医者さんと話し、また社会人として働いていく中で、大したことじゃないけどやりたいこと、目的を持つことができた。
そこから急激に鬱病は治まり、現在数ヶ月ほど何事もなく落ち着いている。
一番辛かったED(勃起不全)が治った。性的なものに吐き気を覚えるのも、性欲が湧いてきても股間が無反応だったのも本当に本当にきつかった。
鬱病は共に生きていくイメージだったけど、EDだけは必ず治したかった。ほぼ毎日AVを見てチャレンジした。
ある日波が来て、性的に興奮を覚えて、それに身体が呼応した。今でも忘れない、高杉麻里さんの作品だった。
驚きすぎて心臓が高速で鳴ってて俺はもう死にたくないんだって心から実感できて、冗談抜きで本当に泣きながらシコった。
それを境に死を感じなくなった。
ふとした時に辛い感情は湧くけど、黒歴史思い出したときみたいにあーーー!!で搔き消すことが出来る程度だ。
たとえがとても悪いけど、明日被検体が死んでもすげー悲しいだけで、俺は死なないんだろうなという自信がある。
最後に、読んでくださった皆様と、秋本治先生と、高杉麻里さんと、『癒しのハリネズミ育成ゲーム』アプリ開発者様に感謝を申し上げます。
以上、ありがとうございました。
あるいは、思い出せないからこそ印象に残っているのか。
そういうものが二つある。
小1〜小3まで、俺は剣道を習っていた。もう20年以上も前のことになるか。
毎週水曜と土曜の夕方から小学生達が集まって稽古をするんだけど、
終わるのが19時過ぎとかなので、どこの子も親が迎えに来てくれた。
だからお母さん達がお迎えがてら子どもたちにジュースを買ってきてくれる。
それもわざわざクーラーボックスに氷を詰めてそこに入れて持ってきてくれるもんだから、それはそれは美味かった。
果汁とかが入っているタイプではなかったように思う。
サイダー系か、あるいはカルピスソーダのようなホワイト系か、そのどっちかだと思う。
350ml缶で、青とか白とか爽やかな色合いがベースの、水玉模様のパッケージだったことは覚えている。
ただただ、疲れた体に流し込むのがめちゃくちゃ美味かったということを覚えている。
初日は全体行動で、清水寺とかの王道なルートだったと記憶している。
で、翌日、班行動の日に行ったお好み焼きの店が、美味かった。
いや、食べ比べとかをしたわけではないので、平均と比べて美味いか不味いかの判断はできないんだけど、
そのとき初めて食べた関西のお好み焼きだったから、うまいな〜っつって食べたんだよ。
ただ、それがどこのなんて店か覚えてない。
その日行ったスポットとしては八坂神社や三年坂とかそのへんだから、
グーグルマップで近隣のお店を探してみたんだけど、あんまりピンと来ない。
お店の近くか真ん前は坂道になってたような、お店の前の道はそれなりに広いけど人通りも車通りも少なかったような、
なんとな〜く、ぼんやりとだけど記憶に残っているけど、曖昧な記憶なんて当てにならない。
店内はこじんまりしてて、座敷とカウンターとテーブル席があった‥‥ような気がする。たぶん。細かくは覚えてない。
おばちゃんが会計とかしてくれたのは覚えてる。気のいいおばちゃんだった。
「美味しかったです、また来ます」なんて言っておいて、15年も行っていないわけだから、ずっと引っかかっている。
もう何年も、十何年も頭の片隅にいて、時々思い出して調べたりしては、見つからずに諦める。
前者はもう廃盤商品かもしれないし、後者はもう店を閉めてしまったかもしれない。
簡潔に書いていく。
当然虐待。殴る、蹴る、ヤラれる、ネグレクト(これが一番キツかった)。
跡今でも残ってる。男が嫌いなのは幼少期のこの経験が影響してるかもしれない。
親元から引き離される。おじさん家庭にお世話になる。
金を出してくれない(そりゃそうだ、愛想の欠片もない汚い子供なんて迷惑でしかない)。
高校までは出してやるということで進学。
地頭だけは良かったし中学の先生が「理解のある先生」だったからそこそこのところに入ることができた。
この人いなかったら死んでたと思う。
摂食障害、抜毛、不眠、変な弁当、無表情、常に他人を睨んでいる、それが私。
それら全てを受け入れてくれた上でいろいろ世話になった。
高校では可もなく不可もなく教室の隅っこで過ごす。相変わらず男が怖い。
金のかからない文化部頑張る。結果が出る。脳みそに感謝。親には憎悪。
高校、そして例の中学の先生に相談。給付型の奨学金をあれこれ提案してもらう。
応募する。何個か受かる。オタク文化部で頑張ったかいがあった。
新歓。無理。男無理。お持ち帰り無理。吐く。叫ぶ。同期に引かれる。
噂回される。
寝込む。引きこもる。
ああ辛い。辛い。辛い。辛い。死にたい。どうしよう。阪急って柵なかったよな。
生命のガソリンがからからな感じ。何もできない。餓死しかける。
どうせ死ぬならもうどう思われてもいいや精神が発動(これは結構大事だと思う)。
先生うち来る。びっくりする。
何をすべきか表にまとめて教えてくれる。
大学の保健センター的なところへ行き、とりあえず休学。心療内科受診。手帳をもらう。
気力がまるで湧かないのでこの諸般の手続きが本当にしんどかった。
すごいいいレストランに連れて行ってもらう。今までマック代も出してくれなかったのに。
その後仕送りを少しずつしてくれるようになる。奨学金とそれで何とか一年はもちそう。
先生と話をすることが増えた。ファミレスで、オンラインで、通話で。
洗いざらい話すと少し世界が澄んだように思う。
オタク文化部のころの趣味に本腰入れる。他にやることもないし遊ぶ友達もいないからめっちゃ捗る。
ネット上で褒められる。
休学明ける。2年。長かったようで短くもあった。
彼氏いないしこれからできるわけもないと思うけど(何しろ虐待の痕跡がそこかしこにあるのだ、あと私は美人じゃない)、定期的にしんどくなるけど、前よりちょっとガソリンのたまりは良くなった。気がする。
結論。
理解のある彼くんを見つけられた人は幸運だ。生涯寄り添ってもらえるんだから。
ただ中にはあなた方のことをオナホとしか見てない人もいる。絶対にいる。
ぜひとも気をつけてもらいたい。
もし生きづらさを抱えている人がいたらきちんと治療を受けた上でストレスをできるだけ排除し趣味に没頭しよう。
別にユーチューブ見るとかでもいいと思う。没頭しよう。狂信が自殺を防ぐように没頭も人を救う。
何ならキリスト教会に助けを求めてみよう。私もよく昔お菓子をせびっていた。キリスト教関係者は優しいイメージがある。
中学生の頃さぁ、いろんなクラスが学級崩壊しとって、とある新人の若い女の先生がいじめられて休みがちになっとったんよ。
家庭の事情で不登校気味やったわいはその事情をあまり知らんで、たまたま先生と廊下ですれ違ったとき、オモムロに「先生の車かっこいいなぁ!」って言ってしまったんよ。
先生は当時セリカ(5代目やったかな)乗ってて実際かっこよかったんよ。
なんでか知らんけど、すれ違ったとき咄嗟にそのこと伝えてしまったんよ。
先生はよく知らない奴に話しかけられたことにビックリしたのか、今終えば、イヤなこと言われると思って身構えたのか一瞬ビクッとしてたけど、すぐに少しニコッと笑って「ほんとー?」と返してくれたんよ。
先生と交わした会話はそれだけなんよ。
その1ヶ月後くらいに、とうとう先生は学校にぜんぜん来られなくなって、やめてしまったんよ。
噂では鬱病だとかで、学校に来ると吐いたり倒れたりしてしまうらしい。
それから1年くらいたって、わいが高校に入学するとき、わい宛に手紙が届いたんよ。
差出人はあの先生だったんよ。
きれいな字で、便箋3枚くらいに、あのときわいに声をかけられてどれだけ嬉しかったか、どれだけ励みになったか書いてたんよ。
わいは正直、えっ?たったあの1言だけで?あんなどーでもいい内容で?と不思議やったし戸惑ったんよ。
だから返事の手紙も、お世話になりましたとか高校がんばりますとか、そんなぼんやりした内容しか書けなかったんよ。
そのあとも年賀状くらいはやりとりしてたけど、だんだんとぎれとぎれになって、今はなにもやり取りがなくなった。
あのとき、どんな返事を書けば良かったんかなぁ。
いまでもわからんわ。
街中でかっこいいクルマ見かけて思い出したんよ。
高台に立っているマンションであるため眺望も開放感にあふれている。都内に住んでいたころは、窓の外は隣の家の壁だったから眺望もクソもなかったけど、今は空の広さや丘に広がる民家の並びを眺めては、在宅勤務で疲れた脳みそも少しリフレッシュができる。
日当たりが良い部屋で寝室に光が差込み朝も自然に、かつ、すっきりした目覚めだ。日が当たるのでリビングも暖かく、この季節でも暖房いらず。
メンタルも安定している。
これでいて都内より家賃が安い。ついでにいえば近くに激安スーパーがあって、食材も安く手に入る。キッチンが広くなったので料理も楽しいし、奮発して買った大きな冷蔵庫のおかげでたくさんストックができる。最高だ。
私は18歳から上京し、10年以上東京で暮らしてきた。はじめて訪れた東京には何でもあった。
個人経営のこじゃれた飲食店、そこに集まる常連さん。20歳になったときに初めて酒を飲むときはお祝いをしてくれた人たち。
30分も電車にのればあらゆる街に訪れて買い物できるし、暇ならフラッと単館系映画館に訪れて気分でよくわからない映画を見てよく分からなかったなとぼんやりした感想を持ち時間を潰す。たまには美術館なんかに足を運んで教養を高めたような気分を味わう。
すべてが自分の心を震わすもので、これが都会の生活なのだと鼻息を荒くし、二度とドンキとイオンしかないような地方に住むものかと、思っていた。
そうしてコロナが訪れた。
狭く暗い家でただ在宅勤務をこなす日々。
人と会わないこと自体は意外と平気だったが(むしろ心地よかった)、用事があって出かけるとどこに行っても人、人、人。
そりゃコロナも感染拡大するよなどと思いつつ、次は自分の番かもね、とうっすらとした危機感との隣り合わせの生活を送る。
単館系映画館もなんとなく行きにくくなって、ネットフリックスなんかを見てたりして。
美術館も行かなくなって、なんとなくルーブル美術館とかのオンライン見学を見たりして。
個人経営の飲食店もテイクアウトや、ECで手に入るようになって。
気づいたのは、東京でしか享受できないと思っていた娯楽は東京以外でも容易に手に入る娯楽だったこと。
もちろんオフラインでの体験はオンラインでの体験では味わえない素晴らしさがあるが、
東京にこだわる理由もなくなったな、と思ったのがこの夏でした。
賃貸の更新のタイミングもちょうどよく、秋には引っ越しをしていた。
住まいを移ってからは、のんびりした空気が心地よく、冒頭に記載したとおり、いままでは味わえなかった素晴らしい生活を噛み締めている。
高台に立っているマンションであるため眺望も開放感にあふれている。都内に住んでいたころは、窓の外は隣の家の壁だったから眺望もクソもなかったけど、今は空の広さや丘に広がる民家の並びを眺めては、在宅勤務で疲れた脳みそも少しリフレッシュができる。
日当たりが良い部屋で寝室に光が差込み朝も自然に、かつ、すっきりした目覚めだ。日が当たるのでリビングも暖かく、この季節でも暖房いらず。
メンタルも安定している。
これでいて都内より家賃が安い。ついでにいえば近くに激安スーパーがあって、食材も安く手に入る。キッチンが広くなったので料理も楽しいし、奮発して買った大きな冷蔵庫のおかげでたくさんストックができる。最高だ。
私は18歳から上京し、10年以上東京で暮らしてきた。はじめて訪れた東京には何でもあった。
個人経営のこじゃれた飲食店、そこに集まる常連さん。20歳になったときに初めて酒を飲むときはお祝いをしてくれた人たち。
30分も電車にのればあらゆる街に訪れて買い物できるし、暇ならフラッと単館系映画館に訪れて気分でよくわからない映画を見てよく分からなかったなとぼんやりした感想を持ち時間を潰す。たまには美術館なんかに足を運んで教養を高めたような気分を味わう。
すべてが自分にとっては良い体験で、これが都会ってやつかと感動し、二度とドンキとイオンしかないような地方に行くものかと、思っていた。
そうしてコロナが訪れた。
狭く暗い家でただ在宅勤務をこなす日々。
人と会わないこと自体は意外と平気だったが(むしろ心地よかった)、用事があって出かけるとどこに行っても人、人、人。
そりゃコロナも感染拡大するよなどと思いつつ、次は自分の番かもねとうっすらとした危機感と隣り合わせの生活を送る。
単館系映画館もなんとなく行きにくくなって、ネットフリックスなんかを見てたりして。
美術館も行かなくなって、なんとなくルーブル美術館とかのオンライン見学を見たりして。
個人経営の飲食店もテイクアウトや、ECで手にい入れるようになって。
気づいたのは、東京でしか享受できないと思っていた娯楽は東京以外でも容易に手に入る娯楽だったってこと。
もちろんオフラインでの体験はオンラインでの体験では味わえない素晴らしさがあると思うが、
賃貸の更新のタイミングもちょうどよく、秋には引っ越しをしていた。
住まいを移ってからは、のんびりした空気が心地よく、冒頭に記載したとおり、いままでは味わえなかった素晴らしい生活を噛み締めている。
千葉の方が清潔なイメージがあったのかも知れないがそれは違う。どう考えてもジジババと接触する機会が多い医療従事者の方がリスクは高い、30代がコロナに怯えてビクビク暮らす必要性なんて毛ほどもない。
劇場なり映画館など娯楽に行く機会を減らせば良いだけの話である。
清潔感を保ちたいのは確かだが、髪を切った所で完全に清潔になれる訳でもない。それどころか、女らしくないという烙印を押されてレッテルを貼られる。まあ、異性に興味が湧かない以上、特に美容になど興味が湧く訳もないが。
皆同じ筈だ。自粛して誰に会う機会もなく休日は家に居る。社会を回し続けよう、参画しようと考えてしまうから自分を変化させる必要性に駆られてしまう。他人と感覚を擦り合わせる方法なんてそれしか知らないから。媚びて、相手の好みに合う風貌にして、懐を探って、共通点を見出して。短期間の馴れ合いの為に自分を適合させる必要なんて無い筈なのに。言うほど大事な関係性ではなく人生において大事な人なんて職場には出来そうもない。
私はぼんやりと自分のままで居たいと思う。誰に認められなくても良い、どうせ認められないなら労力とコストを最小限まで削りたい。
けれど、憧れのあの人は私のように腐らないのだろうなとも思う。美しい長髪を茶髪に染めて男に媚びるのだ。
そうすればあれもこれもどんな素敵な未来も手に入る。
しかし、しかしと私の頭は思考する。他人の手で齎される幸せなどまっぴらだと。
小学校の時に思い描いたような理想の自分は芯の一本通った、そういう人間だった筈なのだ。
何処の誰がピンクの華奢なミュールを着用していようが、チェーンのバッグを提げていようが関係無い。
いい大人だけど正直よくわかってない。同じような人いない?
なんというか言葉自体は知ってるけど、どれがどれなのかよくわからないというか、
なんかこのあたりどれがどれなのかよくわかってない。
何となく前半のやつは毛っぽい感じだろうとか、後半のやつはつるつるしてるんだろうな
大人になったら好きな人ができてそれなりに付き合ってそれなりに結婚する人生があるのだと思ってた。
私はもうすぐ二十歳が終わるけれど結婚どころか好きな人ができる気さえしない。というか人を好きになるってどんな感情?小学生の時は確かに好きな男の子がいたけれど、もう思い出せない。
こうやってわざわざ文章に取り上げている時点で自分の負けをさらに引き寄せるようなものだと思うんだけど、こりゃあ敵わねえな、と思ったから書いておく。
いま話題のプペルじゃなくって、西野氏がある大学の卒業式講演に来たときの話。俺も現場ではもちろん、動画を視聴したわけでもないんだけど、twitterのキャプチャで見たのね。
それで、たぶん最初に登壇したときの学生たちの反応が、そこまで芳しくなかったんでしょう。西野氏がこんなことを言う(経緯は俺の推測です。念のため)。
「今みたいなバラバラの拍手で西野を迎え入れるのか、それとも全員立ち上がって、西野をあらためて迎え入れるのか」
「僕自身はどっちでもいいんです」
ってやつです。
…
俺はこの画像を見たとき、これは敵わねえな、と思ったよ。というか、なんだろうな、この世界で「西野氏的なもの」にしてやられないように、こいつを回避し続けるのは、相当至難の業だな、と思った。
「どっちでもいいんです」と言いつつ、西野氏の希望は当然、万雷の拍手でみんなが自分を迎え入れてくれることなんだけど、西野氏はたぶん、仕切り直すことで学生たちが自身を全霊で歓迎してくれることを確信していたと思うんだ。なんでかというと、それは別に西野氏がスーパーな人物だからでも、彼へのはちきれそうな期待を学生たちから感じたからでもなくて、むしろ反対に、学生たちにとって西野氏なんて、特に興味もない、当初はそれこそどっちでもいい相手だったからで、西野氏もそれをよく理解していたからだと思うんだ。
たぶん、学生たちにとって西野氏なんてマジでどうでもよかった。だから、最初登場してくる西野氏に拍手していたときも、自分がどんなテンションで手を叩いてるかなんて意識しないで、漠然と手を叩いていただろう。「空っぽ」だったんだ。
それが、登壇した直後の西野氏のひと言で、まず自分たちに思わぬ選択肢が与えられていることに気付かされた。西野氏をもっと歓迎してあらためて迎えるかどうか、という選択肢だ。
そして、みんなで一体になって西野氏を歓迎した方が、どっちかと言えば雰囲気的にハッピーだな、ということを、ここではじめて「想像させられた」。
悪い言い方をすれば、それまでがらんどうのまま椅子にぼんやり座ってたところに、気持ちの部分で血肉が入ったんだ。
俺はその後のことを知らないけど(動画を観たくないから)、たぶん、二度目は割れんばかりの喝采で迎え入れられたんだろう。まるで魔法のように大勢の人を操ってみせた話だけど、こんなの良くも悪くも人間を冷静に観察し続け、相手をナメてかかることができる人物なら手のひらの上の話だ。たぶん、西野氏にしてみれば楽勝だっただろう。
「どっちでもいいんです」という登壇直後の発言も上手い。これが例えば、自分から拍手を強いるような言動があれば、学生の方にも抵抗感がある。歓迎するかどうか、あくまで学生の側に選ばせることで、かつ、自分たちでこの場をハッピーな雰囲気で満たすことができると想像させた時点で、西野氏の勝ち確だったのだ。
そこには「ほとんどの人間は通常何も考えないで生きているし、何にも興味を持たずに生きている。だからこそ、自分たちが主役として何かを選び、決定することができる機会を与えられたとき…自分たちこそこの場を盛り上げられると確信したとき、その魅力から逃れられない」という冷静な人間観がある。これは敵わねえよ。俺もその場にいたら拍手してると思う。きっとね。
…
そういう西野氏が『えんとつ町のプペル』をひっさげてエンターテインメント業界で数字を出せるか…はまた別の話なんだけど、それは西野氏が卒業式で見せたような手法が通じないからじゃなくて、反対に、エンターテインメントの世界こそ、西野氏的な方法が跋扈する世界だからだと思うんだ。西野氏の特異性って、そういう技法を非演芸的な空間で一般ピーポーに容赦なく使用したところにあるんであって、業界としてはありふれた手法、人間観だと思うんだよな。
こういっちゃなんだけど、どの作品のブームを仕掛けるのも、「人間ってやつは99%空っぽで、何も考えていなくて、でも自分には特別な見識や機会が与えられていると信じていて、自分で何かを決めることができるという幻想があって、人生を楽しむ権利があると思い込んでいて、できればそれを周りの人たちと共有できたら最高!」的な人間観で消費者を見てないと、市場になんて参戦できないんじゃねえかな。
具体的な作品名とブーム出したら不快にさせるだけだろうけど、例えば『ジョーカー』みたいなダークで暴力的な作品も、文芸的な邦画作品も、屈折はしてるけど、結局はそういう手法で仕掛けられてると思うんだ。俺には『えんとつ町のプペル』をめぐるプロモーションと、他のエンターテインメントの仕掛け方の本質的な違いって正直わかんねえんだよな。
もちろん、作品としての評価は別かもしれない。でも、俺たちが感じるような「ああ、いい作品だった!」「うーん、クソだった!」が、はたして、俺たちを無意識にがんじがらめる商業的な網から、いったいどこまで自由なもんだろうな? って気もする。
…
商業的なアプローチから自由って話のひとつの余談として、俺が浪人のとき、気まぐれで古本屋に入ったことがあった。11月ぐらいのことだ。街も全体的に灰色だったし、俺の心も灰色だった。俺はこの受験に失敗したら死のうかな、と思っていた。
たまたま、カフカの『審判』という本が目に入った。新潮版だ。レア(たぶん)。
俺はカフカなんて『変身』しか知らなかったので、興味と呼ぶにも希薄な感情のまま、本当にたまたま、それをレジに持ってった。200円ぐらいだったと思う。
『審判』は俺の人生を完全に変えた。どちらかと言うと悪い方にだけど、とにかく、他のどんな作品とどんなかたちで出会ってもあり得ないくらい、深く俺をゆさぶった。
あれこそ、商業の魔の手から完全に自由な体験だった。そして、ああいう運命と呼べる体験しか、人と作品の出会いは本当には成立しねえんじゃねえかな…というのはロマンチックすぎるかもしれないけど、俺は割と本気でそう思ってる。
…
ところで、あのとき『審判』を手に取る代わりに、西野氏のオンラインサロンに参加していたらどうなっただろう?
それでも俺の人生はきっと「完全に変わった」だろうな、と思う。むしろ『審判』で三日間くらい飯の味がしなくなるような体験よりよっぽどハッピーだろう。
結局、そんなもんなんだ。キングコング西野氏的なものはこの世界の至るところに、程度の差こそあるけどあふれているし、おおよそ感動はオンラインサロンの充実感で代替される。だから、俺たちはたぶん、キングコング西野氏的なものに永遠に勝てないだろうと思う。
…
追記。
トラバで、「『審判』のくだりでお前が言ってる、商業的に自由っていうのは、仕掛けられたマーケティング接点では無い出会いだった(古本屋の偶然)という意味か、『審判』の中身・題材に関連したことか?」という質問をいただいて、これは前者のつもりで書きました。
ただ、カフカという作家についても、おそらく、「再発見された天才・カフカ」「俺たちの代弁者・カフカ」「いま、イケてるやつはカフカを読む! カフカで他のみんなと差をつけちゃえ!」的なかたちで仕掛けられたムーブメントがきっとあだたんだと思います。
『審判』もきっと、その延長上で古本屋の棚に並んでいたわけで、そう考えると消費者を小馬鹿にしつつも心理の隙間に入ってこようとする商業ってやつからは、千切っても千切っても完全に自由にはなれないのかな、と思いました。
…
ところで、上記の「『審判』の中身・題材に関連したこと」という部分で思いついたことがあるので、それを付記しておきます。
『審判』のネタバレになること、作品の解釈はあくまで俺によることをことわっておくのですが、『審判』は、「自分という存在について徹底的に考え続けた者は、必ず破滅する」という話です。
カフカにはたぶん、いわゆる「自分探し」を揶揄するつもりはまったくなかったことをふまえて考察するんですが、物語の冒頭でなんの脈絡もなく訴えられた結果(罪状も明かされない)、
を考え、自分の無罪を信じぬいた結果、得体の知れない訴訟にハマりこんでいき、破綻する話です。
自分を「信じ抜いた」結果、破滅を迎える。俺が増田に『審判』の話を書いたのは本当にたまたまですが、『プペル』のキャッチコピーを考えたとき、ああ、この対比は面白いな、と思いました。
…
俺は上で、あえて「自分探し」という表現をしました。なんでかというと、こう思ったからです。
『審判』の「自分という存在について徹底的に考え続けた者は、必ず破滅する」という一つの解釈について、次のように補足・換言してみる。
「自分という存在(の可能性)について徹底的に考え続けた(諦めなかった)者は、(社会的に)必ず破滅する(≒冷遇される)」
…こうしてみると、この増田でも話題にしてきた別の「作品」が見えてこねえか? ということです。
俺は何十回でも強調するつもりなんだけど、俺は『審判』と『プペル』を同列に見ているわけではなくて(『プペル』も別に、読み終わった後しばらく飯の味がわからなくなるくらい衝撃だった、って言われたくはないだろうし)、ただ、この辺ってけっこう曖昧で危ういんじゃねえか、ということです。
「自己」「孤立」「理解不能なマジョリティ」「困難な戦い」、こういった要素を含む物語は、例え真逆のメッセージを送っていたとしても、じゃあ全然違う別モンだぜ、と胸を張って主張できるかと言うと、「いや、うん、全然違うよ、違うんだけど…ちょっと小一時間整理させてくんねえか」というところがある気がして、それが面白いな、と思いました。
強いて言えば、俺は子供に『審判』は絶対読ませたくないし、『プペル』は別にいいんじゃねえの、という感じです。
それは、『審判』が俺にとってスペシャルなのと、あと単に理解できても暗い気持ちになるからで、自分の子供がそんなんなったらイヤだからです。
はてな匿名ダイアリーというものの存在自体は割と昔から知っていたが、
時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。
ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。
文章を書くことは苦手で、ここ特有のルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、
色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。
30年前、私は子供だった。
近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。
母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。
A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。
歳が近いこともあり、こちらへ帰省してくる度によく一緒に遊んでいて、幼馴染も含めて全員とても仲がよかった。
こちらにいる間、その3人は知り合いが私たちしかいないのもあってとにかく同じ時間をともに過ごした。
鬼ごっこをしたり、缶蹴りやドロケイをしたり、おしゃべりをしたり、
とにかく何をしても楽しくて今思い返してみても幸せな時間だった。
数年間、そうやって過ごしていくうちにB子を好きになっていった。
もしかしたら年に数回しか会えない環境がそうさせたのかも知れない。
愛だ恋だなんてわかる歳ではなかったが、今振り返ればあれが私の初恋だった。
26年前の正月、いつものように帰省してきた3人と遊んでいるうちに、原因は思い出せないがA太と喧嘩になった。
喧嘩と言っても「お前の母ちゃんでべそ」的な稚拙な言い合いだったが、
A太の味方をしはじめたB子とC美にも矛先を向けた。
初めは稚拙な言い合いだった喧嘩が段々とエスカレートし言葉も荒くなっていった。
何を言ったのかほとんど覚えていないが、別れ際に吐き捨てるように
「○ねばいい」「お前ら○んだらみんな地獄行き」と言ったのだけははっきりと覚えている。
1995年1月17日、その日は私の親類の葬儀で前の日から福岡にいた。
こちらだけの風習なのか知らないけれど、私の親を含む大人たちは交替でロウソクの番をしていたり朝食の準備をしていたらしい。
私はぐっすりと眠っていたが、その大人たちの声で目が覚めた。
ぼんやりとしか覚えていないが「揺れた」というワードが聞こえたことは覚えている。そのまままたすぐ眠りに落ちたけれど。
朝になってテレビを見て映し出される光景に愕然とした。B子たちが住む街だった。
あの当時、今となっては考えられないことだけど死亡者の名前の羅列がテレビで流されていた。
それももしかしたら記憶違いかも知れない。(あるいは新聞?誰かによって何らかの方法でもたらされた情報?わからない)
だけどその羅列の中にB子たち3人とその母親の名前を見つけて震えた記憶がある。どうやら祖母の名もあったらしいが私は知らない。
要するに世帯全員だめだったということだ。
当時死というものへの認識は既に持っていたが、その時は混乱していたのかうまく理解ができなかった。
何もわからずただただとんでもないことが起きたことだけは、自分の体が震えたことで理解できた。
痛かっただろうな、怖かっただろうな、苦しかっただろうな。まず浮かんできたのはそういうものだった。
「大切な人をなくした」とか「愛するあの子をうしなった」とかそういう感情ではなかったが、
ただもう会えないことと最後に言ったあの言葉だけが月日を追うごとに重くなっていった。
最後に会ったとき、最後に言った言葉、やり直せない時間に悔いても悔やみきれない。
子供ながらに言ったこととは言え、なんてひどいことを言ったのだろうと。
あんなに仲良く遊んでいたのに、どうしてよりによってあれが最後なのだと怒りすら沸いた。
あの震災で起きた出来事で、トラウマというほどでもないが、人との別れ際がすごく怖くなった。
大切な人ならなおさら、そうでない人相手にも「さよなら」という言葉がどうしても言えない。
どれだけ喧嘩しても必ず別れ際には仲直りをしたい。仲直りができないままには電話も切ることができない。
「さよなら」という言葉の代わりに必ず「またね」というようになった。
私が高校生ぐらいになった頃から毎年1月17日に、よく一緒に遊んだあの公園へに花をそえに行っている。
本当はお墓に行くべきなのだけれど、さすがに兵庫まで行くわけにもいかないのと、行ったところであてもないので場所がわからない。
その場所に老人向けのグループホームが立ってからも、施設の人に事情を説明してお参りを続けていた。
月日流れて数年前の1月、私が生まれる前から散り散りになっていたという私の父のいとこが興信所やら何やらの調査を経て愛知から訪ねてきた。
数十年ぶりの再会とのことだ。長い長い思い出話の後にお墓参りがしたいということで、近くのお寺の納骨堂へ一緒に行くことになった。
納骨堂へ着いて一通りお参りしたあと、何気なしに周りの仏壇に目をやって驚いた。
目の前の仏壇にB子たちの名前と戒名が書かれた札が下がっていたのだ。
(法事が近くなった頃に「もうすぐ法事ですよ」ということでお札を貼られるお寺だった)
その納骨堂へは毎年お盆にしか来ていなかったからそれまでの約20年間気づけなかった。(ご先祖さまごめんなさい)
色んなことが重なり合わさって知ることができた事実だった。
まさか私の先祖と同じフロアに眠っているとは考えつきもしなかった。
こんなに近くにいたとは。毎年目の前を素通りしていたなんて。
それからは毎年1月にその納骨堂へお参りに行っている。(もちろんご先祖さまにも手を合わせている)
今日も花を添えてきた。お参りが済んだ別れ際に言うのはもちろん「またね」
まさかこうやって会うことができるようになるなんて、と今でも不思議に思うし、直接祈りを捧げられることに
誰へかはわからないが、何へかはわからないが、色んなことにとても感謝している。
人との別れ際、トラウマとしてじゃなく、これからもやっぱり大事にしていきたいと思う。
おわり。
私は夫と結婚するまで、ずっと関東住まいだった。冬は天気がいい日が多く、夏は突然の雷雨に晒されることもよくあった。
東京までのアクセスも悪くなく、イベントや行きたいコンサートがあればすぐ行けるような環境だった。
不安もあったが、なんとかなるだろう、とぼんやりと考え子供も産まれ、かれこれ5年が経った。
その間に家も建ち、ますます北陸以外のところへ移り住むと言う可能性は無くなった。
かつて自分は東京で働いていて、今もそのつてで家で仕事を貰って隙間時間に働いている。正直、報酬は安い。
勿論、そんな生活のため地元の人との交流もなく、友達もいない。
ネット上の繋がりか、東京や自分の地元の友達とごく稀に連絡する程度だ。
夫はもともと仕事が本当に嫌いな人間で、私たち家族を養うために頑張って働いている。とてもありがたい。
しかし、日曜日になると憂鬱な表情になり、覇気もなく家でぼーっとしていたり、明日からの仕事への愚痴を少し漏らす。
週末はいつもこんな感じだ。
たまに、どうにも辛くなる時がある。
今二人目もお腹にいるが、このままでいいのかと不安になる時もよくある。
今夫が憂鬱な顔をしている原因は、元を辿れば私が告白したことがいけなかったんじゃないか、とか、私や子供がいるせいで嫌な仕事に行かなくてはならず、呪いになっているのではないか、とか
そしてそれを伝えると、必ず「仕事は嫌でも、私と子供がいない人生はもっと嫌」だと言われる。
「もし付き合って結婚してなかったら、自分はもう死んでる」と言われたりもする。
その言葉に対しても辛いな、と思うことがある。
自分のため、とか欲しいものを買うため、とか、そういう理由よりもそっち。
私と結婚してなかったら、就職して働かず、餓死したとも言われていて、余計に辛い
上手く言えない
自分は覚悟を決めて、告白したからには最後まで向こうが離れない限り着いていこうと思っていた。
ただ、ふと何気ないこういった会話で自分の気持ちも滅入ってしまい、いっそのこと出会わず結婚もしなかった方がよかったのではないか、苦しめる人を減らせたのではないかと思う時がある。
自分に稼げる能力があったら。いや、でも小さい子供も居て、お腹にも居て、どうしようもないじゃないかと言う気持ちと戦いながら家で少しでもお金になる仕事に繋げようと考えて実行しているが、たまに頭が真っ白になる。
自分の家族も友達も親戚も遠い関東で、この場所には夫と夫の家族しか知り合いがいない。
夫は昔から友達がいなく、ネット上だけの友達がそこそこいたくらいだった。
(今はいない)
なので夫もストレスがたまり、かつてはネットで発散していたものも今は時間がなかなか作れないからと出来ていない。
夜、ネトゲとかしてもいいよと話せば
「それしたらVCもするし、夜ずっとPC前に張り付くことになるけど、いいの?」
と言われ、それでストレス発散になるならいいよと言っても、結局は時間がなくて満足に遊べないだろうからやらない、で終わる。
どうしたら良かったんだろう。
どうすれば良いんだろう。
いつもこんなこと考えては、今日もまた次の日を迎える
自分も底辺だけど商業BLで食いつないでるのでフォロワー作家が宣伝しているのを見てここぞと宣伝をした。
でも全然伸びなかった。
同じくらいの時間帯に同じような文言で自作宣伝をしていた作家の100分の1程度しかいいね数がなかった。
数字がないと分かりづらいな
人気作家は
実際の数字とは違うけど、それくらい差がすごかったと思ってほしい。
その作家は連載作品がヒットしてBLなのにもう何巻も同じタイトルでコミックスが出た。
そうだよな、みんないい漫画描いてるもん。自分も読んでる。好きだ。
ただただ自分の漫画には上に書いたような魅力がないだけなのだ。
言っておくけど自分の漫画は好きだ。好きじゃなきゃ続けられないし正直売れないのは世間に見る目がないって大声で言いたくなる時だってある。
上がったこともないのにいつ切られるかわからないくらいに既に落ち目だ。
編集部にも去年、次売れなかったらうちの出版社では描かせないっぽいこと遠回しに言われた。
この現実を受け止めながら描き続けるにはかなり精神的にきつい。
そうしたら「そういうマイナス面は読者を離れさすだけだからダメ」って言われた。
だから絵だけ上げようって一時期立て続けにやってみたけど、いいね増えないし気づけばどんどんフォロワーも減っていった。
絵をリプライで反応してもらったのはもう何ヶ月も前だ。
こんなにも自分の絵には魅力がないんだな
こうなると負のスパイラルが出てくる。
絵柄が好きだって言ってた人がいつの間にかフォロー外してたとか「ファンレター送ります」って聞いてきたのにもう2年もらってないよとか。
自分は特に反応少ないから言われたことほとんど覚えてる。名前もアイコンも覚えてる。
きっとその後に出した作品が面白くなかったんだろうね。本当にごめん。
デビュー時期から好きって人も数人居る。本当にありがとう。ずっと応援してくれてるのに売れなくてごめん。
でも頑張るよ。やれる限り頑張るよ。魅力も才能も運もないけど頑張ることは出来るからさ
BLは好きで商業BLが好きで漫画描き始めた。二次創作は読むけど描いたことはない。
だからこの前の商業BLのトレンドで二次創作界隈に悪口言われたってことに気付いてから地味に傷ついて、その中でも底辺の底辺な自分がいっちょ前に傷つくなよってなってどんどん気持ちが落ちていった。
追い打ちに宣伝すら伸びない。
私はコロナ禍になる前から常にうっすら死を意識して生活しているのだけど、周りの人はそうじゃない人が多いらしい事に最近気づいた。
たとえば車を運転している時、急に車のタイヤが外れて制御不能になり、派手に事故をして死亡するイメージを持つ。
逆に道を歩いている時には、そんな制御不能のトラックか何かに急に突っ込まれて死ぬんじゃないかと周囲を見回す。
友人や恋人と別れる時はこれが生きてるあいだの最後の姿かもしれないと思う。
知り合いからの不在着信があると、死の間際の最後の電話だったんじゃないかと不安になる。
家族からのメッセージの返信が遅いと、事故や発作で死んでいるのではないかと心配になる。
一人の時には自分の心臓の鼓動を感じ、こんなのいつ止まってもおかしくないな、と思う。
このまま目を閉じるともう二度と起きないんじゃないかと思いながら眠りにつく。
小さい頃はとても怖くて不安だったが、今では慣れてきたのもあり、常にうっすらとした死の恐怖をぼんやりと感じている。
だからコロナが流行してから、急に人々がヒステリックに感染症の危険性を叫びながらあちこちを消毒し始めるのを見て、逆に今までは安全だと思ってたのか、と少し驚いた。
私はコロナにかかるのも怖いし、それと同じくらいに急な事故や発作で死ぬのも怖い。持病を持っているわけではないし、これまで大病に罹ったこともない。だけど死はいつも私の隣にある。みんなはそのことを忘れているだけなんじゃないかな?と疑っているんだけど、どうなのかな。
このエントリをみて背筋を凍らせてる大学生(女)だけどまだ間に合うのかな?
https://anond.hatelabo.jp/20210103181128
4月から社会人。親の経済力にはかなり恵まれたので中堅の芸術系大学に進学できて一応箔はつけられそうなのと、(勉強が本当に苦手だったから、総合大学に行くことになってたら、いわゆるFラン行くことになってたと思う)根は真面目な性格のおかげでとりあえずそこそこの中小企業には総合職で入社できる予定。
ただ、残念ながら上記の通り、大した努力もせず、友達も少なく、自分のスキルになるような趣味もない性格だから人間として成長できていない。
バイト代や自由な時間は、ほぼセレクトショップで学生には高価なドメブラの服買ったり、友達と鳥貴族行ったり、国内旅行して使ったため大したエピソードもなく、就活では大手は全滅だった。面接時のしょうもないバイトと旅行の話で内定くれた今の内定先には感謝しかない。
仕事3年くらいしたら辞めてワーホリ行きたいな〜みたいなぼんやりした計画(夢?)はあるけど、「こうこうこういうことで世の中の役に立ちたいから、こういう仕事について、これとこれも勉強して、最終的にはあんな仕事がしたい」みたいな人生そのものの計画はない。
このままじゃダメだと思って、こないだついつい自己啓発本を買っちゃったんだけど、その後冷静になって、「このままじゃいつか自分はオンラインサロンとかネズミ講にハマって養分にされるんじゃ…」とビクビクしてる。
いい暮らしがしたいとか、素敵な服を毎日着こなしたいとか、他人よりも優れていたいみたいな願望だけが一丁前にあるのに、自分が本当にやりたいことや世の中の役に立たそうなことはわからない。(せっかく芸術の勉強をしたというのに…)まだ間に合うのだろうか。