はてなキーワード: あまつさえとは
ぺるん氏 以下、ぺ氏
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2016/09/12/210000
ddrdaisuki氏 以下、D氏
http://possession.hatenablog.com/search?q=%E7%8C%AB%E7%AE%B1
二人の喧嘩を見た。
他人の喧嘩にコメントするほど不毛なものもないが第三者の目線が必要かもしれないとD氏が書いているので
第三者として書かせていただくと…どちらにも相当に非があるとしか言いようがない。
どうもこのお二人は過去にも因縁があるようで積り積った鬱憤が爆発したようである。
D氏がツイッターで叩く
ぺ氏がぶち切れる
という流れである。
感想なんて好き勝手に書けば良いのであるから、いくらつまらない感想だったとはいえ、D氏が叩けばぺ氏が気分を害するのは当然であろう。
もちろんつまらない感想をつまらないと書くのはD氏の自由ではあるものの、発端はD氏が悪いと思うしぺ氏の方の肩を持ちたい気分である。
□
これで終わりにできればこれほど簡単な事はないのだが、喧嘩が進めば進むほど私にはぺ氏の株が下がっていく一方なのである。
内容自体はD氏もぺ氏も共に相手に喧嘩を売っているのだが、D氏が慇懃無礼な書き方でちくちくと攻撃しながらもランス03の感想の書き方を問題にしているのに対し
ぺ氏はD氏をお前と呼び、人格攻撃を積極的に織り交ぜている。これは非常に印象が良くない。
たとえD氏がクズだったとしても、ぺ氏がD氏よりもまともだという事にはならない。そもそも人格の問題はあまり関係がなく、感想が問題のはずである。
少なくとも
[私の感情や感性が未熟なことを説明せずに滑稽だと語られてもどこにも妥当性がないんだが?]
というぺ氏の文章に関しては、この喧嘩を見る限りぺ氏の感情が未熟な事は一目瞭然である。感性は知らない。
□
ぺ氏はD氏に主張の論拠を求めているが、これもよくわからない。
第三者から見て、D氏のこれは主張ではない。単につまんねー…という文字どおり便所の落書きレベルの悪口である。
それがウザいというのはよくわかるが、便所の落書きに対して論拠を事細かく求めるのはあまり意味がないように思う。
D氏はぺ氏の感想をつまらないと言い、ぺ氏はなぜつまらないのか理由を挙げろと怒る。
それに対してD氏は一応つまらない理由を挙げている。しかしぺ氏は納得せずに怒り続けている、というのが私から見た今回の流れである。
D氏の挙げた理由はぺ氏の感想の方向性とは明らかに異なるものであり、ぺ氏がそれを受け入れないのは客観的に見て当然だと思う。
さらにぺ氏のランス03の感想は、少なくとも万人が読んでつまらないと判断するような酷いものではない。
誰か1人でも面白いと思う人を連れてこいとD氏は仰っていたが、私は面白いと思ったし、他にも面白いと感じた人はいるだろうと思う。
とはいえ、D氏はD氏の価値観に従ってきちんとつまらない理由を挙げている。
それに対して、まともな根拠も反論もできずたじたじになっているというぺ氏の反論は、的を外しているように私には映る。
気に入らない人間から悪口を言われて怒りにまかせて逆襲したものの、予想以上に手ごわくてたじたじとなる、だが負けず嫌いの性格で後には引けないぺ氏…という方が私の印象に近い。
喧嘩の発端は明らかにD氏が悪いのだが、議論の筋を読めば読むほど、ぺ氏の論のおかしさの方が目立つ。
自分以外のランス03のダメな感想を数え上げて、なぜ自分に対してだけ批判をするのかといった逆ギレなどは書いていておかしいと思わなかったのか。
ネットに存在する全てのダメな感想を叩いてからでないと、ぺるん氏の感想を叩けないというのはムチャクチャな話だ。
便所に悪口を書いた相手に対して、立証責任が云々というのも非常にバカげた話である。
元々喧嘩を売りに行ったのはD氏なので、D氏の肩を持つ気もあまりないのだが…。
余談
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2016/08/17/070000
http://sessions.hatenablog.com/
http://bern-kastel.hatenablog.com/
ぺ氏自体が積極的に他者の感想へと攻撃を行っているという驚愕の事実が判明する。
俺は好き勝手に感想を書くが皆の感想を尊重する、だからお前らも文句を言うな、ならばわかるのだが
俺は好き勝手に感想を書くし、気に入らない感想は存分に叩く、だけどお前らは文句を言うな、という態度なのである。
自分は他人の感想にどんどん攻撃を仕掛けていくのに、自分が他人から攻撃されると頭に血を上らせてしまう。
あまつさえ他人への悪口を裏ブログに堂々と書いて、悪びれもしない。
更に言えばD氏は問題にしていないようだが、
ぺ氏が普段語っている外部文脈を排して作品を虚心に見つめるという内在的読解とは、作家、時代性、商業主義、声優や俳優、などなどを外部情報として切り離し、作品そのもの…たとえばランス03という作品のみを
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2014/11/22/120000_1
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2014/04/26/222449
ひょっとしたらぺ氏の主張を私が読み違えているのかもしれない。
しれないが、もし私が読み違えていないのならば、氏のランス03の感想は「戦国ランス」といった別作品の存在や「ランスらしさ」といった外部情報=スキーマを積極的に取り入れた感想になっている時点で
なお、氏の普段の主張と異なっているからと言って悪いレビューかといえば私はそうは思わず、なかなか楽しく読んだことを白状するが
少なくとも氏の普段の主張と異なっているのだから、普段の主張自体が問題といえば問題になるのだろう。
人間なのだから、気に入らない相手に対して厳しく当たってしまうのは仕方のない事である。
しかしぺ氏の普段の主張は前述した通りだ。ならば、作者=テクスト主=D氏という外部文脈、もしくはスキーマを排して文章を虚心に読み込んで対応するのが筋というものではなかろうか。
D氏がクズであることやD氏との過去の因縁という外部情報を、今回のD氏のテクストと切り離す。
特に争点にはなっていないはずのD氏の悪行=外部情報を積極的に攻撃している現状を見るに、
ぺ氏が普段声高に唱えている内在的読解の質についても疑問が生まれてしまう。
他ならぬぺ氏自身が、[製作者の人間性と絡めた作品批評は最も唾棄すべきもの]だと言っているではないか。
ならば[ツイート主の人間性と絡めてツイートを読み、判断すること]は唾棄すべきことではないのか。
[物語解釈の障害であるスキーマに対抗するには]、と書いた本人が、[テクスト解釈の障害であるスキーマ]に嬉々として身を委ねているのはどうしたことだろう。
気に入らない人間のテクストだというだけでこれほど否定的に反応する人間は、気に入らない作家の作品に対しても、先入観を持って読んでしまうのは自明の理。
外部情報に踊らされないというのは非常に難しい事で、ほとんどの人間には出来ないと思うが、
ましてぺ氏にそれができるようには全く思えないのである。
その辺りのところを、ぺ氏が説明してくれると有難いなと思うし
その辺りのことが説明できないようでは、残念ながら氏のお題目は見かけ倒しと判断されてしまうだろう。
□
D氏はD氏で、つまらない感想につまらないと述べるのは自由だとは思うけれど、それが相手の目に触れれば怒りを買う事もあるだろう。
ぺ氏ほどの理不尽さは感じないものの、D氏が他人に対して厳しい物言いを何度もしているのは再三目にしており、それ自体
第三者としてはなるほどと思わされる事もあるし面白いとは感じるものの、自分がその標的になったらと考えると辛い。
もし私が同様の絡まれ方をすれば、ぺ氏のようにまくしたてたりはしないだろうが、煙たがってブロックぐらいはするかもしれない。
厳しい読者、というのは欲しい人にとっては得がたいものではあるが、のん気にてきとーな事を書きたい者には歓迎されないだろう。
ぺ氏の感想の行き詰まりを危惧するならば、もう少し別のアプローチがあったはずである。
結論 どちらも怖いです
「twitter老害」という話題が二週間ぐらい前だったかに話題になった。どうも3年以上ツイッターをやっている人が老害として叩かれているらしい。
僕はツイッター7年目の超老害である。なぜそこまで新参の人が古参を叩くのか、よくわからなかった。なにせ一ヶ月ぐらい前にはじめた新参はてなーとしての僕は、古参はてなーの方を尊敬しこそはすれ、老害などと批判を書きたてようとはとても思えないからだ。
勿論、大多数の新参は特に批判などはしていない。あくまで一部の人達の話だ。以下、あくまでも古参叩きをしている新参に限って話す。
ろくに調べもせず印象で叩くのも失礼なので、多少時間おいて古参叩きのような文脈のツイートを多少いろいろ読んでは見た。
すでに消されてしまったようだが、togetterにもまとめがあったらしい。これが消されているというのがまたこの話題の闇を感じるのだが・・
まあ端的に言えば「全く違う層が入ってきた」ということだ。古参勢は「ネットユーザー」としてのツイッタラーだけど、新参勢は「リアルの一部」としてのツイッタラーなのだ。リアルでは言うべきでないようは発言の是非について、前者と後者ではかなり感覚が異なるだろう。僕のフォロワーさんが新参勢に、ともすれば意味不明とも取れる批判を飛ばされた案件を、もう一回冷静に考え直してみると、いわゆる「ネタツイ」の許容度が異なるのではないかと思った。
ネタツイだけではない。新参勢はLINEのようにツイッターを使っているのだと思う。つまり、リアルの人間関係の延長線上で会話をしている。そしてそれがツイッターの本質だと思っているフシがあるのだ。だから、「ツイッターではありがちなこと(とはいえLINEやリアルの会話では確かにありえないこと)」に突然目くじらを立て、古参勢に「そんなことを言うやつはツイッターに向いていない垢消せ」と文句をつけてくるのではないかと思う。「リアルの人間関係の延長線上」ではありえないような会話の仕方をしている古参勢はたしかに多いし、僕もそうだ。
また、かつてはネットにいなかった「ウェイ系、リア充」みたいなタイプの人間も新参に多い。かつての、というか今でも一部ではネット上で主流の言説であるウェイ叩き、リア充叩きはそういう人からすると耐え難いものであろうとは思う。
ツイッターを初めて一年とか経っていろいろツイッターに関して知識があると自負し始めた人が、古参勢を適当な理由で向いてないと勝手に判断していくというのは何なんだろうと思う。
古参勢的にはツイッターってそういうものでしょ、残当な反応でしょ、と思っていちいち批判リプライを飛ばしに行かないようなことでも、それを知らない新参からしたら非常に不適切だと思うというのは理解できる。
しかしツイッターがどういうものなのか理解しようとせず、指摘する人と対話を拒否し、機能や用語を調べようともしないという態度を取るというのは若干良くないし、それだけならまだしも、価値観が違うことを理由に諍いを起こした相手を「ツイッターに向いていない」と切り捨て、アカウントを消せと要求したり、凍結されればいいのになどと言う、あまつさえ冤罪通報を行うというのはどういうことなんだろうか。
個人的な感想だが、「ツイッターはそういうもの」というのに賛成できない、機能が気に食わないという人のほうがよほど向いていないように思えるのだが・・
自分に向いてはいないけどやりたいから、先にやってる人たちを追い出そうというのは良くないと思う。
勿論向いていないからやめろなどと僕は思わないし、時間をかけて溶け込んでいけば良いのだが、なぜか上手く溶け込むために友好的になろうとせず無駄に攻撃的というのは問題がなくはないと思う。
今僕は先達のはてなーの方の書く記事などを読み、はてなというのはこうするものなのか、と思いながらいろいろやっているが、ちょと自分が合わないなと思う要素があったとしても別に先達の方々に文句を言いに行こうなどとは微塵にも思わない。色々やってみた結果自分には合わないと判断してやめるかもしれないが、古参の方に出て行けなんて思うはずがない。
3年以上前からやっている人を批判している人たちも、あと2年もすればその基準では老害の域に行く。今この瞬間新参であるだけなのに、あそこまで偉そうに古参を疎外しようとするのはなんとも言えない理不尽さを感じる。この理不尽さを上手く言語化できなくてもどかしい。なんと言って良いのか教えてほしい。
10/10追記 http://anond.hatelabo.jp/20161010210604 に続きを書いた。
即日中か、翌日に電話がかかってくれば次の選考を案内されるからだ。3日後までに何もなければ、まず見込みは無い。1週間後、メールが届く。選考への参加のお礼と、「貴殿の今後のご活躍をお祈りします」という空虚な文章。返事すら無いことも勿論ある。いわゆる「サイレントお祈り」。
厭なことは沢山ある。
今日、初めて会った人にさも当然のように「自己PRしてみろ」と言われること。
問われたことに馬鹿正直に答えれば怪訝な顔をされること。
素朴に疑問に思ったことを伝えると、機嫌を損ねられること。
自己分析という単語がいつから多用されるようになったのかは知らないが、今の用語法は恐らく就活ビジネスの暗闇で生まれたに違いない。
やりたいことは無いし、ライフプランもキャリアプランもない。自分に何が向いているのかもわからない。中二病を発症する時期でなくとも、自分の将来の夢を描けないことは、別段特別な悩みではない。今の時点で自分に向いている仕事を確信していても実際にやれば嫌になる、ということも大いに有り得る。「向いていない」と思っていたことが案外楽しいと思えたりすることもある。そもそも配属を決めるのは会社であって社員ではない。
だが、「どんな仕事がしたいか」と面接官に問われれば答えねばならない。そんなの知ったこっちゃない、会社が決めることには何でも従いますからとにかく入れてくれ、と言うだけでは不採用だ。
“あなたはどんな人間なのか”、と問われ、必死に答えた挙句、自分を否定される。
「お祈り」が来ても、自分には何が足りなかったのか、一切わからない。採用基準に達していても自分の他に評価の高い人がいたのか、達していなかったのなら何処が何点足りなかったのか、学生には教えられることはない。だから就活では皆不安になる。
根本的に変えるべき時が来ていると思うし、いつか変わるだろう。しかし、今すぐには変わらない。就活に疲れ、絶望し、リ○ルートの本社の前で白昼堂々焼身自殺しようとも、世の中は変わらない。文句を言っても今すぐ内定は出ない。正社員になりたいのなら愚痴を言うのは一旦止め、とにかくやるしかない。
やるべきことは単純だ。とにかく選考に出来るだけ早期に、沢山参加する。行きたくない企業でも面接を受ける。これだけだ。
早めに内々定を貰って就職活動を終えることが目標なのではない。自分の納得できる会社に行くために、早めに選考に参加することが不可欠なのだ。
面接は数をこなせば必ず慣れる。馬鹿げた質問への答え方がある程度は分かるようになる。言ってはいけないこと、言うべきことを察知できるようになる。面接官とのやりとりのうすら寒さが気にならなくなってくる。
「親しい友達は多い?何人いる?」「幼い頃はどんな子供だった?」などと滑稽極まりない質問をしてくる面接官に対して、馬鹿正直に答える必要はないと気が付く。面接官が納得する答えを考え、それを表現する。演じ切る。時には嘘も吐く。それが苦にならなくなる。選考に落ちても逐一気にしないようにする。
自画自賛するような歯の浮く文章を書いたり、話したりするのはただでさえ嫌なものだ。あまつさえ沢山の会社にお祈りメールを送りつけられ、自分の存在を否定され続ける中で、自己PRの文章を一人むなしく考えていれば鬱にもなる。自分で自分を肯定できない時は、他人に自分を肯定してもらうことが必要だ。他人に文章を書いてもらうのも良い。家族、友人、先輩後輩、大学のキャリアセンター、頼れる人は誰でも頼るべきだ。一人でマジメに頑張る必要はない。
“あなたはどんな人間なのか”という問いで自分を苦しめるべきではない。真剣に考えても答えなど出るはずもない。ただ、面接官の求める話をしに行くだけだ。それが就活だ。
実際のところは、4月から働いてみないとわからない。わからないけれど、それでも4月から挑戦しても良いと思える会社を見つけるまで続けるしかない。
当たり前の話と笑われるかもしれないのだが、9月に入りようやく就職活動を終えた今、1年前の自分に言ってやりたいと思うことを書いた。就活が嫌になって何もかも投げ出したくなった人が読んでくれたらいいなと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20160923184321
参考にならないか当選案件を作ったイラストレーターの案件を見て愕然とした
圧倒的な作量と幅広い作風を持ち
それを惜しげもなく安い値段で仕上げる才能と経験とビジネスセンスの高さを持っていた
これがトップなのかと感心した
自分はその足元に及ばない
それに比べれば自分の作品はずいぶんと稚拙で時間もかかっている
なるほど自分は向いてない、才能がないってのは確かのようだ
もちろん器用かつ経験を積んだクリエイターであればそういうことは容易だ
オリジナリティは重要であるがそれとは全く逆になんにでも合わせて描ける
同じようなコンセプトでもあっても全てが異なる作風
これでは逆に作家の顔が全く見えてこない
それが持ち味としてもその都度画風を全部変えるようでは却って手間になるのではないか
酷いものになれば作品を構成しているパーツが全部他人の作品というものさえあり
まさかと思い自分の落ちた案件を見てみるとなんとフリー素材の転用
色さえ変えずそのまま張り付けたものを提出していただけだったのだ
ゲームというのは、
がそもそも食い違っているという問題があり、これをうまく帳尻をあわせないといけない。 GTA 4 では厭世的な主人公が設定されたがみんなは別に厭世的なプレイがしたいわけではないので、キャラクターのロールとプレイスタイルが全然あってないみたいな問題が発生した(一方 GTA 5 では三者三様のキチガイを主人公にすることでこれがある程度解決した)。 Fallout 4 の最終 DLC は自分で復興させた文明を自分で破壊する狂人にならざるをえない展開で批判を集めた(個人的な意見としてはショーン死んで狂ったみたいな世界観でプレイしたらヌカワールドは最高と思う)。
ポケモン BW ではポケモンを使い捨てにする N とポケモンと主人公は対峙することになるが、ゲームバランスがかなり難しいので自分も N 同様にどんどんポケモンを使い捨てにして周囲にうまく湧きが設定されているポケモンを捕まえまくらなければならないし、あまつさえ最後に手に入れた伝説のドラゴンはサザンドラにぶっ殺されることになる。
CoD:BO はこういう問題が以下の方法で綺麗に解決されている
ようするに、本来傍観者であるはずのプレイヤーの視点が、ハドソンという形でゲーム内に挿入されているから自然な形でゲームの中に入りこむことができるし、ダルい部分がカットされるストーリー的な理由もセットされている。
その上で更にストーリー上の工夫として
という要素を挿入することで、ゲームのプレイヤーが抱きがちな「主人公はなんでこんなもどかしい判断をするんだ」という違和感を、ジェイソン・ハドソンの違和感としてゲーム内に挿入し
という要素があることで、ゲームの主人公とは実は誰か別の人に操作されているに過ぎない、という問題すらストーリーの要素として消化される(であるからこそラストシーンでのメイソンのセリフに魅力がある)。
ゲームのゲームならではの制約をそのままうまくストーリーに生かしているこんな感じのゲームが他にもあればやってみたいので教えてほしいです。おわり。
世の中には、気持ちよく反論をする、あるいはよどみなく自説を述べることで自分をより論理的(な風)に見せるという目的のために、批判対象の議論を勝手に矮小化し単純化する輩がいる。
「冷房はつけっぱが良い」という話は、ただ「つけっぱの方が電気代が安くなった」という話だけでなく(諸条件によってはこれもありうるが)、「変に我慢して暑さが頂点に達するまで待っても、暑くなったところから一気に冷やすためには涼しい時間帯からゆるゆるとつけとくのと『同じくらい』電気を使う」(我慢するだけ損/不健康)とか「さらにその場合最高出力を全世帯で同時刻にかけることになり『ピーク電力』が上がる」とかのデメリットも勘案しての話であり、詳細は自分の状況に応じて考えようという程度の「提案」である。
しかるにこれら議論を全て捨象して単純に「エアコンつけっぱで電気代が安くなるわけないだろ」などと言い捨てて得意げな奴らが大量に発生した。
似たような事象は数年前「朝バナナダイエット」に注目が集まった時にも見られた。
これは本来「カロリーコントロールをすべきだ/したい」という目的意識と意欲があるものの、「では具体的にどこから手を付けよう」というところがわからない、もしくはそこを研究している時間がないという「意識は高いが忙しい層」に向けて、朝食をバナナに置き換えると「総カロリーの抑制」「朝食は抜かず、一日の活動に支障がない」さらに「食物繊維も取れてなお良し」ですよという考え方のヒントを与えたものに過ぎない。
「バナナを食べれば食べるだけ痩せる」なんて話はどこの誰もしていないのに、勝手にそのようなものの様に決めつけて「反論」し、気持ちよくなっている猿が雨後の筍のように現れたものである。
節電やカロリーコントロールといった生活の知恵に限らず、大抵の知識やテクニックとはこういうものである。
絵描きに「どうすれば絵がうまくなりますか」と質問すると、「デッサンをすると良い」とか「模写をする方が早い」とかいろんな答が返って来る。
結局は人の数だけやり方はあるという事だが、一点だけ誰が何を挙げている場合にも共通する前提がある。「それら練習を通して、自分の絵を客観的に反省し、描きたいもののイメージを鮮明に思い浮かべられるようにしろ」ということである。それをいちいち言葉にしないのは、それこそが「絵を描く」ということに他ならないからである。「絵を描く」ことをしたいと望む人間が、その時点での自分の技術的問題点を認識し「こういうところをもっとうまく描きたい」という問題意識を持って『いない』とか、「構想段階でもっと良いアイデアがポンポン出て来ると良いのに」という野心を持って『いない』とかいう事は、そもそも想定する必要すら意識に上らないからである。
にも拘らずこの場合もまた、現れるのである。その程度の常識的な問題意識も持たず、「デッサンをやってもうまくなんてならないぞ!詐欺だ!」なんてことを言い出す連中が…
おおよそ全てのアドバイスやティップスと呼ばれるものは、「問題意識」が相手にある事を前提に、その「問題意識」に取り組むとっかかりのヒントを与えるだけのものであって、問題意識の有無に係らず万人に適用可能な、ただああしろこうしろという指示のままにエスカレーターに乗っていれば勝手に問題が解決されていてくれるような、甘ったれにありがたい『完全な答』を教えてくれるような神様仏様はこの世に存在しないのである。
しかるにその程度のことも、人生十数年か何十年か生きてるのか知らないが、理解できないくそったれの甘ったれが世には溢れている。
あまつさえ、そうやって自分に問題意識がないだけのことを逆に笠に着て、問題意識のない自分にもすぐにご利益を与えてくれるドラえもんとはなれないアドバイザーをかように「論破」してみせたり無能呼ばわりしたりする。
自分では「頭の良い俺が不完全な証明を喝破してやった」なんて悦に入っているが、何の事はないただ自分の中に問題意識が足りなかったために相手が役に立つ話をしているのが何も理解できなかっただけである。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ」とはよく言ったものだ。
実際は、動かないどころか、そんな自分を正当化し、あまつさえ相手より有能な人間かなにかの様に錯覚し出す。そうして誰にも「論破」されない全能感を、何も『しない』ことで肥大化させ続けるというアクロバティックを通り越してもはや永久機関的ですらある自己完結に至るのが真に無能な輩の生態なのである。
考える脳味噌のない連中ほど、自分の頭が良いものか何かのように思い込み、考える脳味噌がないゆえにその状態の矛盾にも気づかずますます確信を深めていく。
自分から動き、問題意識を蓄え、種々の知識がその問題意識を解決しうるものかという観点のみをもって議論し評価する、ということが出来ないのはただの前提条件に達してすらいない無能中の無能なのである、ということを、この永久機関の中に引きこもった連中が理解する日は来るのだろうか。
数メートルしかない横断歩道でも、信号に従う自分を誇らしげにしている人。
決められた事に従う事に何の疑問も持たない人。
守らない事でさほど害がなかったり、むしろ非合理的であるような事でも、守る事が偉いと思っているからだ。
正しい事さえしていれば、守ってもらえると。そして、そうでない輩を大っぴらに批判する事ができるし、優越感、守ってて偉いねという承認欲求も満たされる。
優先席のマナーも、それが本当にペースメーカーに悪影響なのか知ろうともせず、ただルールだからと盲目的に従い、あまつさえ他人に強要してくる。私は正しい事をしてるんだと鼻息荒く。
擁護派は遠くを見る視点、批判派は近くを見る視点、かなぁと。もうちょっとわかりやすく言うなら、擁護派は理想主義、批判派は現実主義。
批判派は一貫して『このJK個人』が救われる対象に足りうるかということを問うている。
一方擁護派はJK個人を見ているのではなく、『このJKのような属性にある人』を見ていると一連の意見を読んで思ったよ。
で、JK本人は○○ちゃん募金のように『自分個人』を救ってくれとは言っていない。自分のような人がお金の問題で門戸を閉ざされることがないように、ということで活動をしていると。
まぁそこで彼女をそんな活動に誘い込んであまつさえNHKのインタビューに出させた何者かがいるわけだが、そこは置いておこう。
さて、JK批判派は現実主義と呼んだが、あくまで正確な表現は近くを見る視点、だ。つまり、JK個人と、それに比して自分を見ている。自分や身の回りと比べて、このJK個人がそんなに貧しそうには見えないし、しっかりすれば貧困ではない生活が送れる、と判断している。
でもさ、問題はこのJK個人にあるのではなくて、似たような貧しさを持つ人々全体にあるだろ?って言っているのが擁護派。だから擁護派はJK個人が浪費していたかどうかは重要視しない。彼女のお金の問題で進路をあきらめた人、という属性を重視している。その属性を重視するからこそ浪費と貧困についての持論をぶったりもしている。
JK批判派は自分のお金の感覚と自分の肌感覚がだいぶ近い人々だろう。
一方、擁護派は自分のお金の感覚が肌ではなくて脳の中にある人なんだろう。
どちらが正しいかを考えるのは意味がない。正しいかどうかなんて自分の感覚でしか計れない。
この件で一番大事なのは、お金の感覚が同じ日本人でもこんなに違う、というのがあらわになったということだと思う。批判派にとっても、擁護派にとっても。
なぜ自分とは違う意見の人がいるのか?自分の知らない世界がこんなにも身近に広がっている、その当たり前だけど見えにくい事実が見えた一件だと思う。
「架電」がいまいち納得いかない。 http://www.weblio.jp/content/%E6%9E%B6%E9%9B%BB
大島薫が淫夢営業をたくらんだところ、非難を浴びて炎上しました。
それに対して自己正当化をはかる大島薫の詭弁がみるに堪えないので、2点突っ込めることを以下に書き出します。
なぜ野獣先輩が架空の存在ではないことを知らしめることに、野獣先輩の流布を止める効果があるのかについては、過去ニコニコ動画で野獣先輩と同じくゲイポルノ男優として広く拡散していたビリー・ヘリントンという人物の例があります。同じくニコニコ動画で無断転載されていたビリー・ヘリントン氏が、イベントのゲストに登場することになり急速にその動画や画像が出回らなくなりました。「動画の中だけの人」が「現実に存在する人」になることで人々の倫理観が元に戻ったのではと考えております
淫夢界隈では、とうの昔に実在の確認されている出演者たちがネタにされつづけています。
有名なTDNと呼ばれる野球選手を筆頭に、DB、HTN、KYN、POPO、KBTITらの実在が明らかになったところで人権侵害は止まりませんでした。
さらにいえば、ビリー・ヘリントンを中心とするレスリングシリーズが衰退したのは、ニコニコ動画の運営公認となって飽きられたからです。
もともと、レスリングシリーズ動画はニコニコ動画運営への嫌がらせ目的、またはサブカル的に消費して面白がっていたのが流行のきっかけでした。
そんなレスリングシリーズ愛好者たちは天邪鬼といえたわけですが、ビリー・ヘリントンがニコニコ動画運営によってイベントへ招待され、あまつさえ彼がグッズ化されることで熱が冷めていったのです。
彼らは自分たちの「オモチャ」がメジャー化して愛想をつかしたのであり、決して「倫理観が元に戻った」のではありません。
ゲイやセクシャルマイノリティーについて詳しいと自称しているのであれば野獣先輩という人物がネットで面白おかしく流行している現状を快く思っていなかったはずです。それをいままで放置してきたのに、いまさらアウティングだなんだのと騒ぎ立てるなんて偽善者過ぎはしませんか?
アップされる動画を見て見ぬフリをしてきた一般人たちもまた同様です。アウティングというなら、ゲイビデオに出演している画像をネットに流してるほうがよっぽどアウティングだと思うのですが。むしろ、いまになって非難されている方々は自分が「ネットに無断で画像をアップするのはいいけど、捜索するのはダメだよな」というような倫理観であると、自ら認めてしまっていることにお気付きなのでしょうか?
大島のたくらみは、本人の居所を暴き出し、人権侵害の状況を直接知らせに行って、本人の了承が取れたらそれを公表することです。
もし、野獣先輩本人が人権侵害状況を知っていて不快に思っていたなら、大島の行為は二次被害にあたるでしょう。
そうした大島の所業と比べると、野獣先輩の人権侵害コンテンツに対してなす術もなく黙認していることは悪質性の程度が全く異なります
そもそもゲイポルノを素材にした人権侵害コンテンツのアップロードに対して、権利を持たない第三者には何ができるのでしょうか。
もし取り得る方法があるのならば、大島薫が率先して行うべきでしょう。
本気で野獣先輩の救済を考えていたのならの話ですが。
ひと昔前なら(ほとんど)起こりえなかったろうと思う。
何故かというと、そんなことを言ってはダメだと知っていたから。
でも、男が男を、女が女を好きであることが特殊であることは事実。
身を焦がす想いに苛まれていたとしても
何より告白することが相手に対し負担を与えることだとわかっていたから。
カムアウトって誰のためにするの?
自分が楽になりたいだけだよね?
自分が楽になれば、それを聞かされた人が思い悩んでもいいの?
そんな自分勝手な理屈がいつの間にか「正しい行為」として推奨され、
その覚悟もないし出来もしない連中が綺麗事で書くから現実との齟齬が生まれる。
今回亡くなった大学生さんは、
まさにその歪みにはまってしまい、身後動きがとれなくなってしまった被害者。
敢えてどぎつい書き方をすると、「寛容な社会」を標榜する方々は、
あなたが男性だった場合、それは「あなたのチンポをしゃぶりたいんだ。
できればあなたのケツにも入れたいんだ。
(もしくはあなたのチンポをケツに入れて欲しいんだ)」を意味するんだよ?
世間に理解が浸透していくんだろう」みたいなこと書いてる人がいた。
捨て石のように考えてるんだと思ってゾッとした。
貴方(貴女)達こそ、「認めてあげなくちゃね」っていう上から目線でゲイを見てない?
そして、自分が偶然上手くいったからといって安易にカムアウトを薦めるゲイ達。
今回のような新たな悲劇を生む一因にもなっていることを自覚すべき。
日本で生活する上で、レインボーパレードしなきゃならないほどの窮屈を
『パレードに参加して5人とヤッてきた』なんて話、ゴロゴロあるよね?
みんなコンドームたくさん用意して出かけるもんね。
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
お前は今まで心の底から渇望したことがないんだろう。そして、求めても得られず、何年も苦しんだことがないのだろう。あまつさえ、お前にとっての「プラスマイナスゼロ」になるために、ただ「ふつう」になるためにゴミのような境遇から這い上がらなければならない人間のことなど何も気にかけていないのだろうな。
俺はそれが許せない。
お前のように、何も求めずとも得てきた人間。
健康的な精神、健康的な肉体、趣味、友達、親、彼氏、社会的な成功、生きる理由などなくても生きられる暖かい暖かい生活をして生きたお前。
俺は憎悪する。
お前の境遇そのものではない。その境遇にあって何も感じず、その無知から軽い気持ちで他者を見下す前をこそ憎む。
お前が不幸になったときはゲラゲラと笑ってやろう。お前の子供が入院したときは鉢植えの橙百合を贈ろう。
それまでは幸せにな。無病息災でな。お前に何かあったとき、俺が耳元でゲタゲタと笑ってやる。
しかし俺は強烈に生きている。生きざるを得ない。お前の生活レベルに遠く及ばずとも、はいつくばっでも生きている。
お前、お前のような人間がいる。そのことにだ。
お前が憎い。
お前の文章のすべてが憎い。
夜景がきれいだとか、ここからの景色は雄大だとか。そういう気持ちでのぞき込んだのだろう。
お前はもうわかっているだろうが、お前がうらやむ綺麗な夜景にはゴキブリが生きるために蠢いている。
お前、お前を俺は許すことができない。
のぞき込むのは簡単だ。しかしお前のような人間が、「ふつう」を光り輝かせて上から降りてくると、それまで「普通」だと思っていたやつらは「俺は底辺だったのか」と意識せざるを得ない。闇の中で身を潜め、温めあってそれなりに幸せに生きていたのに、光をいきなり浴びせられ、自分たちがゴキブリだったと気づかせられる。お前にはわかるまい。
お前は罪びとだ。
しかし断罪はできない。するつもりもない。お前は罰を受けるべき人間ではない。幸せに、子供と夫と生きていけばいいだろう。
呪いを、恨みを俺が乗せる。
お前は幸せになるべきだ。俺たちを踏みつけて、生きていくべきだ。
お前を憎みながら、俺は蠢いていく。
いつかお前のレベルまで這い上がるのが俺の生きがいだ。そしてもっと上へ、もっとまともなところへ行きたい。
それが俺の生きがいになってしまった。
人間、本当に憎い時は息を吐くんだな。お前のおかげで分かった。
お幸せに。
生きがいなど幻想だ。
光を逃れて陰に入った安心感だけで生きていけるのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160713140308の続き
姉の退職希望について、元ヤンっぽいおばさん店長と直接交渉した。
この段階で、今まで姉にどんな対応してたのか察した。
今まで散々労働者の権利踏みにじっていたことを棚に上げて、自分は雇用主としての権利を主張するってすげーな。
給料が最低賃金以下なのは姉の能力が足りないからだとひたすら主張。
「仕事ができない○○さんのためにマニュアルまで作ったのに(それでも仕事ができない)」とアピール。
あまつさえ、前々職(ここも若干ブラックだった)から、姉の仕事ぶりを電話で聞き出していたことを話し出す。
前々職の雇い主が、姉は以前から接客に至らないところがあると言っていたと主張。
指導料三万円毎月ぶんどっといて良く言えるな。
休憩時間が15分しかとれていないことを切りだすと有耶無耶にしだす。
多分本来休憩時間に充てられている時間分の給与チョロまかしてる。
これまで姉の欠点ばかりあげつらっておきながら、「今から忙しい時期に入るから、後一ヶ月間は働いてほしい」と主張。
アホか。
店長の主張は一貫して、
といった最悪なものだった。
相手が強く言い返せない人であることを分かってて自分に有利な言質をとる、
こういう手合いは絶対に反省しないし、絶対に自分の態度を改めない。
正直労働基準監督署にチクりたいが、これ以上姉を関わらせたくないというのもある。
本当マジで潰れればいいのに。
『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える
http://bokukoui.exblog.jp/25428275/
このブクマを見ると、腐女子を無視しておたくを語るなという意見がちらほらあるが、
腐女子も女のミソジニーを抱えているものが多いという見解を述べておく。
そもそも夢女子と違い、やおい・BLは徹底的に自分という女の存在を消す。
モブの女が出てきただけでも「閲覧注意」だ。
昔は見た目に自信がもてず、しかし真面目な子が女おたくと言われたものだ。
彼女たちが、幼い頃から親のミソジニーをうけついで「いい子」に育ち、
思春期で異性と奔放に遊ぶことなく、やおいにはまり、頭のなかで奔放に遊ぶ。
そもそも私としては、ブスがブスであることを気にして身を小さくすることさえミソジニーだと思う。
くったくのない環境で育った、例えば帰国子女の女などは、自分が太っていようが、
目が小さかろうが、明るくくったくのないタイプが多いと思うのは気のせいだろうか。
びっくりするほど自尊心が低い女は多い。
せめて頭の中では自分を消して楽しみたい。
あまつさえ「やべぇほも!」「ほもがうつる」などと性差別に鈍感であることは、
ちなみに腐フェミとか自称しているよくツイッターで見かける自称フェミニストどもだが、
長らくウォッチしていると、時々彼女らは過去の自分の名誉男性っぷりを告白することがある。
過去に強くミソジニーを内面化し、ある時フェミニズムに目覚め、過去を悔い、
その恥ずかしさからさらに他人から性差別を感じ取ると徹底的に攻撃するというわけだ。
今までと同じようにすべてのコンテンツを楽しみたいのに性差別に気づいてしまって苦しいから
目覚めてしまった系のたちの悪さといったらない。
綺麗な文章でまとめればいいってもんじゃねーぞ。僕は村上春樹が嫌いだしリアリストだからな、文章力で包摂して事実に色づけるのは悪徳だと思っている。偽善と言ってもいい。
スナックで働いて全員が彼氏いないと嘘をついていたっていうブログを読んだがそのブックマークコメントのほとんどが良い文章というコメントで埋め尽くされていた。たしかに読みやすく良い文章だった。しかしそれとこれとは別だ。愛を嘘で売る商売を僕は支持しない。商売だから嘘もつくさ、スナックは楽園だから現実じゃない、なんて感覚も理解している。僕も付き合いで行くことがあるしな。だからあの甘ったるい空気も知ってる。
それでも客から見れば嘘つかれてお金払ってそのお金で彼氏とよろしくやってるなんて普通は裏切られた気分になるし心まで持っていかれた人間は嫉妬もするだろうしひどい時には復讐心に燃えてストーカーになる人間もいるだろう。それがホストとかキャバクラで現実におきていることだ。元ブログのスナックのようにそんな一線を画して遊んでいる人間はだいたい出張中のおっさんか恋愛をあがったおっさんであって店を支えているのはだいたい「どうにかできるんじゃないか」と考えている愚かな客なんだ。それが愛を売る稼業の汚い現実だ。僕はそれで破産した友人を知っている、キャバクラに入れ込んで嘘をつかれ続けて大金を失った。大金を貢がせた嬢は彼氏とよろしくやってるだろうし結婚して郊外で幸せに暮らしているかもしれない。嘘をついた罪すら忘れながら。
自分の世界を嘘で色づけして幸せに生きるのは良いが客にも客の世界があって男は好きな女性のためならいかなる辛苦も厭わない状態になるしお金を湯水のごとく使う馬鹿もいる。そして馬鹿であることは男が生きていくためのよすがなんだ。その愚かさを利用しあまつさえ搾取しようなんてのは悪徳であると思っている。
だからどれだけ文章力で飾ろうが嘘を正当化しようがそんなものは美学でもなんでもなくただの言い訳にしか見えないのだ。僕はリアリストだからな
もう少しで、意味のある言葉を発するかもしれない時分の子を持つ。
かわいい。なにを欲しているかわからない泣き声をあげても、笑顔を見せても。
しかし自分自身には、子孫を残さなければという本能的な感情はなかった。
それでいて収入や環境、親となる自分たちの健康状態といった不安要素があった。
あまつさえ、これから生まれてくる子にとって、明るい将来・未来がある社会だとは思えない。
こうした思いは、今も変わらない。
それでも子を作るのに踏み切ったのは、妻に年齢的な出産のリミットが迫っていたからだ。
妻の希望を叶えられないことも善しとは思えなかった。
作らないでチャレンジしなかったことに後悔させたくない、したくないと思った。
日本死ねという思いには至らず、保育園に預けて共働きできていることも幸運だと思う。
本当にこれでよかったのかという疑問は晴れない。
楽天的にはなれない。
どうにかなるよ、どうにかするんだよ。という人は、どうにかならなかったときの責任を負わないのだ。
だが不安のないレールを敷いてやれたとしても、それが子ども本人にとって幸福であるとは限らないのではないか。
ということを誰にも、妻にも、言えずに、日々仕事と子育てでいっぱいいっぱいになっている。
妻は、二人目も望んでいる。
第二子、第三子をもつなら、あまり間をおかないほうが経済的負担が軽くなる仕組みもある。
だとしてもためらう。
周囲に舐められまくっていた増田家(八)の大勝利は、増田島に激震を走らせた。
元々人口・文化が豊かだった上に、産業の優れた増田家(七)領を併合したことで、増田家の国力は飛躍的に上昇。
十一増田家の中のまごうことなき第一勢力、すなわちアルファマスダとなった。
ただし遠征軍は奇跡的勝利の喜びが強すぎて、戦勝祝いのあと茫然自失状態にある。
豊富な脱糞で茫然自失を人より多く経験してきた当主がやっと現実復帰したところだ。
彼らは西南での増田家(士)による勢力拡大の状況を睨み、増田家(士)が新しい領土の支配を安定させる前の攻撃を計画していたのだが、
急遽東への小規模な侵攻を計画に組み込んだ。
増田家(八)のむちゃくちゃな動員状態から考えて西の守りはがら空きになっているはずだ。
ゆえに、少数の兵力でも大きな成果が期待できる。
自分たちの焼き払い攻撃から攻める気がないことを見透かされた怒りが増田家(九)が両面作戦に走る動機になったことも否めない。
ところが、部将の増田うこんが率いる増田軍五千の控えめな領地拡大行動は思うようには進展しなかった。
かつて増田軍(九)が焼き払った土地のさらに東でも、弱体の増田家(八)西部方面軍は村々を引き払い焦土戦術を展開していたのだ。
現地に補給物資がないため、遠征軍は多くの人員を物資輸送に割かなければならなかった。
そのため、もともと少ない正面戦力がさらに減少し、占領地を広く確保することができない。
沿岸の支配権については陸軍より戻りの早い増田(八)水軍がしっかり押さえている。
あまつさえ増田々軍は増田家(九)がおさえる陸橋部への攻撃を行い、物資輸送を妨害を試みた。
占領時には藁人形しか立っていなかったある山城もその一つだった。
夜間その山城を警備していた増田兵は怪しい物音を聞いた。咄嗟に槍を構える。
だが、よくよくみるとそのアナグマは、アナグマにしては大きすぎた。
「ウェーイ!」
奇声とともにアナグマは青いスター型の手裏剣を打ち、警備の兵を抹殺した。
これぞ、増田忍法セルクマの術!似「せる」アナ「グマ」から来た名前で、隠形術のひとつである。
なお、後の時代に青いスター手裏剣を使うのは上忍、緑は中忍、黄色は下忍、赤は抜け忍、
そして紫はニンジャマスダーであると言われるが、良質な同時代資料からは上中下の分類すら確認することができない。
侵入したセルクマは全部で三人いた。
山城を放棄する前からつくってあった抜け道から城内に潜り込んだセルクマたちは、
「「「ウェーイ」」」
火種をばらまかれパチパチと延焼をはじめた赤い山城を背後にセルクマたちは闇の中へ消えていった。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160604230711
次回
「貴方には興味がありません」と誰かからアピールされると、毎回決まって首を傾げたくなる。
というのは、殆どの場合そういうアピールを仕掛けてくる人々は、こちらからさして関心を持ってない人である場合が多いからだ(それが全てではないにせよ)。
かの涼宮ハルヒぐらいの人物から言われるのであればまだしも、正直関心が無いのはおあいこです、と言いたくなるのである。
貴方には興味ありません。
それくらいのことは言われなくても知っているのだ。
自分の身の回りに、自分にとって関心の深い人が少ないのと同じように、貴方が私に対してさほど関心を持ってないのは了解している。でも、それはわざわざ行動なり言葉なりを使ってアピールしなければならないほどのことなのだろうか、と言いたくなるわけで。それって結局間接的に自分に関心を持ってほしいと言いたいだけなんちゃうかと言いたくもなったりする。何なんですかね。自分に関して言えば、関心のない人に対して冷淡でも情熱的にでもなく平熱で接することがマナーなのだと思っている。普通に親切に、普通に丁寧に、できれば不快感を与えないように、傷つけないように。というか、関心の無い人相手には自然とそう接せざるを得ないのではないかとさえ思う。だって相手のことどうでもいいんだから無理に関心を引こうとしたり印象付けるような事を言ったりあまつさえ傷つけるようなことを言ったりなんてするわけないじゃないですか。相手にこれから悪印象を与えないようにしたいな、と思うのであればまだしも、わざわざ相手の気に障るような言動を取る意味はあるのかな、と素朴にそして端的に疑問に思うことが多い。興味関心が無いのであれば、平熱で接してほしいのだ。冷淡やこれみよがしの拒絶というのは、それはどっかずれてるな、と思うわけなのだ。