たぶんそういう意見の人からは嫌われてると思うけど、某ラッパー映画批評家は、
「ラーメンの味が濃かったら濃い!って言うのと同じで、受け手も全く作る過程を想像できないわけじゃない。ある程度批評のレベルが上がったり、作り手から作り方の解説が行われたジャンルでは、踏み込んだ評論が受け手側から出るのは当然」といった意見がある。
元増田の議論はレベルが低すぎてお話にならないけど、もう少し進んだ議論として、受け手側もある程度踏み込んで議論しないと、大手を振ってひどい作品が賞賛されるみたいなことは発生するし、実際ラノベとかではそういう崩壊が起きたのではと思う。
しかし一方で、SFとかは批評が過ぎて、オタクの眼鏡に敵うものしか出なくなってジャンルとして衰退した、ということもあるから、まあ難しいと思うんだけど、コンテンツの一生として、人類の限界がその辺にあるのではと思う。
「なんでXXXって展開にしないんだ」とか「XXXを書かないなんて信じられない」とか「こんなの小学生でも書ける」とか「物語として不完全」とかその種の批判(というか罵倒?)を見て...
たぶんそういう意見の人からは嫌われてると思うけど、某ラッパー映画批評家は、 「ラーメンの味が濃かったら濃い!って言うのと同じで、受け手も全く作る過程を想像できないわけじ...
「このラーメン味が濃い(好みに合わない)」ってのと「この料理はねぎを入れるべきだ」とか「味噌じゃなく塩にすべきだ」とか、あまつさえ「素人のほうがもっとおいしいのが作れ...
これはラノベ天狗案件ですかね…… それはそうと評論と感想の境目はどこかとかファンと評論家の境目はどこだとか、そもそもオタクって評論っぽい何かをする人達なんじゃないのかと...
結局批判する上でしてはいけないことなんて無くて、ただその人の在り方・考え方などと批評が合致しているか、という一点だけが重要だと思う。 批判を批判してる人たちが言いたいの...
まあ世界中いたるところに応援しているチームの戦術・戦略に駄目出ししてこうあるべきと言うだけのサッカー監督のような何かとかあの補強はダメだとかあれを獲ってこいと言うだけ...
個人的には、批判にしたって非創作者には言っていい領域と踏み出してはいけない領域ってあると思うんだけど、今はなんかもう、何でも言っていい、批判の自由だふじこふじこみたい...
飲み屋で野球中継見ながら仲間と一緒に金本ヘボ監督!とか言いながら采配にケチをつけるのと同じ感覚の文章を誰もが見れるネットに垂れ流してるんじゃないのかと思わなくもない。