擁護派は遠くを見る視点、批判派は近くを見る視点、かなぁと。もうちょっとわかりやすく言うなら、擁護派は理想主義、批判派は現実主義。
批判派は一貫して『このJK個人』が救われる対象に足りうるかということを問うている。
一方擁護派はJK個人を見ているのではなく、『このJKのような属性にある人』を見ていると一連の意見を読んで思ったよ。
で、JK本人は○○ちゃん募金のように『自分個人』を救ってくれとは言っていない。自分のような人がお金の問題で門戸を閉ざされることがないように、ということで活動をしていると。
まぁそこで彼女をそんな活動に誘い込んであまつさえNHKのインタビューに出させた何者かがいるわけだが、そこは置いておこう。
さて、JK批判派は現実主義と呼んだが、あくまで正確な表現は近くを見る視点、だ。つまり、JK個人と、それに比して自分を見ている。自分や身の回りと比べて、このJK個人がそんなに貧しそうには見えないし、しっかりすれば貧困ではない生活が送れる、と判断している。
でもさ、問題はこのJK個人にあるのではなくて、似たような貧しさを持つ人々全体にあるだろ?って言っているのが擁護派。だから擁護派はJK個人が浪費していたかどうかは重要視しない。彼女のお金の問題で進路をあきらめた人、という属性を重視している。その属性を重視するからこそ浪費と貧困についての持論をぶったりもしている。
JK批判派は自分のお金の感覚と自分の肌感覚がだいぶ近い人々だろう。
一方、擁護派は自分のお金の感覚が肌ではなくて脳の中にある人なんだろう。
どちらが正しいかを考えるのは意味がない。正しいかどうかなんて自分の感覚でしか計れない。
この件で一番大事なのは、お金の感覚が同じ日本人でもこんなに違う、というのがあらわになったということだと思う。批判派にとっても、擁護派にとっても。
なぜ自分とは違う意見の人がいるのか?自分の知らない世界がこんなにも身近に広がっている、その当たり前だけど見えにくい事実が見えた一件だと思う。