「禁書」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 禁書とは

2015-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20151013085429

禁書否定された時に禁書ファンが度量を見せたといってラノベ叩きを無意識肯定するのはほんとやめてほしい。

あの有名な禁書は叩かれてもなにも言わなかったぞといって圧力かけるのって物凄く醜い差別構造を見せられてるみたいだ。

「お前らは俺の文章誤読している」という精神バリアで敵を攻撃し己を守ることをダメ攻性防壁と名付けたい

落第騎士の英雄譚1話って客観的に(ここでは学園での評価軸)みた天才ステラと落第生黒鉄の話だと思うんだけど、ここでその対立軸凡才ステラ天才黒鉄って二項対立に代えちゃってるのがあれ。実際は天才と称される実際は努力を重ねる秀才(あるいは凡人)ステラと、落第生と称される実際は努力を重ねる秀才黒鉄って対立軸でしょう。原作よんでないから知らんけど1話観てこれほど誤読して、かつ語れちゃうのかと感心するレベル

そっくりそのままお返ししましょう。僕は確かに落第騎士きっかけにあの記事を書いたが落第騎士以外の話もかなりしてるし、落第騎士だけの話という書き方もしていない。あなたの方こそこれほど誤読して語れるのかと私は感心する

だいたい、全く努力してない人間を探すほうが難しいんですよ。才能なんてものはその多くは家庭の事情(親と同じ属性を持ってたから親が寛大で突き抜けたり、幼い頃から高いす順にあったか努力自覚がない程度のもの)であって、努力と呼ぶかはともかく、努力をしてない人間なんかいないんですよ

それを努力だと思ってやってる人間努力家だの真面目系クズだのと呼び、努力せずに自然と秀でた人間を変わり者や面白い奴と呼ぶ。変わり者とか面白いが3つも4つも固まったところにあって何かを作り上げてしまうような人が天才なのである

とこんなことをあのブログを読んでも気づけないバカラノベ文化だ、テンプレ何が悪いと居直るから「程度の低いご趣味ですね」としか言いたくなくなるわけです。大抵のものには妥協点を探す僕でもラノベテンプレ好きな人は「いいテンプレと悪いテンプレ判別しないバカが多すぎる」と言うわけ

まれてきた途端から歩き出して、しゃべるお釈迦様みたいに本当に努力しないで一度で何かができちゃう人なんかそうそういないんですよ。そして、僕はブログを書く前にあれこれ考えてからそれを書いて、それが終わった時に面白い意見が出なかったら考え方をそれで固める。つまり終わった話なのだ

基本的作品好き嫌いってその人間好き嫌いと直結するから僕がテンプレみたいなラノベに歩み寄って「あーやっぱりダメか」と言ってることも不毛だし、そのファンが僕から見たらバカカルトしか見えないこともまた不毛な話でしかないんですけど…もういいや。

いやさ、最近ラノベよりも最近ラノベクラスタ(≠ラノベ読み)の方が重症だよ。昔の禁書のファンは禁書否定された時に「まぁ、せやろな」ぐらいに言う度量というか謙虚さがあったけど、最近禁書廉価版コピーみたいなライトノベル信者話題になってほしそうにして「嫌なら見るな」だもん。

いや、ゲームの分野の方が明るいからかもしれないけど、ソシャゲーの方がまだ批判されてる割には希望ある気がしてきた。ラノベ読みが好きなあんアニメ化されないラノベは僕も好きだけど、ラノベクラスタが好きな挿絵目当てで買うラノベは「だったら、四コマ萌えアニメアニメオリジナルでええやん」

年々ファンが狂信化する辺りも萌え宗教たるゆえんなのだろうが、人が集まることの大抵の動機組織メカニズム宗教と同じような道筋をたどる(濃く煮詰まって滅ぶか、浅くなってい形骸化して残る)からなぁ…

2015-08-14

…気を取り直して、久々にガンダム実況をやるか。その前に昨日途中までしか見られなかったGATE1話を見るけど…

えーっと…アレだな。GATE見てるんだけど、なんでドラゴン竜騎士)が皇居城壁超えてこないの?という気持ちになったのわしだけ?いや、面白いかつまんないか以前に「変」と飯田がる人の気持ちはわからなくもない…

ほんと、「GATEは設定を掘り下げてたら面白くなりそう」という言い分は正しいと思う。禁書とか化物語的な「みんなが好きなもの詰め合わせましたが、ぼんやりしか設定してない」的な作品に見えてならない。

みんなが好きそうなものとか面白いものって割りと決まってるし、決まってるから類似した作品存在する。ただ、それだけじゃ面白くならない理由はそれらを組み合わせるときに共通の日常世界観問題意識・対立構造)が作れてないからじゃない?うまい人の創作と下手な人の創作ってそこの説明力かな…

例えば、最近見てるZガンダムなんかはこの「共通認識を作る」のがうまいんだよね…。みんなが戦争中だという認識は持ってはいものの、戦地国家権力との距離感に酔って各々微妙に考え方が違う。その違いや理解してなかったところが徐々に共有されていくさまを描くのがうまいんだよなぁ…。

2015-02-26

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(後編)

関係構築のテンプレート

以上のような行為類型相互に重ねるためには多くの場合主人公ヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである

場面≠イベント

空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活ゲームをする例と、『俺ガイル』における部活クッキーを作る例を比較してみたい。

結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公ヒロイン相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公ヒロイン姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。

その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。

あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公ヒロイン関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。

構図の繰り返し

ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公ヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。

くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。

押井守『Methods―押井守パトレイバー2演出ノート

押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメエウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公ヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。

そしてラノベであるボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。

例えば『マリみて』は次のようなプロットを持つ。

いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである最初の依頼ではヒロイン自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公ヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分スールにするよう依頼するが、それが主人公自分の困難を押し付けることでもあることの認識からヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロイン自分の困難を解決した物語最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。

同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。

また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公ヒロインの遭遇、そして物語最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロイン台詞で遭遇は始まり最後主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロイン主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まりラストは楽しそうにヒロイン主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。

反転による対等性の強調

乃木坂春香の秘密』はヒロイン秘密主人公漏洩したのち、ヒロイン物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的依存関係存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。

『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロイン自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。

このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公ヒロインの「反転」によっても主人公ヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。

例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しか物語最後においては主人公ヒロインに対し、自分ヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。

いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。

ヒロイン好きな人主人公にバレる、という出来事に対して主人公ヒロイン自分好きな人を明かす。ヒロイン主人公故意ボールをぶつけられ、ヒロイン主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロイン主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキー主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロイン主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。

さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロイン自身の恋路への助力を一方的主人公要求し、主人公の承諾をもって名前呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロイン主人公呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公ヒロイン一方的ヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロイン名前呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公名前呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。

対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なから存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公ヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。

おわりに

ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。

主人公個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公活躍していれば話は自然と盛り上がる

林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』

なるほど。ところで人気アニメ漫画二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。

二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである

キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌え理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。

キャラ萌え依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにの依存したラノベ比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。

才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである

本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(中編)

さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。

例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。

同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校プールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。

溺れて必死主人公にしがみつきビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通女の子であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインうつむき押し黙るといった、つまり普通女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。

多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会前後主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である

最後見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロイン毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロイン毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。

余談

念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線クライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。

関係構築のための行為類型の整理

ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公ヒロイン恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効機能する。

さて、関係構築とは主人公ヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。

秘密の共有

遭遇の類型として「秘密漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。

秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合プライバシー同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去トラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意コントロールできるという点で優れている。

こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。

観察による発見

涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公ヒロイン友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロイン主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロイン主人公評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公ヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。

余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力である主人公必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこから作戦演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。

共通点の発覚

秘密漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入共感を誘う要素と言っていいだろう。

親切

素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由けが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。

これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公ヒロインコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。

呼称の変化

相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロイン名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。

なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。

依頼に対する承諾

一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。

一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロイン主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。

こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。

例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロイン主人公仕事を依頼し、主人公成功し続け、それをもってヒロイン主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロイン主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロイン主人公失望することは一度としてなく、最後ヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討範囲である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。

依頼に対する拒否

AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公ヒロインからスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。

この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。

好意の表明

単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。

相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。

救助と自己犠牲

窮地に陥ったヒロイン主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。

例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐ものであった。

他方で『俺の彼女幼なじみ修羅場過ぎる』におけるチンピラ侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロイン主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。

その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。

その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意ほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。

禁書』では記憶喪失し、『AURA』では中二病世間露出し、『俺妹』では自分変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分過去未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。

後編へ続く

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論

はじめに

映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。

シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリングから成り立っていますが、シナリオから分析局面では、プロットのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリング重要だということになります

ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。

様々な作家による小説、ラノベ創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。

正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスゼロにする」ものしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロしかないからではないのか。

一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである

ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。

であるならばそれは、システマチック再利用可能な一定演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。

仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である

金子映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディ不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。

「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。

本論

定義調査対象

本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話キャラ萌え特化の現代ラノベ普遍的存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。

大塚新城をDisった上で、つまりあ特定様式における「テンプレート」の抽出必要なのであり、本稿ではボーイミーツガール様式をもつラノベ限定することとした。

ボーイミーツガール定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公ヒロイン出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。

まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョン主人公であり、涼宮ハルヒヒロインである。加えて主人公ヒロイン性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公ヒロイン女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公女性ヒロイン男性である表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。

次に、では「非日常」とは何か。

例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公ヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公ヒロイン出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。

そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロイン意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公意識している相手」と定義する。

以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベボーイミーツガールと考える。

  • 語り手/視点人物(主人公)はある人物(ヒロイン)と遭遇し、これを意識した行動を取るようになる。この行動が物語の主たる軸として描かれる。

なお、本稿におけるボーイミーツガール排他的ものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である

これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から映像化された作品を中心に絞り込むこととした。

シリーズ化している場合、本稿での調査原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。

以上からWikipediaアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。

長くなったが、以下やっと本題に入る。

本論

本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的判断によってまとめたものである学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものしかない点は注意されたい。

遭遇のテンプレート

主人公ヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公ヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味ヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。

さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。

問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である

突然同じ部活所属することになったヒロイン毒舌であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロイン天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロイン魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。

筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である

設定の極端化

「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロイン挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものしか認識されないリスク内包する、という点である

演出の工夫

既存陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。

主人公を困難に直面させる

クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能であるヒロイン奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。

とはいえこれらの例において実質的主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。

一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。

秘密漏洩

偶然からヒロイン秘密主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。

知ってしまった秘密主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公ヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密漏洩ヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロイン人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。

謎の提示

その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である

例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。

しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型ヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。

印象的な絵面

例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。

筆者は全く百合趣味理解できないが、そうであっても「美人美少女ネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。

マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。

遭遇の多段階化

以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。

例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインエロゲ趣味主人公漏洩する第一の遭遇(秘密漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロイン主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。

化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロイン体重が無い」という「謎の提示」と「秘密漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインカッターナイフホッチキス主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃性格ヒロインに特段の目新しさはないが、文房具凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。

とらドラ!』の第一の遭遇はヒロイン主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。

興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。

例えば『俺妹』ではエロゲヒロインに返した際、その場でヒロイン主人公へ自室でそのゲームプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロイン夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。

中編へ続く

2015-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20150119165738

ハルヒラノベ自体の知名度向上+ネットを使ったマーケティングとしても注目されたからね。

最近話題ラノベって何?」みたいな記事とワンセットで紹介されたし、「Web2.0マーケティングで大勝利!」といった記事でも紹介された。

それと比べると禁書は単なる大ヒット作でしかない。知名度は格段に劣るよ。

2014-08-13

如何に人気シリーズであってもその人気には翳りが出るのは当然か

ライトノベルは今や一大人気コンテンツの一つで、新刊が出る度にとりわけ人気シリーズマンネリが続こうが買い支えられているので、

落とし所が掴めていないため、惰性で続けられてるのが多い。

漫画で言えば、『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』などの推理漫画や『こち亀』のように永遠に年を取らない設定の漫画がある。

ライトノベルでも人気シリーズは多く、特にネットゲームを題材にした『ソードアート・オンライン』はシリーズ化して久しい。

しかし、そんな人気シリーズにも翳りが見えてきたようだ。

ソードアート・オンライン』アリシゼーション編の最新刊の評価が両極端に割れている。

確かにシリーズが長すぎて冗長に陥ってるのも分かる。

もはや落とし所を誤ったとしか言いようがない。

同じようにシリーズ化が長くなり過ぎて仕切り直しをして再起を図った例もある。

とある魔術の禁書目録』がそれだ。

今は新約もシリーズが長くなってきているので多少マンネリが否めないものの、前作から心機一転できたのは大きいだろう。

しかしながら、シリーズが長くなり過ぎてダメになったパターンもある。

マリア様がみてる』がそうである

番外編の『お釈迦様もみてる』と併せて読むとその実がよく分かる。

とにかく終わりの見えない学園ドラマと化したため、マンネリが出てもはや行き着く処が分からないままシリーズが続いている。

こうなってしまうと、もはやファンも離れるのが普通である

元々大筋があったのにそこから番外編を立て続けに出した結果、本編から逸れすぎてしまって修正が不可能な所まで落ちたケースといってよい。

漫画であれば、完結しない事で知られる『ベルセルク』やオサレ過ぎてもはや何を描いてるのか分からない『BLEACH』、ネトゲに嵌って惰性で年に数回しか連載されない『HUNTER×HUNTER』のように落ちる所まで落ちてるのに未だに連載が続いていて人気も高い作品もあるのでそこは注視したい。

ただ、漫画はそれでいいかもしれない。

しかしながら、ライトノベルは数ヶ月に一度か或いは年に1度しかシリーズ物が登場しない事もあって、早い完結が読者の中で見込まれてるのは確かである

さっさと終わればいいものを、ドラゴンボールおよびドラゴンボールZ並の尺取りなのでマンネリ云々以上に上手い展開でなければそれはもう惰性で描き続けられていると見られても仕方ない。

いっその事、禁書のように新約に逃げるのもありかもしれない。

要は仕切り直せば良いわけである

そうすれば、如何に人気シリーズに翳りが出てもスターシステムなどを駆使して人気を維持する事が出来るはずである

2014-06-17

禁書読んだけどブギーポップ読んでないラノベ読みはぜひ読むべき。

とりあえず笑わない~エンブリオ炎上まで嫁。

ハートレスレッド以降面白さがダウンしたから(※個人の感想です)それより後は別に読まんでもいい。

ラノベ古典教養として、面白さと時代を知るに十分な本だ。

中二病をビンビン刺激してくれるタイトルサブタイトル能力バトル。ストーリー。設定。

フォルテッシモを語らずして「最強」の名は語れまい。

正義の味方とは何か?

世界の敵とは?

真理を突いているようでその実何も語ってなどいないようにすら感じられる、雲をつかむような哲学的文章

個人的なおすすめは、しっかりジュブナイルしていて中学生の俺のハートを鷲掴みした、ブギーポップ・イン・ザ・ミラーパンドラ」だ。

とっつきやすさ、面白さ、切なさという意味で、ブギーポップの中で割と異質なタイプだけど、これが一番好き。

友達はひたすらペパーミント推しだったけど。

別に「笑わない」から順番に読まなくてもブギーポップシリーズは割と問題ない。

さすがに今でてるのにいきなり手出すとちょっとアレだけど。

初期のに限ってはそこそこ適当につまんでもOK。

あーあとイマジネーターは2巻もある割にアクションほとんどなくて理屈っぽくて地味だから最初は読まなくてもいい。

笑わない→イマジネーターで見限られると非常に辛いから

パンドラ、歪曲王、笑わない、エンブリオ2冊がとりあえずおすすめ

まずはニュルンベルクのマイスタージンガーyoutubeで探して口笛で真似てみるところから始めようか。

2013-10-04

華氏8710度」

昔、こんな小説を読んだ。

近未来、すべての情報国家管理下に置かれ、有害情報は人々の目に触れないように抹消される時代。その時代に一人のエロマンガ家が、この世でもっとエロいマンガ華氏8710度」を描いた。エロさのあまり、それを読む男たちはみな精液を漏らしてしまう。直ちにそのマンガ禁書となり、紙ベースでもデジタルデータでも所持しているだけで処罰され、データは破棄される。しかし、この伝説マンガを何とかして後世に遺そうと考えて勃ち上がる男達がいた。彼らは、マンガ人間の肌に彫り込むことによって、弾圧を免れようとした。そこで10人のうら若き乙女背中を堺の職人さんに晒し、針が一本一本丹念に刺されていく……というあらすじだ。

長い間、この小説タイトルも作中作のマンガと同じ「華氏8710度」だと思っていたのだが、ネットでいくら検索してもヒットしない。どんなにマイナー小説でもタイトルがまったく検索にひっかからないというのはおかしい。ということは、記憶に間違いがあって、小説タイトルは何か別のものだったのだろう。

残念ながら、作者名も、どういう媒体で読んだのかも、すっかり忘れてしまった。いま覚えているのは、上に書いた粗筋だけだ。

なお、作中に登場する「堺の職人さん」というのは、当時、テレビ通販でよく出ていた堺の包丁職人パロディだろう。堺の包丁職人包丁一本一本に丹念に名前を彫り込んでくれるのだが、この小説では、刺青彫り師に置き換えられているというわけだ。

華氏8710度」というのは、もちろんレイ・ブラッドベリの「華氏451度」の捩り。マイケル・ムーア監督の「華氏911」もブラッドベリの捩りだが、記憶にある小説を読んだのはそれより前なので、直接の関係はない。また、先に紹介した粗筋からブラッドベリの別の小説連想する人もいるかもしれない。

華氏451度」というのは摂氏に換算すると233度で紙が自然発火する温度だというのは有名な話だ。本当にその温度で紙が発火するのかどうかは知らないけれど、少なくともそれがタイトルの由来になっているのは間違いない。では「華氏8710度」はどうか。ざっと計算してみると摂氏4821度くらいだが、この温度そのもの特に意味はないだろう。作中では全く説明されていなかったが、「8710」という数字の並びを目にしただけで、関西人なら「ハナテン」と読む。これ常識。そして「ハナテン」を漢字で書けば「放出」。これも関西人にとっては常識だ。従って、このタイトル射精を暗示していることになる。たぶんその解釈で間違いない。

この小説をもう一度読んでみたいものだが、タイトルも作者もわからないのでは探しようがない。誰か知ってる人はいませんか?

2013-07-21

http://anond.hatelabo.jp/20130721104400

殺して通れよ

つーか殺さないにしても美琴はこれまで散々シノビ並の機動性を披露してきたんだから

突っ立ってるだけの馬鹿なんてかんたんにかわして進めるだろうが

そうだよ、やろうと思えば進めたよ。

でも美琴はしなかった、できなかったんだよ。

何でだと思う?

つーか、それくらい言われなくても14話最後まで見てれば分かりそうなもんだが、もしかして途中で切ったとか?

この話書いた奴馬鹿だろ

禁書書いた奴馬鹿だろ

自分が理解できないからって、作者を中傷するなよ。

ガキじゃないんだから

2013-07-15

超電磁砲の最新話を見た

電磁砲1期と禁書の2期を見た程度の知識なんだけど、

上条美琴関係性たまら・・・

いいなぁー

まさにヒーローヒロインだよね。

まさに二次元的な夢が詰まってるよ。

眩しい・・・

2012-12-09

最強論争における魔法科の有利とか

 

http://anond.hatelabo.jp/20121204195754

魔法科厨が釣り記事を書く。

 流行ラノベと対決したら妄想

 

 

 

禁書

 とりあえずよく比較されてる上条さんと戦う場合

 魔法科世界魔法には「指向性」がない。基本的には(モノリスとかスポーツ上の制限がない限り)「事象のものを改変する魔法」で攻撃するので、マテバしたら右手けが残るんじゃないだろうか。

 まあ、幻想殺しが使えるレンジでマテバしたらシバさんも死ぬけど。

 あと多分説教が効かない。魔法使えなくても体術最強なので殴れない。

 そういえば、オールレンジ攻撃可能な真由美会長上条を倒せそうだけど、上条補正でなんだかんだ言って負けて惚れそう。チョロいし。

SAO

シバさんがもしSAOプレイヤーだったら

  ①1回死んだら後は無敵

  ②1回死んで生還

  ③体は生きてるけど精神は二度と戻ってこれない

  ④普通に死ぬ

 のどれかじゃないだろうか。

 脳を焼き切られた場合、肉体そのものは再成で復活可?

 一度死んだプレーヤーの扱いがどうなってるかわからないけど、放電後もナーヴギアとしての機能を失わないなら「ゲーム内で何度も死ねプレーヤー」になるだろう。

 放電後に機能喪失後、強制的にログアウト?できるなら起きるだろう。

 (本来のゲームシステムとして)正しいログアウト手順を踏まないと目覚めないなら、コキュトス状態になるのでは。

 「脳をやられた場合には再成不可」なら④。

シバさんをNPCとして再現するなら

 もしかしてゲームプログラムとかデータ処理の過程とか読めるんじゃないか

 NPCの分際で読めてどうするという気がしないでもないけど

2012-07-15

http://anond.hatelabo.jp/20120715110216

その2

長すぎて消されたので2つに分けた

スーパーダッシュ文庫
16票六花の勇者2
6票魔王な使い魔と魔法少女
5票魔王な使い魔と魔法少女な2 金色ツインテール
3票くずばこに箒星2
2票ベン・トー9 おかずたっぷり! 具だくさん! 香り豊かな欧風カレー弁当すぺしゃる305円
1票迷い猫オーバーラン! 12 護ってなんていってないんだからね!!
1票ニーナとうさぎと魔法の戦車5
1票カンピオーネ! XII かりそめの聖夜
1票とわいすあっぷっ! 5
0票パパのいうことを聞きなさい! 9
0票嘘つき天使は死にました! 2
0票オーディナリー・ワールド 3F
0票とわいすあっぷっ! 4
0票ライトノベルの神さま2
0票アプローチアプローチ そして彼女は救いを言った。
0票オワ・ランデ! えろすとら 小さな想いのアツメ方
0票嘘つき天使は死にました! 3
0票白翼のリンケージIII
0票神をしめなわっ!
0票テンプテーション・クラウン4
0票パパのいうことを聞きなさい! 10
0票一緒に革命しませんか? 2 聖女不平等
0票銀のプロゲーマー
0票ニーナとうさぎと魔法の戦車6
0票ある朝、ヒーローの妹ができまして。2
メディアワークス文庫
3票ラフィル 竜ヶ坂商店街オーケストラ英雄
2票侵略教師星人ユーマ
2票ビブリア古書堂の事件手帖3 ~栞子さんと消えない絆~
2票源氏 物の怪語り
1票INNOCENT DESPERADO
1票夜明けを知らずに ―天誅組余話―
0票ソラの星
0票不思議絵師 蓮十 江戸異聞譚
0票時間の落とし物
0票桃の侍、金剛パトリオット3
0票月だけが、私のしていることを見おろしていた。
0票奇祭狂想曲
0票シャロン 死者は神を語らない
0票ノーブルチルドレンの断罪
0票円周率殺人事件
0票花の佳音
0票江姫 ~乱国の華~ 下 将軍の御台所
0票金星で待っている
0票僕たちはドクターじゃない
0票アウター×トップ
0票サクラの音がきこえる あるピアニストが遺した、パルティータ第二番ニ短調シャコンヌ
0票ネバー×エンド×ロール ~巡る未来記憶
0票鴨川貴族邸宅の茶飯事 恋する乙女、先斗町通二条上ル
0票還りの会で言ってやる
ファミ通文庫
8票も女会の不適切な日常2
6票東雲侑子は全ての小説あいしつづける
4票ドレスな僕がやんごとなき方々の家庭教師様な件
3票ココロコネクト ユメランダム
3票黒鋼の魔紋修復士1
2票わたしと男子と思春期妄想の彼女たち 4 リア充ですが何か?
2票修羅場な俺と乙女禁猟区3
1票龍ヶ嬢七々々の埋蔵金1
1票デキる神になります
1票朧月夜ヒカルが地球にいたころ…… (4)
1票犬とハサミは使いよう5
1票デキる神になりますん2
1票武装中学生2045 ―夏―2
0票明智少年こじつけ(1)
0票キュージュツカ! (1)
0票SUSHI-BU! 1貫目
0票B.A.D. 7 繭墨は人形の悲しみをかえりみない
0票修羅場な俺と乙女禁猟区2
0票ガブリエラ戦記IV 白兎騎士団の決意
0票犬とハサミは使いよう4
0票武装中学生2045 ―夏―
0票連鎖カルネアデス
0票はなぢ店長じゃ、だめですか? 1
0票その男魔法使い“A”2
0票龍ヶ嬢七々々の埋蔵金2
0票も女会の不適切な日常1
0票学校の外階段
0票みぃくんのちくわぶ(+俺)
0票お嬢様が、いけないことをたくらんでいます! 2
0票キュージュツカ!(2)
0票明智少年こじつけ (2)
0票B.A.D. 8 繭墨は髑髏に花を手向けない
0票うさぎロボ1 謎の妹と俺たちのUFO探索記
0票SUSHI-BU! 2貫目
0票黒鋼の魔紋修復士2
0票バタフライ×ブレイクダウン1 君が世界を救うというなら
0票夢見のサクヤ 死の予知はキスで訪れる
0票ココロコネクト ステップタイム
0票ゆとりガジェット1 一之瀬ゆとりヒロシヒーロー化計画始動!
スマッシュ文庫
1票妹がスーパー戦隊就職しました
0票彼女を言い負かすのはたぶん無理3
0票妹がゾンビなんですけど! 3
0票ウルトラマン
0票イモート・オブ・ザ・リング
0票美少女と一緒にゲームを作ったら死ぬほど楽しいに違いない
0票彼女を言い負かすのはたぶん無理4
0票彼女衛生兵歩兵が俺で
その他
4票南極点のピアピア動画
3票金星特急(6)
2票魔術士オーフェンはぐれ旅 解放者の戦場
2票(仮)花嫁のやんごとなき事情離婚できたら一攫千金!~
2票鬼舞 見習い陰陽師と災厄の薫香
1票ROUTER
1票マリア様がみてる フェアウェル ブーケ
1票柳生浪句剣
1票ローゼンヒルのばら姫―見習いプリンセスポーリーン
1票禁書庫の六使徒
1票まおゆう魔王勇者5 あの丘の向こうに
1票夢の上 サウガ城の六騎将
1票無責任艦長タイラースーパーデラックス版】2
1票ミニスカ宇宙海賊8 紫紺の戦魔女
1票ヘンたて 幹館大学ヘンな建物研究会
1票英国マザーグース物語 新聞広告には罠がある!?
1票封殺鬼 クダンノ如シ(上)
1票封殺鬼 クダンノ如シ(中)
1票天冥の標VI 宿怨 PART 1

2011-02-02

論理操作能力の高いヤツとは議論するな

東大卒自分ギリギリ東大理Iに受かったぐらいの大したことのない頭の持ち主だが東大に入ったおかげで、色々な東大生を見ることが出来た。その結果、論理操作能力というのは極めて遺伝的なものであるという事実を知ることが出来た。東大の中でも頭がイイ奴は、特に、時間あたりに操作できる論理操作の数が常人の数倍は速く、常人より1桁正確だと思う。この事実を知ることが出来たことが、東大に入って最も良かったことの一つだと思っている。

勉強が出来るだけでは社会に出ても役に立たないというのは、その通りだと思うのだが論理操作能力が速くて正確なことは社会に出る上で非常に役に立つ。特に、議論で圧倒的に有利になる。議論って言うのは、実は、試験よりも速くて正確な論理操作能力が要求される。その場で返答しなければいけないからだ。試験だったら、その場でとっさに答えを思いつかなくても、「とりあえず置いておいて、試験時間終了間際にもう一度見なおしてみるか」といった戦略が取れるが、議論の場では、相手は何十分も返答を待ってくれない。その場で返答しないと意味が無い。

論理操作能力は遺伝的なものだから、訓練しても高くはならない。だから論理操作能力が低い(才能がない)我々のような人間が彼らに勝つためには、「論理操作能力が高いヤツとは最初からマトモに議論しない」ということが重要だ。例えば、相手が持っていない情報に基づいて反論する。いくら論理操作能力が高くても、知らないものを知ることは出来ない。それから論理操作能力が高いヤツの前では、自分のやっている仕事面白そうに見せない。論理操作能力が高いヤツが自分仕事を持って行くからだ。

こういう勝つ技術の中でも一番多く使うのは「自分仕事に関係ないことは黙っておく」という技術だ。会議の中で自分より論理操作能力が高そうな人間がいて、その会議自分仕事に直接関係なく、意見することで何か自分利益がもたらされるのでなければ、黙っておく。論理操作能力が高い人間意見は高い確率正論なので、しばらく放っておけば、そういう人間会議を引っ張っていくようになる。

論理操作能力が低い自分でも、論理操作能力が高い人間が多く集まる東大という環境にいられたおかげで、こういう論理操作能力が高い人間の中で立ち回る技術を身につけることが出来た。人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。

追記:最後の文の「奴ら」は、論理操作能力が高い人達の事です時間がたってから校正しないと、こういう曖昧性に気がつかないのが、僕の論理操作能力が低い証拠です論理操作能力が高い人達は、即興曖昧性の低い文章を書くことが出来ます

また、「情報処理能力」の方が適当はないかという意見がありましたので、「論理」「操作能力した理由を説明します。「論理操作能力」というのは、平たく言えば、「頭の回転の速さ」だと思ってください。

まず、「情報」ではなく「論理」という言葉を使ったのは、「情報」では、人に上手く質問して情報を引き出す能力や、ネットや本で調べる調査能力を含むような誤解を与えると思ったかです。そういう調べ物が得意な人は居ますが、その人の専門にもよりますし、信頼できる情報源をどの程度「知っているか」という知識の問題でもあります。例えば、法学部卒の人が法律に関することについて情報入手能力が高いのは当たり前です。一方、「論理」なら、こういった調査能力を含むかのような誤解は与えません。ですから、「情報」より「論理」の方が適切であると思いました

次に「処理」ではなく「操作」という言葉を使った理由は、「処理」では、処理した結果何をアウトプットとすれば良いのかが明確に決まっている、という誤解を与えるからです。例えば、漠然と「何かいアイデアない?」と聞かれた場合は、欲しいアウトプットは定まっていません。このような得たいアウトプットが明確に決まっていない状況でも、与えられた条件から「この条件とこの条件をこう組み合わせれば、こういうことが言えて(=こういうアウトプットが得られて)、嬉しい!」ということを即興で考えつくことが出来る人がいます。僕は、「論理操作能力の高い人」という言葉で、こういう人たちのことを指したかったのです

例えば、車を操作する、とは言いますが、車を処理する、とは言いません。「操作」という言葉が、どの方向に進みたいかを決めることをも含んでいるかです。一方、「車をA地点からB地点まで移動するという仕事を処理する」ということは出来ます。処理するためには、アウトプット目的)が最初から決まっていないといけないのに対し、操作することは、アウトプットを定めることも含んでいます。ですから、「処理」よりも「操作」の方が適当であると思いました

ところで、この文章では、遺伝的と先天的を同じ意味で使ってしまっています。僕が言いたかったのは「先天的」の方です先天的からといって遺伝的であるとは限りません。また、論理操作能力先天的であるということは、実際に東大にいて、多くの東大生を見てきて、僕が経験的に(帰納的に)知ったことです。また、僕は、論理操作能力の高い人が東大だけに存在するとは思っていません。どの大学でも、名前が知られている大学なら、上位何%かは論理操作能力先天的に高い人だと思います。東大は、その「何%」が、1~2割程度になっているぐらいです。東大は、一般教養の代わりに、シンフリ制度最初は全員教養学部に属し、1年~2年前期までの成績で、他の学部学科に転籍する進学振り分け制度)を取っているので、学部・学科によって、論理操作能力の高い人の全体に占める比率は大きく異なります。シンフリ点数の高い学科は、やっぱり、論理操作能力の高い人が多いと思います。シンフリとかシケプリシケタイシケ長かいった言葉を知っていることは、僕が実際に東大卒である傍証にはなると思います。

追記2:

言いたいことが伝わってこない、という人が何人かいるのですが、そういう方は、どこが悪いか教えていただけると幸いです。理系出身なので、各段落の1文目をキーセンテンスにして書く点や、曖昧性がないように書く点だけは気をつけて書いているつもりです。文章が長い(冗長性が無駄に高い)のは、校正してないのでしょうがないと思っています。

追記3:

何で「論理操作能力」っていう言葉定義しただけで、こんなに反論が多いのだろう。とりあえず、「論理操作能力が高い」=「与えられた前提から単位時間あたりに論理的な推論を用いて導き出せる有意義な結論の数が多く、また、その推論が精確なこと」と定義しておく。単に論理的な推論がたくさん出来るだけ(=論理演算能力が高い)では、コンピューターの方が人間より優秀だということになってしまう。論理的な推論を重ねて、「有意義な結論」を見出さなければならないから、「操作」という言葉を使った。また、人間は推論を間違えることも多々あるので(例えば、A→Bが、議論を進めていくうちに、B→Aも成り立つことになっていたり)、推論が精確であることも重要なので、「推論が精確なこと」を定義に含めなければならない。

コミュニケーション能力」とか「国語力」とか「人間力」とかよりも、ずっと精確に定義できていると思うのだけど、何でこんなに反発を食らうのか分からない。

追記4:

英語を使うと冗長すぎるって言われそうなのでやめておいたのだが、やっぱり、書くことにしてみた。操作は、"operation"の意味で使っています。"operations"のように複数形に出来ることが大事。まぁ、"manipulation"の意味でもよいかもしれない…これも、"manipulations"にできるからね。"control", "exploit"の意味では使っていません。

追記5:

ところで、上条当麻イマジンブレイカー論理操作能力の一種だと思います。今週の禁書IIも見てね!!

2010-12-17

http://anond.hatelabo.jp/20101217004438

交通の取り締まりは実効性というか摘発者へのダメージとしては機能しているが

通販規制とかその域にさえ達してない

会社名を公表して警告したら次の日には別の会社名で営業するとかそんなのばかり

まぁ漫画業界もそれくらいのたくましさというか図々しさがあってもいいのかもしれない

禁書指定されたらタイトル一文字変えて出し直すとか

2010-07-11

http://anond.hatelabo.jp/20100711162702

禁書って、アニメの事?まぁ、アニメ禁書は途中だし。そもそもアニメ版だと、禁書だが、ノベル版は『とある魔術』のだからなぁ。

アニメ版じゃぁまだ、なんの魔術の禁書なのかわかんないところまでしか、話し進んでないじゃん。ノベル版でようやく、全体像が見え始めたところなのに。

反面、レールガンは、禁書前時代だから、ある程度の話が完結していて、話が進めやすくて分かりやすいってのがあるじゃん

 

ノベル版の『とある魔術』がダメってんなら話はわかるけどじゃん。

http://anond.hatelabo.jp/20100711161741

エロゲアニメも好きだけど。

蠱惑の刻とか最高だよね。


ただ、エンジェルビーツアマガミカンパネラ、禁書いまいちだっていうのは同意してしまう。

別に原作がどうこうでなく、単純にアニメとしての出来がどうかと思う。

そしてレールガン面白かった。

2010-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20100523235245

まあムカつくだろうなあ。

小難しい文献や用語を引用して、

簡単なことをひたすら長く小難しく書いて、

バカ共に知恵を授けようとしてるのに

批判は多いし敵が増えるばかり。

これがそのまんま、まおゆうの批判になるんでおもしろい。

まおゆう信者の痛いところはこれがわかってないところかな。世間的に面白いと思われてる禁書化物語といった

ライトノベルでさえ一般人には読むに耐えない文章だということが理解できてない。

ひどい文章なのにおもしろいおもしろいと連呼してハードルをあげていくからますます理解されがたい。

2010-01-29

a. ただいま

b. おかえりなさい。

a. 今日ニュースサリンジャーが亡くなったって言ってたな。

b. そうね、でも、いいのよ、 そんな、 お ・ は ・ な ・ し は。 ちゅっ。

   どうだった、お仕事は?

a. ばか、サリンジャーが亡くなったんだぞ。

b. うん、そうね、 でも、 ね。 お風呂にする? それともお食事? それとも・・・

a. サリンジャーはなあ、 あの偉大な・・・

b. わかってるわよ、 そう、 そんなに そんなお話がしたいの?

  そうね、 その前に服を脱いで着替えてからにしたら?

a. 『ライ麦畑で』は良かったなあ、 『ナインストリー』も、

b. でも、はい。

  着替え、ここに置いておくね。 私も着替えよかな。

a. でも、なぜあんなに偏屈になっちゃったのかな。 どう思う?

b. うん。 もう、 は ・ や ・ く  着替えてって。

a. 結婚して子供も生まれてるし、なのに塀で家の周りを囲んでじゃって

  その中だけで生活するって。

b. へー、 そうなの。

  はーーあ あ あ。 ちょっと、疲れちゃったは、わ ・ た ・ し。

a. それからが謎なんだよなあ、作品、残してるのかな?

b. えっ、何? えっ、 あっ、 そんなことしないでっ もう。

a. 何言ってるんだよ、たぶん残してないだろうな。

  残してても案外、くだらないものばっかりだと神話が崩れちゃうしな。

b. 神話って、昔話しみたい。 イヤ、どうしちゃったの? そんなお話しばかり、

  わたしのことキライになっちゃった? どう、この下着。 いいでしょ。

a. 一度、行ってみたかったよな。サリンジャーが隠棲してたって言う、ニューハンプシャー田舎に。

b. 下着が邪魔なのかな? そしたら、脱いじゃおうかな? いい?

a. 誰か、何か書いてるかな、

サリンジャー氏は1974年に20年近くの沈黙を破ってニューヨーク・タイムズNew York Times)紙の電話インタビューに応じ、次のように語った。「作品を出版しないでいれば、驚くほど平和な毎日だ。何かを出版すれば私の個人的な生活がひどく脅かされることになる。私は書くのが好きだ。書くことを愛している。でも今は自分自身のため、自分の喜びのために書いているだけだ」

http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2553970/3647218

だからビートルズファン、ジョン・レノンファンにとっても、サリンジャーはちょっと特別な存在だ。その死のニュースを目にしたときは、やっぱりある種の感慨があった。けれど、そうか、まだ生きていたかというキモチも正直あったり。

 この人、ノルマンディーユタ・ビーチに上陸してるんだよねぇ。歴史だなぁ。今晩、家に帰ったら、ひさしぶりに「プライベート・ライアン」でも見るかなぁ。

http://d.hatena.ne.jp/curragh/20100129/p1

91歳。世界でいちばん好きな本の作者が死んだ。偉大な人がまたこの世から去っていった。このニュースを知ったとき、なんとなくヴォネガットの死を思い起こした。彼が亡くなったときはもう読めなくなるのか…という感じがあった。だけど、サリンジャーの場合、亡くなってからのほうが、隠遁生活後も書いていたらしいモノを読めるんじゃないかと思ったりする。

http://d.hatena.ne.jp/miexpo/20100129/1264767180

あらためて思いますけど、サリンジャー言葉選びのセンスが抜群なんですよね。ちょっとした短い文章の中に、読む者の心をグッと惹きつける魅力がある。コピーライティングの技法にも通じる彼の文体は、今後も「クールな文体」の手本として永遠に生き続けることでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/marukoshi-an/20100129/p1

今週のNewYorker誌は、まるでサリンジャー追悼号のようだ。

http://d.hatena.ne.jp/platycerus/20100129/p1

120 : ゆで卵(石川県) :2010/01/29(金) 03:31:04.20 ID:AnGQMgQs

ライ麦は話自体は別に大したことはないが、

その大したことない話を口語たっぷり社会からの

疎外者の視点で語りつくすという方法論は素晴らしい。

アメリカ保守的地域ではいまだに禁書扱いだったりするしな

38. Posted by 以下、ゴールデン名無し がお送りします。 2010年 01月29日 12:31

去年はレヴィ・ストロース、今年はサリンジャーかぁ、

サリンジャーはもっと長生きするかと思ったのだがな。

著名な文学大御所レヴィ・ストロース哲学者でもあり文学者でも有名)が二人も亡くなったな。

冥福をお祈りいたします。

http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51427492.html

たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか?あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとっら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。

http://www.mieko.jp/blog/2010/01/post-4885.html

ニューヨーク公共図書館(NYPL)のウェブサイトに、2010年1月27日に91歳で死去した作家サリンジャー(J.D. Salinger)氏を悼む文章が掲載されています。

The NYPL Says Goodbye To J.D. Salinger(2010/1/28付けNYPLのNews

http://nypl.org/press/press-release/2010/01/28/passing-author-jd-salinger-resonates-throughout-nypl

J・D・サリンジャー氏死去 米作家(2010/1/29付け47Newsの記事)

http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012901000109.html

A Farewell to J.D. Salinger from the New York Public Library(2010/1/28付けResourceShelfの記事)

http://www.resourceshelf.com/2010/01/28/a-farewell-to-j-d-salinger-from-the-new-york-public-library/

http://current.ndl.go.jp/node/15711

b. どう、これで満足したの、 は ・ や ・ く  こっちへ 来て、

 

 

2009-12-11

http://anond.hatelabo.jp/20091211124923

アニメは余程出来が悪いor原作に拘りがあり過ぎる原作信者じゃないかぎり喜んで見る人が大多数だと思うけど。

原作付きアニメで、喜んでみてる声ってあまり聞かないけどね。

「逆に面白くなってきた」とか「ある意味面白い」とか「これはこれで楽しい」とか、そんな声は聞くけど。

特に、ラノベ界隈とかエロゲ原作が多い深夜枠は、ほとんどそんな作品。

で、ちゃんと作ってあるだけで、ハルヒ禁書のように大絶賛。

ちゃんと作ってある事が、どれだけ貴重である事か。

ちなみに、ジャンプマガジンサンデークラスの、かつメガヒット作品をアニメ化するようなケースだけが対象なら、

「確かに仰るとおりですね」としか。

2009-06-11

陵辱エロゲ規制賛成!そしてすべての陵辱表現を禁止しよう!

いわゆる陵辱エロゲ規制問題で、私はid:mojimoji氏、id:hokusyu氏をはじめとする諸氏の言説、たとえばこれこれこれにいたく感銘を受けた次第であります。

くその通りで、陵辱エロゲ女性性的暴行侮辱することを肯定的に描く表現であり、しかもそれを正当化する術をどこにも持っておらず、擁護派はあろうことか「表現の自由」と強弁してヘイトスピーチ正当化しようとするばかり、全く同情の余地はない、「生きるに値しない表現」です。このような明晰かつ明快な論法にまずは敬意を表したいと思います。

その上で私は、このような糾弾の声、表現の純化と浄化の声をさらに強くすべく、エロゲ以外の分野の規制をも求めて声を上げていくことを提案したいと思うのです。特に、世界的に良識の名の下に女性への暴力を肯定している例を私は知っており、ぜひとも一緒に声を上げていただきたいと思うのです。

問題の演劇作品

私が具体的に糾弾したいのはとある演劇作品です。主人公は典型的レイプ魔で、女性を甘い言葉で誘わしては慰み者にするという、ただそれだけで特徴づけられる人間です。要するに陵辱エロゲと何も変わりません。そして他の登場人物は、その言語道断な主人公に阿諛追従する男、そんな主人公にいくらでもなびく都合のよい女、それに対して何も手出しのできない情けない男と、いかにもこの種のエロゲヲタにとって都合のよい人物像ばかりが並べられているのです。

然るに、この演劇作品日本ばかりか世界全体に流通しており、あろうことか一部では絶賛する声まで挙がっている有様です。北欧のある非モテの文筆家は、これを世界最高の芸術作品とまで評しています。また、フランス進歩的な知識人の間では、この主人公を、権威を打倒し自由を追及する男として肯定的に評価する声さえ挙がったといいます。

どうして良識的な人々がここまで騙されてしまったかは私にも理解に苦しみますが、憶測するに結末として主人公が罰せられることになっているからでしょう。しかしよく見れば主人公以外の登場人物の喜びようは余りにもおざなりであり、このような話の筋は単なるとってつけたような免罪符であることに想像の余地はありません。

この作品言及する声は意外なところにまで及んでおり、ある分野で世界最高の芸術家と評される人物は、話の筋に眉をひそめつつも、作品の質自体には賞賛を惜しんでいません。他にも、多くの分野からこの作品を崇拝する者は後を絶たないのです。

しかもあろうことか、世界最高のミュージシャンとも賞賛される人間がこの演劇音楽を付けてしまったのです。これにより、この作品の評価は時が経つにつれ、上がることはあっても、下がることは全くないという有様です。

みなさん、この反動的な作品規制し、上演禁止に追い込むようにご協力願います!

抗議行動のために必要な情報

なお、作品の題名は「ドン・ジョヴァンニ」で、出典はスペイン伝説ですが、演劇化を試みたのはモリエールという男です。この戯曲アレンジした台本音楽を付けたのはモーツァルトというオーストリア出身の音楽家で、これを賞賛した北欧知識人とはデンマーク出身のキェルケゴールという男、一定の留保を付けつつも作品を賞賛した芸術家ベートーヴェンという名前です。これらの反動文化人作品を抹殺すべく、同志の皆様もぜひご協力願いたいと思うのであります。

野暮とは思うが真面目な補足

表現というものの価値意図と関連づけて測られるものではなく、表現の質として測られるのである。そして、作品から読み取れる作者の意図というものは決して一通りに決まるものではない。たとえば、「ヴェニスの商人」を読んでシェイクスピア反ユダヤ主義者だったかどうかを判断するのは難しい。事実シャイロックというユダヤ商人は、屈折した苦悩を持つ人物として見事に描かれており、反ユダヤ主義糾弾する文脈でも演じることは大いに可能だからだ。ナチス経験したヨーロッパでさえ、「ヴェニスの商人」を禁書にしようなどという馬鹿はどこにもいまい。

こう言うと、「エロゲ芸術性などあるものか」と言われるかもしれない。だが、紛れもないポルノである春画でさえ芸術性を評価する者はいるのだ。また、偉大な芸術作品の多くは、発表当時理解されなかったことも多い。これだけから見ても、法的立場から表現を規制することの愚かしさがわかろうというものだ。原則として、表現はただ表現によってのみ批判されるべきなのである。

なお、ショスタコーヴィッチという旧ソ連作曲家は、スターリンによって作品を「革命的」だとか「反動的」だとかいろいろ評価を変えられ、作曲活動に大きな影響が出たことも付記しておく。笑うべきことに、当時問題になった作品オーケストラだけで演奏される交響曲で、歌などによる言語表現すら一切含まれていなかったのだ。

2009-05-21

幸福実現党の件で思い出したこと

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090520/stt0905202027013-n1.htm


かつて職場に会員がいた。ある日のこと…


増田君,最近危ない本読んでるみたいだから。」

−「危ない本って何ですか?」

「まあ読んでみてよ。」


と,封筒に入った本を手渡された。その場では怖くて帰宅してから開いた,『永遠の法』だ。


そういえば,ドーキンスの『神は妄想である』を職場で昼休みに読んでいたのだが,それを見て「危ない本」と言ったのだろう。

彼らには禁書リストがあるのだろうか…

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん