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蓬莱学園の復刊とラノベ図書館04 ライトノベルの二次文庫を出すにはどうする?|中津宗一郎
しかしここで問題になるのが、ライトノベルというジャンルの傾向です。「書き下ろし文庫」として書かれたライトノベルは、良い意味でも「読み捨て」という傾向が強いのは否めません。例えばスニーカー文庫という名称も、元々は『スニーカーのように履き替えられる、読み捨てして軽やかに読める文庫』という意味が付与されていたとも言われています。
このスニーカー文庫の名前の由来について、ブクマで疑問視する声があったのでググってみた。
ラノベ史探訪(1)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【前編】 | ライトノベル研究会
スニーカー文庫はもともと、「角川文庫・青帯」という形で角川文庫内の一部として生まれたらしい。
ラノベ史探訪(2)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【後編】 | ライトノベル研究会
発表当初から「スニーカーシリーズ」となっていた記載は、「コンプティーク」や「ドラゴンマガジン」の1989年3月号発売の頃に「スニーカー文庫」に変わっていきます。
この記事の中では、「スニーカー」が選ばれたことについて、「私見」としてこう書かれている。
上記候補の中からなぜ「スニーカー」という名称が選ばれたのかについて。出版社側からすれば、靴の中では手軽でカジュアルなスニーカーのイメージが、若者向け作品を刊行していた「角川文庫・青帯」のイメージに合致したからではないかと(もちろん若者に馴染み深い単語だからといった他の理由もあったとは思います)。
(中略)
ただここで注目したいのは、「スニーカー」という名称が公募の形をとって読者側から(公募ゆえ「応募者=読者」とも限りませんが)提案された点です。つまり読者側にとって当時の「角川文庫・青帯」は、スニーカーのような手軽さがあると少なからず思われていた、ということになります。その「手軽さ=ライトさ」という意識こそ、1990年末頃に「ライトノベル」という名称の誕生へ繋がっていく…こうした仮説の検証も今後行っていく必要がありそうです。
スニーカーという語には、当時の読者の「ラノベ」(と後に呼ばれるジャンル)に対する「手軽」「カジュアル」「ライトさ」のイメージが反映されていたのではないか、という内容だ。
これ自体はもっともな話である。だが、少なくとも「履き替えられる」「読み捨て」とまでは書かれていないのは間違いない。
という話が、もしもこの記事を参考にして言っているのだとすれば、さすがにやや誇張した要約と言わざるを得ないだろう(文化軽視の風潮があると危機感を煽るため?)
ただ一方で、noteの著者はまさに、もともとスニーカーの編集部にいた人らしい(在籍時期は90年代とのことなので命名時に立ち会ってはいない)
そのため引用した記事とは無関係に、スニーカー=「読み捨て」の意図があったと言えるだけの根拠を得ていた可能性は十分にある。編集部内ではそういう意識で語られてたとか、応募ハガキ?にそんな感じのことが書かれてたとか。
どっちなのかは本人に聞かなきゃわからん。俺は直接聞くほどではないので、気になる人はどうぞ。
おしまい。
実際の行動として
ソノラマ文庫の高千穂遙先生「クラッシャー・ジョウ 連帯惑星ピザンの危機」から2019年までの児童書を含む、おそらく日本最大のライトノベルコレクション
という故人の7万冊の蔵書を全部残そうとしている人に、「全部残せそうとしてないだろ」とケチをつけて何になるの?
例としては何でもいいけど、たとえば97年発売の「友井町バスターズ」みたいな、シリーズ化もされてないはっきり言ってマイナーな富士見作品ですら電子化されてる(新人賞作品というのも大きいかもしれないが)
友井町バスターズ - ライトノベル(ラノベ) 水無月ばけら/森山大輔(富士見ファンタジア文庫):電子書籍試し読み無料 - BOOK☆WALKER -
これを見ると、さすがに蓬莱とかカイルロッドとかぐらいの知名度なら、作者から積極的に交渉すれば普通にファンタジア(KADOKAWA)から電書化できるんじゃないの?と思われてもしかたないだろう。
https://note.com/bard99/n/n7b381e2f8f35
NPOを作ったことで、立命館大学が主催するゲーム保存連絡協議会ともつながるようになり、そこからあっと驚く国会議員陳情にまで至る話になるのですが、それはまた次回以降の話ということで。
https://twitter.com/nakatsu_s/status/1757621540722741746
すでに国会議員2名が動いているという、ちょっと洒落にならない事態になりつつあるので、現状報告が必要なんですよ。各所からお知恵を拝借したいのです。
https://twitter.com/nakatsu_s/status/1758730975364927909
私一人では荷が重いし、忙しすぎるんですよ。すでに2名の国会議員を巻き込んで、色々と進めていく案件になっているので、なかなかに大変です。ライトノベルに詳しく、一般文芸などにも通じて知見を得やすく、かつベテランから新人まで幅広く繋がる人望のある方、協力お願いします。てなとこと今晩の→
https://twitter.com/nakatsu_s/status/1758733916016660538
地方の図書館は、まず「地方図書館の利用率をあげて地元住民に寄与する」ことを優先しなければならないので難しいんですよ。韓国が漫画やサブカルチャー保護を熱心にやっているように、日本も国家レベルで考えないと。自治体レベルでは解決できないという風に、山田議員からはうかがっております。
https://twitter.com/nakatsu_s/status/1756541528057823483
赤松先生、言及ありがとうございます。現在、私の方はラノベ名作復刊に携わると同時に、文芸評論家・星敬氏が遺されたラノベ7万冊を活用できる方法を探して、山田太郎先生にもご相談をしております。この7万冊は緊急でどうにかせねばならないため、またご助力の方などお願いいたします。
山田太郎はほぼ確定か?
なんでも、過去の名作ラノベを復刊させたり、ラノベ図書館?を作ったりする計画が進んでいるらしい。
まず第一弾として予定されてる作品は、蓬莱学園シリーズ。それから、ザンヤルマ、カイルロッドあたりも視野に入っているようだ。
いずれも現在は絶版で電書化もされておらず、読み直そうと思ってもそこそこ高い中古品を漁るしかないシリーズだ。そういう作品が容易に手に取れるようになり、かつ作者に利益が還元されるようになるのであれば、それは素直に喜ばしい。
特に、未完のシリーズである蓬莱学園は単なる復刊だけではなく、1巻が出たきりで中断されている「革命」の続きも上手くいけば出せるかもしれないそうなので、是非とも成功させてほしい。
ただ、この事業の立ち上げ人?だという人物の発言を見ていて、少し違和感を覚えるところがあった。
twitter.com/nakatsu_s/status/1759434045719560485
ライトノベルが「独自の文学ジャンル」として認められるか否か、みたいなのが関わってくるんでしょうね。売れ数とは違う価値判断基準がないと、文芸は単なる「商品」に堕してしまうので。ライトノベルにも「芸術品としての価値」を認められていく必要があります。
twitter.com/nakatsu_s/status/1759434645471690948
世界のあらゆるコンテンツには、「商品」の側面と「芸術作品」の側面があって、これがバランスが取れていると、大衆文化の寿命である半世紀を超え、文化として生き残っていく。ライトノベルは、やや商品(売れ部数、覇権とかのモノ言い)側面が強すぎるので、芸術的な評価を高めないと残っていかない。
辞書的な意味では当然ラノベも芸術であり文学だけど、ここで言われてるのはもっと日常的な用法としての、いわゆる「芸術」、いわゆる「文学」だと思われる。
うーん……
なんだろう。文化として残るためには芸術・文学でなくてはいけないと言われると、それは本末転倒ではないかと思ってしまう。小説は「文学」ではなくてはいけないという思い込みから自由だったからこそ、ラノベは読者に支持されたのではないか。
こういう姿勢で、たとえば(「芸術」「文学」に位置付けるのは極めて難しそうな)あかほりさとる作品なんかを残すべき文化に含めることができるのだろうか?
(検索してみたところ、あのあかほり作品も現在はセイバーマリオネット以外電書化されてないっぽい。ショッギョムッジョ…)
NPOとして国会議員すら巻き込んで(本人のツイートにそう書いてた)活動していくためには必要な方便なのかもしれない。それでも、本当に主張すべきなのは、(いわゆる)芸術・文学ではなくても文化であるし残す価値がある、ということの方だと思う。
繰り返すが、復刊・図書館計画自体はたいへん意義のあることであり、応援していきたい。それだけに、できれば価値観的にはもう少しだけニュートラル寄りに修正してほしいな、と思う。
(追記)
https://b.hatena.ne.jp/entry/4749545057711008128/comment/otokinoki
「文化として残していく価値はあるの?」というのは、後代にならないとわからないので、まだ50年という若いジャンルでは全部残していくしか無いのよ。
うーん…
誰にとっても、現在の評価を問わず一律に「全部残していく」ことができるならもちろん理想的だが、そちらの発言(「ライトノベルにも「芸術品としての価値」を認められていく必要があります」とか「芸術的な評価を高めないと」とか)を見ていると、むしろその逆の思想のように見えて不安である、という話なんだが……
なんか余計に心配になってきた。
角川の事業再編で生み出された富士見ファンタジア文庫
なんでこんな認識になってるのかと思ったが、wikipediaのこれの話か。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%A6%8B%E6%9B%B8%E6%88%BF
1991年に角川書店へ吸収合併され、同社富士見事業部となる。「富士見書房」はその通称となる(社内カンパニー)。以降は、富士見ファンタジア文庫を中心とするライトノベル関係の書籍とそのメディアミックス展開が売上の中心となっている
言うまでもなく、角川グループの一つとしての富士見書房はそれ以前から存在したし、富士見ファンタジア文庫は1988年の創刊である。
スレイヤーズのTogetterまとめみてたらしたくなってきたー!
ということでしていきます
そもそもライトノベルの歴史というものを語る時に、ライトノベルというものが「オタクカルチャーの交差点である」という事実に目を向けなければなりません
ライトノベルというのはとかく、他のオタクカルチャー(漫画、アニメ、ゲーム、鉄道、ミリタリー、最近だとVtuberとか)にめちゃくちゃ影響を受けやすいジャンルです
まず前提としてライトノベルの前身として、「時をかける少女」や「ねらわれた学園」などのSF的なジュブナイル小説があり、
「なんて素敵にジャパネスク」を書いた氷室冴子や新井素子の諸作品による現代の口語体を使った文体表現を使った少女小説があり、
D&Dが日本に来て、派生のゲーム群であるドラクエやらFFが売れたりしたおかげで、TRPGが流行、それらのリプレイ集も人気になり、
さらにアニメで「機動戦士ガンダム」が爆発的なヒットをして、それのノベライズ(監督自身の描きおろし)も人気になり、
こういったものを一緒くたにまとめて扱ってたのが、角川スニーカー文庫であり、富士見ファンタジア文庫であり、角川の内紛やらで派生した電撃文庫なのである
つまり、レーベル説的な史観から見ると、その出自自体がオタクカルチャーのカオスの中から生まれたのがライトノベルなのだ
で、この中で出てきた「スレイヤーズ」がなんだったかというと、これらの要素を一通り取り込んで、かつ、「TVアニメ化」して大ヒットした作品だった、というところである
上に書いた通り、ラノベレーベルというのはリプレイ集だったり、ノベライズといういわば「メインのコンテンツの傍流」としての側面があった。
なので、オリジナルコンテンツ自体は作っていたにせよ、あくまで、二次的創作としての見方が強かったものであった。(ロードス島も元はTRPGリプレイの派生であるので)
ところが、そこから出た「スレイヤーズ」という作品は主人公のリナの視点の口語体で進行して、
ゲームのファンタジーのお約束を茶化すようなメタ的なコメディ雰囲気を持ちつつ、
そして強敵とバトルでの少年漫画的な要素という属性全部盛りながら、それをうまく調和した作品となっていた
つまり、傍流であったものの中からオリジナルな作品が生まれ、それが本流の方で大ヒットしたという意味で「スレイヤーズ」はライトノベルにおける大きな意味があったと言える
で、これが売れたおかげで、何が起こったかというとライトノベルで一攫千金できるやん!というバブルが起きて、90年代後半から00年代のライトノベルオリジナルの作品群の発生につながっていくという流れになる
これは個人的な見解になるが「元祖」というものを考えた時におそらく「ライトノベルの表現の元祖」というものを考える人は多いだろう
だが、何度も書くがライトノベルはそもそもその表現手法自体も他オタクカルチャーの影響を大きく受けるのでその起源や由来があまりにも複雑化している
なので、「スレイヤーズ」というものを評価するなら「ライトノベルの元祖」ではなく「ライトノベル文化が醸成していく上での(資金的にも、コンテンツ的な認知度としても)起点となった」という評価がよいかなと思う
それであったとしても、「スレイヤーズ」自体がライトノベルに与えた影響はいささかも揺るがないのだから
※2024/02/19
・少女小説のくだりでタイトルが間違っていたところを修正。すまんやで。
・あと富士見ファンタジアの発生の指摘があったからそこも修正。この辺り、角川のごたごたも相まって本当にござるか~?があるので助かる
相当に有名な作家だったら対応も別なのかもしれないけど、基本的にほとんどのライトノベルにおいて、イラストレーターは本文を読んでない。
(そもそも、オタクの中で活字を読む層ってかなり少ない一部の層だけ。それはつまり、それらオタクの中から生えてくるイラストレーターも同じだということで、本一冊分活字を読めるイラストレーター自体が少ない)
髪型はこう、体格はこう、胸の大きさはこう、服装はこんな感じ、雰囲気はこう、という指示を全部書いていく。
そしてもちろん、というか言及先エントリを書いたこいつは確実に関係者ではあると思うんだけど、既存のどのキャラに似た感じにするかの指定が入る。
その上で、編集とどのシーンに挿絵を入れるか相談をして、編集が「これこれこういうシーン」っていう風に発注をかける。
そして返ってきたイラストは、本文を読んでないから細かいニュアンスが伝わってないのでメチャクチャだったりする。
もちろん、例えばエルフ耳で発注をかけたキャラなのに人間の丸い耳をしていたら、これはもうそもそも発注と違うので直しを入れられるんだけど
(本文の描写と明らかに食い違うレベルだと、そもそも挿絵として成り立ってないので、これはしょうがない)
基本的に発注内容と齟齬がなければ直しは入れられない文化。特に「大御所」で当たりと言われているイラストレーターほどこれは顕著になってくる。
本文を読んでないっていうのがどういう風に問題になってくるかというと、例えばだけど、日常滅多なことじゃ笑わない寡黙キャラがいたとする。
そのキャラの挿絵で、笑っている印象的なシーンを発注したとして、大口開けてゲラゲラ大爆笑している挿絵だったら雰囲気的に相当おかしいよね?
でも、本文を読んでいないから平気でそういう感じのシーンに合わないイラストを提出してくるわけ。
もちろん、そういうところは編集がカバーすべき領域なんだけど、編集のほうもそういう細かいニュアンスを他人に伝えるには文章能力が必要だし
そもそもイラストレーターに読解力がなかったらどうしようもない。
編集もイラストレーターも両方高い能力が備わっていて、すり合わせができていればイメージが合っていくんだろうけど、そんなケースはごくごくわずか。
もちろんラフで提出した段階で「ここ気をつけてくださいね」って注意できればいいけど、それにも限界がある。そもそもラフが雑すぎて、口の大きさや細かな表情のニュアンスなんて読み取れなかったりする。
「不満なら作者側でNGだしてやり直させりゃいいじゃん」
って思うでしょ?
それができないんですわ。
イラストレーターには、そういう面倒なNGリテイクを回避する方法があるのよ。
締め切りギリギリに出されて、表紙と口絵と挿絵、全部揃えるのに、NGでラフの直しをさせてたら間に合わないよ?
そしたら原稿落ちるわけだけど、それは困るよね?
ってやり口をしてくるわけ。
それでも先に書いたように、エルフ耳が人間の耳レベルの間違いや、そもそも本文の助けになるどころか雰囲気をブチ壊しにする挿絵だったら、修正させざるをえない。
そうなった場合は挿絵の点数を削っていくんだよ。いちばん重要な表紙のクオリティだけは犠牲にできないけど、挿絵は犠牲にできる。
挿絵の点数を削るのは、本当に日常的に慣れてしまうレベルで行われている。
これは俺が取引してきた1つの編集とイラストレーターの話じゃなくて、3社で仕事したけど全部そう。
同じ作家の友達でも、きちんと読んでくれて納期を守ってくれる(つまり編集側が考える、直しを入れられる時間的余裕を設定した上での適切な納期を守る)イラストレーターって、
それこそ一定以上のクオリティの仕事をしてくれる絵師の中では殆どいないのよ。出会えたら奇跡レベル。
俺はみんなが神絵師なんて持て囃してる人とも仕事してきたけど、そういう人でも当たり前にそういうことをしてくる。
んで、ライトノベル作家は納期ギリギリでイラついてる編集に言われるんですわ。
「◯◯さんの考える解釈が✕✕さんと違うだけなので、それは受け入れてくださいよ」
って。
いや、俺作者だよ? 本文も読んでない納期も守らないクソイラストレーターと、作品世界をまるごと守ってる作者本人の解釈のどっちが正しいなんて、議論以前の問題だろうがと。
読んでるなら、もちろん違う解釈も最大限尊重するけど、読んでないんじゃ解釈もくそもない。
ちなみにイラストレーターの都合で一ヶ月スケジュール伸びるっていうの、普通にあるからね。
そんで、作者は「大人の対応」を要求されるから、それは告知できないんですわ。楽しみにまってる読者からしたら「作者が落としたんか?」って疑惑がつきまとうのを我慢しなきゃならないわけ。
まあとにかくイラストレーターっつーのはクソばっかりですわ。
イラストレーターなんだが、客にAIイラストを出されて「こんなテイストでお願いします」と言われた。
仮にもプロのイラストレーターに対して、AIイラストの真似をしろと?
ブチ切れたんだが、反論してきやがった。
そもそもAIイラスト技術というのは、膨大なデータベースからAIが学習をして、命令に沿ったイラストを出力するものだ。
それはもちろん数多の絵師たちの創作物を無断で剽窃しているわけで、それが問題なのは分かっている。
商用利用に使ったのなら権利侵害になるのはわかるが、今回はイラストの方向性を具体的に指示するために用便的に使ったわけで、金銭の授受が発生したわけでもない。そこになんの問題があるの?
むしろ使い方としては正しい。
そもそも、イラストの世界では具体的にキャラ名を挙げて、これに似た感じに描いてくださいというのは日常的に行われているよね?
その対象が「特定のイラストレーターの特定のキャラクター」から「大勢のイラストレーターのデータから出力された平均値的なイラスト」に変わっただけで、本質は何も変わらないでしょ?
(これは例えばゼロ魔のタバサのようなキャラを注文する時に、参考資料として綾波レイを挙げるような行為。パクれという指示ではないが、具体的に方向性を指示する内容として、イラスト界隈ではほぼ100%行われているのは事実)
(今回はライトノベルの挿絵だけど、イラストレーターは仕事のたびに本一冊読んでなんていられないので、本文は読まずに描いている。なので具体的なビジュアルを大まかに指示してもらわないと仕事ができない)
AI絵を真似してトレースしろっていうなら侮辱だけど、キャラクターの方向性の参考資料として渡しただけだし、むしろこっちとしてはパクリと言われるリスクが減って望ましいくらいだ。
それが侮辱に当たるんだったら、今まであなたが受け入れてきた「参考資料」も、あなたに対する侮辱に当たるんじゃないの?
ってことらしい。
「じゃあ君は他のキャラクターを参考資料に挙げたら、それを丸パクリするつもりだったの?」
「だったらそんなイラストレーターに提供する参考資料としては、なおさらAIイラストを送るのが適切だったよ」
とか捨て台詞言ってきやがった。
書いてて腹立ってきたから寝るわ。
指輪物語(The Lord of the Rings):1954年。
小説、映画。それまで妖精として使われていたエルフ、ドワーフを亜人類として登場させたファンタジー小説の原点といえる作品。
ホビットの名称は権利関係のため他の作品では使われなくなった。
ダンジョンズ&ドラゴンズ(Dungeons & Dragons、D&D):1974年。
世界最初のRPG。テーブルトークという紙とサイコロを使い会話で遊ぶスタイル。人間、エルフ、ドワーフなどの種族、戦士、魔法使い、僧侶などの職業がある。
ロードス島戦記:1988年。ライトノベル。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」に掲載されたテーブルトークRPGのリプレイから派生した
日本のファンタジー長編小説。ディードリットはエルフのパブリックイメージと言えるキャラ。
ウィザードリィ(Wizardry):1981年。コンピュータRPG。3Dダンジョン探索型ゲームの原点。転送失敗や蘇生失敗でキャラが消えるペナルティがある。
ダンジョンマスター(Dungeon Master):1987年。コンピュータRPG。魔物を食べる要素が登場。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」でコミカライズが連載されていた。
異世界系の小説を書く実例が存在します。おすすめのサイトは以下の通りです:
1. **小説家になろう**¹:2004年に運営を開始した老舗の小説投稿サイトで、日本最大級の小説投稿サイトと言われています¹。『Re:ゼロから始める異世界生活』、『異世界居酒屋「のぶ」』、『転生したらスライムだった件』、『君の膵臓をたべたい』など、多数のライトノベル作品が、ここで人気を博したことをきっかけに書籍化されています¹。
2. **カクヨム**¹:2016年に正式オープンした小説投稿サイトで、出版社であるKADOKAWAが運営しています¹。登録会員数は、100万人を突破していると2023年3月28日にカクヨムが発表しています¹。
3. **ノベルアップ+**¹:2019年に運営をスタートした新興の小説投稿サイトです¹。
これらのサイトは、異世界系の小説が人気で、書籍化の可能性も高いです¹²。ただし、どのサイトを選ぶかは、あなたが書きたい内容やスタイル、目指す読者層などによります¹。それぞれのサイトが提供する環境やツール、コミュニティを理解し、自分の創作活動に最適な場所を見つけることが大切です¹。
(1) 2023年におすすめしたい小説投稿サイト8選 / ネット小説を書く .... https://tadeku.net/83288/.
(2) 異世界小説のおすすめ人気ランキング20選【面白いファンタジー .... https://ranking.goo.ne.jp/select/2256.
(3) おすすめの小説投稿サイト27選【最新2023年版一覧】 - Web .... https://creative-story.net/novelsaito/.
(4) 小説を書くのにおすすめの「小説投稿サイト」を厳選して紹介 .... https://www.dokusyo-geek-ki.com/entry/novel_posting_site.
(5) 検索結果(累計ランキング) - カクヨム. https://kakuyomu.jp/search?genre_name=fantasy&order=popular.
(6) undefined. https://www.amazon.co.jp.
何かあればすぐセックス、悩めばセックス、若いセックス、熟女セックス、セックスセックス。
思春期の少年かよ、そんなにセックス好きなら官能小説賞でも作ってろや。
夫婦生活もカップルも、セックスしてるのは一緒に居る時間の10分の1くらいにも満たないのに、なんで小説の方がセックスセックスなんだよ。
お前が感じている「面白さ」ってのは、文学としての「面白さ」じゃなくて、実は他人のセックスを覗き込む「面白さ」を「文学」だと勘違いしてるだけじゃないのか。
若いうちから賞を手に入れて、小説家としてのキャリアを進んだ人間が身内だけで評価してるから、もう文学じゃなくてただの貴族の暇つぶしなんよ。内容が光源氏で終わってるんよ。
文学賞とったら人生あがり、インタビュー受けるか旅行行くかしかやること無いから、大学生くらいで人生経験が止まっているのよな。
だからセックスとモラトリアムで文学が終わってんのよ。俺らはとっくに大人になってんの。
どの芸術分野にも、強すぎるが故に行うのが「無粋」として行われるものが存在する。
お笑いで言えば下ネタ。料理で言えば味の素、少し昔ならデミグラスソースなんかそうだ。
効果的で完成されたものは、芸術を画一化し進歩を止めてしまう。
ここ数年の「文学」はその無粋を行いすぎている。
第三者から見れば糞詰まんねぇ身内ネタを有難がっている。周りはとっくに飽きている。
銭湯に描かれた富士山のように、見ていて恥ずかしくなってくる。
大学の学部選んだ時に漠然とあった好奇心はもう全部使い切っているのに、未だに分からないことだらけで目眩がしてくる。
会社のやってることもなんだか他所と色々違うみたいだから転職してリセットした所で良くなるとは思えん。
ただただ金と時間を交換しているだけなのに、どんどん責任は重くなっていく。
テレビゲームのボムみたいな感じで「とにかく助けてください!」でどうにか出来る年齢じゃなくなってきた。
というか自分がそれをやられる側だ。
頼んできた側の勘違いで実際には簡単なことだった時、物凄いホッとする。
いざ自分がやられる川になったら、俺の時間を奪いやがってなんて気持ちが湧き上がるんじゃないかと思っていたけどそんなことはない。
もうとにかく一番怖いのはチーム全体で死にものぐるいで戦わないといけない怪物の発見報告がやってくることなんだ。
昔は後ろの方でビクビクしながら最前線のサポートだけしてればよかったのが、自分が突っ込んでてよく分からんまま口に手を突っ込んで一か八かでトドメをさせないかとアレコレやらされる。
もう嫌だ。
趣味も完全に上手く行ってない。
もう全然楽しくねえ。
膝悪くしてからはスポーツは怖いだけで全然楽しめなくなって、足に負担賭けないようにビクビクしながら筋トレだけやってる。
ゲームも全体的に飽きてきて、大作のとにかく先が見えない感じはもうかったるいし、かといってインディーズのアイディア勝負もちょっと齧った所で昔やった何かと比べてすぐに飽きてしまう。
昔は存在価値の分からなかった「何だか良く分からないものに触ってあっという間に終わってしまうゲーム」の価値が分かるようになってきた。
とにかくアイディアだけサクっと味わえたらもうそれでいいんだって状態なんだ。
映画やドラマも展開は一通り見飽きてるせいで集中力が落ちて話が追えない。
ていうか自分が自分の思ったよりも頭が悪いらしくて難しい話をちゃんと分かろうと思ったら画面に齧りつかなきゃいけないってことを直視できない。
画面の中のテレビショーをちゃんと理解するために必死に画面に食い入ってそれだけやるって人生の使い方がなんだか凄く惨めでやりたくない。
映画館に行って集中して見てたはずでも話が分かってないことが多い。
見終わってから他人の感想を読んで自分が全然話を勘違いしてたことに気づいたりする。
なんだか惨めだ。
私生活も荒れてきて、たまに掃除や睡眠をしっかりやろうと思いつくことがあるけど、そのブームがいつの間にか去って気づくと汚い部屋で夜更かししていることが年の半分ぐらい。
体は膝以外もボロボロで、歯医者で歯石取ってもらってるのにいつも口の中がネバネバしてるような感じとか、ふとしたときに嗅いだ服の匂いの加齢臭みたいなのとか、そういうのもう全部辛くなってきた。
バイキングじゃ全然食べられないのに何でもない日にたくさん食べまくってしまい次の日は夜まで何も食べられずに過ごしたりするような、体のコントロールの効かなさがいろんな所に起きてる。
結婚式や葬式以外でしか合わない従兄弟が今何やってるのか時折気になって、そういやアイツらはこっちよりも大分器用に生きてた気がするなと嫌になる。
人間関係の健全なあり方みたいなのを身に着けられずに来たからとにかく人間と関わりたくない。
いい感じに見下しあえたら友達になれて、一方的にこっちが見下してたら関わりたくない相手、逆に相手から強烈に見下されていると感じたらそのときも逃げていく。
人間が他人と自分を比べるっていうのは当たり前なんだけど、そこにおいて尊重しあうっていうことが道徳的な正しさの上にしか存在してないような感覚がある。
もうなんか人生全部が辛い。
末期がんの患者がモルヒネがいい感じに効いてる時の穏やかな気持ちの中で「じゃあ自分の人生にどういう結論をつけていくか、頭の中だけでも整理してから終わらせたいなあ」と考えているような状態の中をもうずっとずっといつまでも生きてきた気がする。
そこから突然、なにかが変わって人生が好転しだす可能性を信じてた。
世の中じゃこういうのを「人生が始まってることに気づいてない」みたいに言うらしいな。
いつの間にか始まっていた人生がいつの間にか終わっているただそれだけなんだってことを納得しておけばいいっぽいのは分かってる。
生まれた家とか時代とかDNAとか子供時代の過ごし方とか就職先の選び方とか人間関係とかそういうのにたらればを持ち出すのは無意味だってことも分かってる。
少なくとも生まれてきた瞬間に決まるものについてタラレバを考えるのは無駄だ。
「魂の実在を信じているのか?異世界転生するライトノベルみたいに?」って話だ。
科学を進行しているので魂や輪廻転生は信じてませんって考えてるくせに、どこかで「もしかしたらこうだったかも知れない自分」を空想しているのが本当に無駄なんだ。
「生まれ変わったら今度はこういう風に生きよう」みたいなこと館上げるのは、タイムマシンで意識だけを過去に飛ばせる実験がどこかで成功したのを聞いてからにすればいい。
今の時代に生まれた自分たちの意識において、過去に飛ぶとかやりなおすとかは無関係なことなんだ。
空想の中でそれをやって、空想の中で満足するだけならまだしも、そうやって作戦を練ることで人生が好転する可能性を信じているならそれは科学を進行している人間として実に奇妙な状態になる。
なんたらの賭けの亜種として、もしもそんなことが起きる可能性があったならちょっとぐらいは準備しておくのもアリかもって範囲ならまあいんだろうが。
でもなんか自分含めて皆があーだこーだ考えすぎている気がしてならん。
今の自分じゃなかった可能性の今の自分を考慮して何の意味があるんだろう。
「もしも3月31日生まれじゃなくて4月2日生まれだったら学年一位だって取れたかも知れない」みたいに考える時、そもそもその2日違いの生まれの間に意識は全く別物へと変容していて、今の自分とは別の魂で動く別の人間だったはずなのに。
肉体より先に魂がこの世界にあると信じるならそれでもいいが、それならもういっそ割り切って「ハズレを引いたなりになんとかやっていくループ」として今の人生を生きればいいのに。
前世の記憶が引き継げたりしないルールっぽいのは明白じゃないか。
異世界に行った時に備えて現代知識の勉強をするために現代社会を生きるのは完全に無駄だ。
魂の実在を過剰に信じてたらればに執着して生きるってのはそういう生き方だ。
って頭で分かっているのにそういうのに縋ろうとしている自分に毎日出会う。
どうしようもなくなった人生に逆転のワンチャンスを与えてくれるなにかを信じて。
こうやって自分を説得しまくってもまだまだ魂の実在を信じて脳がタラレバを考える。
だってもうこんなどうしようもない人生を今から立て直そうとするのはしんどすぎるから。
本当にしんどいんだ。
時代遅れの大阪万博なんてやめたらいいのに――来年90歳、筒井康隆が見る世界、そして日本 #昭和98年https://news.yahoo.co.jp/articles/e73eadd19071c0f48ce1a13294ea96c8d1323de8
好きな人は知ってて言ってないだけだと思うけど、筒井康隆は炎上商法が得意なので新刊発売に合わせてこんなことになっている。
EXPO'70の頃は日本SF作家協会で盛り上がっていたんだよ。たしか誰か運営に関わってたような?
ライトノベル(ジュブナイル小説)だとか、メディアミックスだとか、日本に関してはこのおじさんあたりがスタートなんだよ。
トリスの絵だったんだよ。
忘れないでくれよ。
実在人物を名前そのままにガチガチに小説にして出版してそれをクラスメイトに読まれるって
まあ現実でも無くは無いだろうけど相当珍しいだろうし、自分がやられたら最悪な気分だろうけど。
って言うのもTwitter世代ではツイ廃みたいな、内心全部Twitterに書くような、ツイート数数十万みたいな子も居て
そういうのをしこたま読んでから本人と関わるって言うのは、本作の細野に通ずるところがある。
というのも自分も似たような恋愛をした事があって、自分には須藤や広尾のような都合の良い友人はいなかったので、いわゆる「飛ぶ」ような形で終わってるんだけど。
そして今もそれを後悔しているのを、思わぬ形で本作に引きずり出されたなぁ。
ネット上では細野の心情や行動は現実味が無い、無理がありすぎる等と書かれているけど個人的にはめちゃくちゃ共感出来た。
ライトノベルなのである程度若い人に向けた作品だと思うけど、twitterが名前変わってあんな事になり、そうじゃなくてもSNSがオワコン化しつつある中で、今の若い人が同じような経験をしているのだろうか。
SNS自体はインスタとか色々あるけど大量投稿するような感じでも無いし、今時Xになんでもかんでも1日100postするような高校生が居るとも思えないが、どうなんだろう。
ここ数日、ラノベにSFはないだのSFとスペオペは違うだのSFファンは性格が悪いだのといった話題がX(旧twitter)を騒がせている。
そのきっかけは、カクヨムで公開された一本のエッセイなのだが、これ自体は読む価値ゼロなので、みなさんも実際に読んで価値の無さをしっかり噛み締めてほしい。
【おまけ4】なぜラノベからSFジャンルがほぼ消えたか - 若者のライトノベル離れ 約7年で市場半減のショック(らんた) - カクヨム
ttps://kakuyomu.jp/works/16817330659071865553/episodes/16817330663869554252
さて、そんな流れの中で、日本SF史の汚点ともいうべき一つの事件が蒸し返されることになった。
79年開始の第一作から現代まで連綿と続く、大人気ロボットアニメ「ガンダム」シリーズ。
その初代ガンダムが人気絶頂だった頃に、著名なSF関係者たちが「あれはSFではない。私がそう判断したからだ」とSF性を否定した……と伝わる事件である。
中でも、「ダーティペア」「クラッシャージョウ」「神拳 李酔竜」で知られるSF作家、高千穂遙氏が中心的な役割を果たしたと、一般的には認識されている。
高千穂氏はXにアカウントを持っている。そして今回、この問題について本人から語られた経緯がこちらだ。
ttps://twitter.com/takachihoharuka/status/1714121118590849427
@takachihoharuka
いまだにこういう方があらわれるので、もう何度も書いてきましたが、もう1回、あのことのいきさつを書いておきますね。ある日、OUTの大徳編集長から依頼がありました。「最近、SFが注目を浴びているけど、SFが何かがよくわかないという声もある。そのことについて、書いてもらえませんか」と。→
ttps://twitter.com/takachihoharuka/status/1714122162037309833
@takachihoharuka
「書きますが、切り口が重要ですね。わかりやすいように、人気の巨大ロボットアニメを軸にして語ってみるのはどうですか?」「いいですね。それにしましょう」で、書いたのが、「SFとはこういうものだと定義すると、あのガンダムでもそこから外れ、SFではなくなる」という一文です。大徳さんは、→
ttps://twitter.com/takachihoharuka/status/1714122878810222800
@takachihoharuka
「いいですね。わかりやすい」と言われ、掲載となりました。でも、そのあと「ガンダムはSFじゃないのか」という投書がたくさん編集部にきたんですね。困った大徳さんがぬえにきて「こんなふうに読まれるとは思っていなかった。どうしましょう?」と嘆かれ、「前提が飛んじゃうのは予想外でしたねえ」→
ttps://twitter.com/takachihoharuka/status/1714124598462271844
@takachihoharuka
という話になり、「とりあえず、富野さんと高千穂さんとの対談を載せましょう。それで誤解も解けるんじゃないんですか?」と大徳さんが提案され、富野さんと対談しました。いきさつは、以上です。地球重力下での巨大ロボットに対する視点は、ハインラインの「宇宙の戦士」に対して、異を唱え、→
ttps://twitter.com/takachihoharuka/status/1714125784858943681
@takachihoharuka
「宇宙兵ブルース」を書いたハリー・ハリスンの見解を参考にしました。パワードスーツは巨大ロボットより小さく、重量も軽いので、ハリスンは沼地という設定で、その弱点を指摘しています。巨大ロボットは大好きですが、あれは巨大ロボットが成立する前提での作品というスタンスは変わっていません。→
ttps://twitter.com/takachihoharuka/status/1714126373860913585
@takachihoharuka
ちなみに、当時のSF作家で、あの一文を読んだ方は、ほとんどおられません。ただひとり、平井和正さんが読まれ、「きみは、小説よりもああいった評論のほうが文章が上品だね」という、返答に窮した感想をいただきました。反応は、それだけです。
とのことである。
これに対しXでは、
なるほど!そういうことか!誤解が解けた!といった声が多数上がっている。
ttps://twitter.com/unyanyako/status/1714134026813116780
うにゃ子
@unyanyako
高千穂さんがそう言うた、という話は聞いていて、どういうことなんかなあ、とずっと思っていたので、御本人の口からわかりやすくそれは誤解、誤った解釈とのお話が聞けてたいへんよかった。
ttps://twitter.com/yuno_sarashina/status/1714163341017673796
@yuno_sarashina
「ガンダムはSFじゃない」という誤解の産物のフレーズがひとり歩きして、実態とはまるでかけ離れたイメージだけが浸透していくいつものパターン
ttps://twitter.com/guchihaki_2021/status/1714157477510664446
@guchihaki_2021
こういうことがあるから、安易に仮定を絡めた話をするのは憚れる
ttps://twitter.com/masa5046/status/1714193810727866858
masa-5046
@masa5046
なるほど、
は、
ttps://twitter.com/v_mx/status/1714236647032951242
VMX
@v_mx
80年代オタ界隈を席巻した「ガンダムはSFか」論争、ライトオタ小学生の私には「なんだかややこしそう(面倒そう)な話だなぁ」という印象でした。ぶっちゃけ「面白ければそれでいいんちゃうの」とか💧
@takachihoharuka
ttps://twitter.com/ZEfcTDI5bXPck5Q/status/1714236234435043550
@ZEfcTDI5bXPck5Q
はてブでも早々に、「未だに「思い上がったサブカル連中のアニメ差別」みたいなデマ記事が書かれるのはアンフェアよね」とのコメントが付いている。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/takachihoharuka/status/1714121118590849427
たしかに、まことしやかに語られてきたアニメとSFの対立が実は虚構のものだった、という話は、多くの人にとって安心できる結末ではある。
高千穂遥氏が「OUT」誌に掲載したガンダムとSFに関する文章は、「ガンダム雑記」及びその続編というべき「SFを考える 巨大ロボットアニメを軸として」の二つがあるらしい。
検索をかけてみたところ、こちらのツイートでいずれも実物が引用されているのが見つかった。
ttps://twitter.com/sakaetype21/status/1140142346048176128
ttps://twitter.com/sakaetype21/status/1140142668690817024
ttps://twitter.com/sakaetype21/status/1140147594913431552
ttps://twitter.com/sakaetype21/status/1140148195281887232
今回の高千穂氏の発言の「SFが何かがよくわかないという声もある」「人気の巨大ロボットアニメを軸にして語ってみるのはどうですか?」という部分を見ると、そこで語られている文章は「SFを考える」の方を指しているようにも見える。
ただ、実際に「SFを考える」を見てみると、執筆・掲載の経緯は高千穂氏自身がOUT編集部に申し入れてということになっており、今回のツイートとは食い違う。また、その執筆の動機も、そもそも「ガンダム雑記」でガンダムはSFではないとしたのはなぜかを読者に説明するためのようだ。
高千穂氏による、ガンダムSF性否定の本丸は、やはり最初の「ガンダム雑記」の方にあると見るべきだろう。そのため、ここでは「ガンダム雑記」の内容を主に検証することにする。
「ガンダム雑記」から、今回の件に関連しそうな部分を書き起こしてみる(恣意的な切り取りを疑う人は自分で元ツイを確認してほしい)
ぼくは「0テスター」以来、創英社―サンライズスタジオ、日本サンライズの企画スタッフに加わっていたが、その際、必ず強制するひとつの原則があった。「勇者ライディーン」「コンバトラーV」「ボルテスV」などのロボット物をけっして、ぼくの前ではSFと呼ばせなかったのだ。ロボットプロレス物という呼称も好きではなかった。あの程度の格闘ではプロレスに対する侮辱であったからだ。
ぼくの意見は、SFと銘うちながら、まったくSFではないものが最近多すぎるというこの一点に絞りこまれていた。「宇宙戦艦ヤマト」は、むろんSFではない。アニメではなかったが「ウルトラマン」もSFではなかった。五三年秋の時点でSFと断言出来た作品は唯一「未来少年コナン」だけだったのだ。
ぼくはSFに厳密な科学的正確さを要求するものではない。ある一線からは、科学を超えていても、それを認めることができる。「スターウォーズ」は明らかに科学を逸脱しているが、にもかかわらず立派なSFなのだ。なぜなら逸脱の範囲を知り、それに応じてストーリーが組み立てられているからである。
SFがSFたるもっとも重要なエレメンツは、SFとしての発想、SFとしての思想、SFとしての理念にある。いいかえれば、これらが欠けた作品は、SFではないということだ(作品の優劣の問題ではない。単にSFであるか否かについてのみ語っているのだ。お忘れなく)
例えば、SFとしての発想は、「スターウォーズ」でいうならば、"A LONG TIME AGO"にある。遠い昔、はるかかなたの宇宙で繰り広げられた大冒険――この発想ひとつで、科学のもつ巨大なしがらみから「スターウォーズ」は抜け出たのだ。
この原則を忘れ、幼稚な善悪問答をもちこんだ「ザンボット3」は最終回でSFになりそこねた。総監督富野喜幸氏のSF的限界を知ったのは、このときである。
最後のSFの理念だが、これは表現者みずからの立脚点を明確化できるかということを意味している。エスパーを描くなら、エスパーの立場と人類の立場を区分しなければならない。(略)理念は両者に対立を生み、対立は続者(ママ)に対するメッセージとなる。テーマではない。メッセージなのだ。SFは読者の魂に、強烈なくさびを打ち込まねばならないのである
いかがだろうか。
少なくとも、もしもこのようにSFを定義したなら~というような仮定の話には、全然見えない。
明らかに、当時の高千穂氏自身の主張として、SFとはこういうものである、こうでなければいけない、という要件が書き連ねられている文章である。
(ロボット物をSFと呼ばせなかったというくだりの、あまりにステレオタイプなめんどくさいSF者の姿には、現代人として大いにたじろいでしまう)
さて、肝心のガンダムを「SF」としてどう見たのか、という話だが。
ぼくが怒りにまかせて喚き散らしたためでもないだろうが、設定の制作は慎重であり、よりSFたろうとする努力がメインスタッフの間には、はっきりとみられた。
第一話の試写のあと、ぼくは「機動戦士ガンダム」をSFの傑作となりうる要素を秘めた作品と評した。三話までは、その印象は変わらなかった。
と、序盤はかなりの好感触だったのが、
しかし、五話を過ぎたあたりから「ガンダム」は見るのが苦痛な作品になってきた。今ひとつ、SFになりきれないのである。セリフはいたずらに饒舌で、退屈をきわめた。ぼくは「ガンダム」を見るのをやめた。
「ザンボット3」で感じた富野さんへの評価はまだ変化していない。ニュータイプをだすならだすで、小松左京の「継ぐのは誰か?」に匹敵するアプローチがほしいのだ。あの展開では、焦点がただただぼかされていくのみである。残念ながら、やはり「ガンダム」も偉大な失敗作だったようだ。たしかに一歩、進むことがきたにせよ……。
というところに落ち着いたようだ。
作品自体の評価と入り混じって分かりにくいが、ザンボット同様としている以上、やはりガンダムも最終的には「SF」ではない、と断じているものと見ていいだろう。
といえる。
意欲作として評価していたことは伝わったが、この内容をもって高千穂氏によるガンダムSF性の否定を「デマ」「誤解」のひとことで片づけるのは無理があるだろう。
念のために言っておくと、「SFを考える」の方にも、「SFとはこういうものだと定義すると、あのガンダムでもそこから外れ、SFではなくなる」というような、限定付きのSF性否定のような部分は特に見当たらなかった。それどころか、
という主張が展開され、「ガンダム雑記」以上に、SFと非SFの線引きを当然のものとする論調に見える。
(疑う人は引用している元ツイで実際に読んでみてほしい)
世間ではこういうことになっているが実は~という隠された真実の発覚。これには誰しもが一定の快感を覚えてしまうものだと思われる。
しかし、そうした新たな情報を、自分自身で検証することなく無批判に受け入れてしまえば、それこそ新たな「デマ」「誤解」の拡散に加担してしまうことにもなりかねない。
このリスクには、十分に注意を払う必要があるだろう。それがたとえ当事者の言葉であっても。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4743724076906217039/comment/a842
少なくともSFじゃないとは言い切っていないのは間違いなさそう。SF度が自分の期待値より下だったと言っているように思えます。0/1じゃなくてスペクトラム。
「ガンダム」は、三話まではSFでした。四話から違和感を感じはじめました。五話になるとスタッフのSFマインドのなさがありありと見えてきました。全四十三話のトータルでひとつの作品として成立しているのが「ガンダム」です。三話までがSFだったからといって、「ガンダム」がSFだったとはいえません。限りなくSFに近いSFというのはないのです。線引きをするのなら、SFか、そうでないかのどちらかです。「宇宙から――」ははるかにSFではなく、「ガンダム」は惜しいところでSFではないのですが、言葉にしてしまえば、どちらもSFではないわけです。
と高千穂氏みずから、まさにゼロイチの基準を提示しているのであった。
また、
総監督の富野さんが「ニ〇〇〇一年宇宙の旅」を超えてみせるとまで豪語した「ガンダム」が「ニ〇〇〇一年――」を超える超えない以前にSFにすらならなかったのには、いろいろな要因があったと思います。
と、やはり「SFにすらならなかった」と断言している。
「ガンダムはSFじゃない」問題の中では非常に重要な部分だし、ここは最初から引用しておくべきだったね。すまない。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4743724076906217039/comment/kamm
善悪の概念を持ち込んだとはいえ「自身のSF定義に照らし」ているんだから「限定付きのSF性否定」と同義じゃないの?増田の文章の方に矛盾を感じた
引用したツイート群を見てもらえば分かると思うけど、今回の高千穂氏の「SFとはこういうものだと定義すると、あのガンダムでもそこから外れ、SFではなくなる」という言葉を、氏自身のものではないが仮にこういう定義を用いたとすると、という仮定や思考実験の問題だったと捉えてる人がたくさんいるのね。
(ひどいものになると、だからSFの定義はなるべく広く曖昧にしておこうという話だったんだな、と好意的すぎる拡大解釈をしている人もいる)
でも実際の文章では全然そうでなくて、あくまでも高千穂氏自身が、氏自身の定義によって、ガンダムはSFじゃないと判断するものになっていた。という話なんだが、分かってもらえただろうか。
anond:20231015151001 おっさんたち、昔どうしてSFもの・宇宙ものが流行ったか教えて
じゃあいま30代、そのときは60歳を超えてるであろうあなた方はどうやってこの質問に答えるのでしょうか。
ドラゴンクエストがその発火点であることは間違いないが、その手前の、ウィザードリィとウルティマが起源であるし、さらに遡ったらTRPGになります。もっとも少数派だったでしょうが。
ドラゴンクエストにより、家庭用ヴィデオゲームにおけるロールプレイングゲームが一般化し、その「ついでに」剣とファンタジーの冒険が一般化したんですよ。両者は不可分であるけど、RPGという新しいゲームを遊ぶことができるというのが強かったのです。
それまでにファンタジー世界の物語は知られてはいました。でも、メインはSFだったところに「知ってるひとは知っている」というスタンスでファンタジーという分野は生息していたのです。
SF :サイエンス・フィクション HM :ミステリ(昔は違った記憶があるけど思い出せない)
FT :ファンタジイ
書籍分類記号のFTは本棚にかぞえるほどしかありませんでした。
もちろん、グインサーガシリーズや指輪物語のように熱狂的に支持するひとがいたし、通ぶりたいひと(あるは本当に好きなひと)は「やっぱり指輪物語が~」なんていってた記憶があります。
「ネバーエンディング・ストーリー」や「ダーククリスタル」などヒットした映画もありました。だから、世界観に潜在的な知識はあったんですよね。あとはディズニーや昔話もそうですね。
ただ当時(昭和末期)まではSFが強かったのです。というのも、あらゆるジャンルに不思議な要素が紛れ込むとそれはSFということになっていたんですよね。
筒井康隆、星新一、小松左京といったSF御三家も、ボーダー上のジャンル不特定な微妙な作品をSFとして発表していたのです。
それは今後のRPGにも影響を与えるのです。というかオタク文化(から派生してエンタメ全般)全てにわたり垣根が曖昧になっていく「なんでもあり」になっていくのです。
「なんでもあり」はパロディや二次創作も強く影響を与えているわけですが。
そして、そもそものRPGの始祖であるウィザードリィにしてもTRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のパロディ要素が多々あるそうです(TRPGはやってないいので)。
ファミコンにより活性化し一般化したヴィデオゲーム。アーケードのゲームとPCからのゲームより、家庭用のデバイスでより洗練されたゲームを、そしてより多岐のジャンルへと裾野を広げた末に飛び出てきたのがドラゴンクエストなどの剣と魔法のファンタジー、さらに様々な要素を加えたファイナルファンタジーなどのRPGが一気に強いゲームジャンルになっていきます。
そこで培われたフォーマットを他のメディアでも更に発展させていくわけです。
そしてひとびとは剣と魔法って宇宙モノよりもこすりがいがある!という発見をします。
それがさらなる発展を生み出すのです。
ここらへんの発展先はライトノベル発が多いように思われますが、もうしわけないが観測してないところですので曖昧です。ウィザードリィやドラゴンクエストのノベル化が大きいような気もしますが曖昧です。ゲームには興味ありましたが派生文化には興味なかったのです。
と、ざっくりとした歴史観があるのですが。
これだと、海外でもファンタジーが流行った理由がもうひとつわからないんですよね。ドラゴンクエストは海外ではそんな流行らなかったそうだし。まあ、スーパーマリオブラザーズも十分ファンタジーな世界観ですからそんなおかしくもないんですがね。ゼルダの伝説は海外でもヒットしてますしファンタジーの知名度アップには貢献してそうです。でも決定打というには弱いような。
ということで