はてなキーワード: 頭脳とは
昔どっかのサイトとかでタイトルの文をみて、当時ちょうど田舎から東京への出稼ぎ社会人2年目くらいで絶賛絶望中だった自分は「いい言葉だなあ」と思ったものでした。
もういい年なので今は特になにも思いませんが、記憶には残っています。
自分がつとめているへんな会社も他社例に漏れず無計画に人を減らして仕事が間に合わなくなり、いままではガチの雑用でしか使わなかった派遣社員を若干メインの業務にも充てるようになりました。
自分の所属している部署にも何人か派遣社員が入ってきたのですが、ほとんどが一ヶ月くらい、早い人は一日でやめてしまいます
一人長く続いている人がいますが、なんか山を擬人化したようなでかいババアなので除きます。今は普通の人間の話をしてるんです
自分の担当業務には直接関係がないのでまた知らない人がいるなーっと思っていたらいなくなっていなくなったなーっと思ってました
ちょっと仕事が暇だったときにその派遣社員がバシバシやめてる業務をやっている人(この人は新卒で入った正社員です)になんであんなにやめてるんですか?と聞いたところ、みんなゴミみたいな下らない理由でやめちゃうそうです。
一番面白かったのは「ランチに誘われなかったから」と言って1日でやめた人でした。
あとは「業務の説明を聞いて、難しそうだと思った」「イメージしていた仕事と違った」「家庭の事情で・・(詳細不明)」「おなかが痛くて・・・(詳細不明)」とか。
ほかの会社で正社員を目指すと言って一ヶ月くらいでやめた人もいましたが、その人も大概アレな人だったので、まあ、あれでしょう。
まあ派遣会社に提示してる書面上の業務内容は非常に簡単そうなので、あたしにもできそう!と気軽にきた時給単価の低い人が普通にやめていっているんでしょうね。
その話を聞きながら、「ああ、こういう人たちが自殺するほど仕事がない人になっていくんだろうな」としみじみ思いました。
コネも学歴も頭脳もルックスの良さも若さも根性も持たないあの人たちはこれからどうやって死ぬまで生きていくのでしょうか。心配はしませんが、興味はあります。
Natureに掲載された2編の小保方論文を、そこそこ詳細に、「抄読会でプレゼンする」ぐらいのレベルで読んで気づく違和感は下記のとおりである。
2) 蛍光顕微鏡によるGFPの検出で、ネガコンの細胞に赤いフィルタを使っている
以上は理研の調査委員会で争点になっておらず、またいずれの会見でも取り上げられていない。
5) たかが3,000 bpの電気泳動をパルスフィールドで行ったと主張
(普通なら30分で終わる実験をオーバーナイトでやってんの?)
これらの怪しい点は、仮にデータを捏造するにしてもあまりに場当たり的な印象を与える。少なくとも仮に平均的な能力を持ったポスドクが一から捏造するなら、このレベルで整合性を疑われるデータを出すことはない。全部をでっちあげたとしても、あたりまえの材料と道具を使って、少なくとも見かけ上は完璧な図を作ることができる。それも比較的簡単に。ただ同僚に察知されずにやるとなればハードルが格段に上がるし、疑いをもって詳細に見られればバレると思うが。
また不適切な画像処理についても、例えばバンドの切り貼りで境界を消すことなど、普通にPhotoshopが使える人にとっては造作もないことである。人間の髪の毛を背景に溶け込ませることに比べればずっと簡単だ。
したがって彼女は研究室主催者としてどころか、同世代のポスドクと比べても平均的な能力を備えていないと考えられる。しかし一方で理研のPIになれるのは研究者のなかで一握り、天才的な頭脳と連続の徹夜に耐えられる体力に加えて、キャリアの序盤で大仕事を成し遂げる強運が必要である。彼女は私の知る限り医学生物学分野ではここ10年で2番目の若さでユニットリーダーに採用されているが、これを高校野球に例えるならオンナ投げのピッチャーが甲子園優勝校のエースだった、みたいな話である。幹細胞分野には、CNSや姉妹紙に複数報の業績を有し、分子構造からマウスまでなんでも扱えるような数多のスーパーポスドクが、食うや食わざるやの安月給でこき使われており、公募•採用時における彼女の潜在的ライバルは数知れなかったはずだ。したがって採用経過が全く不透明で、仮に竹市先生がおっしゃるようにSTAPに強いインパクトを感じて特例で採用したにしても、笹井研究室の常勤研究員として雇い、スーパーポスドクとして育てるべきだったわけで、彼女をPIとして採用した責任は非常に重い。
http://anond.hatelabo.jp/20140321231503 を書いてもう結構日にちが経ってしまったけど、コメントを多く貰えて嬉しかったので、それに答えていこうと思う。
すべてのコメントに対してではないことと、似たものはまとめていることをご了承願いたい。順不同。
http://anond.hatelabo.jp/20140322114633
終わりの移民についての考えを詳しく聞きたいな
学歴や職歴を持たないまま日本に移民してくる人をどうするかが問題と言うことかな?
つまり、そういう人たちは雇用や労働を提供するメリットよりも社会保障サービスを受給するコストのほうが国にとってしんどくなっちゃうということ?
あと、そういう人たちを「一般人と同じ思考・行動の移民」と表現するのは面白いなと思った(そういうのはヨクナイ!とは思っていないよ念のため)
読み違えていたら指摘してちょうだい
最後は急ぎすぎた。やはり読み返してみると不十分だったが、ここまで理解して頂いてありがたい。
一般人思考の移民の二世はやはり一般人になるのは、カナダで感じていた。中国系移民はチャイナタウンでものを売るという認識が強いが、それとは一線を画し、中国系でも親がカナダ本国の商社マン、大学院卒の子どもはやはり高学歴指向である。このようなケースでは移民を受け入れる意味が十分あると思うが、ここにだした工場勤務は学歴は正直関係ない(社員としてプロセスの効率化を図ったりする頭脳系は別)ので、移民で賄うよりかは、ニート・フリーターをどうやって奮い立たせるかにかかっていると思う。
つまり知識・頭脳・技能で唯一無二あるいは高いクオリティを持つ移民には賛成だが、単なる労働人口の現象での受け入れには反対ということである。ただしこれはかなり利己的で勝手な意見であることは重々承知であるし、そこまで上手くいかないことも予想がつく。
特に作業員として来て建設・製造系で働いている移民だとリーマン・ショックのときに生産が落ち込んで労働者を大量解雇したのが記憶に新しいし、次にそうなった場合、日本生まれ日本育ちの自国民を優先して移民を見捨てるのか、それとも平等に扱い福祉を提供するのかでは意味合いが全く違ってくると思う。ただ移民に永住権・就労ビザを与えておきながら社会保障・福祉を与えないのは国際問題になりかねない。
社会サービスコストに関しては、移民への支給が重荷になるとしか書いてなかったが、改めて考えると現在高齢者向けの支給が追いついてないという状況で、財源と鳴る労働者が増えるという意味では移民もひとつの手段として悪く無いと思う。少なくとも短期的に見れば税収がプラスになるから。ただその労働者が働けない状況(怪我・障碍・高齢)になったときの保障は・・・?と考えるとプラスになるのかどうか疑問である。(ここでは移民=永住権で話しているので、もし数年の期限付き就労ビザで景気が悪くなれば更新しないと言ったことは考えていない。)
http://anond.hatelabo.jp/20140322145453
>不思議なことに、ご飯作る工場なのに、その話を聞きながらご飯を食べたくはならない。誰しも言うが、一度勤めると外食について足踏みしてしまうようになる。
えーマジで?
大手コンビニチェーンの工場行ってたけど、残り物の総菜がバイキング形式で無料だったから毎日腹一杯食ってたなあ。
まあ思い出してみれば弁当持参の奴も少数ながらいた気がする。
…と書いたものの、確かにお腹が空けばそういう風に感じていても食べると思う。とくに無料なら尚更。ただ、それでもあえてお金を出して買うことはしないだろうな…と思う。
そう簡単に国籍取得はできんやろ 震災以降は年一万ぐらいらしいで(http://www.moj.go.jp/MINJI/toukei_t_minj03.html
印象・感想で物事を書いていたので、データを頂いて有難い。移民=帰化と考えているので、受け入れたとすればこれからこの数字がどう変化するのかが問題だと思う。
学生時代に下落合にある学生センターで日雇いの仕事探してやっていたので、いろんな職種に触れられたのはけっこういい経験だった。まあまだギリギリ雇用がなんとか良かった時代なのもあるが。
実は今でも学生だったり年齢が一定以上だったり年収の基準をクリアすれば日雇い派遣で働けるらしい。様々な職種に触れるし、研修なんてないところがザラだから自分で考える力と、人を見て真似る力はすごく身についたと思う。
オバちゃん強いよねー
だから言ってるじゃん、工場のおばちゃん最強だって。日本は工場のおばちゃんたちで成り立ってるようなもん/農家のおばちゃんも強い/スーパーのおばちゃんも強い/おばちゃん強すぎ勝てないw
オバチャンのルーティンワークに対する適正は異常だ。ルーティンワークって気が遠くなるほど時間が長く感じるモンだけど、オバチャンは「鼻歌でも歌ってたらスグよ!」って笑って言ってた。
…などなどオバチャン関連のコメントが多くて驚いた。オバチャンが秘める力は偉大だ。定時でスパッと退勤するというコメントがあったが、これに関しては容赦なく帰る。子どもや夫がいれば尚更だし社員さんの「帰らないで」というお願いに「イヤだ、帰ります。子どもも夫もいるんで」と言い放ったオバチャンは、定時に帰るのは当然の権利なんだけれどもとてもかっこよかった記憶がある。そして仕事ができるオバチャンほど、室長だとかそういう肩書を嫌う。気づけば力関係が出来ている具合である。
最近のFAの流れを見ていると今までは「危険」or「重労働」or「人間では無理」で「単純作業」でないとコストが合わなかったロボットが汎用化されてこの辺りでも「単純だから」という理由で普及が始まる。震源地は中国
実は働いていた工場は予想以上に人力だった。機械を導入すればここにいる3人は働かなくていいのにと思ったが、機械を入れるコストが見合わないのか、面倒くさいのか…。型にはめる作業は人間がやって、押しこむ(圧を加える)のを機械がやるような機械と人間の分業が足りないと感じた。単純作業だからこそ機械と真逆を行くような「単純作業だからこそ人間」という感じだった。
感じ方は人それぞれだと思うが、少なくとも私はここの工場労働は社会の底辺だとは感じなかった。意外に楽しかったというのもあるが、何より人間味が少しでも感じられたのが大きい。上を見ればキリがないのと同じで、下を見ても果てしないのだと思う。
彼は気付いていない。人生は単純作業の積み重ねでできていることを。
社会と経済は単純作業の積み重ねでできているとなんとなく認識したが、人生までは考えていなかった。ただ接客と事務しかしてこなかった中で、工場のアルバイトというのは少なくともここに徒然と書くほどには考えさせられる出来事だった。
たまに「高校普通科は公務員養成校」という言葉を聞くが、教育がそもそも事務系に傾き過ぎな気がする。工業系の労働者が不足しているなら工業高校や工業大学をきちんと整備しなおすべきだし、専門家が欲しいのなら高校段階ならSSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)やSELHi(英語強化)をもっと推し進めるべき。単純労働者の不足が不安定雇用に原因があるのであれば、東急ハンズのように時給制だけど準終身雇用のようなものを推し進めるべきだと思う。ただ、ここまで単純な問題でもないとは思う。
いやいや、そこは逆でしょう。苦労してがんばったんだから買ってくれって言わなきゃ >できればコンビニに行ってもカツ関連の製品は買ってほしくない。あれが一番手間がかかる。
確かにそうなんだけれども、値下げキャンペーンの悪夢と言うべきか本当に沢山買われてしまうと工場内はえらいことになる。派遣の人もすぐに来れるわけではないし、一度に働ける人数にも限界がある。甘いと言われればそれまでだが、現場は「安定・漸増」指向だろう。
工場のおじちゃんも年を重ねているが、おばちゃんに比べて働かない人が多い。考えてみるとまず働けるおじちゃんはサラリーマンか他の仕事をやっているのだろうと思う。ここで女性の社会進出まで色々論じるつもりはないが、そのような要因で社員のように(時には社員以上に)働けるおばちゃんが本来はそこまで求められないパートとしていることに驚きを隠せない。
おばさんの件はカイゼンの形で吸い上げるシステムが欲しいね。学生時代にいろいろバイトしたけど食品加工と厨房だけはもうやりたくない。臭いで食欲失せる。最後の段は他国の高学歴リソースまで食おうって話でなあ。
そのおばちゃんはシステムとして全体を見ることは(立場的に)できないので、一部しか見て提言している可能性が大きい。例えば、そこが律速でなかったら、ペースにムラができ、時間管理が面倒になるとか。
いや肉体労働系のバイトをやると天下国家を論じたくなる気持ちも、個人的にはよくわかるよ。私は年末年始に郵便局のバイトをよくやるけど、その度に自分のブログでカイゼンを論じた。あとオバチャンも論じてた(^▽^;
すっかりほとんど全ての工程が自動化していると思い込んでいたことは前の投稿で述べたが、パートが不満を感じているというのはきっとどこもそう変わらないだろうから、そこで実際に労働者が感じている不便や、オバチャンの意見をうまく吸い上げて、きちんと解決策を提示できればビジネスになると思う。特に社員さんはカイゼンをしている時間が無いので、外部のコンサルタント会社や、機械メーカー・商社が参入する余地は十分にあると思う。オバチャンは鶴の一声といったところもあるので、それを見極めることも大切だろう。室長はその部屋の中のことを見て不満を漏らしているかもしれないが、実際にその提案を受け入れてしまうと他の部屋にしわ寄せがいく可能性がある。だが、問題を見つけるのは得意だと思うので、そこをつなぎ合わせる役がほしいところだ。
初めて見たときはちょっと笑ってしまった。ステマというよりかはネガキャンだろうか。
ほかにも多くコメントを頂いてとても有難い。移民に関してはわかりにくいという意見が多く申し訳ない。全てのコメントに返信することはしなかったが、全て読ませていただいた。やろうかな、興味あるなという人は、短期派遣から始めてみてはどうだろうか。全面禁止ではなく例外もあるので、派遣企業と相談してみると良い。単純作業への適性が大きく影響する仕事であることは間違いないので、経験としてやってみるのも十分アリだと思う。少なくとも僕はとてもいい経験だったと思う。
第一希望は早稲田で、模試ではA判定も何度も出していたのに落ちてしまい、MARCHで滑り止まったクチ。
これが自分の実力なんだと一度は諦めて入学したものの、周りの人の教養がなくてつらい。
具体例を挙げるなら、この前、「存在論的、郵便的」買ってみたけど何言ってるのかさっぱり分からなくて3日で挫折した。その程度のポンコツの頭脳しか持ち合わせていない。
でも、周りはそんな自分以下なんだ。
たとえば、「桐島、部活やめるってよ」の桐島ってゴドーだよね、って言ったら、ゴドーって何?って返された。
また違う日、最近は猫も杓子もユニクロばっかだよねーって話になった時、これが唯物史観ってやつなんだねって言ったらきょとんとされた。
早稲田に受かれば違っていたのか?
「あの人は○○だから、頭が良い」という言説は果たして成り立つのか。例えば、「あの人は東大卒だから、頭が良い」というのは一般的にかなり思われている様だが、これはどこまで正しいのか。一般に、大学は入るのが難しく、卒業するときはそれほど難しくないという。(もちろん、入学に要する労力に比べてという話であって、卒業研究等、大変な困難を伴うのは当然である。)すると、「東大卒だから頭が良い」という言説は正確でないように思われ、東大入学試験時(当日)に、東大入試相当の問題(国、数、英、理、社)を解ける知識を有していた、ということが少なくとも言える程度だと思う。けして、東大卒業したからといって未来永劫の頭脳を持ち続けるわけではない。仮に、年老いて東大の問題が解けたとしても、京大の問題は解けないかもしれない。(極端な話)
ここで起こっていることは、一種の逆転である。別に、東大でも頭の悪い奴がいるとか、僻んでいるとか、そんな類の話がしたいわけではない。ラベルと中身の倒錯を問題にしたいのである。
科学が進展して、今まで分からなかった事が種々の法則で解析して説明できるようになってきた。でも時々、解析結果と実際の現象が一致しないことがある。法則が上手く現象を説明しない時、人は現象に問題があると考える。実験系が法則の様な理想的な条件にないのだと。本来は反対で、まず現象が先にあって、解析結果がそれに一致しないのは、我々の持っている法則が完全でないためである。そこで、法則は特殊な結果を説明できる様、書き換えられ、さらに普遍的な理論(統一理論)へと近づいていく。それが科学分野において真のあるべき姿だと思う。
話を戻すと、「東大卒だから、頭が良い」のではなく、「頭が良いから、東大に入れた」のである。更に言えば、東大入試でテストされる知性(頭の働き)を持っていたから東大に入れたのである。短い時間で幅広い分野の知識を試され、どれが落としてはいけない大問で、どれが捨てから見極める。応用よりは基本を押さえた問題設計。集中力、判断力、記憶力に特化した知性を東大は求め、それに応えた人々が赤門をくぐっていく。それ以上でも以下でもないのではないのだろうか。
社会に出ると東大は使えない。高学歴ほど仕事ができない。こういった言説は前述の倒錯に憑りつかれている。知性とは、もっと伸びやかでフレキシブルなものである。アメーバの様にその形を変えながら、様々な知的能力に特化しているものである。それが人々に多様な個性を与えている。画一的な試験で評価、定量化できるのは知性の一部に過ぎない。
知性に対するラベリングという状況は大変残念だが、人間の認識の限界もあって致し方ないという向きもある。そこで、知性からのささやかな「反撃」というのはどうだろう。つまり、東大卒くらい頭が良くなるのではなく、あなたの頭脳(知性)ならばどうすれば東大に受かるかを考えるのである。東大入試で求められているもの、集中力、記憶力、判断力…。今あるポテンシャルを活かして、アメーバの触手をどう伸ばしていくか、それを考えてみる。「頭の悪い」あなたは、似たような作業で単純なミスばかりするのではない。あなたの知性がその作業を苦手としているので、「頭が悪い」というラベリングをされているだけである。あなたの知性を使って、次のミスをどう防ぐか、その時こそ知性が試されている。
神童は、おそらく、人と頭の働かせ方が違うために(しばしば右脳的である)、人より多く脳を使うことになり、結果同年代の子供にくらべて圧倒的に頭がよくなる、というメカニズムで誕生する。
成長するにつれて慣れからか、教育のせいか、頭の使い方・使う量は一般人と漸近してくる。
成長してからも右脳を積極的に働かせるには左脳ドリブン的に行うしかない。
そこで、神童がその才能を持続するためには頭を使う訓練=勉強が必須になってくる。
神童は、中学校、高校と進学してから、たまたま外部から良い刺激を受けて勉強するようになることで、ようやく神童の名にふさわしい知力を手にすることができ、それに付随して学歴なり地位なりを獲得する。
↓
↓
高校でおいて行かれる
↓
勉強が楽しくなくなる and 頭脳も周りにかなり追いつかれている
↓
という経緯をたどって、なんとか地方の中堅大学に進学して平凡に生きるか、少し人と変わった生き方を選ぶか、
徹底的に落ちぶれるか、しているのではないだろうか。
数学オリンピック入賞者が必ずしも数学者になれるわけではないことも以上の事実の裏付けになると思う。
数学者になるためには、数学に対する驚異的な熱意を持ち続け持続的に左脳ドリブンな右脳の運用を続ける
天才とは、人と違う頭の働かせ方を大人になってからも持続できる人間である。
ちなみに自分は、
↓
中学校でなまける
↓
↓
↓
Sランク大
↓
完全に戯言なんやけど。
小学生から大学生、一般成人くらいまで共通の試験をやってほしい。
・
と、いうわけで試験時間を無制限(本人の意志で終了)、得点は青天井、はムリだから一万点満点式。
基本的には東大一の博識天才で(体力との兼ね合いも含めて)八割程度の正答率くらいの試験がいい。東大生の平均が6,000点くらい。
必ず、足し算などの基礎から全段階の基本的、応用的問題を積み重ねて頭のおかしいような高等数学まで。小学生でも0点はあり得ない。
そんなテストなら、分析したときの自分の学力がわかりやすいのではないだろうか。
・
もちろん、数学のみ。五教科でもいいけど、一週間工程になるな。
そうしたら、本当に大学生並の頭脳がある小学生と、見た目は大人なのに頭脳は小学生な大学生とかもあぶり出せて面白いかもしれないじゃん。
などなど…ハウツーは並べだすとキリがありません。
先のエントリーは、たくさんの方々に、ブックマークを頂きました。
コメントのない方が多かったことから、多くの方はあそこに書かれたようなことをご存じなく、参考のためにブクマしたのだと思います。
また、”背の高い女性を好む男性はいない”などを蔑視と捉えて傷ついてしまった方もいらっしゃったようです。
意図が伝わらなくて、残念です――いえ、申し訳なかったと思っています。
幼かった頃は、霧のなかにいました。
この気持ちはどこから来るのか、相手はなぜ自分のことをあしからず思っているのか、そのようにみえるのか。
おとなになって、謎の多くには説明がもたらされ、理由が明かされ、二人の関係を発展させるためにどうすればいいか、がわかるようになりました。
そしてその先に、さまざまなテーマがあらわれました。
ゲーム・ハンティング・ファッション(同性にパートナーを見せびらかす観点)・性的快楽・品定め・共同生活の相手に相応しいか・ATM などなど。
あのリストには、真実、事実、現実、邪推、デマ、都市伝説、が含まれます。でも、真偽はどうでもよいのです。
最初の短いエントリを捻出するのには1時間かかりましたが、後のエントリは実質15分くらいで書けました。パッと思いつくものをひたすら並べました。
実地においては更にはやく、各テーマにおける相応しい戦略や、迷いが頭をよぎります。
その反射的な反応は速めることはできても、消すことはできません。
何も知らなかった時代に戻ることはできない。
すべてのトラバ、ブクマ、ツイートを読みました。みなさまありがとうございます。
この場を借りて、返信します。
みなさま朗報です。ブクマ・twitterを見たところ、10名程度が背の高い女性を許容しています!(ハゲを許容する人は1名です)
でも何にせよ、これらはあまり気にしなくともよいです。
背の高い女性が好きで、自分より背の高い女性とだけ、好んで付き合ってきた、という人は確かにいないでしょう。
でも、背の高さを克服できるような魅力があればよいのです。そして、
実際にこのような二択を迫られることもないです。
ハゲの自分 v.s フサフサの自分 なら、あなたは負けてしまいますが、そんな敵はいないのです。そこにいるのは、あなたと・彼女、だけです。
(なおこれらの考えを発展させると、"自分を市場で売るな"、”勝負できる魅力があるなら、その陳列棚に自分を置け”、という教訓がおもいつきます。)
あ、バレンタインにチョコもらえました?私はもらえました。チョコ…っとね。
・更に、「きれいなホテルときたないホテルだったらどっちがいい」とダブルバインドで質問できればなおよし
仰るとおり、これは完全に私のマチガイです。正しいダブルバインドは最近、増田で見ました。
(実はあなたの”ダブルバインド”は間違っている?ほんとうに正しいダ:長いですが、要するに、ダブルバインドはホテルに誘うのに役に立つテクじゃないということです)
そう、そうなんですよ。
たぶん子供の頃だって面倒な事は同じように山積されてて(多少種類は異なれど)、ただ、それに気付かないレベルで燃え上がれる突破力を持つのが「恋」なんじゃないでしょうか。
ひょっとすると私だけかなのかもしれませんが、子供の頃は単純に何も考えていなかったと思うのです(笑)
燃え上がれる突破力… 誰か教えてください、<「恋」はどこから来るんですか>
私は、大人になってからの恋愛が悪いものだとは考えていません。多様なテーマがあるからこそ、恋愛はエキサイティングになるのです。
なお、これは完全な記述ではありません。正しくは"女性の言う「カワイイ」には多様な意味がある。エスキモーが「雪」を表すために多くの言葉を持つように"。
私個人の意見では、必ずしもそうじゃないです。男性でも時と場合によっては『察しろ』と思うし、女性も『説明しろ』と思うことがあるでしょう。
性格の性差は確かにありますが、飲みの席の話のネタ以上にはならないような気がしてます。
それよりは実際に直面している相手に合わせることのほうが大事だと思います。
年間40万でいいらしいですよ。http://anond.hatelabo.jp/20140215223200
大人になってから来い
うまい!
これ書いた人が大人だとは思えないなあ
恋あきらめます。
私が言うのもなんですが、大切なのは"愛”です。
loki @loki_uf
『大人になってからの恋』 http://anond.hatelabo.jp/20140211031851 - 何が合ってて何が間違っているのかもわからないが、自分がお呼びじゃない世界であることは伝わってくる。
巻き込んじゃってすいません…
ナコ @nakotic
こういうこと考えてるから恋ができない。
知ってしまったらもう戻れんのです…
やめて。増田で言われてハートに来るブコメワースト2:”あなたは人を本当に好きになったことがない”。(ワースト1:"あなたは実は病気では?")
? どういう意味です?だれか教えてください誰か…
休日にやることも無くなってきた。週末はどう過ごそうか、悩むほどになってきている。
よく「年取ってやりたい事なくなってもぼっちだと寂しいから結婚する」みたいな話がある。
結婚に限らず友達でも別にいいんだけど、誰かが居たらこの状態が解消するのかな?と考えてみたけど、やっぱり解消しない気がする。
やることが無いというか、やる気が無い。
やりたい事は色々ある。アプリを作りたい、絵を上達させたい、掃除もしないと。
けど何故か着手できない。面倒だ、億劫だという気持ちが先に来る。
だから仮に友達が居たとして、仮にどこかに行こうと誘ってくれたとしても、気分が乗らないと断ってしまうような気がする。
うつ的なものではないと思う。気分は落ち込んで無くて、マンガを見たりテレビを見たりすれば楽しく感じる。
正直、寝転がっていたい。テレビか動画みてぼーっとしていたい。でもそれだとヒマに感じる。
モチベーションとやらの問題?
スポーツというのはデリケートなものであり、下記のような二面を持っていると考えている。(※これはスポーツだけではないとも思う)
私は、下記の両面を行動に組み合わせたものに、成果が出ると考えている。
①Numberを見ていて、この1000本ノックがもたらす、ゾーンの世界というのを
見た覚えがある。フラフラになるまで練習を繰り返す、あるいは、清水宏保の
ように恐ろしい練習で、ブラックアウトするまで自分を追い込み、ゾーンの世界を
体験して返ってくるという練習をして、高めていた。
しかし、それは大会前までに終わっていることではないのだろうか。それ以降は調整状態なのだから、
リラックスして、楽しんで、それで①の状態をx1.2ぐらいにできればよいぐらいのものではないのか?
「中田英寿はアトランタオリンピックで耳が一人だけ柔らかかった=緊張したりものおじしていなかった」という状態。
國母氏が、反省してまーすで、物議をかもした。
礼儀がなっていない。彼を見て、不快だから、条件反射的に叩いている人いますけども。。
私には、当時から、とても、アホでrudeだから、馬鹿にしているというより、ただ注目を集める場で、
彼なりの不満(オリンピックのみに注目するメディア、X-game見に来いよ)の怒りを露出させたのでは。
あるいは彼なりの普通のリラックスしたパフォーマンス。メディアバカだし。
そもそも、スポーツ(特にセンスを要するような競技)において、功績を挙げている選手がスゲーアホで、
頭脳がダメっていう発想がよくわからない。純粋まっすぐな一直線の努力が身を結ぶケースってこの時代に大分絶滅している気がする。
国威掲揚と捉えている人って多分大会前に努力が終わっている事を知らない気がする。
俺もないっす。だから学びたい。
生きてりゃ、〆どころと、羽目外すところって、そもそも気づきません?
ある所まで、ストレスがんがん掛けてそれを続ける事が、効果生みます?
その出せなかった悔しさをバネに頭脳的に頑張るといった、心構え実は無いのではない
だろうか?
オリンピックはマイルストン、それはアスリートにとって大事なマイルストン、
でも彼らはその日常を多大な努力を払って、世界レベルに到達している。
マイルストンまでの調整、そこでのリラックス、これは我々はむしろ見習うべきことであるし、
我々は彼らの努力や、身を結ばなかった場合の失敗に関して学ぶことはあっても、税金だしているんだ、メダル取れねーってどいうことだっていう前に、沢山あなたの
女が男性と能力的に同じになったと勘違いして、男女平等などと権利を主張し始めたが、
結局、ガソリン、電気、ITの時代になっても、男性の優位性は相変わらず変わっていない。
なぜなら、力だけでなく、頭脳でも男性の方が優れていたからである。
マスコミが幾ら持ち上げようが、この先も女の時代は決して来ない。
自動車・飛行機・ロケット・船・鉄道・オートバイ・コンピュータ・複写機・カメラ・テレビ・ラジオ・映写機・冷蔵庫・洗濯機・レントゲン
無線機・三権分立・免疫療法・ワクチン療法・憲法・法の支配・株式会社・先物市場・金融システム・レーザー技術・赤外線技術・光ファイバー
燃料電池・石油精製技術・アルミ精錬技術・化学繊維・人工衛星・羅針盤・ロボット・トランジスター・IC電話機・顕微鏡・望遠鏡・印刷機・拡声器
レコード・CD・DVD・時計・発電システム・送電システム・信号システム・通信システム・複式簿記・リニアモーター・ホーバクラフト・MRI・CTスキャン・超音波診断装置
etc...
たとえば、壁一面の液晶とかが実現したら、美術館に行かなくても世界の名画を実寸で鑑賞できるよね。
やっぱり本物は違うといわれても、外出するくらいだったら偽物で我慢しちゃうって人も多いと思う。
音楽なんて、町にCDを買いにいく文化なんてもう長くないと思う。
CDを買いにいく文化が消えて、自宅でダウンロードになることなんて、生演奏がレコードに取って代わられたことに比べれば些細な変化だもんな。
デリバリーヘルスっていってな、オナニーしたけりゃカタログから女性選んで届けてくれるサービスまであるんだぜ。
機械が仕事を奪い、パソコンが仕事を奪い、能力がない女はデリヘル嬢以外の仕事がなくなる。
セックス価格が1回1時間5000円くらいになれば、恋人より風俗という男も増えていくと思う。
あと100年もしないうちに、人々は、個室にこもって生きるようになると思う。
『エンダーのゲーム』の新訳を読もうと思う。十数年ぶりの再読だ。映画は観ていない。
この昼、原作未読のまま映画を観た友人と話した。ご多聞に漏れず評価はいまひとつだった。そんな彼に向かい、奥深さが足りないのはきょうだいの活躍がないせいだろうと言ったら、妙な顔をされた。
——あのとき、あれは『エヴァ』じゃなくて『フルメタル・ジャケット』なんだよと付け加えていたら、同映画好きの彼からは理解の意志さえ望めなかったかもしれない。
ゲームというのは運命の比喩だ。ゲームには規則(ルール)があり、そこには目に見えない支配者(ルーラー)がいる。『エンダーのゲーム』とは、エンダー=終わらせるものを名乗る少年が、誰かのルールで動かされた人生の終わりを求めて闘うという意味だ。
では何と? 憎き兄か、いじめっ子か、昆虫のごとき侵略者か、それとも戦争を強要するおとなたちか。——どれでもない。そんな単純な図式はこの世界にない。
ルールだけが意味をもつ世界に、命を与えられた子どもたち。生きるために従い、人であるために抗う。本当の敵が誰なのか、だれも教えてはくれない。どこまでも歪な世界に、しかし私たちは強烈なリアルを見つけ出す。
しかしそれを描き切るには、どうしてもきょうだい二人の活躍が必要だ。
そもそもエンダーはその生まれから、天才でないかぎり存在を許されぬ命だった。
先に生まれた二人の天才児。それに続くことを期待され誕生を許された特別な三人目(サード)。それがエンダーこと、アンドルー・ウィッギン少年だ。社会の規範はそれを望んでいなかった。両親もまた同じ。だからエンダーは徴用に応じた。戦争を終わらせるもの=エンダーとしての宿命を受け入れた。ほかの選択肢がなかったからだ。
そのきょうだい、ピーターとヴァレンタインは、常にその先行する分身としてエンダーの将来を写し出す。
兄・ピーターはエンダーの鏡像であり、エンダーが認めたくない自己像の投影である(ただし事実においてピーターはエンダーが思う類いの〝人殺し〟ではない)。
その野心が選んだ道は言論による人類の思想的支配だった。そうして自らの生を規定(ルール)したピーターはヴァレンタインを同志に引きこみ、一直線に権力の頂点である『覇王(ヘゲモン)』への階段を昇りきる。
十二歳のピーターも、また十歳のヴァレンタインも、電脳世界ではおとなと同じ。彼らはそれを最大限に活用する。『ピーターのゲーム』では、勝利することとおとなになることがイコールだ。だから彼は生きることにぶれがない。
けれどエンダーはちがう。おとなたちの期待は彼の意に反する行動を強いる。しかし彼が守ろうとしているのは道徳という、人として正しいあり方だ。
だからエンダーは悩み、もがき、ときに逃げもする。だが皮肉なことに、才気あふれる兄と姉による状況認識と優性の証明が、エンダーを戦争の英雄に縛りつける。
その姉・ヴァレンタインは慈愛の両腕と明晰な頭脳を持つエンダーの庇護者であり、最愛のひとだ。その両義性はやはりエンダーと相似する。エンダーが知らないことに、ヴァレンタインのなかにもピーターはいる——彼女もまたペンによって自らの有能を試すゲームに挑んでいるのだ。〝愛情深い〟姉に向けたエンダーの過剰な崇敬は、つまるところ自己愛への飢えに過ぎない。ヴァレンタインがエンダーの善良さに寄せる信頼も同じ。四年を経て面会する日まで、ふたりは驚くほど互いを知らない。
エンダーとヴァレンタインを通じて描かれるのは「人はいかにして殺戮者となるのか」ということだ。エンダーが戦争の術を学ぶのは侵略者からヴァレンタインを守るため。しかしヴァレンタインからの手紙によって彼女がおとなたちの側にまわったと認めたエンダーは、彼らを打ち倒すゲームに没頭しはじめる。やがてエンダーは彼らのルール破りに失望し、彼らのもとを離れる。彼女にふたたび声がかかるのはそのときだ。
ピーターとの言論活動によって政治的な人格を獲得していたヴァレンタインは迷わず務めを果たす。彼女もまたウィッギンなのだ。だが戦場に戻るエンダーのうちに『カサブランカ』のような義心はない。あるのはただ、生かすために殺すという戦争の矛盾そのものだ。勝利の丘に荒ぶ風は、きっと冷たい。そう確信するから、その先の戦いはどこか空疎に映る。
この凄惨な物語の結末は、赦しだ。自らの手で滅亡させた異星人たちの遺産から、やっとはじまるアンドルー・ウィッギンの物語。それは茨と十字架の生だ。偉人のままいることもできた。けれど彼は今度こそ選んだのだ。
Google先生が「アクセサリー25%OFFで売るよ」っていうから公式サイト( https://play.google.com/store/devices/collection/promotion_50000e9_25off_promo )覗いてみた。
Nexus5のケースが3,000円……とな?
Amazonにも2,000円前後のスマホケースたくさんある。
私が使ってるケースは送料込で500円ですよ。
エンジニアの頭脳と、中国人の血と汗の結晶を損なわぬよう、透明で目立たないケースを使ってます。
メーカーが必死に小型・軽量化した端末を、ゴテゴテとした大仰なケースに収めるのなんてもってのほかです。
本当はケースなしで使いたいんですけどね。
東京大学にすら合格できない低能や、年収1千万円にすら満たない貧乏人は、畢竟、存在に価値も本質も宿らないので全員死ぬべきである。そのどちらか一つでも満たしていれば、或いはまだ存続する価値くらいは残ろうというもの。しかし、そのどちらも無いものは論外である。どうせ何やっても本質の宿らない偽物としての錯覚の人生しか宿命付けられていないのに、その実情を自覚して死にたくなったりはしないのだろうか?まあ、偽物とは総じて自分が一端の能力者であるとか、価値があるとか、本物であると無条件に盲信してるんだがな。何か調べたい事があって徐にインターネットを閲覧すると、生きてる価値のない中身の無い人間、濃密な思考領域へのアクセスなどといった知的経験の浅い低劣極まりない頭脳の持ち主が、それでも一端に何者かを気取って、どこから、何を基盤に生じてるのかさえ不明なプライドを掲げながら何かしら図々しく意見したり低俗な情報を発信しているが、畢竟何をやっても全く無駄なのであるから、微生物なりの努力や人生観、無意味なプライドなど破棄してさっさと死ねばいいのだ。
そもそも、俺は代々エリートの家系の出身ではなく、極普通の一般家庭の子供達と等しく、生まれた時から周辺の人間全てが低劣で生きる価値の無い低知能や社会的弱者共しかいなかった為、後年は自発的に東京大学や社会の上層階級、業界トップクラスの一流機関などといった一部の限定されたコミュニティのみを自身にとっての「楽園」として見做し、その楽園に自身を所属させる事でしか精神衛生や心的平静というものを保てないのである。何故ならば、そこでなら存分に能力を発揮し、社会的報酬も大きいという利点も勿論あるが、それ以前に、そのコミュニティに集う人間達の質の水準が高いからである。無論、一流機関であれば偽物の人間や、価値の無い人間というものは淘汰されていく。コミュニティへの加入条件が限定されればされる程に、無駄な人間などは淘汰され、組織やコミュニティとしての質が洗練されていく。自分はそんなエリート集団の中に身を置くことが好きであり、それにより安心を手にする事ができるのだ。しかし、一般社会などはどうだ?無差別に人間共を寄せ集めただけの混沌とした集合はどうだ?頭の悪い人間はそれをやれ“多人種交流”だとか“価値観の相互理解”などという言葉で誤魔化し、それらを推奨するほど健全とする風潮が蔓延っているが、それは金魚を大海に、鮫を河原に放流するが如き愚行である。
東大生というものは、千人に一人程度の割合でしか生じないものである。ならば、私は最低でも99.9%の現世人類の存在価値を否定しなければならない。私が存在価値を認めていいのは0.1%に該当する人類であるが、それは存在価値を認めたというだけに過ぎず、優れているだとか注目に値すると評価しうるのは、更にその中でも1%に該当する程度だろう。つまり、全人口の0.1%に当たる現世人類はその存在価値を認めるが、私がある種の尊敬を示せるのは全人口の0.001%程度、即ち十万人に一人ということになる。それでも多いほうだ。何せ、この狭い島国だけでも約1300人は存在するという事実を示すのだから。しかし妥当な数字だろう。
これらを踏まえた上で解せない問題がある。問題は、0.1%にすら該当しない、千人中残りの999人の多数派に就いてである。彼らは、並ならぬ学習経験がある訳でもない、凡俗ごときには認知し得ない濃密な知的経験がある訳でもない。知的作業の膨大な繰り返し(修練)をしてきた訳でもない、何かを完璧に修めた訳でもない。真理に辿り着いた事など一度もある筈がない。或いは、何か事業を成功させ財産を築いた訳でもない、他者を掌握し勝利と成功を導いた訳でもない。詰まり、何も優れた性質は一切備えていない。何ら特筆すべき事もない有象無象の凡夫共。折角持って生まれた人生の膨大な時間とエネルギーを無為に浪費するような、生きる価値の無いクズ共である。紛う事なきクズ共や塵芥共である。そんなクズ共が、何をプライドなど強く張って一端に物事を主張しているのだろうか?こんなクズ共にさえ各々自尊心があり、自分は物事を正しく判断し主張する事ができると過信している事が理解不能であり、我慢ならない。故に、私は彼らを全て粉砕する。俗世を誰よりも嫌悪、憎悪しながらも、俗世の支配階級の身分に就き、彼ら塵芥共の儚い幻想を真理の鉄槌で以て粉砕する。「知識」と「金」という名の誤魔化しようもない圧倒的な鉄槌で以て、クズ共が抱く淡く儚い幻想を粉々に粉砕するのだ。
わたしがボードゲームを好む人を嫌う人を嫌いな理由
ボードゲーム自体は好き。完全情報、不完全情報問わずに、人と頭脳で対戦することは非常に楽しいと感じる人でもだ。
またその説明書がものによってはかなりいい加減だったりもする。
そしてデジタルゲームと違ってそれらがきちんと頭に入ってないとゲーム進行が止まったりする。
説明書のコピーだけ与えられて突き放されるのと、経験者がどのようなゲームか説明するのと、どちらのほうが安心感があるだろうか?
大多数が勝ち負けにこだわらない人だろう。
その人たちはゲームの雰囲気や駆け引きを重視している人だろう。
ゲーム内の事故に対して何か言い合うというのも決してつまらなくはない。
一人だけ逃げ遅れて「あいつ、無茶しやがって。」と言ったりとかね。
また、ボードゲームはそのほとんどが運ゲーの要素が高めである。
そして、これまた大多数が運の制御や把握(いかさまと言う意味ではなく確率の戦略的変動や確率を分析した上での状況判断)ができない。
ゆえに運ゲーだから必死になって勝ちを目指すのは・・・という思考に走りがちなのだろう。
私はガチよりなので一応勝ち負けにはこだわる。
ただ、極端なプレイング(特に3人以上の対戦において戦略の研究目的でもなく最初から勝ちを放棄し妨害のみに徹する)は許容できない。
PCゲームならAmazonやらSteamなどで何回かクリックすればほぼ確実に買える。
ボードゲームを遊ぶ人口は本を手に取る人口より少ないが、数万と言う数は決して多くはない。
賞は取れなかったが隠れた名作なようだから買ってみよう・・・と思っても、もうすでにお店に並んでいないことなどざらな世界なのだ。
そのような買う人を批判するのは遠まわしで無意味で無知な業界批判だろう。
おそらくそれは『駄作が比較的多い日本のボードゲーム同人界隈が嫌い』というべきなのに『自分で作るようになる人が嫌い』と勘違いしているのではなかろうか?
残念ながら日本製は商業・同人・オリジナル・コピー問わず、駄作が多いと思う。
(正しくは海外製の翻訳版は、翻訳担当が利益出ると踏んだというお墨付き&先述の買いまくる人が人柱になってくれたりもするため安心)
ノウハウが足りない、テストプレイが煮詰まっていなかった、製作者の誰かが○○○というカードを愛しすぎてしまった、とかいろいろ原因があると思われる。
(というか同人はゴロサークルまである、というか私自身がゴロサークルとは知らずに在籍していた事実がある)
で話は変わるが、たいていのゲーム(それがオリジナルのものであっても)はゲームバランスがあんまりだったりする。
ゆえにドラフトして運を丸くしようという試みが普通に行われる。
ローカルルール・調整が簡単に行えるところがボードゲームのいいところだと思う。
そういう面はゲームが悪いのであって人は悪くないので、批判しないでいただきたい。
「人に教えたい」「自分もなんでも知りたい」「所持したい」「自分も作りたい」
そういう『毎日毎日インターネットにかじりつく知識欲に駆られた人』を批判するだけの人
この増田を読んでる君みたいな『文は読むけど考えない』人が僕は嫌いだよ。
外に出なよ。