2014-03-14

京浜東北線に乗りながら考えたこと

 「あの人は○○だから、頭が良い」という言説は果たして成り立つのか。例えば、「あの人は東大卒から、頭が良い」というのは一般的にかなり思われている様だが、これはどこまで正しいのか。一般に、大学は入るのが難しく、卒業するときはそれほど難しくないという。(もちろん、入学に要する労力に比べてという話であって、卒業研究等、大変な困難を伴うのは当然である。)すると、「東大卒から頭が良い」という言説は正確でないように思われ、東大入学試験時(当日)に、東大入試相当の問題(国、数、英、理、社)を解ける知識を有していた、ということが少なくとも言える程度だと思う。けして、東大卒業したからといって未来永劫の頭脳を持ち続けるわけではない。仮に、年老いて東大の問題が解けたとしても、京大の問題は解けないかもしれない。(極端な話)

 ここで起こっていることは、一種の逆転である別に東大でも頭の悪い奴がいるとか、僻んでいるとか、そんな類の話がしたいわけではない。ラベルと中身の倒錯を問題にしたいのである

 科学が進展して、今まで分からなかった事が種々の法則で解析して説明できるようになってきた。でも時々、解析結果と実際の現象が一致しないことがある。法則が上手く現象を説明しない時、人は現象に問題があると考える。実験系が法則の様な理想的な条件にないのだと。本来は反対で、まず現象が先にあって、解析結果がそれに一致しないのは、我々の持っている法則が完全でないためである。そこで、法則特殊な結果を説明できる様、書き換えられ、さら普遍的理論(統一理論)へと近づいていく。それが科学分野において真のあるべき姿だと思う。

話を戻すと、「東大卒から、頭が良い」のではなく、「頭が良いから東大に入れた」のである。更に言えば、東大入試テストされる知性(頭の働き)を持っていたか東大に入れたのである。短い時間で幅広い分野の知識を試され、どれが落としてはいけない大問で、どれが捨てから見極める。応用よりは基本を押さえた問題設計集中力、判断力、記憶力に特化した知性を東大は求め、それに応えた人々が赤門をくぐっていく。それ以上でも以下でもないのではないのだろうか。

 社会に出ると東大は使えない。高学歴ほど仕事ができない。こういった言説は前述の倒錯に憑りつかれている。知性とは、もっと伸びやかでフレキシブルものであるアメーバの様にその形を変えながら、様々な知的能力に特化しているものである。それが人々に多様な個性を与えている。画一的試験で評価、定量化できるのは知性の一部に過ぎない。

 知性に対するラベリングという状況は大変残念だが、人間認識限界もあって致し方ないという向きもある。そこで、知性からささやかな「反撃」というのはどうだろう。つまり東大卒くらい頭が良くなるのではなく、あなた頭脳(知性)ならばどうすれば東大に受かるかを考えるのである東大入試で求められているもの集中力記憶力、判断力…。今あるポテンシャルを活かして、アメーバ触手をどう伸ばしていくか、それを考えてみる。「頭の悪い」あなたは、似たような作業で単純なミスばかりするのではない。あなたの知性がその作業を苦手としているので、「頭が悪い」というラベリングをされているだけであるあなたの知性を使って、次のミスをどう防ぐか、その時こそ知性が試されている。

 ラベリングされた通りの中身に変わるのではなく、中身が変わって、そこにラベリングがついてくる様にする。

 世界の見え方が少し変わってきた様な気がしませんか。

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