はてなキーワード: 連続ドラマとは
シーズン2がキャスト一部変更で牧が出ないことはまあ仕方がないなと思うし、だいぶ前から予想はしてた。2016年の単発からの流れを考えたら一番可能性高そうだったし、あれだけ劇場版で完結完結って言われてたし。できればキャスト総入れ替えが良かったなとは思ったけど。
でも、たとえキャスト変更が覆らなかったとしても、それを元からのファンが穏やかな気持ちで受け入れられるようにしてほしかった。
新シリーズが発表されてからの荒れっぷりは、公式のツイートについているリプライを見れば分かると思う。実際にはあの何倍もの人が伏せ字や鍵垢で怒ったり悲しんだり黙ってアカウントを消したりしている。
公式に対して怒っている人への批判とか、民度がどうこうみたいな話も見るけれど、この状況はなるべくしてなったと思う。「キャスト変更がなるべく受け入れられるようにシーズン2へ移行する」ことが目的だったと考えたら、おっさんずラブ公式は悪手を重ねすぎている。
まず、完結編と謳っていたにも関わらず、映画で春田と牧の物語がきれいに終わったとは言い難かった。劇場版のyahooレビューを役立ち度順に並べると低評価のものがずらっと並ぶし、絶賛していたファンでも「完結編として最高だった、ここまでやりきってくれたならこれ以上は不要」と思っている人は少数派だと思う。春田と牧の関係は始終ギスギスしていて、劇中で二人がぶつかる問題はほとんど解決しないまま放ったらかし、ラストシーンは離別エンド。映画をやらずに連続ドラマだけで終えていたほうがよほどきれいな完結だった。
それでも好意的なファンはまだまだ劇場に足を運び、考察を重ねて楽しんでいて、公式も毎日オフショットを投稿していて、まだまだ盛り上がりが続いている状態。そんな中で公式が続編の詳細を発表し、強引に打ち切るように公式アカウントをシーズン2に切り替えた。まだ劇場版の公開からたった1ヶ月しか経っていないのに、今日の夜には応援上映だってあるのに (私は元から行くつもりなかったけど、どんな状態になるのか想像するだけでこわい)。放送時期が半年遅かったら、せめて冬クールだったら、と何度思ったか分からない。
発表前日の夜からの流れは本当にひどかった。「2人の幸せがこれからもずっと続きますように🌸」という言葉とともに結婚指輪をつけた春田と牧の手の写真を投稿、その翌日の朝にはアイコンを変更しプロフィールを書き換えて新シーズンの詳細を写真つきで発表。この間、たったの6時間。私は深夜3時に早バレを踏んだのでその時点で泣きながら公式アカウントのスクリーンショットを撮って全アカウントで公式をブロックして回ったから発表後のダメージはそこまでくらわずに済んだけれど、結婚指輪ツイートを目にした時にはもう新アイコンだった人とか、大丈夫だったんだろうか。せめて一日空けていれば、だいぶ違っただろうになと思う。
という感じで、制作陣が作ったものと上層部が下した決定と公式アカウントによる宣伝戦略とが最悪に組み合わさった結果があの阿鼻叫喚だった。
逆になんでこれで燃えないと思ったの??????? と一日中思っていたけど、そうじゃなかったんだとさっきようやく気づいて、それでまたちょっと泣いた。
燃やさないつもりなんてきっと最初からなくて、元からいたファンがどんな気持ちでシーズン2の詳細を知ろうが、それでどれだけ悲しい思いをしようが、どうでも良かったんだろう。むしろ炎上商法を狙っていたのかもしれない、認知度は上がるしハードルは下がる、減ったフォロワーは新しい人気俳優の名前で取り戻せる。なるほどなと思った。
公式がコンテンツやそれを好きなファンを大事にしてくれるのは当たり前じゃないって、けもフレ2の騒動とかも知ってたけど、自分が当事者になるのは初めてだった。
テレ朝はもう一生信用しないし、新シーズンも他のテレビドラマも万が一好きになってしまったら怖いから観ないようにしようと思う。クソ重オタクが民放ドラマなんかを本気で好きになってしまったのが間違いだったんだ。
シーズン2がヒットするかはどうでもいいけれど、春田の中の人のことは好きだからせめてコケないといいな。2018年版の奇跡をありがとう。
連続ドラマが苦手
見るに耐えないとか嫌いとかじゃなくて
相棒みたいな、1話完結(だけど全体として設定とかストーリーは繋がってる)みたいなのだったら観れる
3話とか5話とかウッカリ途中からみ初めてやきもきしてしまうこともよくある、できることなら最終回放送されてから全部まとめて見たい
最終回直前の週末とかに「おさらい一気放送」みたいなのやってたら嬉しいけど、だいぶはしょられてるからちょっと複雑
というのもさっき「凪のお暇」の1話を見てしまった。結構面白かった。漫画買う?と思ったけど連載中なんだね……YouTubeとかNetflixに慣れすぎてしまった。子供のころは連ドラとか毎週楽しみにできてたし苦手じゃなかったんだけどな。
あなたの気持ちはすごくわかります。なぜなら私も数ヵ月前までその状態でしたので。
「所有したい」という気持ちに気付いても自己嫌悪になる必要はありません。それぐらい「好き」なのです。
結局のところ、辛いのは彼女とのことばかりを考え、後悔したり、自分を責めたりする時間が生活の大部分を占めてしまい、その気持ちへの解消する方法が無いからです。
「人の気持ちは変えられない」という真理のもとで考えると、その辛い時間を少しでも減らすこと。
私の場合はamazonプライムでひたすら海外の連続ドラマを制覇したり、お笑いの動画をずっと見て笑ってます。
数ヵ月続けてみたらちょっと楽になりました。お試しあれ。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
イヤッホー!
3週目にしてやっとヒロイン登場!って感じで
いつまで経っても出てこないから
本当にやっと出てきたって感じだわ!
もう本当に
前回のが終わってからのロス感がなんとも言えなかったけど
でもスピンオフのドラマもあるって言うからまたそれも楽しみだわ!
でもそれ地上波じゃ無いらしいのよね。
ガッカリだわ。
なんでもかんでもネットで済ませられちゃうと思ったら大間違いね。
もー!
うふふ。
おにぎり握ってきたのでそれ食べたわ。
ふりかけの素を切らしたので、
ひとつは塩むすびよ。
おにぎり握って作るだけの、はい!できましたって神回ばりには握れないけど
さすがね。
ぐびぐび!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
妊娠というスキャンダラスな、あるいは幸福なシーンはやりたいが、しかし赤ちゃんが生まれてきてしまったら、既存のキャラやその赤ちゃんキャラを動かすのが面倒だったり、今の人間関係が変わってしまう、あるいは妊娠したのが主人公サイドだった場合に、主人公たちの自由な行動が制限されプロットが制限されるなどのリスクがあるので、その赤ちゃんは流産させるという脚本が一定数ある。アメリカの連続ドラマなどでは、特に堕胎が宗教的タブーゆえに、赤ちゃんを脚本から退場させるにあたり、流産という「穏当」な手段が取られるといった事情もあるようだ。
私には妊娠出産の経験はないし、母性や父性があるわけでもないが、脚本の都合で安易に流産させるといった描写にもやっとする。それを言うなら謎解きのために人を殺すミステリなんてどうなるんだよって感じだけど、なぜかもやっとする。
随分前だけど、
華麗なる変貌ぶりにだれも寺ギンさんを恨まず、
綺麗に去らせるなぁと感心するばかり。
そういえば、
ほんと一瞬の出来事のようで、
今後また別の形で登場するのかしらね?
早々に戦線離脱した、
おてんちゃんのライバルだった楓さんも
まさかの藤吉の死!
え、死んじゃうのってビックリよ!
おてんちゃんと二人三脚でほのぼのやってくのかなぁと思ってたわ。
何度か入退院を繰り返してた藤吉だったけど、
亡くなってしまって、
めでたいはめでたいわ。
高橋一生君は死んでも生き返ったのに、
藤吉はやっぱり生き返りそうにもないわ。
それがここのろこりね。
これからも見逃せないわっ!
と言いつつも
誰も周りでなんか朝ドラ見てる人の話を聞かなくて
本当にこれ誰が見てるのかしらとも思っちゃうわ。
うふふ。
お湯の名前に色が付くのは白と緑よ!
他にもあるかな?
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いや知らなかったわ!
今まで食い口(くいぐち)を減らすって思ってたんだけど、
実際正しいのは食い扶持(くいぶち)なのね。
初めて知ったわ!
6週目?
嫁行くバトルが繰り広げられるかと思ったけど、
なんかシンデレラ的な話が
ずっと続くのかなぁ思ったらそうじゃないみたいね。
土地も北村屋の店を担保に入れて見事借金まみれのどん底ストーリー!
いつでも私の所に来て下さいって、
おてんちゃんを誘惑するもんだから
今後の展開が楽しみだわ。
オラわくわくすっぞ!
うふふ。
思ったんだけど、
ある程度まとめて量産した方が効率よくない?みたいな。
たまに、コンビニで見たら買うんだけど、
ついに出荷再開で嬉しいわっ!
よく見たら採水地で見て飲んだりして雰囲気を味わうのもいいわね。
味くらべ違いは分からないけど、
きっと。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
占い師を買収してたりしてる。
まさに不思議の国のアリス的な
そんな第二週目までのダイジェスト!
ところでさ、
たしか、
白味噌買ったのに、
華麗なまでの、
鴨がネギ背負ってくる、
いや、これイタリアだと
鴨がオレンジ持ってくるって言う具合らしいの。
案の定、
味噌って見掛けは変わっても
頭脳は明晰!
まるでコナン君のよう。
話を戻すんだけど、
すっかり赤味噌になっても
見事なまでに
器をひっくり返して眺める
結局はお味噌汁は
美味しかったと言うだけの話。
ご飯があればもっと最高よね。
うふふ。
朝はしっかり食べたいところね。
もぐもぐ。
今朝なんかもう吐く息が白いというか
そのくらい寒かったので、
窓を開けてすぐに締めてしまったわ。
朝の水分補給よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
朝ドラに峯田が出ている。峯田とは峯田和伸さんのことで、彼はGOING STEADYまたは銀杏BOYZのボーカルとして知られている。現在は俳優としても活躍し、その活動の幅を広げている。
今期のNHK朝の連続ドラマ小説「ひよっこ」で、峯田和伸さんは、消息不明になった父親を追い上京する有村架純さん演じるみね子のおじ、宗男役で出演している。宗男は茨城の片田舎でマッシュルームヘアーでバイクに乗り、ロックンロールをこよなく愛する農家のおじさんで、いつも人を笑わせている。
だがその笑顔の裏には戦争の影が……というキャラクターで、先々週、宗男が上京し過去がつまびらかになるビートルズ来日編が終わった。わたしはその録画を昨日見終わって、すごくよかったなと思ったので妹にLINEをした。感想を打ち込んでいるうちにわたしは昂ぶってしまい、真っ当な感想からは外れた見当違いな見方をしていることに気づき、はっと我に帰った。
***
時は2005年、中学1年生として迎えた冬に銀杏BOYZのアルバム「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」が同時発売された。
北海道新聞日曜版のCDアルバム売れ筋ランキングの4位と5位にランクインしていて、聞きなれないアーティスト名に、なんだろう?と思った。BOYSではないのか?
それからすぐラジオで「青春時代」が流れだして、彼らが小学生のときに一回だけ聴いたことのあるGOING STEADYであることを知った。お小遣いで急いで「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」のほうを買って聴き込み、いたく傾倒し、「DOOR」もそれからちょっとして買った。
当時のわたしは、Mステに出ないようなバンドをラジオで聴いてCDを買うことがカッコイイと思っていた。お恥ずかしい話、今もその気持ちはあまり抜けていない。当時全盛だったMDプレイヤーを持っていなかったわたしは、ラジオとカセットテープのプレイヤーが一緒になったかさばるガジェットを常に持ち歩いていて、銀杏BOYZをいつも聴いていた。
中学生だったということで免じて許してほしいが、当時のわたしにはセックスなどとはいった歌詞が衝撃的だった。というか性とか焦燥感とかみじめな気持ちを歌にして世に出していいとは知らなかった。だから峯田和伸さん、もとい峯田は本当のことを歌っているなという気がして、信じられると思って好きだった。
友達にもたくさん貸したし、カラオケでも歌った。もしタイムマシンがあったら、おいおい、やめてAKBとかにしておけ!と言いに行きたいが、当時のわたしは今よりもなお浅はかだったので、カラオケで皆の前で銀杏BOYZを歌い、セックスなどと口にし、ぐにゃりと曲がったような気まずい空気になるのが好きだった。
***
「カラオケで銀杏BOYZとか歌うの正直やめてほしいんだよね」
と言われた。友人にとっての色々な思い出が詰まったバンドなので、目の前で歌われると複雑な気持ちになると言う。
その時は正直
「は?」
と思った。だが今のわたしもまた、自分よりかわいい女の子の口から「銀杏BOYZ」という言葉が出るとムカつくのだった。
肌がきれいだったり目が大きかったり彼氏がいたり毎日充実していそうな自分より幸せそうな女の子が、ひとたびでも峯田と言おうものなら腹がたつ。お前に峯田の何がわかるんじゃい!なんぼのもんじゃい!と思う。何人たりともわたしのまえで銀杏BOYZの話、および峯田の話をしないでほしい。ライブに行った画像をインスタに上げないでほしい。わたしの知る限り峯田のことを一番身近に思っているのはわたしでありたい。そんな自分勝手な思いが溢れて止まらなくなる。
自分でもおかしな考えだということがわかっているので、皆さまにはどうぞ好き勝手に銀杏BOYZの話をしていただき、ライブに行っていただき、インスタに画像を上げていただき、朝ドラを見て峯田って人いい演技するな〜!などと思っていただきたいのだが、心の奥底で、やめろ〜〜〜と叫びたがっている卑小な自分がいる。
***
そんな折、先々月の銀杏BOYZのライブ「東京のロック好きの集まり」に行った。これだけ勝手なことを言っておいて恐縮だが、実は初めてだった。戦争反対ツアーは実家の近所のペニーレーン24に来ていたはずだと手元にあるフライヤーにはあるが、当時はまだ室蘭に住んでいた頃だったので行けなかった。それからも本当はちょくちょく札幌に来ていたのかもしれないが行っていない。全裸になり書類送検されたことをヤフーニュースで知ったり気がついたらメンバーが峯田以外全員変わっていたりしたがよく知らない。
わたしのなかでだんだん銀杏BOYZはあまり触れちゃいけない過去へと変わっていて、ライブも気軽に行ける感じではなかったのだ。
でももういい加減成人したし、処女でもないし、峯田は朝ドラに出ているし、いくばくかの郷愁とともに軽い気持ちでライブを楽しむことができると信じていた。
***
峯田が出てきて初めて生で峯田を見た途端に涙がボロボロ出てきて止まらなかった。ステージには本物の峯田がいて、すぐにモッシュとダイブがはじまって峯田の靴がどこかへ飛んで行き、演奏が止まりやり直しになった。そしてまたモッシュ。対バンのnever young beachがさっきまで作り出していた平和な西海岸か熱海の浜辺のような景色はいずこへ?「ネバヤン初めて聴いたけどいいね〜」などと言って、からだを揺らしていたギャルは?そんな疑問が解消されるはずもなかった。
峯田は10年以上前に作った曲を、目をかっぴらいて歌っていた。あっという間に大合唱になる。わたしも全部歌えてしまい、そのことをきっかけにまた涙した。峯田〜〜〜!!!と泣きながら叫ぶ人があちらこちらにいた。四肢がちぎれそうなほど暴れる人がいた。嗚咽しすぎて座り込んでしまう女の人がいた。さながらカルト教団の様相であった。だがわたしもまた、全身の水分が出きってしまうのではないかというくらい涙が出てきてしまい、ボロボロボロボロ泣いていた。
峯田が目の前で10年以上前に何度も何度もカセットテープが伸びきってしまうくらい聴いた曲を歌っている。それだけで絶望的なほど悲しかった。恥ずかしい話だが、わたしはその時、中学生の時に部活で無視されていたことをありありと思い出していた。クラスにも同じ部活の人がいたので無視がそのまま派生して、教室でも居場所がなくなって昼休みはずっと本を読んでいた。アンブシュア(口の位置であること)を変えようとして失敗して全然トランペットを吹けなかったこととか、天然パーマなので髪型が本当にきまらなくてどうしようもなかったこととか、人に話すまでもないみじめな思い出とその時の感情がありありと思い起こされ悲しかった。もう少し上手くやれただろう、という気持ちと、でも今も上手くやれないしな、という諦めの気持ちが10年前と今を強く結びつけた。その中心に峯田がいた。
***
思うにわたしは、つらかった時に銀杏BOYZを聴きすぎていたのだろう。どれもありふれた大したことないつらさなのだが、そのせいで感情と峯田がほつれてからまり、ひき離せなくなっていた。わたしのつらい気持ち、悲しい気持ち、自分のことが嫌で消えてしまいたい気持ちが擬人化したものが、峯田その人だと認識してしまっているようだった。
峯田は、本当にしんどい時に自分もまたそうだと言って肩をさすっていてくれていた親友であり、同じようにみじめな姿をさらけ出してくれたキリストであった。少なくともわたしはそのように認識していた。勝手に。そしてライブ会場で嗚咽が止まらなくなっていたり、暴れていたり、自己のコントロールが効かなくなっている人たちもまたそうなのだなと思った。
峯田、もとい峯田和伸さんは、本当は自分のやりたい音楽は、代官山のシャレオツなカフェで静かにギターの弾き語りをするようなものだと言っていた。だが、求める人がいる限り求められる音楽をするとも言っていた。それが本気かどうかはわからない。だが最近の曲をやってもウケはイマイチで、対して10年ほど前の曲をやると客は熱狂していた。
客は皆、峯田を前にして自己憐憫におちいっていたのだと思う。つらかったとき、苦しかったとき、悲しかったとき、さみしかったときに銀杏BOYZの曲を聴いて、勝手に癒され勝手に肯定された気持ちを手放したくないのだ。
もし峯田が出てこないで、ステージには代わりに峯田の3Dのホログラムが投影され、バックでCDをかけられていても、皆変わらずギャンギャン泣いたと思う。皆、過去に囚われていた。皆にとっての峯田はつらかった過去そのものであり、みじめで変えようがない過去の自分そのものでもあった。
だから皆、銀杏BOYZを好きな他者を認めることができない。その当時の自分をどうにかしてくれなかった人間に「銀杏BOYZいいよね」とか言われてもムカつくのだ。お前に何がわかる、と思うのだ。峯田は限りなく私的で個人的な存在だった。
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そんな峯田が朝ドラである。天下の日本放送協会だ。自分の苦酸っぱい異臭を放つような過去が、大きな顔して朝ドラである。初めて知った時、もう、まともな気持ちではいられなかった。
でも「峯田」とわたしが名づけていた人格はこの世には本当は存在しなくて、この世には峯田和伸さんしかいなかった。峯田和伸さんは、最近は映画に舞台に引っ張りだこだったので、ちゃんと素晴らしい演技ができるのだった。わたしが過去に囚われている間に、峯田和伸さんは大活躍していたのだった。というか銀杏BOYZの時点で既に大成功していたのだった。
そして今や母親や妹を含む日本中の人が峯田和伸さんをテレビで見ている。今では自然なことに思えるけれども中学生のわたしに伝えたらびっくりすると思う。裏切られたと思うかもしれない。でももしかしたら、誇らしく思うかもしれない。なんとなく、そうであってほしいなと思う。昔の自分には、ホッとしてもらいたいなと思う。
宗男はイギリス兵に助けられた命を大切に生きていて、その象徴がビートルズだと言う。ドラマを見ていると宗男は峯田そのものにしか思えない。あくまでも峯田和伸さんではなく、峯田である。
わたしが勝手に作ってしまっていた峯田というパーソナリティが、お茶の間をにぎやかし人々に受け入れられていった(ように見えた)ことは、わたしを救った。峯田和伸さんその人とはかけ離れているかもしれないが、わたしが勝手に作り上げ支えてくれたわたしのなかの峯田が、まるで時空を超え戦争すら経験しどこか浮世離れした人間となり、最後に全てを包み込むように、「だから笑って生きることに決めたんだよ」と言ったことはある種のセラピーだった。
「だから笑って生きることに決めたんだよ」の言い方はあまりにも芝居がかっていて、プロの俳優さんだったら絶対にこんな言い方はしないだろうと思ったが、とても優しく耳に響いた。わたしはこのシーンの録画を消していない。また何回も聴くと思う。それこそテープがすりきれるまで。
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そんなこんなで銀杏BOYZの武道館公演のチケットも当選しました。またボロボロ泣いてしまいそうなので誰と行くかはまだ決めていません。楽しみです。
最近たまたまみたNHK連続ドラマ「ひよっ子」の総集編を見てからというものの、
週末に観るのが楽しみになっている。
このドラマ、油断してるとふとした瞬間にココロのスキマに攻撃してくるのである。
自分が特別なんじゃないかと思いこんで、東京にこれば他者が自分を認めてくれるとか
そういう時子の気持ちもよく分かるし、
本当は仕事しないといけなかったり、または先輩や上司が辛い時に自分だけ遊びに行く予定があって
後ろめたいような、みね子の気持ちもわかるし、
なんなら久しぶりに親に電話でもしなきゃなぁという気持ちにもなる。
(このドラマが本当の昭和を描いているなら)2017年も本質は昔と変わらない気がした。
自分も自分がなにか特別なんじゃないかと勘違いしたまま、今日も社会の歯車として
ああああああーーーーー
つらいーーーーー
ハッシュが死んだよーーーーー
何で死なないといけなかったかなーーーー血が足りねえ?
あっそうーーーーーー!!そうですか!!!!!
私何で見てるのかな鉄血のオルフェンズ。
もう次最終回だよ!
足掛け2年つきあったからさ~~~、言わせてくれる??
49話の話からね。
ガエリオは生きててよかった…えっ生きてるよね?
アインも生きてる(広義)よね?
正直こっちの脳がシャットダウン気味だったからよくわからんけど…。
ガエリオが「俺を見ろ!」つってたね。
いいシーンだった。
これが2期の前半ならね!!!
こっちはさあ、1期と2期の間
マクギリス、革命の英雄でもなけりゃサイコパスでもないんだよね~~
1期が終わった後、
「マッキーが何を思ってああしたか、納得いく説明なんかしてもらえるの?」
って話してたんだけど、
怒りの中で生きてきたのはわかるけど
そこで私のマクギリスが死んでしまった。
ガエリオは必死にマクギリスに対峙してくれたけど、そのマッキー、死んでっから。
そんな等価交換じゃないもののために、一度助かった命を懸けなくていいよ。
なので生きてて欲しい。
マクギリスの間抜けさ、何のためなの??
そんな人と手を結んだばっかりに鉄華団(主人公サイド)は死にますーーーってなるの、お話として面白い!??
結局マクギリスの軸さえブレてなきゃ、そんなに荒唐無稽な話にはならなかったと思うんだよね。
ずっとブレてないのかもしれないけど、それならそれで
って問い詰めたい。
もう一つしんどいのが、女と大人の立ち位置…まあ主に女かな…。
1期の時はクーデリアもアトラも、
俺だーーーー結婚してくれーー!って気持ちにさせられてたのに、2期の二人は何なの。
別にアトラが三日月とクーデリアと家族になりたいというのはいい。
子どもがいれば三日月を引きとめておけるかも…ってアトラが思うならそれはそれで仕方ない。
それなら、
「子どもがいても三日月は遠くにいってしまうかもしれない、自分は間違えていたかもしれない」
ってアトラに思わせてあげろよ。
だって三日月の子作り後の行動のどこに安心が得られる要素があるのか。
(クーデリアに後を託したところを聞いていないのをさっぴいてもだ)
クーデリアも…もうクーデリアを1期のような形でジョーカーにできないのはわかる。
ただでさえ天丼なのに、クーデリアの演説一発で解決しちゃいけない。
でも、クーデリアは1期で成長したじゃん…全然違うアプローチから何とか活躍させてあげられなかったのか……。
戦後処理で頑張ってくれるんだろうけど、あまりに…1期でお役御免感が強くて馴染めなかった。
雪之丞とそういう仲になるのはいい。嫌いじゃない。
でも彼女が1期で「このままじゃいけない…」って言ってたのを、
2期で「腹を括った」って思考停止させるのは何なんだろう。
何か結論を出すなら我々を納得させるイベントが必要じゃないのかな。
エドモントンの闘いで充分だった、っていうこと?
じゃあ、机上の空論よりも現在血を流している子たちの中で支えて行こう、って決意するシーンが欲しかった。
1カットでいいんだよ。
言いたいことはまだまだあるけどさーーー
多分最終回後だと、見たことを記憶から消したくなるんじゃないかな。
それが怖くて今書いてる。
個々の人間関係はすごく丁寧に描いてるけどさ。
めちゃくちゃ丁寧に。匠かよ。
そりゃ良かったよ。
人が死ぬのは仕方ない。
ガンダムだしな。
の繰り返しで話を引っ張るの、あまりにも知恵が無さすぎない?
そりゃあエモーショナルなドラマをされたら感情は動かされるけどさー
縦軸がぐにゃぐにゃ過ぎない?
我々をどこに連れて行きたいのかわからないし、目の前虚無だし
何がしたいんだい。
「足掻いても変えることができない現実もある」、そういうリアルを描きたいのかな。
こちとら現実で嫌というほど味わってるよ。
「彼らが世の中を変えたりはしない」って最初の頃から監督のエクスキューズらしいけど、
こうして2015年から2017年まで画面の中で彼らが生きて来て、
世の中は変えられなくても、彼らは何か得るんじゃないかって思いたいじゃん。
アトラの子が~次の世代が~~~~とか言ってんじゃねえぞ!!!
三日月やオルガやユージンやシノや昭弘やダンテやチャドが報われてえって話なんだよ!!!!
最終回でこっちも、あー最後まで見て良かったなーって言いたかったけどさ。
そう思ってここまで来たけど
何もねえよ。
ある気しないよ。
どうすりゃ良かったのか教えてあげてよ。
話作った人に。
ちなみにババアはさ、Z、ZZ、Vガン、Gガンとリアタイしてっけど
何をどうすりゃいいのかわかんねえよ。
話聞いてくれてありがとな。
【追記】2017.03.29
足掛けなら3年だね。
'15~'17だもんね。
ツイッターも見たよ。
testa_kitchenさんが貼ってくれてたリンク先のブログ…アグニカポイントの奴ね。
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/
とても参考になったよ。
「シュテッケンが足りない」には笑ったわw
やっぱバクシンガーENDなのかな。
ババアだからさ、経験上アニメーションの筋が誰か一人の意志だけで決定されるとは思ってない。
連続ドラマと一緒で、よほどの強権が無いとブレやすいもんなんだとは思ってる。
それでもしんどいもんはしんどいんじゃーーーーーーーーーーい!!!!!!
という情動に突き動かされて書いた。
アトラとクーデリアとメリビットの話を優先したのは、他の人が書かなさそうだから。
オルガに言及しろよじゃねーーよ!!!お前が言及するんだよ!!!!!
お前のオルガへのありったけの想いを、お前が書くんだよ!!!!!
そういう趣味が無ければ増田に書いてババアに読ませてくれよ!!!!!
最後になりましたが、「暖簾にダインスレイブ」評価して頂いてありがとうございました。
【2―1 邦画最大のアドバンテージ「TV宣伝」と、その将来性 】
前項のとおり、現在の国産映画が、クオリティで上回る輸入映画に対抗する方策としているのは、
製作に参入したTV局の番組露出を最大限利用した、企画・宣伝のスクラム展開である。
放送倫理面の問題は上述のとおりだが、それは別個の案件とし、以下はその将来性について分析する。
→出演俳優を公開前〜同時期に他の連続ドラマやCMに出演させ、人物の話題を維持する など
これらはTV局芸能界隈と連携することで得ていた国産映画のアドバンテージだが、TV離れが進むと、これらの効果は低下する。
特にTVドラマは視聴率低下が顕著で、それに伴い映画化の本数や興行は急速に縮小した。
【シネマ羅針盤】なぜ実写邦画は『シンデレラ』に勝てなかったか?
http://headlines.yah...8-00000006-cine-movi
>番宣とは「番組宣伝」の意味だが、最近は「映画の番宣」という言い方がされ、
>バラエティ番組などで「そう言えば、○○さん、映画が公開されるそうですね」というやりとりをよく見かけるはず。
ボクシングとか柔道みたいに勝敗を争っている感じが全くしない。
台本があるとか無いとか聞くが実際のところどうなのか知らない。
台本があるとしたら、誰がどんな技で勝つとかが決まってんのかな。
プロレスの技はお互いの合意がないと決まるはずがないと聞いたことがある。
ロープに投げられて、わざわざ技をかけられに戻ってきたり、
バックドロップをかけてもらいたくて、一緒に飛んだり、
ロープ上からのジャンプキックを受かるために、リング中央でわざわざ寝ていたりする。
あと、チャンピオンってなんなんだろう。
台本作る時点で入札みたいなのがあって、より安い値段をつけたレスラーが選ばれる?
いろんな技を出せたり、どんな技をかけられたりしてもダメージ喰らわなかったりすればなれるの?
それとも、こんなエキサイティングな台本作ったのすげーなー、こいつがチャンピオンになったってことは今度はあいつが怪我して、また別のアイツが引退するという流れかな・・・なんてところを見てるの?
連続ドラマを見ている感じ?