はてなキーワード: 社会科とは
テレビのチャンネルを変えていたら日本シリーズが映った。ぼーっと見ていたらふと小学校のテレビのことを思い出したのだ。
俺が小学生だった30年ほど前、日本シリーズはナイターではなくデーゲームがほとんどだった。その時期になると、担任は授業が終わって掃除の時間になるころ「途中経過だけ確認してみようか」とおもむろに教室のテレビをつけ、隣のクラスにバレないようみんな静かに見るのが常であった。野球の内容には興味なかった俺だけれど、そのテレビ観戦の雰囲気はちょっとだけ特別なものに感じていた。同級生と一緒に見るというのがやはり大きかったのだろう。
『さわやか3組』や『たんけんぼくのまち』も、夏休みに自宅で見てもやはり教室で見るときの楽しさとは違ったのだ。他の学校はどうだったのかは知らないが、同世代で同じ番組の話で盛り上がれるところを見ると、全国的に教室で教育テレビを見るのは普通の光景なのだと思ってきた。道徳や社会科の番組は見るのだろう、と。
ところが下の世代に話を聞くと、たとえば当時放送していたであろう『虹色定期便』のことを一切知らなかったりする。でも『わくわくさん』『ゴロリ』のことはよく知っている。小学校でテレビを見る規準がどこかで変わったのだろうか。というか、現在の小学校の教室にテレビはあるのだろうか?
夏に受けた冠模試が返ってきたんですよ。唯一得意な社会科は偏差値60台だった(ほめてーーー!!)が、他は...。偏差値20台とか初めて見た。
この、合格は絶望的な状況で努力し続けるのがかなりきつくて現実逃避してしまいます。国公立は他に行きたいところがないし、私立の志望校はこのままで行けば受かりそうなのでモチベーションが上がらない。
浪人するにも、今まで勉強しなかった奴が浪人して勉強するか?だし、センターも無くなるしでつらいです。そもそもこの時期から浪人しようかなという考え自体が、終わってるなあ自分と思います...
東大京大に受かる人は本当に凄く、私よりも頭のいい人は山ほどいることを(もちろん分かってはいましたが)実感できたのは良かったかもしれない...。
海なし県に生まれ育ったものだから逆に海へのあこがれが強い子供になった。小学生の頃は無人島にめっちゃ行きたくてサバイバルの本を読みあさったりした。結局行けてないけど。
だから他の県、海に面している県の人と仲良くなるたびに海の話や島の話を聞いてきたのだけど、意外にもみんな自分の県の島のことを全然知らないのだった。もちろん佐渡島や隠岐や伊豆大島みたいな有名どころについてならそれなりに話にはなる。でもそれ以外の島のこととなると何も知らないに近い。俺としてはその県の人しか知らないマイナーな島の話こそが聞きたかったのだが。
小学校社会科の地理で地元のことを勉強するじゃない。そのとき島についても扱うのだろうなと俺はずっと思ってきたのだけど、どうもそうではないようだ。じゃあ自分の県の島のことってどうやって知るというのだろう。海辺に生まれなければ島など身近に感じないのだろうか?
大学に通いはじめて間もないが、既に学歴コンプレックスを抱えつつある。
「でもこの選択は間違っていない」そう思いたい葛藤。自信ばかりが影に飲まれ、じわじわと引き裂かれる。
なのでどうかこの場をお借りして、自分のあれそれについて整理をさせてほしい。
どうせ拙文には違いないし吐き出したいだけなので、てきとうに読み飛ばしてくれて構わない。
◆
略歴。
小学生のときは勉強はそれなりにできた。宿題をやらなくて何度も怒られた。元素の図鑑を好んで読んでいた。誕生日にはリトマス紙をねだった。
ニコニコ動画ではよくゲームを作る動画を見ていた。キャラクタが単調な動きを見せたり、パラメータが上下したりするのにわくわくした。
父のテレビ台の下にPCソフト(真面目なものとアダルトゲームが半々)を紹介する雑誌があったのでこっそり読んでいた。
中学生のときも特に勉強に不自由しなかった、歴史以外は。理科や国語が得意だった。
やはりここでも宿題をしなかった。それで肩身が狭くなったのと、進級前に同級生を亡くしたことにより、2年の春~夏から無力感でうつになりかけた。
学校には週3で遅刻して行った。残りは欠席した。家にいる間は見つからないようにPCを触っていた。絵を描いたりSNSをしたりしていた。
何度か見つかって死ぬほど怒られた。
3年に上がるとだいぶ落ち着いた。学校にも再び行きはじめた。ブランクがあったがすぐに追いつけたし、平均点は(社会科以外)余裕で取れた。
受験期は社会科以外の勉強はほぼしなかった。市内で2番目の、偏差値もまあまあの普通科高校に進学した。1番の学校は遠いので行きたくなかった。
高校でもやはり課題をやらなかった。部活にのめりこんだのも相まって、2年頃には成績は地へと落ちた。
部活はPCをよく扱ったので、中学時代のひきこもり経験が武器となった。
進級するにつれメインの仕事は他に任せ、PCのメンテやカットイラストを担当していた。埃をかぶったwin2000が動いたときは感動した。
こうしてずっとPCを触っていた私だが、高3夏になるまで「その道に行こう」とは思わず、進路希望に適当書いて勉強もせず遊んでいた。
さて。
それまでずっと、「楽しい」を重視して生きてきた。送り仮名を取れば「楽」となる。
行きたい学部にようやっと「情報系」と書けるようになってから、初めて「勉強」という行為をした気がする。
とはいえ勉強の仕方はわからず、塾にも通わなかったため、非効率の生み出す精神的ストレスに耐えきれず打ち込めなかった。
いや…耐えきれずと表すのは語弊があるか、心を病んだ経験があったため苦しむのに恐れをなしていた。
おかげさまでセンター1カ月前まで成績は落ちたままだった。最下位にほど近いときもあった。何も思わなかった。
センターを前にすると途端に伸びたが、元の成績がクソなので結局のところ偏差40程度に落ち着いた。
大学は私立Fラン1校、自分の偏差よりちょっと上の私立を1校、行く気のない国公立1校を受けた。
偏差ちょい上のチャレンジ校になぜか通ったので国公立は記念受験した。落ちた。
略歴終了。
◆
で、だ。
当時の偏差値ちょっと上の大学に通ったとはいえ、Fランクのラインをギリギリ超えていないレベルの学校である。肩書きは誇りづらいものであった。
周りの友人は「君が楽しそうでよかった」って言ってくれたのもあり、ブランドなどまあどうでもいいやと思っていた。
それに大学の講義は楽しい。PCを思う存分使っても何も言われない、推奨される。
勉学という面では、今が幸せの頂点だろう。
しかしながら、やはり偏差などの数値というものは偏見を呼び、そこに属していると上位から舐められる。
勉強してこなかった自分としては満足いく結果だと思っていたが、どうやら世間様から見たらそうでもないらしい。当たり前だが。
仲良くしていた友人のひとりに「君の通う学校は偏差的にちょっと…」と言われたとき、初めて自分を疑った。
どこで間違えたのか。
ほんとに肩書きはどうでもよかったのか。
まあそれも当然だが。
◆
ううん、何も結論はない。
勿体ないことしたかもなあ、というだけ。
今からでも羽ばたけることを願っている。過去を変えられるわけではないのはわかっている。
中学校で理科教師(講師)をしていた。子どもは好きだし教える事も嫌いじゃない。教師は意義のある仕事だし頑張ってる先生も多い。
だけど、何が一番嫌だったかと言うと『公権力への忖度』なんだよな。おれの勤めてた学校では『社会科』『国語科』『音楽家』の先生が優秀だった。
あるとき1人の社会科の先生が業務効率化の提案をしたのだけど、管理職のせいで全く受け入れられなかった。
教頭も校長も『体育科』上がりのワンマンで、頭も悪くてクズ。教育委員会の人間も似たような感じだった。本当に保守的であれじゃあ何も変わらない。
そんなクズに忖度し続ける人生は嫌なので、教員採用試験を受験するのを辞めて、都内の外資系IT企業に転職した。
転職してから4年、今は教員の給料も遥かに超えているし、教員に比べて業務量も少ない。年収で言うと800万円くらい。
とはいえ金に困ってる訳でもないし、教育は意義のある仕事。たとえ給料が安かろうが「働いてもいい」という気持ちになる事もある。もともと教育が好きなのかもしれん。
だけど、それにしても講師の給料は安すぎだし(月収30万ちょいで頭打ち)、何より保守的な上に忖度を求められるから、気持ち悪くてやってられない。
あれじゃあ教師という仕事に魅力を感じている若者も、講師でさえもしなくなると思うよ。
学校は少子化にも関わらず教師不足で、その原因は体力的にも精神的にもキツイからだと思ってる。教員は「全ての業務がアナログ過ぎる」ので、業務量も非常に多い。
毎日の部活動、出血確認、配布物、行事などは効率化できる部分は多くある。
たとえば、部活動は外注すればいいし、出血確認はオンラインで自動で行う。配布物は全デジタルにすれば良いし、行事(運動会・体育祭)なども手軽にできる簡素なものにする。
精神的な部分はモンスターペアレンツに対しては、モンスターティーチャーになって対応。親に細かい事はギャアギャア言わないようにする。教育委員会も教師そ守るバックアップをする。
そんな風にして極限まで教師の負担を減らせるように環境をセットアップ。
これなら俺も「また教職に戻ってもいいかな」なんて検討できる。まあ何処の自治体であれ、こんな改革できるところなんてないだろうが。
社会科の授業の一環で株式会社はてなの会社見学に訪れたぼくたちの班が連れて行かれたのは、予想していたような明るいオフィスフロアではなく、じめじめとした暗い地下室だった。案内のお姉さんに従って戸惑いながら階段を下ると、そこでは部屋いっぱいのウェルシュ・コーギー・ペンブロークが、不恰好に長い胴に備えつけられた金具で太い柱につながれ、はあはあと舌を垂らしながらその柱を重たそうにゆっくりと回していた。その様子を背に、私たちはこうして電力を作り出しているのです、とお姉さんは得意気に語った。犬の回転で発電する仕組みが図解されたパネルが不気味に灯った。
コーギーさんたち、あんなふうに口を開けて、笑っているみたいだね、と班の誰かが言ったけれど、柱を回す犬たちの目を見ていたぼくには、その表情はむしろ虚ろに感じられた。犬たちは目の前の犬のお尻を見つめながら、短い脚で床を蹴り、一歩一歩、円周に沿って同じ道を歩く。
最近では原発が……と慣れた様子で流暢に語るお姉さんの声をBGMに、コーギーたちは笑わない目で舌を垂らし、柱の周りをぐるぐると周る。犬がぐるぐると周り、班の誰かがお姉さんに質問をし、犬がぐるぐると周り、お姉さんがそれに答える。それを繰り返すうちに、お姉さんが何気なく時計に目をやり、そうして、与えられた見学の時間が終わった。
最後に質問は、と言うお姉さんにぼくは手を上げて、あのコーギーたちの中にいるんですか、会長は、しなもんはいるんですか、と尋ねると、お姉さんは少しの間だけ怪訝そうな顔をして、それから、その日いちばんの満面の笑みで言った。「あそこにいる犬みんながしなもんで、会長なんですよ」その言葉にみんなが拍手をして、見学は終わった。
みんなの最後尾について地下室を去ろうと階段に足をかけたとき、後ろでブザーが鳴った。その音にぼくが振り返ると、天井からぱらぱらとドッグフードが落ちてくるところで、コーギーたちが床に落ちた餌を舌ですくっていた。そのうちの一匹と目が合った。彼は一瞬、虚ろな目で笑ってみせて、ふたたび柱を回す作業に戻った。