はてなキーワード: 教皇とは
一理ある。
しかし、本当にコミュニティ外の人間がどうこう言う権利がないとまで言えるのかな。
コミュニティを優先するってのはつまり保守ってことで、この件はやっぱリベラリズム(Twitter的なエセリベでない)に対する全面攻撃に他ならないのじゃないのか。
深刻な人権侵害ではないのかどうかも、断言していいか躊躇われる。
もしも人権の話なら、コミュニティ内部の話に留まることはない。
いやこの件非常に矛盾を孕んでいるのは、カトリックキリスト教に社会への強い影響力があるなら深刻な人権侵害たりえるし、人権侵害じゃあないならカトリックなど無視しても構わない程度の存在だってことになる。
その上で、教皇庁が言ってるのよこれ。教皇はカトリックの影響力は強いと(タテマエ上は)思ってるはずで、つまり教皇は強い人権侵害への意思を露わにしたのではないのか。
正直なとこ、単に失言という気もする。
https://anond.hatelabo.jp/20210316232303
この増田の反応見て思ったんだけど、ポリコレって信教の自由に負けるんだな
だとしたら表現の自由にも負けるんじゃね?信教の自由と表現の自由のどっちが強いかって憲法上定義されてるのかな?されてなさそー
じゃあ信教の自由と同じ条件と考えればポリコレより優先されるじゃん。おお
しかも「憲法は政府を縛る為にある」って謎の理屈も、政府ではなく国民がキリスト教の教義をポリコレ文脈で批判する際に信教の自由を忖度してるって事は嘘だったって事だよな
おおー。だとすると憲法上定義されている表現の自由もまた政府ではなく国民がポリコレ的批判をする際に勘案するべき人権と言う事に成るな
表現の自由とポリコレがコンフリクトし得る事が確認できた以上、ポリコレ文脈の批判はそれが表現の自由を侵害しないか、している場合は侵害するに足る理由を備えているか検討を避けられない(しかも信教の自由を侵害する際と同じ強度で)
更に信教の自由はポリコレ的規範から自由であるなら、表現の自由も同様だと言えそうだな、ふーん、ポリコレ雑魚じゃん
→当事者以外による表現に対するポリコレ文脈の批判も同様と言えそうだな、これは大きい
→空飛ぶスパゲッティモンスター教の様な新しい宗教を作って表現を教義化すれば同じ恩恵に預かれそうだな
あと教義で定義されてると言うのは本当なのかな?例えば聖書にそう書いてあるならカトリックだけじゃなくてプロテスタントでも同じく祝福不可になるはずでは?なってるのかな?
なってないなら解釈次第で同性婚の祝福も可能だという事に成らない?だとすれば可能な解釈変更を行っていない教皇は同性婚に十分に譲歩しているとは言えないんじゃない?少なくとも「変更は不可能」では無いよね?可能だけどやろうとしていないだけ
・気に食わないなら改宗すれば良い、改宗の自由は確保されてる等
→表現の自由版に直すと「嫌なら見るな」だな、これがアリなら殆ど全ての表現へのポリコレ的批判は無意味になりそうだな
一応「公共の場では事情は違う」という反論も有り得そうだけど、今回のキリスト教の教義というものが「公共」に入らないかと言えば非常に微妙だよな?
ポリコレ的には時には公共機関ではない日本赤十字社や私企業のコンビニさえ「公共」に入るらしいが、特にキリスト教の強い国での教会の公共性はこれらを上回るのでは?
だとすれば「公共の場」である教会において改宗の自由と言う「嫌なら見るな」でポリコレが無効化されるなら、表現についても同じことが言えそうだね
・実害は無い
→実害の定義次第かなぁ、少なくとも信者の同性愛者にとっては祝福を授けられない事は非常に大きな精神的苦痛を伴うのでは?
実害の中に精神的苦痛を入れないなら、表現による精神的苦痛も実害には入らないという事に成る
更に表現への攻撃によく使われる強力効果論や限定効果論等のメディア効果論(表現に影響を受けた人が暴力的になったり性的な影響や差別的になるという考え)についても、
今回の教皇庁の発表が信者の差別を助長するという二次被害の懸念をも信教の自由でキャンセルできるなら、メディア効果論が仮に正しかったとしても表現の自由でキャンセルできるだろう
(まぁメディア効果論はそれ以前に、科学的なエビデンスが無い事が問題で、「仮に正しかったとしても」と言う仮定がそもそも疑わしいのだが)
→何故出来ないのだろう?出来ない理由に非常に興味がある、もし他の表現が同じ条件に該当するなら、表現の修正を迫るポリコレは同じ理由で拒否できるという事だから
聖書を修正すると信者が暴れるから?なら修正するとオタクが暴れる表現は修正できない事に成るが・・・・流石にこの理由は無いか
聖書の修正が信教の自由を侵害するから?いや、それも微妙だな、修正が信教の自由を侵害するというロジックが無い
本当に一体どういう理由なんだろうね?よく考えて見ると正しそうな理由が見当たらないや
・批判を諦めているだけ
→あまり好ましくない結論だが、オタク側も説得を諦められるようなパワープレイをずっと続ければその内諦めてくれる、という結論に成りそうだな・・・・
増田氏が貼ったBBCの記事では以下のことにも触れられている。
「教皇フランシスコ1世は昨年10月に上映されたドキュメンタリーの中で、同性カップルにも婚姻関係に準じた権利を認める「シビル・ユニオン」を認めるべきだとの考えを明らかにしていた。」
「また昨年のドキュメンタリーでは、「(同性愛者)は神の子であり、家族の一員になる権利がある。誰も見捨てられたり、惨めな思いをさせられたりしてはならない」と述べた。」
「ローマ教皇庁はこのドキュメンタリーの上映後、教皇の発言は文脈から引き離されて引用されたものであり、同性婚を支持するものではないと説明した。」
とも書かれている。
以上から、教皇自身は同性愛者の存在自体を神の子として認めており、迫害の対象であってはならないと考えている。またローマ教皇庁の公式見解も「同性愛関係には「前向きな要素」がある」と述べることによって、同性愛者の存在を受容する方向を示している。と同時に、あくまで「婚姻」という制度概念において教義的に「祝福できない」と言っているのだ。
増田氏は「キリスト教の同性愛忌避は歴史的に同性愛者への迫害と差別の一番大きい要因だった」と言ってるが、少なくともそのようなことを繰り返してはならないという意志は、公式見解や教皇の過去の発言からははっきりと読み取れる。しかし教義上、子孫を残すための男女間の関係を「婚姻」として神が祝福を与える制度としているため、子孫を残さない同性愛者のパートナー関係を「婚姻」という制度と認めて祝福することができないとしているのである。
もちろんその教義自体が既に差別じゃないか、と言われればそうかもしれないが、そもそも古い価値観で石頭になってるのは、クリスチャンでも宗教的でもない、世俗的価値観で生きてるつもりの、増田氏も含めた現代人もそうなんじゃないだろうか?つまり「婚姻」という制度概念自体に頭を縛られ過ぎなのだ。
「婚姻」という言葉に基づく制度は、「子孫を残すための男女間の関係」に限定したままでも別にかまわない。それとは別に、世俗的法制度では性別に関係なく生活を支え合うパートナシップ関係に法的保護を与えればよいのだ。その点教皇は「シビル・ユニオン」というパートナシップ制度を認めるべきだと言ってるわけで、宗教的教義とのバランスにおいて、実質的な権利のあり方に踏み込んでるのである。
また「子孫を残すため」という点では、あくまで出産・子育て支援制度として、パートナーシップ制度とは別に親権者へ法的保護や優遇措置を与えればよい。実子がいない夫婦も養子縁組で親権者になれるのだから、同性愛カップルが親権者になって孤児を育てることだって可能だろう。ヴァチカンの公式見解も、このような方法を否定するものではない。
宗教に差別的意識が刷り込まれていたとしても、宗教ならセーフなの?
例えばその人が人事やチームリーダーで、その刷り込みのせいで同性愛者を低く評価するようになったら、それは差別だよね。
たぶんGoogleはその人をクビにすると思う。
でもそれは個人の差別心ではなく、宗教の信心からの行為ならクビは不当だよね?信条は自由だから。
仕事に宗教は持ち込むな、っていうのも仕事をしている間は無宗教になれと強要していることになるから信条の自由に反するよね。(もしかして反さない?)
能力だけで評価しろって言うならいいけど、割と最近はチームに貢献できるか?とか人間性も評価する流れになってる気がするけど、キリスト教徒のリーダーが同性愛者は邪悪でチームの輪を乱すと判断したらどうするの?
キリスト教徒にとっては同性愛者は邪悪なので、輪を乱していると考えても仕方ないよね。
別のチームに移ることはできるけど、そんなことしたら社内で反同性愛者が集まって先鋭化して会社として歪になってくるよね。
どうするんだろうね。
父親が息子をモーツァルトの再来に仕立て上げるべく7歳3ヶ月だったのを6歳とした話は読んだ。そのせいでベートーヴェンは中年すぎまで自分の年齢を正確に把握できなかったとか。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』では、父親はアル中でとんでもない奴だけど根はいい奴で、自由主義者としてベートーヴェンを導く役割を果たしている。まあさすがにこれは現実ではなかったかな。なおこの漫画の中でもベートーヴェンの難聴の驚きの理由が判明している。
青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』には、父親が宮廷に出した手紙の書き出しが「尊敬すべきお慈悲深き大司教兼選帝侯殿下」、結びは「御足下にひれ伏し服従申し上げます」だったと書かれている。ベートーヴェンと父親の関係については、ベートーヴェンが、バッハのカンタータの未完成写譜を「父が書き写したもの」と書き込んで大切にしていた、とある。
謎の女=死
ヴェーゲラーはベートーヴェンの5歳上。ロールヘンは2歳下。ヴェーゲラーとベートーヴェンの出会いのきっかけは明らかではないらしい。ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家に出入りするようになった。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』ではヴェーゲラーは出てこないが、ロールヘンとの出会いは本作と似ていて、いじめられてたベートーヴェンをロールヘンが助けるシーンになっていた(ただしこれがきっかけでブロイニング家に出入りするようになるわけではない)。
ここで出るか。
強さ、か。生きるための、成し遂げるための。
fffはFuto Final Forever説を信じているけど、第2場で触れた通り交響曲第7番と第8番でベートーヴェンが史上初めてfffを使ったとのこと(第7番は手元にスコアがあるので確認済み)。これは、難聴が関係していたのではないかなと邪推している。難聴の時期は高音があまり使われなくなった(=自分で聴こえる音で作っていた)らしいし。そしてほぼ聴覚を失ってからは高音が再び使われるようになった、というか、第九は演奏困難な高音であったと。そしてこれも触れた通り、第九にはfffはない(オーケストラの編成の大きさも関係してるのか?)。第九は、実際ちょっと常軌を逸した曲だと思う。聴覚がないからこそ書けた曲。第4楽章のコントラバスとかもそうだけど(これはベートーヴェンのお友達コントラバス奏者のドラゴネッティのせいか)、第3楽章。美しい理想が見えるけど、理想に近い演奏を探してみたけど出会えなかった、何年も前の話だけど。オーケストレーションに難あり、だよなと。もしくは時代がまだベートーヴェンに追いついていないのか。
実際は出入りする間に自然と啓蒙思想に触れていったのかなと想像。
なんか泣ける。朝美マジック?
あらきた。1804年12月。
謎の女「心のおともだち、ナポレオン」
んーー、第4場Bで少し構えていたけど、ここハイリゲンシュタットの遺書だったのかあ。いつの間にかハイリゲンシュタットに移動してた?劇場のままかと思っていた。時間もほんとは結構経ってる設定だったのかなあ(ナポレオンの戴冠式はあったけど、もともとの劇場の時間もふわっとしてるし、伝わるのに時差あるかなと思うし。あ、謎の女からの情報だからリアルタイムだったかな)。気が付ける要素あったかなあ。
難聴や失恋からくる衝動は救済の記憶でおさまった後(実際の遺書ではただ"芸術"が引き留めたと)、心のおともだちナポレオンが皇帝になったショックからのシーンだしなあ。
ベートーヴェン(歌)「
歌い続けろ 聴こえない カラダ
歌い続けろ カラダ カラダの そとに
歌い続けろ 中に鳴り響く音
歌い続けろ 出し尽くすまで
大きく 大きく 大きく もっと
強く 強く 強く きっと
たとえ命 たとえ魂
この体が朽ち果てても
たとえひとり 声もしない
孤独の道 ひた走ろうと」
「大きく」「強く」 3回ずつ(=fff)。
ハイリゲンシュタットの遺書から該当しそうな箇所を以下に抜いてみる。
私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。(片山敏彦訳)
遺書の中の「難聴の苦しみ」「孤独の叫び」「自死願望」ついて参考までに抜き追加。長いけど。一部難読字は平仮名に、一部ルビ省略。
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。
しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。
私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。
https://anond.hatelabo.jp/20210212190921
https://anond.hatelabo.jp/20210212214154
これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。
https://twitter.com/dogu_fm/status/1346029676813115393
まとめ
https://sumatome.com/su/1346029676813115393
この主張に関しては、特に問わない。
「宗教的に寛容だから笑いにできる」とした言説なんて、あまり聞いた事が無いのだけど。
むしろ、日本は宗教にいい加減だからだと思うんだけどね。良くも悪くも。
そもそも、宗教を馬鹿にする文化はアメリカにもイギリスにも有る。
気になったのはそこでは無くて、キリスト教の聖人はバンバン登場しているのに、仏教の導師や祖師が登場しないという分析。
これは本当なのか確かめてみた。
以下はその結果。
聖☆おにいさんを読んでいると、キャラクター達は登場パターンで分類出来る事がわかる。
そこで、キャラクターの扱いについて大まかに分けてみる。あくまで便宜上の分類。
1. 主人公二人組
これら全て登場人物なんだけど、4は聖☆おにいさん独特の登場パターン。
今回はあくまで後代の聖人や導師などや、その他伝説となった人を対象としている。
3の登場パターンは○
4の回想での登場パターンは△
1巻
特になし
2巻
3巻
※ 空海 18話 伊豆旅行の時にガイドさんが発言。弘法大師名義
4巻
※ダ・ヴィンチ 27話 漫画アシスタント候補として名前が挙がる
※ラファエロ 27話 同上
5巻
特になし
6巻
○ 空海 41話 ショムジョのチームの一員として登場。セリフあり
△ 三蔵法師 42話
7巻
△ 天草四郎 48話 イエスさんが知っている戦国時代の人物として挙げる
8巻
9巻
10巻
11巻
12巻
13巻
特になし
14巻
特になし
15巻
特になし
16巻
17巻
○ ジャンヌ・ダルク 123話 大家のフランス語教師として登場
18巻
ゴディバ夫人や耳なし芳一は迷ったけど、モデルが居るみたいなので入れた。
即身仏も名前は出ていないので、人によってはカウント外だとも思うが、とりあえず入れてみた。
他にも抜けが有るかもしれないけど、とりあえず。
キリスト教側については使徒はもとより四大天使に旧約の人物や遙か後代の聖人とマルティン・ルターまで登場する。ところが仏教側は釈迦十大弟子、天部(梵天など)、釈尊の血族、悪魔、如来や観音、菩薩は出てくるが、仏教で重要な後代の導師や祖師は出て来ない。
一度だけ空海がイエスやブッダに顔を会わせないかたちで登場してはいるらしいが。ともあれ後代の大乗仏教で重要なボーディ・ダルマは出ていない。まして日本仏教にとりわけ大きな影響を与えた鎌倉仏教の祖師である道元、栄西、法然、親鸞、日蓮は登場どころか名前すら出てこない。
マルティン・ルターは回想で触れられるくらいで、それほど。総登場5コマ程度だし。
空海についても何故か伝聞風に書いている(自分で読んだんだよね?)けど、ちゃんと登場しておりセリフまで有る。(登場コマは2コマだけどw)
そもそも、キリスト教で親鸞に当たる人物となると、キリスト教の成立史に名前が挙がる人物なんだろうけど、Wikipediaのキリスト教の歴史の項目に出てくる歴史上の人物は、それこそルターぐらいで。教皇も初代教皇のペドロ以外、名前も出てこなかった。
そうなると、作者の単純なネタの選択と考えたほうが自然じゃないかと。
しかし『聖★おにいさん』はあくまでそれらの人物を出さない。この数年はネタ切れなのか北欧神話まで持ち出してきた。七福神を神道側として出してきたことも苦しい感がある。「八百万の神」の名は出たものの天照大神、イザナギ、イザナミ、スサノオ辺りの名を出すのを避けているようにも感じる。
これに関しては、19巻に収録される予定の回でイザナギさんが出てくるので、完全に穿ち過ぎかと。
最初に述べたとおり、日本人の宗教に対する態度は寛容ではないという意見は否定しないけど、漫画作品の描写だけで断ずるのは早計じゃないかな。
そもそも、日本人の宗教観を批判する事が念頭にあったのか、バイアスが掛かってる様子だったし。
これだったら、聖☆おにいさんを持ち出さずに自分の言葉で論じればよかった。
一応クリスチャンだけれども聖★おにいさんは大好きだよ
名前の響きの良さ、中身の個性、知名度などどれをとってもハイレベル。手垢がつきまくっているのが弱点。
朱雀、白虎、玄武、青龍。数も個性もちょうどいいが、どうしても中華風にしかならないのが弱点といえば弱点。
タロットのアレで、愚者、魔術師、教皇…みたいなやつ。かっこよさも個性もそこそこあってエエ感じだが、21とかあって多すぎるのがネック
ウィキペディアを見ただけでカッコいいとわかる直球の中二病概念。対になる正義と邪悪が用意されているのもおあつらえ向き
星座!自分の星座と対応するキャラはどんなんかな、という楽しみもあるし、いろいろと参考資料も多そうでなかなかいい感じ
餓鬼道、修羅道、人間道…っていうやつ。シブいし数もちょうどいいが、ちょっとカタいのが難点か
七つの大罪に対応する七つの徳。知恵、勇気、節制、…みたいなやつ。説教くさすぎるのが弱点か
死んだ人体が崩壊していくようすを9つの相に分けて描いた図、というかっこいい概念。ただ活かし方は難しい印象
春夏秋冬。シンプルで逆にカッコいいかもしれないが、あんまり強そうではない
1月2月3月、あるいは睦月如月皐月、それかJanuary, February, March… 数としてはいい感じだけど、月に数字以上のイメージが付けにくいのが難点か
多すぎ!
どっちが勝つかわからないけど、とりあえず次の大統領はこんな感じ。
これまでの「史上最高齢で就任した大統領」はロナルド・レーガン(2期目の就任時に73歳)で、「史上最高齢で1期目を開始した大統領」はドナルド・トランプ(70歳)だけど、バイデンもトランプも2期目のレーガンより年上なので、「アメリカ史上最高齢で就任した大統領」が誕生する。
開票結果を見ていると、一般投票でバイデンが勝ちそうなのはほぼ確定。この結果を選挙人投票でひっくり返したら、トランプは「史上初めて一般投票で勝たずに2期を務めた大統領」になる。
過去、一般投票で勝たずに選挙人投票で逆転して大統領に就任した者は5人いる。1825年に就任したジョン・クインシー・アダムズ、1877年に就任したラザフォード・ヘイズ、1889年に就任したベンジャミン・ハリソン、2001年に就任したジョージ・W・ブッシュ、そして2017年のトランプである。このうち、アダムズとハリソンは次の選挙で落選し、ヘイズは次の選挙に出馬せず、ブッシュは次の選挙で一般投票で勝利した。したがって、「2回とも一般投票で勝たずに選挙人投票で勝って2期務めた大統領」は歴史上存在しない。
また、大統領の急死や辞任によって昇格した大統領は、皆、次の選挙で落選するか一般投票で勝利して再選されるかのどちらかであり、「副大統領から昇格して、次の選挙で一般投票で負けたけど選挙人投票で勝って2期努めた大統領」はいない。
したがって、仮にトランプが再選された場合、かなり高い確率で「アメリカ史上初の一般投票で勝たずに2期務めた大統領」が誕生することになる。
レーガンは77歳で退任したけど、バイデンは就任式当日には78歳になっているので、「アメリカ史上最高齢で退任した大統領」になることが確定する(トランプの場合、任期途中で辞めたりすると史上最高齢にはならない)。
アメリカでカトリックの信徒が大統領になるのはジョン・F・ケネディ以来2人目。
1993年にビル・クリントン(1946年生まれ)が就任して以降、ジョージ・W・ブッシュ(1946年生まれ)、バラク・オバマ(1961年生まれ)、トランプ(1946年生まれ)とここ30年ほどは戦後生まれの大統領が続いている。もしバイデン(1942年生まれ)が勝利すれば、ジョージ・H・W・ブッシュ(1924年生まれ)以来28年ぶりに戦前第二次世界大戦終結前生まれの大統領が就任する。
ブコメで指摘されて気付いたけど、1939年にナチスがポーランドに侵攻してから1945年に日本が降伏するまでの間に生まれた大統領はこれまでにいないから、アメリカ史上初(そしておそらく唯一)の「第二次世界大戦中に生まれた大統領」になるのか……
前任の大統領よりも年上の者が新しい大統領になったことは何度もあるが(前回の大統領選は、クリントンが勝ってもトランプが勝ってもオバマより年上の大統領だった)、それが2回続けて起きるのは、セオドア・ルーズベルト(1858年生まれ)より年上のウィリアム・タフト(1857年生まれ)より年上のウッドロウ・ウィルソン(1856年生まれ)が大統領に就任した1913年以来のことである。
これまで2人続けて苗字の文字数が同じ大統領が就任したことは6回ある(Van Buren→Harrison、Lincoln→Johnson、Grant→Hayes、Kennedy→Johnson、Carter→Reagan、Obama→Trump)。だが3人連続したことはない。もしバイデン(Biden)が当選したら史上初の例となる(Obama→Trump→Biden)。
そういえば、オバマ&バイデン、トランプ&ペンス(Pence)と、2代連続で正副大統領の苗字の文字数が一致しているのはレアケースかもしれない。大統領選挙で二大政党の候補者の苗字の文字数が一致する(Trump vs. Biden)のは、2000年のブッシュ対ゴア(Bush vs. Gore)以来20年ぶり。
第二次世界大戦後のアメリカでは、民主党が1期でホワイトハウスを明け渡したことはあるが(ジミー・カーター政権)、共和党が1期でホワイトハウスから追い出されたことはない。再選に失敗したジェラルド・フォードもジョージ・H・W・ブッシュも、前任者(リチャード・ニクソンとロナルド・レーガン)が共和党員なので共和党のホワイトハウス支配は2期以上続いている。もしトランプが1期で追い出されバイデン政権が誕生したら、戦後初めて共和党が1期でホワイトハウスを明け渡すことになる。
カマラ・ハリスは、女性としても黒人としても、そしてもちろん黒人女性としても初めての副大統領になる。
メディアだと「黒人女性としては初の副大統領」って言われるけど、女性としても黒人としても初なので表現が難しい。「初の黒人女性」だと、白人女性や黒人男性がそれ以前にいたかのように聞こえる(「黒人女性初の国務長官」だったコンドリーザ・ライスがそうで、「女性初の国務長官」はマデリン・オルブライト、「黒人初の国務長官」はコリン・パウエル)。
戦前警察アメリカ分署です。1942年はすでに米もWW2に突入しており、バイデンが戦前生まれは明らかに誤りです。戦中か戦勝前としてください
カトリックの少なさに驚く。ググると2014年時点で37%がプロテスタント、23%がカトリックらしい。それでも凄まじい偏りだが、どんな背景があるんだろう
このうち後者について、ケネディは1960年の選挙演説で次のように言っている。
わたしは、公的にはカトリックでも、プロテスタントでも、ユダヤ教でもないアメリカを信じます。そこでは、公共の政策に関して、公僕が、ローマ教皇やキリスト教会全国協議会やその他の宗教組織に指示を求めたり、そのような組織から指示を受けることがありません。
つまり、20世紀後半になっても「教皇の言うことを聞くやつが大統領でいいのか」という不安があったという話。
ちなみに、バイデンはアメリカ史上初の「カトリック信徒の副大統領」でもある。「二大政党から大統領候補に指名されたカトリック信徒」としては4人目(アル・スミス、JFK、ジョン・ケリー、バイデン。全員20世紀以降に民主党が擁立)。
なお、これまで日本の首相になったカトリック信徒は3人いる模様(原敬、吉田茂、麻生太郎)。プロテスタントも何人かいるし、首脳の信じている宗教という一点に限ってはアメリカなんかより日本の方が遥かに多様という。
仮にバイデンが任期途中でリタイヤしてハリスが昇格し、2024年の大統領選挙でハリスが女性候補に敗北すると、「初めての女性大統領」と「初めて選挙で選ばれた女性大統領」が別人になるので、トリビア好きにはたまらない展開になる。ニッキー・ヘイリーには頑張ってほしい。
(現状、「最年少大統領」がこの状態で、「最年少の大統領」はセオドア・ルーズベルトだけど、彼は前任のウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺に伴って昇格したので、「選挙で選ばれた最年少の大統領」はジョン・F・ケネディ。仮に今回の選挙でピート・ブーティジェジが勝っていたら限定なしで「史上最年少の大統領」になっていた)
一番のリスクが大統領就任式という説も。就任式は1月に屋内で行われるけど、高齢のバイデンには風邪を引くリスクがある。実際、1841年に、68歳だったウィリアム・ハリソン大統領がめっちゃ寒い日に就任式で長々と演説して3週間後に風邪を引き、そこから肺炎になってアメリカ史上最も在任期間の短い大統領になってしまった(在任31日間)という故事があるので……
(ちなみに、日本の内閣総理大臣で最も在任期間が短かったのが東久邇宮稔彦王の54日なので、日本の首相よりアメリカ大統領の最短在任記録の方が短い。ハリソンの在任期間はあの宇野宗佑の半分以下)
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
教皇が女性の信者に掴まれた手を叩いて振りほどき憤怒の表情を見せたことに私は失望した。
ただそれにしてもあのような態度を取る必要があったのかと思う。
信者の誰もが教皇と言葉を交わすことができるわけでもないだろう。
教皇が自分のすぐ目の前を通る、その千載一遇の機会に腕を掴んででも訴えたいことが、
耳を傾けてほしいことがその信者にはあったのではないだろうか。
もちろん信者の誰もにそんなことをされては教皇の身がもたない。
そこでその信者の声に耳を傾けることはできないというのはわかる。
だが、教皇になにかを訴えたいその気持ちを汲んでやさしく微笑んで静かに腕をほどくことはできなったのだろうか。
私にはその教皇の態度と振る舞いが当たり前のことのようには思えなかった。
芸能人やスポーツ選手など有名人が熱心なファンに服や体の一部を掴まれるような光景はこれまで数多く見てきたが、
掴んできたファンの手を叩いてまで振りほどこうとするような姿はほとんど見た記憶がないからだ
彼らはビジネス上の都合でファンに逆らえず我慢しているだけで本当は腸が煮えくり返るような思いをしているかもしれない。
もし仮に彼らがファンの腕を教皇と同じように軽く叩いたとしても私はむしろ無礼なファンの方を非難したと思う。
しかしながら教皇は芸能人でも政治家でもないと”私は”思っている。
教理を体現すべき立場の聖職者の頂点が自らの生計のためにファンの無礼に耐える有名人未満の振る舞いに及んだことは私を深く失望させた。
教皇はすでにこの件で謝罪をしており、他の人々のように我慢できなくなることがよくあると釈明もしているが、
もしそれが人並みの寛容を持ち合わせていないということであれば、あなたはあなたが持ち合わせている徳にふさわしい立場に居るべきではないかと。
いかなる場合も弱者に対する慈愛と寛容の心だけは失ってほしくないと願っていただけだ。
本当にただそれだけ。
教皇だって人間だもの、つい手が出てしまうこともあるさ?そういう教皇がいいの?
私の理想は高すぎるのだろうか。