はてなキーワード: 教皇庁とは
教皇庁が何したっていうんだよ…
この前「キリスト教徒でないのに教会で結婚式挙げること」って記事書いたのよ
そしたら今25件もブクマついてるのよ
俺にとっちゃすごい久しぶりのヒットだと思って喜んだのよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210318045928
そしたらコメント18件あるんだけど
「キリスト教徒でないのに教会で結婚式挙げることを許可する教皇庁」について書いたのにさ
「キリスト教徒でないのに教会で結婚式挙げる日本人」に対するコメントばっかりなのよ
何なんだよこれ?何について書いてるかなんて普通わかるでしょ
そもそも「教皇庁が同性婚を祝福できないと公式見解」という話の流れで書いた話だし
話の流れ見なくたって本文読めばわかるでしょ
たった三行しか書いてないのに
やばすぎない?
一理ある。
しかし、本当にコミュニティ外の人間がどうこう言う権利がないとまで言えるのかな。
コミュニティを優先するってのはつまり保守ってことで、この件はやっぱリベラリズム(Twitter的なエセリベでない)に対する全面攻撃に他ならないのじゃないのか。
深刻な人権侵害ではないのかどうかも、断言していいか躊躇われる。
もしも人権の話なら、コミュニティ内部の話に留まることはない。
いやこの件非常に矛盾を孕んでいるのは、カトリックキリスト教に社会への強い影響力があるなら深刻な人権侵害たりえるし、人権侵害じゃあないならカトリックなど無視しても構わない程度の存在だってことになる。
その上で、教皇庁が言ってるのよこれ。教皇はカトリックの影響力は強いと(タテマエ上は)思ってるはずで、つまり教皇は強い人権侵害への意思を露わにしたのではないのか。
正直なとこ、単に失言という気もする。
https://anond.hatelabo.jp/20210316232303
この増田の反応見て思ったんだけど、ポリコレって信教の自由に負けるんだな
だとしたら表現の自由にも負けるんじゃね?信教の自由と表現の自由のどっちが強いかって憲法上定義されてるのかな?されてなさそー
じゃあ信教の自由と同じ条件と考えればポリコレより優先されるじゃん。おお
しかも「憲法は政府を縛る為にある」って謎の理屈も、政府ではなく国民がキリスト教の教義をポリコレ文脈で批判する際に信教の自由を忖度してるって事は嘘だったって事だよな
おおー。だとすると憲法上定義されている表現の自由もまた政府ではなく国民がポリコレ的批判をする際に勘案するべき人権と言う事に成るな
表現の自由とポリコレがコンフリクトし得る事が確認できた以上、ポリコレ文脈の批判はそれが表現の自由を侵害しないか、している場合は侵害するに足る理由を備えているか検討を避けられない(しかも信教の自由を侵害する際と同じ強度で)
更に信教の自由はポリコレ的規範から自由であるなら、表現の自由も同様だと言えそうだな、ふーん、ポリコレ雑魚じゃん
→当事者以外による表現に対するポリコレ文脈の批判も同様と言えそうだな、これは大きい
→空飛ぶスパゲッティモンスター教の様な新しい宗教を作って表現を教義化すれば同じ恩恵に預かれそうだな
あと教義で定義されてると言うのは本当なのかな?例えば聖書にそう書いてあるならカトリックだけじゃなくてプロテスタントでも同じく祝福不可になるはずでは?なってるのかな?
なってないなら解釈次第で同性婚の祝福も可能だという事に成らない?だとすれば可能な解釈変更を行っていない教皇は同性婚に十分に譲歩しているとは言えないんじゃない?少なくとも「変更は不可能」では無いよね?可能だけどやろうとしていないだけ
・気に食わないなら改宗すれば良い、改宗の自由は確保されてる等
→表現の自由版に直すと「嫌なら見るな」だな、これがアリなら殆ど全ての表現へのポリコレ的批判は無意味になりそうだな
一応「公共の場では事情は違う」という反論も有り得そうだけど、今回のキリスト教の教義というものが「公共」に入らないかと言えば非常に微妙だよな?
ポリコレ的には時には公共機関ではない日本赤十字社や私企業のコンビニさえ「公共」に入るらしいが、特にキリスト教の強い国での教会の公共性はこれらを上回るのでは?
だとすれば「公共の場」である教会において改宗の自由と言う「嫌なら見るな」でポリコレが無効化されるなら、表現についても同じことが言えそうだね
・実害は無い
→実害の定義次第かなぁ、少なくとも信者の同性愛者にとっては祝福を授けられない事は非常に大きな精神的苦痛を伴うのでは?
実害の中に精神的苦痛を入れないなら、表現による精神的苦痛も実害には入らないという事に成る
更に表現への攻撃によく使われる強力効果論や限定効果論等のメディア効果論(表現に影響を受けた人が暴力的になったり性的な影響や差別的になるという考え)についても、
今回の教皇庁の発表が信者の差別を助長するという二次被害の懸念をも信教の自由でキャンセルできるなら、メディア効果論が仮に正しかったとしても表現の自由でキャンセルできるだろう
(まぁメディア効果論はそれ以前に、科学的なエビデンスが無い事が問題で、「仮に正しかったとしても」と言う仮定がそもそも疑わしいのだが)
→何故出来ないのだろう?出来ない理由に非常に興味がある、もし他の表現が同じ条件に該当するなら、表現の修正を迫るポリコレは同じ理由で拒否できるという事だから
聖書を修正すると信者が暴れるから?なら修正するとオタクが暴れる表現は修正できない事に成るが・・・・流石にこの理由は無いか
聖書の修正が信教の自由を侵害するから?いや、それも微妙だな、修正が信教の自由を侵害するというロジックが無い
本当に一体どういう理由なんだろうね?よく考えて見ると正しそうな理由が見当たらないや
・批判を諦めているだけ
→あまり好ましくない結論だが、オタク側も説得を諦められるようなパワープレイをずっと続ければその内諦めてくれる、という結論に成りそうだな・・・・
→ワックなはてなーのdisに神さんマジ激おこ「まだ死んでねえっつの!!」
→ニーチェにバトルをふっかける
ニーチェ「いやー負ける気? がしないっスね。もう終わりでしょ正直神とか。前世紀が全盛期だったでしょ。今日は調子いいですわ。全身が口になったみたいな、断崖の高みから落ちる渓流の轟みたいな感じ。はやく俺のフロウを谷へ向かって流し落としてえ気分でーす」
神 a.k.a. Shit する God「人類? 最近頑張ってじゃないんですか(笑)。でも、まだちょっと、ちょっとまだねえ。譲れないでしょ。チャンピオンの座は」
M.C. Leo PP. XIII「さあ、Big. G.G ことガリレオ・ガリレイやマルティン・”シスマ”・ルター以来のビッグなマッチアップがやってきたぜ! ニーチェ vs 神! 果たして神は死んだのか!? それとも死なないのか!? さっそくはじめるぜ、DJ Shit-ダールダ! ギミアビーーーーッ!」
(チェケチェケチェケバウ♪)
どうみてもおまえ Wimp なバットマン
勝てるわけねえじゃん おれはクリプトン
負けるわけねえじゃん おれのスクプリト
かつて神をdisった俺たち
死んでくれて良かったな思うし
全力つくして行くぜ善悪の彼岸!」
神
「そう僻むなよ スーパー メーン!
見下げたやつだぜ ルサンチ メーン!
殺されるわけない オレの神学
降伏するならいまのうちだぜ
勝手に使うなヨソのザラシュトラ
ゾロアスター に頼ったところで
返却なんかしないぜ今夜かぎりで負債は
あれかこれかで悩むならよしな
身過ぎ世過ぎで死屍累々のこの世で
いつか掴むぜ獅子の声を Mein に
カインの末裔なら上等なんだ だったら
神
欠けたブルース・ウィリスだな
それに引き換えオレはダイ・ハード
ぜったい死なねえマジハートフルに
祝うんだ毎年のクリスマス of my child
俺たちいつでも Homie 三位一体だ
だけど おまえ次第だ 忘れんな
してやってんだ Say So Still God’s not Dead!」
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?