はてなキーワード: 挽回とは
予想された全国学テ「英語」の成績下落https://gibsonerich.hatenablog.com/entry/2023/08/01/150907
↑がホッテントリに上がっていたので少し書いてみる。
例えばこちら
https://www.kairyudo.co.jp/contents/02_chu/eigo/h28/h28_eigo_shidoyoryo_taisho.pdf
といっても小学校ではほぼ文法指導はなく、二言三言会話して歌を歌う位のものだ。
何より良くないのがテストがない、というか教師側の能力不足、時間不足でできないので、生徒に学習、復習のインセンティブがない。
結果、何も残らないか、一般動詞とbe動詞の区別もつかないような中途半端な知識が残るのみとなる。
そして上の記事でも指摘された通り、中学英語は旧学習指導要領より履修項目、単語が増え、教科書本文も長くなった。
特に負荷が高いのが中1で、例えば今まで中1夏休みまでの間に履修していたbe動詞、一般動詞、助動詞辺りまでを4月の間(実質2週間位)で駆け抜けなければならない。
更に話す、発表する等もやって行く必要があり、単元あたりの文法指導にかけられる時間が実質大幅に減っている。
確かに中学でも小学校に回された単元をおさらいすることになっているが、実質そんな時間はわずかなものだ。
英語の場合スタートでつまづいた子が後から挽回するのはとても大変で、中2に上がる頃には結構賢い子でもお手上げ状態となる。
また定期テストも最近は教科書本文から長文問題を出さず、別の文章を引いてきたり文法事項だけ出題するパターンが増えている。
これは教科書の単語が難しいため本文から出すと問題が難しくなりすぎるからとか、教科書本文をまともに授業で扱う時間がないからなどと言われている。
テストに教科書本文が出ない単元の単語は覚えるインセンティブが下がるが、入試で出ても文句は言えないので、自主的に覚えるか塾でやるか諦めることとなる。
新学習指導要領はコミュニケーションからの英語習得を目指しており理念は素晴らしいけれど、学校外でも膨大なトライアンドエラーを積み重ねられるような、英語を浴び続ける環境が必要だ。
それは1対多数の公教育の現場での実現は困難だし、高校入試のスピーキングテストも宙に浮いた状態となっている。そもそも学校でまともに教えていないことを入試で問うのがおかしい。
更に先述の通り学ぶ量もスピードも増えていて、独学で追いつくのは大変であり、小学校の段階から塾に通える子が有利になっている。
となると英語はますます親の経済力と意識の高さに左右されるから教育格差が広がる一方だ。
YouTube等で無料でやれるといっても、それはその気になれる意識の高い(収入も比較的高い方の)家庭の子だからだ。
また英語でのコミュニケーションに長けた帰国子女が文法全然できないのはあるあるだが、時間的制約の中で文法理解の精度を下げるのをどこまで許容しながら出力を増やすかという問題もある。
かなりヤバめの状況だが、すぐできることとしては、中1の進度を少し緩やかにするか、せめて小6の3学期だけでも一般動詞とBe動詞の文法指導を小学校でやるようになればだいぶその後の勉強がやり易いと思うのだがどうだろうか。
実際FGOはともかく、スマホアイマス系は以前と比べて月商が1/5~1/10に落ち込んではいるわけだけど
ただじゃあコンシューマに戻るかというと、ほとんどのコンシューマ系ゲームはその売り上げにすら遠くおよばない状況にあるわけで
以前は「売り上げ的にゲーム自体がオワコン」と言われていた状況があってそれを挽回して今に至るわけだけど、それはソシャゲーが牽引、あるいはその売上をコンシューマに回したから実現した事であり、挽回以前の根本的な問題は何一つ解決してはいない
結局、ガチャゲーの終焉の後に待つのはコンシューマの復権ではなく、止まっていた「ゲーム業界終焉へのタイムカウント」の再開でしかない
どこに吐き出せばいいのかもわからない自分の気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分の人生を増田に投下したい。
要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。
就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。
ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかったから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。
中学に入学したあたりでクラスもバラバラになり、小学生の頃のグループは自然消滅してしまった。
誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。
部活にも入らなかった。正確には入れなかった。
聞こえてくる話を聞く限り、中学に入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。
特にスポーツの経験もなく、かといって文化的な素養もない俺にそのようなものはなかった。
「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。
未経験の部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。
友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。
最初の入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校の出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。
中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。
親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。
中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。
みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。
親にねだってPSPとモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校にPSPとカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。
国語の先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。
今にして思えば、ポケモンに詳しかったことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。
勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部のクラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから、勉強を理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。
勉強の甲斐あって、地元で1番の公立高校に合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。
合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEをインストールした。
中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。
失敗した。
出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。
3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後のメンバーであった。
私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。
同じ塾での繋がりから、合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。
結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債に高校生になっても苦しめられるのかと思った。
部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。
2ヶ月で辞めた。
私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。
先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベルと自分の立ち位置があまりに乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。
自分だけが初心者だという引け目から、同級生ともろくに話せずに終わってしまった。
ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。
同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分を正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。
幸いだったのは学校に自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室で勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。
中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。
何も言わないでいてくれた親の気持ちを想像すると、胸が苦しくなる。
高校でTwitterが流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生をフォローした。
フォローバックも多少はしてもらえたと思う。
しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。
一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。
LINEを交換しているもの同士でスコアがランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。
その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。
3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為が自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なものを選択して口からアウトプットするという一連の行為が自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。
その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。
ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。
当たり前だが、次の機会は来なかった。
高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記が限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。
今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。
講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校も予備校も基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。
サークルの新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。
先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。
新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。
自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。
テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。
授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。
しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。
ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学のゼミを志望したが、人気ゼミの面接に通るはずもなく落ちた。
結局、不人気な統計学のゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。
自分の存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。
そして就活の時期を迎えた。
講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものにエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。
志望動機や経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。
奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。
その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後に儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。
同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーダシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手の企業で内定を得て働いるのだろうなと思う。
昼休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦で大学に入ったらしい。
学業にしか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。
後日講義室で聞こえてきた「1dayインターンは意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。
そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。
就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。
他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。
あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。
無職で世に放たれるよりは学生の身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮で留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。
結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。
勉強だけは出来たのだから、学業で勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。
予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかったことを覚えている。
筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。
周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活の面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。
いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。
無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。
あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。
どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。
どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。
1年引きこもってもその答えは出せずにいる。
何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。
ここまで育ててくれて、何も言わずに無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。
こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれた人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。
せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。
ここまで読んでくれて本当にありがとう。
ご想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。
その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。
義父(夫の父)は東大を出て大手企業に入り、取締役まで勤め上げて定年退職した。
夫が小さい時は忙しくて子育てに関与できず、中学受験も大学受験も義父の思い通りにはいかなかったらしい。
なので、孫は絶対に東大に行かせる!俺が関与すれば間違いない!そのためには幼少期が大事!と生まれた時から鼻息が荒かった。
金はいくらでも出すから!と、赤ちゃんの頃から小学校受験をさせなさい、公立なんて動物園だ!と言い放ち、夫もどうすることもできず、3歳からお受験塾や公文に通わせることになった。
お金も送迎も義父がやる、というのだから私もどうしようもなかった。
義父の都合が悪い日があり、お受験塾の様子を見る機会があった。子供は明らかについていくのが精一杯で、これは厳しいのではと思った。
公文も、同じ単元を延々と繰り返す(次に進めない)ようになり、そのうち公文の日になると頭が痛い、お腹が痛いというようになり、義父も子供の体調不良をおしてまでやらせることはできず、辞めざるを得なくなった。
それだけやっても小学校受験のご縁がなく、公立に通わせることになったが、義父は中受で挽回だ!SAPIXに入れろ!金は出す、送迎もする!とさらに意気軒高となり、夫も私も止められなかった。
止めようものなら「お前たちは子供に愛情がないのか!後で苦労するんだったら今のうちに頑張らせるのが親心だろう!お前たちは何にもわかってないのだ!」と猛烈に叱責された。
義母は小学校受験に懐疑的で、夫(私立小出身)の時にいろいろと嫌な目にもあったらしく、最初から私に対しては「受験にこだわらなくてもいいんじゃないかな」と言っていたが、昭和の亭主関白家庭であり義父に逆らうことができないため、何の抑止にもならなかった。
そして何が起こったか。
保育園はご機嫌で通っていたのに、小学校はわずか1年しか適応できなかった。
つまり、能力的に学習が難しい特性の子に、ハードな学習を幼少期から強いていたわけだ。
そりゃバグる。
いくら義父に叱責されても、過去の経験からこの方がいいのだと言われても、自分の直感を信じるべきだった。
学校にも行けないままだ。
子供の学習障害が分かった時点で、夫と私は義父に子供の教育に関らせないよう、連絡を絶った。
こちらから連絡はしないものの、義父からは不登校やギフテッドについての訳のわからないYouTubeのリンクをメールで頻繁に送ってくるし、中受の本や教材を勝手に送りつけてくる。公立に行かせたからこうなったのだ、と本気で思っている。まだ諦めていないらしい。
見もしないで即削除しているが気が滅入る。
夫はもっといろいろ言われているらしい。
増田に言いたいのは、この手の孫に干渉してくるジジババとはできるだけ早いうちに没交渉にすべきだ。百害あって一利なしだ。
とても難しいと思うが、縁を切る勢いでNOと言わないとどんどん立ち入ってくる。実親は子に対して厚かましいし、子育ての先輩面してくるからたちが悪い。
30代。子供ができた。
当然、仕事や勉強に費やせる時間は以前より減らざるを得ない。若手と比べて体力も仕事に費やせる時間も圧倒的に足りないわけだ。
一方、仕事では当然若手より大きな成果と大きな責任を期待される年齢だ。これから出世して行くか、そうでないかの分かれ道にもなる年齢だ。
そこで成果が出せないとどうなるか。上からは詰められ下からは蔑まれ。窓際まっしぐら。
毎日保育園に行きたくないと泣く子供を置いて仕事に行くが、子供に誇れるような成果や仕事をしているわけではない。はっきり言って会社ではお荷物社員だ。
親から電話が来る。母が倒れて入院したらしい。今後は介護も必要になるかもしれない。そうしたら仕事はどうなる。もう失敗を挽回できる機会はやってこない。
それでも金のために仕事を辞めることはできない。
自分が納得できるような仕事に出会えれば良いのだろうが、30年も生きてきてそれができていないのだから、劇的に何か変わるわけではないんだろう。
20代の時死に物狂いで働いていれば、こんなことにはならなかったんだろうか。
会話をするときの戦略の立て方が、戦略ゲーやっているみたいに考えてしまって、先に言われることを潰したり言質を取ろうとしてしまう。
例えば、悩みを聞かされているとき。
というようなことをしてしまい。
良くないよなぁと思い始めてきた。
てっきりパッタイとかガバオライス?とかの台頭で日本食がアレになったのかと空見した(どんな空見だ
苦境の背景には競合メディアの台頭とトレンドの変化を挙げる。競合の代表格が、エブリー(東京都港区)が手掛ける「DELISH KITCHEN」(デリッシュキッチン)とdely(東京都港区)が手掛ける「クラシル」だ。
テキストベースのクックパッドに対し、2サービスは高品質の動画を武器に利用者を伸ばしている。クックパッドも17年12月に「CookpadTV」を開始し、動画コンテンツに本腰を入れたものの、現在までビハインドの挽回には至っていない。
動画コンテンツのトレンドが“タイパ”重視に変わったことも影響しているという。関谷氏は「SNSの高品質画像に慣れ、タイパ重視のユーザーは、『読むより観る』『選ぶより推される』を選ぶ。アマチュアが撮影した写真と文章中心のクックパッドは、あまり魅力的ではなくなった。プロの手による、高い完成度の調理映像を1分弱で観ることができるクラシルなどの競合にシフトするのは無理もない。『毎日の料理を楽しみにする』をミッションとするクックパッド。映像を見る『楽しさ』で競合にお株を奪われた形だ」と指摘する。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f294a198ceb03b716fdca50e132f15893d2c31fd
確かに90年代後半の自分は毎日精神の天気予報が「曇り時々晴れ」だった。今の自分のネガティブ思考もあの頃がコアになっている。
ただ、バブルの頃の余韻も忘れられず、うまくすればまたあのバブルが戻ってくるのではないかというささやかな希望はあった。
1999年にはノストラダムスの大予言とかもあり、世紀末感はあった。
ただ、コロナ以降の世界情勢やニュースの内容の方が終末感やら世紀末感がある。
もうエヴァの呪縛からも開放されたが、自体はもう首が回らない状態まで悪化している。
少子化も挽回できない程に進んでしまい、輸出大国だった過去はもう無い。
今の日本政府にもなんら期待は出来ない。
中破した船が沈まないようにだましだまし浮いている。けれど、水はどんどん船に入ってきて、あとはいつ轟沈まで椅子取りゲームをするのかみたいなのが今。
オレオレFCは名古屋グランパスに敗れ、リーグ戦11試合のぶり黒星を喫した。開始27秒で先制を許し、後半も追加点を許して不利な展開に。後半41分に途中から出場したFW浅田のゴール1点差に迫ったが、追いつけなかった。アウェイ3連戦は2分1敗と勝てず。公式戦5試合未勝利で次節は来月3日、ホームでFC東京と対戦する。
◇ ◇ ◇ ◇
アウェー席をロイヤルブルーに染めたサポーターに挨拶した後、普段は冷静なMF鈴木潤主将は、悔しさのあまりペットボトルを地面に叩きつけた。「感情的になるくらい悔しい。チャンスは作れていたので、最低同点にはしたかった。イージーミスを無くさないと強いチームにはなれない」と悔しがった。
野河田彰信監督は堅守の名古屋撃破へシステムを4ー2ー3ー1で臨んだ。しかし、いきなり失点し、戸惑いもあったのか、パスミスなど精彩を欠くシーンも増えた。後半は伊藤と鈴木亮を投入するも、10分に追加点を献上。それでもイレブンは諦めずに名古屋ゴールに向かうと、徐々に調子を上げ、後半41分に途中出場のFW浅田が森永からのパスをトラップし、右足でシュート。左ポストにはね返りながら決めた。
「前の試合(ルヴァン清水戦は)で負けたので挽回したかった。やってやるぞ、という気持ちでした。(ゴールは)迷わず振り抜けた。1点取れば、時間はあったので、追いつけるチャンスがあると思っていた」。地元・愛知で”凱旋ゴール“。逆転を信じて諦めなかった。だが、守りを固めた名古屋を崩しきれず。意地の1発も、勝利に届かなかった。「勝てなかったのは悔しいです」と唇を噛んだ。
野河田監督は「選手らは諦めずに戦ってくれた」と称え、怒りの矛先を自身に向けた。「選手、サポーターが最後までファイトして勝ち点3を目指す中で、今日は監督の采配が問題やな。起用にしても、采配にしても、ホンマにしょーもない事を僕がしてしまった。申し訳ないと思っている」。
11試合ぶりの黒星。昨年も10試合負けなしを記録しながら、6月の清水戦に敗れてから、悪夢の19試合未勝利を喫した。アウェイ3連戦を2分1敗て終え、次節からは東京、新潟とホームでの連戦となる。真価が問われる一戦に鈴木潤は「今日の敗戦は悔しいが、良い教訓として、もう一度、向上心を持ってやっていきたい。連敗していたら上位には行けない」と前を向いた。
何かを本気で頑張って、結果としてそれが失敗に終わったとしても、その努力をしたという経験は人生において糧になると言われている。
努力した経験のある人は、新しく何かに取り組む時も「頑張り方」を知っていたり、多少嫌な事でも「耐え方」を心得ていたりする。
私は二十余年生きてきてその経験が全く無い。
なんだかんだ幼稚園の頃に始めて中学の頃までやっていたが、特別頑張ってやっていたわけでは無い。最初の頃こそ好きでやっていたもののあとは完全に惰性だった。
中学に上がる頃にはもう月に1、2回、数枚の宿題を提出してはまた数枚持って帰る、みたいな取り組み方で意味なんて無いようなものだった。
公文式は学校の授業の進行に関係なくどんどん自分で先の単元を学習していけるので、中学半ばくらいまではいわゆる勉強の「貯金」があったおかげで国、数に関しては苦労することがなかった。
それもあって中学は地元の中高一貫校に合格。(なお後で知ったが定員割れしてたので落ちる心配はほぼなかった)
そして勉強の貯金が尽きてくるとガクンと成績を落とし、それとほぼ同時に学校そのものが面倒臭くなりサボりがちになる。本格的に逃げ癖がつき始めたのもこの辺りじゃないかと振り返って感じた。
幸か不幸かエスカレーターだったので中3〜高校卒業までずっと出席日数をギリギリ下回るくらいで、先生方のお情けの課題をこなして進級してそのまま卒業した。
部活は中学の最初はラグビー部に入っていたものの、全く楽しく無いし運動音痴である事を自覚したので1年そこらで辞めて、以降高校卒業まで帰宅部だった。
小学校の頃もサッカーとラグビーを習い事としてやっていたがどちらも長続きしなかったし、今となっては別に強制でもない部活に、それも明らかにきつそうなラグビー部に何故入ったのか自分でも謎だ。
大半の人が人生で一番努力すると言っても過言では無い大学受験ですら私は努力しなかった。
最初の方はMARCHを第一志望にしていたが、高校に半分も通っておらず成績も最底辺の人間にはどだい無理な話だと気付くのに時間は掛からなかったので、滑り止めとして日東駒専の夜間を受ける事にした。
日東駒専といえば聞こえは悪く無いかもしれないが夜間は滅茶苦茶敷居が低い上に受験科目が現代文と数学のみで、公文の勉強貯金だけでもなんとかなるレベルだった。
MARCHの受験も辞めればよかったのに言い出せず「とりあえず受けてみよう」なんて親の言葉に乗せられ、前日にホテルまで取ってもらって受験会場では殆どの時間船を漕いでいた。本当に申し訳なさで一杯だった。
そんな苦労せずに入った大学で当然学業を頑張れる訳もなく、初めての一人暮らしという名の自由に浮かれて遊び呆けるようになる。
朝から昼過ぎまでバイトして、サークルに麻雀打ちに行くか、帰ってゲームするか。そんな日々だった。
幸いバイトは人間関係も良く、仕事も楽かつ楽しいというこの上ない大当たりを引いたので続けられた。
卒業出来る見込みも限りなく低く流石に3年で挽回の兆しが見られなければ大学を辞めて実家に戻れと親に言われる。当然である。
結局3年になっても大して出席率は変わらず、更にバイト先が潰れる。
新しいバイトを始めるも周りが十個以上年上の人だらけだし仕事はクソつまらないしで1週間程度でバックれ。
ただでさえバイトの収入だけじゃ足らずに毎月のように家族に泣きついていたのに生活できるわけもなく、とうとう消費者金融に手を出す。
累計で100万いかないくらいを借り入れ、返済は全部ガン無視。
大学3年中頃、賃貸の契約更新のタイミングで大学に行ってない事も働いてない事も多重債務者になっている事もバレ、退学し実家に送還。
実家に帰ってからはコンビニ夜勤、コンビニ夕勤、コンビニ夜勤でそれぞれ2ヶ月、半年、2年働いた。田舎すぎて働くところがコンビニくらいしかなかった。しかも後ろ2つはバックれているのでもうその店に行けない。一番近いコンビニだけはバイト先の候補から除外したのは賢明だった。
実家に戻って2年ちょっとの間で消費者金融から借りた分は債務整理という形で全額返済した。
とりあえず携帯代と奨学金の返済が滞ってるから次のバイトはもうちょっと長続きしたらいいな。
・いくら楽しくても、いくら楽でも飽きが来たときに辞めてしまう
という「なる様になる」の精神で生きてきたので、努力と忍耐を身に付ける術を知りたい。
歯を食いしばって耐え忍ばないと死ぬくらいの環境に身を置くのが一番早いのだろうがそれすら怖くて出来ないし、最悪死ぬ方が楽ならそっちを選ぶだろうという無敵の人状態になってしまっている。
嫌だ嫌だと言いながらなんだかんだ頑張れる人は素晴らしいしかっこいい。恐らくどこかで努力してきた下地があるんだろう。
自分にはそれが無い。
これまでの経緯について、だらだらと書きます。
夫:32歳、大学院卒、社会人8年目、手取り年収500万円、副業年収75万円
妻:32歳、短大卒、保育士7年目で結婚⇒パート5年目で妊娠&出産⇒現在は専業主婦
息子:1歳
当時ブームになっていたFXを始めることにした。このときの資産は60万円で、最初に入金したのは10万円ほど。バイトで稼いだお金が元手。
大学2年から大学院1年までの約4年間FXに取り組んだが、その割にリスクをとるような取引はしなかったため、最終的にほとんど±0で終わった。
FXで大損した話がネットに溢れていたため慎重になっていたと思う。
ただ、本気で取り組めば稼げるようになるはずだと信じていた。大学時代に数千万円貯めて就職したくないと思っていた。
結局4年費やしても何の成果も得られず、自分に投資の才能はないと悟った。
一晩で30万円溶かしたときはショックだった。その次の日に一人で北海道旅行に行く予定で、キャンセルしようかギリギリまで迷ったけど行った。
結果的には行ってよかった。1月だったけど奇跡的な暖冬で、良い傷心旅行になった。
今から思えばこの経験をしておいて良かったと思う。資産が増減すると自分にどのようなメンタルの変化が起きるか分かった。
若いうちに投資を始めるのは大事。仮に失敗しても元手が少なければ損は少なく、後の人生でいくらでも挽回できる。
大学院2年目のときにゲームや専門書の転売を半年ほどやって50万円ほど稼ぎ、資産は150万円になった。
このときはFXは完全に辞めていた。社会人になったのでリスキーな投資ではなく安定投資をすることにした。
ネット上からWebスクレイピングで株価データを入手し、自分で決めたルールで取引するとどうなるかをシミュレーションするソフトをExcelで作った。
頑張って作ったのに、どんなルールを使ってもせいぜい年率4%しか利益にならず、これならインデックス投資したほうがマシだと思って辞めた。
ちなみにFXをやっていた頃から経済ニュースは参考にしなかった。経済ニュースを見て大金持ちになれるなら世の中の経済学者は全員金持ちのはずだがそうはなっていない。そもそも社会人で日中仕事をしている状況で経済ニュースなんて見れない。などと言い訳していたが、実際のところは勉強が面倒だっただけ。
入社した会社には、10%の奨励金を貰える自社株制度があった。1年目の最初は財形貯蓄をしていたが、1年目の終わりに自社株制度を使った良い方法を思いついたので財形貯蓄は止めた。
毎月の収入とボーナスをすべて自社株の購入に充て、次の月に売却するのである。そうすれば奨励金10%(税金を引けば8%)分が利益になる。
ドルコスト平均法のように購入時期を分散するだけでなく、売却時期も分散するのでリスクは少ない。
この方法は今も続けているが、毎年30~50万円の利益を生み出してくれている。
ここで資産が大きく増えたのは結婚したからである。結婚時は私の資産が300万円で妻の資産が800万円だった。
私の資産が150万円ほど増えた理由は、会社の寮に入っていたため家賃と光熱費を大きく節約できたためだ。具体的な金額は覚えていないが、合わせて約3~4万円だったと思う。
妻は結婚するまで7年保育士をしながら800万円貯めた。実家暮らしで、無駄遣いしない性格だったためである。
誰もが知るように保育士は薄給で激務であるため、結婚を機に辞めた。それから約5年は年収100万のパートを続けていた。
結婚は価値観のすり合わせが大事だと思うが、それほど苦労はしなかった。結婚前からお金の話や将来の話はオープンにしていた。
ただ、妻に財布を握られて投資ができなくなるのが心配で、将来のライフプランや投資で想定されるメリットなどをパワポ資料を作ってプレゼンした。プレゼンについてはかなり気に入ってくれて、投資を自由にやらせてもらえることになった。
家の家計管理も私がやることになり、毎月の家計簿も付けている。
投資については、この時期からインデックス投資をすることにした。海外株、海外債券、国内株、国内債券をバランスよく保有する形で投資信託を毎月購入していた。
ただ、リスキーな投資にも手を出しており、仮想通貨も購入した。当時の仮想通貨はバブルで、急上昇したあと急降下する動きをしたため、私は数十万円損して終わった。
新型コロナウイルスが発生した2020年である。またFIREムーブメントが起きた年でもある。
FIRE本で書かれていた内容だが、投資については昔から有名なインデックス投資のやり方のままで目新しさは無かった。ただ、FIREは投資だけでなく収入や支出などを含めた、新たなライフスタイルの提案なのだと感じた。
今の家計管理をもっと洗練すれば、早期退職できるのも夢ではないと分かった。計算してみると50歳で資産1億円を達成してFIREできる見込み。
家計管理を洗練すると言っても、既に支出はそれなりに切り詰めている状態だった。車を持たず、民間保険には加入せず、携帯は格安SIMで、夫婦そろって服も買わない。
減らせる支出は外出や外食ぐらいだったが、コロナのおかげで両方減らすことができた。この年の年間支出は約300万円。
投資については、リスク度合いを大きく引き上げた。投資信託の中身を全て米国株や全世界株に変え、資産の9割を投資信託、残りを現金という配分にした。
株式はリスクが高く金額の増減が激しいものの、長期的にみた成長率は現金や債券より高いと分かった。緊急で必要になる程度の現金が確保できているため、残りは株式にしても問題ないと判断した。
この判断のおかげで2021年には投資の利益が300万円になった。なお2021年以外の年の利益は平均100万円ほどであり、2016年以降で利益が50万円を切った年は無い。
また2020年に不妊治療を始めた。結局子供が生まれるのは2022年となるが、体外受精まで進んだため合計で100万円ほど費やすことになった。
実際は150万円ほどかかったが、市や県からの補助金、確定申告の医療費控除分を引くと、この金額である。
不妊治療については結婚後初めて夫婦の意見が大きく割れた。これまでも子供の話はよくしており、お互い子供が欲しいと言っていたが、その本気度は違った。
私は子供は自然に産まれると思っており、高額な不妊治療をしてまで欲しいと思っていなかった。普通の買い物でお金を払うときは、払うお金に対して妥当なリターンが想定できるかどうかで判断する。しかし不妊治療は、言わば高額なギャンブルである。
数十万や数百万のお金を費やしたとしても、子供が産まれてくる保証はない。子供が産まれるまでいくらかかるが分からない。そういうお金の使い方が受け入れられなかった。しかも産まれた後は2000~3000万円ほど費やすことになる。
しかし妻にとっての子供は、人生に絶対必要なものだった。不妊治療で子供ができなければ養子を貰いたいとまで話していた。
私自身は、子供ができなければそういう人生を楽しめば良いと思っていた。しかし妻は、子供がいない人生はただの暇つぶしになると言う。
夫婦の幸せを考えるなら子供は必要な存在なのだと思った。それに私自身も、今後の人生において子供がいないことを後悔するときが来るかもしれないと感じた。そういうわけで不妊治療を始めることにした。
コロナバブルのおかげで株が値上がりし、資産が3000万円に到達した。2020年に400万円増え、2021年に600万円増えたので、2年で1000万円増えている。
FIREを意識するようになって家計を見直したこと、コロナで外出が減ったことも影響し、手取り収入に対する支出の割合が50%になった(2019年以前は40%以下)。
なお2021年後半にはTwitterで話題になっていたレバナスを50万円分購入し、今では半額になってしまった。
2年続けた不妊治療の甲斐あって、息子が誕生した。息子が産まれたことで支出が増えるかと思ったが、今のところあまり変わっていない。
国や会社から手当金が貰えるようになり、外出や外食の頻度がさらに減ったので、それらのお金がおむつやミルクに消えることになった。息子の服やおもちゃなどはメルカリで安く購入し、ベビーカーは人から貰った。
3か月ほど育休を貰って育児をした。最初の頃は、自分の人生はこれで良かったのだろうかという葛藤があったが、4か月目くらいになると息子を愛おしく感じるようになった。
2023年まではジュニアNISAに入金できるため、2年分の160万円を入金した。
仕事のストレスが強かったため、将来サイドFIREできるように副業を始めた。始めた当初は一か月に60時間労働して6万円稼いでいたが、徐々に効率アップし、2022年の後半には一か月に40時間労働して12万円稼いだ。
副業を始めたことでFIREできる目標年齢が大幅に下がり、34歳で仕事を辞めてしまおうかと考えていた。
2022年は株価が下がったものの、急激な円安のおかげで資産が伸び、4000万円に到達した。資産の8割以上をドル資産にしていたのが良かった。
また転職はしていないが、仕事の内容が大きく変わったことでストレスが無くなった。34歳で仕事を辞める計画は先延ばしすることにした。
副業に対するモチベーションも下がったが、今後のことを考えると続けた方が良さそうなので一か月に20時間労働して5万円稼いでいる。
資産を築く方程式が以下だとすると、重要度合いは収入と支出が40%ずつ、残りの20%が投資というイメージ。
実際のところ収入ー支出で毎年300万円ほどになっており、投資の増分は100万円ほど。2021年は300万円増えたので例外もある。投資資産が増えるほど福利効果を感じられるようになるというが、減少するリスクも高まるのであまり安心感は無い。
家は今も今後も賃貸アパートの予定。妻は一軒家に憧れがあったが、理想の家を手に入れるには1億円かかることをYouTubeで知り、中途半端な家に住むくらいなら賃貸で良いという考えになった。
車も持つ予定はない。ただ子供が産まれると車があれば便利だなと感じることが増えた。電車で人に迷惑をかけることがないし、行動範囲も広がる。それでも車を持たないのは夫婦そろって10年以上のペーパードライバーで、運転すること自体が怖いから。
保険については、妻は家系にがんの経験者が多いため入りたがっている。その話になる度に、保険商品は確率で考えれば損になること、資産があれば保険は不要であることを説明している。
現在保有している資産の割合は以下で、現金以外は米国株と全世界株。
投資信託:25%
毎月の投資額の内訳は以下の通りで、自社株を除けば毎月18万円投資している。なお年2回のボーナスには手を付けず、毎月の投資額の一部となっている。
自社株:20万円(一か月後に売却)
投資信託:8.3万円
ETF:7万円
・下落相場では資産額が半減することは覚悟し、絶対に損失確定はしない
投資のことは自分なりに勉強&実践してきたつもりだったが、振り返ってみると収入を増やして支出を減らす方が効果的だった。今後も資産が増えれば福利効果を強く実感できるかもしれない。
資産の増減には昔ほど動揺しなくなった。大学生のとき30万溶かしたのはかなりショックだったが、今では30万円程度の増減は日常茶飯事。たまに大きく動いたときには1日に100万増減する。動揺しないのはインデックス投資に対する信頼が強いため。
将来の目標は息子が小学生になるまでに仕事を退職することと、息子に1億円の資産を残すこと。
これからの時代は子にお金を残さないといろいろ厳しいかなと思っている。ただ息子がお金を無駄遣いするような性格だったら、あまり残さず夫婦で高級老人ホームに入りたい。
推しの子 原作未読、アニメ2話まで観た。 「これ、この先 面白くなるんか?」と思ってしまった。
復讐した後はどうするんだろう?
たとえ主人公(アクア)が復讐に成功したら、主人公が死刑・無期懲役になる・あるいは完全犯罪の結果で面白いか?
同情できる部分があまり無かった。
これが風貌も能力も惨めさがあるような、何も逆転挽回できなさそうな、とか何か弱みがある主人公だったりするとその主人公に感情移入できるけども。
頭の使い方によっては大器晩成(とか、主人公の目的である復讐遂行が可能)だろうなっていう要素がいくつかあったりするせいか同情できなかった。
その人生経験がイチ芸能人や文化人のキャリアとしても面白くなるんだろうか?
俳優で面白い人って、面白い人生だったり面白い生き様だったりするんだけども。
芸能界って多分いろんな人がいるわけで、 例えば昭和の俳優では波乱な人生を送ってきたり、型破りだったり、懐がかなり大きくて自分の悩みが包容されるぐらい認めてくれる人って多からずともいると思う。
そうなると自分よりすごい人出会ったりすると、悪い意味で言うなら丸め込まれると思う。復讐心も含めて自分を貫く事ができないんじゃないかと思ってしまう。
そういう人に出会って、復讐心が折り合いつけれて、自分の生き様を肯定できるようになればいいけど。 そういうのは娯楽作品としては面白くないんだろうな。
主人公が消去法かで元凶人を予想をしていたが、当たっているかよくわからなかった。「主人公の勘違いでした」的な展開にするのか?
主人公も、ヒロインを殺した犯人と同じような、強い思い込みでの犯行をしてしまうのでは?
母(ヒロイン)が子供に望んでた事って、復讐加害行為ではない(復讐は母を悲しませる)的な展開になるのではないか?と。
主人公が元凶の人を特定・解明させたとしても面白いんだろうか?
無いとは思うが、「ヒロインの子は、提供精子や人工授精で双子だった」的な展開だったらどうなる?主人公の立場や人生が居た堪れなくなる。
そこらへんの心情の設定が分からないし、反抗期にホルモンバランス的に肉体成長が反抗期特有のキレやすさに作用してたのか?
恨みを押し殺してたとしても問題行動やサインはあるはずで。心のバランス的な整合性をどう保っていたのだろう?と。精神的に病まないのも変。
主人公のルサンチマンの折り合いをどうしていくか?的な描かれ方でもするのだろうか?
カイジ的な精神的な成長を、観てるこっちとしては感情移入的に伺えればいいけど。
芸人だったら自分が抱えてるネガティブな事を自分の芸・ネタや活動に昇華できる可能性があるけど、俳優などの演者のままだと溜め込む事が多いのではないかと思う。病むと思う。
一応、小手先のように、ギャグ的な笑い(あるある系・すれ違い思い違い系・メタ系)を挟んでるけど、霞んでしまう。そういう「面白い」とは違う。
322 ななしのよっしん 2023/04/15(土) 18:50:00 ID: /gZKxh1iVt
自分は異世界転移・転生もの普段観ないから分からないけど一般商業的に、再度ヒトへの転生ものを現実舞台でやらないであろう理由って荒唐無稽に見えて無理があるからなんだな…。何でもありになっちゃうじゃんか。面白くない。
あと、この作品ヒロインが双子を産んでるが、 理屈的に 産んだ子が一度脳死とかしてないと、これ双子を産んでても実質 1子も自分(ヒロイン)の子を産んでない事にならないか?
それは本当に自分の子なんだろうか?ってならない? だって、脳が移動しただけに過ぎないじゃん?
想像妊娠?
ちなみに↑が自分がニコニコ大百科に投稿した書き込み。あれからモヤモヤしてたので視聴を見切る判断のために2話目も視聴をした。
大学と将来については、社会が誤解させている面と矛盾がかなりあって、ずっと気になっている。
そもそも、いわゆる「文系」だと、やった勉強内容を職場で活用しない事はとても多い。
ぶっちゃけ何学部卒かより、面接の時にどう説明できるかの方が重要。
卒業した学部と関係ない仕事をしている人は山ほどいるし、自分が採用を担当する時も、学部は山ほどある参考要素の極一部しかしない。
あとは、大学に進学する前に「大学」とは一体どんなものか、自分で考えられる・調べられるような人材を求めている、という部分もある。
もちろんわからない生徒も沢山いるから、大学が就職予備校ではないと伝えるのは、高校の役目だ。
勉強内容が仕事に役立たないのになんで企業が大卒を採りたがるかというと、大卒(できれば高偏差値校)の方が確率的にマシな事が多いから。
人材の見極めをサボっているとも言える。
就活はむちゃくちゃ大変だと思うけれど、今は昔よりずっと転職しやすくなったので、仮に上手く行かなくても挽回できる。
→100点を目指してたまにマイナス100点を取るぐらいなら常に60点がいい
→相手の立場に合わせて言葉を変えるとリソースが消費されるので職場では常に丁寧語。
→咄嗟のときにタメ口にならないように独り言も丁寧語にしておくと安心。
目的:アバレージでの生産性を高める。仕事のクオリティに対する信頼度を上げる。
目標:ケアレスミスを減らす。ミスの挽回にかかるコストを逆算し、それより少なければミスを減らすための新たな作業を追加してもトータルの生産性は高まる。
手段:資料作成時の自分と、作成後の自分によるダブルチェックにより、ケアレスレベルのミスだけでも無くす。
・あらゆる入力箇所に対してチェックをする
→誤クリックからの誤入力などがあるので全ての場所に危険が潜んでいる
→空白部分への誤入力も警戒
→修正後にもう一度見比べるのに使用する。修正箇所が2つ以上になった場合全てを覚えていない可能性を常に警戒。
・作業中にミスを発見したら、後でまとめてではなくその都度修正をする
→赤ペンを入れただけで満足する可能性があるので、なるたけ修正は1つずつやっていく。よほど入力に手間がかかる場合は……注意力を高めろとしか言えねえ……すまん。
目標:自分の送受信だけでなく相手の送受信も。また記録を残すことで忘れることと忘れられることの両方を軽減。
手段:音声情報はその場その場で消えてしまうので、なるたけ文字でやり取りする。
・電話や口頭伝達を減らせる機会があったら積極的にメールやチャットを使用
→チャット画面が後から消えてしまう場合、重要箇所はコピーしておくと吉。言質を取るのもあるけど、自分が忘れるのをまずは防ぐためにも。
・資料などに対して口頭で説明をする要素を減らすため、全部資料に書いてしまう
→資料のフォーマットで入力できない部分は付箋を使用する。パワポでの発表時は自分のアドリブ力は信じずカンペを読んでしまえ。
・音声で伝えられた情報は積極的にメモする。相手に伝えるときも相手にメモしてもらう。
→電話口で「これからその人の電話番号をお伝えしますが、メモは大丈夫ですか?」と聞くノリで。その範囲を多めに持っておく。
→「メモするほどじゃないよ」と言われた時ほどメモした方がいい。そういう相手ほどいざこちらが忘れた時に「は?なんで覚えてねえの?キチガイか?舐めてんのか?死ぬか?」みたいなノリで接してくる。
→ぶっちゃけ『俺の説明は完璧だから相手は一発で内容を覚える』とか思い込んでる時点でその人もまたアスペ。それも無自覚なタイプなのでこっちがその分をフォローしてやらんとなのですよ。
→アスペ同士の補い合いは社会じゃ結構よく出てくるので、面倒くさくても自覚のある側が多めにコスト払ってあげよう。自分も人にやらせてきた事だからね。