はてなキーワード: 嘲笑とは
「サイコパス」って言葉は、理解できない残虐な悪事をした悪人に対して
「良心のない、普通の人間とは全く違う精神構造の人間だ」と思いたくて生まれたレッテル貼りではなかろうか。
実際は信じられない残虐非道なことをした人間でも、殆どはサイコパスではない。時に優しさや正義感を見せる。
少なくとも私は、私や大切な人に平気で酷いことができる人間はサイコパスであってほしい。
実際は全然違う。
女性をレイプして一生トラウマで人生を破壊しておいて平気な奴が。
可愛い猫を愛でている。
ふざけるな!!せめて、血も涙もないサイコパスであって欲しかったのに!
どうしてサイコパスじゃないんだ、ふざけんなよ!!
私が小学校の図書室に足しげく通い始めたのは上級生にいじめられてからだった。
何人かの同級生と校庭でサッカーをしていたところ、上級生がやってきて遊びに混ざった。
私はキーパーを任じられた。
小学生にはゴールポストは大き過ぎた。チビだった私にボールを止める力などなく、相手チームはどんどん得点した。
私が守っているゴールポストに近づいた上級生は、みんな揃って私を罵倒してからシュートを決めた。
我慢できなくなった私はその場から逃げた。泣きながら校舎に向かって走る私の背後から嘲笑が聞こえた。
「読書は心を豊かにする」などと言われる。個人的な体験を振り返ると、当てはまらない人間もいると私は思う。
実際、私は小学校4年生くらいから図書室で本を読む習慣ができたが、それ以前と以後を比べると以前の方が楽しかったように思う。
図書室で一人読書に耽るよりも、校庭を駆け回っていたころの方が生き生きとしていたと思う。
読書が無駄な行為だとは思わない。ただ、読書をすることで心が乾ききってしまう人間もいると言いたいのである。
聖書からラノベまで様々なジャンルの本を読んだが、特に満たされた感覚はない。むしろ、自分の限界を知り空虚な気持ちにさえなった。
学生でなくなってからも私は地元の図書館に通っている。本が身近なところにないと落ち着かないし、不安感にも襲われる。
これが「豊か」なのかと自問してみるが、そうでないことは明らかである。
長々と書いたが、これは私の個人的な体験であり、普遍的なものではない。
当たり前だけどすごい老けてるよな、もう83歳だもんな。
そんなよぼよぼ爺さんの人が不用意な発言をして批判、というより「またコイツなんかいってんぞ」って嘲笑まじりに叩かれているのが辛い。
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
元記事
かつてニコニコの動画の一部で人気を掴むも度々炎上騒動を起こして引退した元人気歌い手、鋼兵氏にはある陰謀論が囁かれていた。
彼の正体は実はネット史上最大規模の荒らしであり、古今東西に存在した各所の荒らしやクソコテはほぼ全員が彼と同一人物だったというものだ。
ネットウォッチャーとして情報を追っていた人間の一人なので経緯とかもう少し詳細に書いてみるよ。
勿論そんなわけがないので普通の鋼兵アンチとは別にこの陰謀論を提唱する人間は基本統失扱いされ、なんJ等では『鋼兵民』として嘲笑されている
ちなみにネタ書き込みとかでなく各所にまとめ動画や大量のまとめwikiが作られたりして今も粘着され続けている
便宜上名義は一部統一してる。時系列も若干前後あるかも。ただ大筋はあってると思う。
※あくまで陰謀論の経緯をまとめていたもので鋼兵氏の炎上騒動や各クソコテの荒らし行為を擁護するものではないというのは留意して読んでほしい。
アンチも相当な数作ったので引退後もアンチスレはそこそこ盛り上がり続ける。
↓
ある日、歌い手鋼兵のアンチスレにいた名無しの荒らしが「私は実はF9(有名荒らし)と同一人物だ」との旨の書き込みをする。
↓
鋼兵アンチスレに存在する荒らし=本人の自供が「決定的証拠」として扱われF9=鋼兵という陰謀論を鋼兵民が広めだす。
しかしこの荒らしは表面上は当然単なる名無しであり、鋼兵がかつて使っていたトリップが一致していたとかbeログインしていたとかそういう紐付けが何一つない状態なのだが、
この辺りの裏付けは一切ない状態にも関わらず「鋼兵のアンチスレを荒らすということは鋼兵本人に違いない」ということにされる。
↓
鋼兵民、
「クソコテ同士がTwitterで相互フォローになっている 同一人物説が濃厚」
「このクソコテとこのクソコテは両方猫が好きという特徴が一緒だ」
という統失丸出しのこじつけで古今東西の荒らしを次から次へと同一人物認定していく。
徐々に全体像が膨らんでいき、「ネット上に存在した100人以上の全荒らしは鋼兵と同一人物である」というモンスター級の像ができあがる。
↓
また別の日、自称鋼兵が鋼兵アンチスレに降臨し自分の本名・住所とその証拠だという画像を投稿。
これが「本人が書いてるのだから事実に違いないだろう」という扱いになり、本人とされる住所や本人にポスティングなどの物理的嫌がらせが広がる。
「自分の住所を特定して嫌がらせしようという旨のスレに何故本人がわざわざそのような投稿をするのか?」
という疑問は当然出てくるが、その辺りを突っ込むと本人認定されだす。
↓
鋼兵民、連日嫌儲やなんJや増田に「同一人物で確定!」という旨の内容を書き込み、各種wikiサイトに大量のまとめwikiを作成し、ニコニコにもまとめ動画を投稿する。
内容は言うまでもなくほぼ妄想で、裏付けとなる情報は一切記載されていない(あっても上記レベル)が、
何も知らない5ちゃんねらーやニコニコユーザーにはそれっぽく見えるため一時期かなり広まる。
↓
後日自称鋼兵と名乗る謎の人物が「自分はF9や( ○ ´ ー ` ○ ) はスバラシイ、ヘアプア、糞虫小僧等(各所の有名クソコテ)と同一人物で、wikiにある内容はほぼ事実だ」と認め謝罪する。
鋼兵民の間では「本人が自白した」とされ、加えて「本人は引退しているとはいえ嘘だったら黙っているわけないから事実に違いない」というエクストリーム理論でまたもや「決定的証拠」とされる
↓
鋼兵民、ハセカラ民を味方につけようとなんJ関連のwikiに鋼兵=ネット中の全荒らしと同一人物説の陰謀論を掲載しようとするも、荒唐無稽な内容のためハセカラ民に証拠の提示を求められる。
当然何も答えられない上に疑問を示すハセカラ民に「鋼兵乙」「本人が否定してないのだから事実に違いない」などと統失丸出しの発言を喚き散らすため、面白がられてここから『鋼兵民』という蔑称がつく。
↓
鋼兵民、言動が面白いと知れ渡ったため「鋼兵の歌い手時代の行いを批判するアンチ」とは別に
「古今東西の全荒らしは全員鋼兵と同一人物とか言ってる統失患者」を笑うために鋼兵民ウォチスレが別途立つ。
拡散されたまとめwiki等の実態もこの辺りから個人の統失患者か過激派鋼兵アンチが極少数で作っているものとの認識が広がる。
↓
「黙ってたら頭おかしい奴にネット中の全荒らしと同一人物ってことにされてヤバかったわ」という旨の記事を投稿し、当然全ての風説を否定する。
ガバガバなりにも「本人による自白や謝罪」を拠り所としていた鋼兵民に対し「じゃあ今まで謝罪とか自分の住所投稿とかしてたあいつは誰だったんだよ」と当然ながら突っ込みが入り、鋼兵民の間で衝撃が走る。
現在鋼兵民は「各クソコテと鋼兵本人が生放送で共演でもしない限り否定したとは言えない」とか「俺達を陥れるために矛盾した情報を鋼兵本人が流しまくっていた」とか妄言をのたまい続けている。
増田やニコニコなど関係性の薄い掲示板では「100人以上はないにしても( ○ ´ ー ` ○ ) はスバラシイ=F9=鋼兵くらいまでは事実なのでは?」という認識を持っている人間もいるようだが、調べればわかるが実態はその時点から超ガバガバ理論でこじつけられている。
住所や本名もこのような経緯なのでまあ十中八九妄想だと思われる。
現在もネットの各所には鋼兵陰謀論については多くのwikiが存在するが、基本は上記内容をガバガバ理論でまとめているものである。
平日昼間からスレを支配している統失が陰謀論に疑問を投げかけた各所の書き込みのIDをまとめて同一人物リストを作っていたりVTuverスレに湧く商業スパムが自分の書き込み時間と連動しているからこいつは鋼兵だと毎日こじつけていたりとかなりカオスな状態を極めている。
これがハセカラ騒動と大きく違うのは、あちらは「意思を持ったそこそこの人数の愉快犯集団によるもの」であり、道義的には完全に間違ってるのだが一応理路整然とした思想のもとに動いていた。
一方鋼兵民騒動は「(恐らく)精神疾患患者の極少数人が積極的に動いたもの」で、似たような問題でも実態は大きく違うものと思われる。内容に裏付けもなければ、その言動は支離滅裂を極めている。
恐らく、この記事を書いた自分も彼らに見つかったらその瞬間鋼兵という陰謀の一部にされてしまうのだろう。
狂人であっても馬鹿であっても行動力ある個人が全力で情報を発信するとこんな感じになっちゃうんだなあって、なかなか面白い経緯なのでまとめてみたよ。
勉強法について指針をこうしようと思う。これについてどう思うかアドバイスが欲しい
と書けば、お前はテキストすら読み込んでない。つまり最初からテキストをやり直せと見当違いのことを言われたが
結果はどうだ。そいつの意見を聞かずに自分の当初の考えを貫いて新しい問題集を買ってより多くの問題に触れることによって無事に合格した
無論、その間にテキストを開き直すことはなかった。そもそもテキストレベルの知識は備わっているから開く必要もなかった
何が言いたいのか分からないと書かれていたが、言いたいことなんかない。単にチラシの裏に駄文を書く感覚で書き捨てただけであって
そこに主義も主張もないのだから、言いたいことが分からないのは当たり前だろう。むしろそこから何を読み取ろうとしてるのか不思議である
文章を斜めに読み、俺という人物を分析して、よくわからない人物像を作り上げて、その虚像に対して攻撃を仕掛ける
という一連の行為をしているネット民を見る度に不思議でしょうがないのだ。こいつらは一体誰と戦っているんだろうかと
断片的な単語から、自分にとって都合の良い悪者を作り上げて叩いてる様はなんというか、あまりにも滑稽に映るのだ
一歩引いてそいつらの反応を見ると、全員どこかズレているのだ
俺という人間を見ているようでその実、俺のことは見えていないのだ。それぞれが俺の後ろに架空の悪者を作り上げ、そいつに向かって石を投げているのだ
俺の視点から見れば、俺に向かって石を投げているように見えるので、時には反撃もした。するとどうだろうか
あいつは反撃してくるから悪いやつだ。やっつけろと周囲を巻き込んで更に騒ぎ立てるのだ。何を言っても否定される様はもはや魔女狩りである
当然ながら、信頼に足るソース元がある時はそれを明示したうえで反論をした。しかしそんなものは無意味である
こちらがいくら相手の言葉に応えようと、相手は聞く耳を持たないのだ。都合が悪ければ黙殺するだけだからだ
考えてみれば当然である。相手の目的は(架空の)悪者を退治することであって、悪者と話をすることではないからだ。いわゆる勧善懲悪の展開以外は受け入れる気がないのだ
最近は相手にしたところで得の一つもないと学んだので、変なのが視界に入った瞬間にページを閉じることにしている
もしくは変なのが視界に入るだろうと予想できた時点でページを閉じて自分の中のほとぼりが冷めるまで待つことにしている
ちなみにこれを別の場所で書いたところ、「それって逃げてるだけじゃんw」と嘲笑されたこともあるが、逃げてるから一体なんだというのだろうか
そもそも勝負事ではないので、勝利も敗北も逃げもクソもないし、強いて言うならば俺は俺が不快に感じなければそれで構わないと思っているので
「私は関係者であるがゆえに、その言葉には意味を持ち、人々は耳を傾ける。その言葉が主観的であろうと客観的であろうと、個人的であろうと公的であろうと」
込み上げてくる違和感の正体を突き止めるのは早かった。
いや、むしろ遅かったのかもしれない。
「コンビニの業務について語れば私はコンビニの関係者だ。ブラック企業について愚痴を吐けば立派な会社員といえよう。踊れなくてもいいのならダンスの関係者にだってなれる。直接的に関係がなくても、少なくとも、その場において私は関係者なのだよ」
こいつが挙げている例はテキトーじゃない。
実際に、俺の身に起きた出来事だ。
「まさか……あの変な客たちも、あんたの息がかかっていたのか!?」
「息がかかっているというのは正確ではない。あれもまた関係者。私であり私でない存在」
体中の産毛が逆立つのを感じた。
全く共通点のないバラバラのピースが無理やり繋がったようだった。
たが繋がったというだけで、完成した絵が何なのかは未だ見当がつかず、それは意図的に怖く描かれた絵画よりも遥かに不気味に見えた。
「つまり君は“半信半疑”で、“話半分”で今まで聞いてきたのだな」
「そうだ、それの何がおかしい」
「自分には関係のない話を“半分も信じて”おいて、“半分も聞いて”おいて、それで何人も対応してきておいて、この期に及んで“最初から変だとは思っていた”と言い出したのだ。自分は冷静に振舞えていて、客観的に情報を精査できているという驕りがなければ、絶対に出てこない言葉だ。これが笑わずにいられるものか」
実際、俺は今まで珍客たちの素性を疑ってはいたものの所詮“疑っているだけ”に過ぎなかった。
その疑いは、俺に何の影響も及ぼさない。
信じていようが疑っていようが、話をどれくらいの割合で聞いていようが、同様の接し方をしてきた。
だけど、それも含めて奴らの思う壺だったわけだ。
「一体、何の目的でこんなことを……」
「聞いてどうするのだ。そんなの君にとって、どうでもいいことだろう。それが真意であるかどうかすら君には分かりようがないし、分かることが可能だとしても、君はそのために労力を割きたくはないだろう」
そう吐き捨てるように去っていくと、“13人の客”は二度とこのビデオ屋に来ることはなかった。
結局、奴らは何がしたかったんだ。
俺が気づいていないだけで、何か重大な秘密が隠されているのだろうか。
いや、そうだったとしても、この出来事は俺にとって“盛大な冷やかし”でしかない。
たぶん奴等は、今もどこかで手を替え品を替えて、俺みたいに耳を傾ける人を冷やかし続けているのだろう。
「うっせぇわ」という曲が話題らしい。
かなり大きなヒットとなっているらしく、ついには近くのラーメン屋にその音が流れだす始末である。
その時は、
「あのサビの不協和音とかが聞き手にとって良いアクセントになっているのだろう」
と、
音楽素人風情がもやしを頬張りながら感じた程度であったが、どうやらそれどころではなさげな感じだ。
その現状は
・高い再生数
等々々が物語っている。
かなり直接的かつ攻撃的にみえるものであり、厨学二年生的な全能感と痛々しさに溢れているような歌詞である。
大学生の自分ですら「こういった時期あったなぁ」とか少しノスタルジックになってしまった。
歌詞を見る限りは、
いわゆる難関大学を卒業した「社会の優等生」がルサンチマン拗らせてコンプ発症しました
といった感じのシチュエーションだろうか?
もしくは、
あたりだろうか?
嘲罵された、あるいはそう思っているだけの人間」
であるようには感じた。
なんとなく思うのは、
「この曲に気づいてはいけない」
ということである。
内容自体は、尾崎豊やamazarashiなどが
若者の苦しみなどを各々の文学的センスに包んで提供してきた「それ」に類似したもの
かもしれない。
しかし、この曲が圧倒的に違うのは
「汚く品のない歌詞」
とでも言うべきその短絡的表現、そしてレスバトルでのマウンティングのような直接性にある。
「私を見ろ」
と喚いているだけなのかもしれないのだ。
こうなったらどうしようもない。
同じ土俵に立つ(反応する)時点で相手の目的は達成されてしまうからだ。
もし無視しようとしても、あの奇天烈な音階のサビと尊大な発言に否が応でも
「何言ってんだコイツ」
とか
「手前よりまともだわ」
とか
「そんな時期だよねw」
とか
反応してしまう。
しかも大抵は相手にとって嘲笑・侮蔑となりかねない反応である。
共感する人たちからすれば気に食わないものであり、荒れるのは必至だろう。
延焼する野次馬もやってきて、更に注目する人が増える。
そうして「あの子」は色んな人に見てもらえる。
歌い手の方は歌詞のバックグラウンドに共感し、若者として歌ったのかもしれない。
しかし、その歌詞は一般的な「お約束」を踏みにじるかのような逸脱したものだった。
故にたった今、自分たちはこの曲に踊らされている。
すっかり手の届かないところまで中国に先行されるとは思ってた?思わなかった?
で、お前はこの20年間に何をやってたの?20世紀の日本の遺産をバカ面晒しながら食い潰してただけ?
(追記)
ブコメありがと。タイトル「嘲笑してたやつ」にすべきだったね。
「いやあのビジュアル笑うだろ」っていやそういうことじゃねえんだよって思ったけど言葉の選び方が雑な俺が悪い。
20年前は未就学児だった。
34歳、女。
三白眼、瞼は分厚い一重。
何よりも鼻がマズイ。正面から丸い穴が丸見えの、いわゆる豚っ鼻。
男子が私の顔を見て笑ったり、オエーと吐く真似をしてきたので、徐々に自覚した。
両親も「増田はパッチリした二重に生まれればよかったのにねー!」とか言ってきた。
私に触ったり、話しかけたり、告白したりすることが、男子にはものすごく屈辱的な行為らしかった。
猛勉強して、地元では一番偏差値の高い高校(女子校)に進学した。
美人のクラスメイトを見て落ち込むことはあっても、誰も私の顔をからかったり、あからさまな侮蔑の目を向けなかった。
こんなブスに欲情する男なんていないだろうと嘲笑われるのが怖くて、同性の友達にも言えなかった。
大人になってから、痴漢はそういう心理に付け入ってわざとブスを狙うパターンがあると知った。
今でもたまに流れてくる、女性専用車両を利用したいと答えるおばさんたちと、どこでもいいと答える若い美人の例の画像を見ると、ほんとうに苦しい。
あれに心から傷ついた女が何人いるんだろう。
大学も女子大がよかったが、実家から通える距離にないし、仕送りをする財力もない家だったので、泣く泣く共学へ。
でも残念なことにめちゃくちゃ性欲がある。
風俗を利用したとき万が一避妊に失敗して妊娠したら、両親になんていえばいい……?
どんなに勉強ができても、仕事をこなしても、いつだって女は顔顔顔。顔の評価がついて回る。
男の学者がチー牛顔でも、ほぼ揶揄されないけど、女の学者は、男からめちゃくちゃ上から目線でルックスを品評される。
化粧してもダイエットしても素材がマズすぎて清潔感のあるブスにしかならないんだよ。
整形も考えたけど、一生自分の元の顔を否定して生きていかなくちゃならない十字架を背負える自信がなくてやめた。
このまま、死ぬまでずっと、ブスに生まれた不運を嘆いて生きていくんだ。
私、何も悪いことしてないのに。畜生。
世代の主観が思い切り入っているけど、個人的には90年代半ばを分水嶺として、そこで起きた変化が現在でも続いているように感じる。
90年代の人間にとって尾崎は心底共感はできないし、もう古いんじゃないかと感じてはいたけど、一応何を言いたいのか、伝えたいのかは理解していた。学校の反抗文化は廃れつつはあったが、かっこいいという雰囲気もある程度は残っていた。
しかし00年代になると、若い世代が共感以前に「さっぱりわからない」になった。当たり前だが、上の世代が「布教」しようとすればするほど、若者は遠ざかった。俺も80年代世代の「布教」は正直うざく、自分の中でも尾崎豊は嘲笑の対象になった。
最近尾崎豊を見直しているのは、歳をとって客観的に見れるようになったのと、自分の体を痛めつけて命を削るように歌っている姿が、理屈抜きにすげえなと思うようになったから。今でもたまに10代のファンがいるけど、歌詞やメッセージではなく、その完全燃焼の生き方やパフォーマンスに新鮮さを感じているように思う。
私は刀剣乱舞というゲームを通して刀が好きになった。美術館博物館に足繁く通い、刀を見ていた。
その名を五月雨郷という。
五月雨郷、あるいは五月雨江とされる刀はさまざまな家を渡り歩き最終的に尾張徳川家、徳川美術館所蔵となった刀である。郷義弘が作刀、江派の打刀だ。
チラ見せの段階で江だと分かり、雫型の耳飾りだとかで五月雨江では?と囁かれるのに推しの実装が怖くて怖くてずっと拒否していた。推しが来るなんて耐えられない、と。
でも実装されたら、すていじあくとに加えてもらって、何を愛するんだろう。晴れを切望なんてちょっとありきたりだろうか?村雲江とペア枠になるとか?回想で後藤くんとか亀甲とかの会話があるだろうか?何が来るんだろう!本当に楽しみだった。ただただ怖くて、ただただ楽しみだった。
『越中国の刀工、郷義弘作の打刀。景色を名に宿した名刀は華々しき来歴を辿るが、その言葉には同じ時代を生き、名を詠んでくれた俳人への思いが表れる。
行雲や犬のかけ尿(ばり)村時雨』
https://twitter.com/tkrb_ht/status/1333334963043790850?s=21
北へ向かったこともない。初めて見初められたのは福岡である。黒田長政が購入し、徳川将軍家に献上したところから彼の歴史は花開く。一番北は加賀か江戸かである。
私は俳句に明るくない。必死に松尾芭蕉を調べた。もしかしたら尾張徳川家とただならぬ仲があったのかもしれない。調べて分かったのは「五月雨」と詠んだ句が結構あることくらいであった。
中学国語程度の知識しかない人間でも知っている「五月雨や集めてはやし最上川」に始まり、10以上残しているらしい。私が適当に地元の図書館で借りてきた句集にはそれくらい載っていた。
忍どっから出てきた?
犬耳なんだ?
『行雲や犬のかけ尿(ばり)村時雨』
五月雨を使った句は素人が適当に図書館行くだけで10以上見つけられる。
集めて早しがダメなのは艦これにいるからまあわかるとして、何でいくらでもあった中で五月雨も関係なく、ぱっと意味の分からない犬のおしっこなの?
※この俳句の意味は犬がおしっこしていくみたいな速さで雲が流れては戻ってきてという天気の移ろいを歌った少し面白い歌らしい。(http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sigre0.htm)
ゲームをしていない人、入手できなかった人、何よりやっていても第一印象が犬のおしっこである。
この場合の村時雨は降ったり止んだりの雨なので五月雨と意味はほぼ同じとはいえるが何で犬のおしっこなの?汚いでしょ。
そして顕現セリフもまたひどい。
『郷義弘が作刀、名物、五月雨江。え? これですか。これは前の主に対しての義理のようなもの。
それよりは、同じ時代に生きたあの方への思いの方が強いのです。そう、私の名前を詠んでくれた、あの方への……』
これが指すものがはっきりとしないが、他のセリフと合わせるに多分犬関係の部分である。
犬といえば生類憐みの令。犬を大切にした彼への義理である、と。
だが悲しいかな、ネット上では「犬公方」が元だという考えが散見される。はっきり言いたい。
義理というか直接的にdisってる。生類憐みの令が元だと言ってくれ審神者。全然義理とか思ってない、前の主を嘲笑うクズ男士になってしまうから。
また、刀帳説明において『五月雨江です。五月雨の季節に打たれたことからこの名がついたとも言われております。』と発言しているが、現在この記述が確認できるものはない。由来は
・五月雨の頃の極められた
・五月雨のように美しい刃文
創作というか嘘をつくな。
もう一つ言いたいが忍どっから来た。松尾芭蕉からならひどいトンチキ説を採用したな……と呆れるし、柳生新陰流とするなら遠過ぎてびっくりするぞ。というか五月雨郷が尾張徳川家にやってきた段階では柳生家はもう剣術の指南を中心にしてて忍者だった頃じゃないぞ。あと忍者だった頃っていう概念で行くなら奈良と伊賀の間辺りなので本当に五月雨郷関係ないぞ。
さて、ここまで前置きというか許せない部分の羅列である。
松尾芭蕉の刀だと思うだろうか?元の主に忍がいると思うだろうか?俳句に関係する何かがあると思うだろうか?
刀剣乱舞のログイン画面には「この作品は創作であり、史実等とは異なる場合がございます」とある。
だから史実と異なるキャラだとて仕方がない、それでも史実を叫ぶ人間は史実厨と呼ばれ嫌われる。
史実と異なる創作(本来は死んでいる人間を生かしている、史実では否定されている戦況などを使用するなど)を批判する人間に対する蔑称である。
行き過ぎた史実に対する想いは時に創作の幅を狭めるだろう。どんなに史実を愛しても司馬○太郎がある限り史実のみの創作なぞあり得ない気がするけれど。
閑話休題。
五月雨郷とキャラクターの五月雨江とではあまりに史実からかけ離れている。
その上史実を語る場=回想が一個もない。江なのにすていじあくとさえない。
もっと苦しいのがその直後に実装された真田の二振りにも監査官さんにも大量の回想があることだ。というか回想なし実装は2018年末の袮々切丸以来である。二年ぶりの回想なし男士だ。
何故犬で忍者で松尾芭蕉ファンで元の主の話をしてくれないのか一切分からない。何も語ってくれない。
五月雨郷という刀は犬のおしっこも関係なけりゃ元の主を犬公方とバカにもしない。
男士としての彼は何も言ってないとわかっていても審神者特有の深読みで変な謗りを受けるのは刀剣男士の五月雨江で、刀剣の五月雨郷だ。
全部が全部、今までかの刀が作り上げてきた全てをぶち壊して新しいものを勝手に創作する割に名前だけは堂々と名乗るのだから質が悪い。
いっそ関係のない刀だと明言しろ。徳川美術館にある五月雨郷と一切の関係がないと言ってくれ。そしたら私は自分の推しが汚いものとして凌辱されたと泣かずに済む。
私は刀剣乱舞が好きだった。だから六年もずっと私の本丸を稼働していたし、金だって大量とは言えないけど課金したしグッズ買ったし推しを愛したしリアイベ行ったしてんごだってデビューしたし円盤だって買ったし私なりに推してきた。
人生で初めて同人誌も出すほど好きだったしいつか来る五月雨江という刀剣男士を待ち望んでいた。
私が求めているのは、五月雨郷という実在の刀剣の名前を騙って創作という免罪符を振りかざすな。それだけである。
何度も言われた。刀剣乱舞は創作なんだから。刀剣乱舞は史実とは違うから。私自身も何度も何度も創作だから仕方ない、創作と史実は違うのだからと必死に自分に言い聞かせた。
でも、やっぱり、許せないのだ。
刀剣乱舞は、国と共同で日本博に出るなどここ最近は文化の担い手として伝統を伝える試みを多くしている。それを行うところが五月雨郷という一振りの刀を適当なキャラメイクでキワモノ実装した。創作という免罪符を元にして。
今この世にある刀に汚いもの、元の主の蔑称を体現するものとして認識させるのどうかと思う。
創作であるという免罪符を、文化の守り手を自称する企業が振りかざさないでくれ。
私のことを史実厨だと謗ってくれていい。それで五月雨郷という本当に美しい刀が不当に扱われないのであれば何度だって声をあげる。五月雨郷という刀は本当に美しい。私が愛した刀は、何物にも変えられないくらい美しい。私が一番好きで、何度でも見ていたい刀である。
キワモノだからと、犬耳だからと、どんな刀か知られずに松尾芭蕉のことしか語らない刀であると認識しないでほしい。犬も基本関係ないし、歴史がないわけでもない。
五月雨郷が歩んできた歴史全てを蔑ろにして松尾芭蕉という誰もが知っている要素を組み込んで出来上がったキャラクターは可愛いか?
信長も秀吉も家康も持っていない、有名な武将の手に渡っていないそんな刀の創作は、誰も知らないから好きにしていいのか?
もう一度言う。
五月雨郷の美しさを知ってくれ。
五月雨郷は本当に美しい。
でも、間違った意識というのはあまりにも容易く色々なものを壊すこともある。創作は免罪符ではない。
Twitterを見た。
様々な意見が噴出している。私が見た範囲が全てとは思わないがいくつか言うべきかなと思って追記だけつける。
1.他の刀剣もだろ。
A.私の推しじゃないので史実確認できるほど詳しくないです。各々当該刀剣が推しの人が叫べばいいと思うのに五月雨郷だけ叫ぶなっておかしくない?
生類憐みの令が元だって審神者全員が言ってくれたらそれは構わないよ。犬公方っていう言葉と五月雨江をつなげるツイートをいくつか見たからこその意見だよ。
3.犬の尿は汚くない
汚いよ。俳句としては汚くない意味でも、今の時代にそれを検索なりなんなりして意味を調べる人間がどれだけいる?
第一印象で俳句の意味など全て知らずに犬の尿だけを覚える人間って多分思ってるよりずっと多い。だから嫌だと言ったし、俳句自体が汚いとは言ってない。
知ってるよ。でも今出した意見は松尾芭蕉=忍者説と柳生新陰流における忍者の話だけだよ。
柳生家と関係があるのは尾張徳川家にいたときだけで、五月雨郷が尾張徳川家にいた時点で柳生家は剣術指南の家だったという話。なお柳生家が忍者じゃない云々に関しての議論は別なのと尾張といえば忍者は伊賀の町おこし壊すからやめてくれ。
五月雨郷を実際に見に行って松尾芭蕉は?ってなるより悪い印象って何?キャラが好きになった人が五月雨郷を見にくることをやめろとは一切思わないけど自分が見に行ったときに松尾芭蕉の話を五月雨郷の前でしている人がいたらげんなりはすると思う。
私は最初から史実厨と言われていいから元となるものを貶してまで創作をするなと言ってるのであって、史実厨という言葉をいい意味で使ったことないよ。創作を認めるなって言っているのに近いと思う。
6.とうらぶやめろ
やめるよ。今回の監査官さんが原因で余計病んで五月雨郷をこうしたのに創作で出来上がった自分を考える監査官さんがいることが嫌になったからこれを書いたんだから。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。