はてなキーワード: 加持祈祷とは
表題の通り。
可愛いと思ったことはないし興味はないが、熱狂的に歓迎されているのは理解できる。また、貴重で保護すべき存在であり税金を投入するのも理解できる。
ただ、世話が面倒そうだし金もかかるので増田家で飼いたいとは一度も思ったことがない。
②増田家は30前半で世帯年収2500万~で双方高学歴だ。両方の実家は太くも細くもなく普通。ホワイト企業勤め。
興味がなかった出産だが、出産してみてわかったことをつらつら書いていこうと思う。
①ありがたいことにコメントを頂いて、一番肝心な前提を書き忘れていたことに気づいた。
これは、「世帯年収2500万もあるし、金の力で楽するぞ!と思っていたが返り討ちにされた日記」に近い。大金持ちだとは思っていないが庶民だとは考えていない。
ちなみに、金の力でなんとかしようとして挫折したものには以下もある。
あと、増田家は同一金額お小遣い制で家計が同じなので出産に関する費用は全部家計から出している。親からのお祝い金は子供名義なので特に使ってない。
②ベビーシッターについて
これは、ベビーシッターに頼むのが不可能な時期がある/そもそも人材がなかなかいない、という話がしたかった。今は保育園に入れているが、子供が0歳だと延長保育が使用できないため残業するときなどは保育園のお迎え~をベビーシッターに頼んだりしている。保育園は月に9万ほど。+ベビーシッター代となるわけだが、残業時給が3000円超えてこないとベビーシッター代で赤字になったりするわけで…この辺はこう…各家庭によりけりかなと思う…。保育園に入れる前は何度かお試しで来てもらったりしていた。子供や増田家との相性もあるし、家に入る人間ということで信頼できる人を探していた。
とりあえず言いたいことはいろいろあるが、自己逃避からくる逆恨みや負け犬根性なんとかしてくれとしか言いようがない
はてなで怒り狂ってるおフェミ様であるお前が行くべき場所は専門の医者のいる医療機関で自分の病的な人格の劣悪さやダメさ加減を直してもらうことであって
意味も分からん民間医療に頼ろうとして直そうとしているということさえ放り出して、ネットに書き込んで政治活動やってるなんて平安時代のように病気平癒の加持祈祷に縋ってるメンタルに近いことをやっている場合ではない
つまり頭が狂ってるんだから何やったって考えたって無駄だし、お前の思い通りには世の中ならないし、なったとしたら社会がおかしくなって大被害が出るからならない
病院に行ってしかるべき専門の医者の治療を受けてもらえ、心療内科でも精神科でも脳外科でもいいから
それしかいいようがない
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
K値による分析は常識的だが、この程度のフィッティングは統計では当たり前。ところが西浦モデルはそれさえやらないで「Roが2.5にジャンプするはずだ」という願望で3/19にシミュレーションし、1ヶ月たっても同じパラメータを使った。狂っているというしかない。— 池田信夫 (@ikedanob) June 15, 2020
http://benthestatistics.blogspot.com/2019/06/blog-post_28.html
そもそも彼らが統計的手法を用いてモデルのパラメタを推定することすら稀かもしれない。カリブレーションという不思議な加持祈祷でパラメータの値を定める習性がある。これは我々が作ったモデルが正しいとは言えないので、現実の動きに合うようにパラメータを恣意的にそれらしい理由を付けて定めましょうね、というものである。確率項を含めてモデリングをする意味が正直分からない。
狩野英孝が「スパチャ面倒(意訳)」言って一瞬バズったけど、まぁ確かに面倒だよね
自分もスパチャした人の名前いちいち言って流れ止める配信者と自分は一銭も出さないくせに「ナイスパ」とかゴミ書きこんでチャット欄進ませるゴミクズは嫌い
確かにシステム的に金額で出来ることや持続時間が違うので高額だと長い時間チャット欄に滞留できるし目立つ。でも、そんなのいちいち拾う必要はない。御礼くらいで充分。名前とか要らん
スパチャなんてお賽銭だと思えばいい。入れる金額は自由だし、加持祈祷とは違っていちいち住職がお礼や名前を呼び込むことはない。ましてや賽銭箱の隣で「賽銭入れたね!」なんていちいち言うキチガイとかありえない
神社仏閣にアピールしたいならお賽銭じゃない方法で寄進して柵や鳥居、もしくは酒樽と一緒に名前張り出されればいい
というかスパチャ数万しようが名前とか覚えないぞ。金よりアイコンに気を使え。キャバクラだってイケメンじゃなきゃ財布以上には決してならないし、財布は決して名前を覚えられない
この人がよく見てるとおもう
https://dot.asahi.com/dot/2020051100004.html?page=2
もちろん現状を欧米よりは見えてたし
決して失敗ではないんだけど、たまたま中国の近くにいた、データもよく読めた、
たまたま船が期せずして人体実験となって武漢とおなじようなデータをとることができた、
というか、表立って日本の政治家がやったことはひたすら国民の安寧を願う「宗教家」に徹しただけなんだよね。
選挙でえらばれた「国民の象徴」陛下みたいなもので、マスク乞いの加持祈祷してみせただけで、
結局保健所だって、対して準備もできてない医療機関にまるなげして
生まれてきて、大人になって、暮らしを営んでいることに幸あれと本当に思う。碌でもない出来事が日々石ころのように転がっていて、それを道から除けるか、避けて通るか、人それぞれなんだけど、なんというかその、道があることが愛おしい。僕らはみんな生きている。生きているからすごいんだ。
世を苦行だと捉えるのが一般的な仏教の根本原理だ。聖なき衆生が業のもとに救いなく永久に続く苦行を生きる煩悩の有様を目に見える世界だとする。解脱とはメタ世界への移行でその業の世界からの脱出を意味してそれを神聖視するわけだけど、そもそもの動機は業からの逃避な訳で。ものを食って、うんこしてる身で。要は、苦行してるお坊さん方は、世の中から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。だから糞下流には混じり合わず、己の世界の内でしんどいことをやり続ければ報われる、というのが原始仏教。こいつらくだらねぇな、つきあってられねぇな、なんて、分かりやすいエリート意識。
しかし、苦しい世だからこそ、そこに生きることが尊いのではないか。そこで泥水をすすり、愛欲に溺れ、駆け引きを駆使しながら己と子を護り、肉を喰らって、眠りと朝日を保障する。おい、ねえ、すごくない?俺できないし。というのを愚直に見つめた男がいる。それが親鸞だ。
教義としてのオリジナリティは法然にあるのかもしれないが、親鸞は事実、泥水をすすりセックスをし、酒を飲み肉を喰らいながら、そんな俺が信じてるよ、と阿弥陀の救いを説いた。私が知る、あなたたちをこそ救わずして、何が仏か、と。
ここからは俺の独自の解釈。かつて僧という「形」のために頭を剃った愚行を「愚禿」と表わし、今現に業を一身に背負うこと=菩薩行を積んでいる目の前の人々をこそ、哀れまず慈しまず尊んで、己より行を達した者とし、敢えて同じことをした。世は、かき集めた金をつぎ込んで寺を建て、加持祈祷をさせれば徳=得の時代。そのような儀式、「計らい」は要はショートカットであり邪であるとし、業に直面しながら苦しみ生きることこそ解脱の道であり尊い行いだと、己の身をそこに投じた上で彼は知って、そして説いた。
生きよ、生きよ、生きよ。あなたたちは尊い。何が何でも生きて生き抜く中で、だからこそ届く念がある=救いがある。「南無阿弥陀仏」とは、何者をも超越した阿弥陀仏に帰依いたします、という意味だけど、きっと多分なんでもよくて、怒られるかもだけどアーメンでもきっと全然良かった。念仏なんて要するにお題目でしかない。生きよ、あなたたちは間違っていないと、そのためになんか支えが要るならとりあえず南無阿弥陀仏っていっとけ、それを親鸞は言いたかったのだと俺は思う。
結果いろいろあったんだけどね。親鸞だって所詮エリートだ。パンピーとは頭の出来が違うし、思想の落としどころも多分違う。阿弥陀の前に人は平等まではいいけど、衆を集めて暴力的人権運動が起こせまでは多分思ってなかったろうし。いやまあ、どうなんだろうそこのところはまだ腑に落ちてないんだけれども。
ああ、酔っぱらって書いてるから面倒くさくなってきた。誰か、増田にも真宗の門徒いんだろ。西でも東でもいいや、門外漢のお説に捕捉してくれ。
手抜き→手でヌくこと
顔出し→顔に出すこと
し損じる→子孫汁
やさしさ→やらしさ
あちらを立てればこちらが立たぬ→アレを立てればコチコチに立たぬ
アハ体験→アヘ体験
願掛け→顔かけ
幹事長→感じちゃう
球筋→タマスジ
阿波の国→泡の国
ナイチンゲール→無いチンゲ得る
生中→生で中出し
ようつべ→幼壷
栄枯盛衰→英子聖水
ケンカ→クンカ
まんげつ草→まんげの草
ご自愛ください→ご自慰ください
初心を貫け→女芯を貫け
おさんぽ→おちんぽ
桃栗三年柿八年→乳繰り三年掻き八年
筆圧→膣圧
unknown→うんkなう
おちつく→お乳突く、お膣突く
みくびる→肉ビラ
ドイッチュ(人名)→ドH
小西→小四
NAMCO→MANCO
ちびまるこ→ちびまんこ
手こずる→マンズリの手コキ版をやる
また開いて~ 手を打って~ その手を上に~ → 股開いて~ 手を打って~ その手を胸に~
ケーキ入刀→性器乳頭
すげえ・・・拮抗しとる→すげえ・・・亀甲しとる
おざなり→オナ猿
世紀末→性器待つ
褒められちゃった→ハメられちゃった
乳業→ちちぎょう
厚顔無恥→睾丸鞭
足摺岬→足ズリ
アレグロ→アレがグロい
私も混ぜて→私もかき混ぜて(性的な意味で)
謀ったな!→破瓜ったな!
狭き門→狭き菊門
ちょっと置かしてください→ちょっと犯してください
お、値段以上ニトリ→お値段異常寝取り
界隈→卑猥
校内で講義→口内で口戯
四股踏み→踏みシコ
ブラジル→マラジル
メスを入れる→メスに入れる
カリブ海→カリ深い
サンドイッチ→三度イった
マリアナ海溝→マン穴開口
神尾菜穂→神オナホ
旅の恥はかき捨て→旅の屁はこき捨て
借りパク→カリをパクッ
おまけ→オマ毛
自慢げ→地マン毛
スジコ→スジマンコ
マンマミーア→マンマン見いや
付き物→月のもの
落ち着いて→お乳突いて、お膣突いて
粛々と執行する→シコシコとシコる
マタニティ→股に手