はてなキーワード: 利便性とは
遊んでみてと書くのが正しいのか、使ってみてが正しいのか、多分後者なんだろうけど、感想を書いてみる。
まず、手元でニコ動やYOUTUBEをブラウズして、テレビに写すのはなかなか楽しい。
HDMIでノートPCをつなげば同じことを出来るんだけど、やっぱり無線でタッチパネルは非情に便利なもので。
AppleTVとiPadを組み合わせれば同じことが出来るんだけど、あちらも売れてないことを考えると、この利便性を伝えるのは難しいんだろうなぁって思う。
おかしな話だけど、今回のWiiU、いままでの任天堂のハードとは違うなにか、私を本能的に怯えさせるようなものを感じる。
商業的にはプレイステーションが勝者だったけど、マリオ64とゼルダの伝説時のオカリナがなかったら、モンハンはあっただろうかと思う。
アナログスティックがなかったら、LRボタンがなかったら、いつだって創造の役割は任天堂だった。
そして、全部かなぐり捨ててるのも任天堂だった。
いつだって新しい試みを馬鹿にして、そんなの売れるわけがない、良さがさっぱりわからないと、批判的だったのが私。
ところが今回、(といっても一年経つが)、今ひとつ創造も破壊も感じさせない。
もちろん、Wiiの段階でそれはあったと思う。
今回のWiiUは、積極的に家族をつなげようとしてるように感じるのです。
個室が欲しくて、自分のテレビが欲しくて、ゲームには没入感を求めていた私を、リビングに帰れと言っている気がする。
あれも、いままで個人情報をどう隠そうか、プライベートをどう隠そうかとしていた私に、学歴や経歴を大っぴらにして、プライベートを公開して、繋がりを求めろと言ってきた。
とても気持ち悪かった。
ところが、Facebookは静かに侵攻してきて、私もいつの間にかアカウントを作り、怖くて公開できないくせに、初恋の人が結婚してることをしって凹んだり、友達が撮ったという故郷の初日の出をみたり、ネットストーカーのようなことをして、ちょっとづつそちらに足を踏み入れてしまってる。
もしかしたら、WiiUも、なにかの拍子ではまっていくような気がしないでもない。
Miiverseは、とても気持ちがいい。
もちろん、中の人がせっせと働いているせいだけど、Facebookより、Twitterより、ずっと悪意がないのだもの。
それに、任天堂嫌いを気取ってみても、なんだかんだ言っても私はザッカーバーグよりも宮本茂と岩田聡を信頼してるのだ。
さてさて、そうは言っても、やっぱりゲームとしての面白さは重要です。
それがなくちゃ、売れないですし。
私は凡人なので、なにやら凄いことが出来そうな気がするという予感はしても、具体的なことは頭に浮かばないのです。
25000円のゲーム専用機、25000円のニコ動とyoutubeを見るためのテレビリモコン、25000円払わないと入会出来ない会員制のtwitter、それぞれの機能だけに25000円は高いのだけど、組み合わせれば、なにかすごそうな気がするのです。
見える形で、具現化してください宮本さん。
周りが皆スマホを使用している時代になって久しいが、何を隠そう私は未だガラケーユーザーである。
恥ずかしいという気持ちは当初こそあったものの、昔ながらの使いやすさが手放せず、今ではマイトレンドになっているのだから慣れというのは怖いものだ。
今回何が酷いというと、実はインターネットが使えなくなってきている。無論ガラケー使用の場合のみだ。
私は2ちゃんねるのまとめブログ、通称アフィブログを巡回するのが日課になっている。
しかしながら、ここ数日そのまとめブログにアクセス出来なくなっている。
今まではなかった画像が表示されなくなっていたり、JAVAsの導入を促して来たり、アクセス規制に罹ったような状態なのだ。
アフィブログだけではない、ウィキペディアはもはやガラケーを完全締め出ししているのである。
これは如何なものか?
ガラケーは未だパケホーダイ等、通信料を大量に使っても設定された基本料金を超える事なく幾らでもインターネットを利用できるサービスがやられている。
にも拘らず、実際に利用する事が実質不可能になりつつあるのである。
これは詰まる所、スマホに客層が流れつつあるから少数になりつつあるガラケーユーザーを捨てるという腹積もりなのだろうか?
そうであれば、件のパケホーダイなどはもはや形骸化しているといって良いし、また拝金主義的なインターネット利用を促す一環として今度の措置であれば、
一方、ドコモ等ガラケーを扱う通信会社が、この舐めた商売を未だにやり続ける事に詐欺めいたものを感じて止まない。
それはかつて、PHSやポケベルを、ガラケー導入に伴い縮小していった卑劣な手段と何ら変わらないのではないか。
結局は、金なのか?
だなあ。
とりあえず昔から言われてる対策としては、不正ダウンロードと正規ダウンロードの利便性天秤を
正規ダウンロード側に傾けるってことだよな。いまは作品入手だけなら正規ダウンロードが便利かもしれないが、
買った後の管理については完全に不正ダウンロードに軍配が上がってると思う。
正規ダウンロードには「不正じゃない」というボーナスもあるのでこの条件を
満たすことは不可能ではないはずだが、管理をユーザの手に渡すってことはロックインの利権を
手放すってことでもあるので販売側としてはやりたくないだろうなあ。
悪いけど何について書いているのかわからない。
「人工知能」という言葉であなたが表現しているものは、どこまでも人間や女性そのものに過ぎない。
あなたの記事の「人工知能」を「女性」に置き換えると、一昔前にフェミニズムについて書かれた文章として立派に通用してしまう。
「エクスキューズのためにケーブルに接続されて描かれている女」の、当然もつであろう自由意志について述べている。それ以上のものが読み取れない。
自由意志の定義を後回しにしたのがなおのこと良くない。それはある意味で人間の定義それ自体にも等しく、そこから差別性を説明することのできる重要なポイントたり得たのに、そこをぼかされたまま「人工知能に自由意志があることを前提とする」と始められても意味がない。
「自我」「知的存在」「コミュニケーション」にしても然り。これだけ定義の広い言葉をAIがらみでポンポン繰り出されても、曖昧なイメージが飛び交うばかりで何を説明されているのかさっぱりわからない。
人工知能についてどれくらいのことを知っているの? 実際にローブナー賞に挑戦している人工知能と会話したことは?
2-2の解釈を取ることについての説明は? 何を根拠に2-2なの? 妥当性、正当性、何でもいい。
まさか自分で勝手に定義不明のままおいた「人工知能には自由意志がある」という前提にだけ基づいているわけじゃないよね?
「従ってイラストの女性は自由意志に基づいて行動しており、使役されているように見えても実際は自由な行動であり、差別ではない」
よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。
人工知能に実際にボディを持たせてもあのイラストのようにはならない。
あれが「ボディを持った人工知能である」という解釈は単に記号的に付け足されている充電ケーブルが担保しているに過ぎない。
Photoshopでケーブルを消してしまえばあれは「家政婦さんの絵」だ。それくらいあの絵は「ボディを持った人工知能」にあるべき必然性を欠いている。
だからあの絵を見る側も「ボディを持った人工知能」ではなく「人工の人間(女)」として見ている。あなたのように。
そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやすい記号。メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号。
都合のいい解釈だことw 元ネタが掃除機で接続がケーブルなら「休憩を入れずに充電しながらでも広範囲を掃除するため」と解釈することはむしろ当然じゃないか。
一目で人間以外の存在であるとわからせるのにいい方法なんていくらでもある。人型でありながら人間とはかけ離れたデザインにした方がよっぽど一目でわかるよ。
充電表示だってもっと直球で「充電中」とどこかに表示されるようなデザインにしたっていい。
「描いた人間がそれじゃイヤだから」以外の、そうしない合理的な理由があるなら教えてもらいたい。
ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業が家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。
完全に「人工の女」について語っているけど、格好だけを根拠に家事労働者ではないとは言えない。というか現にホウキ持ってるのに。
ちなみに「人工の女じゃない」ものとしてあのイラストを見ると、話はもっとシンプルになる。
すなわち、明らかに掃除に向いた設計じゃない、デザインの段階で「女のかたち」に用がある向きの欲望が大きく作用している、よって性差別的である、と。
これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合、人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。
人工知能は生物ではない。「適切な行動」とは「生き延びるために適切な行動」の略ではなく、「パフォーマンス最大化のために適切な行動」のこと。
人間に合わせて本を視覚で読んでいては、データを一気にダウンロードして処理した場合に比較してどれだけパフォーマンスが落ちることか。
これだけ「人工の女」として人工知能を取り扱っておきながら、実在の生きた女に対してならば当然要される配慮がこのイラストの「人工の女」に対しては行われていないというところに疑問を持っていないのが一番不可解で怖気を誘う。
家事労働を行うにあたっての作業を助けるような利便性の欠如や、読書と掃除という相性の悪い動作の同時並行を描いていること自体が、「そんな配慮が要るという発想が無い」「眉目麗しければそれでいい」ことを如実にあらわしているのに、すべてを「この人工知能が自由意志でやっている」でくるみ込んでノーコメント。
「自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうる」?
ご冗談を。あなたはそれがホモサピエンスであろうともなかろうとも、彼女にはルンバや掃除機やクイックルでなくホウキを与え、代わりに読書に耽る自由は取り上げることに全く反対していない。
標準時の変更を 与党議員が発議=韓国 聯合ニュース 11月21日(木)19時22分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131121-00000045-yonh-kr
【ソウル聯合ニュース】韓国与党セヌリ党の趙明哲(チョ・ミョンチョル)国会議員は21日、日本の標準時と同じ韓国の標準時を韓国本来の標準時に変更することを柱とする「標準時に関する法」の改正案を発議した。
韓国標準時は日本標準時子午線の東経135度を基準とするが、これを韓国の国土の中心を通る東経127.5度に変えるという内容。その場合、標準時は現在より30分遅くなる。
韓国は1908年、東経127.5度を標準時子午線に定めたが、
日本植民地時代の1912年に朝鮮総督府の指示で日本標準時にそろえた。1954年に東経127.5度に戻した後、1961年に再び135度に変更した。
趙議員は、現在の韓国標準時子午線の東経135度は韓国の領土を通っておらず、韓国最東端の独島からも278キロ離れていると指摘。「標準時の改正を通じ、領土主権と歴史を再確立し、国のアイデンティティーと国民の自尊心を回復すべき」と述べた。
mgk1202@yna.co.kr
●韓国標準時 - Wikipedia、フリー百科事典(google翻訳)
http://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C によると
1912年 1月1日:東経135°UTC +9に変更。朝鮮総督府官報第367号(告示第338号)。
1954年 3月21日:解放後、大韓民国の標準時間は、再び東京127.5°UTC +8:30へ変更。大統領令第876号(1954年3月17日)。
1961年 8月10日:国家再建最高会議の決定に基づいて東経135°UTC +9:00へ変更。法律第676号(1961年8月7日)。法律第3919号(1986年12月31日)。
となっていて、詳しいことはわからない。
少し詳しく調べてみると
●日本が奪っ朴正煕がまた奪った '韓国時間' [走る鉄道で見た世界] (17)時間をめぐるいくつかの物語 インターネット紙 「プレシアン」(Google翻訳)
http://www.pressian.com/article/article_facebook.asp?article_num=10131025141140
1945年になるとすぐ時間を取り戻してくるとは、努力があったが、韓国の統治を務めた米軍政は、操作利便性という単純な理由で東京標準時をまだ守った。韓国標準時を再訪れたのは韓国戦争が終わって遠征きた米軍の撤退が行われた後の1954年3月だった。21日午前0時30分部大統領令によって再び東京127度30分を標準子午線とする大韓民国標準を指定します。1954年3月21日、大韓民国は0時30分を二回経験することになる。一度は東京標準時に一度ソウル標準時。しかし、このソウル標準時は長続きしない。7年後にクーデターを起こした朴正熙を筆頭とした軍部勢力は国家再建最高会議で、韓国の標準時間を東京標準時に戻って変えてしまった今まで続いてきている。
もう少し詳しく調べてみると
●良い名前の研究所は標準時を韓国の基準東京127度30分を適用しています(Google翻訳)
元韓国が使っていた標準を日本が強制的に日本のものに変えたし解放が
れた後一歩遅れて1954年に韓国基準の標準に還元したこと以上にも
1961年5月16日の軍事クーデターが起きたすぐ後の1961.8.10から再度東経135度を
標準時に変更したことをご存知ですか?
東京127度30分には大韓帝国官報第3994号(勅令第5号)に基づき、1908年4月1日から
それが、日本の日韓併合策の一環として、朝鮮総督府官報第367号に基づき、1912年
光復後、1954年3月21日、李承晩政権は日帝残滓清算の一環として、標準時を
変更して、時間を30分遅らせました。 しかし、当時、米軍は、作戦指揮権を東京
米極東司令部の関係で標準時の変更に従うことができないと頑強に反対した
します。
ところが、1961年8月10日、朴正煕の軍事クーデターが起きた後席月もされていない、
軍事政権は、法律676号(標準子午線変更に関する法律)に基づいて時間を30分
繰り上げ日本と同じ東経135度基準の標準時を使用する法案を可決した。
その時の理由は、国際的に30分差が出る標準時がないことを国際的
習慣と一致させるというものでした。 (これはとんでもない論理です)
国家再建最高会議が標準時を変更したプロセスについては、これまで知られていなかったが、
最近入手した1961年8月4日、国家再建最高会議第27次常任委員会の議事録による
面が会議に参加した某人が在日米軍と在韓米軍、韓国軍との連合作戦のために
統一された時間が必要だと標準時の変更を要求してわずか数分で通過させたとされて
ています。
米軍の軍事作戦の便宜のために国の時間を無理やり日本時間に合わせるとんでも
国家再建最高会議が標準時を変更したプロセスについて、どうしてわかったのか。
[緊急提言]韓国時間30分ずらす "いい加減"風土消える 金基德 キム·ギドク 建国大研究教授·韓国史
東京127度30分採択は、「時間の光復」! (Google翻訳)
http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2005/05/25/200505250500029/200505250500029_2.html
http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2005/05/25/200505250500029/200505250500029_3.html
1961年に国家再建最高会議が標準時を変更したプロセスについて、これまで知られていることがほとんどなかった。 ところが、
2004年8月KBSがソクジェの事件ファイル "光復59年、時間は解放されなかった"という番組を放送した。 KBSは1961年8月4日、国家再建最高会議第27次常任委員会の議事録を入手して、次のように報道した。
「光復」と「不快感」の間
「この会議に出席した関係者は、米極東軍司令部(在日米軍)が、在日米軍と在韓米軍、韓国軍との連合作戦のために統一された時間が必要だと標準時の変更を要請してわずか数分で通過させたと証言した」
結局、国民の代表機関ではなく、軍事クーデターで成立した「国家再建最高会議」は、米軍の要請があろうクーデターの承認を受けるために、1954年に標準時変更後わずか7年ぶりに東経135°を基準にした時間に変更したものである。 以降の夏時間(サマータイム)の導入根拠を用意するために、1986年に「標準に関する法律」に一回変更しただけで、現在までに我々は、1961年に改正された東経135°基準の標準時をそのまま使用している。
参考資料
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=tyahnstein&logNo=100194115583
韓国語で標準時は現在より30分遅くなる利益・不利益をまとめて書いたエントリー。
http://anond.hatelabo.jp/20131105233601
えー。過去どれだけのサービスが生まれては消えていったと思ってるの?
mixiは現在進行形で瀕死の状態を晒してるけど、あれが栄えてたのだってほんの数年前の話だぜ。
Facebookすらも離脱する奴が増えて、数年後にはどうなってるか全く見えないだろ。
何の間違いか、はてなはしぶとく生き残ってるけど、ちょっと前のブログ全盛期と現在では参加してる奴の熱量も違うだろう。
ネットでサービスを継続して使った経験が少しでもあるなら、サービスがどこまでも拡大していくなんて話が妄想だって事はわかるだろ。
わかりやすい例として検索エンジンを上げてみます。検索エンジンと言えば、Google、Yahoo!、Bing、日本はこの3つでほとんど全てのシェアを占めるでしょう。
検索エンジンはサービスです。サービスの世界にあるのは利便性とコストパフォーマンスだけです。かなりはっきりと優劣がついてしまいます。
インフラは増田の言うように利便性とコスパが勝負なので、そこに乗っかるサービスを提供していく事でユーザーを誘い込む。
サービスを使うユーザーが増えると、さらにインフラのシェアが伸びる。
アイテム課金ゲームはサービスです。検索エンジンと同じでサービスの良さが勝敗を分けます。
スケールメリットを追求し最高のコストパフォーマンスで達成感を販売するサービスだけが生き残るビジネスです。
これも違うと思う。
ゲームはあくまでコンテンツで、ソーシャルは集客要素にすぎない。
今の課金ゲームはコンテンツが貧弱過ぎてサービス的なものに頼らざるを得なかっただけで、今後はコンテンツが重視されると思う。
事実、スマホの課金ゲームにも3D化やリッチコンテンツ化の流れは来ていて、開発費の高騰はコンシューマーと同じ道を歩もうとしてる。
スケールメリットを追求したアイテム課金ゲームはどんなものになるでしょうか。
スケールメリットのためにはなによりもまず利用者の数です。俺は前の記事でも言ってましたがソシャゲは人口です。人口が全てです。
任天堂の倒し方を知ってるくせに、自分で倒れかけてるGREEを見ても同じ事が言えるのかと。
アレだけ人口を集めたモバグリも、そこに乗っかったSAPも好調だったのはここ3年ぐらいだったじゃん。
キャラクターは老若男女が受け入れられる無難なキャラクターに、ゲームのルールもとにかく無難に、
ゲームの難易度も無難に(誰がどんなプレイの仕方で遊んでもあまり変わり映えしないように)、とにかく無難でありがちな要素で固めつつ、
クオリティは圧倒的に高く、ゲーム画面はとても見やすく、ルールはとにかくわかりやすく、サーバーとの通信はとても高速で快適に、
これって、コンシューマーの現状でもあるよね。
大衆向けに作ったらコンテンツは結局、こういう方向になるって事なんじゃないの?
この先は失笑ものの妄想だらけなのでコメントする気すら起きんけど、一つ言わせてもらうと、
ユ ー ザ ー を 馬 鹿 に す る な 。
仮に増田の言うような状況が発生したとして、その1年後にはこんな記事がニュースになってるだろう
一握りのサービスで満足し続ける程、ユーザーは馬鹿じゃないし我慢強くもない。
こっちでも書いたけどさ。
http://anond.hatelabo.jp/20131105161350
もういい加減、課金ゲームをコンシューマーゲームと比較するのやめようぜ。
過去を懐かしんで現状を否定するのはやめて、新しいプラットフォームでどうやったらユーザーを楽しませるかだけ考えようぜ。
コナミやセガやバンナム、スクエニ、カプコンといった大手は、課金ゲームでの収益化を模索している。
ゲーム業界なりの成功方程式が見えたら豊富なゲーム資産を武器にコンテンツを投入してくるだろう。
ガンホーはパズドラでボーナスステージだけど、脱パズドラ後のスマッシュヒットを作れる体制が作れるかが鍵。
コロプラも同様だが、ライト向け路線でいくのか、リッチ化でゲーム屋に挑むのかはわからん。
昔増田に「ソーシャルゲームの予算規模を軽くまとめる」を投稿した元ソシャゲ屋です。
http://anond.hatelabo.jp/20110918202040
島国さんがアイテム課金の強さを解いたブログ記事が読む人を納得させるつもりが全くない手抜きな記事でしたので、
僭越ながら俺が代わってアイテム課金ゲームの未来地平線を語らせていただきます。
10年後のアイテム課金ゲーム業界。生き残っている会社は精々片手で数える程です。
その数社が運営しているタイトルはおそらく20タイトル前後程度。
そしてそのゲームはつまらないです。パズドラの100倍はつまらないゲームになっています。
しかし、そのつまらないゲーム20タイトルを運営する5社で市場規模はコンシューマ業界よりもはるかに大きくなっています。
どうしてそういう未来になるか。
アイテム課金ゲームはコンテンツではなくサービスであり、サービスビジネスの世界ではトップクラスの企業しか生き残れないが、
トップクラスの企業だけはどこまでもサービスを拡大して膨張していくものだからです。
コンシューマーゲームはコンテンツ9:サービス1くらいにコンテンツという側面がでかい商品です。
対してアイテム課金ゲームはサービスが9:コンテンツが1くらいで限りなくサービスに近いコンテンツです。
ここではコンテンツとは「表現に対価を払うもの」という意味で使います。
漫画はコンテンツです。漫画という表現に対してお金を払います。音楽、映画、小説、芸術品などもコンテンツです。
電車はコンテンツではなくサービスです。目的地により速く移動するサービスを受けるものです。SNSやスーパーもサービスです。
コンシューマーゲームは(将棋ゲームのような例外をのぞいて)コンテンツです。
アイテム課金ゲームでは絵やストーリーやゲームシステムのような表現に相当する要素は無料ですから。
満足感、達成感、優越感です。アイテム課金ゲームはお金を払って満足感や達成感や優越感を買うサービスです。
最近のカードゲームの絵は本当に豪華ですが、絵のクオリティという表現に対して対価を払うプレイヤーはほとんどいません。
時間はかかるミッションをすぐにクリアできたという満足感への対価としてお金を払うのです。
ものすごく強いデッキが完成したという達成感への対価としてお金を払うのです。
誰も持っていないレアカードを持っているという優越感への対価としてお金を払うのです。
そしてビジネスにおいてコンテンツとサービスにはその広がり方に大きな違いがあります。
コンテンツは表現を売るものなので、無数の表現、無数のコンテンツを生み出すことができます。
例えば日本におけるコンテンツの代表例である漫画を見てみればすぐに分かります。
アマゾンで新刊コミックを見てみると実に膨大な数です。どれだけの数があるのがわからなくなるほどたくさんの漫画があります。
それぞれの漫画は共存しています。ワンピースが圧倒的に売れていても漫画がワンピースだけになったりすることはありません。
サービスでは事情が180度変わります。サービスの世界では一番優れたサービスだけが生き残ります。ほかはどんどん死んで行きます。
わかりやすい例として検索エンジンを上げてみます。検索エンジンと言えば、Google、Yahoo!、Bing、日本はこの3つでほとんど全てのシェアを占めるでしょう。
検索エンジンはサービスです。サービスの世界にあるのは利便性とコストパフォーマンスだけです。かなりはっきりと優劣がついてしまいます。
アイテム課金ゲームはサービスです。検索エンジンと同じでサービスの良さが勝敗を分けます。
スケールメリットを追求し最高のコストパフォーマンスで達成感を販売するサービスだけが生き残るビジネスです。
スケールメリットを追求したアイテム課金ゲームはどんなものになるでしょうか。
スケールメリットのためにはなによりもまず利用者の数です。俺は前の記事でも言ってましたがソシャゲは人口です。人口が全てです。
日本のほぼ全人口を獲得するために、キャラクターは老若男女が受け入れられる無難なキャラクターに、ゲームのルールもとにかく無難に、
ゲームの難易度も無難に(誰がどんなプレイの仕方で遊んでもあまり変わり映えしないように)、とにかく無難でありがちな要素で固めつつ、
クオリティは圧倒的に高く、ゲーム画面はとても見やすく、ルールはとにかくわかりやすく、サーバーとの通信はとても高速で快適に、
達成感販売サービスとしてのクオリティとスケールメリットを追求したゲームになるでしょう。
その結果としてコンテンツとしての側面は極限まで薄れ純粋なサービスになります。
コンビニでお菓子を買うように、知り合いと軽くお茶でも飲むかのように、今のSNSのように誰もが自然に利用するサービスになります。
お酒の席で仲良くなった人と一緒にミッションに出かけて3分で終了するのが挨拶代わりのサービスになっています。
そのゲームは空気と同じで誰もが当たり前のように利用するサービスになっています。
そのゲームの課金はガチャ1回300円で何が出てくるかわからないなんてヤクザな課金ではありません。
パズドラの魔法石バラマキがキッカケで、アイテム課金ゲーム業界ではゲームの安売り競争がどんどん加速しています。
現在でも毎日のようにガチャチケットを配っていたり、簡単すぎてどこで課金していいのかわからないゲームが増えています。
価格が高いままで大した達成感も得られないサービスはどんどん絶滅していくでしょう。
そしてスケールメリットを追求するなら世界市場への進出は必須です。Facebookの日本進出で日本ローカルのSNSが駆逐されつくしたように、
スケールメリットを追求し最高のコストパフォーマンスを実現したただ1社だけが最終的に生き残れるのがサービスビジネスです。
海外も手に入れるためにゲーム内容は世界中のあらゆる文化圏の人間に受け入れられるレベルまで無難なものになり、
安売り競争も極限まで到達し、20年後には世界60億人が平均で一人あたり月に10円を払って利用しているサービスとして終着点を迎えます。
ここまで来たものがゲームと言えるものなのかと問われたらおそらく言えません。
サービス9.99:コンテンツ0.01ぐらいにまでコンテンツは退化しており、
純粋にお金で達成感を購入する達成感販売サービスとして完成しています。
そしてこれはコンテンツのままでは(コンシューマーゲームでは)絶対に到達し得ない地平線です。
その頃にはもうアイテム課金ゲームだなんて意識する人はいなくなります。
自販機でコーヒーを買ってカフェインを補給するのと同じレベルで達成感購入サービスを利用して達成感を補給するようになります。
すこし大げさ気味に書きましたが、アイテム課金ゲームというのがどういうビジネスで最終的にどんな形態を目指しているかがイメージできると思います。
そしてこの頃でもコンシューマーゲーム業界は生き残っています。
テレビが全世界中に普及して誰もがタダで映像を見れる時代になってもハリウッド映画が廃れていないのと同じです。
また、ハリウッド映画が圧倒的な強さを誇っていても、低予算撮影の映画もB級映画としてマニアの間ではそれなりの存在感があるのと同じで、
日本のマイナーなゲームメーカーなどもボロボロになりながらもなんとか生き残っているのではないでしょうか。
そして上記のような全世界レベルの達成感販売サービスとはビジネス規模も何もかも違っているので比べるのも馬鹿らしくなっています。
※SNSのことだろ(ブコメも立派なSNSだと思います)というコメントが多いですね。でも似ていますが違います。
全くその通りだわ。
居酒屋で例えれば、チェーン店が規模の力で安価である程度の良質な料理と酒を提供して、価格や利便性で優位に立っていたとしても、
地元に密着した個人居酒屋だって生き残ってる。その居酒屋の独特の空気だったり、特徴あるメニューだったり、そういうのがあるからだろう。
特色を出せない店は潰れる運命なんだよね。たまたまライバルがいなかったから成り立ってただけな商売は、ライバルが出てきて対抗できなきゃ撤退するしかない。
悪いのは後から乗り込んできた大手ではなく、大手に勝てなかった店自体なんだと思う。今までがライバル不在という既得権益だったんだもん。しょうがない。
単に、メーカーがWindows向けに開発して提供してた、ってだけで。
それこそMacみたいにハード的にコネクタが違うものとかのがよっぽど酷いとは思うけど。
しかもコミュニティは素人お断りが当たり前だったしな。質問しても、簡単なもんなら「ググれ」と来るのはまだ優しい方で、平気で差別的な言葉を投げつける連中が後を絶たないし。
当たり前だった、とか昔懐かしい時代であれば「ググれ」とか言う時代じゃないんじゃ。。。ググれば出てくる時代にはもうそんなの簡単な訳で。
まあ、今でもLinux使う人は「敢えて」使う場合がほとんどだけど、yahoo知恵遅れとかで聞けば知ったかが丁寧に教えてくれるんじゃん?
Ubuntuのコミュニティーとかたまに見るけど結構酷い質問もちゃんと答えてくれてる感あるけど。
結局、敵わん、のはその圧倒的なシェアの違いでしょう。ソフトやハード作る側の人間が対応考えるにシェアの少ないものまで対応できないので、
ただ、用途によるけど、本気で使う場合は、中身までいじれるLinuxでないと困る、と言う場合がある。昔はそれが大いにあった。
でも、今はWinでもMacでもそういったどうしたって困る、様な物も大分なくなってきたので他の利便性から考えてそっちにしてしまってもいいかな、ってのもある。
まあでもAndroidは上手いこと行った訳で、windows mobileよりはよっぽど対応してるものは既に多いんじゃない?下手すりゃiOSよりも。
内容如何よりも、もう、タイミングと売り出し方のレベルな感じだけどね、実際の所。
今の時代はもう内容云々分かってる連中が使うわけではないので。
1)インターフェイスが会話っぽくて短文でもOK
-電話番号で登録?
3)画像添付が簡単
4)友人間の掲示板替り?友人の友人と出会える?(この辺は仕組みがよく分からない)
こんなところ?
要は「操作簡単」てのが一番受けてるのかな。
メンバー登録が面倒だったり送信先が簡単に登録できないのは、手もみ洗いで洗濯していたのを自動洗濯機にしたとか、その手の利便性とはまったく意味が違うと思う。
関係ないけどゲームだってとにかく画面を擦るだけの操作が流行してるしね。
面倒な操作や知識をブラックボックス化するという意味では、新手の技術革新と言えるんじゃないだろうか。
オリジナルの画像作成&添付だって自力でなんとかすればどうにかなるもんだけど、それを簡単にしただけに留まらず複製された印刷もできないクオリティの画像にお金払わせるって、すごい商売だなぁと感心する。
なんでコミュニケーションに絵文字だとかスタンプがここまで重要視されるのかって話はかなり複雑そうなんで割愛。
UIはiOSのメッセージアプリみたいで機能的にもほぼ代替可能だけど、なぜメッセージアプリでなくLINEなのか。
異なるOS間でも利用可能とかアドレス帳とID検索で送信先特定簡単とかその辺だけではちょっと理由が弱い。
たぶん、メッセージアプリは微妙なところで致命的にユーザーフレンドリーでないのがダメなんだと思う。
SNSとiCloud送信の何が違うのかとか、iCloud登録の手順が微妙に面倒とか。もしかして、そうゆう面倒さのせいで「iPhoneのメッセージアプリで違うキャリアにスタンプ送ると有料だよ」なんて思われてるのかもしれない。
ネタ画像を自分で探して保存・添付するのも面倒だろうし、セリフ付きの画像用意するなんてなるととてつもなくハードル上がるに違いない。
ぱっと見シンプルでなんか簡単そうだなーと思わせといて、肝心なところで知識がないと使えないってのは、海外のWebサービスでままあることのような気がする。
ともかく「小難しい話は抜きにして簡単に誰でもすぐに使えること」すべからくここに行き着くのが、ソーシャル系に限らずECでさえも今の日本で流行るための必須要件なんだろう。
正直個人的には、LINEのようなWebサービスがここまで流行るようなものなのか、流行るだけでなくリリースする会社が上場しちゃったり株価にすごい値ついたりとか、そうゆう状況には甚だ疑問なんですけど、お役所さん方面も、LINE流行による未成年の風紀の乱れが〜とかSNS規制が〜云々騒ぐなら、まずはその辺、きちんと教育するようにすればいいだけじゃないんですかね。
規制したって、そうゆう需要があるならまた別のが出てくるだけでしょ。
なんで需要があるのかって言えば、端末とネット使うのに必要な教育が足りていないだけ(あとコミュニケーション方面の何か?)。
ほんとになんとかしたいと思うなら、足りない代替物(情報・知識)を供給すれば需要が衰えるんでないのかな。
それをなんで規制の方向に向ってしまうのか、LINEが流行ることより、まったくもって理解不能な今日この頃です。
あと、親がまともに使えないのに流行ってるからって理由だけで子どもにiPod touchとかスマートフォン買い与えるのはほんとやめたほうがいいと思う。
近所のお店では食べたことがあるけど、本場では食べたことがないので、タイ風なのだ。
・ココナッツミルクの缶詰(フィリピン産) 1缶400cc 98円(98円)
このあたりで普通のスーパーでは挫折しそうだ。業務スーパーと名乗っているお店でゲットしました。
開缶すると保存に問題がありそうなので、この缶詰の量がほかの材料のベースになる。
普通のスーパーだと値段が高く量が少ないので、こちらも業務スーパーと名乗っているお店でゲットしました。
400gのうち、1/8の50gを使います。
スーパーにもも肉しかなかったので、もも肉。130g。お好みで増減してください。
・姫竹(福島県産)178円(89円)
たけのこ。水煮になっているものを適当に。パックの1/2を仕様。
嫁に食わすなの秋なす。1本。
本当は、緑とうがらしを入れるらしいのですが、みつからないので、これで代用。
鶏肉をヨーグルトに漬けるチキンカレーのレシピよりも簡単で時間も20分ほどでできてしまい拍子抜けでした。
総コスト571円+光熱費。いなばのタイカレーが138円(125g)なので、約4.1個分です。今回のレシピでは、2倍以上の量ができてしまいます。
タブレット端末で予習、佐賀県武雄市の市立小学校で「反転授業」試行へ http://biz.bcnranking.jp/article/news/1310/131002_134681.html
墨田区教育委員会、NECのWindows 8タブレットを300台導入 http://cloud.watch.impress.co.jp/docs/news/20130905_614221.html
「進研ゼミ」にタブレット一斉導入 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1310/04/news121.html
よく分からない。
タブレットって基本的にはViewer.
AppleはiWorksタダでリリースして「Editorとしても使えますよ」と言ってるけど、真に受けちゃダメ。
メーカーはハード売りたいから何でも言うけど、パネルちょんちょんつついてドキュメント作るの?
私、Pages落としてiPadで使ってみたけど、しんどくて30分でギブした。NumbersもKeynoteも無理だった。
ノート取ったり、資料閲覧したりするなら、1.5kg以下のB5ノートPCが便利だと思う。
スリープからの起動は数秒。SSDなら電源落ちてる状態からの起動にもそんな時間かからない。
Editorとしての利便性、拡張性、コスパ考えたら、ノートPCじゃない?
一時期、日本中の学校に作られた『コンピューター室』を思い返さずにはいられない。
「パソコンは温度変化、特に夏の暑さに弱いんですよ」なんてメーカーに言われ、冷暖房完備の教室を作っちゃった。
それでほとんど使わないゴミソフトが多量に詰まった、馬鹿高いパソコンをしこたま買わされた。
あのパソコンたち、今はどうなってるんだろう?
iOS7に変えてみたんだけどなにこの使いにくさ。イラッとする。ストレスたまる。
全体的に「何の意味があるんだ?」って突っ込みたくなるUIが多すぎる。
ましてや初めてスマホを触るような人達にとってiOS7は受け入れられてるのか?
docomo解禁でスマホデビューしてるような人達がiOS7をどう捉えてるのか気になる。
何でこんな事を増田で書き始めたのかと言えば以下の記事を読んだから。
よくわからない。
現実世界のメタファーが無くなると、それで一体何がどうなるわけ?
フラットデザインのお手本って紹介されてるサイトに行くと、どこをクリックしたらいいのかわからん。
「俺は先に進みたいからどこかしらをクリックする必要がある。どこや?どこをクリックしたらええんや?」って探さないといけない。
インターネット歴10年以上の人間がそんな状態に陥るようなデザインって、間違いなく破綻してるよ。
ユーザーはクリックするべきところを無意識に理解できるデザインこそが素晴らしいデザインなんじゃないの?
なんでこっちが気を使って頑張ってクリックする場所を探さないといけないの。
現実世界のメタファーは人類の利益を毀損してんのか?無くさないといけないのか?
メタファーが消滅すると、具体的に何がどう嬉しいんだよ?
禅とかミニマリズムとかここ10年Appleがやってきたことは素晴らしいと思ってる。
Googleとかにも共通する話だけど「全てはユーザーの利便性のため、そのために必要無いものは極力省く」っていうスタンス。
web業界だけじゃなくて全ての世界に当てはまる至言ですよこれは。
30年経っても色あせない。
逆じゃん。使い辛くなってるじゃん明らかに。
今の主流デザインは洗練されすぎてもうデザイナーがやることが当分無いから、無理矢理仕事を作ってるだけにしか見えないんだけど。
さっさと滅びろよフラットデザインなんて。
そんなところを破壊する前に電子書籍の紙っぽいページのメタファを何とかしてよ。
あれは間違いなく悪だから。
腕時計型PCの普及は現実的に思えるが、タブレットやスマホの補助的な機能で収まるならばそれほど需要はないだろう
結局スマホも持つなら同じ情報を送受信するデバイスを同時に2つ持ち歩くことになる
逆にスマホ機能を腕時計に丸ごと盛り込んだとしても、やはり普及は厳しいように思える
カメラ撮影や文字入力なども腕時計型の方がスマホよりも利便性が良くなるとは思えない
音声通話は無線イヤホンで行うことになるが、スマホでも無線イヤホンで通話はできる
単なる劣化スマホだが、ものすごい安価で提供されれば普及するかもしれない
または、アクセサリーとしてファッションのために装着する、激しいスポーツ時に装着するなどの限定的な需要はあるだろう
少なくとも現時点のメガネ型はデカくて重すぎて一般大衆向けではない
そして、スクリーンの情報もAR機能も歩行中は専ら邪魔で公共の場では「歩きスマホ」よりも危険度が高そう
さらに、メガネ型のカメラ機能は相手に与える印象やプライバシーの問題もある
普通のメガネと外見上の区別が完全になくなるかコンタクトレンズ型にでもならない限り、一般大衆が街で装着するような未来は決して来ないだろう
飲食店やコンビニがテナント入っているのは、別に住人の利便性を考慮したわけではなくて、大家がより沢山儲けたいと考えた結果だからね。
今、私はガラケーを使っている。
今後もしばらくは使い続ける所存だ。
理由は3つ。
単純に複数回線持つより安上がりということもあるが、カネというより気持ちの問題。 MOTTAINAI!!
テザリングでまとめることも考えたが、バッテリー・帯域制限・回線維持費を考えると、今はまだルーターの方が賢明。将来的には通話機能とルーターは集約されると思う。
特にプロバイダ契約ブッチして、E-Mailさえ使えなくしてからは充電頻度が激減した。
キャリアが提供する通話サービスは、SkypeやLINEに取って代わられるかもしれない。
ただ、現時点ではガラケーが最も通話に適した手段ではないかと思われ。
私がガラケーに固執する理由はこんな感じ。
武雄市図書館について、慶應大学総合政策学部教授の上山信一氏が非常に興味深い考察記事を公開されている。
なぜ武雄市立図書館はすごいのか――ツタヤ、スタバとのコラボ(下)
http://www.actiblog.com/ueyama/304221
樋渡市長や図書館職員、運営受託者のCCC(カルチュアコンビニエンスクラブ)へのインタビュー取材で得たことをもとに、武雄市図書館がなぜすごいのかが分析されている。
しかし、上山信一氏は、見えないものを見ようとするあまり、武雄市図書館の本当のすごさが伝えきれていないと感じた。
僭越ではあるが、見えていることをもとに上山信一氏の記事を補足し、この武雄市図書館プロジェクトの意義を考えたい。
最初にプロジェクトの内容を確認したい。これは武雄市とCCCとの共同事業である。
武雄市は、リニューアルを機に、入り口のすぐ横にあった蘭学館と称する歴史資料館のスペースと、同じく入り口近くにあった子供向け読み聞かせコーナー及び子供用トイレ・授乳室のスペースを、CCCの営業スペースとして貸し出した。
CCCは、歴史資料館だったスペースにはレンタルDVD店を、子供の読み聞かせコーナーだったスペースにはカフェ(スターバックスコーヒー)を開設した。
歴史資料館は会議室を転用したスペースに、子供の読み聞かせスペースは館内の最も奥に設置し、子供用トイレ及び授乳室は入り口すぐの1箇所に集約された。
CCCは武雄市に営業スペースの賃料を年間600万円(月額50万円)支払うことになるが、同時に図書館の指定管理者となることで、向こう5年間の間、年間1.1億円(月920万円)を受け取ることができる。
リニューアルに際しては、市は4.5億円を、CCCは約3億円を投資した。
市の投資額4.5億円には、一般財源から1億7500万円、合併特例債から2億7500万円があてられている。
合併特例債の70%にあたる2億円は国から交付される仕組みのため、武雄市の実質負担額は4.5億円のうち2.5億円で、残りの2億円は国が負担する形となっている。
CCCの投資額は約3億円とされているが、武雄市から「新図書館空間創出業務委託料」として約1.3億を受け取っているほか、営業エリアの商品仕入れ代金などの流動資産を含まれるとされているため、実質的な投資額は抑えられている。
図書館のスタッフは市の職員が3人、CCCが16人(館長1名、司書15人)である。直営時代の司書は引き続きCCCが契約社員として継続雇用し、書店部分の選書やPOP作成などの業務も兼務している。
このように、武雄市とCCCが手を取り、両者の費用負担を軽減するためのモデルを共創しているといえよう。
成果は顕著だ。蔵書数は19万冊と変わらないが、高さ3m以上の高層本棚を利用して全面開架としたことで、すべての本をただ遠目に眺めることはできるようになった。
もちろん、手の届かない所にある本も司書に依頼すれば5分~15分ほどで取り出してもらえる。
公共図書館は予算の制約から雑誌の品揃えに苦労しているが、ここではCCCの店頭にある雑誌の最新号が自由に読める。もちろん欲しくなったら買って帰れる。雑誌のバックナンバーは蔵書しないが、必要な際には他の図書館より相互貸借を受ければよい。
開館時間は4時間も伸びて午前9時から午後9時までとなった。閉館日がなくなり、年中無休となった。午後6時に閉店するDVDレンタル店は論外であるが、仕事帰りにレンタルDVDを利用する層を考えると、午後9時の閉店でも早すぎる。他のCCC店舗同様に、深夜0時までの延長が期待される。
カフェは、楽しい、人と会い、語れるという雰囲気をかもし出し、若者や子連れの母親達が集まるようになった。
コーヒーを飲みながら、ワイワイガヤガヤと語らっていても、館内に流れる大きめのBGMで打ち消すことで、気にならないよう工夫されている。
また、公共図書館に良く見られる、持ち込み学習をしている学生も全く見当たらない。それもそのはず、学生は2階に設けられた学習室を利用している。これは図書館が定めたものではなく、地元学校が自主的に定めたというルールにより実現されている。学習室はいささか手狭ではあるが、1階のカフェでコーヒーを購入すればカフェ席を利用することもでき問題ないであろう。
結果的に、これまでも決して少なくはなかった入館者数は今年のリニューアル後、激増している。
これまで、スターバックスは佐賀県には4店舗しかなく、しかも2店舗は高速道路サービスエリア内のため容易にアクセスできなかった。
武雄市図書館におけるスターバックスの集客力は高いと言わざるを得ないであろう。
財政面では、市はCCCに年間1.1億円の委託料を払うが、これは従来よりも年間1億円の経費削減となると見込んでいる。
武雄市は、現在の武雄市図書館相当の運営を直営でおこなった場合、年間2億円を超える費用がかかると試算。これをCCCは年間1.1億円で行うことができることから、少なくとも、年間1億円の「経費削減効果」が見込めると見積ったのである。
市長は、毎年1億円の「経費削減効果」があるのだから、4.5億円の初期投資を行っても、5年間の指定管理期間中に取り戻せると説明。それを武雄市議会は承認したわけである。
武雄市図書館が開館した今、改めて雇用者数や書店部分を含めた蔵書数、レンタルDVDなどの品揃え、武雄市の宣伝効果等などの経済波及効果を考慮すると、私の見立てでは直営で運営した場合の費用は、年間2億どころか、年間60億はくだらないであろう。
これをCCCは年間1.1億円で実現しているのだから、武雄市は年間59億円の「経費削減効果」を得ることができ、5年間では約300億円の「経費削減効果」となる。
武雄市長は就任時400億円あった借金を7年で90億削減した。
今回のCCCへの指定管理で生まれた「経費削減効果」300億円を借金返済に当てることにより、残り5年で武雄市の借金はゼロにできるであろう。武雄市議会も承認するはずだ。
表面的な効果は以上のとおりだが、本件は官民連携の先駆事例の意義を秘めている。
第1に社会教育施設としての本来の使命を果たしている点である。
本離れ、特に若者のそれはどこでも大きな問題だ。それは図書館にとっても課題だし、書店にとっては死活問題だ。本件はそれに対して図書館と書店、書店とカフェ、さらに書店とレンタルDVDを組み合わせることで対処した。
全てを同じ場所にまとめ、多様な選択肢を用意する。そのことで市民の興味と関心を喚起し、集客に成功した。
書店やカフェ、レンタルDVDで客を呼び寄せ、図書館の入館者数としてカウントしたことがすごい。
こうすれば図書館の入館者数を飛躍的に増やすことができ、社会教育施設としての図書館の使命を果たせていると示すことができる。
ここまで踏み込んだ意義はきわめて大きい。
もとはごくごく普通の図書館だった。多くの公立館と同様に、書籍数は限られ、来訪者も限られ、開館時間も短い。それでいて運営費はかさんでいた。また広い面積を事務スペースが占めていた。
リニューアルでは、スペースを営利部分の顧客のために最大活用することにした。顧客ニーズを真剣に突き詰めた結果、カフェの併設やレンタルDVD店と書店の併設という"ワンストップサービス"化のアイディアに至った。
顧客志向の発想は開架の本の並べ方を従来の10進法の図書館分類(哲学などが入り口に来る)から営利部分利用者の利便性を考えた順番に配列する工夫にもつながった。(市長の著書が入り口近所に平積みされるなど)。
営利事業との並存は、スペースの生産性向上だけでなく、来館者数の拡大、賃料収入をもたらした。また、指定管理者は市役所からの収入だけでなく営利収入も使ってサービスの充実が図れる。最低限の運営費用は指定管理料として支払われるため、営利収入の利益率は高い。店も併設しているから、普通の指定管理だとありえない数のスタッフしか図書館部分には確保されていない。
第4に武雄市を有名にした。
文化と教育を重視し、改革に挑んでいるという姿勢が全国に伝わり、武雄市の知名度とイメージ向上に寄与した。
マスコミに積極的に露出する一方で、ソーシャルメディアを通じて寄せられた感想や意見は「ゴミのような意見」「君はゴキブリ以下」と一蹴するなど、武雄市のイメージ形成には今や欠かせない存在である。
また、実名で意見を寄せた人物に対し、職場の上司や国会議員を通じて圧力をかけたり、勤務先の企業名を連呼し不買を公言したりするなど、ソーシャルメディアの特性を十二分に活かした、武雄市の知名度向上策を実践している。
今の時代、インターネットの普及で図書館はもちろん、紙の書籍の存在意義すら問われている。
また、CCCの運営する店舗は全国に約1500店舗あり、スターバックスも約1000店舗ある。
今やTSUTAYAもスターバックスも、ほとんどの人が簡単にアクセスできる時代である。
レンタルもインターネットで頼めば自宅のポストに届き、淹れたてのコーヒーもコンビニの店頭で買うことができる時代になった。
ファミマの隣にファミマができる時代である。今後はレンタルDVD店も淘汰されていくから、企業も新たな業態を見つける必要があるだろう。
そういう時代であるにも関わらず、武雄市図書館は、書店とレンタル店とカフェを併設し、それらの利用者を図書館利用者としてカウントした。
武雄の例は全国の公立図書館にショックを与えている。
だが、武雄市や武雄市図書館を擁護する人々は、図書館法や司書制度は既得権益で、既得権益者が「いかがなものか」と批判していると言う。
しかし、指定管理制度を含めた民間活用全体に関する否定的な意見は、武雄市図書館に関しては見当たらない。
批判の多くは、議会を含めた武雄市政が行った決定プロセスや、指定管理者であるCCCに固有のものである。
特に、インターネットでやりとりされる、単純な感想や素朴な疑問に対する、武雄市長を含めた武雄市の過剰なまでの反応と、その対応のまずさが、批判の声をより大きくしていることは否定出来ない。
東洋経済の記事で「流山市が若年人口流入のため、市長が旗振りして地域ブランディングしている」
という記事があり、「これは凄い」的コメントがはてブやツイッターで溢れてた。
不動産屋の自分から言わせれば、流山市の人口流入の99%はTX開業で説明が付く話であり、
1.そもそも、首都圏民が「どこにマイホーム買おうかな?」と検討する際に、行政サービスの充実度を参考資料にする人なんて1%もいない。
99%は物件自体の利便性広さ価格で決める。流山市が人口増えたのは都心距離の割にマンション安いから。行政政策の寄与度は少ない
それを「人口流入は市長の手柄」という記事を書くからには、「市の政策と若年人口増に相関がある」ことを、東洋経済自身が行う必要がある。
例えば、ここ数年で流入した人に、ネット経由でも何でもいいから「なぜ流山市に流入したのか?」アンケートを東洋経済が取ることだ。
おそらく「通勤に便利」「マンションが安い」辺りが選択肢上位に来ると思うが。そのようなアンケートを東洋経済は実施したのか?
「東京は郊外から消えていく」の三浦展氏は、ちゃんと首都圏各地の各世代住民に大規模アンケートを実施して、自説の裏づけしている。
東洋経済も流山市民にアンケート取ったり、ナマの声を取材すべきだったのでは?
そういう相関関係のデータを挙げてない時点で、東洋経済のこの記事は「ダメ記事」である。
「ホットスポット問題が発生したから、適度な人口流入にとどまった」という側面がある。
(因みに市のHPを見ると、3・11以降もじわじわと人口は増えている)
多分、「おおたかの森」辺りの駅前分譲マンションに1都3県から2000人流入し、
一方で南流山辺りの賃貸2DKマンションから赤ちゃん連れファミリーが放射能忌避で埼玉とかに1000人流出し、
もし3・11が発生してなければ、交通インフラの割に地価(マンション価格)の安い流山市は
もっと人口が集中してしまい、江東区や武蔵小杉みたいにインフラ整備が追いつかずにパニックになってしまったのでは?
それ位、行政が「人口増加幅や家族構成、年代構成をハンドリングする」というのは難しい。
「流山市の望んでる人口増加率に偶然収まっている」のが実情では?
例えば人口密度日本一の豊島区は、単身者比率・ワンルーム比率が高いことに業を煮やしてワンルーム規制を実施してるが、
にもかかわらず建てられるのは相変わらずワンルームが多い。それ位人口流動は「行政の手に負えない」のである。
3.ツイッター見ると「自分の街も流山市を見習え」的ツイートが多いけど、
一般消費者向け(G To C)にアピールして人口増やすのは至難。
事業所を誘致して、雇用の場を作って、それにつられて人口が増える、という格好が王道だと思う。
一旦事業所を呼び込んで、結果的に一般消費者を増やすのだから、G To B To Cだ。
4.流山市長は「30代ファミリーの流入目指す」と胸張ってるが、バランスを考えなきゃ、
世代間バランスが取れた街造り、という観点なら、一気に街を作りこまなかった
ごみ処理自体はスーパーの臨時ステーションやゴミ処理場に持って行けばやってくれるわけで、そこまでが行政サービス。あるいはゴミ収集車が来るのを待ち構えて手渡しすれば回収してくれるでしょ。ゴミステーションは自治会がゴミ収集の利便化をはかって設置管理しているわけだから、自治会に入らなければ使えないのは当然。市としては「そこまでは行政の管轄ではない」って判断してるわけでしょ。自治会に入って金を出すのは嫌、でも自治会が維持管理しているステーションは使わせろ、って言われてもそれは「理にかなってない」んじゃない?
ってあるけど、ゴミ処理自体は行政がちゃんと行ってるよね。その利便性を上げるために、半民間と協力してるってだけでしょ。利便性については行政の義務ではなく、行政と自治会とが協力して遂行しているオプションと考えればいいかと。そこは義務じゃないんだから委託だろうがなんだろうが構わないでしょ。そもそも行政では手の届かないところを補うのが自治会でしょ。
少なくとも現状で市の管理ではないし、それが義務でもないものを、「なんで市の管理じゃないんだ」ってわめいたって意味ないでしょ。それを市の運営にしたいなら、それこそ市議会議員なんかにかけあって、予算組んでもらって「市が管理」するように働きかけないと。
それに委託がダメ、別料金取るのがダメ、ってのなら、市営バスや市営地下鉄だってダメだよね。生活に必要な交通手段。でも運営は市自体がやってるわけじゃないところもあるし、お金だってしっかり取る。それを「市営なんだからタダで乗せろ」って言ってるようなもんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130724124424
でもそれは哲学にはかぎらんのですよ。人類は漸進してきたって大前提な訳。
中学生が「おいおい、古代人って一晩中、火種の見張りしてたらしいぜ、まじで猿。ライター使えばすぐつくじゃん」ってバカにするのと一緒。
そんなやつには「お前まじバカ。お前がライター使えるのはいままでのご先祖様が延々と利便性のための発明と工夫をしてきたからだよ」ってツッコミ入れられるし、事実、はいる。
でも、それは「古代人-火-ライター」という非常に判りやすい、目に見える部分だから気がつけるしツッコミがはいるってだけ。
現代の世の中には目に見えないけれど当たり前になったことが沢山あって、そちらのほうは顧みられず評価もされない。
たとえば「トイレの後に手を洗う」なんてのは、とても有意義な「発明」なんだけどそのありがたさに気がつく人はまれだ。
だから「トイレの後に手をあらわねえなんてガリア人まじでアニマル」ってのには大抵ツッコミが入らない。
人類史的な発展に感謝と謙虚を身につけておいたほうがなにかと捗るんだが(じゃないと隣国とのつきあいにすら支障をきたす)上手くいかない。