はてなキーワード: クィアとは
アニメオタクなら、アメリカ人がアニメの女性の胸の大きさに文句言ってるイメージあると思うんだけど
それは実際そうで、なんでってアメリカではお尻ってわりと許容されてるんだよね
twerkなんていうあからさまに性を前面に出した踊りまであったりしてさ、それがSNSで容認されてシェアされたりする
それが良いとか悪いとか言いたいわけじゃなくてさ
アメリカ人がアメリカ人の都合と価値観で、あれは良いこれは悪いって決めて基準を決めて押し付けてるって話
それが日本は表現規制で遅れてますねって話になって、SNSでレスバトルが始まる
つねに向こうが決めてるんだから、つねに日本が間違ってるって話になる
ゴルフの頂点と言えばアメリカのPGAツアーだけど、これが脅かされるんじゃないかって動きがあって
オイルマネーをつかってPGA以上のギャラを払って世界中から一流のゴルフ選手を集めて、
アメリカからスポーツウォッシュだってバッシング受けてたんだよね
ソフトパワーで問題を覆い隠して国をいいように見せるって、アメリカがやってることじゃねーかって思いながら成り行きを見てたら
なんとPGAとLIVが事業統合するとかいう話になってまじで笑ってしまったんだよねw
スポーツウォッシングとか言ってたのは何だったの?結局、世界トップを守るための言い訳?
まさにアメリカ人って感じだよね
60-70年代ウーマンリブ、女性の権利獲得運動に黒人は想定されてなかったみたいな話でさ
バービーの映画って白人女性のエンパワーメント映画だからなおさらそう思うよね
近年のハリウッドの多様性、LGBTQなんてものは同性愛者とかになるとクィアベイティングって言われるように、それがビジネスに都合がいいからやってるだけ
最近のアジア推しも、アメリカにアジア人が多くなったからアジアで金稼ごうってだけで大した意味はない
だからビジネスで有利なら、原爆とバービーの組み合わせなんかもやるし、中国への媚びもやる
原爆だからっていうより、アメリカのこういう自分たちの価値観だけで物事によしあし決めてることに対する不満があるよなって思った
百合とかBLとかセクマイとかの「クィア」を客寄せ要素として使ってるけど扱いが不誠実、みたいなのをクィアベンディングと呼んで差別だと指摘する意見がある。
カタカナ語であることからもわかるように英語圏で流行り、最近は日本でもセクマイを扱ったエンタメや芸能人が批判される際に、意識の高い人たちを中心に使われだしている。
百合営業とか腐営業やってるくせに浅いし適当だし失礼なんだよ、みたいなことは昔から日本でも言われてきたが、クィアベンディングという用語を使った場合、倫理面での強い批判というニュアンスになり、批判された側は申し開きが難しくなると思う。
私は百合やBLを楽しんできたオタクであり、同じジャンルのオタク友達の中には、クィアベンディングなどを指摘する人も結構いる。
クィアベンディングにある程度の問題があるということは否定しない。
だが、私は、クィアベンディングであることを理由に何かを責めるつもりにはなならない。私は、客寄せのクィアを散々楽しんできたし今後もそうするだろうからだ。
そして私が認識している友人たち(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス含む)や、世間のほとんどの人もそうだ。
(おそらく異性愛者であろう)アイドル同士がMVでほっぺにキスをしあうところや、キャラクターが不意のボディタッチであわあわするシーンや、役者が作品中ではなくオフショットで共演者にあすなろ抱きや壁ドンしている写真や、Twitterのフォロイーや私たち自身が同性友達とお出かけすることをデートと呼称することを、ニコニコしながら……時にはキャーキャーウォーウォー言いながら私たちは楽しんできた。
それらの半分以上はクィアベンディングと呼ばれてもおかしくなかったと思う。でもそれらは燃えなかったからわだかまりなく楽しんでいます、だけど何かのきっかけで燃えた物に対しては、急に真っ当な顔をしてクィアベンディングで差別的だと全力で怒ります、という気持ちにはならない。
ダブルスタンダードとかブーメランとかの指摘が力を持ちすぎる風潮は歓迎していない。人間は考えを変えたり矛盾したりしてしまう生き物だと思うので。
でもそれにしたって、タチの悪いダブスタをやりつつ倫理的に正しい側に立った態度をするのはよくないだろう。
クィアベンディング的な売り方はよくないと学びました、私も悔い改めて今後それらを楽しむことはしません、ということならばわかる。
だが、先月クィアベンディングで怒ってたのに、翌週には2.5次元俳優の楽屋での距離の近さにときめいてて、来月出る百合萌えゲームも楽しみだけど、今日はまたクィアベンディングに怒りますというのは、よくないよ。
自分自身がセクシャルマイノリティであろうとなかろうとね。
エンターテイメントや芸能業やスポーツ含めた興行というのは多かれ少なかれ外道の商いで、売り手も買い手も、私たちはみんなその悪を背負っている。
それでも、悪すぎるものは程度問題として批判され改善された方がいいと思うが、その時話題になっているモノの悪さの程度はどれだけなのかというのをちゃんと考えた方がいい。話題性だけに引っ張られて怒り、クィアベンディングという使い勝手が良くて非難として強い言葉を使い、自分の普段の行いを棚に上げて善人面していないか。
一般論として読んでほしいから具体名を出すか迷ったけどボカすのも不自然かと思うので名言すると、このエントリを書くきっかけは水星の魔女の話題である。
百合やBLを尊いとか萌えとか言って楽しんできたし今後も楽しむであろうベンディングエンタメ大好き人間が、水星の魔女を批判する際にクィアベンディングという用語を使うのはスジが通らないと思う。
まず前提として、水星の魔女の作中・作外においての結婚の表現の避け方が、余韻を生む効果より、不自然で違和感を生むマイナスになっているとする。この前提に同意せず「作品の質を上げるためには結婚表現の回避が必要だった」という立場もあるかもしれないので。
あの不自然な結婚表現の回避が、誰かの思想によるのであれば(百合を売りにした作品じゃなかったとしても)同性婚冷遇的すぎてよくないし、海外展開の妨げになるからと勘繰られているのが本当にそういうなら商業主義のせいで作品に不自然さという瑕疵を作っていてよくないし、だいたい婚約指輪を描くのはいいし花嫁花婿と言うのもいいけど結婚と言うのはダメみたいなピンポイントの言葉だけ隠せば問題ないという基準は馬鹿らしい、などの批判なら、大いに頷ける。
同性愛かどうか抜きにしてミオミオはスレッタに当たりきつかったから結婚してなくてホッとしたよ。
同意やね。
センシティブだから否定したというより、そこはボカすのがオモロやろって演出で終わらせたのに確定させられるのは意図に反するから否定したという以上ではないと感じた。
なのでセンシティブ面で批判されるなら今回の訂正という結果ではなく、それを必要とした作品の演出そのものかな。
よく言われるように最初に同性婚は普通でヒキを作っておきながら作中では全くそれを取り上げることなく終わったのはクィアベイティング的であるというのは一理ある批判だろう。(個人的にはそのような批判をあまり強硬すると同性愛をフラットなものとして取り扱うことを妨げかねないので慎重に行った方がいいと思うが)
国内盤は無規制です!つってハシャギながらクィアな関係を示唆するテキストはしっかり消してたらしいDead Spaceを思い出しますネ(ぼくは未プレイなんだけど)。EA日本支部はそういうスタンスなんだな~。
https://twitter.com/makichang23/status/1685508976031780864
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ゲーム会社の方がこういうことを公開で言ってしまうことにかなり失望感あるな~やってること悪質なゲームコミュニティと変わらなくないですか?
https://twitter.com/mttk3029/status/1685570423294222336
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こちらのツイートですが、当該の人物とDMで話し合いを行い、ツイートを削除していただいたので、こちらの発言を撤回いたします。
なおツイート自体を消してしまうといらぬ誤解を生んだり文脈を見失ったりしてしまいかねないので、あえて残しておきます。
https://twitter.com/mttk3029/status/1685607561712771072
IGN Japanは渡邉卓也というライターがFF16を「体験版が一番おもしろかった」とDisったり、発売前に「樽も壊せないの?」と煽って吉田Pに発売前生放送で注意されたり、最近ではAC6のプレイ動画でシステムも理解できないド下手ライターに「カメラ操作がストレス」「ソウルライクではない」等
意味不明なネガキャンをやらかしててヘイトが溜まっているところにこれ。「インチチゲハニュースジャパン」という蔑称にふさわしいメディアだね。東京五輪開会式批判をゴリゴリの左翼&割れ厨ライターワニウエイブに書かせたGamesparkといい勝負のクソメディアだわ。
そういえば渡邉卓也はリメイク版Dead Spaceについて「敵がアイテムを落とすと萎えるわ」というネガキャン記事挙げてたし、批評と勘違いしたオナニー記事で金貰える会社なのかね、IGNJ(産経系列)は。
“それは理解のない職場や学校や実家や親類の前など、出生時割当ての性別のフリをしなければならないところで不本意にそうさせられているだけのふつーのトランスであって、その原因の一端はやっぱりお前ら差別者なんですよ”
“これは判決を全く読んでいないか読み取る力がないかのどちらか。そういう判決ではない。”
“トランスヘイターの人が考えた言葉が「事実」として広まっていく過程が観測できて恐ろしいよ。”
“場面的トランスジェンダーなんてどこの誰かもわからない匿名垢がいきなり出した言葉にいとも簡単に踊らされている、集団心理の怖さ。事実検証なんてどうでもいいんだろうね、面白おかしく刺激を求めて騒げれば。”
“「ジェンダーフルイド」(gender fluid) は、外的要因で性自認が動かされることであり本人の都合よく性自認は変化しない。”
そしてプライベートエリアに弁護士を控えさせてターンエンドだ!
次はお前の番だぜ、増田!
もう消されたようだが、身体男性のまま女子トイレを使わせろと最高裁まで争って中年男が女子トイレに入る権利を勝ち取ったトランス女性は「露出狂やペドフィリア、サディズムはもはや異常ではなく、尊重されるべき個人の多様性の一つ。脱病理化すべき」とツイートしていた。
https://twitter.com/akishmz/status/779860576805593088?t=lIKb8ZkbW4MOjGy1zEmWaA&s=19
フェミニズム、クィア理論のトランスアライ学者は「どこから再燃しているのか知らないですが、またTLにあがっているようなので。ペドフィリアはセクシュアリティの一つだと思いますし、ペドファイルはその意味ではセクシュアルマイノリティです。それは否定できない。そのことと、性暴力や性虐待を許容しないこととは、別の話です。」とLGBTQ+にペドフィリアを含めていた。
トランスアライ作家はhttps://twitter.com/Li_Kotomi/status/1300013588677980161?t=t1e1stJTfLxsNqLExtn64g&s=09
小児性愛はLGBみたいな性的指向ではなく病気である、という言説があるが私は必ずしも賛同できない。何が病気で何がそうでないかを断ずるのは常に権力者側なので、慎重にならざるをえない。
同性愛だって50年前は病気だったってことを忘れないで。」と小児性愛が同性愛と同じだと語っていた。
https://twitter.com/seijinikokorowo/status/1673302080390582272?t=nHPra4zdgHtCH8CDUPAhBg&s=19
[女性の知恵で社会をデザインする講座」のLGBTQについてのお話しをお聞きしました。
全てのマイノリティの人々が自分らしく活躍できることを願っています。
私の知人は、年齢自認に苦しんでいます。実際の年齢は20代ですが、心の年齢は小学生なのです。」
つまり彼らは中年男性がトランスジェンダートランスエイジですと自称すれば、小学校に通い女児と共に着替えをし、何なら小学生との恋愛もトランスジェンダートランスエイジレズビアンです!と言えば許されるような、狂った世の中を目指しているのだろう。
頭おかしい。
個人的に本当にすごく良かった。多くの人にこの映画を観てほしいと思う。
一部から、意図的にクィア映画であることを隠蔽しているという批判が上がってるみたいだけど、僕は制作サイドの判断を支持したい。
なぜならこの作品は人間が持つ無意識の加害性、また特にマジョリティがマイノリティの人々をいかに無意識に加害しているかということも描いた作品だと思うから。
僕自身は元ヘテロのバイだけど、この映画は事前情報なしで観に行けたので湊の母親や保利先生の視点をヘテロとして追体験できた。
そして、この映画を観た多くのノーマルの人々と同様に第三幕で明かされる真相に大きな衝撃を受けることができた。
もし、事前にこれがクィアな少年同士のラブストーリーだと知っていたらここまでの衝撃を受けることはなかっただろう。
そして、バイセクシャルをカミングアウトしていない僕はきっと映画館でこの映画を観ることはなかった。
また、もし大々的にそれが告知されでいれば、一番この映画を観てほしいマイノリティかもしれない子供の親たちにこの映画は届いただろうか。観れたとしてもそれは事前情報なしの観賞体験とは全く異なるものであったはずだ。
もしこの映画に注文をつけるとしたら、最後のシーンだけだ。湊と依里が生きていると確信できる描き方にしてほしかった。
ただ、あの終わり方だったからこそ彼らは観客の心の中で生き続けるのかもしれない。
考察系で追っていた人が「水星の魔女はクィアベイト」と強めの口調で不満を述べていたから、さらっと調べてみたんだけど……違くない?
当方あくまでさらっと視聴勢。基本リアルタイム視聴だが時間が合わなかったら配信。しかし何話か配信も見逃しているので、そのあたりは公式のまとめやファンの感想や考察で補完。小説は未読。
だからところどころ公式とはかけ離れた流れの感想や解釈のまま進んでいる可能性もあるので、そこは普通に突っ込んでほしい。
前提として私はクィアベイトとは、ググって一分の知識だが要するに「同性/両性愛者ではないのに、ゲイ/レズ営業をするな。そうみせかけて寄り添った気になるな」ってことだと解釈している。
スレッタは初恋がエラン4号と明言されている、かつ第一話で「女同士なのに婚約者?」と戸惑っている。
ミオリネもシャディクに「ホルダーを目指さないの?」≒彼と婚約することを悪く思っていなかった、と見れる。
従って二人は同性愛者ではないと言える。
「同性のスレッタ/ミオリネを好きになった」という点で見れば確かに二人は両性愛者と言える。
だが「二人の関係が恋愛とならなかった、親友として完結した、または恋愛関係となったものの破局した場合、その後の恋愛で同性を好きになる可能性は?」と言われると微妙だ。
これは私が両性愛者を「同性を好きになる確率と異性を好きになる確率が2:8くらいはないとそう言えなくない?」と思っているからだ。この好きになるにはどんな形であれ(それこそ一方的にでも)性欲に類するものを抱くことも含んでいる。
あえてこう表現するが、同性を恋愛として好きになるハードルは確かに低くなっているだろう。
ただスレッタとミオリネの関係は二人の間で輝かしく不可侵なもので、同性を好きになるハードルの前に「この関係を過去のものにして、新たな関係を築く」という越えなければならない山のようなものができるように感じる。
この山を越えていけるのか、というよりもこの山ごと愛して新たな関係を築ける共に人がどれくらいいるのかな…みたいに思ってしまう。
時間はかかるけれどぐるっと麓をまわってきれいな山だねという女性に出会うかもしれないし、だったら私はあなたと一緒にこの山も含む国を世界を作ってみせるという女性に出会うかもしれない。
ただ、それよりは異性を好きになる可能性のほうが高く感じるんだよなぁ。
元々初恋やそれに近いだろう感情を異性に抱いていること、好きになったのが異性なら二人の思い出はそのままに別個の関係を築いていけるというか…表現が難しいんだけれど、独立したものとしてきれいな思い出のまま、比較対象となることなく新しい恋に進んでいけるものになるというか……。
私の結論としては「スレッタとミオリネは異性愛者。ただし二人はお互いにだけは友情も性愛もなにもかもを抱く関係になれたらから、友人、親友、婚約者、家族、婦婦(ふうふと読んでほしい)と様々な面を持ち、それらの表現の一つとして結婚を選んだ」みたいな感じ。
決してクィアベイトではない。ただあらゆる関係のうちの一つに性愛があり、それを結婚し婦婦という形で表しているんじゃないか。
マイノリティ(今まで迫害…とまでは言わなくとも後回しにされてきた少数派とする)を蔑ろにした最終話とか言う人もいるけれど、水星世界は「同性愛も同性婚も当たり前、ただちょっと珍しい」故に気持ち悪いとか大丈夫なのかと迫害や疑問を持たれることはなく、だからこそ同性とそういう関係になることに人生をかけるような覚悟も必要ない。二人があるべき関係として結婚を選んだ。友人親友としての延長で結婚したようにも見えるし、愛し合ったからこそ結婚したとも見える。それは現実の夫婦間でも当たり前にあるのは想像に難くない。
ただ現実の日本では同性愛者であることのカミングアウトには人生でトップクラスに勇気がいることだろうし、同性婚は制度として認められていない。だから彼ら彼女らのほとんど当然抱かねばならない覚悟や無念、憤りは水星の魔女では描かれることはない。
そのギャップがあることを忘れて、あるいは見ないふりをしているとクィアベイトという結論になるのかな、という印象。
というか「マイノリティである同性愛を貫く」というような話をする場合、水星世界はとことん相性悪くない?
例えばミオリネがレンブラン家の跡継ぎとされているがあくまで中継ぎとして、本命は彼女の産む息子であることが明らかであり、ノートレットは子供を女一人しか産まなかった役立たずみたいに見る描写が彼女の周囲にだけでもあればそういう話もできた。
一族経営=跡継ぎを作らなければならない=おそらく同格以上の女性と結婚しなければならないジェタークの嫡子であるグエルが同性を好きになった場合もそういう話ができたと思う。ジェタークには庶子のラウダがいるが、物語開始時点でペトラといい雰囲気にしておけば「この二人を引き裂いて自分の感情を優先するのか?」みたいな葛藤も描けた。
世界観で見れば難しい描写も、個々の関係に範囲を狭めれば「戦いつかみ取っていくマイノリティ」を描くスペースはいくらでもあった。だけどそれは描かれなかった。
つまり「マイノリティが~」はこの作品のテーマではなかった。ただ現実とのギャップでそう錯覚してしまうだけの描写がなされており、水星世界では抱かれない疑問や与えられない試練に打ち勝っていく二人を期待していた人達が勝手に裏切られて不満なのかなあと。
数年前の大学時代、クィアの講義でLGBTQの歴史と差別について色々学んだ結果として
「LGBTQは『社会が受け入れ』ればそれで済む問題で、実際そういう流れになってて羨ましい」と思ったのを思い出した
それは自分が多様性に興味を持つようになったきっかけはADHD当事者として悩んできたからで、
ADHDは永遠に治ることのない「マイナス」な特性を持っていて生きてるだけで損失や問題が起き続けることが確定してるから
他のマイノリティを学んだことで、「生きてることが罪」に近い自分のマイノリティの救いのなさがより明確にわかったようだった
この増田の話は、多分相談員の結論が「正しい」んだけど、いわゆる二次障害に対応できてないタイプの相談員なんだなと思った
(「LGBT相談」より「臨床心理カウンセラー」の方が向いてる人がいるか? そもそも個人的に、電話相談は繋がらなさすぎるしあまり信用はしてないけど)
LやGの例でも、キリスト教では明確に「罪」だから、敬虔なキリスト教徒かつ同性愛者の場合、生きてることが罪って二律背反に酷く苦しむケースを聞いた覚えがある
まぁ……結局、まずは自分を洗脳し直さなくちゃいけないんだろう
統一教会を脱退して反対派になって何年経っても、裏切者の自分は地獄に堕ちるんだという教えのイメージが決して消えないという人の話もあった
多分、幼少期に根付いた思想や感覚を完全に拭い去って自己洗脳することは不可能なのかもしれない
多様性についての現代の「進歩」は、あくまで「社会の側が多様性を受け入れる」ということに焦点が当たってる
まぁもちろん、歴史的には社会が徹底的に迫害と抑圧をしてたわけだから、何も間違ってはないし進歩なんだけど
(それ自体もそうとう難しいし、100%になることはそうそうない)
ただ、なんていうか、「自分自身が呪われた人」にとっては社会がいかに変わっても、それだけじゃ救われないこともあるよなぁと感じた
https://twitter.com/paper_house_/status/1664972553889390593?s=20
ペーパーハウスくん
@paper_house_
ジャニーズの出演を問題視する団体 PENLIGHT発起人高田(仮名)さん、本当にコンサートいきました?【希望のたね基金】【ペンライト】
4月15日は矛盾し過ぎ
【話題】『PENLIGHT(ペンライト)高田さん(仮名)は映画監督「夏衣麻彩子」さんでは?』
雨月(うげつ)
@blythehydrangea
個人特定されアカウントを削除し実質雲隠れ状態だった高田さん(仮名)こと #夏衣麻彩子 さんのお姿を久しぶりに確認。
いのフェスチャンネルって前に #二本樹顕理 さんがご出演されてたキリスト教(※プロテスタント)チャンネルで
実行委員会代表はこちらもお名前既出の松谷真司さん。#PENLIGHT
https://twitter.com/blythehydrangea/status/1665020695015768067?s=20
まず私のプロフィールを明かしておく。
大学院生。社会学と文学のあいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。
映画は学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません。
匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SMの実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。
「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミックや評論の場で散見される。
これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用は特に必要でない限りはしない。
「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオの映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。
メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。
ゲームをアニメとしたら、キャラクターの解像度や物語の運び方だけでなく、どのようにゲームの快感が写し取られているかが重要ポイントに思う。
マリオのゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。
「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアのタスク消化に似た快感。
「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感。
マリオシリーズだけでなくゲームの快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか。
私はといえば、ゲームが苦手だった。
クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。
我ながらヘタクソなプレイである。しかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム的快感がある。
翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。
アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム的快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。
文学研究者の藤田直哉は上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662
ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。
周回前提のゲーム「ドキドキ文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。
また、勉強不足と笑われそうだが、3Dの映像で2Dのフィールドを表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。
「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。
しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ」作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さらに男性性との関わりについて分析する。
https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq
こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113
クッパは名誉と所有、暴力を原理においたキャラクターであり、婚姻と幸せを直結させる家父長制を背負った男である。
ピーチ姫に対し無茶な論理で婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人を婚姻の犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。
この「有害な男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。
それは物語のラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫とマリオとの恋愛の成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。
マリオはゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。
葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。
しかしマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。
イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。
そしてマリオは映画の終わりに藤田のいうところの「有害な男性性」の発露であるクッパを倒し、父親からの承認を得ることとなる。
婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力のねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。
その是非について何か言いたいわけではない。
現実では家父長制や異性愛規範や同性愛差別やトランス差別や人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである。
その是非についても何か言いたいわけではない。
ここまでが建前。
「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。
本気で惹かれると言っていい。
そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。
槇原敬之の「軒下のモンスター」から「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。
三島由紀夫の「仮面の告白」から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。
ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。
「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソングは哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。
私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。
今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダーやクィアの批評は規範を可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ。
本当は、弱者はクッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまりに感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。
お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。
Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。
A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダー、アイデンティティ、権力の問題に焦点を当てた哲学者、ジェンダー理論家である。彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然なカテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的に生産され強化される社会的構成物であるという考えに基づいている。彼女はクィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダーの概念に対する批判を行ってきた。
バトラーの主な主張の1つは、ジェンダーは遂行的であり、それは単に生得的または既存のアイデンティティを表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである。彼女は、ジェンダーは私たちが学び、内面化する文化的なスクリプトであり、私たちの日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまり、ジェンダーは私たちから独立して存在するものではなく、私たちが積極的に生み出し、参加しているものであるということです。
バトラーの研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女の批判である。本質主義とは、特定の特徴や性質が個人や集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティを定義するという信念である。バトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然なカテゴリーがあり、それが差別や排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式を可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティの概念を提唱している。
ジュディス・バトラーに対する最も一般的な批判の1つは、あまりに抽象的で理論的であり、彼女のアイデアを現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである。批判者は、ジェンダーのパフォーマンス的な性質とアイデンティティの流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女の仕事は不平等と抑圧の問題に対処するための明確な戦略を提供していないと主張している。
バトラーの研究に向けられたもう一つの批判は、個人のアイデンティティと主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的・制度的構造が私たちの経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女が成果主義とジェンダーの社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義、人種差別のような制度的システムを通じて権力が機能する方法に十分に対応していないと主張している。
最後に、フェミニストの学者や活動家の中には、生物学的な性と女性の経験の重要性を損なうとしてバトラーを批判する者もいる。彼らは、ジェンダーの流動性とアイデンティティの社会的構築を強調することで、バトラーは女性の身体の物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。
編注)単なるロリコンやエロ漫画、アイドル好きとは違い、これらは性犯罪者です
マスク氏、「ジェンダーフルイド」「反キリスト」を宣伝する小児性愛の旗をツイッターから禁止:「このプラットフォームでは容認されない」
禁止されたユーザーのプロフィールには、逆五芒星と反警察のスローガンが含まれていました
Twitter は、ユーザーが小児性愛を助長するフラグを投稿した後、自称「ルシファー」と「反キリスト」を禁止しました。
スクリーンショットによると、Twitter CEOのElon Muskは、「ZeebDemon」というハンドル名のアカウントを削除したことを祝福するユーザーに応えて、「このプラットフォームでは容認されません」とツイートしました。
「トランスフェミニンなジェンダーフルイドのデーモン・ディバイン」と自称するユーザーは、4月25日に、V字型の色付きのバーを特徴とする「若者を惹きつける人」の旗の画像をツイートした.
「よく使われる横棒のモチーフから少し離れたかったのですが、少しだけです。親しみを保ちたかったのです」とユーザーは書き、「アリスの日」にも言及しました。ダークウェブと小児性愛を祝います。
逆五芒星で飾られたその後削除されたTwitter プロフィールのスクリーンショットによると、ユーザーは「誇らしげにパラフィリア」、「根本的にクィア」、「ルシファー」であると特定されました。
ルシファー主義は、人間が神であると信じ、ルシファーを人間の悟りの象徴と見なす信念体系であると伝えられています。
このユーザーは、Black Lives Matter、反警察のスローガンである ACAB、および 18 歳未満の人々が成人の権利を持つことを提唱する運動である、若者の解放への明確な言及である「YouthLib」への支持も表明しました。
ボストンのサタンコン参加者は開会の儀式中に聖書を細断し、プロ警官の旗を掲げた:「万歳サタン!」
クリスチャンポストによると、ツイッターはまた、4月26日に愛は大人と子供の間で定義できることを示唆する写真を投稿した別の匿名ユーザーを停止した.
「2日遅れましたが、幸せなアリスの日です」と削除されたツイートは読んだ. 「相互に求められる関係は、愛と有効な #AliceDay #BelieveChildren #LoveisValid です。」
同社を買収した後、マスク氏は、ツイッターがプラットフォーム上での児童の性的搾取を防ぐために十分な対策を講じていないと主張し、それと戦うことを彼の最優先事項の1つにしました.
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性の解放、LGBTQ礼賛、進歩的、綺麗、アカフェミ大歓喜「これぞクィア」
https://twitter.com/yousayblah/status/1654120604289892352?s=20
だからフェミに學問や思想の自由はない。大学や有識者には必要はないのです。デタラメな単語をひねり出して人をバカにするだけ。
これってヒューマンライツナウやColabo、ぱっぷす、BONDプロジェクト、Spring、安田菜津紀、全てに通じる。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
#BlackLivesMatter って結局何?スレッドです。
大坂なおみ嬢やワイドショーの報道で、「黒人差別撤廃」を訴える運動かな?くらいに推測していると思います。
今回、ろくでなしこさんの質問に答える形で、マスコミや支持者が教えない事実も含めて解説します。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
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BLMは2013年に黒人への警察の横暴に抗議する3人の黒人女性人権活動家により結成。
彼女達は「我々はよく訓練されたマルクス主義者」と公言、ベネズエラの独裁者マドゥロ氏や、国内極左テロリスト達との親交も。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065325855346689?s=20
2: BLMの意外な理念
BLM公式サイトより
「…シスジェンダーの特権を解消しトランスの地位向上。同志との学びと共感。核家族から脱却、共同体による家族形成、子育て。ヘテロ基準を捨てクィアを肯定…」
「同志」は共産風呼びかけ。核家族の否定もマルクス主義の特徴。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065327889657857?s=20
3: BLMのゴール
警察組織の廃止、資本主義からの脱却、黒人達への賠償など、彼らの要求は多岐に渡ります。個々に見ていきましょう。
↓「国が我々の要求をのまないなら、システムを‘燃やし尽くして‘置き換える、わかるな?」と憤るNY支部長
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065329999327232?s=20
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
3-b: 脱資本主義
共産主義の色が濃いBLMは、資本主義社会は白人至上主義的であるとして脱却を目指します。資本主義の象徴であるNikeやApple他大企業から莫大な寄付を得ていますが、それは「富の再分配」として奨励されます。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
77%以上の黒人の赤ちゃんは未婚女性のもとに生まれます。「父親不在」は黒人社会へ対する大きな批判の一つですが、共産主義的な体制を目指すことで打ち消せるでしょう。個人による私的財産の所有を阻むこともできます。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065336206942209?s=20
🇯🇵Blah
@yousayblah
「奴隷の子孫である黒人に賠償せよ」論。試算によれば総額は12兆ドルにもなります。その一環としてBLMは黒人への土地、住宅、教育、医療、中絶費用などの無償提供、黒人犯罪者の保釈金免除を要求。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065339713388544?s=20
3-e: トランプ辞めろ
カラーズ女史がCNNに答えています。「我々のゴールはトランプを追い出すことです」…つまりこのBLMによる大規模な抗議活動は、アメリカ大統領選を見据えた政治運動だということです。
BLMが民主党への投票を示唆する #WhatMatters2020 もその例です。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
3-f: その他の要求
無数にある“BLM demands”の例として、ワシントンDCでは、刑務所増設反対、売春の合法化、学校内での警察配備禁止、逮捕された暴徒達の無罪釈放、stop&frisk (警官が不審者を尋問し武器所持の有無を触って確認)の撤廃などが叫ばれました。
#これ本当にやっています
#この場合の売春合法化は犯罪組織が儲けるので日本の売春合法化と違います。学校内の警察配備禁止がブラック校則です。
4: 影の支援者達
GAFA含むあらゆる企業が大口ドナー、セレブやエリート富裕層も一般人もこぞって多額の寄付をしていますが、注目すべきはジョージ・ソロスと中国共産党のバックアップでしょう。
https://twitter.com/mei98862477/status/1294433890354860032?s=20
https://twitter.com/meguchan203/st
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@yousayblah
莫大な寄付金、不明瞭な用途は保守派のみならず左派からも批判の対象です。BLMのスポンサーはサウザン・カレンツというNGOで役員にはスーザン・ローゼンバーグという極左テロリストが名を連ねます。仔細な会計報告が出されることはありません
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
「BLMは平和的なプロテスト!一部の無関係な暴徒に乗っ取られただけ」などという言い訳が擁護派から聞こえます。これは真っ赤な嘘です。彼らは「黒人は過去に略奪されたのだから、今後はこちらが仕返しするべき」と考え、略奪を正当化しています。
ジョージ・フロイドの死後、大勢の若者がBLMに共感しプロテストに加わりました。当初は平和な行進をする者が大半でしたが、香港プロテスターやANTIFAに触発され、コロナ自粛の鬱憤も手伝い、彼らはすぐに危険な暴徒へと変貌を遂げました。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
暴動に巻き込まれ、子ども達を含む多くの黒人が命を落としました。家屋が焼け店を失い路頭に迷う人達が続出しました。多くの人たちが昼夜問わず街を練り歩き、難癖を付けてくる集団を恐れるようになり、思想を語り合うことは自殺行為になりました。
保険会社の試算によれば、アメリカ全土における暴動の損害額は200億円にものぼるようです。個人の商店や家屋が受けた損失、心理的被害は修復できません。
10: 終わりに
トランプ大統領が繰り返し「これは極左との戦いだ」と言っていますが、その通りです。BLMの目的は「差別撤廃」ではありません。彼らの革命思想、近代アメリカの左傾化、進歩派リベラルの台頭、若年層の社会主義盲信、歴史、黒人問題…これらの予備知識無くしてBLM議論は出来ないです
クィア当事者のひととしゃべるとたまに百合やBLへかなり強烈な拒否感を示されることがあって、いや本当にそういうジャンルやジャンルファンに傷つけられるような体験してたりするのわかるんだけど、ごめん別のところで生きていこうね…てフェードアウトせざるを得ない
https://twitter.com/ebisakura_q/status/1651944261351518209
「差別ジャンルなので全部はやく無くなって欲しい」みたいなツイートみかけるとちょっと申し訳ないけどミュートしてる…ごめんね…
えwこういうの許されるんだw
自分が好きだというだけで政治的に正しくない差別的ジャンルを生かそうとする事ってポリコレ的にアウトだったんじゃないのかw?