はてなキーワード: 完膚なきまでにとは
先日、彼女と話していて、なにかの折に結婚を申し込んだ。電話で大事なことを軽く言うのもどうかと思うけれど、つい口を突いたのだった。
彼女は困ったようにう~んと唸り、ぽつぽつと話し始めた。別の男性から結婚を申し込まれたこと。そいつが僕の友達だということ。色々な将来のことを考えると、あなたと居るのは不安を感じてしまうということ。でもあなたのことは間違いなく好きだということ。
素直に、そっかあと思った。実のところ、結婚を申し込んでおきながら、僕はその生活を真面目に想像したことがなかった。彼女と一年ほど暮らしたけれど、生活が整頓されているとは言えなかった。僕は大学を留年していて、彼女は社会人だった。僕は好き放題飲み歩き(飲み放題歩き好きだった)、彼女は厳しい職場で帰りが遅かった。
彼女と暮らしていなかったら、今も大学生をやっていることは間違いない。僕はそのことを一生かかっても返せないような恩に感じている。今もそうだし、この先もそうだろうと思う。彼女はずっと最愛の恩人だ。
一方で、彼女は僕の素行を少なからず心配していた。心配というよりも、その点に関しては若干引かれていたし、諦められてもいたと思う。心のどこかで、この人と平穏無事な家庭を築くのは無理だろうと思っていたはずだ。彼女にとっての区切りは、僕が大学を卒業したことだったと聞いた。僕が東京に引っ越すことになり、最後の朝に彼女は新幹線のホームで泣いた。僕はそれを寂しさだと思ったけれど、彼女にとっては最後の区切りの涙だった。
彼女に結婚を申し込んだ男のことも、輪をかけて複雑だった。彼のことを僕はとても尊敬している。誰にでも頼られる、世話好きのお人好しで、怒ると怖いのだ。そう、怒ると怖いというのが一番尊敬しているところだ。人は誰かに嫌悪感を持ったり、苛ついたりする。大抵の場合、そこには大義名分はない。なんとなく嫌いだし、なんとなくムカつくし、そういう気持ちは大勢には支持されないから、仲間内で悪口を言ったり、茶化したりして溜飲を下げる。その点、彼は怒るとき、本当に怒る。なぜ怒っているかを明確にして、それを正さない人に正直にぶつけて、なお直らないようなら完膚なきまでに言いくるめる。そういう怒り方をできる人なのだ。僕は彼が人として大好きだ。たまに彼に怒られたいと思うくらい、好きなのだ。
彼女の心配することの一つは、彼から結婚を申し込まれたことを僕が知ったら、彼と僕の仲が悪くなるかもしれない、といったことだった。話を聞いた瞬間は、僕は友人と恋人を同時に失うのだと思って、黒い稲妻が自分の一生涯を照らしたように感じた。それと同時に、すべてが冗談なような気もした。人のいい彼が、そんなことを言うだろうか。どうしても気になって、夜中も3分の2が過ぎた頃に彼に電話を掛けてしまった。もちろん、出なかった。
彼からのコールバックは、翌朝だった。真面目な話が僕は苦手だ。真面目に話すことが苦手なのだ。真剣な話をするのに、どうして眉をしかめなくちゃいけないのか分からない。真剣な態度じゃなきゃ伝わらないことなんて、この世になくていい。あるいは、伝わらないならそれでいい。だから、おちゃらけて話すことにした。
しばらく話していると、彼の彼女に対する想いは、真剣なのだと伝わってきた。十分おちゃらけに付き合ってもらった。彼は僕に嫉妬することさえあったらしい。そうだろうな、としか思わなかった。僕に言えることなんか、せいぜい彼氏の座にあぐらをかいてすまなかった、ということぐらいだ。彼女についての僕の想いがどれだけ強いものなのか、そんなことを誰かに証明する必要があるなんて思っていなかったから、面食らってしまった。ただ彼の話を聞いて、聞いただけだった。
僕は彼のように怒れない。人の彼女に勝手にそんなことを打ち明けといて、こちらには黙っているとは筋が通らないじゃないか、とか。僕と彼女を応援する気持ちがありながら、それでも彼女が好きなんて理屈が通じるのか、とか。幾らでも怒ることはできたと思うけど、怒ってどうなるのだろう。誰が得するのか考えたけれど、僕も彼女も彼も、誰も幸せにならなかった。それでもそのとき、僕は少なからず怒りたかった。誰かれ構わず、殴りたかった。
それから、彼女とまた電話して、別れることになった。彼女は、これまで僕と遊びに行った場所をひとつひとつ挙げて、鮮やかに話した。あれは楽しかった、あれは辛かった。色々な話をしたけれど、僕が思い出として記憶しているのは、半分くらいのようだった。思い出せなくて、悲しくなった。その時々で、たしかに楽しい瞬間があったはずなのに、彼女のように語れない。こんなに好きなのに、何一つ言葉が浮かんでこないし、怒ることもできない。自分は情のない人間なのだろうか、と思って寂しくなった。
彼女は、今後も僕を好きでいてくれる。形を変えた「好き」だけど、僕はそれがとても嬉しい。距離感にはそのうち慣れるだろう。忘れるのは得意なのだから。彼も、たぶん友達でいてくれるんじゃないかなと思ってはいるが、僕はどうしたらいいのか分からなくなる。彼女たちとの付き合い方を探って、寂しさを掘り当てたら、それが最後なのかなと感じている。
魂とかありません
だから、好きなように生きましょうよ
少なくともそう考えるのが最も合理的です
この世界は自分が死ぬまでに、自分が得る得点を最大化するゲームです
生まれる前や死後の世界を勘定に入れて戦略を組み立てるのははっきり言って下手なやり方です
自分以外の人間や生物にちゃんとあなたと同じような意識が宿っているかどうかすら知りようがないのです
このゲームにおいて他人というプレイヤーは味方でも敵でもありません
それぞれが得点を最大化する過程で、自分の戦略とマッチすれば協力しあえるし、逆なら排除しあう関係になるだけです
他人を喜ばせて嬉しい、傷つけて悲しいというのは結局あなた自身の得点を増減させます
そう考えたほうがきっと楽ですよ
こういうことを話すと、きっと、じゃあ自分の利益のためにいくらでも悪いことしていいんだな、とか
気に食わなければいくらでも殺していいんだな、とか意見をいただくでしょう
そのとおりです、してもいいんです
人間が100メートル飛び上がるのはおそらく「できないこと」でしょうが
物理的に、です
刑法では殺人は罪になりますが「殺してはいけない」ではなく、「殺したら罰を与えます」としか書かれていません
それは当然のことで、いくら刑法にダメと書いても、本人が決心するだけで実行できてしまうのですから
(というか、この現代、宗教上の理由『だけ』で『全ての』人の行動を縛るなんて無理がある手法です)
たとえば私に限って言えば、それでも殺人を犯さないのは、それはこのゲームにおいて得点が下がる行動だからです
精神的、金銭的、あるいは刑罰的な理由で、様々な方向から得点がガリガリ下がります
得が全くありません
他の人にとって困る行動をすると、自分自身の得点が下がるように、法律できっちりとルール付けしてあるからです
それでもやはり殺人の方が、余りあるマイナスを乗り越えてでも得点が上だとなった時、私はきっと殺すでしょう
そうやって世の犯罪は起こるはずです
これが私の宗教です
一昨日注文した「アイドルタイムプリパラ 夢オールスターライブ!」が届いた。
「アイドルタイムプリパラ」の3DSゲームで、「めざめよ!女神のドレスデザイン」の続編にあたる最新作だ。
スーパーに買い出しに出ている間に宅急便が不在票を置いて行ったりしたおかげで、私は一日千秋の想いで到着を待っていたのだが、その熱は見事に昇華された。
プレイし始めて一時間も経っていないのに、私は完全に語彙力消失腐女子のように「まって」としか言えなくなったのである。
「プリパラ」はもう四年目に突入する女児(とかなりの大人)に人気のテレビアニメ・アーケードゲームである。
簡単にまとめてしまうなら、女の子が誰でもアイドルになれるパラダイス「プリパラ」を舞台にした愛と友情の物語である。
「プリパラ」の主人公・真中らぁらはプリパラのなかで(紆余曲折を経て)愛と友情をはぐくみ、いよいよ最後にはアイドルの最高位である「神アイドル」にまで成長する。
そして「アイドルタイムプリパラ」では、メイン主人公の座を夢川ゆいに譲る。そしてゆいはらぁらや友達とともに、夢へと突進していく。
あらすじはこんなところだろう。本作は、その「アイドルタイムプリパラ」の冒頭からスタートする。
さて、なにが私にこんな文章を書かせるまでに至らせたのかという話をしたいと思う。
「プリパラ」には、紫京院ひびきという女がいる。
本作ではその紫京院ひびきが、ひびき様が、子供っぽくぐぬぬポーズをしたり、「また友達になってくれるか?」というような発言をするのである。
もう、「まって」としか言えなかった。
彼女はもともとはアイドルではなくムービースターで、とある野望のためにアイドルに転身、あらゆる人を意のままに動かしていく万能の天才という立ち位置である。
彼女が登場するのは「プリパラ」二年目であり、そしてそのラスボスである。
現在では一年目のラスボス・ファルル、そして自分が見出した「最高のプリンセス」とともに「トリコロール」という公式で作中実力最強と呼ばれるチームを組んでいる。
その性格は、さきほどの言及を見ればわかると思うのだが、非常に傲慢で、けれど圧倒的なカリスマを持っている。
彼女の出自だとか野望だとか、それを書いてしまうとシリーズで一番重いとファンの間で口々に言われる二年目がまるでわかってしまうのでここは省略させてもらうが、
ともかく彼女は友情などというものは信じず、自分の力のみを信じていたキャラクターだということを分かってもらえれば構わない。
キャラクターコンテンツにどっぷりのめりこんだ諸兄なら、このすさまじさはわかっていただけると思う。
女児向けゲームの手抜き移植と侮ることなかれ。本作は完全にファンに向けられたご褒美であり、完膚なきまでに私の脳天はぶち抜かれた。
(ちなみにだが、ひびき様は人気がかなり高く、ファンの間でも解釈違い等争いの種になるのだが、私はこういうのは大丈夫である。だってプリパラだから。プリパラレルワールドだから。)
なんと「男プリ」モードがある。
簡単に言ってしまえばプリパラの男子版なのだが、その人気アイドル「WITH」の三人が歌って踊る。
正直、爆笑が止まらなった。考えてもみてほしいのだが、めちゃかっけー曲(ポウポウポウという音が鳴りまくる)をキメキメで踊る男の子三人組。
ステージセットもメイキングドラマ(ライブで再生されるキャラクターたちの心象風景)も女の子たちのものとそん色ないほど作りこまれている。
そもそも本作、女の子だとソロライブしかできないのに、「男プリ」モードは三人ライブなのである。
この力の入れよう、まさに「プリパラ」そのものであるフリーダムさなのである。
そもそも、プリパラにハマったのは鬱になりそれがかなり重かった時期なのであるが、前作「女神のドレスデザイン(略称:メガドレイン)」には心底助けられた。
自分の分身であるキャラクターが、自分のデザインしたコーデを着て歌って踊る。ランウェイを歩く。
一時期の「わがままファッション ガールズモード」の流行りを経験した方ならわかるかもしれないが、その多幸感といったらない。
寝る前にちょっとプレイするだけで、その日はもう幸せに包まれて安眠なのである。私はそうだった。
本作はれっきとしたキャラゲーであり、その完成度はとても高い。
これを書き終えたあと、ベッドに寝っ転がってプレイするのが楽しみで仕方がない。
購入を検討されているとか、プリパラを知っているという方が、本作について詳しく知るきっかけになったとしたら、非常にうれしいことだ。
神風特別攻撃隊は、最初の敷島隊が運よく護衛空母を沈めたものの、その後は途中で撃墜されてさしたる戦果も上げられなかったというじゃないか。桜花とか回天とかは最初からだめだったんだっけ。
こんなのに事実上無理矢理志願させられて、しかも戦争にはほとんど影響も与えられずに惨敗ってんじゃ、これは完璧に、紛うことなき無駄死にだ。これほど完全に無意味な無駄死にだからこそ、後世の我々は、そんな無駄死にをさせた連中を、遠慮なく非難できるわけだ。無駄死にさせられた若者達を悼みつつ。
もし、1機2機の戦闘機の犠牲で空母や戦艦が沈められたのだとしたら、それは戦術的には大成功だろう。特攻が思いのほかうまくいって、米軍もうまいこと対策を取れず、客観的に十分以上の戦果を上げていたとしたら、後世の我々はそれを「統率の外道」とか言って非難できただろうか。
戦闘となればどうやったって一定確率で死者は出るのであって、たとえば10人の部隊で敵基地に突撃したら高確率で5人は死ぬがひとりに爆弾持たせて特攻させたらひとりの犠牲で済む、という場合、ひとりに特攻させるのは本当に悪か。トロッコ問題のような話で、簡単には結論が出せない話ではないか。
もっと言えば、事は「100%死ぬ」状況に限らない。日本では自衛隊に国を守ってもらっているが、自衛官の人たちは、いざ有事となれば、一般人よりは死ぬ確率が高いのは間違いないだろう。そういう役割を、志願した一部の人に担わせているというのは、死ぬ確率が100%でないというだけで、「少数の人に特攻させる」のと構造的には変わらないのではないか。
特攻が無駄死にだったからこそ、今の我々は、そういうことを考えず、気楽に特攻させた側を非難できるわけだ。
さらに言えばだ、現実の歴史では、特攻は効果を上げられずみんな無駄死にして日本は完膚なきまでに敗けたわけだけが、うっかり特攻がうまくいってしまって、敗戦も、GHQによる民主化も行われず、大日本帝国が継続していたらどうなっていたか。そりゃ時代が変わったのだからあの戦争の頃よりは多少の民主化はされただろうが、徴兵制ぐらいは残ってたかもしれない。特攻の成功体験を持った大日本帝国なんて、どんな国になっていたことか。考えるだに恐ろしい。
東京は秋葉原に住んでいるが、わざわざ名古屋まで行って某アイドルアニメのライブに参加してきた。
ちょっと長くなるけど、この気持ちをどこかに書き留めておきたくて、帰りの東海道線の中でちまちま打っていこうと思う。
今回行ってきたライブの作品は、いわば「続編」で、“伝説”になった初代グループに憧れ、そんな風に輝きたいとステージに上がる女の子達を描いた作品である。
当時大学生だった自分はモロに影響され、アニメを何回も観ては泣き、ライブにはほぼ全て全日参加し、彼女達の生き方に憧れ、その作品を作った人達全員を心の底から尊敬し、がむしゃらに今を輝かせようと大学生活を走り抜けた。
完結編にあたる映画版を観た少し後、まだハイになった頭のまま就活の面接を受けた。
作品に出てくるセリフをほぼそのまま取締役に恥ずかしげもなく言って、落ちこぼれには分不相応な一部上場企業へのチケットを受け取った。
その作品がきっかけで、アニメや漫画の同好の志が集まる場に参加するようになった。
そこで気の合う女の子と知り合って付き合い始め、卒業直前にはその作品で重要な場所となっていた神社で結婚式まで挙げた。そして舞台である秋葉原に新居を構えるまでに至った。
まさにその作品は自分の大学生活にとんでもない影響を与える“青春”だったな、と今でも思う。
そんな大学生活の最終日となる2016年3月31日、彼女達最後のライブとなる東京ドーム公演の初日に参加し、彼女達のストーリーがピリオドを迎え“青春”が終わったのひしひしを感じた。
僕の影響でどっぷりハマった嫁に連れられて、彼女達の“伝説”を受け継いだグループのライブに参加してきた訳である。
歌、ダンス、マイクパフォーマンス、ストーリー、オーラ。そのどれを取っても初代に引けを取らない、すごいライブだった。
参加者は熱狂し、終了後のTwitterも絶賛される声が溢れていた。
本当にすごかった。
楽しかった。
自分もそう思う。
でも心の中のどこかに、初代のライブに参加していた時には感じる事の無かった淀みのようなものをライブ中からハッキリと感じた。
その正体が気になってしまい、演者に向かってペンライトを振りながら自分自身を見つめる時間になっていた。
会場のボルテージが上がり一体化する日本ガイシホールの中で、疎外感と孤独を感じてしまった。
劣等感、なんだと思う。
初代の声優達の中での最年少と同い歳の自分は、二代目の声優の誰よりも年上である。
追いつけ追い越せと努力してきた年下の女の子達に、あんな凄いものをまじまじと見せつけられた。
初代の最後のライブから一年半の間「君の心は輝いていたかい?」と強く問いかけられた気がした。
この一年半、一体何をやってきたのだろう?
そう感じた。
帰りの電車でそれに気づいて、吐き気が止まらなくなった。正直どうしたらいいのかわからなくなった。
彼女たちは他のアイドル達に完膚なきまでに負けて一度は挫折しかけるが、その経験を“ゼロ”として、新たな一歩目を踏み出していく。
初代への憧れだけじゃなく、自分達らしさを求めて。
まさかそれを自分自身に体験させてくれるとは全く予想だにしていなかったわけで。
なーんだ、そういうことだったのか、と素直に納得した。
東京に戻ったら、僕もがむしゃらに新たな一歩を踏みだそうと思う。
舞台も人も変わっても、ラブライブ!という作品は青春と言う名の暴力で僕をボコボコにしながら、いつだって大切なものに気付かせてくれる。
参院厚生労働委員会です。塩崎恭久大臣も橋本岳副大臣もちゃんと論理的にしゃべれる人なので、逆説的に法案の瑕疵が際立ち続ける精神保健福祉法の改正案。昨日、今日も金田さんは、「一般人は告発の対象にはならない」、「デジタルデータは監視対象にならない」と迷走されておりましたがね。
さて相模原の事件を受けて、その再発防止としてなぜかでてきた、措置入院後の管理強化をする法案、ただ医療福祉の法律で、治安、犯罪抑止を立法事実としたたてつけは無理だとさすがに判断したのであろうと思われますが、大臣や役人が述べているとおり、立法事実が変わっても法案は変わっていないので、グダグダになっている法案。
以前の記事
http://anond.hatelabo.jp/20170414142605
この法案については、読売新聞の記事がよくまとまっていると思います。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170428-OYTET50006/
産経のクソみたいな記事と比べると、読売がまだまともな部分があることを気づかせてくれます。リンクは貼らないけど。
「野党が「共謀罪と一緒」と難クセで法改正の足引っ張り…抜け落ちた「再発防止」の観点」
再発防止なら、まぁ普通の頭をしていれば、障害者差別問題、障害者の権利の啓発、優生学的思想の否定、障害者を隔離しないインクルージョンの推進、というような方向に行くと思うんですが、産経にかかると、精神疾患の罹患者の予防的隔離、監視強化をしないことは野党の難クセだとおっしゃるのがすごいと思うよね。加害者の属性は日本人とか男性とか若者とか大麻利用者とか他にもいろいろあるわけだから、男性が刃物を買うことを規制、衆議院議長に陳情書を出した日本人は監視強化するとか、大麻の前科者の住所情報共有は本人意思関係なくするとかでもいいんじゃない?私個人はこのどれが「再発防止策」としてでてきても反対するけどね。
石橋議員はこの問題では、倉林明子議員、福島みずほ議員と3人で、もう完膚なきまでにディベートとしては勝ってると思います。大臣!の呼びかけ方は割りと不快ですが。国会はディベート大会ではないので、どうなるか見守っているのですが、これを通すようだとちょっともうかなり国会の機能はなくなってるんだろうなぁと思ってメルクマールとして注目しておる次第です。この法案は、まぁ安倍さんにとっては枝葉の問題で、自分が治安維持や犯罪抑止においてなんか実績を上げたんだっていう看板として、「改正した」っていう事実が欲しいだけで、そんなに是が非でも通したい法案というわけではないと思うんですよね。その法案でここまで強権的で、資料の公開はしないで、瑕疵を徹底的に指摘されても撤回しないとするとこれは相当ヤバイだろうと、こう考えておるわけです。
相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チームは、安倍総理の意向を受けて塩崎大臣が設置した審議会で、昨年12月に再発防止の提言を出しています(ぐぐってね)。この提言の、方向性や問題点の列挙まではまぁ理解できるのですが、もってくる対策が頭おかしいとしか、というものなのでね。最低限、支援計画段階での本人参加の法文上の必須化、どうしても警察を入れたいのならば、本人またはその権利の代理人(弁護士等)の同意、また本人が情報の共有措置を停止して欲しいと要求できるラインの確保、などが盛り込まれないとこりゃあどう考えてもダメだろとは思うんですがね。
んで、この再発防止チームの検討会の第7回で、障害の当事者から、警察に入られるとかえって病状が悪化する、など見直しを要求する意見陳述があったのにも関わらず、議事録非公開の第8回検討会を受けてでてきた提言の中で、ケース会議等に本人の同意がなくても病院や自治体の要求で警察が入って、病状、転居情報などの自治体間共有などを行う、というものがでてきたわけです。これはもともと、犯罪抑止を立法事実としてたてつけたときに作られた条文だったのです。それが取っ払われても、政府側としては法案の趣旨は社会復帰の推進で一貫しているから、まったく問題ないという態度なわけです。しかし、犯罪抑止という立法趣旨が消された現状では、警察が入ることが、病状の回復や社会復帰においてどのような好影響をあたえるというエビデンスがなければ、これをいれる意義が見出せないだろう、というのが前回までの石橋議員の指摘で、第8回議事録の個人情報部分があるのならば、そこは黒塗りでも良いから、その立法事実、エビデンスが書かれているというのなら見せてみろ、という状況。
「意訳)資料要求をさせていただいたが、結局エビデンスは提示されなかった。そのことについて聞いていきたい。第7回で参考人から指摘された、警察が情報共有するという兵庫方式にはマイナス面もあるということに対して、その後の第8回でいかなる議論がされたのか。この警察との情報共有が、いったいなぜ患者の社会復帰に繋がるのか、エビデンスがあるのなら示して欲しいと要求してきたが、明確な答弁はいただけなかった。個人情報は黒塗りでもかまわないから、第8回の議事録を提示して欲しいと理事会でも重ねて要求してきたが、今日も出せないとの答えがあった。なぜ出せないのか、ちゃんとエビデンスに基づいた協議をしたというのならば、個人情報に配慮した状態で良いから、立法事実、エビデンスを示してくれと要求したのにゼロ回答ではないか。これでは議論できない。」
「(略)資料を要求していただいている件についてですが、そもそもこの再発防止検証チームの審議会は、そもそも第1回の会議のときに非公開が前提で行われているものであります。個人情報がたくさん入った資料も配られるので、そういったものを含めて公開をしないという前提で、屈託のない議論をいただいたところでございます。ですので、原則非公開としたものを、個別の内容についてお示しすることはできないわけでございます。これは、当然第7回で参考人に指摘されたことを踏まえて、第8回でも議論を頂いたところでございます。公開されている第7回の議事録を踏まえて、第8回の議事は行われているということでご理解を賜りたい。」
「まったく納得できません。第8回でもう取りまとめの議論が出てきてるんでしょう。それが第9回で確認されているんだから。なんで、第7回の議論を受けて、第8回でいきなりとりまとめの案が出てくるんですか、むしろまったく検討されていないということを立証しているんじゃないですか。大臣、認められたほうが良いんじゃないですか。結局立法事実は示せないんでしょ。エビデンスがないなら、どうやったって法案の審議なんかできませんよ。最初から立法事実をはき違え、さらには立法事実がないのにも関わらず、法案を作ってしまった。だから法案の中身がいろいろ問題を持ってしまっているんですよ。今日は具体的に聞いていきます」
続きはトラバでに
やっと引退してくれてパチ屋のドサ回りにでも行ってくれるのかと思ったら
ファイトクラブはまだリングに立つためにプロテストが必要だったから許容できたけど
素人に1000万やるからってコミッション通さずリング上げるとかキチガイかよ
クソ腹立つのがプロで1000万稼ぐボクサーなんてろくにいねーんだ
世界チャンプでも1試合300万程度でやってるのもいるだろう状況で素人に1000万だと
ガキの時分からゴミ親父とのセットで知名度ドーピングしてたハイプ野郎は違うぜ
で、これがすげー視聴者数だったんだろ
ヤンキー気取りでいちびってヘイト稼いでなんかタイトル取ったら
JBCはあいつらを完膚なきまでにバンするべきだったんだ、クソ
ていうか、マジでメイウェザーがマクレガーとやったらどうしよう
たぶん同根だし、動くカネも桁が違うわ
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2016/03/21/kiji/K20160321012254930.html
実家で作られるおせち料理は、年々少なくなっている。少なくなるのが分かるたびに、この家で成長してきた年月と、経過した時間の長きこと、そしてそれらに反比例するかのように、この家族構成でいられる残り時間の少ないことを思い知ることとなり、いささか悲しいのも事実ではある。やんぬる哉。
もう戻らない時間や記憶に思いを馳せるよりも、これからやってくる時間に対して思案を巡らせばいい、という人もいるにはいるが…僕にとってこれは、簡単なことではない。なぜなら、私は、確実に、未来永劫これだけは信じることが出来るという存在を持っていないからだ。こんな人は、多くはないけども、少なくもないと思う。
3.11以降、僕は、直感以外の信仰を失った。人様は皆僕に良くしてくれるという、他人に対する信仰。これからやってくる明るい未来に対する信仰。原子力発電所は安全安価なエネルギーだという信仰。日本は発展していくという信仰、そして、自分自身の可能性への信仰。
世間知らずの高校生が、勉強もせずに怠けているばかりで生きていけるほど、進学校は甘くはない。それまで抱いていた自分に対する多能感は完膚なきまでに打ち砕かれ、悩み苦しむそのさなかに、かの巨大地震が起こった。
日本テレビの中継で、水素爆発を起こしたフクイチの建屋が映る。親父は呟く。「これは、やべえな」と。日本はここで一度、死ぬのかもしれない。ただし当時のトレンドは、「日本死ね」ではなく「枝野寝ろ」だったり、「ポポポポーン」だったりした。
室町時代の僧侶・一休宗純は、元旦にはドクロを先端に付けた錫杖を手に、「御用心、御用心」と言いながら京の町を歩いたという。祝賀ムードに水を差すような行いではあるが、生と死、破壊と再生は表裏一体と考えると、わずかに彼の行いの意味も理解できるレベルに落ちて来よう(枝野のくだりなどはこれの逆バージョンだったのだろうか)。
大学へ進学しても無気力は変わらなかった。テストやレポートを何とか切り抜け、仕送りのみで生きる生活。友人は少ない。
ひとつだけ、かねてからの夢があった。それはとにかく、海外へ行くこと。最終学年のこの年、一念発起して英語圏へ英語留学へ赴いた。今思い出せば、見るものすべてが面白かった。
留学へ行ったものの、日本人とも多く話していた。しかしながら、現地の日本人で、「日本は今後も変わらず発展していく」といった楽観的意見を表明した者は、誰一人としていなかった。来たるべく破壊を念頭に置いて、生存もしくは自己表現の為に英語を学ぶ者も少なくなかった。友人の何人かは現地のグローバル企業でインターンに参加していた。
不確実な今の世の中で信じられることは、「生き物は、いずれ死ぬ」といったことだ。このことでさえ、神隠しや行方不明、あるいは死後神になるといった思想や、高尚で極めて分かりにくい哲学的議論により、疑問符が付きうるのだ。世間がどれほど不確実なものか。
冒頭で、「これだけは確実だと信じられるものが何もない」と書いたが、「生きているうちに日本が死ぬ」ということは、怪しいがあながち信じられないものでもないと思う。3.11のような巨大災害などを契機とした日本社会全体の急速な崩壊が起こる確率は、社会階層が流動せず格差だけが拡大し、労働時間の増加が止まらず、社会保障費の増大によって巨大な負債が残ることで静かに日本社会が死んでいく確率よりも低いとは思うのだが、いずれにせよ、「これは、やべえな」という不安を感じざるを得ないような、今年はそんな一年だった。もちろん、フクイチのように顕在した不安を感じる現象はなく、漠然とはしているのだが。
おせち料理だって、今後もっと少なくなり、絶えてしまうか、別の料理に変わってしまうかもしれない。変わらないことは、最も安全だが、生きても死んでもいないともいえる。絶望的なまでに怠け者の自己に対して変化を望んでいる。いわんや、世の中の変化をや。
御用心、御用心。
終わった。
終わってしまった。
この上なく終わってしまった。
毎週日曜日のお楽しみ。最初から最後までかじりついて見たのは『毛利元就』以来20年ぶり。いやー本当に面白かった。
だけど『真田丸』を見返そうとは思わない。ビデオ録ってないけど、録ってたとしても見返さないと思う。総集編も見ない。
大坂の陣ってのは、戦国の終わりを告げる戦いだ。槍働き如何でいかようにも立身出世できた日本史上における最後の時を終わらせる、不可逆的な戦いだ。
関ヶ原で没落した連中が、夢よ今一度とばかりに大坂城へと篭って幕府に抗うけど、時代はとうに転換していて、大坂方が勝つことは、泰平の世へと進んだ時代が許してくれない。戦国の亡霊たる大坂方が勝つということはまた戦国乱世の世に戻るということであって、それは許されることじゃない。連中は時代によって完膚なきまでに滅ぼされるべきなのだ。
勝頼も、室賀も、氏政も、秀吉も、三成も、昌幸も、そして信繁も、時代の波に乗り切れなかった落伍者は、時代によって淘汰される。それは万物の理とでもいうべき不変の法則で、何人も逃れることはできない。
しかしながら敗れてなお名を残すことはできる。
死に様はどのように生きたかが決める。死したときその者の評価は定まる。
真田信繁は人生のほとんどを歴史に埋没させながら生き、最後の最後でひょっこり顔を出して歴史にその名を刻んだ。
それは信繁が成したことというより、戦国という時代の亡霊が、かくありたいと希い、信繁を依代として成したことと言えはしないだろうか。
その馬印を倒し、日ノ本一の兵と讃えられるほどの奮戦の末に死ぬこと。
そのような死に様は日本史上において信繁を除いて絶無であり、みなが憧れるような最期だったからこそこぞってその戦いぶりと名を残そうとしたんじゃなかろうか。
そう感じてやまないのは、『真田丸』という物語が、時代に敗れていった者たちの生き方、そして死に様をいくつも積み重ねていったからだと思う。
『真田丸』の信繁は決して完全無欠の勇将なんかじゃない。政治的センスに欠け、他者と真正面からぶつかることを避けて策を弄するような、敗れるべくして敗れるような凡庸さがあった。
だから信繁が日ノ本一になれたのは彼の力というより、めぐり合わせ、言ってみればただの運だと思う。しかしそれは何千年という時の流れの中でようやく一回あるかないかというような奇跡。
でも、だからこそ消費し尽くさないで、たとえば夜空に一瞬またたいた流星をぐうぜん目にしたときのような鮮烈さを噛みしめるに留めるべきだと思う。
またいずれ真田信繁の物語が別に語られるとしても、『真田丸』は大坂の陣のような不可逆さとともに鮮烈な印象のまま留めるべきだと思う。
2016年という年号とともに『真田丸』は終わる。終わったままにしておく。
別れの時が来た。
「うるさい、余は初陣であったのだぞ」
「はいは一回にせぬか。だいたい左翼に比べて右翼がふがいないのが――」
「まあまあ、そのあたりで……」
地味な増田家(五)の当主が最高司令官と軍師の言い争いを止めた。
彼がいたことに驚いて、二人は口をつぐむ。増田家(五)の当主は汁をおかわりした。
増田連合軍は敵味方あわせて三十五万の大合戦に敗れたが、そこからしぶとく反撃を開始した。
気がつけば、北の増峠は増田騎馬軍団に封鎖され、西は増田軍の本隊が、南は後衛部隊が何とか押さえている。
敵にゆいいつ残された東は増田島の脊梁山脈とその麓にうずまく樹海であった。
増田騎馬軍団は愛馬を屠って生肉を食べる状態になっても戦い抜き、北方異民族の連絡や離脱を阻止した。
南の後衛部隊も同様であり、彼らは補給線に繋がっているだけ抵抗が容易かった。
いわば増田連合軍は「常山の蛇」となり、増田騎馬軍団が叩かれれば本隊と後衛部隊が、
後衛部隊が叩かれれば本隊が、本隊が叩かれれば後衛部隊が味方を援護した。
そして、異民族軍が入り込んだ樹海の中には緒戦で追い散らされた武熊たちが巣くっていた。
蛮族は獰猛な熊たちに急襲され、眠れない夜をいくつも過ごした。
「やっぱり武熊は頼りになるのう」と手のひらを返す増田もいたが、
増田の誇る忍者たちもこの「狩り」に投入された。増田家(四)の軒猿たちもおり、オールスター状態である。
ある日、薄暗い森の中、武熊さんに出会った侵略者は恐ろしい恐ろしい勢いでしとめられていく。
「を書くを書く」
発泡する元ソースにはバミューダトライアングルにおける魔の海水のごとく浮力がない。溺れる蛮族は沈んでいった。
その隣では蛮族が熱湯落ちして煮られていた。
野営地を小さなかわいい影が走り回っていた。気がつくと、蛮族は寝首を掛かれ額に「うんこ」と札を付けられていた。
瞳を閉じた忍びが突撃してくる蛮族の前に立ち、至近距離で不気味な目をかっと見開いた。
目が合った敵の動きは硬直し、忍びが呪文を唱えると、一枚の何事か書かれた紙切れに化けてしまった。
ブチの忍犬は茂みに武熊たちを集めて語った。
「この円い鳥たちはな、みなワシが描いたのじゃ(手裏剣ください)」
興奮した武熊たちは習合すると合体して熱い鳥になり、羽ばたき一つで異民族を吹き飛ばした。
七連手裏剣と山彦手裏剣から逃げる蛮族の前に全裸の小僧があらわれた。
「けいお、しっこうする!!」
その忍者の姿は見るたびに次々と変わり、本性を確かめるすべがなかったが、忍者としては普通だった。
ある場所では夏なのに完全凍結した蛮族の死体が大量に発生した。
「うーむ、ふーむ」
「にゃにゃにゃにゃなーん(ご主人様の顔なんてもう忘れたのにゃーん)」
探検隊をも壊滅させる力をもった熊猫部隊は、その熊猫の一匹に数えられただけでも二百匹を超えた。
彼らは第六指で異民族をつかんでは投げつかんでは投げしていった。
その忍者は増田忍者には珍しく五方手裏剣ではなく、四方手裏剣を用いた。
いや、よく見るとそれは十字の切れ込みが入った乾物であった。
「たべものをしいたげるな!」
メガネをかけた好青年が木の陰から蛮族をみつめていた。みつめ続けていた。
「20162016!」
好青年がどこまでも追いかけてくるので、蛮族の世界はいつしかモノクロに染まった。
「~~」
「忍者検非違使です。本来、忍者の呼称が現れるのは近世になってからです。軒猿も同時代資料では言われていません」
森から延々と引き出される北方異民族の死体をみて、床几に腰掛けた当主のひとりがつぶやく。
匿兵衛が答えた。
「増田島におけるいくさとは本来このようなもの。それでも上様方はもっと御覧になりたいと仰せられるか?」
アルファマスダたちは揃って首を横に振った。
別の場所では女神?が現れていた。彼女は低音から高音までノイズのない深みのある声で言った。
「ぼいんは必要ないのです」
パァアアアアと光が異民族たちに突き刺さり、ヒンニュー教に改心した彼らは増田軍に降伏した。
「神だ!神が降臨された!!」とカラトラヴァ騎士団は大騒ぎした。
その時、増田左混はめずらしく言葉の通じる蛮族と対峙していた。
「俺は降伏しないぞ」
傲然と胸を張る敵を左混は一喝した。
「武装をつけようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」
合戦から六日目に、晴れ時々鯖が降った。傀儡使いのまじかる系軍師はそれを吉兆と占った。
事実、北方異民族は完膚なきまでに壊滅したのだった。増田領(一)の奪還がなされるのは、一月後のことである。
自意識過剰の金髪縦ロール忍者は化粧に二年五ヶ月、自画像の角度とかの調整に一年が掛かってしまったため、参戦が間に合わなかった。
みやこで同時代史料「遊戯日記」を書き続けている公家は、伝え聞いた密林での戦いを以上のごとく記した。
前回
http://anond.hatelabo.jp/20160621021245
次回
http://anond.hatelabo.jp/20160413013038
言及いただいたkato19です。大変遅くなりましたが地震の影響はありませんでしたでしょうか?
※意味不明な一般の方へ:一連の流れは下記のブログに記載されています。
じっくり読ませてもらいました。批判文っていうのは読むのにもなかなかエネルギーを消費してしまいますね。増田の文章は論点も多いのでなかなか大変です。自分の知らない分野についても検索しながらできるだけ理解できるように努めました。とはいえアニメ化以前をリアルタイムで追っていない以上は本当の意味での理解は難しいなと思いました。増田が本当に細かい所まで気にしている所に驚かされますが、これがまさに増田の拠り所であるんだなと感じましたね。
今回増田の疑問に逐一回答する事はあまりに労力が大きのでご容赦ください。総論的な内容になります。それに以前も書いたように、そもそも回答した所で増田が納得するとは到底思えないのです。増田も同じような事を書いていますが、結局それぞれが重要だと思う所を重要だと思えないのです。
それを踏まえた上で今回のやり取りの感想を書かせてもらいます。
私が、批判派に対して当初思っていたのは、あの作品を観て面白くなかったんだろうか?それとも面白かったんだけど細かい所が気になってしまってダメだったのか?もう全てがダメで良い所はほとんどないのか?という所でした。
増田の文章を通読してみて感じたのは、やっぱり原作・原案問題がなければこんなにこじれる事はなったんだろうなぁという事。増田ですら『カップヌードル』程度には面白いと思ったわけで。『見たい作品が見られなかった』という点については批判派の方からもツイッタなどで一定の賛意をいただけた所です。
さらについでに言うと、僕はこの映画を観たとき、涙もろいタイプなのもあってちょっと泣いたんだよね。その意味では、その程度には感動した。でも、あの劇場版が駄作だという評価、特に脚本が極めて稚拙だという評価はまったく変わらないし、それは普通に両立することだと思っている。— おりあそ (@oriaso) 2016年4月11日
批判派のおりあそ氏が劇場版で泣いたってのも自分にとっては結構衝撃的な事実で驚いたんだけど『μ'sが解散するんだから涙くらい出るよ』という事なんでしょうね。もちろん自分にも当然そういう所はあるのだけど、今回はそれだけではない感動があったんですよね。
自分は『ガルパン』劇場版でも大変感動して涙が止まらなかったんだけど、あれは決して大洗女子学園が存続してよかった!という事で感動したのではないのです。あの映像と演出自体に感動させられたのです。心底すごいと思いましたしその凄さに当てられて感動しました。話の筋で感動したのではなかったのです。
参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/11/girls-and-panzer-movie.html
劇場版ラブライブ!の感動はそれによく似ていると思いました。技術レベルと前衛的な演出、それと当然ストーリー上の感動が合わさって強い感動を得られたんだと思います。自分は少数派になる事が多いので自分の意見が絶賛派の主流ではないでしょうけど。
増田はおそらく劇場版ラブライブ!はガルパンより論理的妥当性がないからダメと言うでしょうが、自分にとっては十分に許容範囲であったという事です。しかしこの点については程度問題としか言いようがありません。
『もっとも、絶賛派の多くは作品において即時的で表面的である所の彼らがいうところのアニメならではの表現内容への思い入れを拠り所にしていて、前後や総合的なつながりや辻褄の考察を要する物語性やキャラクター性については考えたくないようなので難しいかもしれませんが…。』- 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用
『考えたくない』のではなく『気にならない』というべきですが、上記のように互いの主張は『糠に釘』状態なわけです。お互いを説得する事は出来ないよね。実際、増田はなぜ絶賛派が絶賛するのか?その理由を理解できていない。その結果『ラブライバーの自己愛』などという荒唐無稽な理由で論じている。自分は前回から増田はもっと前向きな方向にエネルギーを使うべきだと主張してるのだけど、それはこの問題については相手の考えを変える事は無理だからです。もしも増田が絶賛派に対して『本作が駄作だと改心』しなければ納得しない・・・とすれば残念な事です。
増田は初期作品の良さも述べているというが、アニメ版への恨みつらみが主となってしまっているのは間違いないですよね。増田が単に虚空に向かって文句を叫びたいだけなら仕方ないですが、初期作品の良さを知ってほしいのならその方法があるはず。増田で絶賛派を無能呼ばわりしていてもしょうがないわけです。
増田の意見を読んで公野櫻子さん関係を少し勉強しました(増田から見ればまだまだでしょうけど)その中で上記ブログの公野櫻子論で印象的だったのは、公野さんの特徴として読者参加型作品を得意とする事でした。ラブライブ!の初期作品も読者参加型であった事を考えると増田もその影響を強く受けているのかなと。やはり自分達で作り上げた作品という感覚が他の作品よりもずっと強く、それがアニメ版に対する『歪められた』という感覚につながっていると推察しました。そこが単なる原作改変問題とは違う根深さなのかな。
自分は『参加型』とは真逆の鑑賞者。京極・花田氏の作家性が強く出ていても何の問題もありません。ガルパンのように映像作品としての演出・技術に感動し『物語』は当然必要だけれどもそれは作品の一部を構成しているにすぎない。それがつまり『構成・演出・楽曲すべてが一体となって表現』の意味なのです。増田にとっては物語(や、それを含むキャラの設定)が重要なテーマであってそれ以外は物語をよく見せるための添え物であるべきなんだろうと思う。そしてラブライブ!においては公野さん以外の作家性が見える事は不快感につながっているんでしょう。
ちなみに私だって物語重視の作品は大好きですよ。『ここさけ』なんて感動しすぎて3本も感想書きましたし・・・。
参考 http://kato19.blogspot.jp/2015/10/kokosake.html
ラブライブ!については原案の先入観なくアニメに入っているだけの違いです。増田は先入観でまずハードルがあり、さらに細かな物語重視の点でさらにハードルがあった。その二つに加えて大事にしていた公野作品が汚されたという感情的な問題が不快感を増幅させているのだと思います。
本当の数はわかりませんが、初期作品からのファンの全てがアニメ版を否定しているわけではないですよね?おそらく増田が一番怒りを感じているのは、初期作品からのファンのくせにアニメ版・劇場版を礼賛している人間でないでしょうか。アニメ版以降の人間はただの無知蒙昧だから啓蒙する必要があるが、初期作品からの人間はなぜ礼賛するのか理解できない。だからラブライバーとしてのアイデンティティを維持するためだけに礼賛している害悪だ。完膚なきまでに叩く必要がある・・・と。
増田氏は絶賛派を宗教的などと揶揄するけれどそれはお互い様でないですか?というより、この議論そものもが神学論争である事を自覚していないのだろうか。私は自覚しています。この問題は宗教論争やイデオロギー論争と全く同じです。
(初期作品群を)肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。 - 絶賛派の負のエネルギーを和らげたい より引用 カッコ内筆者付加
原案作品群を否定していないだけでは飽き足らず積極的に肯定しなければ満足しない・・・踏み絵でしょうか?折伏でしょうか?『目を覚ま』さねまばらないなど過激な宗教団体と同じではないでしょうか。少なくとも私は初期作品群を『踏み台として蹴落とされるべき歴史』とは思っていません。そもそもよく知らないだけですから。
まあ、そういう人もいるでしょう、誰もが議論に慣れているわけではないでしょうから。もちろん私は『批判する奴が悪』なんて思っていません。しかし好きな作品をけなされる不快感は原案派の人だって同じでしょう。貶して凹ませるのが目的なんでしょうか?そうであるなら品がない行為だなぁと思いますが、実際には増田にとって大切な『初期作品群』を不当に扱われている事を質したいという趣旨ではないですか?
それなら絶賛派に対して『自分の感動はまちがっていました。この作品はご指摘の通り駄作です』と言わせる事で目的は達せれれるのでしょうか?私には単なる当てつけのようにしか感じません。
増田とは確かに感じ方もキャリアも違いますが、同じラブライブ!というコンテンツを楽しんでいた者としては、互いを排除しあうのではなく包摂されるべきだと思う。
増田氏がアニメコンテンツの流れに大変造詣が深いだろう事は一連の文章を読む事で推察されます。であるからこそ、ラブライブ!が『もはや好きとは言い難い作品』などと離れるのではなく、その想い・知識を残すべきだと思うんですよね。
それは、ネガティブな文章を増田で埋もれさせるのではなく体系的に整理された作品案内を提示するべきでなないですか。増田の思う本当のラブライブ!の楽しみ方を、初期作品の良さを記録に残す方がずっと目的にかなうと思います。確かに旬は過ぎてますが、ワンテーマのブログだとしても増田で埋もれるよりはずっと有益だと思う。注目されやすいアニメ版にくらべて原案作品群は実際のところ目立たないし、新たなファンには見る事すら困難になっているわけです。サンシャインが出た今はなおさらμ'sの初期情報は検索しにくい状況です。だから意味はあると思う。
個人的には、この一連の投稿はすごいと思うし、内容についての賛否は別にしても、ただ増田で埋もれるのは残念だと思う。でも別の形で発表するにしても、ぜひ否定だけではない前向きな批判。つまり好きな作品を広めるために使ってほしいと思うんですよね。
増田は原案作品が軽く扱われている事に不満を持っていますが、増田にとっては自明の事でもアニメ以降のファンにとってはその周辺知識は非常にわかりにくいのは事実です。サンシャインが始まるとはいえ、これから再放送や配信でオリジナルを見るファンも多いでしょう。実際私もちょっと調べただけでは意外と整理されていない事に気付きました。作品紹介、見る順番、その魅力など、いまからでも整理して発信する事は無駄ではないはずです。はっきり言って知識の乏しい自分には無理です。
それなら読んでみたいと思うし、こんなマイナスのエネルギーで文才を消耗する事はないと思う。もしそんなページを作ってくれたら是非私のブログにリンクしてお知らせください。こちらからも紹介させてもらいますから。
こんな事書くとまたね『上から目線』みたいな批判がツイッターでされそうですけどね。ツイッターで深い議論のやり取りはむずかしいですが、このように長文を書ける人の意見は真意が分かりやすくエネルギーを使う意味があると思います。自分も今回の事で劇場版の良さを変更する気は全くないのですが、初期作品群の事を詳しく知るきっかけになりましたし、批判派の真意というのも(ある程度ですが)理解できてよかったと思っています。
いいじゃん平和で!と思ったけど、まさに批判派にとっては戦争状態なのだな・・・その心中がわかりますね。平和に絶賛を謳歌している絶賛派への怒りを感じます。
海未はアニメ以降特に不遇だと囁かれるキャラの一人であったため制作陣の悪意や、または慢性的な配慮の怠りの結果だと感じる人も多かったようです。
そうなんだ・・・でも海未ちゃん不遇かなぁ・・・アニメ版でもすごく人気あるじゃないですか、自分もかなり好きですよ。でも一番好きなのは花陽ちゃんですね。批判派の人はアニメ版の花陽ちゃんを『ただの米好き女』に貶められた怒っているみたいですけどね。あのキャラ設定良くないですか?アニメ版の花陽ちゃんすごく良いと思うんだけどなぁ。
※以前指摘されたメディアミックス論の『出自』部分については訂正しました。
『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか? http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
追記:最後になって申し訳ないんですが、『絶賛派の負のエネルギーを和らげたい①』http://anond.hatelabo.jp/20160413011057 を見逃してたみたいです!ごめんなさい。読んで改めて追記で補足しますね。(2016/5/1)
自分の根源的な快楽を禁じて、信仰の強さを我慢することで実感するのが喜びって言うマゾ性と、
その教義や倫理の名のもとに他者を容赦なく裁くっていうサド性が両方強い。
このサド嗜好とマゾ嗜好は、結局正義への偏愛ってことにまとめられるのかもしれない。
あいつら正義っていう旗印が大好きすぎて、潰れそうになりながら旗印を支えることも、その旗印で他人を完膚なきまでに叩きのめすことも異常に好んでる。
なんでそんなに正義を求め、その元に集い、その名のもとに行動したがるのかはわからんけど……。
ありがちな考察だと、過剰に正義たらんとするのは、劣等感や不安が強いことの裏返しである、つまり劣等感が強いから正義の一員になることでマトモな自分というのを得たくなるし、不安が強いから正義という確固とした道標に従いたくなる、なんてのは言えるかなあ。