はてなキーワード: 枝野寝ろとは
立憲民主党については本当にヤバイ集団だと考えているので、このエントリーに書き残しておく。
なぜ匿名かというと、彼らが職場や自宅、あるいは俺のSNS上のアカウントに実害のある攻撃を仕掛けてくるのではないかと恐怖しているから。
もともと現在進行系の政治にあまり興味はなかった。首相が変わっても選挙があっても「ふーん」程度の感想しか持たなかったが、
高校時代の政治経済の科目は大好きで、資料集をよく読んでいた。
現在につながる政治の事象として印象深く覚えている最初の出来事は、チンパンと蔑称で呼ばれていた福田首相の退任。
「あなたとは違うんです。」という発言が大きく報道されたときには、馬鹿な政治家だと思った。
その後、当時の民主党が政権を奪取する。このとき、高校の数学教師だった親父が「かなりまずいことになりそうな予感がする」といっていたのをよく覚えている。
そしてその後、事業仕分けのテレビ・ショーが放映されその予感は現実となる。
当時、国立大学の工学部の学生になっていた俺はスパコンを使った研究に従事していた俺は、言いようのない怖気に襲われた。
俺の研究はスパコンがなければ成り立たない。計算速度が早ければ、それだけ試行回数を増やすことができ、他に先駆けて結果を出せるのだ。
それを「二位じゃだめなんですか」とあたかもエンジニアが名誉を追い求め、実利に結びつかないもとを作って遊んでいると言いたげな物言いに嫌悪感を覚えた。
そんなエンジニアをバカにした政策を進めているときに発覚したのが蓮舫のマジコン事件だった。
このとき、「ああ、この人達は完全に馬鹿だし、エンジニアを馬鹿にしているんだな」と思った。
というわけで、そのころから民主党政権は嫌いだった。鳩山政権については特に言うこともないだろう。
それでも、政権が仕事をしているんだなと思った事が一度だけある。あの、俺の友人を飲み込んでいった忌まわしい東北大震災だ。
あのとき、政府は慣れないなりに必死に対処をしていた。「枝野寝ろ」のタグをつけた140字の投稿を、当時すでにツイ廃であった俺も書き込んだ。
それも、あとで菅直人の危機管理のときにやるべき権限委譲をやらず、素人同然の浅知恵で指揮をしようとしたという事実を知って無の表情をするしかなくなったが。
本題。なぜアイツラがやばいか。
ひとえに"おしどりマコ"と"横川圭希",その周辺の集団を支持しているから。
おしどりマコのことは伝聞の形でデマを撒いていることを知っていて、昨年東京で演説をしているときに支持者に話を聞いた。
「これは科学的根拠はあるのか?」と。
すると、支持者がみるみるうちに集まってきて俺を囲んで罵声を浴びせ始めた。殴られるかと思った。あと勝手に人を菊池マコの信者に決めつけた。
俺は演説をやっていると詳しい話を聞く癖があり、主張に納得し、支持することもあれば、わかり会えないこともあるが、
これを書くのも怖くて仕方がない。彼らの一人は俺の顔を撮影しており、執拗に名前と身分を聞き出そうとしていたから。
もし俺が教えていたら、ネットに顔を晒し、職場に抗議をするくらいは平気でやるだろうと思う。
こいつらはかつて幅を利かせていた暴力的左翼と何も変わっていない。そう確信した。
万が一、彼らが政権を再び握るようなことがあれば、もっととんでもないことを平気でやるだろう。
自民党政権はベストではない。よくやっている分野もあるが、経済政策も教育政策も、統計や年金の問題も大いにあるし文句は言いたい。
だが、人を囲んで罵声を浴びせる奴らよりははるかにマシなはずだ。
そう思って、ささやかだが「立憲民主党だけはやめろ」と周囲に伝え続けている。
・あいつらは
・やめろ
https://www.facebook.com/tetsunari.iida/posts/10214860353881637
震災のときのエダのんは立派だったよ。#枝野寝ろ のツイートはいまでも語り草です。
決して失政なんかじゃありません。
民衆の中に一人立ち、下からの政治と理念を訴える枝野さんに対して、自分たちの理念を語らず、口を開けば他党の悪口をいう山口さん、あなたは恥ずかしくないのですか?
立憲民主党がやっていることは、本来は公明党がやることじゃないのですか?
いったい何をやっているのですか?あなたたちは。
山口さん、あなたは立憲主義について、どれだけ真剣に考えていますか?
安倍さんに、これだけ権力の乱用をやらせておいて、罪の意識はないのですか?
一人立ち上がった枝野さんの姿を見て、何も感じるものはないのですか?
逆に悪口をいうのは、天に唾しているとは思わないのですか? あなた、信心しています?
池田先生も、公明党を作られたときは、今の枝野さんたちのように、民衆の中で堂々と理念を語る政治家を輩出することを目指したんだと思いますよ。
今の公明党は何をやっているんですか?
あなたは恥ずかしくないかもしれませんが、私は学会員として恥ずかしいです。
私は30年間、公明党以外には入れたことはありませんが、今回は立憲民主党に入れようと思います。
それは、立憲民主党の方が学会の人間主義、平和主義に近いと思うからです。
公明党であったとしても民衆を裏切る時が来るかもしれない、それは例外ではない。
今の公明党に投票することは信心ではありません。福運を積む行為ではありません。
公明党も賛成するでしょう。
戦前、戦争に反対して牧口先生が獄死され、戸田先生が何のために立ち上がられたのか。
そのことを全く忘れている公明党に、言論の自由を蔑ろにする秘密保護法や共謀罪に積極的に賛成する今の公明党に、何を期待してもまったく無駄です。
いま、北朝鮮の緊張もあって、戦前の状況に似てきたといわれています。
戦前は国民全体が戦争に賛成しました。今も同じような雰囲気になってきました。
私は、国民の99%が戦争賛成といっても、反対を貫くのが公明党だと信じてきました。
集団的自衛権を許す安保法制に意味不明な解釈を追加して賛成する公明党は平和の党ではありません。
次は9条改憲するでしょう。
いまの公明党は「改憲は国民の議論が熟していない」といいますが、だったら「熟したら」改憲するつもりでしょうか。
そうじゃないでしょう。
どうして自分たちは平和を追求する党ですと堂々と国民に訴えないのですか?
実家で作られるおせち料理は、年々少なくなっている。少なくなるのが分かるたびに、この家で成長してきた年月と、経過した時間の長きこと、そしてそれらに反比例するかのように、この家族構成でいられる残り時間の少ないことを思い知ることとなり、いささか悲しいのも事実ではある。やんぬる哉。
もう戻らない時間や記憶に思いを馳せるよりも、これからやってくる時間に対して思案を巡らせばいい、という人もいるにはいるが…僕にとってこれは、簡単なことではない。なぜなら、私は、確実に、未来永劫これだけは信じることが出来るという存在を持っていないからだ。こんな人は、多くはないけども、少なくもないと思う。
3.11以降、僕は、直感以外の信仰を失った。人様は皆僕に良くしてくれるという、他人に対する信仰。これからやってくる明るい未来に対する信仰。原子力発電所は安全安価なエネルギーだという信仰。日本は発展していくという信仰、そして、自分自身の可能性への信仰。
世間知らずの高校生が、勉強もせずに怠けているばかりで生きていけるほど、進学校は甘くはない。それまで抱いていた自分に対する多能感は完膚なきまでに打ち砕かれ、悩み苦しむそのさなかに、かの巨大地震が起こった。
日本テレビの中継で、水素爆発を起こしたフクイチの建屋が映る。親父は呟く。「これは、やべえな」と。日本はここで一度、死ぬのかもしれない。ただし当時のトレンドは、「日本死ね」ではなく「枝野寝ろ」だったり、「ポポポポーン」だったりした。
室町時代の僧侶・一休宗純は、元旦にはドクロを先端に付けた錫杖を手に、「御用心、御用心」と言いながら京の町を歩いたという。祝賀ムードに水を差すような行いではあるが、生と死、破壊と再生は表裏一体と考えると、わずかに彼の行いの意味も理解できるレベルに落ちて来よう(枝野のくだりなどはこれの逆バージョンだったのだろうか)。
大学へ進学しても無気力は変わらなかった。テストやレポートを何とか切り抜け、仕送りのみで生きる生活。友人は少ない。
ひとつだけ、かねてからの夢があった。それはとにかく、海外へ行くこと。最終学年のこの年、一念発起して英語圏へ英語留学へ赴いた。今思い出せば、見るものすべてが面白かった。
留学へ行ったものの、日本人とも多く話していた。しかしながら、現地の日本人で、「日本は今後も変わらず発展していく」といった楽観的意見を表明した者は、誰一人としていなかった。来たるべく破壊を念頭に置いて、生存もしくは自己表現の為に英語を学ぶ者も少なくなかった。友人の何人かは現地のグローバル企業でインターンに参加していた。
不確実な今の世の中で信じられることは、「生き物は、いずれ死ぬ」といったことだ。このことでさえ、神隠しや行方不明、あるいは死後神になるといった思想や、高尚で極めて分かりにくい哲学的議論により、疑問符が付きうるのだ。世間がどれほど不確実なものか。
冒頭で、「これだけは確実だと信じられるものが何もない」と書いたが、「生きているうちに日本が死ぬ」ということは、怪しいがあながち信じられないものでもないと思う。3.11のような巨大災害などを契機とした日本社会全体の急速な崩壊が起こる確率は、社会階層が流動せず格差だけが拡大し、労働時間の増加が止まらず、社会保障費の増大によって巨大な負債が残ることで静かに日本社会が死んでいく確率よりも低いとは思うのだが、いずれにせよ、「これは、やべえな」という不安を感じざるを得ないような、今年はそんな一年だった。もちろん、フクイチのように顕在した不安を感じる現象はなく、漠然とはしているのだが。
おせち料理だって、今後もっと少なくなり、絶えてしまうか、別の料理に変わってしまうかもしれない。変わらないことは、最も安全だが、生きても死んでもいないともいえる。絶望的なまでに怠け者の自己に対して変化を望んでいる。いわんや、世の中の変化をや。
御用心、御用心。