はてなキーワード: テキストエディタとは
1年ぶりに開いたらWin10では使えなくなりました、と。
それは構わないんだけど住所録どうすんの?筆王には用はないんだよ。オレが入力した住所録が今すぐ必要なんだよ。返せよ。
テキストエディタや表計算ソフトで試したけど、fzdファイルなんてまともに開けない。体験版はご丁寧に消してある。
筆王を起動しようとすると飛ばされるページにはしれーっと「有効OS拡張サービス」は終了しました。と。
お前が10何年かけて入力してきた住所録はオレ様に金を払わないと使うことはできないぜ?でもお前にだけ特別価格で提供してやるよ、と選択肢が並んでます。
おかしくね?なんか通知来た?オレ、ソースネクストのメール登録してるけど有効OS拡張サービス(そんなサービス初めて聞いたけど)が終了するなんてメール見たことないぞ。
もし、こういうやり方をするならせめてfzdといっしょにcsvなりPDFなりを保存してくれないか。
1,980円くらいどうでもいいけど、こんなやり方をする会社には100円でも払いたくない。
筆王なんて二度と買うか。
新人さん――2〜3年目くらいの子――が作った手順を元に僕が作業画面を共有する形で作業を進めた。ペアプログラミングならぬペアオペレーションってやつだ。
作業内容はテスト環境で作ったデータを本番用にコンバートしつつ入れ込むもの。
ある作業の中で入れ込んだデータを確認するためにcsvファイルにエクスポートして中身を確認する事を行うのに、何気なく`Alt-h`,`pe`,`↓`,`Enter`(WindowsエクスプローラのHomeのリボンを開いて、ファイルを開くセレクトボックスを展開、↓矢印で一つ下のSakura Editorを選択して開く)で、関連付けされているExcelではなくテキストエディタで開いた。
その時、「今のどうやったんですか?」と質問された。
手慣れたキー操作だったため素早かった事、オンラインミーティングでの画面共有はラグが発生する事もよくあるので、何をやったか分からなかったのだろう。
一度閉じて、最初から解説しながらゆっくり作業し直して見せて納得してもらえた。
「私、いつもExcelを開いてcsvのインポートを選んでやってました。ダブルクリックで普通に開くと文字化けするし…、面倒だったんですよねー。今度からこの方法を使わせていただきます!」
うむ、正道だ。UTF-8エンコーディングされたcsvファイルを開くには一手間掛かる。
「因みに――」とSakuraEditorなら「ファイル名を付けて保存」からBOMのところにチェックを付けて上書き保存しておくとExcelからでも文字化けせずに開けるようになることを教えてあげた。
「BOMって何ですか?」
これは少し困った。
BOMの話をして…するとUTF-8にBOMを付ける意義とは?って聞かれるよね…ExcelというかMS製品全般でそういう仕様なんだよって話もしないとダメか?
あー、クソ面倒だな。
「ちょっとしたおまじないだよ。」――実際間違っていないだろう。`#include <stdoi.h>` だって"おまじない"なのだから。
本番作業中に脱線したことを戒めつつ、一方で多少の後ろめたさを感じながら実作業に戻った。
その後、特にトラブルもなく作業は予定より30分ほど早く終わり、お互い「お疲れ様でしたー」と労いつつオンラインミーティングを閉会した。
あ、BOMの話してない。と直後に気付いたものの時すでにおすし。
まっ、気になったらググってくれるだろう。
例えば、黒い画面に白い1ドットの点を打つとする
ここでハードウェアのVRAMと画面が直結していれば分かりやすい
ポインタには確保したメモリ領域の先頭のアドレス番地が入っている
ちょっと語弊があるけど、そのアドレス番地に1を入れれば画面に白い点が表示される、みたいな感じである
自分が子供の頃のMSXとかZX Spectrumだったらそうだった
あと、PC-9801も文字のためのVRAMと画像のためのVRAMがあったんだったかな
98も同じようにメモリに何か直接書けば画面に表示されたはず
あと、その画像のVRAMの上に文字のVRAMを表示させることで、
例えば背景を輝度を下げて表示させ、その上でテキストエディタで作業するとかできたはず
ファミコンとかのカートリッジも挿入すればあれは何らかのメモリ空間に格納されるのだと思われる
カートリッジが挿入されていれば、そのメモリ空間の最初からCPUに実行させればいい
そうすればカートリッジの中のROMに書かれているゲームが動くはずだ
しかし、近年のOSで例えば生のVRAMを直接いじるなんてことはあり得ない
生のVRAMはグラフィクスカードの中などに入っており、それは近年のグラフィクスカード上のGPUやOSによって複雑に管理されている
だから、Windowsなどでゲームを作るときは、まずOSにお願いして、仮想的なVRAMのような領域をもらわなければならない
何をするにもまずはOSのお伺いを立てて、OSがメモリなどのリソースを切り出して与えてくれる
返すときも図書館のように返すのが礼儀であるが、ぶち切りしてもOSは尻拭いをしてくれる
が、尻拭いをしてくれない可能性もあるため、ぶち切りした後に挙動がおかしくなることもあるかもしれない
そう、なんかよく分からんが調子悪いなあ、みたいなことが起こりやすくなった気がする
マシンが重いなあと思ったら、別のプロセス、Windowsで言うタスクマネージャーをチェックする
そして、CPUの使用率やメモリを食っているプロセスを見つけ、殺していい場合はkillしてみる
マルチプロセスで動作することで重くなることもあるし、何か共通のリソース、ファイルなどを奪い合う、デッドロックとかそういうことも起こり得る
しかし、プログラムから直接ハードウェアを動かしている、と実感することは減っている気がする
それはそれで良いことなのだけど、その実感がないことが初学者を混乱させていないだろうかと思った
ハード寄りと言っても、Arduinoでもラズパイでも自分にはあまりそういう実感がない
特にラズパイはLinuxが動いている時点でLinuxが良きにはからってくれるためことさら実感がない
私にも経験がある。
参考書を買ってひたすらコードを打ち込むのだがまるで頭に入ってこない。
参考書が悪いのではないか、自分に向いてないのではないかと思い、別の参考書を買い、気づいたら家の本棚が参考書だらけになっているのだが、結局プログラムは書けないままなのである。
今になってみると上記の行動はある一定の意味があったとは思うが、本質的に意味も理解せずに写経をしているのと変わらない行為だったと思う。
どんな環境が良いのか?
私はJavaScriptを奨めたいと思う。
理由はブラウザとテキストエディタがあれば開発環境が揃うからだ。良くわからない複雑な環境設定で消耗する必要はない。
またブラウザをリロードすれば実行結果がすぐわかるのも手軽で良い。
尚、外部のライブラリの使用はオススメしない。車輪の再発明上等である。
目的の設定:
ブラウザ上で動くブロック崩しを作ることを一旦の目的としよう。別にぷよぷよでも良いしテトリスでも良い。
作り方:
・画面にブロックを表示する
・ボールを表示する
・自機を表示する
この段階では動かなくて良い。HTMLでそれっぽく表示されていれば良い。
次に自機を動かすことを考えよう。
キーボードのWを押したら左に、Dを押したら右に動くようにしよう。キー入力を受け付けて描画している自機を何ピクセルか横に移動させる。同様にボールを動かす、壁に当たったボールが跳ね返る、ブロックと衝突を判定する、ブロックを消滅させるなどなど一つずつ解決しよう。結果はブラウザにすぐに表示されるから逐一チェックできる筈だ。
おそらく上記を実装する時に上手くいかない事が沢山出てくる筈だ。なぜ上手くいかないかを考えて調べてみよう。もしかすると考え方が間違っているかもしれない。可能な限り実装したい動作を分解して考える事がポイントだと思う。そして解決策は必ずあるということも忘れないでほしい。
さて、それっぽく動く物はできただろうか。
ある程度動くものが出来たとしたらとても苦労したことだと思う。そして飛躍的にプログラミングが出来るようになったという実感がある筈だ。
・実装したい動きを分解して考える癖をつける事
・進歩が分かりやすい形で表示される事(モチベーションに繋がる)
プログラミングの話となると言語選択や作法の話になりがちだが、最初は全くそんな事を気にする必要ない。コードは汚くて良いし、動けば正義だ。動作が速ければ尚良い。自分がやりたいことをコードで表現出来て楽しめる事が何より重要だ。
深夜二時三十四分、薄暗い自室で卓上の電灯を薄く点けてパソコンを立ち上げ、これからこのこの文章を書こうと考えました。
専門店でも専門サイトでもない、ごく一般的な通販サイトで安いからという理由で買ったソレは、正面に置かれた液晶画面にデスクトップ上のアイコンを映し出します。
詳しくはよく知らないですが、電源を立ち上げてすぐは色々なプログラムだかソフトだかも立ち上がるのか、マウスカーソル動作は少しもったりする。友人曰く安いパソコン買ったせいだとか。
特別動作が重い訳でもなし、何か入れ込んだゲームをする訳でも、大それたプログラミングの環境を構築している訳でもない。
安物買いの銭失いという言葉があるけど、安すぎたせいで早期に壊れるとしても二年保てば御の字だと思って買ったのであんまり気にしていません。
ただ虚無を抱えた人間と断ずるには語弊があり、鬱というには日々を生きる活力がある。
けど前に進む気力は無い。焦燥感が背中をぐいぐいと押すのに、ボクはただ立ち止まっている。
大学四年生の十月。周りは順調に就職活動を進めて、内々定獲得。内定式もあったりする。
じゃあボクは何。皆ほど手早く進めていた訳じゃないがやる気自体はあったはずだ。でも結果として駄目でした。
────えっと、大学では〇〇学部(出身大学が普通に絞れらるの伏せる)の人間として色々な事を学びました。学んだのが…
「ああ、いや。別に言わなくていいよ」
────?
「大学で学んだこと、別に意味ないし。それよりも君の事を教えてよ」
一瞬フリーズして喉から声が出るのを必死に抑えた記憶があり、帰り道に転がってた捨て空き缶を蹴飛ばして当たり散らかしました。
就職活動すれば言われる事も分かっていたし、実際に言われるだろうなって覚悟を決めていたつもりだった。
確かに大学で学ぶ四年間は、社会時間スケールに換算するなら薄っぺらいものだろうし。(仮にストレートに新卒二十三歳くらいから働き始めて定年六十歳過ぎ、概算四十年働き詰めと考えればそうだろう)
大学で学んだ事を生かせる会社なんてほとんどないだろうさ。特別優秀な大学に通っていた訳でもないし、この学歴に求められる人材を搔き集めるとしたら凡庸な事学んだ人間ばっかで、英語ペラペラだの特異的な技術取得者だの、高度な教養保持者なんてほとんどいない。社会人の人事部の人間目線ならスペックはどんぐりの背比べ。そもそも優秀な人材なんざ欲しいなら学歴フィルターで足切りされるのだから、そんな凡庸な学歴の自分が面接に呼ばれる時点で自分の評価はそういう事である。
別に学歴フィルターに文句を言うほど馬鹿なつもりはない。学歴がスペックを推し量るフィルターであるのを否定したら、その行く末は社会が駄目になるんだし。
学歴フィルターがどうこう。そうじゃなくて、学歴フィルターを取っ払われて「一時間未満の問答で人柄を理解してくる」のが駄目だった。
お前がボクの何を分かったつもりでいるんだ。趣味で映画鑑賞って言ってLGBTについてだの、映画の歴史だの語って高尚さとか演出してやたらウケてたみたいだけど、映画鑑賞なのは面白い映画観る為だけに決まってんでしょうに。何でフィクションを割り切って視聴するコンテンツに世知辛い現実の問題を持ち込んで鑑賞して語らなきゃいけないんだって思ってのがボクの根底人格ですよ。
頑張って四年間必修の単位落とさないよう勉強して、プライベートな時間削って大事な必修実技講義のレポート山ほど書いて、それで大学で得られた事を教えてくれ?
大学で四年間勉強してきたのは皆当たり前だから他に教えろ? そんな事言われなくても分かってるけど、じゃあ四年間で覚えた美味しい酒場の情報でも披露すればいいのですか。本当に真面目に大学通って友達作らずに勉強してた奴の「面接ウケのいい話」のストックあるのかな?
何でもかんでも四年間の内に御大層な学びや気づきが得られたような人間ばかりだと思わないで欲しい。こちとら遊んで浮かれてレポート未提出をやらかしたら即単位落ちして留年の危機に迫るのに、大学生活で得られたもの?
海外旅行するときの計画立てて海外旅行して知見でも得られたらいいんですか。そうですよね、グローバルな視野持った人間欲しいですもんね。最初から募集要項に留学経験ありのみにしてくれませんか。
何ですか、大学祭でリーダーシップ発揮して皆を先導すればいいんですか。リーダーシップ発揮しなくて名脇役こなして、何か一大事や重要な場面で大立ち回りして何か得られたり気がつけばいいんですか。出店がクソ忙しかったけど黒字儲けが出て、還元率三倍以上になってサークル同期とガハガハとゲス笑いしてた以外あるわけないだろ。最初から部長・サークル長経験ありのみ語れとかにしてくれませんか。
印象的なエピソードやらがポコポコ生まれるほど精力的に大学を満喫していませんことよ。講義のレポートやらに追われ、バイトしたりする日々のせいで虚無です虚無。
大学で開かれた会社説明会とか企業研究会だとかの人事部の人に聞いたら、「自分の事をありのまま話せばいいよ」って言われて、いざ実際にその人の話した会社の面接受けたらバチバチに落ちたよ。落ち込んで大学の同期友人に話したら「馬鹿だねお前」って言われてさ、じゃあ実際面接の時にどうしたらいいのかと思ってバイト先の社員さんとかに聞いたら「テキトーに誤魔化せばいい」って何ですか。
最初は自分もそう思ってたけど、大学のそういう就職活動セミナーみたいなので「人事部の目はプロなので誤魔化しは効かない」とか聞かされて、それを真に受けて興味持ったバリバリに志望したい会社から次々落ちてこれですか。
何なんですか。どうすればいいんですか。
そもそも初対面の人前で喋るのが苦手なのにどうすればいんですか。学生課の就職支援の人とか、練習重ねる相手は顔見知りレベルになるんですけど。
お前の為に勉強した訳じゃないし、純度100%自分の為に学んできた事を前面に押し出したら落ちるのは分かる。けどさ、じゃあ大学で学んだ人間求めるの何で?
そうですね、大学に入学が出来て、大学に通えて、大学を卒業するような「一定ラインを超えている事が確定しているスペックの人間」が欲しいんですもんね。知性とかも含めて多分諸々の。
分かります。下限値設けずに変な入社されたり、限られた社会時間の枠を食い潰すような事したくないですよね。
賛同します。人材もコストですから中々運用とか大変ですし、コスパ求めますよね。
理解します。そうなると求めるのって必然的に明瞭な線引きのラインが「大学出の新卒」となるんですよね。
でもボクはそのロジックを理解していても、もう就職活動が嫌になりました。三月から飛んで半年以上の十月。虚無みたいな中身のない日々を送ればここまで日が経つのが早いものかと感心する。
家に閉じこもって日がな一日寝て過ごして、起きたらご飯食べてパソコン立ち上げて自分好みの動画見る為だけにネットサーフィン。
自己分析自己分析言われて自己分析しても自分の嫌な所しか自己分析出来ないし、深い所まで掘り下げろって言われても浅い所しか掘れない。自己分析力が足りないのか、人生経験の浅さなのか。どっちが真実は自分に見極めきれないまま、どちらにせよ自分自身を薄いかその程度の雑魚だと感じるようになって、世界の中心に自分が居座るわけでもない事が分かり切ってるこの年頃でも中々精神にくる。テキトーに誤魔化す事が自己否定に繋がっているような気がしなくもなくって、自称能天気の「生きてりゃ何とかなる精神」もめっためたになってきた。
周りの人曰くまだ時間はあるから、今からでも内定は取れる。でもだらだら就職活動を進めてる。今。
進める三社程度も大学の学生課の就職支援してくれるところから回ってきた求人情報のメールから適当に選んだだけ。興味がない会社ばっかなのに興味持て状態なんて無理難題。
バイト先で本職とバイトを掛け持ちしている妻子持ちのXさんには「心が落ち着く為にも内定が欲しいよね」と言われ、励まされた。
その時は「そうなんですよねー笑」ってお茶を濁したけどまさにその通りで、自分が働く為に就職活動を進めるのも出来ない状態になっている。自分が今この精神状態を脱するため、楽になりたいだけが今の世界の過半数を占めている気がする。
今のこの状態が自業自得なのかよく分からない。多分自業自得なのだろう。
そろそろこの文章を書くのも嫌になってきた。こんな事してる暇あったらもっと別の事出来たのに、なんでこんなものを書いているのだろうか。
感情と論理が混雑したな思考を巡らせて、ぐちゃくぐちゃのそれを文章に起こすようにまとめて、まとたものをブラインドタッチも出来ない両手でカタカタとキーボードを叩いて捻出してる。
今ここまで文章を書いた上で思うのは、膿は際限なく溢れるんだなぁって所です。そしてこれはまだ続く。
ずっと疲れた、疲れたってなってる。こんなに頭がぐるぐるする事が付かれた。毎日頭の中でぐるぐるしてて明らかに駄目になってて、疲れる。考えたくない。でも考えなきゃいけない
だって考えるのやめていたのが今の十月に至るまでの虚無みたいな中身のない日々だ。
嫌だ。疲れた。ずっと眠りたい。
鬱? それよか楽観的で健康的。
友達と遊ぶのは楽しいし、自傷行為も痛いの嫌だから無理。自殺は嫌なもの見たことあるし、それで「生きてたもの勝ち理論」は証明されたと確信しているので死ぬ気はない。
けど非生産的で、傲慢さや我が儘だけが日に日に膨れ上がっている
A.ニート
まだしばらくこの生活は続くと思います。生命的に死ぬこと、自殺やら自傷だけは絶対ないけど、ゴリゴリと精神が摩耗しつつ美味しいご飯や自分の好きな事だけでモリモリ持ち直すあり方の限界値はどこまでかわかんないです。
少なくとも明日はセーフかもしれないですが、一か月後とか年明けたら駄目かもしれないですね。何とかなるでしょって今も思っているのがもう本当に嫌になりますけど、すんごい楽。
助けてというには余りにも横暴?
ぼちぼちキーボード叩くの、普通に腕も指も疲れてきたし、画面に打ち込まれた文字の羅列とその内容をありありと見せつけられて全部が嫌になってきたのでここいらで書くのを辞めて寝ようと思います
気持ちのいい寝起きがありますようにって思ってこのテキストエディタを閉じます。
バイバイ。
わかるわかるwww。
とりあえず、Visual Studio などのIDEでできることは、Emacsは使わない。
普通の「テキストエディタ」の用途だけで使えばいいと思えば気も楽になるよ。
たまに Mac, Linux を使うとき、共通のインタフェースで複雑なカスタマイズが可能なエディタがあることがすごく助かってる。
なにしろ1984年生まれで、マウスが普及する前に生まれたエディタだ。
右手をマウスとキーボードで往復することを前提とした左手のC-c, C-v などのコピーペーストのショートカットの概念がない。
これが辛い。すごく他のアプリとかけ離れてて辛い。ここだけは脳にスイッチを作るしかない。英語と日本語おぼえるようなものだな。
あと考えてみたら、今やEmacsで使う時間の 99%は org-mode だなー。あははは。
org-mode で、Python とか Julia とかをデータと統合したりすると、Jypiter なみに柔軟なノートブックが作れる。
あとは、前のコメントにもあったが、 Lisp系とか、マイナーな関数型プログラミング言語 (Agda2とかね) はEmacsしか選択しないなー。
E-Mail というものをめっきり使わなくなったが、サービス側からコンタクトを取るときは、他に情報が無いために使用されることがある。認証以外の用途で MUA を開くこと自体が珍しい。
自分が E-Mail を頻繁に使用していた頃は、丁度 HTML メールが出始めた頃だった。
Mac では、プレーンテキストか HTML によるリッチテキストかは意識されないようになっている。 UI としては正解である。しかしまだ色んな制限のある環境があった中で、 MUA を限定するコンテンツは「いけないもの」だった。読めない人が居るそれを送るのはリテラシーが不足している者の行いだった。機種依存文字のように。
アプリケーションとしての MUA を使用しているときは、当然プレーンテキストのみで送信していた。しかし今は、通知や認証にしか使用しない E-Mail は Gmail に任せきりだ。以前は Gmail にもプレーンテキストしか送信しないオプションがあったように記憶しているが、今はもう何も分からない。色んなことが不可視に行われるが、「いい感じ」にしてくれるだろうという期待は Google にはもう持てない。
サービスからのアクションを求められる E-Mail を受けて、返信を書いた。 JavaScript で実現したリッチテキストエディタに見えるそこに入力したが、送信する直前に不安になった。本当に同じものが見えるのだろうか。
改行がめちゃくちゃになった本文が表示された。最近はそもそもプレーンテキストを扱うエディタ自体が少ないが、昔から使っているものにペーストしてみたらこの有様である。このまま送って、あちらがプレーンテキスト環境だった場合、早口オタクみたいな文章が送信されるところだったのだ。
引用部分をコピペをしたために HTML メールになってしまったのか、あるいはデフォルトでそうなるのか、今は調べる気にならない。ああ昔だったら怒りの瞬発力で調べられただろう。今はもう、疲労が先にくる。部下を罵倒すればよしなにやってくれるなら、そうしていたかもしれない。
色んな思いを色んな環境で書いて、しかしどんな環境で見ても筆者の意図を損なわないノウハウがあった時代を思う。それはもう失われてしまったのだ。
テキストのコミュニケーションが生来あるからか。いやしかし、思春期にケータイメールを多用していた者としては、テキストのちょっとした違いや文字幅などの表示の違いが受け手の感情に作用するのを知っている。表示形式をコントロールしたいと思うのは当然だろう。
色んなツールを使うとき、仕組みも分からず使える訳がないと思っていた。それが正しい態度だと思っていた。でも今は色んなツールが色んな作用を起こしていて、すべてを把握するのは難しくなってきた。変化を受け入れられなくなることこそが老化かと思い、徐々にまかせるようになってきたのに、この裏切りである。
そんなことを気にすべきでは無いのだろうか。 HTML メールを表示できない環境のことなど意識に上げないのが正しい行いなのだろうか。しかし現代では、マイノリティの権利が不当に侵害されてきた世界が、是正されている気配を感じる。それなのに、ネットワーク上のサービスのユーザエージェントの多様性を認めないなんてことはあるだろうか。
なんだろう。分からない。なんだかもうなにも分からなくて、普通の人が普通に振るう普通という暴力に、インターネット上でも翻弄されるしかないのだろうか。
一周まわってEvernoteに戻ってきて、「テキストエディターが前に比べて改善されたからいいかな」と思ってとりあえずプレミアムコースに切り替えたら、直後に新バージョンのβ版の知らせが届いて試してみた
ああ1万円近く損をする事になりそうだ……
機能がまるでそろっておらず、かといって今後そこが改善される事も望めそうにない。てか根本的なコンセプトが受け入れられない
ていうか改良してより便利にしようとかそういう話ではなく、単に「Windows、MAC、Web版のUIを、全部Web版をベースに統一してコストを削減しよう」という思惑しか感じられない
ああ、また彷徨うことになるのか……
自分がめちゃ使えるって言ってる意味じゃないんですけど、あまりにも社内にメモ帳で済ましテキストエディタが使える人がいなさすぎて勉強会開きたいんですが。
面倒くさいことを面倒くさいままするんじゃなくて、どうしたら簡単に短時間でできるかって誰もそういうのは考えないもんだから、
専門の慣れた人に頼めば10秒で終わることも、慣れない人がやると普通に1時間かかる様なことをして仕事した!って言って達成感得てる場合じゃないですよ本当に。
リストラで人数が少なくなったから、残った人で何でもできるようにするのも大切かも知れませんが、
専門の人が居るならそれを逆に活かさない手もないと思うんですが。
と言う自分もはてな記法を初めて使ってみました!こんなことできるんですね。
今日もいくつか増田を書きましたが、ブクマやトラバがつきませんでした。
あ、最初に言っとくと、この文章、別に結論ないです。ポエムです。
深夜のタイムラインで、旧知(というほどでもないが)の人とやりとりをしていて、ふと思った。どうやらその人いわくいまは「過渡期」であるらしい。
ま、確かにそうだ。
いい年したおっさんなので、もう20年くらいインターネットにいる。ということは、インターネットが「俺たちの隠れ家」だった時代から、だれにでもアクセスできるようになった2020年まで、その全期間をインターネットで過ごしているということでもある。
その過程では、ミクシみたいな場所に引きこもっていたこともあり、そこそこ名が売れていたときもありで、まあいろいろあった。
昔より、インターネットでなんか書くことに自由がなくなったとその人は言う。まあこれも自分の実感とよく合致する。主に「自分の書いたものがどこまで届くか」という制御という面において。これが制御できないのがなかなかに厳しい。ま、ゾーニング? そのへん含めて過渡期なのかもしんないですけど。
で、自分なんかは、そのほとんどの期間において、一線で書き続けてる人を何人か知ってるわけなんだけど、書き手のほうも状況に対応することをしなきゃいけない。いやおうなしに戦略的じゃなきゃその立場は維持できない。それができてる人ってすごいと思うんですよね。自分はできなかっただけに。
対応ってのは、そのどこかに迎合という語義も含みうるものだとは思うんですが、由来、文章書くのなんてだるいことなんですよね。それをわざわざするからには、なにか叫びたいことがあって、それを文章にしなきゃならない。これ大変なことです。ましてブログなんて看板背負ってたら。迎合なんてするくらいなら、最初からそんなめんどくさいことしてねえですよっていう。
ブコメ見ててよく思うんですよね。意見が違うのはもちろんかまわない、なんらかの理由で思考の枠が違ってて合意のしようもない。それもかまわない。けれど、わざわざ看板背負って言挙げしたそのそもそものモチベーションを相対化するようなブコメはかなり苦手。みんながみんなそうとは言いませんけど、たとえハンドルネームだろうがなんだろうが、それを背負って書くからには「ほかならぬ俺は」こう思ったのだ、聞いてほしい、だれかに届いてほしい、という初期衝動があるんですよ。そこを相対化すんなよ、対等の熱量で殴りかかれよ。そんなことをよく思う。
けど同時に、そんなめんどくせえことする人もそうそういないよな、とも思う。
増田なんですけど、あれホッテントリに上がってくるようなやつって、たいていなんらかの意味ではおもしろい。それはある意味とうぜんで、どんな人にでも書かれるべき瞬間、これだけは伝えておきたいということ、まあそんなようなものをひっくるめて「輝き」みたいなものはあると思うんですよね。これかならずしも肯定的な意味だけではなくて、無駄な輝きは共有されない。日常を脅かす脅威でもありますから。だから、書かれる。とてもおもしろい。
不断に「書かれるべきこと」を抱えているのって、ある意味では病人といってもいい。そこまでおまえは考えるのか。そこまでして伝えたいことがあるのか。それだけ書いても、まだ足りないのか。そして、そうして書かれたエントリに「いや、俺はこうだ」と殴りかかるのもまたそれ相応の熱量を抱えた病人ということがいえるかもしれない。
「俺が」というのは、ある意味で自己顕示欲そのものなんですけど「ほかならぬ俺は、こう思うのだ」というのは、自己顕示欲とは少し違うものだと思う。なにが違うのかはうまくいえないんですけど……。
ま、どっちにしろ、看板背負ってるのはリスクなんですよね。これもう先行者利潤というしかないんですけど、昔から書いてる人は、その身振りを学ぶ機会ってのがどこかであった。いまの時代、看板背負って書くのは、最初から「大衆」とやらを相手に立ち上がるってことで、それをトレーニングなしにできる人なんてそうそういない。増田がトレーニング場になるのかなとも思うんだけど、それもまたちょっと違うような感じがある。
なんにせよ、個人ブログの「おもしろい部分」ってのが、かなりの割合で増田に持ってかれてるのは確実だと思うんですけども。
でもまあ、見たくはあるんだよなあ。バックボーンのはっきりした任意のだれかと、別のだれかが議論したりとかそういう光景。「あの人」と「あの人」だからこそ見えてくるものがあるというか。
別に昔はよかったとかそんな話じゃないんですよ。自分が「ちょっとなあ」と思う現状は、だれかにとっては所与の環境であり、そしてその環境からしか出てこない新しいものというのがあって、自分にとってはそれを見るのが最大の娯楽だったりするので。新しいものはたいていおもしろいじゃないですか。
ただまー、書き手としては「テーマを見出しにくい」時代にはなったとは思いますね。いや、自分なんも書いてないですけど。「俺が死ぬほど考えているこのことについて、不特定のだれかが、同じだけの熱量で理解してくれて、そのうえで別の道を示してくれ」みたいな願いは、とてもかなえづらい時代になったなーとは思う。一人で考えるのは、わりと孤独で、しかも効率がよくない。
まあ自分も読み手としては、んなこと知ったこっちゃないんですけどね。今季も大量のアニメあるし。
でも、ひとたびテキストエディタを立ち上げたときに、ひょっとしたらそこには、空に向かって鉄砲放つような、一抹のさびしさがあるんじゃないか、そんなことを想像したりもします。
モバイルアプリの実装と言えば主力はKotlin、Swift(Objective-C)だけど、簡単な作りであればcordovaをベースにフロントエンド開発ライクに進められる。
そもそものライブラリ選定には関わっていなかったものの、便利と思って使った結果後悔した思い出のお話。
Angular, Vueで実装していたけどレンダリング系に属するイベント盛りだくさんの場合、
結果的にネイティブ実装したほうが楽だしレンダリングの面で有利。
そもそもcordovaだからと言ってネイティブの知識がいらないわけじゃない。
標準サポートしているプラグイン群でできることは限られてくるし、そのまま突き進むならネイティブ実装の知識は必要になる。
これは当たり前だけど…
JSのパッケージングだったりCSSビルドが組めないとなると逆にコスト高。
そもそもNode.jsのビルドを根本的に理解してない奴がプロジェクトを作ったせいで
JSのパッケージビルドもされない、jQueryを突っ込まれるなどひと悶着あった。
3年前くらいだったけど既にTypeScriptも出てたし、何故そうしなかったのか理解できない。
結果ロードが激重になった。そりゃそうだ、minifiedされてないのだから。
用法用量を正しく守って使わないと、後で面倒になる好例だった。
大概は専用プラットフォーム上でビルドしていくがこれがくせ者。
ブラウザIDE(という名のただのテキストエディタ)が使えるけどそもそも構成管理できない。
ローカルビルドと乖離するし、ブランチすら切れないのだから本人以外は触れないシロモノになってくる。
別端末でビルドしようとすると同名の新しいプロジェクトが作成される。
ここまでくるともう触りたくなくなる。ただ、触らないわけにはいかないので何とか整合が取れる状況にした。
さらに言えば、ビルドが終わってステータスが見れるが、内訳が見れるのはそのタイミングだけ。
多分、海外で公開したプラットフォームをそのまま持ってきてるんだと推測しているが流石にこれは悪意しか感じない。
ただのCLIをバックグラウンドで実行するだけのGUIラッパーと化している。
かといってlintを掛けてくれるわけでも無し。
個人的に要らないし今後は使わない。
突き当たったのはWebSocketを使うシーンが出てきたとき。
ライブラリで何とかする方向で進めたかったけどそもそもwebpackビルドにすら対応していなかった。
件のAngularベースの場合はもっとひどくてクソラッパーを作りやがったせいで依存度が激高になった。
ちなみにネイティブはそれぞれにサポートするライブラリが出ていて、最新バージョンに向けてきちんとメンテナンスされている。
根本的にiOS側の実装でレスポンシブ的なレイアウトが作りにくい現状を鑑みて、
WEBベースで新商品などの通知をしたい、残りは情報の閲覧のみでSPA構成的なシロモノで作りたい。
こんな需要には使ってもいいんじゃないかと思う。相当なレアケースだけれども。
いいところは確かにあって、CSSでデザインの調整が効くところは大いに評価できる。
これがまたネイティブ実装だと面倒。特にiOS。お前はダメだ。
結局進めていくとネイティブ実装の知識を求められるのだから、ネイティブで実装したほうが良くね?と言ったところ。
ユースケース的に超単純要件でアプリを作りたい、かつ、ユーザに何かpush通知的なやつを入れたいって場合は使ってもいい気がする。
また、心を盗まれた。
言うまでもなく、ペルソナ5THE ROYALのことだ。
発売日が決定してすぐに有給を取得し、万全の体制で臨み、5連休が終わる直前にクリアした。(クリアできたのは八十稲羽の大神の力による所が大きかった)
あまりにも、あまりにも素晴らしかったので、2周目に突入する前に、作中の「怪盗信者」である三島のように、テキストエディタを立ち上げ、「僕らの光」を何度も流しながら、支離滅裂でキモいテキストを書き散らしている
ペルソナシリーズの存在を名前だけは知っていたが、普段ゲームなぞ殆どしない自分は、2016年の秋、8年ぶりに同シリーズの最新ナンバリングタイトルが出るという素晴らしいニュースがあったことすら露知らず、どうしてもやりたかったうたわれるもの二人の白皇の為に、PS4を購入して(こちらも言うまでもないほどのADVの大傑作だ)プレイし、Suaraが歌う、ボーカル付のシーンで涙を流していた。
それ以外やりたいソフトも無く、当時大学生で暇を持て余していた自分は、近場の家電量販店に行き、たまたま見つけた赤と黒のソフトを手に取っていた。
それがペルソナ5との、ひいてはペルソナシリーズの出会いだった。その世界にあまりにハマってしまったせいで、ペルソナ5を通算500時間ほどプレイした。そしてペルソナ3で命の答えにたどり着き、ペルソナ4ザ・ゴールデンで霧を晴らし真実を見つけ出した。それでも飽き足らず(無印と2はまだやっていないにわかにではあるが)アニメを見て映画を見て、アリーナで闘い、ダンスを踊った。
ペルソナ5は現実世界と認知世界(というもう一つの現実との)と東京という「現実」にある世界の3要素が絶妙にリンクしていて、ある意味残酷とすら思えるほどの没入感を与えることに成功している。
教室で自分の目の前に座っている杏、竜司とともに食べた荻窪のラーメン、真と共に闘ったパレス、双葉と共に食べたカレー、春と飲んだコーヒー…一緒に眠ったモルガナ…「痛み」を共有した仲間たちとの楽しくどこかくすぐったいような日々だけではない。無気力な大衆、どこにでもいそうなパレスの主たちまで、確かに存在する。
そして、プレイを終えたあと、自分は確かに怪盗団であったこと、しかしこの世界には怪盗団がいないということを実感せずにはいられない。
ペルソナ5の物語は、当事者になってしまった鴨志田事件から、真加入の前半は勧善懲悪的な物語であり、中盤は、大衆の期待に煽られていき、「人一倍許せないこと」があり、それを貫いていく、という怪盗団のポリシーがブレはじめ、絶頂と凋落を味わう。
終盤はその大衆の集合的無意識を切り口として、人々の世界のどこにでもありふれている閉塞と怠惰の中で、それでも人間には前進していく・立ち向かっていく意志と希望があり、(矛盾しているが)それらを自ら選択していくエンドである。
「人間の希望を集めて作られた」モルガナが「人間には、世界を変える力がある。今はそれをほんの少し忘れてしまっているだけ」という台詞であらわされるように、作中には「意志と選択」がありふれている。
その最たるものとして、主人公は獅童の事件の証言者として、警察に出頭し、少年院に入ってしまうことになるわけだが、「痛み」を共有した仲間たちが主人公の冤罪を証明する。
作品の答えが、そして作品のテーマであった「真なる更生」が果たされる。彼らの「意志」はわれわれの現実にも還元され、ありふれた怠惰と閉塞の世界で、「ほんの少し」忘れていた希望と意思を思い出す。
さて、ペルソナ5 THE ROYALでは、そんな「意志と選択」の物語であったペルソナ5から、今回の「ROYAL」な3学期では、異なるシチュエーションで「意志と選択」の物語が繰り広げられることになる
パーフェクトであった物語に、一学期から当然のように追加される新しい登場人物たち。
言うまでもなく、芳澤すみれと丸喜拓人のことだ。ネタバレになってしまうが、二人には共通点がある、「大切な人」を失ったという「痛み」を持っている点だ。丸喜拓人は恋人を、芳澤すみれは、姉であった「芳澤かすみ」と自分自身「芳澤すみれ」である。丸喜は恋人であった留美の家族が殺されたショックで、留美が廃人になる。
芳澤すみれは、世界を獲ると共に誓った姉を、自らの不注意で事故に遭わせてしまい、失う。
丸喜は「彼女を救いたい」という「願い」をもって、ペルソナを覚醒させ、留美を救った代償に、留美は丸喜のことを忘れる。
すみれは「かすみになりたい」という「願い」を持ち、それを丸喜が認知を「曲解」させることで、すみれは自身を「かすみ」と認識して生きていく。その代償にすみれはすみれ自身を失う。
3学期に解禁されるすみれコープにおいて、芳澤すみれは「かすみ」のように凛々とした少女ではなく、いつも姉の背中を追いかけている内気な少女として描かれる。
かすみの影から自ら脱却し自分の意志で歩み始める。彼女のコープで、下していた髪を再度括るシーンは、かすみの持っていた強い目が、すみれの中に宿っていた。
すみれの強さと脆さ、そして主人公や丸喜にすがってしまう点は「怪盗団」の女性にはない、どこかギャルゲーチックなトラウマの向き合い方で大変好みだっただけに、もう少し長く仲間として使いたかったという本音もある。
話しを怪盗団に戻そう。怪盗団が無意識にも願っていた願いが叶えられた世界。「幸福な幻想」の中にいる怪盗団は、自分たちが「現実にいない」ということにすら気が付かない。彼らが無意識にも願っていた願いが変えられた世界。モルガナは人間になり、竜司は陸上を続け、杏は志穂と共に過ごす。真や春には父がいて、双葉には母もいる。かすみはかすみとして、凛々とそこにいる。ただ、主人公だけであるジョーカーは違うかのように描かれる。現実が、現実ではない感覚。彼は同じようにここが現実ではないと気がついていた明智、そしてパレスを見つけていた芳澤と協力して、元の世界へ戻ろうと調査を始める。
パレスを発見したのち、戦力を増やすためにもまず、ジョーカーは一人一人一味を説得していくわけだが、改めてジョーカーの精神的な意志の強さには驚嘆する。彼は問いかける「これで本当に幸せか?」自ら痛みを乗り越え、選ばなければ意味がなかったんじゃないのか?
仲間たちは気がつく。竜司の言葉でいうなら「あいつの言葉が正しいと思ったからなのかも」
その瞬間、幻想は打ち砕かれる。
丸喜は「みんなが幸せに暮らす」世界を作りだすことによって全てを救おうとする。そのことに気がついた時、怪盗団は今まで考えていなかった、改心することの是非を問われる。という問いにぶつかる。しかし!目を覚ました怪盗団の答えは自明である。「幸福」よりも「意志と選択」を尊ぶのだ。例え、その現実が幸福なものでなかったとしても。
丸喜は叫ぶ「僕は君たちも救いたいんだ」そして、共闘している明智という存在が「ジョーカーがもう一度闘いたい」という願いに丸喜が応えたことによって生まれた存在だということを明す。そして、明智は自らの存在のことを知りながらも、主人公に、自らの「意志」を貫くよう勧める。明智らしい、突き放すような言い方で。
その時、私はそうか、と少し嬉しくと思う。ジョーカーにも、きちんと願いがあり、後悔があったのかと。あまりにも強靭な精神を持っているので忘れていた。私ははじめてジョーカーが真なる意味で「我々の仮面」になったような実感を得た。
そこから先はもう言うまでもなく、「歪んだ善意」と「まっすぐな意志」との対決である。本来怪盗団に改心することの是非や葛藤など必要ではない。大義名分を気にしてるようでは怪盗団なんかやってないからだ。確かに今回の丸喜は根っからの悪人ではないし、どこか衛宮士郎を彷彿とさせるような一種の正義の味方だと思う。それでも、怪盗団にとっては悪人なのだ、自分の力でまだ見ぬ未来を切り開いていく障害になるものは。
ラストバトルで、ジョーカーは仮面を外し、丸喜といかにも陰キャな殴り合いを行う。少し狙いすぎるきらいはあるが、その青臭さと眩しさを再度確認できただけでも、ペルソナ5THE ROYALは最高の物語であったと私は言える。
エンディングムービにおいて、丸喜はタクシー運転手として主人公を駅まで載せていくシーンがあり「大人になってから失敗しても、もう一度やり直せる。それが僕の復讐かな」(大意)丸喜も見事に未来をつかむことが出来たのだと思い、うれしくなる。
見送りの際にかすみが現れないのも、怪盗団の見送りがやけにあっさりしている所も、自らの「意志」によって、自分だけの道を歩みはじめたことの証左だろう。新幹線のホームで、「前を向いて歩けよ」という声がする。前を向くと、強い目をした「すみれ」がいる。「それでは」という挨拶だけを交わして、二人はすれ違っていく。前を向いて進む、だが、二人は同じ方向を向いていない。なんと素晴らしい別れ方だろうか。
かすみと、怪盗団と、もう一度会いたいと思わずにいられない。もう一度、ありふれた閉塞と怠惰から、未来を切り開くために。そして別れをする為に。その為に何度もペルソナ5THE ROYALを周回し、そのたびに、自分自身の心の中に怪盗団があることを確認するだろう。