はてなキーワード: 民俗とは
おお、岡本太郎批判にそのまま使えそうだ。本来は万博会場全体の予算であったものを太陽の塔ひとつに使ってしまい、途中で発覚し慌てて止めようとしたが時すでに遅し。あの塔が完成した
[B! 万博] サクッと調べたので間違えてるかもしれんが 万博会場の建ぺい率は70%な..
上記コメントは 太陽の塔内部の展示資料とパンフレットを読んだ私の記憶をもとに書いたのですが、改めて調べたところ
の間違いだと思います。いい加減なことを書いて申し訳ありません。ブコメも修正しておきます。
ただ太陽の塔建設は当時大変揉めていたこと、岡本太郎が勝手に暴走したことは事実のようです。
以下、参考になりそうなページをまとめておきます
会場計画プロデューサーの丹下健三氏と岡本太郎の取っ組み合いの喧嘩がさまざまな記事で言及されています。
中でも堺屋太一氏による「地上最大の行事 万博博覧会」は当事者による記述として興味深いので引用します
計画が出されたとき、万国博開催期間は梅雨の時期も含まれるため、人を集めるには「屋根」が必要だという意見が出た。しかし、これほど巨大な建造物の屋根をどのように作るのか、技術的な解決策は見えてこない。建設省や通産省からは安全性を危惧し、縮小変更を訴える声が強かった。
(中略: ここから大屋根建設の苦労が語られますが省略します)
お祭り広場の建築が軌道に乗り始めたと思った矢先のことだった。展示プロデューサーの岡本太郎氏が、お祭り広場の大屋根の真ん前に、塔をつくると言い出した。これが、かの「太陽の塔」である。
「すでにシンボルタワーは菊竹清訓氏が設計しています。あなたは展示プロデューサーなのだから、展示に集中してください」
菊竹氏が設計した蜂の巣状のシンボルタワーは、会場の南端に建てる予定で計画が進んでいた。しかし岡本氏は一歩も引かない。
「万国博の展示の中心には、一眼でわかるような造形が必要です。一番目立つ展示を私は考えました」と言ってスケッチブック4冊ほどを取り出した。そこには「太陽の塔」のスケッチが200枚くらい描かれていた。(中略)岡本氏の熱弁を聞いたところで、もちろん丹下氏は納得しない。丹下氏の口調は次第に厳しくなり、
「お前にそんなものを造る権利はない」「造るとしても、目立つところにあるのは許さない」
どうしても造るなら、お祭り広場の屋根の設計を変更して、太陽の塔を屋根で囲って見えないようにする、とまで丹下氏は言った。
すると岡本太郎氏は烈火の如く怒り、関係者のいる前で2人は取っ組み合いの喧嘩を始めた。互いの弟子たちは喧嘩を止めるどころか加勢し、手のつけられない状態になった。慌てた私はいったん通産省が引き取りますと2人を制したが、「引き取るとはどういうことだ」と、今度は私が2人に罵倒される始末だった。結局、大屋根の中央に大きな丸い穴をあけて「太陽の塔」を突き抜けさせるという妥協案に落ち着くまでに1ヶ月かかった。
(「地上最大の行事 堺屋太一 万博博覧会」 p269~p280)
このように「太陽の塔」はもともとシンボルタワーとして造られたものではなかったが、結果的に二つのタワーが万国博に登場した。岡本太郎氏は「自分の太陽の塔と、菊竹氏のタワー、どちらが真のシンボルタワーかは大衆の審査に委ねるべきだ」という考えを示した。と同時に「自分には自信がある」ということを盛んに表明した。この勝負、岡本太郎氏に軍配が上がったことは歴史が証明している
なお、著者である界屋太一氏は通商産業(現経済産業)省の方であること、出版が2018年であることは注意が必要です。
まるで仲介役をしていたような書き方ですが、以下の小松左京氏の著書によれば通産省も強固に反対していたようです。
当初の見解とは大きく異なり太陽の塔が歴史的シンボルになってしまったせいで不都合なことはみんなちょっとずつ伏せている感じはありますね。
予算といえば、あの「エキスポの顔」といわれた高さ六十メートルの名物「太陽の塔」があやうく消えかかったことがある。テーマ展示の、総予算は前にもいったように建設費こみのあち見つもりで三十億は必要だと、岡本氏のスタッフははじき出していた。(この金額で理事会で説明する時、岡本氏はテーマ展示には「最低三十万円」必要だ、とやってしまった。石坂会長の「明治四十五年の万国博」とともに万国博の二大迷言とされている)
大蔵省筋はこの規模を内々に承認していたが、監督官庁の通産側は、あまり正面に大きなものを建てられると、ホストカントリーの日本政府館が目だたなくなる、という理由で強硬に反対した、テーマ展示の稔予算はせいぜい三、四億でいい、というのだ。モントリオールのテーマ予算百億と大変なひらきだ。そんな予算ではとてもテーマ展示はできないとプロデューサー側がいうと、もともとテーマなんてものは万風博にはいらないものだ、とまで極言した。
(中略)
予算の三倍にふくれ上った見つもりをむりやり削るのは大変な作業だった。業者サイドと一項目ずつ検討し、全体の仕様をかえ、やっと予算の倍ぐらいまで削った。だがそれをさらに半分にするのは、背筋の寒くなるような作業だった。
場合によっては、石を一つころがしておいても、これが「根源の世界」だとひらきなおってみせると豪語していたものの、当初のイメージが、はなはだしく萎縮してしまうのはさけられなかった。それに私は平野氏と話しあって、第三スペース「心の世界」に展示する、海外民俗資料収集のための、予算六千万円は、最初からおさえて、絶対手をつけないことにしていた。一・五倍にまできりつめる時、展示構想を基本からやりかえなければならないところにまできた。
テーマ展示に関わった小松左京氏が予算で苦労する様子が書かれています。現在の国立民族学博物館は小松左京氏と平野氏が守ったのですね。知りませんでした。
(id:ryotarox さんありがとう!)
id:tapi423 さん、こちらこそどうもありがとう。
そのへんの民俗資料館で無造作に置かれてる資料を捨てる話について
どこの郷土資料館に行っても置いてあって、個人的にもあんまり見分けつかないので
農機具なんか自分の家で置いとくのが邪魔になって押し付けたんだろぐらいの気分になるのはわからないではないのだが
(自分は江戸や明治まではじっくり見ても昭和のコーナーは早歩きですっとばす)
それはだいぶ贅沢な話で、歴史資料に乏しい国は自国の存在証明のために必死で証拠をかき集めてるんだよな
なにか見つけては旧約聖書に書かれたのはこの遺跡だと主張するのに余念がないし
それにくらべると日本の自称保守は甘いというかユルいというか危機意識に欠けるというか
たとえば維新系みたいのが対馬で勢力を得て郷土資料を処分した日には
それこそ対馬は半島系の人たちの文化圏だったのだ、みたいな主張に反論するための証拠(日本文化圏の民俗が継続的に存在していた)を失うわけだが、
グローバルな人的移動が当り前の昨今、本州内陸だって今から100年もしたら「1000年前からここはXX民族の土地」みたいな話は出てくるだろうになあ
俺もだいぶ年齢を経て保守的な態度になったので、YASUKEはすごい侍大将だったのだ、みたいなのは
そこに文句を言えるのはYASUKE以外の同時代の日本人についての記述や資料がそこそこ残ってる
(信長配下の武将たちの名前や事績が直接間接の証拠を積み上げてきちんと記載されてきていて、それら数十名数百名の名前に比してYASUKEの資料はないので比較的な意味で可能性は極めて薄いと主張できる)から言えることで、
それすら、まだまだ調べきれてない資料はいくらでもあるのに、今、日本各地で中身も見ずにシュレッダーにかけられたら
”SAMURAI COMMANDER YASUKE"にも反論できなくなっていくのだなと思うと、残念
現在ある様々な資料の全部の保存ができるとは思わないし、今を生きてくのに過去だけ見ててもしかたない(歴クラみたいな態度で歴史でキャッキャするのは嫌)のだが、せめて自分たちが手慰みに弄ぶ日本スゴイなるものの拠って立つ根拠がどこにあるかぐらいは意識しておいて欲しいよな…
「地下のナマズが暴れると地震が起きる」説はいつごろ廃れたのか、について調べていた
おおよその流れは掴めてきたので一旦ここにまとめる
結論から言うと、明治元年(1868年)ごろから急速に地震鯰信仰は失われたと思われる
オランダの辞典をもとに、地震がなぜ起きるかを科学的に説明した内容を翻訳した
鯰絵が大流行した
しかし「鯰絵が流行した=民衆は地震の原因を鯰だと信じていた」と等号で結んでいいのか?という点はちょっと怪しいと思っているのだが……
というのも江戸時代末期の時点で、江戸の町民はお化けや妖怪の実在をどうやらあまり信じていなかったように資料を見ていると思えてくる
お化けや妖怪の実在を信じない人が地下の大鯰を信じるというのは不自然に思える……という感覚は21世紀に生きる人間の感覚だろうか
『泰西地震説』は学者が読むような専門書で、一般民衆にはあまり読まれなかったのだろうか?
江戸時代にもいくらかは民衆が読むような蘭学書が流通していたようなのだが、地震の原因を科学的に解説するようなものはなかったのだろうか?
当時は陰陽五行思想を信じる人が多かったはずなのだが、この思想では地震をどのように説明している?
鯰絵について語られた本でKindleで買えるものが無いため、追加調査は図書館か本屋で資料を入手してからになる
小幡篤次郎、後の慶應義塾長、『学問のすゝめ』を福澤諭吉と共著した人物
地震の原理について、『泰西地震説』で解説された内容とだいたい同じ説明がされている
こういう本をわざわざ出版する必要があったということは、これに書かれた知識は当時広く知られていなかった……とみることができるか
西欧に追いつこうという強い意欲が見える気がする
明治初期の就学率は今と比べると低くはあるが、この本によって一部の若者に対して啓蒙が行われた
これによって明治に生きた若者は地震鯰を迷信と見なすようになったのであろう
「私の父は地震鯰のような俗説を信じていてやれやれだ」みたいな記述がこの時代にもし存在すれば嬉しいのだが……
また、教科書ではなく大人が読むような啓蒙本はどのようなものがあったのだろうか?
民俗学方面からばかり攻めていたが、明治維新に関する読み物を探すのもありか?
M5.5程度で揺れはそこまで大きくなかったようだ
この地震を体験したジョン・ミルンというイギリス人が地震研究に関心を持ち日本地震学会を創設した
濃尾地震
科学者が地震調査のため派遣された、のような記事が新聞に載っている
ただ「鯰絵が描かれた=民衆が地震の原因を鯰だと信じていた」にはならないだろう
『江花叢書』第1巻
当時のエッセイ的な読み物
関東大震災に対する四方山話からの流れで「地震と大鯰」という題が名付けられた項がある
一部引用する
鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。大地の下には大鯰が生棲して、平生は辛抱強くじつとして動かぬけれども、どうかした拍子に其の尾鰭を動かすと大地が震動するのであると云ふので、我邦では正直に之れを信じ、
「正直に之れを信じ」という表現から、今は信じる人はいないというニュアンスを読み取る
「おじいちゃんが子どもの頃は地震の原因は鯰だと思っていてね」と語る人がいてもおかしくない年数だ
科学とか西欧合理主義が流行った結果、地震鯰信仰のような俗説が廃れたんだろうなあ
ひと段落したら明治大正を生き延びた俗説で何か面白いものがないか調べてみたい
先に読んだ方が民俗学的視点が備わって調査の全体の見通しがたつかもしれない
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明治時代より前の時期の日本において、「なぜ地震は起きるのか?」のような原理の解明を目指した学者がどうにも見つからない
あるいは調べ方が悪いのか……
幕末の日本人は地震ナマズを信じていなかった、ではいつ頃まで信じられていたのか?
もしそうだとすると「地震の原因がナマズというのは俗説だ。本当はこのようなメカニズムだ」という探求が行われていてもいいではないか
見つけることができない以上、ナマズ説を信じていたのかもしれないと消極的にだが認識せざるをえない
儒教においては「陰だか陽だかの気が地面から噴き出る時に地面が揺れる」のような説明がされているらしい
日本の儒学者はそれを信じていた?だとすると江戸の民衆のその説をどの程度認知していた?
あるいは「ナマズが原因ってことはないだろうけど、本当の原因が何かと聞かれると分からんなあ。詳しいことは学者先生に聞いてくれ」というスタンスが大多数か
日本人の宇宙観を調べた時にも思ったが、当時の天文方は観測と暦の作成にばかり注力していて「なぜ?」という問いを立てない
調べることだらけだ、学生の頃に日本史や世界史を選択しておけばよかった
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また、火山、雷雨、地震の3つセットを司る龍神がいるという信仰もある
ナマズが俗説ってそういうこと?
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しかし本来は本業に関する勉強をして給料を増やす努力をすべきなのだろうが、仕事と関係ない本ばかり買って読んでしまう
悲しいね
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トラバやブコメにあまり反応しないようにしているのだが(そこそこの確率で不毛なので)、今回は必要を感じた
鯰絵はアマビエブームと近いものを感じるという意見には強く同感
ただ、いろんな本や資料に「昔の日本人は本気で地下にいるナマズが地震の原因だと信じていました」と書かれているんだよな……
これに強い疑いを抱く
しかし、アマチュアの私が思いつくようなことをプロの研究家が思いついていないわけがない……
なにか根拠があるはずと信じる
清書の予定は……調査がひと段落したときにあるいはありえるかもしれない
追加調査は資料入手待ちとか頓挫とか色々な理由でできていないことが多い
追加調査の結果を追記しようとすると買った本の内容丸写しみたいになりかねず、倫理的にどうなの?という気分を拭えず自分の中だけで調べた結果を味わうこともそこそこある
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先行研究
神や仏に敬虔に祈りを捧げない一方で迷信深い、この点は現代日本と地続きに感じる
この庶民の信仰の深部に最も接近した欧米人は、明治に来日したアメリカの女性教育者、アリス・ベーコンであろう。彼女は「村を見おろしている岩の頂上は天狗が作った」。「天狗はもうこの森から去って今はいない」。さきほど「山の神様の使いである大きな黒蛇が、いましがた、ここを通った」と説明する陽気な老女に接し、「神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど」、「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を私たちの心に湧きあがらせてくれた」と表した。
考えてみれば迷信深いお婆さんは昔は迷信深い若き女性だったかもしれないわけで、幕末だとその考えがスタンダードだった可能性があるわけだ
この引用箇所は別の文献からの孫引きになるのでこういうことするのは本当はよくないのだが……
該当箇所は『逝きし世の面影』という本からの引用……kindleあるじゃないか、買います
これを書いた渡辺京二という方の著作はすべて読んでもいいかもしれない
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現代を生きる信心深いキリスト教徒にとって「神は実在する」と「妖精/人魚/ドラゴンは実在しない」の考えは矛盾なく両立するのではないか
(「実在」という言葉の定義をしっかり言語化しないととまずい気配を感じる……)
同様に幕末の江戸町民にとっても「神/仏/龍神/大鯰は実在する」と「妖怪/お化けは実在しない」の考えは矛盾なく両立する可能性がある
ChatGPTに聞いてみた
岩手県:
名産品: 三陸海岸の鮮魚や漁業関連の加工品、南部鉄器、盛岡冷麺、わんこそば、ぼっけもん(りんごやブルーベリーの加工品)
観光名所: 盛岡城跡、八幡平、奥州市・中尊寺、三陸海岸、平泉・中尊寺、花巻温泉郷、釜石市・気仙沼市の復興支援の取り組みや被災地の復興施設
山形県:
名産品: 山形牛、さくらんぼ、米沢牛、花笠、さやえんどう、もずく、天童木工家具
観光名所: 山寺(山形市蔵王町)、山形城、銀山温泉、米沢市の歴史的建造物や武家屋敷、さくらんぼ狩り、米沢市の山形牛の牧場、出羽三山(湯殿山、月山、鳥海山)
山梨県:
名産品: 富士吉田や河口湖の富士宮やきそば、ほうとう、富士山麓のワインやフルーツ、甲州ワイン、富士山麓の果物加工品
観光名所: 富士山(世界文化遺産)、富士五湖(河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、湖尻)、忍野八海、河口湖湖畔の遊覧船、富士吉田市の富士山本宮浅間大社、身延山久遠寺、勝沼町のワイナリー
岐阜県:
名産品: 飛騨牛、郡上八幡のお祭りである「郡上おどり」の関連商品、美濃和紙、岐阜市の味噌カツ、飛騨の木工品、関ケ原町の薬膳茶
観光名所: 白川郷(世界文化遺産)、飛騨古川、高山市の古い町並み、岐阜城、岐阜市の長良川鵜飼、関ケ原町の関ケ原の合戦の古戦場、飛騨高山の春と
(途中で切れる)
秋の祭り、飛騨の里の民俗村、高山市の朝市、白川郷の合掌造り集落、高山市の神社仏閣など。
福井県:
名産品: 越前ガニ(ズワイガニ)、越前漆器、福井市の水引細工、福井県産の越前和紙、越前そば、若狭の鮮魚や加工品、越前焼
観光名所: 水の森越前、越前岬、一乗谷朝倉氏遺跡、敦賀市の鯖街道の町並み、恐竜博物館、永平寺、三国花火大会、越前加賀温泉郷
岡山県:
名産品: 備前焼、岡山県産の桃やぶどう、讃岐うどん、岡山産の和牛、牛肉の加工品、岡山県産のマスカット、岡山県産のミカン、岡山県産の洋酒
観光名所: 倉敷市の美観地区(重要伝統的建造物群保存地区)、岡山城、後楽園、牛窓町の町並み、吉備津神社、玉野市の瀬戸内海国立公園、岡山湾の海釣り、赤磐市の赤磐龍神社
徳島県:
名産品: 阿波踊りの関連商品、鳴門金時(さつまいも)、徳島ラーメン、阿波和牛、徳島県産の柑橘類、鳴門のうずしお、阿波じゅんさい
観光名所: 鳴門の渦潮、阿波踊り会館、徳島城、大塚国際美術館、徳島市の文化財や歴史的建造物、祖谷渓、鳴門市の大麻比古神社、板野郡の城下町風景など。
前回、虹とヘビとウナギの話を書いた(anond:20221107182649)が、その際『蛇の宇宙誌』(東京美術)を読み返していたところ、意図せずして漫画『鬼滅の刃』に関連しそうな小ネタを見つけてしまったので、ここで書き留めておくことにした。なお、漫画『鬼滅の刃』のラストに触れているので、未読でネタバレが嫌だと言う人は、この文章を読むのはここで止めにして、まず漫画『鬼滅の刃』を読み終えてからにした方が良い。
どのページを開いても面白い名著『蛇の宇宙誌』であるが、その第4章は、ズバリ「栗花落左衛門(つゆざえもん)の蛇性―日本の水神としての蛇信仰―」と題されている。余計なことを書くのは止めにして、この章の冒頭から引用する。
「栗花落」と書いてツユと読む。栗の花の落ちるころが、ちょうど梅雨の時期になる。それでこの当て字がある。後の兵庫県の武庫郡山田村の原野(神戸市兵庫区山田町原野)、昔の摂津国矢田部郡の丹生山田庄原野村の栗花落(つゆ)理左衛門の屋敷に「梅雨井(つゆい)」と呼ばれる井戸があった。昭和七年ごろまでは、原野には、壊れかけた白滝明神の社祠と、白滝姫の墓という墓石が残っていたそうである。栗花落(つゆ)の井戸は社の前にあった。いつもは水が干からびているが、栗の花が落ちる五月ごろには、こんこんと水が湧き、附近八町歩の水田をうるおすと伝えていた。
(中略)
岡田ケイ(注:彳に奚)志の『摂陽群談』(一七〇一年刊)巻八には、この「梅雨井」のことがくわしく見えている。(中略)地主の姓もツユといい、世間では栗花落左衛門(つゆざえもん)と称したとある。
この不思議な井戸について、栗花落家には伝えがある。始祖の山田左衛門尉真勝は、淳仁天皇(四十七代)の時代に、朝廷に仕えていた。そのとき真勝は、横荻右大臣豊成の息女、白滝姫に恋をする。姫と歌の贈答があって、真勝の真心を知った姫は、その妻になる。やがて姫は亡くなるが、それが五月であった。屋敷の東の境に葬り、叢祠を建てて弁財天をまつった。そこから水が湧き、今に至るまで、その水が梅雨を知らせるという。この弁財天社が白滝明神であろう。
島根県の出雲地方とその周辺には、栗花落左衛門と同名のツユザエモンと呼ばれる蛇の伝えがある。ふだんは岩肌の割れ目などに姿を隠している蛇が、梅雨の期間中には、かならず胴体を現わすという。分布は、出雲から、備後の比婆郡、双三郡、石見の安濃郡、邑智郡一帯と、広島県北部から島根県西部に及んでいる。斐伊川沿いの地方では、これをツユジンと呼んでいる。ツユ神(じん)と解釈しているが、出雲の能義郡ではツユザイと称しているから、ツユジンもツユザエモンからの転訛であろう。
(中略)
蛇はしばしば水の神の姿である。梅雨期に蛇の挙動に注意したのは、稲田を耕作する農民にとって、水の恵みが一番気になる季節だからであろう。(中略)ツユザエモンが梅雨の時期を示すという観念は、水と蛇の違いはあるが、摂津の栗花落左衛門とまったく同じである。
(後略)
―引用ここまで―
引用したとおり、本来の『栗花落』の読みは「ツユ」であって「ツユリ」ではないと考えられる。しかし、摂津の梅雨井があった屋敷の所有者の名前が「栗花落理左衛門(つゆ・りざえもん?)」なのである。これは私の個人的な推測でしかないのだが、竈門炭治郎の彼女・栗花落カナヲの姓を「ツユリ」と読ませる設定にしたのは、作者・吾峠呼世晴による元ネタの示唆なのではないだろうか。
そして、鬼殺隊が鬼舞辻無惨を倒した後日談で、伊黒小芭内の遺した愛蛇・鏑丸(かぶらまる)を、栗花落カナヲが受け継ぐ流れになっているのも、水神・雨神である蛇神をツユザエモンと称する歴史的・民俗的事例と関係しているのではないだろうか。
最終的には日の呼吸を使うようになったとはいえ、竈門炭治郎は水の呼吸を使っていたのだから、その彼女である栗花落カナヲが、水神と縁の深い蛇(それも白蛇!)を受け継ぐのは似合っていると思える。
『北斗の拳』が大ヒットした当時、学校の見学旅行でプラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座・北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。
『北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特に、プラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的な正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
この北斗七星の柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士の視力を検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧の星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニアや古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者の意見を知りたいものである。
死兆星の元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗的名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称を個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女の天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家・野尻抱影(SF作家・野尻抱介のペンネームの元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。
この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それから遠からず一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである。海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。
つまり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。
これ以外に、北斗七星が人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国は東晋の時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。
原典の漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である。
「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士の言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。
方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。
二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。
家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。
『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗から生まれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗に祈りを捧げねばならないのである』と」
現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。
天空の天体、太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間の運命その他の動向が、星など天空の現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。
しかし、私が『捜神記』の物語を面白いと思うのは、最終的に北斗七星と南斗六星のように夜空で目立つ星座が重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別に対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である。
古代ギリシアには、現代の民主主義政治の源流があったけれども、無名の市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話の登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語のユニークさを分かってもらえることと思う。
北斗七星・おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものだから、古今東西の人類の記録に残されている。金星・火星・木星などの惑星もそうである。太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置に存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名も位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである。科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである。現代の文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから。現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。
こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆も確認しようが無く、比較的簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象が現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。
ただし、庶民が自分個人の運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分の意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである。王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである。自分の人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的な思索の出発点となる。
この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか。将棋やチェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯の起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間の運命を変えようと働き掛けるような、呪術的儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。
もっとも、これはあくまでも個人の勝手な空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。
それに、南斗と北斗の囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問的専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである。
農夫が酒と干し肉を提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。
見たくないんだが同居人が週間として朝飯時刻に時計代わりにつけているので見てしまっている…その場にいる全員でツッコミ入れながらだけど。
もうツッコむ気力も失せた。
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沖縄とは何度か観光した以上の縁がなく民俗研究とかしてない身だけど、沖縄文化はご先祖様を大事にしてお盆は盛大にやる、くらいは知っている。こちらでいうお盆はウークイといい、旧盆の時期にやるのだそうだ。古来より盆暮正月は帰省が許されるんだから、お母ちゃんの再婚の噂で「すぐ帰る!」とかトチ狂ったこと言わすんでなく、ウークイだから帰ります、でいいんじゃねーのかよ。旅費高いから数年ぶりの帰省って感じにすれば当時の沖縄との距離もだせたじゃんよ。
ウークイは盛大にやる=準備が忙しいわけで、こんな時期に「だけ」遺骨収集にいくお母ちゃんっておかしいだろ…比嘉家なんも準備してねえな?お父ちゃんのお迎えとお送りしねえの?いや、自分ちが親戚全滅してたとしても近所のお手伝いとかあるじゃん?社会から完全位孤立してんのか比嘉家。これまでの行いからして孤立してても不思議じゃねえけど。
そもそも山原(沖縄の北のほう)からガマのある南部って片道移動に半日かかるぞ…。
で、石川家の嫁、なんで実家にいんの?ここんとこ娘の姿がねえな、どこにやった?海に沈めたのか?子役のスケジュール押さえられないなら、子供出すなよ。
そもそも博夫は実家から出てアパートで暮らしてんだから、そこに合流すればいいだけなのに良子が実家にいる理由はなんだ?実家に入れば育児は歌子に丸投げできるからだろう?「この子の母親は私しかいない!」とか言ってたのは無かったことになったんだな。
だいたいそもそも、ウークイは毎年巡ってくるだろ?子供時代のお父ちゃん死んだ初盆で子供に教える体でお作法とかやって、お父ちゃんとお母ちゃんの話をちょっとして「幸せになりなさいね」ってやればよかったやんけ。そしたら視聴者もウークイの勉強になり、ストーリーもなんぼか見られるかたちに積み上がったのに。30近い兄弟が雁首揃えて、はじめてのウークイの体ではじめてお母ちゃんの昔話聞いてる体が不自然すぎる…気持ち悪…。
昔話パートでも、親戚探しにいくと言って、親戚の一人でもあるオーナーに親戚の消息を報告するでもなしにいきなり結婚して山原に住むと事後報告とか、お父ちゃんも大概だな。
そして沖縄戦の悲劇は合計30分未満の語りで終わって、ノブコとクズピコのラブシーンの踏み台にされただけだった。は?きも。海と三浦大和の歌で誤魔化しきれると思ってんのか?八百屋のあんちゃんはもう退場なのか?オーナーの、メイレイハゼッタイって要らんだろ。きも。
ただ、昔語りの2日間はノブコが「マサカヤー」「アリエン」と金切り声あげなかったから耳に優しかった。それだけは評価する。どうせなら顔映すのもなくてよかったかな。あの人声が良くねえ。あの子供っぽい喋り方はそういう演出なのか?厨房では髪を結べ、汚えな。
本土復帰50周年作品と銘打ってしまったから沖縄を使ったけど、沖縄の文化を描くでもなく、本土復帰前後のもろもろの社会運動や復帰後の混乱を描くでもなく、ただ顔の濃い方言女子におっさんの考えるカワイイムーブさせたかっただけじゃねーか感。
料理とか取ってつけた感しかないし、イタリア料理について調べもしてない。食材ぶちまけるとか焦がすとかいう寒いギャグの連発を見るに、製作陣は、食事はエネルギー補給のエサとしか思ってないんじゃないか。鶴見の居酒屋に下宿して、自転車10分の横浜寄りの小綺麗な洋食屋で修行でよかったじゃないか。
そして1970年代80年代前半の新聞記者様(エリート)は当時の鶴見なんぞには絶対に住まないので、クズピコとノブコが同じ下宿=やりまくりですね!になるんだよ。あーあ下半身の相性が良すぎてステータスと金を持ってくるはずの婚約者切っちゃった、とな。
放送開始前に思い描いたのは、沖縄を舞台にして綺麗な海や山原のモリモリの森やギンギンの太陽を背景に、地元食材を使って、戦争の傷を抱えた人々とともに食のアメリカ化に抗う沖縄料理食堂を切り盛りする物語だったのに…。なんでこんな…。
調べる途中だったがほったらかしにしたものをまとめておく。
https://en.wikipedia.org/wiki/School_uniform#/media/File:Karenko_girls_high.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=PO-Z-kBOWEU&ab_channel=trinitrojo
https://www.youtube.com/watch?v=2sQknAnyzK8&ab_channel=historycomestolife
この記事では御年百歳のオリンピックメダリスト、コーチが扱われている。
http://russian.china.org.cn/exclusive/txt/2013-04/12/content_28524100_13.htm
「北朝鮮は非政府スポーツを重視する国です。政府はすべてのユニット、すべての家族、すべての人にスポーツ活動への積極的な参加を義務付けています。工場、企業、学校の4,000を超えるスポーツチームがあらゆるレベルに存在します。運動とグループランニングも制度化されています。北朝鮮の民俗スポーツ活動は、豊かでカラフルで、長い歴史と伝統がありますが、その中で最も影響力のあるものは、長距離走、テコンドー、重量挙げ、スケートです。」
https://www.epinay-sur-seine.fr/wp-content/uploads/2019/01/l_histoire_du_sport_a_epinay.pdf