はてなキーワード: ももちとは
てけとーにかく。
平和ボケの一員として想うよ。
参加各国にプロスポーツが有る種目を競技にせず、ウチらニホンでやっとる小中学校の運動会の競技内容を採用したらイイのに。
元増田です。ブックマークがたくさんついていてびっくりです。そして、コメントありがとうございました。せっかくコメントをいただいたので、何が間違って伝わっていて、何を本当に伝えたかったのかを整理しておきたいと思います。これでも反論などあれば、是非聞きたいですね。
まず、ぺらぺら、くそ野郎などの言葉が、違和感や不快感を与えてしまったようでしたら、申し訳ありません。人目を引くために挑発的な文体を選択したまでで、文化の優劣の主張、語学能力の自慢話などを意図したものではありません。
また、英語のみで文化一般を語る事、数年の駐在経験から文化全般を理解しているなど、私の極めて限定的な経験から一般論を主張する事に関して、批判がありました。これは全くその通りで、数カ国後を操れる言語エキスパートや外国へ定住している人が、同様の主張をする事に比べれば、私の主張ははるかに納得性が低いと思います。ただ、英語の習得度合いに応じて、得られる情報の量と質が上がると共に自分の考え方や世界観が変わっていく感覚を経験したので、その事のみを根拠にして書いています。この感覚の形成要因として、駐在経験やネイティブスピーカーとの深い交流などももちろん寄与していますが、独学である程度のレベルに達した時点で感じていた事なので、主に言語の習熟の度合いと使い方から来るものと思います。
最後に多かったのが、ここが一番大事な部分なのですが、語学学習が目的である事を証明するつもりが、手段の証明になっているというコメントです。この批判は、文化理解を目的とすれば、語学学習は手段になるではないか、という事だと思います。完全に個人的な経験から来ますが、私は英語の響きが好きだとか、できると何かかっこいい、というような不純な動機で、ただ語学学習が楽しみながら続けてきた結果(英語を目的として位置づけている)、上述のブレークスルーに至りました。グローバル競争で生き残るための英語などと言われます(英語を手段として位置づけている)が、そのような大義の元に若い人たちの語学学習を奨励したり、興味の芽をつぶしたりするのは、何だかどこかの独裁国家のようで、違う気がするのです。語学学習のもたらすアートがのような強烈な世界観の広がりを踏まえれば、ただ語学学習を目的とする事に対して、大人は寛容な姿勢を持つべきではないか、というのが一番伝えたかったメッセージです。
つまり、こんな大人でなく
大人:「私くん、目的なしの英語なんて無駄だよ。いいか、世界はグローバル化して(略)」
こんな大人が増えたら良いなあというのが私の願いです。
自動車の某T社が社外の中堅社員向けに行っている研修を受けてきた。
内容はざっくり言うと、工場見学と一個流し生産方式の利点について、受講者で簡単な生産ラインを使って学ぶ実習方式。
以下感想
・工場見学
社員研修の為に、目的別に専用のスペースを常設している事に驚いた。見学者に「弊社はこれだけ社員教育に力を入れています!」という事をアピールする目的ももちろんあるだろうが、それだけでは説明できない規模だ。
社員教育用のスペースを常設することのメリットとしては、社員教育に関する有形・無形の資産をそこに集約して可視化しやすくなるという事と、その場がどの程度活用されているかによって、社員教育が活発に行われているかどうかという事も可視化できるようになるという事。その結果、たとえば「社員教育スペースが有効活用されていない」となれば、それを有効活用しようという意識が社員に生まれやすくなるだろう。
某T社に関しては色々なビジネス書が出ているが、ほとんどはその成果物の表面的な事だけを取り上げているように見える。それを生み出す環境として、こういう場がきちんと常設されているという事は、もっと注目されて良いはずだと思った。
・一個流し生産方式についての講習
「ロット流し」と、「一個流し・多品種混合生産」とで、どのように原価構成が変わってどのような長所・短所があるかという事の講習。ぶっちゃけて言えば、ロット生産方式なんかダメダメ、一個流し・多品種混合生産方式最高!っていう内容である。それに関して、そんなの、ケースバイケースで色々だろ、というツッコミは当然有りうるわけだが、今更そんなことを社外の人間に向けて講習する事の意図は何なんだろうと考えた。
ロット流しをデフォでやっているのは、いわゆる家電メーカーのほとんどである。一部の業務用の商品は1個流しもやっているが、いわゆる民生用の商品は私の知る限りロット生産方式でしか生産していない。そして、その家電メーカーは今、どこも苦境にあえいでいる。それに対して、一個流し・多品種混合生産を随分昔から当たり前にやっているT社は、きっちり利益を出せている。その事実が、研修内容の正当性を裏打ちするものとなっている訳だな。そういう図式だ。研修中に家電業界を直接的に批判するような話は無かったけれども、「ロット生産方式なんかクソ」と言わんばかりの講師の態度の根拠が、そういう現実にある事は間違いなかろう。
で、なぜ今T社がそういう研修を社外に向けてまでやるようになったのかという事だが、1つは、自動車において電装部品の比重がどんどん高まっていることや、家電大手が自動車向けに色気を出すようになった状況を見るにつけ、いつまでもロット生産方式を改める気配の無い家電業界に、しびれを切らしているという事情があるのではないか。
この問題は、なかなか根が深い。自動車が一個流し・多品種混合生産を採るに至った背景としては、商品単価が高い事、そのために顧客が慎重な品定めをし、それに対してディーラーがきめ細やかなサービスをする、という体制があった上で、色々なオプションサービスが必要になり、それを実現する手段として、一個流し・多品種混合生産が機能しているという事まで考慮しなくてはならない。
これに対して、家電はそのような販売体制を採っていない。まず工場が大雑把な数量をロット生産する。それを販売会社に押し込む事で、見かけの目標は達成する事ができるので、とにかく大量生産して販売会社に押し込む事ばかりに熱心になる。販売会社と製造工場だと、多くの場合販売会社の方が立場が弱いので、販売会社は押し込み在庫を断る事が出来ない。やむをえず販売会社は、押し込まれた在庫をさばくことに奔走する事になる。小さな個人の電気屋なんかちまちま相手にしていても埒が明かないので、大手量販店を贔屓にした対応を採る。大手量販店は、大量に仕入れた商品を薄利多売で右から左に流すばかり。
要するに、家電メーカーには、ユーザーの声を直接聞いて拾い上げるような流通の仕組みも無ければ、それに対応できる生産体制も無いのである。
「ユーザーの声を直接聞いて拾い上げるような流通の仕組み」と「それに対応できる生産体制」は、鶏と卵のような関係と言えるだろう。家電メーカーは今、その卵も鶏も無い状況下で、腐った商品を垂れ流している訳だが、どうやらその自覚すら無いらしい。これはかなり深刻に受け止めざるを得ない。
九州国立博物館の展示名が「盗作」と訴えられている件について http://mainichi.jp/select/news/20130917k0000e040212000c.html
はてぶコメントを読む限りでは、ロンドン大の教授がやり過ぎではというコメントが多い。イギリスの大学で勉強をしている身としては、何を「盗作」とするのかについて、日本とイギリスで感覚にずれがあるように感じる。
イギリスのアカデミアでは「剽窃」についてとても厳しい。これは大学教育の最初の段階でとても厳しく教えられる。レポートや論文を書く際、「他の人の文献」を引用をしたら必ず出典を明記する、というのは当然だが、「他の人の考え」を引用した場合にも必ず引用元を明記しなければならない。学会や授業の講義で得られたアイデアはもちろん、親しい友人のアイデアであっても、原則として引用元を記せ、と私の大学では教えられた。そして、自分のアイデアが盗まれないように、誰に何を話したかはメモを取っておくように、と。
今回の一件について、ロンドン大学のスクリーチ教授が所属するアジア・アフリカ研究学院(SOAS)にももちろん剽窃について決まりがあり、「他者の考えや言葉を自分のもののように表現する事は避けなければいけない」と記載されている。http://www.soas.ac.uk/languagecultures/studentinfo/plagiarism/
日本人の感覚からすると、「視覚革命」と「江戸絵画」が一緒に使われる事ぐらいあるでしょ、と思うかもしれない。しかしイギリスにいる感覚では、あまり一般的でない言葉をくっつけて(「視覚革命」なんて日常生活で使わないでしょ)、しかも本と同じような内容の展示のタイトルとして使っちゃったら、剽窃を疑われても仕方ない。
http://anond.hatelabo.jp/20130911131953
今後もしばらくは応援しつづける所存だ。
理由は3つ。
1. 箱押しが楽しい
私はれに推しである。
単純に箱押しすることも考えたが、やはりれにの素晴らしさは半端ない。れに寄りの箱推しだと明言できる。箱で推さないなんてMOTTAINAI!!
れに推しでまとめることも考えたが、かなこぉ↑の笑顔、しおりんやあーりんの可愛らしさ、そしてももかの頑張りぷりを考えると今は箱推しの方が賢明。将来的にはどうなるかわからん。
ジョギング中にウォークマンでももクロ。長距離を走り続けることができる。
ペースが落ちてきたら走れ!を聞けばいい。
車のHDDにもアルバム三枚入れてある。ドライブが最高のイベントになる。電池に不安のあるiPhoneなんていらない
3. 日々の疲れや何もかもを吹き飛ばしてくれる
しかし、動く彼女らが見たくなったらyoutubeという手がある。
ただ、現時点ではyoutubeがももクロの動画を参照するに適した手段ではないかと思われ。
私がももクロに固執する理由はこんな感じ。
で、本題。
グリーン、イエロー、ブルー、ホワイト、レッド 馬鹿じゃないか?
ブルーはあっても無くてもいい。でもそれ入れたら6色いるでしょうがっ!!
ホワイトってなんだよ。箱色か? 知らねえよ。
パープル用意しとけよっ! 誰が買うのって? 俺だよ俺。俺俺。
彼女持ちだった時期もある。
初めての彼女だったのと極端にシャイだったのとで手すらつなげず・話すらほとんどできずにすぐ振られたからまあお察しレベルだけど。
そんで旧帝に現役合格で人生バラ色(※女関係除く)って感じだったけど、大学で挫折して引きこもっちゃった。
エロゲーとかアニメとかまとめサイトとかばっかで現実逃避してた。
でも改めて考えても、スマホとかパズドラとかまとめサイトとかが普及しまくった今の時代に高校生じゃなくてほんとよかったと思う。
大学でもフリーダムな環境に対して意志の弱さで挫折したようなもんだし。
そう考えると今高校生でいろいろ頑張ってる人間が本当にすごい人間だと思うわ。
俺のときはただ環境がなかったから仕方なく部活勉強やってたというだけだった。
あればやっちゃう人間にとっては今の環境は甘すぎるネクターに浸かってるみたいで気持ちよすぎて抜け出せない。
結局今はなんとか大学ひーひー言いながら卒業して家でて底辺IT土方やりながらまったりダラダラしてる。
落ちぶれたなあと思うけど、高校生までのリア充がおかしくて本来の自分がこうだったんだって思ってのうのうとなあなあと過ごしてる。
ろくに恋愛経験がないおかげで一人に慣れてるし、気楽で気まま。
でもどうせなら、ろくな恋愛経験がないのと同じように成功経験もリア充経験もなければよかったと昔無駄に輝いてた自分を恨むことがある。
そうすれば今の環境にまったくなんの陰りも後ろめたさもなくお一人様ライフを満喫できるのに。
なまじ成功の味を知ってしまったことがあるから今と比べて一人で落ち込んでしまうことがよくある。
高校の同級生がいいとこに就職してたり公務員なってるの聞くと辛いし、俺がすごく成功してるんだろうなって思われてるんだろうなって考えるとほんと恥ずかしい。
どういうことかというと女性がモンスターか何かに丸呑みされているシーンに興奮する。
なんで興奮するかは理由は自分にも分らない。
子供の時にDBのセルが18号を吸収するシーンがきっかけかもしれない。
多いかも知れない。
とはいえぴったり自分の性癖と合致する絵はなかなか見つからない。
理想は蛇とかミミズみたいのに呑み込まれて、呑み込まれた部分が
膨らみができていて、徐々に奥に…みたいのが好きだ。
ピクシブにこのツボをついてくる絵師がいるけど、今は投稿を控えて非常に残念だ。
丸呑みに特化したゲームとか欲しいなあ。音声とかあればなお良い。
おそらく自分でやらなければ一生でないと思うけど、
そんなスキルはない。
東京には負けるにしても、都会で育ち、人にすごいねと言われる程度の高学歴と言える大学を出た。
嫁も都会育ち。
俺の職でいえば、食いっぱぐれる人も少なくない中で、自分の希望する職種を得られたのですげえ満足している。
うまくいけばこのまま食うには困らず暮らせることが確定した。
都会育ちの俺にとって、この田舎はある意味新鮮で、落ち着くし、ストレスないし、悪くはないと思っている。
引退後に田舎暮らししたい、なんて人もいるけど、それがかなったような感じ。
ただ、あえて言うならひとつ悩みがある。
子育てについてだ。
まだ子供はいないのだが、将来的に子供ができた時のことを思うと悩む。
県庁所在地の市へ行けば、この地方で二番目くらいの国立大学はあるし、隣の県へ行けば旧帝大もあるにはある。
電車は、町の中を移動するものではなく、町から出入りするもの。
当然、駅までは車だ。
その駅から大学へ、とえいば乗り換えてもう30分くらいはかかるだろう。
まあ、通えなくはないのだが、田舎クオリティもあるし、この市ではこの県の国立大学がわりとあがめられてそうではある。
狙うことすらおこがましいような、ね。
このままこの町で育てば、よくネットで論争になってるような、田舎対都会の構図の、卑屈な方の田舎の人になってしまいかねないんじゃないかと危惧するんだ。
いや、田舎が悪いと言っているのではない。
自分の子供には、最低限必要な視野の広さと大局観を身につけて、世間知らずにならないでほしい、ってことなんだ。
この地域にいながら、それを得られるならここでも全く構わないんだ。
しかし、県でいい方の高校にいれて、東大や京大に10人程度は毎年進学者が出るような、そういう環境で若い時期を過ごさない限り、
「医者や東大が、身近なものと思えないこと」が一番いやなことなんだ。
進路も視野も狭くなりそうだし、諦め根性が身に付くんじゃないか、ってな。
それがもう、高校進学で人生の大きい部分が決定しちゃうんじゃないか、ってな。
いや、結果的にFランでもなんでもいいのはいい。
この町に居座ったっていい。
そういう教育するにはどうしたらいいんだ。
嫁は、まだ生まれてもいない子に、あんま期待しすぎんなよ、って言ってるんだがな。
それはまあ、その通りなんだが。
杞憂なのかなー。
時間配分に関してはもちろんその通りです。
そういった目的意識の違いとか派遣の人が仕事できないとかそういうわけじゃなくて(優秀な人ももちろんいる)派遣というシステム、教えたことが数年単位でリセットされる空しさがストレスなんです。
いわくアイツは○○大学を出たのにプライドばっかり高くって真面目に仕事をしない、覚えが悪い、コミュニケーション能力が低い。
真面目で素直でやる気が人材を、自社で真っ白から育てるのが最高!
いくつも面接を受ける必要のある最近の就活は、「負けた感」を抱かせがちです。
特に高い学歴を持っている人物は「もっと上」を目指していたかもしれません。
経験の積み重ねは一朝一夕では買えないので、自社の事を知り尽くした人材は得難いものだとも思います。
これ実体験として感じる事なんですが「中の人」向けのモノってどんどん外からやって来た人には使いにくくなるんですよね。
人間の慣れはすごいモノなので、どんなに使いにくいモノでもそれが日常的に使うものなら不自由なく使えるようになっていってしまうのです。
特に真面目で素直でやる気のある人は、しっかりメモを取って頭と手で覚えていくでしょう。
アレを知っているのはAさんで、あの資料はどこそこに在って、独自の手続きCを踏んで……
外の人から見たらちんぷんかんぷんなものがドンドン出来てきて、それを皆で粛々とやるわけです。
バッドノウハウをどんどん作って、どんどんそのノウハウを身に着けていき、無駄なことを効率的にこなす組織が出来上がっていくわけです。
そういった組織で新しい人ができることは何もありません。誰にでもできる雑用をやりながら少しづつ先輩からそのノウハウを学んでいかざるを得ないのです。
・冷静に考えれば不味いよ腐ったしくみ
新しい人が慣れるまでに時間がかかる仕組みがよくない事は明らかです。だって、新人が「仕事」をできるようになるための時間が増えて、その分の労働力が無駄になるわけですから、単純な損失です。
そして、もっと不味いのはこの腐ったしくみは、一度腐ると腐る一方になりがちだという事です。
なぜか、
そこにいる偉い人たちはその仕組みに慣れ親しんできたわけで、何年もかかってそのノウハウを身に着けたのです。
そうすると、そのノウハウを捨てる事には無論抵抗があります。その上、いくら便利な仕組みでも、転換にはコストがかかります。
そうして、腐ったしくみを維持すると、どんどん転換は困難になって、その腐った仕組みを真面目に苦労して身に着けて来た人が増えていくのです。
その組織の中でしか評価されないような仕事ばかり身に着けるのは労働者にとってももちろんリスキーですが、会社にとっても恐ろしい事です。
まず無条件に教育コストが掛かる。人材の代替が出来ないから長時間労働化が進む。
組織は腐り続けても人は成長し続けられませんし、もっとも成長する若いうちに腐った環境への適応を求められるからです。
実は、見方を変えると、彼らがおかれている環境の方が腐っていたということはありませんか?
日産へ行ってきた。
夏のバカ騒ぎ、夏祭りとして考えると、来場者を楽しませようとする仕掛けが多くてとても楽しかった。
あの規模なので当然表情は見えないし、自分の正面には音響スピーカーがあって、メインステージの中央と丸かぶり。
スピーカーとスピーカーの隙間から時々見える程度だったけど、備え付けのビジョンでよく見えたから良し。
五次元の時より音割れも酷くなくてちゃんと歌を聞くこともできた。
あの人、余興中とか周りが座って休憩してる時も身を乗り出して見てて、TVで見せるモノノフっぷりは演技じゃないんだな、と感じた。
6万人の歓声は迫力があったし、6万人のサイリウムの海はキレイだった。
ももクロは、ある程度の人数を動かし得る力を持っているんだなぁと感じた。
これからの彼女達の前に立ちはだかる壁は、身近な周囲の大人たちでも、他のアイドルグループ(のファン)でもなく、モノノフなんだろうと思う。
ごく一部のモノノフがももクロの足を引っ張るような出来事が起きるんじゃなかろうか。
◯◯オタという呼称ではなく“モノノフ”なんて呼び名があるばっかりに、モノノフはやっかいだ。
地方から高速バスで日産へ行ったが、バスの中にも、途中のSAにも既に“戦闘服”を纏ったモノノフが散見された。
新横浜駅周辺にはカラフルな人々があちこちでウロウロしている。
整理券で物販行った後と思しき人々が、休日の企業の敷地内にたむろしている。
コワイと思った。
小学生くらいの子供を連れたお母さんが、新横浜周辺をうろつくモノノフを見て、
「モノノフがいっぱいいるねー。お母さん、ああいう格好は会場に着いてから着替えると思ってたから、なんかびっくり」と
息子に話していたが、お母さん、わかります。
やっぱそうっすよねぇ。
コスプレしている女の子も、グッズを身につけている男性も、おそらくそれが正解だと思っているのだろう。
日本代表戦のある日には、渋谷のスクランブル交差点で騒いでもいい、と思っているのと感覚的には変わらないのでは。
夢の国の中ではネズミの耳もキャラクターの帽子も平気でも、電車に乗ってあの国から離れていくにしたがって平気じゃいられなくなる。
“戦闘服”をまとっていることを誇りに感じている部分もあるだろう。
それが悪いとは言わないが、そういう心理はやっぱりコワイ。
ライブ後に食事をしていたら、隣の席になった2人組の男性もライブ帰りだったらしい。
憤っている人は、
最悪のライブだった。サッカーはいらなかった。酷すぎる。演出家を変えなきゃダメだ。ボイコットしてちゃんとわからせなくてはいけない。
みたいなことを繰り返し、落ち着いた男性は、たしなめるように面白い演出だった、パフォーマンスも良かったよね、と言い続け、
最悪だ。
配慮が足らない。
一緒に行った人は楽しめたと言っているのに、それを平気で否定し続ける。
そして、そういう発言がももクロのためになると思っている。
愚痴を聞かされている人の「楽しかった」という気持ちを侵食し続けていることにも気づかずに…。
そりゃ、有無を言わさぬ圧倒的なパフォーマンスや演出がベストだろう。
それほどの力がももクロにはまだ足りないのかもしれない。
しかし、彼女たちは「一緒に楽しみましょう」とか「一緒にバカになりましょう」と最初に呼びかける。
お客様ではない、あのイベントを構成する一要素としてモノノフも組み込まれている。
不安や恐れや、暑さや疲労、泣きたい気持ちが湧いてきても、それを横において気づかなかったフリをして笑顔でパフォーマンスしている人たちがいる。
自分も同じような場所に立つことを求められているのに、それを拒否して上から批評。
そりゃ、楽しめないっしょ。
五次元の時もそうだったけど、今回のライブもかなり批判の声が出ているっぽい。
ゲンナリだ。
不満だったところ、改善した方がいいところ、演出上のアドバイス、自分が求めていることは、佐々木なり川上なりにお手紙でも出せよ。
例の「いうほど国は何もしてないのか?〜エイベックス松浦氏のポエムに寄せて〜 」のエントリ( http://anond.hatelabo.jp/20130804050326 )の元増田です。
あれの「出生率が2005年の1.26から2011年の1.41まで上昇してきた」にたいしてのブコメでid:sea_side氏よりこんなブクマがつけられてたのだが・・・
「まだ不十分ながら少子化対策が形になって現れてきたとも考えられる。」これは違う。若い時に産まなかった人の一部が今産んでるだけで、若い人が産まない状況は変わってないのでこのままなら回復は早晩止まる。
これは俺の書き方も悪かったんだけどいわゆる「出生率」の話じゃないかな。俺の書いたのは「合計特殊出生率」の話だ。
1.26や1.41という数字も出していたし、日本では一般に出生率=合計特殊出生率として語られることも多いので、誤解を与えた(かもしれない)表記については勘弁して欲しい。
ちなみにブコメが言いたいのは、人口の分厚いアラフォー団塊ジュニア女性が駆け込み出産してるから出生率が上昇しただけ、彼女らはじきに産まなく/産めなくなるし、その後の世代は人数減ってくので、出生率上がってるのも今のうちだけだよということだよね。出生率だとその通りの解釈でいいのだが、合計特殊出生率の場合は、「各年齢の平均出産数」を足し算するので、人口構成の偏りの影響をうけない。
アラフォー世代がいっぱい産んだからすごく数値が上がりましたとか、逆に20代前半女子がいっぱい産んだんだけど人数少ないから大して数値上がりませんでしたー・・・みたいな話にはならないということな。もしブコメの指摘のとおり今後伸びがとまったとしても、人口構成が理由ではなく、別の理由ということになる。
ブコメに対するフォローとしては以上です。以下はすべて余談。コンビニ店長じゃないがすげー長くなったのでよろしく。
上に書いた「合計特殊出生率の増減は人口構成が理由ではなく別の理由による」・・・これは裏を返せば、合計特殊出生率が2005年から2011年まで0.15上昇しました、というのも十分に数字どおりの意味があるということだ。
もちろん俺もこれが政治や行政のおかげだ!すごい!と短絡するつもりはなくて、他の影響、たとえば出産関連の商品・サービスを提供している企業がマーケティングの一環として、団塊ジュニア世代に向けてメッセージ(まあ広告のことだ)をたくさん発して、商品・サービスそのものも力を入れて開発しましたとか、金利の低い経済状況も手伝ってこの世代向けに手頃で子育てしやすそうなマンションが大量供給されたとか、広義での「人口構成の偏りの影響」はあると考えている。
彼らにしてみれば団塊ジュニアの出産育児需要を、彼らが出産適齢期を迎える15年ほど前から今か今かと楽しみに期待していたのがいっこうに産んでくれなくてアテが外れてしまい「もうここ5,6年が最後の勝負やで!頼むでもう!」とばかりに必死にやっただろうからね。
第2次ベビーブームのときだって、合計特殊出生率の理屈で言えば上昇しないはずなのに、実際には一時2を割ったこともあった合計特殊出生率が(ひのえうまじゃないよ)、2.15近辺で数年間推移したことがあった。
企業のマーケティング以外でも、たとえば、お隣さんもお向いさんも赤ちゃん産まれるのを間近で接して「じゃあうちもそろそろ」なんてベビーブーマー以外の世代までその気になっちゃうなんてのは十分考えられることだ。子ども産むか産まないかっていうのは、政策だけでなくこのような「社会の雰囲気」の影響も強く受けるんじゃないかと思う。
社会のふいんき()の次は金の話だ。もう書いてる内容がめちゃくちゃだな。
正直俺も楽観視できないとは思う。なぜなら若者に仕事がなく結婚できない出産できないからだ。
要するに金の問題だ(ほかにも人生の価値観の多様化ということももちろんあるが、そういうのはもう仕方ないのでここでは置く)。
金がないことに対するひとつの解としては、最近話題のベーシックインカムだ。ただこれには数十年単位での時間がかかる。
俺がその手前の段階で期待してるのは、仕事の細分化によるワークシェアだ。
いまひとりの人間に500万払ってやらせてる仕事を300万ずつ2人にやらせる。
雇用規制を緩めるのとセットだが、暇な時はひとり解雇できるようにすれば企業にもメリットがある。
400万の仕事を250万ずつ2人にやらせる。300万なら180万ずつ2人にやらせる。あるいは500万の仕事を200万ずつ3人でもいいし、150万ずつ4人でもいい。
これを社会全体でできるようにすれば、解雇されたやつも他の企業にすぐ移れる。
いわゆる雇用の流動化というやつだ。
アルバイトとは異なり、年金、健康保険などは従来どおり加入させる。もちろん年収が少なければ年金の支払いも少なく老後もらえる額も減る。
だからどのみちこれだけではダメだ。ダメだが今できる少しでもプラスになる雇用対策、少子化対策としてのワークシェアだ。
そうやって年収200万の若者が結婚し(あるいは同棲、事実婚で)400万の世帯収入を無理なく見込める環境をつくってやる。200万の収入は心もとないが、世帯収入400万ならなんとかなる。
そうやって将来不安、雇用不安、出産不安を少しでも軽減してやる。
余談に余談を重ねるが、俺は主にネットの進化とIT化によって、基本的には仕事の総量は減っていくと思っている。
海外に流れてくのもあるだろうし、それがなくても今まで10の人手が必要だった仕事が5とか3とかゼロでできるようになってきている。
ゼロサムではなくマイナスサムだ。それをなんとかゼロサムでキープするために「細かく切って皆で分ける」というワークシェアが必要だと思っている。
それでもおそらくは数十年単位での一時しのぎだ。
それで時間稼ぎしておいて、ベーシックインカムなどより抜本的な対策を考える。そういう話だ。
今、大卒まで全部義務教育でも子どもひとり800万と言われてる。塾とか習い事込みの金額だ。
これを大卒までの22年でわると年間36万になって1ヵ月3万だ。民主党が月2.6万だっけ?子ども手当やりますって言ってたけど、かなりいい線いってると個人的には思ってた。ま、民主党はそれ以外の問題がありすぎたんだけどね。
ともあれ2.6万は結局半額1.3万になって、いまでは月5千円?元に戻っちゃった。乳児で1万だっけ?
あの2.6万をパチンコに使わず、必要ないとき(公立の小中学校なら月2.6万もいらん)はちゃんと貯蓄するようにしておけば、そして22歳まで支給すれば、子育て不安は相当なレベルで軽減される。
パチンコが不安なら2.6万支給じゃなくて高校も大学も学費をどーんと下げる。高校は授業料無償化になったけど、ケチケチせず修学旅行も無償でいいじゃないかと思う。
元増田の国会予算の話でいうなら此度の高校授業料無償化で、一般会計から4000億円支出されたんだそうだ。文教科学振興費5.3兆円のうち、0.4兆円な。
もっと大事なのは保育園、幼稚園でここは非常に金がかかる上に、親も若年で経済力がない。ここも無償化だ。
このサイト(http://educationalcost.com/list.php)によると公立保育園で120万。1歳から6歳まで年間24万。対象が500万人(乳幼児1世代100万人の計算)として約1.2兆円。
文教科学振興費がプラス1.2兆円は相当な負担だが、幼保一元化などサービスの効率化によりなんとか捻出する。
そして待機児童ゼロに。駅近、駅中にも設置。ここはさらにお金と時間かかるだろうけどね。
さらには出産から義務教育終了までの医療費無料化。これは一部自治体で近いレベルまで実現されているが拡大する。
乳幼児期の出産、子育て支援については、もうこれをやらずに他に何をやるのかというくらい大切な、少子化対策の1丁目1番地だ。
育児手帳?出産手帳だっけ?話題になってた。あれやめてこっちをやって欲しいくらいだ。
とにかく大事なことは、出産育児なんとかなりますよ。というメッセージとそれを裏付ける具体的支援だ。
乳幼児期の費用と医療費さえなんとかなれば、もう公立義務教育終了まではなんとかなる。
そして公立大学の学費も上のサイトによると、215万だが同じく2万円補助してみると4年間で96万円。ほぼ半分の負担になる。
(国の負担は50万人×4学年=200万人×24万=年0.48兆円の支出となる)
こんなもろもろで就学前120万、大学100万、それから上の800万には高校無償化の影響が入ってないようなので高校3年間で50万減として、合計270万親の負担が減るなら合計530万。年間24万の月2万となって33%減。とくに就学前負担が減ることによる心理的効果は大きいのではないかと思う。800万には塾や習い事も入ってるので「必要不可欠」な金額としてはもっと減る。
国庫負担はここに数字あげただけでも2兆円を超える。試算してない待機児童ゼロを目指すための保育園(認定こども園)の充実と医療費をあわせるとさらに増える(このへんは別途どこかで試算が出てるだろう)。
自分で国家予算とにらめっこしてモノゴト発言しましょうねと言っときながらなんだが、厳しい数字なのは間違いない。
ただ、それでも年金問題ヤベーよという話に比べると、はるかに見通しが立てやすいし、金額的にも現実味のあるレベルではないか。
急激な少子化は日本経済を破壊する。合計特殊出生率1.2なんて論外だ。この資料(http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/newest04/point.pdf)によると、合計特殊出生率1.35で37年後の2060年、日本の人口は8600万人になるらしい。33%減だ。
同じ8000万でも若者と老年のバランスがとれてる8000万なら問題ない。でも合計特殊出生率が1.35ということは頭でっかちな人口ピラミッドでの8000万だ。じきに将来5000万を割るとわかっている中での8000万だ。その社会はどんな社会だろうか?そんな市場で世界のグローバルカンパニーがビジネスしたいと思ってくれるだろうか?
荒廃しきったマンション、団地、住宅地、商店街、オフィス街だらけの国に、世界中から観光に、留学に来たいと思えるだろうか?
全国津々浦々「リアル・デトロイト」みたいな国だよ、37年後の日本は。あれデトロイトはリアルか。
まあいいやとにかく「日本全国総デトロイト化計画」待ったなしだよ。
デトロイトは全盛期185万人の人口が今半分以下の70万だって。日本も人口6000万でデトロイトになれる!そうなりたいのかという話。
今ならまだ間に合う。合計特殊出生率1.41を1.5にすればメディアがちょっと騒いで社会に前向きな雰囲気が生まれる。「日本いけるやん!」という気分になれば経済にも好影響が間違いなく出てくる。
そうして1.8まで回復すれば、ひとまず「急激で破壊的な」人口減は防ぐことができ、ひといきつける。あるいは人口1.2億から減るとしたって、緩やかに9000万くらいまで減少したとしても、もろもろ破綻しない仕組み、構造に変えていく時間を稼げる。人口9000万への軟着陸というイメージだ(9000万は適当な数字だよ)。
そこからまた腰をすえて「2」を目指し、また抜本的な社会保障制度の構築を目指して、国民みんなが前向きに考える。
最後におまけでウィキペディアの出生数と合計特殊出生率の推移グラフを載せときます。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/日本_出生数と合計特殊出生率の推移.jpg
前日は空が白むのを見てから寝たにも関わらず、暑さゆえに8時過ぎ起床。
テントサイトにて、フジロック初回から参加し続ける猛者たちと杯を交わす。
潰れる一歩寸前まで日本酒を飲み、大声で歌いながらライブ会場へ。
・青葉市子
前野健太とソープランダーズを見逃し、フジロック2日目は森の中の青葉市子からスタート。
会場は、青葉市子に似つかわしく、森の中にぽつんとある一番小さなステージ。狭いながらも超満員。
心地良い演奏にうとうととしてしまい、椅子から転げ落ちそうになったため次のライブに移動。
青葉市子の弾き語りは2週間前に下北沢音楽祭で見たし、前日の深夜にもピラミッドガーデンにて見ていたので特に感想はなし。
なんか日本のバンドっぽくない印象。逆輸入アーティストだからまぁそりゃそうなんだけど。
日本のバンドは演奏が上手く、サウンドメイキングにより強烈な個性を出すのは苦手、
そして海外のバンドはサウンドメイキングにより表面的な個性を打ち出すのが上手く演奏は下手くそ
というイメージを勝手にもっているのだが、トクマルシューゴは後者に該当した。
演奏は下手くそというとさすがに言い過ぎだが、難しいギターのフレーズはCD音源のほうが綺麗に弾けてるし、バンドのアンサンブルもなんとなくだけどそこまで息がピッタリという雰囲気でもなかった。
前日にギターの達人たちを見たからハードルが上がってたのかな?
しかしおもちゃ箱を開けたようなサウンドはライブでも健在であり、楽しいライブであることは間違いなかった。
そういえばドラムの人が目測で身長190以上あって存在感半端無かった。
・SUZANNE VEGA
本当はオレンジコートでVERY BE CAREFULというクンビアバンドを見たかったが、豪雨により断念。
フィールド・オブ・ヘブンのTシャツ屋でなんと2時間近く雨宿りをして意地でSUZANNE VEGAを見る。
何度テントに帰りたいと思ったことか。まぁこの時テントは雨漏りしまくっていたわけだが。
しかし演奏は素晴らしかった。フジロック三日間を通してのベストソングは間違いなくSUZANNE VEGAのLUKAだろう。
LUKAのリリースからは既に26年が経過しており、声の変化が心配だったが、そんなのは杞憂に過ぎなかった。
バンド編成はなんとアコギを抱えたSUZANNE VEGAとエレキギターのおじさんのみ。
エレキギターのおじさんはルーパーを巧みに操り1人でドラムとベースとリズム&リードギターをこなしていた。
最初は「おいおい手抜きかよ」と思ったが、今思えば逆にそれが功を奏していたといえる。
このシンプルな構成により、LUKAに限らずSUZANNE VEGAの声が前景化して、より感動的に仕上がっていた。
リバーブが思いっきりかかったおじさんのギターソロも際立っていた。
豪雨によりずぶ濡れになった服を着替え、少し遅れてレッドマーキーへ。
ボーカルはスーツに黒い革手袋!真紅の帳に舞い降りた漆黒の歌い手!
いやー、モニターに足をかけて客席を指差すとかもう完全にV系です、ありがとうございました。
This song is called〜〜って演奏前にいう感じもなんか外国語ながら中二感を感じざるを得ないw
遅れて行ったからか、Wonderful Lifeが聞けなかった。
・KENDRICK LAMAR
ビョークはあんまりわからないし、死ぬほど混んでいたのでさらにわからないKENDRICK LAMARへ。
なんと10列目でラーメンが食べられるほど空いておりましたが、ライブ自体はとてもよかった。
まずDJセットではなくバンドセットで、B-BOYたちがバンドをやっている姿はなんともシュールだったw
そして、今風なアンビエント的R&Bみたいなのを生で初めて聞いたのだが、あの手のものは音圧が半端無いんだということを知った。
Frank OceanとかJames Blakeとかも生で聞いたら恐らく音の風が吹いてくるみたいな感じなんだろう。
KENDRICK LAMARはとにかくアンダーグラウンドのワルみたいな雰囲気で、なぜか雨もやんでいてステージには屋根があるにも関わらず300円のビニールレインコートを着ていたw
スヌープドッグがシャンプーハットをファッションとして着ていたりするが、これもそういうことなのだろうか…
フジロックベストアクト、エンターテイメント部門はJURASSIC 5に決まりでしょう。
途中でタイコクラブで知り合った人に遭遇したり、後ろの人に声をかけられたりとテンション上がりすぎて、いつの間にか持っていたジン300mlをライブ中に飲み干していた…
ライブはショウとして完成されており、DJの二人によるショルダーCDJ(!?)とショルダーサンプラーでのライブが挟まれるなど、90分間片時も飽きさせないライブだった。
そして脱退したと思っていたカット・ケミストが生で見られたのもなかなかに感動的。
前日のDJシャドウは深夜につき断念したが、カット・ケミストのターンテーブルさばきはしっかりと目に焼き付けた…と言いたいところだが、酩酊状態につきそこまで覚えていないw
DJももちろんすごかったが、前に立つ4MCもKICK THE CAN CREWのように、それぞれキャラ分けがしっかりとなされており、コミカルなボディランゲージと共に最高のフロウを聞かせてくれた。
全てがノンストップにミックスされたライブだったので曲単位でこれがよかった!とかはあまり感じなかったが、BreakのサビやI am sombodyのコールアンドレスポンスは酩酊状態だったにも関わらず鮮明に記憶している。
全体的にショウとしての完成度で言えば直前のKENDRICK LAMARを大きく上回っていたな、まぁ比較してもしょうがないが。
この後はJURASSIC 5で声をかけてきた人とそのお友達(みなさん私よりも10歳以上年上…)に二時間以上も絡み続けて、千鳥足でテントに向かいましたとさ。
本を読んだり映画を観賞したりした後、日記がわりにちょっとした感想や批評を書きたくなることってあると思う。そしてときには、それを公開して作品について他の人と話し合ったりしたくなることもあると思う。
でも自分のブログ等でそれをする場合、自分がどんな本や映画を見るのかといった情報が読者に知られることとなってしまう。そんなの気にしないという人ももちろんいるだろうが、それは嫌だという人もそれなりにいるだろう。またそうしたやり方をする場合、どうしても自分が発信者で他の人は情報の受け手という関係になりやすく、対等な立場で忌憚のない意見交換をするということは難しいんじゃないかとも思う。
こうした難点を考えるとき、増田は誰が書いたかわからず、またトラバによって気軽に対等な意見交換をすることも可能であり、感想・批評の投下にきわめて適した場所ではないかと思うのだけど、そういうのはほとんど見ない。なぜ?何か理由があるのだろうか。
身の回りが、「反原発! 山本太郎マンセー! 自民党消えろ!」みたいのばっかでつらい。
私はイルミネーションぎんぎら・冷房がんがんにあっというまに戻った東京にがっかりしているけれど、
原発今すぐなくせというのは、それはそれでちょうお花畑だと思ってる。
自民党のすべてに賛成はできない。
けど、自分の周りのひとたちが「ちんぴら議員」だの「あべのみくちゅ」だのと
自分の主張はこうだ、と言えばいいだけなのに、相手をおとしめないと気が済まないとか。
呆れるし、何十歳も年上のひとがそういう発言してると、かなしくなる。
戦後生まれのひとに「そういうことを言うもんじゃない」と怒られて納得行かなかった。
ほんとにあったかどうかは、その時を生きてたひとたちにしかわからないから、私はなにも言えない。
しかし、お互いに過去にこだわって、後ろを向き続けて、なんか進歩あるのかしら。
過去は現在と一切関係ない、断ちきり捨てるべきとは言わないけれど。
日王は土下座しろ、というあの発言に、カチンと来ないほうがおかしいよ。
生まれた土地と、そこで生きてきたご先祖とかを否定されて、どうして怒ったらいけないの。
どうして自分の国をなにがなんでも否定しなくちゃいけないの。誇ったらいけないの。
人付き合いも、国同士の付き合いもおなじじゃないかな。
互いの違いとかいいとこ尊重し合いながらの付き合いをすればいいだけで
相手を否定したり、従属させる必要はない。自らを否定する必要ももちろんない。
どんなに愛し合っていたとしても、考えや物の見方を完全に同一にすることはできない。
私と同化しろおまえの考えなんか無価値!とか言われたら、逃げるか戦うしかないじゃん。
私もべつに、この国のぜんぶが好きなわけじゃない。
変わって欲しいところたくさんたくさんある。
でも、日本が無くなることは望んでない。
「我が家の2階から歴史的文書が」 30年前のコミケカタログが話題に - ねとらぼ
これみてふと思い出したので。
前々から気になってたことだけど、昔のいわゆる同人オタク、マンガオタク、アニメオタクの方が絵がうまかったの?
エロ漫画とかの投稿コーナーとか見ても、昔の人って全体的にうまいイメージがあるんだよね。
そりゃ時代なりのクセはあるけど。
でもこれって、うまい人が作品を発表する場が他になかったから単純に上手い人の割合が多くて目立ってるってだけで、下手な人ももちろん一定数いたんだよね?
なんかあんまりそう思える昔の資料(コミケカタログの写真とか)を見たことがない。
たいていこうやって話題になったときの画像とか昔の同人誌をぺらぺらめくっても見てもみんな絵がうまい。
だから昔のオタクはみんな絵がうまかったのかなあという変な印象を持っている。
実際のところどうだったんだろうか。
最近は素人でも簡単に作品を発表できる場が増えたのはいいと思うんだけど、うまい人がその分埋もれやすくなったようにも感じられて、なんか複雑。
別に下手はひっこんでろってわけじゃなくて、うまい人も埋もれてしまうっていうジレンマがあるよねって言いたい。
All Aboutが1ヶ月で6500冊の電子書籍を投入してきてるのってどうなのよ? | 電明書房
構図としてはこれと同じ。
簡単に参入できるようになったのはいいけど、その弊害もあるよねってこと。
つらつらとゆとりな駄文をさんざん並べたにも拘らず読んでくれたり、色々突っ込んでくれた優しいひとがいたので、追記。以外長いし胸くそ悪くなると思うので、興味ないひとは無視してください。なのに勝手に書いてごめんなさい。
今年初め、就職活動に向けて一時期 東京へ行くことに差し当たって母から、向こうの大学を卒業した兄がいま東京にいると聞いたんです。「兄には話しておくから、しばらくお世話になりなさい」と。この時点では母本人に聞いてこそいないけど、母は兄が家を出てからずっと連絡を取り続けてたってこと?とはよぎりました。でもそこを問わず、お、タダ宿ラッキー、なんて安易に居候を決め込んだ自分がまずどうかなぁと。
父の借金、姉の結婚費用、わたしの学費、母からの手切れ金(という表現は良くないのかも)、兄がこの全て払ったということ、これをなぜ兄カノが知っていたかは確認してないです。兄が話す以外に知る手立てがないはずだから、聞くだけ野暮なのかと。確かに兄カノは兄の仕事のこと、よく知ってます。ただ、兄自身の話をあの時点で兄カノ自身からあえて言うのを避けたんだと勝手に推し量っています。もしくは、これは妄想だけど、わたしと兄が直接話すよう暗に促していたのかも、とも。
でもここで、自分としても気になることが出てきました。先の駄文を読んでくれたあるひとが食い違いを厳しく指摘してくれたことが発端です。
兄は大学を6年かけて卒業したと言った母、一方「兄くん、私より1年早く卒業しんだよ」という兄カノ。これについて兄当本人を目の前にしているわたしは、3年という時差は気にもならなかったんです。まー兄カノは一緒の大学だし、兄カノの言うことが本当なんだろね、くらいで。それよりも、上にある、実は母が兄とずっと連絡取ってたんじゃないかのほうがはるかに気になってたし、この時点の就活は面接にすらすすめてない段階だったので、この居候生活が終わり実家に帰ったら、洗いざらい母に聞けば、くらいの感覚で。だから、ひとに指摘されて始めて時間的な矛盾がぼわーって浮き出るように気になり出したというのが正直なところ。
でも、自分なりに時系列でものごと整理したら、少しだけ見えてくるものがあり。ちょっとした記憶をつなぎ合わせると、母がお金のことをぐちぐち言わなくなったのが、兄カノが言う3年で卒業したというタイミングと、母が言う6年で卒業したという、2つの卒業の間にある3年間にある。昔から母は兄が家を出てから、父の残した借金を嘆いていた。愚痴もすごかった。でもそれがある日止まった。正確なタイミングはどうかわからないけど、この時期なのは確かなんだ。わたしが中学校の卒業旅行として初めて海外に行けたのも当然中学の頃になるし。
具体的なとこだと、兄が支払った姉の結婚費用にしてもそう。姉の結婚式はその空白の3年間の2年目にあたる。一応気を遣って私立の高校を避けようとしたわたしに、私立でもいいよと言われたのももちろん中学。それもまたその3年間に不思議と収まる。
ということは、母はその3年間を兄が留学していたということにして、兄が働いて得たお金をもらったことを隠そうとした?いやでもそんなの、わたしが兄と直接話せば嘘だってすぐわかっちゃうでしょ?いやいや待てよ、だから母はずっと兄の話がでると歯切れが悪い感じがしたのかな?いやいやいや、それは後付けでしょ。勝手なこじつけとセルフッコミをはさみつつ、あとから色んなことがつながって、もしくは自分が勝手につなげて、そうに違いないと思い込んでしまうようになっていくのがわかる。本当は兄から色んなことを話したかったけど、こういう状態なので、もう母に聞くしかないな、というところに自分の中で妥結。
どなたかが書いてくれてたけど、不遇の時期に加担しといて今更居候させてもらうってどういう神経してんだこのクズは、みたいなこと。まったくその通りだと思う、自分のクズっぷりを言われてからぐったりしてしまうとことかもう、かなりいたいと思う。
正直なところを言うと、兄が家出する前から、わたしは兄に対して家族という意識がないんです。これもまたクズだろうけど、ここは事実なのでなんともできない。このあたりで血の繋がりってものが影響するのか、しないのかもわからないけど。母が酔って帰ってきて、勢いで「あのこなんか家族じゃない!」とか叫んでたのも聞いた。とはいっても私にとっては母は唯一の親だったし、なにしろ幼かったので親は神様みたいに見えてるし、母が言うことを真に受けていたのかもしれない。ただ、兄が家を出たときは小5だったし、クズなりにもう少し気を回せたかもな…
「虐げに加担」したことももちろんだけど、過去を理解しないまま成金などと蔑視してしまったこと、過去の出来事に対して好奇心という利己的な理由だけで兄の中で区切りが着いたことをほじくり返してしまったこと、そもそも何も知らずにしれっと住みついて兄カノ・兄の二人の時間を奪ってしまったこと、ちゃんと謝りたい。謝ります。自省の念あって始めて謝る意思を持てたこと、突っ込んでくれた誰かに感謝。
でも、この謝りたいということもまた、自分の願望でしかない。謝らせてと言っても兄は「何を?やめてよそういうの?」とか言いそうだよなー… 突然謝っても、それはそれで過去をほじくり返すことにもなるし。もう謝ることすら許される立場ではないんかもしれないんだろうな。できれば、それを受け入れてくれた後に、ありがとうとか、もろもろ言いたいんだけどな… 置手紙は逃げなのかな… はー、どうしてもっとロジカルにものを考えられないんだろうこのクズは。というか自分をクズ呼ばわりして、なに「自分はダメな子です」ごっこしてんの。いたすぎでしょ。はー。
あーもし、もし自由な発言が許されるのであれば、謝った上で、あなたは素敵な人です、と心からの敬愛を込めて伝えたい。どこまで自分勝手だと思いつつも、完全に掻き消すのはできないなこれ。だって多分、そのまま敬愛ってのに分類できない気持ちがある、あるね、まだ兄と呼べないあの人に対し、はい。惰性とはいえここまでやってこれた人との念願であった東京での内定&同棲、すぐそこまで来てたけど、急にトーンダウンしたのはそういうことなんでしょか。そうは言っても、申し訳なさや同情などからくるその人への気持ちってのは、ただの勘違いなのか。はたまた、学生身分がそれなりにキビシー就活を乗り越えたところに、わかりやすーい成功した社会人みたいなのを見て憧れてしまうという、いわゆるスイーツ的羨望からくるものなのか。なんなんのか、これ。
最低でもわたしは、こういう気持ちが勝手に芽生えてしまった以上、特定の誰かと同棲はおろか付き合い続けられるほど器用じゃない。でも、婚約している元形式的家族に、身分さえわきまえずいけしゃーしゃーと気持ちをぶつけるほど、無謀でも、果敢でも、厚顔無恥でもない。とにかく、自分のありかたを変えずに自分丸ごと正当化しようとせずに、勝手な行動は慎まねば。。。 ここから先は自分で落とし所みたいなのを見つけようと思います。失礼しました。
http://anond.hatelabo.jp/20130713232648
こういう人を個人的にネットプリント厨と呼んでいる(略)
マジレスするけど、1週間に一度かひと月に一度紙に印刷するたびにインクジェットプリンタの電源を入れ、毎回ウイーンウイーンガッシャンガッシャンとうるさい音を立てながら何分もかかる、いつ終わるかすら分からないヘッドのクリーニングを待ち続け、さらにはインクを無駄に消耗するくらいなら、さっさとコンビニに出かけてレーザープリンタ使ったほうが確実だし綺麗だし安上がりだし精神衛生にもいいし地球環境にも優しいんだよ。ついでに食いもんを買ってくることもできる。いまどきのインクジェットはインクを湯水のように食うからしばしば切れていて交換の手間がかかるし、カートリッジを買いに走らなければならないこともしばしばだ。
有り体に言って、最近のインクジェットプリンタはおかしいんだよ。狂ってるんだよ。異常なんだよ。何度も買い換えているが、年々ひどくなっている。ほとんど製品として欠陥品のレベルに差し掛かっている。いや欠陥品そのものだ。
もちろんセブンイレブンとの距離などにもよるだろうが、厨呼ばわりまでされる筋合いは断じてないぞ。いや本当に怒ってるんですが。
考えてるっつうの。最近までセブンイレブンのなかった四国出身だよ。
インクジェットプリンタがゴミでうんこで、作ってる連中生きてて恥ずかしくないのというか何で平然と地球の空気吸ってるの殴りたいと思えるレベルの欠陥品だから、相対的にネットプリントが最高になってしまうだけ。第一、キヤノンやエプソンの製品は最早二度と買いたくない。不買運動。抗議行動。ネットプリントを他の人にことあるごとに勧めて回るのももちろんその一環ですよ。
大抵の一般家庭にプリンタは必要ない、年賀状も印刷所に頼めばいいし、あるいは出さなきゃいいと、これからも全身全霊で広めていく所存ですのでよろしく。
お前はキヤノンやエプソンのプリンタユーザーの怒りをなめてる。連中は俺を怒らせた。
それだけ。
物心ついた頃、よく覚えていないけどきっと多分その頃から女の子になりたい、可愛くなりたいと思っていた。
背の順に並ばされると必ずクラスで一番前になる背格好や小学校に入って少し経つくらいまでよく女の子にも間違えられた容姿もそれなりに影響していたのかもしれない。
幼稚園に入る前あたりの自分の写真を見ると全部首をかしげてニコニコして映っている。そのポーズをとると可愛く見えると思っていたから例外なくそうしていた。
両親はそういう行動を取る息子のことをさして気にはしてなかったようだ。「男の子なんだからしっかりしなさい」と言われるようなこともなかった。
しかし幼稚園に入ってから、どうやら男の子はそういうことをしては変に思われるのだということに気がついた。
でもぼくは最初はあまり気にしてなかった。18cmのお気に入りだった赤い靴を履いてたらなぜか色々言われたりもしたけど、そこまで気にすることは無かった。
その当時ぼくは男の子にしては少し長めの髪型にしていたのだが、ある日幼稚園の同学年の男の子がぼくの髪をハサミで切り落とした事件が起きた。
その時は悲しくて泣いてしまったけれど、その時に男の子が可愛くなりたいと思うのはダメなことなんだなとようやく理解した。
それ以来、ぼくは表向きには一切そういうことは考えないように、そして他の男の子達が好むものを好きだというようになった。
好きな色は赤より青を、好きなテレビ番組はカクレンジャーを推すようになった。
ちょうどその頃から好きなものが何なのかよくわからなくなってきた。いろいろどうでもよくなった。
そしてぼくも遅ればせながら中学校に入っていわゆる第2次性徴の時期を迎えた。そして好きな子ができた。相手は女の子だった。背が高くてちょっと同学年の中では少しませてて、ぼくの仲のよかった女の子だった。その時もしかしたら自分のことを同性愛者なのではないかと思っていたぼくは、差別的な言い方になってしまうけど正直少しホッとした。
かと言って、じゃあ告白するかとなるとそれほどでもなかった。一緒によく遊んだけれど。
付き合わなかった理由は、はっきりとしない。でもなんとなくその時にぼくは彼女の彼氏には似合わないなと思ったのは記憶にある。
他の男の子ならもしかしたらそこで釣り合うようになるべく格好良くなろうと努力するのかもしれない。
でもぼくはそれをする気が起こらなかった。格好よくなろうという気にならなかったのだ。
しばらくして彼女は他のイケメンの男の子と付き合うようになった。ああ、これはお似合いだなと他人事のように思った。
お察しの通り、その頃になっても相変わらずぼくの身長体重はクラスの一番前に並ばされるくらいの低空飛行を続けていた。
確か中学入学時は140cm37kgだったし、卒業するときも160cmまでしか大きくならなかった。
でもその頃のぼくは一気に身長が伸びてガタイがよくなっていく周りの男の子たちを見ながら、この低空飛行状態を望ましく思っていた。もしあんなにガタイがよくなってしまったら、可愛くなくなってしまう、それだけは避けたいと誰にも言わなかったけど内心はそう思っていた。
容姿ももちろんもう女の子に間違われるようなことはなかったけど、あまりゴツゴツしておらず中性的な顔を保っていた。
元から高かった声も少し声変わりした(と小学校の時から仲のよかった女の子には言われたけれど、一般的に言われるような声が出しづらくなるとかそういう明らかにわかる変声期というのはぼくにはやって来なかった)けど甲高いままだった。顔を上に向けるとなんとなく喉仏らしきものが見えるかなという程度で、喉仏が目立つということもなかった。足も23.5cmでそこまで大きくならなかった。
遺伝的要素に感謝する一方で、高校に入学してから一気に身長が伸びたいう母親の話を聞きながら、そのことを恐れる日々が続いた。
中学校に入学した時、ぼくは自分の部屋にネット回線を引き、パソコンを手に入れた。
そのうちぼくは夜更かしをして女装している人達のHPを観るようになった。可愛らしい人もそうでない人もいたけど、どの人も楽しそうにしているのが印象的だった。時々オフ会なんてものをやってて、友達もいるようでいいなと思っていた。当然ぼくにはそんな秘密を共有できる友達はいなかったから羨ましかった。
そして写真を見ているうちにこれはぼくのほうが絶対に可愛くなるとの確信をもった。単純に年齢の問題もあるけど、それを差し引いても。
そしてその日ぼくは初めて母親が若かった頃着ていた服を着た。やっぱりどうしようもなく古臭かったけれど、初めてのワクワク感で曇った目にはとても可愛らしく映った。そしてそのままぼくはオナニーをした。
そこからの転落は早かった。
中高とそんな生活を続けたぼくは、東京の大学に入学し一人暮らしを始めた。家族の目を気にする必要のない空間と恐ろしく持て余した時間と家庭教師のバイトで生活費とお小遣いを捻出しても少し余るくらいのお金を手に入れ、趣味に恐ろしく拍車がかかった。
ぼくはずっと欲しいと思っていたものをその時に一気に揃えた。
周りの女子大生が買っているような(安い)ブランドの洋服、バッグ、靴、メイク道具、ウィッグ…資金難になりながらも安いものを中心に通販で買い揃えていった。幸い高校生で急成長するという懸念はどこへやら、165cm52kgで成長は止まってしまい、足の大きさも24.5cmで止まってしまった。女性の体格としては大柄なほうではあるけれど、それでも普通のお店で手に入る大きさの服や靴を買えばよかったのでその面ではすごく助かった。
そしてある程度まとまった暇な時間が出来るたびに、ぼくは鏡の前に立って女の子になるようになった。
もちろん最初は鏡の前におてもやんが出来あがるだけだった。それも悲しくて、女性向けファッション誌を買って研究してみたり自分の顔に何度も塗りたくって練習するようになった。ちょっと痩せすぎててほっぺたに肉が無いなと思って笑顔を作る練習をしたり、ちょっとごはんを沢山食べるようにしてみたり、やれる範囲でいろいろやってみた。
そんなある日、奥二重の目をアイプチではっきりさせてやって黒髪のウィッグを被ってみたら、鏡の前に劣化版松井玲奈(ファンの方々申し訳ありません)が出来上がった。あ、凄く可愛い、と自分で思った。
その場ですぐにオフホワイトにブルーのボーダーが入ったワンピースにベルトをしめてカジュアルなバッグを持たせて帽子をかぶらせてみた。鏡の向こうの「玲奈ちゃん」はえ?って感じでちょっとポカンとしていたけれど、ちょっと顔が赤くて贔屓目だってわかっていてもとても可愛らしかった。
それから「玲奈ちゃん」はいろいろなことを経験した。ビクビクしながら外出もしたし、学校の大学祭でメイドさんになったりもした。酔っ払ってネットに少し画像を上げたりもした。知らない人に可愛いねと言われた。凄く嬉しかった。一人エッチもしたりした。「玲奈ちゃん」でいるとその間はニコニコしていられたし、幸せだった。
もう「玲奈ちゃん」とのお付き合いも5年くらいになる。ぼくも24歳になった。昔はある程度の年令になったら限界を迎えるだろうしその時には別れようと思っていたのだけれど、結局ズルズルと続いてしまって関係を持ってしまっている。むしろ、社会人になってお金に余裕が出てきた分、玲奈ちゃんも貧乏女子大生からそれなりな社会人さんって感じになってきて、これはこれで可愛いかななんて思ってる。なんというか、本当に業が深いなって自分でも思う。
結局今まで彼女を作ろうという気も起こらないまま、そして作ることもないままズルズルと来てしまった。いくら「玲奈ちゃん」が可愛くてもぼくの客観的なステータスは24歳男性・会社員であるということには変わりない。数年したら結婚したらどうかとかそういう話にもなるだろう。その時にはぼくは「玲奈ちゃん」に『ごめん、一緒にはいられない。別れよう。』って言わないといけないのだろうか。そうだよな言わないといけないんだよな。
その時に「玲奈ちゃん」はなんて言うだろうか。
「わかった、いいよ」って言ってくれるだろうか。「ずっと一緒じゃなきゃヤダ。一生玲奈になって。」って言うだろうか。
いつか言わないといけない時が来るというのはわかってはいるのだけれど、悲しくて向き合えなくてまだずっと言えてない。
追記
これ酢豚ちゃんに載せてほしい。
これって要は一人だと自分のことだけ考えてればいいから一番ラクだとようやく気づいたってだけで、至極当たり前のこと。
強がりとか見栄抜きで、独身を意識的に選択してる人間は当たり前のようにわかってること。
いいことももちろんあるんだろうけど、いいことばっかりじゃない。
じゃあいいことも悪いことも含めて最初から避けてれば、とりあえず傷つかなくてすむ。
臆病でめんどくさがり屋。
それだけのこと。
学問は手段にも目的にもなりうるから、そのあたりどう考えるかは人による。
おれも学問大好きだぞ!
もう30歳ちょいになったが、世の中のことがいろいろ見えてきて、学生時代にこんなこと勉強しときゃよかったな~って思うことが多々ある。
その「こんなこと」という学問が、やはり基本的には「実用に役立つ」ものであることは、1つの事実だ。
もちろん、それによって学問の優劣が決まるわけではないけれどね。
ちなみに、もう一度大学時代をやり直せるなら、以下のどれかを勉強するね。
学問は最高だ!