はてなキーワード: ボディランゲージとは
結論としては、無理だが、ほぼ近いことは出来るようになるのではないかと思う。少なくとも、テクニックは知れる。
私は誰かと会って話す時、必ず手元を見る。言葉は幾らでも嘘をつけるが、ボディランゲージは嘘をつけない。嫌いな人と向かい合って話す時、誰しもが体に緊張を走らせる。それはおおむね、手元を忙しなく触ったり、目線を逸らす事、ないし足先が不自然に外/内側に向いている事で伺える。
手元を触るという行為は色んな意味がある。落ち着く時にしている人もいるし、緊張を宥めるためにする人もいる。前者ならばゆっくりと撫でるように行われたりするし、後者ならば親指で素早くさするように行われたりする。いかにも緊張していないという感じで堂々とプレゼンする人に限って、資料をめくる指が震えていたりして面白い。
引用された記事には「電車セクハラ」とあるね。口頭でもセクハラは成り立つね(実際、「オオカミの口笛や脅迫的なボディランゲージ」という遠隔が例示されているね。もちろんそれならやっていいという意味じゃないけどな)。
この増田はどうやらセクハラと性犯罪を勝手に同一視しちゃったんだね。英語なら全文読まなくても読めたことにしていいとおもっちゃったのか。
あと未成年は必ず電車で通学しなきゃいけなかったり混雑しててなにされてるか見えなかったりするんだがそんな日本の電車とおなじ状況がもしかしてフランスにもあるのかな。
混雑してる電車で口笛吹いてもだれにむかってハラスメントしてるかわからないから空いてる車両でのことなんだろうね。
このブコメ見て、サッカーと野球って囲碁と麻雀みたいだなって思った。
そうだよね。サッカーはめっちゃシンプルなルールだけど、戦術とかが複雑で戦況が常に動いてて何もわからん。なんかよくわからんボールのやり取りやってんなと思ったらそっから一気に突破して点入るとか、戦術わからん民からは何が起きてんのかさっぱり。一方野球のルールはめっちゃ複雑だけど、一度ルール把握すれば今どんな状況なのか数字で教えてくれる。へー今6回裏で3点差でツーアウト満塁なんだ。これだけでだいたい状況がわかる。親切。
囲碁と麻雀も同じ。囲碁は呆れるほどシンプル。白と黒を互いに点に打ち合うだけ。基本ルールはどんなバカでも1分で覚えられる。なのに盤面がまったくわからん。どっちが有利なんだこれ。どっちがどっちを包囲しようとしてんのかさっぱり読めん。それに比べて麻雀はルールがクソややこしい。覚えるべきことがあまりにも多すぎる。でも一度覚えればあとはめっちゃわかりやすい。数字と模様を規則性に沿って組み合わせるだけで手ができる。囲碁で数ターンの間ボーッとしてたら敗北必至だけど、麻雀なら数ターンくらい脳死で打っても何とかなっちゃうよな。複雑な戦術が理解できなくとも10までの数が数えられればそれなりに打てる、それが麻雀。
もちろん、きちんと理解したり上達しようと思ったら、野球も麻雀もどっちも深い勉強が必要なんだろう。でも、一度ルールを頭に入れさえすればボーッとしててもそれなりにわかるというのは、なんか、庶民の娯楽として強いなと思うのだ。ルールが単純で世界に普及しやすいのとどっちが良いかと言われると困るけれど。囲碁もサッカーも最悪ボディランゲージでルール説明できちゃいそうですごいよな。でも疲れた頭で見たり打ったりする気力はねえんだわ。すまんな。
自分の良いところとか、趣味とか、価値観とかを相手に知ってもらうのって、仲良くなったり信頼されるのに大切だと思うんだ。
でも、自分から話すのが恥ずかしいと思ったり、相手に合わせようとして無理したりしたら、本当の自分を相手に見せられなってしまう。
だから俺からの提案は、「婚活は自己紹介コンテストだと思ってみる」ということだ。
婚活は他の人と競争しているわけじゃないけど、相手に覚えてもらえるには自己紹介が重要なんだ。
自己紹介コンテストだと思えば、自分の魅力を伝える方法や内容がわかるはず。
例えば、
とか。こういうのは相手に興味や好意を持ってもらいやすくもなる。
「婚活は自己紹介コンテスト」だと思ってみたら、楽しく話すことができるし、相手も自分のの魅力を感じてくれる可能性が高まる。
chat AIと比較して人間に物事を尋ねるアドバンテージは?
人間に物事を尋ねる場合、次のようなアドバンテージがあります。
非言語的な表情やボディランゲージ: 人間は言葉だけでなく、表情やボディランゲージなどを使って感情や考えを伝えることができます。このような非言語的な表現を理解することで、正確な情報を得やすくなります。
コンテキストに基づいた回答: 人間は質問に対する回答をする際に、質問者の意図や背景などのコンテキストを考慮することができます。このような背景情報を考慮することで、より正確な回答が得られます。
複雑な問題に対する回答: 人間は複雑な問題に対する回答をすることができます。Chat AIも高度な訓練を受けていますが、人間のような複雑な論理的思考能力や判断力を持っていない場合があります。
同意を得やすい: 人間は相手の意見や考えを理解しやすいところがあり、同意を得やすい傾向があります。このような人間同士のコミュニケーションは、より信頼関係を築くことができます。
これらのアドバンテージを考慮すると、人間に物事を尋ねることはChat AIに比べて、より正確な情報を得たり、信頼関係を築くことができる可能性が高いといえます。
2年振りの周年ライブということで久々に現地参戦。なんやかんやで配信でライブを見るのは楽というか、運否天賦のチケで米粒を見たり現地ライブビューイング状態になったりするのと比べればほぼ安定して表情まで見える上に何よりTwitterで実況しながら見られるのが楽しい、あと声出しが不可能な状態で現地は拷問が過ぎるのだがスキップされ続けてきた周年ライブならやはり現地で見たかった。
まず物販、事前通販無しのくせに早々にパンフとペンライトとタオル以外を当日分完売させて一体何年ライブやってんだ???という安定の運営。不良在庫が怖いのも分かるが機会損失が酷すぎる。
座席はA5、センター寄りで最前から3列目という希に見る良席。二次元アイドル系にしてはライブでの女性割合が何故か高いコンテンツだけあって左は全身のボディランゲージで高ぶった感情を表現するお姉さん、右はカップルだった。激しく動かれるのも困るけど、迷惑で無い程度に人が全身で楽しげにしてるのを見るのも楽しいのでこういうのも現地の魅力なのだと思う。ただ席と席は普通に詰めていたのでちょっと狭い。
ステージとの距離はかなり近めに見えるので、演出の炎が上がる度に確かな熱気を感じて驚いた。あの炎って特殊効果的なやつかと思ってたのに本当に熱い本物の炎だったんか…。
ゴンドラ演出があるので後方にも一応人権はあると思う。以前のライブであったような身長より高いアクリル板(ライトが反射して最悪)はなかったが、腰から下が覆われて何も見えないというのはどうだろう。簡易な柵状のだったりした時もあった気がするのだが。
セトリは初期の曲から人気曲、新曲とバランス良く組んだ感じ。やはりポエム要素は無しなのでまたフェス的なあれか。音響はいまいちというか、5人以上が歌う曲になるとやけに甲高く聞こえて安っぽく聞こえてしまう。この傾向は以前のライブ配信でも気にはなってたので音響的な問題なんだろうか。温存し続けてきたAcross the Rainbowを出すとは思わなかったけど残念音響なのが惜しい。
新規デビュー組、伊波杏樹と顔文字さんはそりゃソロでも十分強いというかむしろ組むと相手の方が大変じゃねという物凄い安定感と貫禄。りっか様も凄かったのでこの3人がソロなのは必然だし納得感がある。8年越しのライブデビューとなったが次に顔文字さんを見られる日は来るのだろうか。
どうせまた2時間程度のライブだろうとタカをくくっていたので中盤あたりでかなり足が疲れてきた(MCで前方が座らないので座れない)のは運動不足と体力低下のコンボかと思っていたが終わってみれば約4時間半、ほぼ5時間近いライブで手加減無し。こういうのでいいんだよこういうので。
特に発表とかは何も無し。周年ライブだから何かやると思うのだがまさかこのまま何も発表しないとかもやりかねんのだよな。
まあ端的に言えば久々の周年ライブは最高でした。
情報化社会の黎明期、人同士のつながる量が加速度的に増えていくことで可視化された問題の一つだ。
当時は言葉の響きだけが独り歩きして、本そのものをちゃんと理解できた人は少なかった。
その反応は大きく分けて2つ。
「自分の言いたいことをはっきりと言ってくれた」と肯定的な反応と、「バカとはけしからん。人は言葉でわかりあえるに決まってるだろう。」と否定的な反応だ。
しかし、その反応のどちらもがこの言葉に対して大きな勘違いをしていた。
それは、「自分の話が相手に伝わらない理由は、相手がバカだからであり、そこに越えられない壁=バカの壁があるから」という理解で読み解いてしまったことだ。
「人は自分の話が相手に通じなかったとき、相手がバカだと決めつける性質がある。」ことこそが、本当の意味でのバカの壁の存在を意味している。
しかもこの時、聞き手側にも「自分が相手の話を理解できない時、説明できない相手の方がバカであると決めつける性質がある。」というバカの壁も同時に存在している。
なぜなら、人の理解というものはその人の経験や知識から成り立つものであり、それらが両者に存在していない限りは、お互いが理解しあえるなんてことはありえないからだ。
つまり、相手がバカなのではなく、相手をバカと決めつける自分がバカなのだ。
これについては著者すら気がついていなかったと思う。
だからこそバカの壁の本質を理解できないやつは全員バカだ。という論調であの本は締めくくられていた。
自分の話が相手に伝わらなかった時、自分が「相手はバカだ」と思うのと同時に、相手も「説明がしっかりできないだなんてこいつはバカだ」と思っている。
だから、あの本の本質を理解できなかった人にしてみれば、著者はバカであり、バカの壁なんて概念は無駄なものだと考えられていた。
そうして、著者と読者それぞれがそこにバカの壁が存在していることを証明してしまうという皮肉な構図に至っていたことは、あまり知られていない事実だろう。
そもそも、言語というものはコミュケーションの中でそれほど多くの情報量を持っていない。
人同士がコミュニケーションを行う上では、ボディランゲージや声のトーン、表情、目線などのほうが、伝える情報量はよほど多い。
なぜなら、言語という道具を使い始めた歴史はそれ以外のコミュニケーション方法に比べれば非常に浅く、言語だけで情報を伝えられると思っていることのほうが誤解だからだ。
残念ながらそのことを理解できている人間は少ない。妄信的に言葉で情報の全てを伝えられると思いこんでいる人がほとんどだろう。
ここまで考えてみれば、つまり本当の意味でのバカの壁とは、言語のみで自らの思考や情報を伝えられると思いこんでいるおごりのことであることがわかる。
受け手に置き換えても、言語のみで説明されても理解できるはずだというおごりがそこにある。
今だってSNS上では当たり前のように誤解が繰り返され、真意が理解されることもなく説明も釈明も許されないまま受け手の都合によって勝手に解釈が広まっていく。
しかし、バカの壁の存在を認知できているだけで、人の理解力はまったくもって変わってくる。
情報が理解できない理由を相手ではなく自分に求めることができれば、足りない情報を自ら補うことができるからだ。
自分が理解できなかった理由は相手にあると考え、誤解させた人間を責める行動を取る。
自らのバカを棚に上げて、相手がバカだと罵るだけの野蛮な行為に走る。
ただただ情報や人の人生をエンタメとして消費するだけの、消費行動のみだ。
声高に批判する相手そのものに成り下がるというのも、バカの壁に見られる特徴的な行動の一つだ。
果たしてはてなユーザーに、バカの壁を越えてこの内容の真意を理解することはできるだろうか。
結局はこうして、バカの壁の話をする度にそこにバカの壁を可視化させることでしか存在を理解させることは不可能なのだろう。
今一度一人ひとりが自らの心にそびえるバカの壁の存在を見直すべきときに来ている。
人にはバカの壁が存在していて、相手に話を理解させることも相手の話を理解することもそもそもできないのだ。
だからこそそのまま情報の一つとして受け止めて、その情報を役立つものへと活かしていく。
それができる人だけがバカの壁を越えた向こう側に行ける人なのだろう。
これすらできる人にはとっくにできていることで、できない人だけがバカの壁の内側に取り残されているという皮肉でしかないのだが。
いまのはてなを憂い、向こう側に行きたい人にだけ届いてくれることを切に願う。
※蛇足
かつて士郎正宗氏は無知の知ではなく「不可知の知」であると置き換えていた。
人は何かを知れば知るほどに、知ることができないことを知るのだという。
そしてその時の自分は、それがコミュニケーションにおいても同様なのだと悟った。
どれだけ理解を深めようとも、最後まで理解することも理解させることもできないのだと。
それならば、そもそも理解を深めることだけを目的にすることはナンセンスである。
そこには最後まで取り払えないバカの壁があるのだから、相互理解はそこそこに、目的や行動を優先すべきだと悟ったのだ。
そこに少しでもヒントがあれば吸収し、利害がなければ自分には関係のない情報なのだと切り捨てるようになった。
確かコミック版攻殻機動隊のあとがき(BLACK MAGIC M-66だったかも)だったと思うが、他にも人生は螺旋階段を登るようなものだとか、士郎正宗氏の哲学の一部を垣間見ることができてとても興味深かった。