はてなキーワード: 部活とは
高校時代は10km42分ぐらいで走れて、放課後や週末は走りに行ってた。部活引退後受験して受かって2年で15kg太った。バスに乗り遅れそうで走ったら走れなくて、トレーニングしないといけないなーと思い走ったが走れず。足が動かないって苦しいなあ
そろそろ文科省からの「調子こきましたやっぱなしでorz」が聞こえる頃だと思っていたのだが、どうも世の中の流れを見ると『本気』でプログラミング教育をやるつもりらしいな。
技術の授業でやっている内容ですら既に一般の教員はついてこれてないと思う。
実際、多くの学校では、偶然パソコンに強い教員が、部活の顧問のような感覚でまとめて方針を決めているような状態だと聞く(知り合いから聞いただけなのでソース激弱。強いソース募集中)。
もしそれが本当なら、本格的にプログラミング教育をしようとしたら、英語の外人教師みたいにそれ専属の教員を用意する必要が出てくるはずだが、そっちの手配が進んでいるような話は出てきていない。
既存の教員の中にいる、偶然パソコン強い教員に「研修(自主的・サビ残・手当なし・出張がある場合のみ移動費のみ補填で弾丸ツアー)」を受けさせる形になるんだろうか。
じゃあ学校に偶然パソコン弱い教員しか居なかった場合はどうするんだろう?
多分、どうもしないんだろうな。
彼らが頑張ってパソコンを覚えてなんとかプログラミングを教育できるようにするための労力は相当の物になるだろうけど、その分絶対にどこかで無理は出るはずだけど……
それはそれとして、最大の問題はカリキュラムに使う時間配分だよね。
一応「総合的学習」と一時期呼ばれていた完全に無駄な時間を削っていけば少しはなんとかなりそうだが、それで国が当初立ち上げたようなプログラミング学習が完遂できるとは思えない。
スマホを弄ったことしか無い上に数学的素養も備えておらず、学習意欲が一切なく、論理的思考において才能を全く有しておらず、エクセルやワードすら自分と無関係のものであると思っているような人間にプログラミングを教えるのは非常に厳しい。
ビジュアルプログラミングを触って楽しいーで終わらせるにしても、数学や算数をまずはちゃんと教えてないならそれすら厳しいが……まさかプログラミングの学習に使う時間を捻出するためと称してその時間を削ったりは流石に……いや……やるんだろうなあ……
昔から学校の勉強はできて成績は上の方、旧帝大に入って難なく卒業してもうまく生きれない。
やりたくもない仕事をしている。
企業には人とうまくやっていける人が選ばれて勉強しててもなんの役にも立たない。当たり前か。
公務員って辞めようと思うのが難しそうだからなろうと思えなかったんだよね。
ずっとずーっと毎日同じところに行って同じ仕事をするのが怖い。
自分が辞めない限り1ヶ月後も来年も再来年も同じ会社で気の合わない人達とうわべの会話をするなんて気が狂いそうだ。
というか人と過ごすことがもう無理だ。
学校で勉強してればしてるだけ評価されるのは教師に都合がいいからなんだな。
私は教師に都合よく生きてきてただけなんだね。
部活でいじめられて中学校2日休んだら母親に休んでもしょうがないでしょって言われて取り合ってくれなかった日から家族も一切信用できない。
カレンダーじゃなくて感覚で季節の移り変わりを感じるように生きられたらな。
勉強できても勉強したことを褒めてなにかをもたらしてくれるのは自分以上に勉強した人だけだから、学校外に出たら私はただのガリ勉コミュ障にしか見えないんだな。
「貧乏学生」でググって出てくる「お役立ち情報」がどれも現実離れしてる。
学生が時間を持て余してるって前提なのもクソだし、学生も人間だからストレスフルになると病む。
実際の学生(私)は講義が毎日9時から18時まであるし、ゼミの日(週2)は20時まで。
バイトには週4~5で入るし、レポートも試験も、発表系の講義もあるから勉強でてんてこまいだ。
ゼミの発表がある週はゾンビの方が瑞々しい生命力に溢れている。
そこで、こっちは遊びじゃねえんだぞ~~と検索結果を巡回し続けていると、
過去の増田の「貧乏学生だけど何をしているのかわからなくなってきた。」を見つけた。
https://anond.hatelabo.jp/20161017031727
コレはかなり共感できた。
そこで、先人に倣って増田で愚痴らせてもらう。あわよくば助言が来たりしないかな。
まずは自分について。雪国の底辺国立大に通っている、ド文系の大学3年生。
家族構成は、定年間近の両親と、休職中の兄と、大学3年の私と1年の弟。
趣味は旅行と観劇と文芸。演劇サークルに入っていた頃は、脚本を書いていたのと、制作や舞監といった役割を主に担っていた。
そんな趣味をとうとう絶たざるを得なくなってきたので、こうしてクダを巻いている。
若い頃の苦労は買え、みたいなことわざがあるけれど、私は今本当に苦労を金出して買っている気分だ。
そのくせ将来への展望もない。
毎日をどうしよう、どうやって残り何円で生き延びよう、と思いながら生きている。
そして、9月からは5週間の教育実習、10月以降も卒論の調査が本格的に始まるので、全然バイトに入れない。
演劇サークルに入っていたけど、バイトを入れるため、それから人間関係に嫌気がさして辞めた。本当はもっとやっていたかった。
他の大学の演劇サークルの同期たちが活発に旗揚げしたり公演打ったりしているのを見る度に、お前らは私みたいに苦労してないから演劇ができるんだ、なんて酷いことも考えてしまう。
それもこれも金が無いからなんだ。ちょっと冷静になって、自分の一か月の金策を振り返る。
このバイト代が9月はゼロ、10月以降は3万ほどになって、合計3~6万ほどになることが予想されるので、今切羽詰まっている。
それから、親から4万借りている。これは学費のため。半年の学費26万を、親からの借金24万+どうにか捻り出した2万で払っている。
次に支出。
・家賃は3万。後期入試で大学に入ったため、お得な物件は埋まっていて、ここが一番安かった。
・水道・光熱費は1万。高すぎると思うだろうか。しかし私が住んでいるのは雪国なので、冬にはストーブの灯油代がかかる。
夏は7千円(上下水道2500+電気2000+ガス2500)くらいで済んでいる。しかし冬に備えて一月3千円の積み立てをしているので、出費としては1万円だ。
・通信費は家族割で安くなっているらしいと聞いて、特に何も聞かず親の口座に1万入れている。
ちゃんと聞いていないのは、後で詳しく書くけど親と仲が悪いからだ。1万も入れれば足りてるだろう。余った分は親が要求してやまない仕送りってことで。
・交際費に1万。飲み会に行ったり友達の誕プレを買っていたらすぐ消える。ここは10月から減らせないかと考えているところ。
・貯金に1万。ここで貯めた分でサークル費を払ったり、旅行や観劇に行っている。
自慢したいんだけど、私は貧乏旅行が得意だ。北国から神戸と京都に一泊二日で行って、飛行機代等全部ひっくるめて3万だった。
ヒッチハイクで行けばもっと安かったと思うけど、それだと時間がかかるから。ぱっと行ってバイト入った方がプラスだと思うし。
・残り2万が食費等。これが足りないらしく、バイトの給料日前には残り10円とかになっている。
一応今の所生活は成り立っている。ストレスを溜めすぎないようにちょこちょこ飲みに行ったり、趣味の旅行と観劇もできている。(文芸はほぼ費用ゼロだし)
しかし、10月からは収入が減る。書きながら思ったんだけど、教員採用試験の勉強もあるから予想していたのよりもっとバイトに入れないかもしれない。
厳しいなあ。まだ学費を親に借りれているだけましだけど。
奨学金を増額すればいいのかもしれない。でも、私は卒業したら親に学費を返さなきゃいけないし、加えて仕送りをしなければいけない。
というのも、私が卒業する年に、両親が定年退職する。うつで休職中の兄はまだ奨学金を返しきっていない。弟は院進を考えている。
教員の給料で家族4人を支えていかなければいけない事を考えると、奨学金の返済にあてる分は出来るだけ少ない方が良い。
こんな事なら進学しなければ良かった、なんて考えることもある。
両親は、私が中卒で就職すると思っていた。そこを必死に頭を下げて、高校、大学まで進んできた。
実家は山奥の限界集落にある。高校まで片道2時間、通学バスの定期券は1か月1万円強。お小遣いは基本無し、必要な時は用途を明確にして頼むこと。
教科書や授業で使う問題集のほかは、シャー芯と赤ボールペンと授業で使うノートの分くらいしか頼めなかった。
私はその地方(東北、北陸とか)で一番の大学に行きたくて、職員室のミスプリントをパクって勉強用のノートにしていたし、放課後にお腹がすいたら学校の水道から出る鉄臭い水を入れて飲んでいた。
(弁当は家にあるもので自分で作っていた。だいたい塩むすびだった)
結局その大学には前期試験で落ちて、センター逃げ切りの形で今の大学に入った。
今の大学でたくさんの尊敬する人たちや大切な友だちに出会えたから、後悔はしていない。
でも、大嫌いな両親の顔が一層見れなくなった。受験のために、余計にお金をかけてしまった。
私が両親を嫌う理由は、前時代的な観念を体現したような二人だからだ。進学させてもらった事に感謝はしているが、それとこれとは別だ。
私が女だから進学には猛反対したし、高校で入っていた部活で全国入賞しても、全く興味を示さなかった。
だから私は両親が嫌いだ。
それでも、卒業・就職して両親と縁を切れば、残された兄と弟はどうなるのか。それを思うと、仕送りは確実にしなければいけない。
兄と弟のことは好きだ。同じ親の下で生きてきた同房だから。
兄は復職の目途が立っていない。今は働いていた時の貯金から奨学金を返済しているが、このままだと踏み倒して自己破産だろう。
弟は、私が仕送りしなければ院どころか4年間の学費もままならなくなるだろう。両親が退職して4万の仕送りが出来なくなるんだから。
私は兄弟を助けるためにも、仕送りをしなければいけない。嫌いなクソ両親もそれを望んでいるし。
まてよ、学費の返済に月4万、弟の学費分4万、兄の返済分は今ちょっと分からないけど……月10万は仕送りしなきゃいけないやつ?
え、、詰みじゃん、、
何の話をしていたんだっけ。つい愚痴になってしまいました。申し訳ない。
あ、そうそう。将来を考えると奨学金は増額できないから、どうにか支出から3~4万削らなきゃいけないんだった。
増田を見ているみなさんのご意見が聞きたいです。以下に整理してみます。
家賃3万
通信費1万
交際費1万
貯金1万(あ、好きなバンドのライブに行くため今貯めてる分は8月に使い切ります)
食費等2万
進学校と言われるような私立高校を卒業して、誰もが「いい大学だね」というような大学を卒業して、誰もが「え、すごい!」というような会社に入社した。30歳で年収1000万は手堅いし、福利厚生は充実してるし、有休休暇だって自由に取れるし、残業も少ない。多分他人から見たら羨ましい人生に違いない。
よく「それを目標に生きてきたんでしょう」と言われもするが、全くそんなことはないのだ。ただ、目の前ことをもくもくとこなしてただけ。例えるなら、ポケモンでひたすらジムをいかに倒すかと考えて、レベル上げてただけ。
でも、そんな人生、気づいたことがある。何か誇れることが自分にはない。具体的にいえば、サッカーがうまいとか、楽器ができるとか、日本文化に精通しているとか、絵が上手いとか、なんでもいい。何もないのだ。
強いて言えば口が上手いとか、そんぐらい。でもそんなのは何も嬉しくない。
社会人になって、NPOとか政府とかがやっている国際交流プログラムに応募したくなった。学生のときは部活一辺倒、留学の「り」の字も見なかった。けれど、隣の芝生は青いのか、会社に入社してからいろんな経験をした同期や、社外の人を見ると自分も刺激を受けた。
ただ、いざ応募用紙を見ると、「この国際交流プログラムに参加するうえで役に立つ特技は?」「あなたが持つスキルでボランティアプログラムで役に立つと思われるものに丸をつけてください→絵・農業・日本文化・スポーツ……」こんなのばっかりだった。
自分が今持っている知識は何?いくら難しい金融工学の式を理解できても、自分はハローキティやドラえもんの絵は描けないし、田植えもしたことなければ、相撲や歌舞伎も見たことないし、サッカーもまともにできないし、できる楽器なんぞ一つもない。
24年間、自分の意思で自分の進路を決めて、ポケモンのようにレベル上げをしてきた。けれど、気づいたことは、ポケモンはレベル上げだけを楽しむゲームではなかったということ。途中のカジノにやってコインゲームをしたり、サファリパークで遊んだり、時には無駄死にしてみたり、「にげる」を選択しないでポケモンを捕まえまくったり、人生にはそういう寄り道が必要だったんだと思う。自分は寄り道の少ない人生だった。
いい大学を卒業して、いい会社に入って…という話、別に何もおかしくはないと思う。けれど、そこにいる人たちは多分普通の人が思うよりも何倍も面白い経験や趣味や特技を持っていて、自分がその場に今いるのがしんどい。
よくあるいじめられる側には何の問題もない!100いじめる側が悪い!って言うの確実に嘘だと思う。そんなことないよ。いじめられる側だって確実に悪いよ。
まあ平たく言えば浮いてる女のことをようやく知ったらしい担任に夏休みなりたての日にクラス全員呼び出されて学級会(笑)してきたんですが。別に物隠すとか暴力とか直接的なこともなかったし、ただヤバいやつだと思ってたからみんな距離置いて、事実を話してただけ。電車で明らかに目がイッてるおっさんいたら距離置きますよね、それは自衛でしょ。じゃあ日常生活でヤバいやついたら距離置くのは自衛じゃないの?もう子供じゃないんだから全員で仲良しこよしは無理でしょうよ。仲良く見えても折り合いつけてやってるのに、その折り合いすらできない人間に合わせる理由はないと思うんだけど。
休み時間に普通に話してるだけでわざわざ側まで来て机カツカツ叩いてうるさいアピールしてみたり、制服真っ白で不潔だったり、エロゲに出てくるような水着の女の子アイコンにしてるから引かれてるんだよ。お前がテストで一桁取った時、クラス全員で怒られたよな????何でこのクラスからそんな奴が出るんだ、雰囲気のせいじゃないのかって散々怒鳴られて、部活遅れて更に私は怒られたよ。その時もニヤニヤニヤニヤ嬉しそうに笑って、テスト机の上に出しっ放しにしてるから見えちゃったんだよね、点数。私はお前みたいに陰湿じゃないから誰にも言ってないから安心しな。お前のせいで部活遅れたあの日、大会のメンバー決めで危うく外されかけたんだけどさ。まあ外されなかったから怒ってはないから。死ねばいいとは思ってるけど。
わざわざお前のために全員集められて怒られて、どんな気持ちだったん?私たちがお前に問題があるって言った時もめそめそ泣いてそんなことないって言ってさ、あるんだよ。なきゃそんなことしねえよ。そもそも自衛が何でいじめになるのかがわからない。怖いんだよ。突然カッター取り出して刺しても何らおかしくなくて、クラス行動で突然消えられたら探すのも怒られるのも私たちなんだよ。
で、どうせこれ誰も見ないだろうしフェイク混ぜてるから見ても気付かれないだろうから言うけどさ。お前の面倒必死に見てたA、終わった後号泣して謝ってたよ。お前にじゃなくて皆にな。ごめん耐えきれない怖い気持ち悪いって。こればかりは悪いと思ってるよ、一人に面倒押し付けちゃったこと。優しいから何とも思ってないのかもしれない、って勝手に思ってた。本当にごめんなさい。優しさに甘えていました。Aははてななんて見ないと思うけど。本当にごめんなさい。
で、一人だけ被害者ヅラしてるのがどうしても気に食わなくてこれを書いている。加害者は浮いてる女で被害者はAで、それ以外は部外者であり、あの子にとっては謝罪すべき加害者。そうじゃないの?びっくりするような救いようのないクズでも優しく友達!って言ってあげないといけないの?これってむしろ浮いてる女がAをいじめてたんじゃないの?無理やり一緒にいて、それにより精神的苦痛を感じてたって立派ないじめじゃん。自業自得で自衛されてるのと比べるのがおかしいくらい辛い思いしてたよね。それはいじめじゃないの?救済措置はないの?実際に教師に言って全部お前たちが悪いいじめる側が悪いって勝手にいじめ認定されてるからここに書く。これって本当に私たちが悪いんですか?全部あの女のせいじゃないんですか?あの女がいなければ成績も良くて雰囲気もいいクラスのままでいられたんじゃないですか?
8歳ごろに昭和が終わる
小学生時代は、土曜は半日授業。今の若者には個性がないと言われ続けて育つ
親も週休1日で休日はほぼ遊んでくれることはなかった
忘れ物をすると教師に殴られるし廊下に立たされる毎日だったがそれが普通だと思ってた
教師の生徒へのセクハラも日常茶飯事だが問題になることはほぼなかった
大学受験失敗→浪人→ようやく大学入学するも、就職氷河期でなかなか就職が難しい
もちろんバブルの恩恵は一切ないが、恩恵を受けてきた世代の自慢話を聞かされる
転職を繰り返すことになった
中小企業に入るも、景気も悪く上の世代が詰まっているので出世できないことを目の当たりにする
それでも働き方改革もないし、会社の景気も悪いし20代はなんとか徹夜しながら精神論で乗り切る
つき合う子は、少し上の世代に奢られ慣れているし
専業主婦願望を唱えられても実現させてあげることは不可能だった
ようやく結婚できたのが35歳
マイホームを買うのはもう諦めた
それでも、就職氷河期世代は頑張りが足りない世代みたいに社会に扱われる
何の恩恵も受けていないし、生き残るために必死だっただけなのに
今の新卒世代には、精神論で生きてきたおじさん世代として扱われる
若い世代を定時で帰すようにするために中間管理職として残業を受け入れるため仕事は楽にならない
精神論世代の人が残業していても、昔からそうでしょとあまり罪悪感は持たれない
それでも39歳で早くも、古くて、邪魔な世代として扱われ始めている
僕らが社会人になった時に40歳くらいの人たちを見て感じたあの感情は
そんな8歳の頃から今まで変わっていないことがある
B’z’がずっと変わらずに売れていること
はいこちら18歳。初めて投票に行きましたがいろいろ思うところあるので書きます。前半が元記事へのアンサーで後半はポエム
5%から8%になった日に部活の先輩たちとコンビニでウワーッて言い合ったんですが1割ですよ1割
2.年金はどうでもいい
貰えないのはわかりきってるけど私たちに結構な額請求くるんですがそれは。滞納すると差し押さえるぞみたいな手紙くるらしいよ
3.まとめブログの影響
これ今回の選挙で思ったんだけど投票先選ぶのに政党マッチングはおろか候補者とか政党の公式ページで政策確認せずに雰囲気で選んでいる人がほとんどっぽくてそうなんだーって思いました。あと政策選んでくとマッチ度が出てくる系のサイト党によっては部分的に回答してなかったり△になってたりして雑なので必ず個別になってる表見たほうがいいと思った。当落予想みて一票の力を上げるやつは期日前行った後に知った
6.維新も怖い
そうだね
そうなんだ
あとれいわの障害者の人の記事読んで知ったけど障害者も被虐待児とおなじで法もシステムも穴だらけのガッスガッスで例外に対応できていないんだね
私は反出生主義だけど生まれてきた子供には社会が最大限サポートを施していくべきだと思うんだけど。子供は作るものじゃなくて出来ちゃうものだよ
貧富の格差がどんどん広がる、物価は上がっているのに給料は上がんなくて生活が苦しいというのは日本だけじゃなくて資本主義を採用してる先進国(?)の宿命っぽいところがある。歴史を学べばわかるように一つの体制、一つの仕組みをずっと続けていればだんだん行き詰まってきてガタガタになってくる。資本主義と民主主義という枠組みは当分変わらないだろうけど(加速主義はネタだし大澤真幸も言っているように「資本主義が終わった後の世界を私たちは“構想”することが出来ていない」)なんらかの修正をしなければ貧困層がどんどん多くなって今のアメリカみたいなことになるし私たちが定年(一体何歳になるんだ?)を迎える頃には一体どんな社会に成り果てているのか楽しみで仕方がない
確かに投票先を選ぶのは難しい、議会運営やドント式の計算法は義務教育で習うとはいえ党、候補者の政策や実績などを自分で見に行って正解があるわけでも正しい解法があるわけでもない"投票"をするという行為はさながらSFCの小論レベルですらある
おそらくメインストリームで特に苦は感じないような生活をしてる大部分の人にとって別に戦争が起こるわけでもない政治というのはどうでもいいしまとめサイトを見て判断するレベルの重要度なのかもしれない。しかしながら今この日本ではセーフティーネットから転げ落ちた人や虐待される子供達、働いてもまともに生活ができない人などの弱者が増えている。これらは個々の事例ではなく大きな流れだということは社会学を見るとわかるがこれにシステムで対応していくために政策を打つことが必要で弱者にとっては文字通りの生きるか死ぬかの話になってくる。れいわ新選組とかいう自殺者が増えてる生きづらい社会を生きてるだけでいいんだという社会にしますという健康で文化的な最低限度の生活の10歩手前ポエムを掲げる政党が何億も寄付金もらって2議席とるような社会に生まれて本当に悲しい
高専について知りたい人や高専に職を求める人に向けて、いわゆる高専に採用され働いてみた感想を書いた。
高専と一口に言っても色々ある。上から下まで序列ができていて学生や教員の質は雲泥の差であるらしい。上は大学編入予備校と化したお受験高専から、下はコネと気合と根性で中級技術者という名のほぼ技能工を企業に送り出す工業高校のようなものまでが同じ「高専」という言葉でひとくくりにされている。ここに書かれているのはあくまで最下層の淀んだ高専の話であるということにご留意いただきたい。
当たり前だけれど、自分が働いた職場以外のことはほとんど知らない。学会で会った知り合い、部活引率先の懇親会で交わした会話などからほかの高専のことは推察するしかない。私の見てきた世界と、学会などで出会う高専生を比較すると平均的な高専生は素直で良くできると思う。だから、私が感じてきたよりは高専全体のポテンシャルは高いはず。
高専の使命は「実践的技術者の育成」なのだそうだ。実際に私が高専で目にしたものは、平均かそれ以下の学力をもつ田舎の中学生を集めて、食っていける程度に躾と学習を施し、会社へ送り出すというものだった。また、ひとり親家庭など経済的にハンディを抱えた中学生を職業に結び付ける「社会の落穂拾い」でもあった。ここまでこの文章を読んで、あなたは「なるほど高専は社会に役立つすばらしい高等教育機関だ!」と納得したかもしれない。高専がどんな役割をもつ場所なのか、知ってほしい。
実のところ、高専教育は学力以外の「教育」が多い。博士を取って専門を極めてきた人たちにとってはカルチャーショックだろう。この「教育」に馴染める人は高専に残るし受け入れられない人は去っていく。教育のためにすることは会議だ。会議、そして会議のための会議、すべては教育的配慮というふわっとした美名のもとに決まっていく。子供だからと悪人がのさばり、善人が去っていく。
担任をすれば、すべての時間は学生に割かれる。あれもこれも、すべて担任のせいにされる。
寮や部活は前時代的な暴力が支配する世界だ。さすがにいまは身体的暴力はないが、言葉の暴力は公認され教員は暴力を擁護する側に回らなければ運営できない。高専では強くなければ生きていけない、そういう当たり前のことを見せつけられる。それが教育なのだろう。
高専の求人には博士の学位がほぼ必須だ。だから、私は高専教員が独立して研究を行うことのできる仕事なのだと思っていた。働いてみて、高専教員が研究できる仕事というのは嘘じゃないとわかった。しかし、研究に裂けるリソースは驚くほど小さいし、年齢や職位が上がれば上がるほど研究の割合小さくなることが容易に予見できるというのは辛い。
学問的な研究は否定こそされないが歓迎されないと感じる。「実践的技術者の育成」こそが主目的であり、研究はそのオマケであるべきという雰囲気を学校ぐるみで感じた。そんなもの無視している先生もいたけど。時間が限られているので仕方がないが高専での研究内容はよく言えば流行りに乗った、悪く言えば軽薄なものばかりだった、骨太なものは煙たがられる傾向にあった。日本の研究自体が即物的なものに誘導されつつあるので、もうじき高専は過剰適応として絶賛されるだろう。
上司の意向など誰にも邪魔されずに研究テーマを設定できるから、うまく研究を手伝ってくれるパートナーを見つけることができればいいかも。
ちなみに、高専の教員リストには工学博士などの学位がズラッと並んでいる。しかし実際のところ、高齢高専教員の学位は、お上の意向でしかたなく取得したハリボテみたいなものだと知ってほしい。
高専機構というお役人様の改革病に付き合わされて、高専は疲弊している。小さな予算をもらうために企画書を書き仕事を増やし、高専教員は様々な機関の下請けにされそうになっている。そしてこれからクビキリはないにせよ、退職者の不補充で地獄が始まる。
学生たちはよく言えば純粋だし、別のいいかたをすれば子供だった。子供相手には誠実さだけではダメで、チカラで黙らせるみたいなスキルが必要だ。子供が好きで思春期の悩みに向き合って人格的な成長を引き出したい人にこの仕事は理想的かもしれない。でもそれって、工学博士という条件じゃない気がする。
愛すべきテキトーおじさんたちが大好きだった。仕事でやらかした数々の失敗伝説を持つおじさんたちがいて、人生の教訓みたいなものを生で見せてくれた。
私が見てきた高専教員には三つのパターンがあった。第一に間違って高専に来ちゃったポスドクタイプで、こういう人は雰囲気ですぐわかるし数年ですぐ辞める。第二は熱血教師で、学生指導も卒研指導も大好きみたいなワーカホリックだ。そういう人は自分が忙しいだけじゃなく周囲の仕事も増やしていく困ったタイプだけれど、この層で高専の運営は回っている。第三は重鎮タイプで、誠実で穏健なおじいちゃんや、数々の失敗伝説や奇行エピソードをもつ勇者まで様々だ。あなたは、どんな教員になりたいのだろうか考えてみてはいかがだろうか。
いったい、高専教員として長くはたらき続けている人たちは、何に喜びを見出しているのだろうか、私にはわからない。だから、長く働き続ける理由を見つけられたらいいかもしれない。
「高専で研究できなければ、どこにいっても研究できない」という名言を盾に揺さぶりを掛けてくる人がいるかもしれない。それは、ブラック企業の「ここを辞めたらどこでもやっていけない」と同じ構造なので惑わされないように。高専の他に行き場がなければ高専で自らを鍛えてもいいかもしれない。ただし、転職という退路は常に意識しておいたほうが良いと思う。
実名ながらパワハラなど高専のおぞましい実情をほのめかす良質な高専退職エントリもあるのでご参考まで。人材が定着せず次々と求人が出るのはそれなるの理由があるのでしょう。
高専教員は学生からの「勉強教えて~!」の質問攻めに無い知恵を振り絞って切り返すという面白さがあったり。卒研発表会後の学生の笑顔を見れるという喜びもある。この仕事やっててよかったなって感じることもある。しかし、週末や連休になると部活引率で早朝から駆り出され、こんな人生求めてたのかと悩む。嵐の夜は宿直でビクビクしながら眠れない夜をすごすことになるし、救急車の音が聞こえると、学生が巻き込まれていなければよいのだがと心配する仕事である。
もう終わりにするつもりなので、今の気持ちを書き留めたくなったからここに書く。
私の好きな人はアイドルだ。芸能系とかじゃない、普通科の高校の同級生だ。同じクラスになったのは一度だけだ。多分向こうからしたら顔すら曖昧な認識だろうと思う。それは無理もなく、彼は明るい人間で、運動部で活躍していたそうだから中等部の頃からとても目立っていた。かたや私は文化部で、部員の少ない部活だったから具体的な名前は避けるが、まあ、文芸部とか生物部とかあのへんだと思ってくれたら大体正解だ。彼がヒエラルキーの頂点なら私は最下層だ。彼の情報も大概は言伝のそのまた言伝を盗み聞きして得たようなもので、生きる世界が違いすぎる。まあそんなことこんなところでくだを巻いている時点でお察しだと思うが
好きな理由は色々ある。主にとても彼の身体が好きだった。手脚が長くて太いところと、骨盤の位置が高いところが特に。正直私は(当時は)女みたいだった彼の顔をまったく美形とは感じていなかったが、アイドルになるくらいだしきっと美形なんだろう。入学して間もない頃に校内で歩いてる彼を見かけて好きになった。それからしばらくして、彼が教室のドアを音をたてないように閉めているところを見て本当に好きになった。我ながらわけがわからないと思う。その頃から私は彼の周囲を嗅ぎまわり彼に関する情報をかき集めては妄執にとらわれるようになった。彼に絶対迷惑をかけないようにというのは念頭に置きつつ、あまりここで書きたくないようなこともした。人生で一番猿に近づいた時期だ。でもこの頃が一番幸せだった。
具体的な時期を書くのは避けるが、彼が芸能事務所に入ったことを知ったのは多分同級生のなかでも結構遅かった。同じ部活の後輩が自慢げにSNSに書いていたのを見て知った。その時は驚きこそしたが「まあまあ」と思った。どうでもいいとか思っていた。恥ずかしながら私は(今もだが)そういう芸能界みたいなのに疎くて、なんだかよく聞く読者モデルとかそういうものなんだろうと考えていたからだ。
そこから特にイベントも無く、たまに彼のクラスの前を通って窓の隙間から彼の姿を見ては満足することに終始した。それで結構幸せだった。だがいつからか彼が学校にあまり来なくなったあたりからその楽しみも失われた。ただでさえ少ない遭遇の機会が気付けばゼロに近い値になった。
私はネットが好きなくせに意識的にアイドルとしての彼を調べることを避けていたが、そこで初めて彼の名前で検索した。ショッキングだった。知らないことがたくさん書かれていた。あんなに知りたかった彼の身長や血液型や家族構成がすぐに判明した。それが誰でも読める状態であるというのが衝撃だった。ツイッターで検索すると私と同じように彼のことが好きな人が把握しきれないくらい無数にいたのも胃液が口から飛び出そうになるくらいストレスだった。学校にあまりいなくなった理由は、多分彼のアイドルの仕事が忙しくなったからだった。簡単なことだったし私はそんなことも知らなかった。でもネットで読めた彼の言葉を何日もかけて読み込んで、彼は私の認識していた通りの彼であることがわかり幻滅しなかった自分に心底ほっとした。何を言ってるかわからないと思うが涙が出る程嬉しかった。
それから私は偶然スマホを水没させて数日インターネットを絶ったのをきっかけに、私はもう彼のことを忘れるようと努力しはじめた。インターネットを介して彼を知るほどまた好きになってしまって、でももう私だけの彼じゃないと思うと酷く辛くて何も手につかなくなった。学校集会などでたまに彼を見かけることもあったが意識的に見ないようにした。この頃から受験勉強にも追われ、親しかった友人は内部進学を決めたので自然と外部受験の私とは疎遠になり、本当に孤独で、静かな場所に一人でいるとずっと彼のことを考えてしまうからなるべく雑音の多い場所で勉強をして時間を潰すようになった。成績は上がった。親がとても喜んでいるのが複雑だった。そしてテストの順位が忙しい彼とたいして変わらないことをクラスメイトの会話を介して知ったときは暗い興奮を感じた。おかしな話、彼はすごい奴なのだと誇らしかった。
そういう期間が長くあって、それはそれで精神の安定した時期でもあったのだが、決定的なことがあって全てが終わった。いつのことかはぼかす。
きょうだいがテレビを見ているそばで勉強をしていたら、よく知った声が聴こえてきて、画面を見たら偶然彼が出演していた。文字にすればそれだけのことだった。でもそれが、今までで最大の耐え難いほどのショックだった。そのショックの出処はわからない。なんでこんなに悲しいんだろうと考えることすら悲しくて悲しくてやりきれない気持ちになった。
それから色々なことをとめどなく考えた。今まで思考を避けていたぶん苦しくて数日頭痛が止まらなかった。もし私が彼と同じクラスになることがたくさんあったら同じ部活に入っていれば何か変わっていただろうかと考えることもあったが、きっとどう運命が変わったって私と彼が交わることはなかったのだと自分にわからせるのはそれなりに時間を要した。
自分は、彼がもう恐ろしいほど遠い世界の人間になってしまったことを、スマホの画面や私の視界のような小さく個人的なものではない、大きなテレビ画面に映っている彼を見て、初めてそこで自覚して動揺してしまったのだと、客観的に考えればわかる。だがあの時の私は錯乱状態でそんなことがわからずただ真っ暗な悲しみの中でどうすることもできなかった。
そしてある日学校帰りに街で彼の顔がプリントされたグッズ?をカバンに着けている同年代くらいの女を見かけて反射的にふらふら着いて行ってしまった。彼女は地下鉄に降りていった。私はもしかしてと感じて彼の名前で検索してしまって、彼の出演するライブが丁度その日あると知った。今思えばなんでそんなことをしたのかわからないが、私は気付いたら地下鉄に乗ってその会場に向かった。調べた最寄り駅で降りるとなんだかそれらしい女達がたくさんいて、私はそれだけでオドオドしてしまって早足で彼女らを追い抜くようにしてホームを出た。彼女らのざわざわした話し声の中に時々彼の名前が現れて心臓がバクバクして背汗が止まらなかった。地上に出てからはもっとたくさんの彼の、もしくは彼と同じグループの人のファンらしき人間がたくさんいて、それらは皆一様に同じ方向に歩いていて、あっちかあの方向に彼がいるのかだからみんなあっちに歩いているのだ、と私も突き動かされるようにそれに倣った。よく晴れていたからかなんなのか、汗が止まらなくてしょうがなかったことを鮮明に覚えている。
辿り着いた先は大きな建物だった。綺麗だけど変な匂いがするところだった。ぞろぞろとファンらしい女達がいて、たぶん入場待ちみたいなことなんだろうか。この全員が彼のことを好きなのだと思うと漠然とした恐怖に襲われ、あまり近づけず遠巻きにそれを見ていた。彼の顔がプリントされた様々なものが何度も視界を過った。巨大なモンスターと対峙したような無力感に襲われて、私はここへ来て何をするつもりだったんだ?と自分で自分を責めた。
すると、わりと近からず遠からずな場所に立っていた二人組の女達がちらりとこちらを見た。偶然かと思ったが次は力強く二度見されて、確実に私を見ていることがわかった。私は怖くなって俯き携帯を触っていると彼女らは何事かひそひそ話始めた。ほとんど聞き取れないような声量だったが「あの制服」と言っているのだけははっきりとわかった。
次の瞬間に私は来た道を引き返していた。話しかけてこようとしているような素振りもあったがそれでも走って逃げてしまった。奇異の目だった。あそこにいた彼女らの大半の容姿はとてもかわいい女の子といった風で、私はあの場で死ぬほど浮いていた。気付いてしまった。私が彼を好きでいるのはおかしくて迷惑なことなのだ。そうはっきりと自覚して、今まで何年間も彼のことが好きだった幸せな記憶がフラッシュバックして、その幸せと同じ分の後悔が押し寄せてきて潰れてしまいそうになった。体力が無いのに全力で走ってしまったから息切れて、もう惨めで惨めで涙と塩辛い唾液が止まらなくて、駅のトイレで吐いた。
私はこの日の夜に、初めてはっきりと「もう好きでいることをやめる」と決めた。今まで彼への感情から逃げることはあっても「やめる」とは明言していなかった。そう決めてしまうと、急速に自分の中を占めていた彼の存在が萎んで、不思議なくらい気持ちは落ち着いた。
でもまだ自分の中に彼が残っていた。完全には消えなかった。こうやって彼とのことを物語的に書くことで自分の中で完結させて切り離そうと思った。それは私の勝手であるからどう責められても仕方ないと思う。彼が特定されるような記述はなるべく避けたつもりだし多少筋が曲がらない程度に嘘も交じっているが、別にもうどうなってもかまわないと感じているのも本音のところで、最後に彼に迷惑をかけてみたいと思っている自分がいる。でも一生私のことを知らないでいてほしいのも本当だ。一貫性がない。だいぶ長くなった。推敲だとかもしてないから色々おかしいと思う。もう好きではないけど、彼を好きでいたこの数年間はたぶん一生忘れないと思う。
最後に。何かの間違いでここに辿り着いてしまった彼へ。これからも頑張ってください。応援は出来ないけど、あなたの人生を神様が後押ししてくれるようここから祈っています。あなたの全てが上手くいきますように。
私はずっと吹奏楽をやっている
夏になると吹奏楽部OBなので現役が自分の大会に集中出来るように、自分達の大会が近くなればホールに合わせて音作りをしている金管の子達の唇が壊れないように土日だけでも手を貸してくれないか?と声が掛かる。
今現在の子達も今私が所属している市民楽団と母校の常任指揮が一緒だから、交流があるし、とても可愛い後輩達だから協力したいが、現役時代のことを思いだし腹が立ち応援を手伝ったことはない
なんで吹奏楽部はこんなにも野球部の為に力を割かなければいけないのか?野球はそんな偉いのか?そんな気持ちを現役時代を思いだしながらツラツラと書く。
私達の部は全国常連ではないが、年によっては全国に行くし、アンサンブルでもソロでも毎回そこそこまで行くので県外からも吹奏楽部に入るために受験をする子達が居たし今もそうである。
部員皆、自分が大会メンバーになれるように努力しているが編成の関係上全員が大会に出れるわけではないので、基本的には大会メンバーから漏れたメンバーで野球の応援をして居るが野球部の保護者会の人達に人数が少ないと文句を言われていた。
私達だって自分達の大会の練習の合間を縫って応援しに来ている。
なんで朝の5時とかに集合して野球の大会会場に向かってろくに音出しが出来ない中で何よりも音量だと言われながら朝イチから自分では納得できない汚い音で楽器を吹かなければいけないのか?
太陽が出れば金管はどんどん熱を持ちピッチが合わなくなるし、持っているのも辛い位楽器が熱くなることもあった。
クラリネットは外に出したくないからとプラ菅で吹いていたらいつもと違う楽器でしょと保護者会の人達に言われ、禁止され、天気が良ければ日射し、多少雨が降っていれば雨に大切な楽器を傷付けられて泣いていた。
確かに送迎はしてもらっていたが、頼んできているんだから足を用意するのは当たり前だと思うし、応援しに行っても飲み物一本ですまされて、思い返しても納得できないことばかりだった。
文句を言うなら吹奏楽部に頼まず野球部で人も楽器を揃えて欲しい。
プラ菅禁止と言ったクラリネット、キチンとしたものは安くて30万~上を見たら切りがないし、メンテナンスだって必要なものなんですよ?
もっと音だしてとトランペットの子に言ってたけど反響なんかないスタンドで必殺仕事人のソロでそれ以上音出せって?充分響いてますよ!!納得できないならアンプとマイク持ってきて!
ホルンの子は熱持った楽器のせいで手が低温火傷みたいになってるんですよ?知ってますか?
長時間の応援の為に座っているチューバやスーザに立てって強要しないでくれませんか?その楽器見た目通り大きいんです、重さもあるんですよ。
先輩達や私達の大会の結果や、2000超えのキャパで1日複数公演を有料でも埋められて、それを十何年も継続出来るだけの実力がある部活だから新しい楽器購入の時学校からの部費や毎月徴収していたお金で賄い切れない部分を支払いしてくれる企業やスポンサーも居た。その事を考えるとよっぽど野球部より期待されてるのに?なんで?ってなる
野球部やその保護者達は無償で引き受けていることに感謝をして欲しい。
吹奏楽部は吹奏楽部の本来の部活を努力している中で、頼まれたから引き受けている。
考え方のやり方に納得できないならなんで頼むの?自分達で楽器の準備も演奏して欲しい
吹奏楽部は吹奏楽部として一人一人が夢や目標を持って吹奏楽部に入部している。
ほとんどが全国金賞っていう夢だ。
野球部と同じように大会で次に繋がるようにその時の全力を出す。
より全力の力を引き出すために毎日基礎連やパート連、大会が近いなら合奏をしたり、合宿をしたりやっていることは何一つ変わらない。
それを知って欲しい。遊んでいるわけじゃない、真剣に、全力で楽器を演奏している。
泣くなら悔し涙じゃなく喜びの涙を流したい
文化部と言われているけど、部内でオーディションして大会に出れるか出れないか決まったり、金賞でもダメ金なら次への道がなくなったり、
本当に何一つ変わらないと思う。
私達の努力は私達の為の努力で他の部活の為の努力ではないのになんで野球部と吹奏楽部は吹奏楽部が浪費させられるのがまかり通るのか…
楽器の演奏が華やだから欲しいって理由ならば、野球部内の有志や野球応援をしたいって人を募って応援団を作ればいいのにそれをしない理由は?なんで?
アニメの中でおそらく一番好きなのが「響け!ユーフォニアム」シリーズだと思う。このアニメのおかげで大学1,2年の頃のオーケストラ部を頑張れたんだと思う。結局途中でやめてしまったけど、あの頃頑張った自分は偉かったし、今にも生きてきていると思う。本当にありがとう。
ハルヒやけいおん!も好きだった。ちゃんと見たのが大学に入ってからだったが、こんなに完成度の高いアニメが自分が中学生・高校生のころに存在していたこと自体にも驚いた。「けいおん!」の曲はかなり好き。「U&I」の気分だ。
CLANNADやAIRは恥ずかしながら見たことがない。この機会に見返そうと思う。
しかし何と言っても響け!である。人生の半分くらいを音楽に費やしてきた自分にとってここまで刺さる作品もないんだと思う。特別になりたいと頑張る孤独な少女。目標を見出せずにいたが友人に感化されて目標を見出した少女。部活を純粋に楽しんでいる少女。そんな少女を認められない、音楽に真剣な少女。一歩引いて見ているようで実は未熟な少女。登場人物全てが美しい。これは原作の素晴らしさももちろんなのだが、京アニの音楽・作画によるものも大きい。ありがとう京アニ。
亡くなられた方々、ご冥福をお祈りします。
もう終わりにするつもりなので、今の気持ちを書き留めたくなったからここに書く。
私の好きな人はアイドルだ。芸能系とかじゃない、普通科の高校の同級生だ。同じクラスになったのは一度だけだ。多分向こうからしたら顔すら曖昧な認識だろうと思う。それは無理もなく、彼は明るい人間で、運動部で活躍していたそうだから中等部の頃からとても目立っていた。かたや私は文化部で、部員の少ない部活だったから具体的な名前は避けるが、まあ、文芸部とか生物部とかあのへんだと思ってくれたら大体正解だ。彼がヒエラルキーの頂点なら私は最下層だ。彼の情報も大概は言伝のそのまた言伝を盗み聞きして得たようなもので、生きる世界が違いすぎる。まあそんなことこんなところでくだを巻いている時点でお察しだと思うが
好きな理由は色々ある。主にとても彼の身体が好きだった。手脚が長くて太いところと、骨盤の位置が高いところが特に。正直私は(当時は)女みたいだった彼の顔をまったく美形とは感じていなかったが、アイドルになるくらいだしきっと美形なんだろう。入学して間もない頃に校内で歩いてる彼を見かけて好きになった。それからしばらくして、彼が教室のドアを音をたてないように閉めているところを見て本当に好きになった。我ながらわけがわからないと思う。その頃から私は彼の周囲を嗅ぎまわり彼に関する情報をかき集めては妄執にとらわれるようになった。彼に絶対迷惑をかけないようにというのは念頭に置きつつ、あまりここで書きたくないようなこともした。人生で一番猿に近づいた時期だ。でもこの頃が一番幸せだった。
具体的な時期を書くのは避けるが、彼が芸能事務所に入ったことを知ったのは多分同級生のなかでも結構遅かった。同じ部活の後輩が自慢げにSNSに書いていたのを見て知った。その時は驚きこそしたが「まあまあ」と思った。どうでもいいとか思っていた。恥ずかしながら私は(今もだが)そういう芸能界みたいなのに疎くて、なんだかよく聞く読者モデルとかそういうものなんだろうと考えていたからだ。
そこから特にイベントも無く、たまに彼のクラスの前を通って窓の隙間から彼の姿を見ては満足することに終始した。それで結構幸せだった。だがいつからか彼が学校にあまり来なくなったあたりからその楽しみも失われた。ただでさえ少ない遭遇の機会が気付けばゼロに近い値になった。
私はネットが好きなくせに意識的にアイドルとしての彼を調べることを避けていたが、そこで初めて彼の名前で検索した。ショッキングだった。知らないことがたくさん書かれていた。あんなに知りたかった彼の身長や血液型や家族構成がすぐに判明した。それが誰でも読める状態であるというのが衝撃だった。ツイッターで検索すると私と同じように彼のことが好きな人が把握しきれないくらい無数にいたのも胃液が口から飛び出そうになるくらいストレスだった。学校にあまりいなくなった理由は、多分彼のアイドルの仕事が忙しくなったからだった。簡単なことだったし私はそんなことも知らなかった。でもネットで読めた彼の言葉を何日もかけて読み込んで、彼は私の認識していた通りの彼であることがわかり幻滅しなかった自分に心底ほっとした。何を言ってるかわからないと思うが涙が出る程嬉しかった。
それから私は偶然スマホを水没させて数日インターネットを絶ったのをきっかけに、私はもう彼のことを忘れるようと努力しはじめた。インターネットを介して彼を知るほどまた好きになってしまって、でももう私だけの彼じゃないと思うと酷く辛くて何も手につかなくなった。学校集会などでたまに彼を見かけることもあったが意識的に見ないようにした。この頃から受験勉強にも追われ、親しかった友人は内部進学を決めたので自然と外部受験の私とは疎遠になり、本当に孤独で、静かな場所に一人でいるとずっと彼のことを考えてしまうからなるべく雑音の多い場所で勉強をして時間を潰すようになった。成績は上がった。親がとても喜んでいるのが複雑だった。そしてテストの順位が忙しい彼とたいして変わらないことをクラスメイトの会話を介して知ったときは暗い興奮を感じた。おかしな話、彼はすごい奴なのだと誇らしかった。
そういう期間が長くあって、それはそれで精神の安定した時期でもあったのだが、決定的なことがあって全てが終わった。いつのことかはぼかす。
きょうだいがテレビを見ているそばで勉強をしていたら、よく知った声が聴こえてきて、画面を見たら偶然彼が出演していた。文字にすればそれだけのことだった。でもそれが、今までで最大の耐え難いほどのショックだった。そのショックの出処はわからない。なんでこんなに悲しいんだろうと考えることすら悲しくて悲しくてやりきれない気持ちになった。
それから色々なことをとめどなく考えた。今まで思考を避けていたぶん苦しくて数日頭痛が止まらなかった。もし私が彼と同じクラスになることがたくさんあったら同じ部活に入っていれば何か変わっていただろうかと考えることもあったが、きっとどう運命が変わったって私と彼が交わることはなかったのだと自分にわからせるのはそれなりに時間を要した。
自分は、彼がもう恐ろしいほど遠い世界の人間になってしまったことを、スマホの画面や私の視界のような小さく個人的なものではない、大きなテレビ画面に映っている彼を見て、初めてそこで自覚して動揺してしまったのだと、客観的に考えればわかる。だがあの時の私は錯乱状態でそんなことがわからずただ真っ暗な悲しみの中でどうすることもできなかった。
そしてある日学校帰りに街で彼の顔がプリントされたグッズ?をカバンに着けている同年代くらいの女を見かけて反射的にふらふら着いて行ってしまった。彼女は地下鉄に降りていった。私はもしかしてと感じて彼の名前で検索してしまって、彼の出演するライブが丁度その日あると知った。今思えばなんでそんなことをしたのかわからないが、私は気付いたら地下鉄に乗ってその会場に向かった。調べた最寄り駅で降りるとなんだかそれらしい女達がたくさんいて、私はそれだけでオドオドしてしまって早足で彼女らを追い抜くようにしてホームを出た。彼女らのざわざわした話し声の中に時々彼の名前が現れて心臓がバクバクして背汗が止まらなかった。地上に出てからはもっとたくさんの彼の、もしくは彼と同じグループの人のファンらしき人間がたくさんいて、それらは皆一様に同じ方向に歩いていて、あっちかあの方向に彼がいるのかだからみんなあっちに歩いているのだ、と私も突き動かされるようにそれに倣った。よく晴れていたからかなんなのか、汗が止まらなくてしょうがなかったことを鮮明に覚えている。
辿り着いた先は大きな建物だった。綺麗だけど変な匂いがするところだった。ぞろぞろとファンらしい女達がいて、たぶん入場待ちみたいなことなんだろうか。この全員が彼のことを好きなのだと思うと漠然とした恐怖に襲われ、あまり近づけず遠巻きにそれを見ていた。彼の顔がプリントされた様々なものが何度も視界を過った。巨大なモンスターと対峙したような無力感に襲われて、私はここへ来て何をするつもりだったんだ?と自分で自分を責めた。
すると、わりと近からず遠からずな場所に立っていた二人組の女達がちらりとこちらを見た。偶然かと思ったが次は力強く二度見されて、確実に私を見ていることがわかった。私は怖くなって俯き携帯を触っていると彼女らは何事かひそひそ話始めた。ほとんど聞き取れないような声量だったが「あの制服」と言っているのだけははっきりとわかった。
次の瞬間に私は来た道を引き返していた。話しかけてこようとしているような素振りもあったがそれでも走って逃げてしまった。奇異の目だった。あそこにいた彼女らの大半の容姿はとてもかわいい女の子といった風で、私はあの場で死ぬほど浮いていた。気付いてしまった。私が彼を好きでいるのはおかしくて迷惑なことなのだ。そうはっきりと自覚して、今まで何年間も彼のことが好きだった幸せな記憶がフラッシュバックして、その幸せと同じ分の後悔が押し寄せてきて潰れてしまいそうになった。体力が無いのに全力で走ってしまったから息切れて、もう惨めで惨めで涙と塩辛い唾液が止まらなくて、駅のトイレで吐いた。
私はこの日の夜に、初めてはっきりと「もう好きでいることをやめる」と決めた。今まで彼への感情から逃げることはあっても「やめる」とは明言していなかった。そう決めてしまうと、急速に自分の中を占めていた彼の存在が萎んで、不思議なくらい気持ちは落ち着いた。
でもまだ自分の中に彼が残っていた。完全には消えなかった。こうやって彼とのことを物語的に書くことで自分の中で完結させて切り離そうと思った。それは私の勝手であるからどう責められても仕方ないと思う。彼が特定されるような記述はなるべく避けたつもりだし多少筋が曲がらない程度に嘘も交じっているが、別にもうどうなってもかまわないと感じているのも本音のところで、最後に彼に迷惑をかけてみたいと思っている自分がいる。でも一生私のことを知らないでいてほしいのも本当だ。一貫性がない。最悪だ。だいぶ長くなった。推敲とかもしてないから色々おかしいと思う。もう好きではないけど、彼を好きでいたこの数年間はたぶん一生忘れないと思う。
最後に。何かの間違いでここに辿り着いてしまった彼へ。これからも頑張ってください。応援は出来ないけど、あなたの人生を神様が後押ししてくれるようここから祈っています。あなたの全てが上手くいきますように。
細かく分けるとまた揉める元になるのが難しいところ
背もたれには四角形で作られたような模様が等間隔に7個並んでいて、7人掛けだろうとわかる。そして模様と模様の間にえらっそうに座るオッサン、お前は何をやってもだめだ。お前のせいで6人掛けになっている。おっさんが2人いると5人掛けになる。仕事で疲れてんのかもしれねーが頭ん中空っぽ過ぎやしねーか。周りを見ろ。
どんなものか気になる方は「仙石線 車両」とでも検索していただければいい。緑色の座席のやつだ。
近所の別路線の列車には2人掛けの座席もある。これは明らかに誰が見ても2人掛けだ。そしてそこに中心寄りに座るオッサン。お前も何をやってもだめだ。俺が腰掛けても寄りやしねえ。足があたってんだよ。お前も気付いてんだろ、足広げやがって。もっと詰めれるだろ。やんわりと伝えると無言で寄った。謝れねえのか最近のオッサンは。
オッサンばかり攻撃したが学生も大概だぞ。満員電車ではリュックを前掛けしろよ。テメーに圧迫される筋合いはねえ。高校生、部活で頑張ってんのかもしれねーがそのクソでかいスポーツ用リュックは俺を圧殺してんだよ。
群れた大学生、ドアの前で溜まるな。中ほどまで進めっていう車掌のアナウンス聞こえないんか。お前らのせいで無駄に満員電車だよ。
とにかくだな、公共性の高い場所では周りを見てくれ。スマホから、たまにでいいから頭を上げろ。乗ったときには少なくても、そのうち人が増えてくるかもしれない。座ったときはいなくても、ふと顔を上げた瞬間にそこにはテメーの席を必要とする人が目の前にいるかもしれないんだぞ。
父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。
私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。
例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。
父親は典型的なクレーマーでもあった。理髪店で自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要は断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。
そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。
小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まりで旅行など、温泉に一度行ったきりだ。
今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。
「子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。
私には兄がいる。私とは違い、高校も大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年の危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。
そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く、高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。
そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。
私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。
社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。
その頃父との関係は冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶だからであり、家ではとても口が悪く我儘だった。
父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。
家を出てからはほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。
その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから。
今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。
退職後から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。
それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。
担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。
モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。
私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。
寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。
母からの電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。
父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。
それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯やタブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。
今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。
葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。
きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。
生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。
今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。
昨秋の試合を最後に、進路活動の為という事で練習にも試合にも納会などのイベントにも行っていない。
部活自体がゆるい事もあり、練習欠席の連絡は5月末まで怠っていた。(5月末に7月末まで欠席すると連絡した)
他の同期も連絡はなあなあであるが、私よりは出席している。連絡ミスで罰金などあればいいのだがそれすらない、怒られることもない。
試合やイベントについては担当者に連絡していたが、何故練習だけ欠席連絡を怠ってしまったのだろうか。
兼部して(こっちが副業)いて本気度が足りなかったのだろう。
連絡してたけど兼部先(5月で引退)の方を優先し、かなり休みがちだった時も偶に顔出すのは行きにくかった。
今では連絡を怠った為に輪をかけて行きにくくなってしまった。
自分が思うよりも他人は自分について何とも思っていないはずだ、自意識過剰だと思うが、辞めろと言われていると思う。
私が居ない間に、同性の部員数が試合にちょうど出れる人数になった。もういっその事お前はもう用済みだと退部にして欲しい。切り替えがつく。
そして、今年度初めて会う新入部員と怖い後輩に会うのも気が重い。異性の同期は思うところがあっても表に出さないタイプしかいないので表面上は接しやすいが…
「最高学年で仕事ないし欠席理由進路活動だから」と開き直って堂々としてればいいのだが、同性の同期がいないのが不安を煽る。
ああ、行きたくない。