はてなキーワード: 放送中止とは
私はゲイだ。
自覚したのは中学生の頃だ。友人を好きだったが、誰にも言えなかった。
親にはまだ話していない。妹が子供を生んだので、このまま親の前では異性にモテない独身男性として生きていったらいいかと思っている。
学生時代は所属していた団体でカミングアウトしていた。変な人間が集まるので有名な大学で、ただのゲイだった私は平凡な存在だった。彼氏(現在は友人)もできて楽しかった思い出がたくさんある。
世の中変わってきている、もうゲイを隠す必要なんてない。そう思っていたが、就職してすぐ職場で「お前カマっぽいよな」と笑われたときは、やっぱり目の前が真っ暗になった。
職場では今後カミングアウトする予定はない。親にも言う気はない。
そんな私がいま注目しているのが現在4話まで放送されている「おっさんずラブ in the sky」である。
「おっさんずラブ」と言えば、田中圭演じる春田が、職場のゲイたちにキスされ交際を迫られ気持ち悪がるも、そこから「性別の壁」を乗り越えて純愛に発展する話、という認識の方が多いと思う。
正直に言って、私はこの作品が好きではない。
「弟の夫」「きのう何食べた?」「となりの家族は青く見える」は好きだった。「おっさんずラブ」はそれらに比べて、あまりに私が傷付く表現ばかりあるドラマだった。
友人に勧められて数話までは見ていたが、ドラマの内容と、それにはしゃぐファンを見ては毎週どんよりとした気持ちになり、視聴を止めた。
「逃げるは恥だが役に立つ」で、主人公が「ゲイはイケメンを襲う人種だ」と思い込んでいた自分を恥じるシーンがあった。
やっぱり世の中は「ゲイは嫌がるノンケを襲うもの」と思っていて、それを笑っているのか、と思うと落ち込んだ。
だから、おっさんずラブの続編が放送されると聞いたときは心底やめてくれと思った。
だが、2話が終わったあと、友人から連絡が来た。私がおっさんずラブをよく思っていないことを知っている友人だ。
今回のは見られると思うし、見てほしい、という知らせだった。
同性愛を扱うドラマは好きな方なので、友人を信じて2話から視聴した。
3話では切なさを感じ、4話は笑って泣いた。
パイロットである上司の黒澤は、職場の新人である春田にだんだんと惹かれ、恋を自覚する。告白をするも断られ、同じく春田を好きな娘・緋夏を応援することに決める。
整備士の四宮は、春田に恋心を抱いているがそれを隠し、仲の良い緋夏の恋愛相談に乗り、二人が付き合うように仕向ける。
二人とも緋夏と春田が付き合うようにと動くが、それは「自分が男だから」ではない。
黒澤は「かわいい娘の幸せのため」妻を亡くした黒澤にとって緋夏は大事な一人娘である。
四宮は「自分には幸せになる資格がないから」と発言している(これは5話で詳しく明かされる様子)。
「男の俺なんかより緋夏ちゃんの方が」などという台詞は出てこない。これは意図的だと思う。この世界では同性愛は問題にならないのだ。黒澤や四宮がもし女性であっても、二人とも緋夏を応援していたはずだ。
また、緋夏は四宮が春田を好きだということを知り動揺するが、こちらも「四宮が男だから」ではない。いままで恋愛相談に乗ってくれていた相手が同じ人を好きだったことに対しての衝撃だ。そして彼女は四宮によきライバルになろうと握手を求める。
パイロットの成瀬は春田のことを好きではないが、遊びで寝た男が職場まで押し掛けてきたとき、新しい恋人ができたと嘘をつくために春田とキスをする。
春田は成瀬が男と寝たことに対して特に反応しない。突然のキスについても「好きでもない相手にキスするなんて信じられない」とこぼしている。男相手に、という言葉は出てこない。
4話では四宮の気持ちが春田にバレるが、春田が四宮を気持ち悪がる様子も一切ない。「俺なんかのどこがいいの?」と聞いたり、自分の好きはライク、好きになるってなんですか、と同僚に相談している。気持ちに応えられないことへの申し訳なさはあるが、そこに「男だから無理」という感情はない。それどころか、5話の予告で春田が成瀬に無理やりキスをするシーンがある。
春田は2話終わりで緋夏にもキスをしかけており、ノンケだと見られていた。
その春田も、男同士であることには疑問を抱かず、成瀬に惹かれていっている。
キャストもスタッフも言及していないようだが、ドラマが終わったらその辺について語ってくれるのかもしれない。
(ちなみに四宮の気持ちを成瀬が伝えてしまうところをアウティングだと批判する声があるようだが、同性愛差別のない世界においてのアウティングとは一体?)
(それを言ったら前作の春田の牧に対するアウティングは許されるのか?私なら死ぬ)
私は4話でこの世界観に気付いて、泣いてしまった。緋夏が四宮に「はるちゃんが好きなんですね、私もです。私たち、ライバルですね」と握手を求めたシーン。胸が熱くなった。こんな世界があるといいと思った。男が男を好きであることを認めてもらえる世界だ。
同性を好きになっても、悩まなくていい、苦しまなくていい。引け目を感じなくてい。誰かに否定されなくていい。
この感動を噛み締めたくて、ツイッターで同じようなことを感じた人を探そうとサーチした。
そこで出てきたのが冒頭のツイートだ。
「同性愛をこんなにすんなり受け入れるなんてリアリティがない」
打ちのめされた。
ファンタジーとはなんだ。
つまらないとはなんだ。
現実世界でゲイが差別され苦しむのがそんなに面白いのかこの人たちは。
こういったツイートをする人のホームに行くと、全員が「おっさんずラブ(無印)」のファンだった。
曰く前のドラマでは「恋愛をするのに性別なんて関係ないと思えた」らしい。
ならば、性別なんて関係なく恋愛できるin the skyの世界をなぜ応援できないのだろうか。
私が個人的に傷付いただけで、あれを好きなゲイもたくさんいる。
あのドラマで、同性愛は気持ち悪いものじゃないと思ってくれた人が大勢いるのも理解している。
同性愛の苦悩を描いたドラマが放送されるのはとてもいいことだと思う。
やめてほしいのは、「同性愛を扱うなら葛藤や苦悩を必ず描かなきゃいけない」という考えを押し付けることだ。
前作ファンの人、「おっさんずラブ in the sky」のことは放っておいてくれないか。
自分に合わなかった、自分は腹が立った。それはわかる。私も前作でそう思った。
だけど、あなたが嫌な思いをしたこのドラマに、心が救済された私みたいな者もいる。
私は、こんな世界になりますようにと願う。このドラマを作ってくれて感謝している。
気に入らないからって、「番組の打ちきりを求む署名運動」とかやめてくれないか。目を疑った。嫌いなものは排除しないと気がすまないのか。
署名が集まっても打ちきりにはならないと思うけど、ドラマを楽しんでいる人間にとって、この仕打ちはあまりにむごい。
もし、in the skyのような世界が待っているなら、私は親に自分のことを話したいと思う。そして、パートナーを家族に紹介して、誰にも隠れることなく一緒に暮らすのだ。
ドラマは残り4話。どのような結末になるのか、楽しみにしている。
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気付いたらコメントが増えていて驚きました。
気になるコメントについて追記しておきます。(11/28 18:20)
私は「無印ファンはin the skyの批判をしないでください」と言っているのではありません。批判はいいと思います。私も無印の批判をしてますし。
やめてほしいなと思うのは、差別を描けと強制すること、放送中止を求める署名などでドラマを妨害する動きをすること、この二つです。
求めてません。逆です。私は「リアルから先に進んだin the skyは夢のある世界だ」と思って喜んでいます。
リアルさを求めるな、は、ぜひ無印ファンに言ってあげてください。
『アクション映画を見ろ』
「差別を扱うな」とは私は書いていません。個人的に無印は苦手でしたが、自分で見ない選択肢を取りました。
「差別を扱う作品が放送されるのはいいこと、だけど全部の作品に差別表現を入れることを強制するなよ」これだけです。
主要人物全員片思いですから、恋愛に関する葛藤は毎週描かれています。特にふられてからの黒澤は恋心と大事な娘の間で揺れてますね。面白いですよ。
『in the sky見てなかった、見ればよかった』
この作品が不発で終わったら「この路線は失敗だった」と思われそうで悲しいです。
話の流れはここで書いた通りです。5話からでも面白いと思うのでぜひ見てください!
現在「全員一方通行の片思い」となかなか類を見ない展開になっています。
公式サイト https://www.tv-asahi.co.jp/ossanslove-inthesky/
予告ツイート https://twitter.com/ossans_love/status/1198255673030692864?s=19
予告動画ロング(放送後消えます) https://youtu.be/mZXMufvCLyM
くだらねえ。
こんなこと書くとレイプ被害者がーーとフェミ界隈に叩かれるだろうけど。
新井容疑者は自分のやったことに対して、償えばいい。報いを受ければいい。
ただな、こういうわかりやすい事件だけを徹底して繰り返し報じ、その報道に乗っかる世の中の奴らーーいわゆる大衆が俺はどうにも好きになれない。
数年前、疑惑がちょこっと報道されたときも結局うやむやになった。
なのに五輪はその気配すらない。
続報ニュースも圧倒的に少ない。
五輪返上か?という報じられ方もしたが、実際に返上する方向の動きはない。
芸能人ならスポンサー企業が降りて、違約金賠償金とかの騒ぎだ。
この違いはなんだ?
普段は老害丸出しのうるさいジジイ読者ばかりの投書欄が週に一度だけ小学生から高校生の投書のみ掲載する日があり、
ある日暇潰しで読んでたら俺と同じ中2の投書で「ぼくは、お米が好きです。お米は日本人の誇りだと思います」なんていう誰でも書ける幼稚でアホみたいな作文が乗っており
このレベルで掲載されるなら俺も楽勝だろう、と掲載されたら貰える図書カード3000円目当てに送った。
もともと深夜の芸人ラジオや雑誌の読者投稿大喜利コーナーで度々採用されていたので、こういうのは採用される自信があった。
俺は、それが学生時代の青春と言い切れるほどお笑いが好きで、小学生の頃から爆笑オンエアバトルを毎週チェックして漫才・コント・落語にのめり込んでいたのだが
小学校時代にめちゃイケのワンコーナー「しりとり侍」での、しりとりに失敗すると袋叩きにされるという演出が批判され放送中止になるという出来事があり、
それを元に「俺はお笑いが好きだが、これは暴力であって笑いではない」みたいなことを国語の作文の授業で書いたら
矢鱈と先生にウケがよく、プリントアウトされ全校生徒に配られ、それをもとに議論するみたいな特別授業までやらされて、「大人が求める文章」というのもなんとなくわかっていた。
で、小学校の時に書いた「お笑いは好きだがバラエティーの暴力描写はダメだ」的な内容を中2なりにリライトしたものを投書したら見事に採用され、俺の投書が朝刊に掲載された日、学校に行くと国語の先生と担任が滅茶苦茶テンションあがっておりべた褒めされた。
自宅にも、普段滅多に合わない色んな親戚から電話が次々かかってきては褒められた。
数日後、新聞社から待ちに待った図書カードと共に編集部による俺の投書への評が届き、
「きみの観察眼は見事だ、思い起こせば今のテレビのお笑いがこうなったのはタモリが登場してからであり~」で始まる、終始タモリdisをしている謎の内容で
「いやいや、確かにタモリもドッキリ特番の司会やってたみたいだけど、バラエティー番組を過激にしたのはどちらかって言えばたけしでしょ」と、編集部のオッサンはどこかズレていると思った。
そんな俺の周りでの新聞投書フィーバーが過ぎ去った数週間後、自宅に新聞社から電話があり俺と話がしたいと言ってるとかで、何事かと電話に出てみると
「あるお婆ちゃんの読者から問い合わせがあって、戦争のとき、友達と漫才をやって周りを明るくしていたらしいんだ。お笑いも好きだし、ぜひきみと合ってその話をしたいと言っている。その様子を記事にしたい」
えー!無理無理無理!!知らない婆ちゃんの戦争の話聞かされるとか無理!絶対寝る!1ミリも興味ねえ!拷問!
いや、そりゃ戦争の話聞いた感想書けって言われたら、大人が望む文章は書けますよ。
でも投書と違って、行っても何も貰えないっていうし、何が悲しくてただただ知らないババアの戦争の話聞かされなきゃならんのだ。俺はボランティアじゃねえぞ!新聞に俺の写真が載るのも御免だ!
そんな何の魅力もない誘い話、乗るわけないじゃない。電話の向こうの記者はえらく食い下がったけど、とにかく断った。
後日また新聞社より電話があり、「実はそのお婆ちゃん、20歳の孫がいて、最近漫才師としてデビューしたらしいんだ。そのお孫さんときみとで、漫才をしてほしいらしいんだ。その様子を記事にしたい」
いやいやいや!この前の話より更に地獄度が増している!
知らない婆ちゃんの戦争話聞かされて、デビュー間もない若手芸人だという孫と、どうせウケる訳もない寒い漫才させられて、何の報酬もない割に俺の労力がえぐい!
だいいち、俺中2だぞ。相手二十歳だぞ。そんな知らんガキと漫才しろだなんて、向こうも困るだろ!芸人とはいえ、知らん兄ちゃんと急に対面させられても何喋っていいかわかんねえし!
無茶振りがすぎる。
もちろんお断りし、記者も食い下がったが長い押し問答の末ようやく記者も諦め、そこから電話が来ることはなかった。
まあ、日々平凡に暮らす中高生諸君にとって、急に大人たちから褒められる新聞投書は面白いのでオススメしたい、と言いたいところなのだが
ネットで文章書けるような学生(学生に限らずみんなもね!)は、何かしら投稿すると良いことはあるし面白いからやってみると良いよ~。
〈追記〉この企画の始めごろ、クロちゃんのキスシーンが放送されたときにプロデューサーがツイッターにて「みんな気持ち悪いと言うが、これがイケメンなら誰も文句言わないだろう。視聴者はクロちゃんを差別している」とツイートしてて、クロちゃんを気持ち悪く演出している張本人がこう言うのは最初からある程度の視聴者誘導というか、社会実験的要素はあったんじゃないか、と指摘するの忘れてた。追記終わり。
はてなじゃ全く話題になってなかったけど、この年末の二ヶ月はずっとネットが安田大サーカス・クロちゃんの話題で一色だった。
「大爆笑ホラー」なんて、今まで見たことのない新しいコンテンツだったことは確かだ。
もうこの二ヶ月ずっとツイッターのトレンドが「クロちゃん」「水曜日のダウンタウン」よ。
ネットでバズりまくってるのがウリで、「テレビはオワコン」「テレビなんて誰も見ていない」と言われている今の時代、純粋にテレビが世間を熱狂させることに成功した。
ただ、これだけ世間が熱狂している中のクロちゃん監禁企画を無料で開放したのが甘かった。
ツイッターによるとハロウィン並の暴徒と化してて、NHKも取材に動き出したらしい。
ツイッターに大量に現地の動画があがってるのだが、スマホ片手に大挙して押し寄せて将棋倒し状態、「人倒れてるから!踏まれてるから!下がって!」と叫ぶ警備員無視して尚押し寄せる様子は、インスタ蝿とかでは説明がつかないほど日本人がSNSに洗脳されている証明だと思う。もはや狂気すら感じて怖い。
クロちゃんみたさに器物破損・暴力沙汰にも発展して警察も出動、もうそんな大暴動になっちゃったもんだから、一旦中止のつもりがクロちゃんは早々撤退、明日のイベントも中止になったとか。
(シャチホコに騙されて集まったアッコファミリーが「早く帰れて最高」と言っていたが、クロちゃんも早く帰れて最高だったろう)
12時に生放送終わって、もう3時を回った今もとしまえん周辺は渋滞で全く車が進まないとかで、この年末は配送業が寝る時間無いほど忙しく今も絶賛仕事中の人が多いのだが、全く仕事にならず大変、これ企画した奴死ねとのツイートがあった。
もうずっとクラクション鳴りまくりで、周辺住民が困り果てているというツイートもあった。
ハロウィンといい、今回のクロちゃん監禁騒動といい、日本人って簡単に暴徒化するっていうのは平成最後の良い収穫になったと思う
そう考えると水曜日のダウンタウンとは結果的に壮大な社会実験となったのでは?と全員が思っているのに、今回の騒動を受けて「モンスターを見ていた我々の方がモンスターだったのだ」とか皆ネットに書いてた。
そんな誰でも思いつくこと、うまいこと言ったつもりで書くの恥ずかしいからやめろ。
今のコンプライアンスの時代には珍しいほど低俗下劣なバカお笑い番組が、ギャラクシー賞受賞して評価されちゃったりしたけど、
低俗下劣な番組であるのは間違いなく、今まで何回も問題を起こし世間を騒がせてきた。
今の時代ここまで攻撃的な番組内容は滅多にないので、お笑いマニアの俺は涎を垂らして笑い転げるほど大好きな番組なのだが、
2016年(もう2年以上クロちゃんいじってたのか)に「クロちゃん、ツイッターさえあればどこに閉じ込められても助けてもらえる説」という企画の収録があり、
あるマンションの一室にクロちゃんを閉じ込め、窓から見える外の景色や情報をツイッターに呟き、ツイッターを見た視聴者に、それがどこのマンションか推理してもらい実際に助けに来てもらうという企画だったのが
案の定視聴者が片っ端から関係のないマンションに突撃し騒ぎになり企画中止に。
そして今年、「ジョジョの鉄塔システム生活第2弾」という企画。
企画内容としては、芸人を拉致し監禁、監禁された芸人が自身が閉じ込められた檻のある場所まで、他の芸人に電話で嘘をつきをおびき寄せ、まんまと騙され現場まで呼び出された芸人を監禁する代わりに今まで監禁されていた芸人が脱出できる・・・それを繰り返すというもの。
第1段はやりすぎとクレーム殺到したものの、俺のようなお笑いマニアからはかなり評価が高く続けて第2段を収録したのだが
街のど真ん中で芸人を拉致したところ、「通行人が誘拐された」と通報が殺到、警察が出動する騒ぎとなり収録はすべて終了していたにも関わらず放送中止に。
次週予告までやっていたのに、いざ放送当日になると何事もなかったかのようにカットされて説明も何もなかったため、超絶楽しみにしていた俺のようなお笑いマニアの間で話題に。
過去2回も監禁企画でバッシングされた水曜日のダウンタウンだが、プロデューサーの性癖なのか監禁企画は手を変え品を変え続けていき、
散々クロちゃんの人間としてどうかしている様子を放送したあと、視聴者に許すか許さないかテレビのdボタン投票を求め、許せない票が多ければクロちゃんをとしまえんに用意した檻に監禁、
放送終了後の深夜12時から翌日の夜10時まで檻に監禁し、開園準備が始まる朝の9時半までは無料で入場できるとした。
が、無料開放が甘かった。SNSに洗脳され完全に頭が狂っている日本人が暴徒と化さない訳がなかった。
そもそも番組内で「クロちゃんはいくらバカにしても良い存在」として描いているため、それを真に受けたDQNがクロちゃんの檻目掛けて着火したタバコを投げ入れるとかのトラブル絶対起きるだろ、
しかもトイレも檻の中に用意されており、ガチで翌日夜10時まで檻から出られないということになっていたため、ツイッターにはクロちゃんの脱糞映像が大量に乗るだろうなとは思っていたが
以前も番組で放送はしなかったが、水曜日のダウンタウンの宣伝としてクロちゃんを監禁して晒し者にする企画を既にやっており、その時はそこまで人も集まらなかったので
まさかここまでの騒ぎになるとは番組側も思っていなかったのではないか。
しかし、ここまでこの2ヶ月日本を夢中にさせてしまった以上、騒ぎになるのは目に見えていたと思うんだけどなあ。
NHKも取材に動いているだろうし、朝のニュースで他局にバッシングされるだろうな、確実にBPO案件だなこれとは思うんだけど
まあ番組打ち切りまではいかないでしょう。けど、今年のクイズ正解は一年後に今年もクロちゃん出れるかなー、と少し心配。
プロディーサーとしては、今までさんざんバッシングされてきた監禁企画を視聴者自らが実行するという皮肉を演出したかったんだろうけど、更に自分にしっぺ返しが来るっていう残念な結果になっちゃったな。
全面アクリル張りの部屋にふかわりょう、よゐこ浜口を閉じ込め1週間生活させるという企画。
ふかわ・浜口が今まででやった仕事で1番キツかったと豪語する企画だ。
屋外に2人がの生活が丸見えの部屋が1週間も設置され、もちろんシャワー室やトイレも丸見え。
シャワーやトイレに入ろうものなら、裸見たさに客が押し寄せ当時のガラケーで撮影放題。
24時間常に観客に監視されていて、寝ようものなら外からガンガンやられて、それが本当に精神的に来るらしく、ふかわはノイローゼになったとか。
性格が最悪な芸人・ダブルブッキング川元をあぐらで座ってそこから一歩も動けないというか立ち上がれないくらい狭い箱に閉じ込め、世間の人と触れ合って性格を矯正しようという企画なのだが
とにかく性格が悪い川元。食い物は基本的に何もないので、箱まで来た人に恵んでもらうのが基本なのだが、恵んでもらったものに対しても箱の中で暴言を吐き続け視聴者をどんどんアンチにしていった。
その箱はスタッフ不在の環境の中、適当にそこら辺に放置されているので頻繁にDQNが訪れては箱を壊しにかかられたり、ついには川に投げ込まれそうになったりで常に命の危険があったとか。
かなりの長期間あぐらのまま動かなかったので、箱から出たらしばらく歩けなかったとかで
これ、番組内で散々川元の性格の悪さをクローズアップされていたので、今のクロちゃんの比じゃないくらい嫌われており、
SNS時代の今なら箱がどこにあるかすぐ拡散されて人が押し寄せて即企画中止だろうな。
2004年頃に、フジテレビで「お笑い登竜門」という若手のネタ見せ番組をやっており、そこに安田大サーカスも参加していた。
27時間テレビの深夜枠でお笑い登竜門の生放送をやっており、いわゆるモノボケ企画をやっていた。
芸人とAV女優が交互にモノボケを披露し、芸人は何をやっても滑ったことにされ、AV女優軍団はただ茄子とかキュウリをチンポに見立てて咥えるだけのボケ一辺倒なのに受けた判定になるというお約束のくだり。
他の芸人の見せ場なのに、カメラの前までダブルピースで出てきて「イエイイエーイ」とか言ってて、素人かよと思った。他の芸人もあからさまに嫌な顔をしていた。
そして、安田大サーカスの番になるとクロちゃんがまー、つまんねえボケをかまして、ガチで滑った。マジ滑りした。
その瞬間!
団長がまさかの「お前は障害者か!」と叫びながらクロちゃんの頭をどついたのである。
その瞬間、「ヤバイ」って顔をした団長が「俺何も言うてへんよ!俺なにも悪ないよ!」と言いながら、さっきまで他の芸人の番ですらダブルピースでカメラ前にしゃしゃり出ていた団長が、青ざめた顔で奥に引っ込んで一切出てこなくなってしまったのだ。
その後は何事もなかったかのようにコーナーは続いたが、コーナー終了後伊藤アナが「先程は不適切な発言があり…」と謝罪していた。
いつもここからの菊池がナイナイのラジオにゲストで出た際、「ナイナイさんってなんでテレビの売れっ子なのにこんなラジオやってるんですか?」って言っちゃって、さすがの岡村もテンション落ちるという事件があり、あれ、なんか菊地やべえぞってなってるところに
何かの番組で「僕って見た目が障害者みたいじゃないですか、だから電車を障害者料金で乗れるんですよ」とかそんなことをナチュラルに言っちゃって、これテレビに出しちゃヤバイ奴だってのがバレてトーク番組を干されたという記事を週刊誌で読んだばっかりだったので(嘘か本当か知らんが)、
「これは大騒ぎになるぞ!安田大サーカス干されるぞ!とんでもない物を見た!」とワクワクしていたのだが
ネットは全く騒ぎになっておらず、その後も普通に安田大サーカスはテレビに出演し続けていた。
俺が見たのは夢か幻か。
俺の勘違いだったのか?覚えてる人いない?ねえ?
https://anond.hatelabo.jp/20181227015207
書くの時間かけすぎたわ
通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか? 井中 だちま:ライトノベル | KADOKAWA
せっかくアニメ化が決まったことだし、この前の30時間無料で原作を5巻まで読んだ(最新巻は6巻)
いわゆるフルダイブ型のVRMMORPGのテストプレイヤーに選ばれ、それなりの強力な装備を与えられたはずの男子高校生主人公。だが、何故かそれ以上の超強力な装備を得て特異な能力も発揮する自分の母親がパーティにいるせいでなかなか活躍できずにのたうち回ることに……という設定を基本にしたファンタジーコメディ。
要素の組み合わせは突飛だが、思春期男子の多くが母親に感じるであろう普遍的な苛立ちや気恥ずかしさが、いかにも最近のラノベ的な世界の中に上手く盛り込まれている。簡素な文章や大雑把すぎるネーミング(賢者キャラなので「ワイズ」、回復キャラなので「メディ」、「カーサーン王国」「ママン村」などなど)で軽く見られそうではあるし実際恐ろしいほど軽く読めるのもたしかだが、決して出オチだけの作品ではない、と思う。
その上で、若干気になる部分がある。
この作品には、主人公の母である大好真々子(おおすき ままこ)以外にも多数の母親キャラが登場する。その多くは、子供との間に何らかの問題を抱えており、これを主人公達が解決するのがシリーズの一つのパターンとなっている。
それは、真々子と主人公だけではなく、様々な形の母子関係を肯定しようという意図によるものだろう。あとがきでも、母子に正解はないとか母親を笑いものにするのが目的ではないといった考えが明言されている。
が、それでも、真々子さん母親としてあまりに最強すぎんよなあ、という印象があるのは否めない。
本作のメイン母である真々子は主人公の視点からは、子離れできない母親でゲーム世界の冒険でも出しゃばって息子の活躍の機会を奪う悩みの種、ということになっている。だが客観的に見れば彼女は、美人で年齢不相応に若々しくて家事万能で息子のことを何より優先するがその他の人間を蔑ろにするわけでもない人格者という、単なる完璧超人でしかない。実際、2巻以降は親子仲も概ね良好なまま進行している。
ホスト狂いでも教育ママゴン(死語)系モンペでもギャンブル依存症でもやはり母親は母親である、という多様性肯定のメッセージ自体は決して悪くはない(現実には子供から引き離すべきレベルの毒親も存在するという話はさておき)。悪くはないのだが、美人で年齢不相応に若々しくて家事万能で息子想いでたまにビームも撃つ専業主婦の大好真々子さんと並べておいてそんなことを言われると、そこに抜きがたい空々しさが漂ってしまう(1巻作中にそこを指摘するようなやり取りも一応あるのだが)
もちろん真々子の母親としての完璧さはギャグの一環として、かなり、だいぶ、極度に誇張して描かれてはいる。しかし、あくまでも方向性の話に限定したとしても、結局はこういう真々子さん的な優しくて献身的なお母さんが「母親」のあるべき姿、正解として提示されてしまってるんじゃないの?という疑念がどうしても拭えない。
非常に意地悪な言い方をすると、本作における真々子以外の母親の扱いは、多様性の肯定というよりは、真々子という理想を基準にしての妥協による許容に見える。至らない母親だがまあ許すよ、という感じ。問題解決の決め手は多くの場合、真々子の包容力なので尚更だ。
じゃあどうすれば良かったのかというと、所詮いち読者に過ぎない自分には明確な答えは出せない。いっそ他の母親キャラを一切登場させなければ、少なくともこういった点はだいぶ緩和されるだろうが、それでは物語も完全に別物になってしまい、今ある面白さも同時に消え失せることだろう。そもそも、ある程度このような観点に配慮して書かれているからこそ、気になるレベルで表面化しているという話でもある(最初から倫理観が狂っているような作品であればこの程度の件は逆に認識すらされないはずだ)。難しい。
自分は母親ではないしなる予定もないので、上に書いたような点も、ちょっと引っかかるというぐらいで済んでいる。だが、現役の母親や出産希望者といった当事者なら、良くも悪くもより強く反応する部分だろう。あるいはフェミニスト寄りの人々も、何か物申したくなるかもしれない。フェミニスト且つお母さんなら間違いなく食いつく。
現状『通常攻撃〜』は原作ラノベやコミカライズの時点では、そこまで広い層に届いている作品ではない(と思われる)。だがアニメが放送されることで、世のお母さん方やフェミニスト達の目に触れる可能性も高くなるだろう。その時、果たしてどのような反響を呼ぶことになるのか。
自分はそれを心配している、わけではない。むしろ軽くであれば炎上、しちゃってもいいんじゃないかとすら思っている。
アニメが放送中止になったり原作が打ち切り絶版回収になったり作者がノイローゼになったりしない程度の適度な、「どうだ明るくなったろう」ぐらいのほどほどな燃え方で、お母さん議論が盛り上がればいいな、というのが自分の希望だ。女性キャラ全般、特に少女キャラについての話ならともかく、オタク向け作品における母親の描き方が大きく取り沙汰される機会もそうそうないだろうから。
電撃 - 『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』がTVアニメ化決定。お母さん役は茅野愛衣さん!
(まったくの余談だが、自分の心のエロゲはCATTLEYA『教育ママと伯母と叔母』で、これの母親(実母)ルートは、毒親ギリギリぐらいの教育ママと主人公がやはり母子関係を改めて築き直す話となっている。ただしセックスをしながら。興味のある方はそちらも併せてプレイしてみてもいい?かも?しれない???)
最近話題になった2つのフェミ論争、発言主をちゃんと見ると、実は言ってることがちょっと違う。
弁護士 太田啓子氏 @katepanda2 今回のキズナアイの問題提起した人
キズナアイの話は、「NHKという場で萌え絵は相応しくないのでは」という話。所謂表現規制とかゾーニングとかそういうの。彼女は前にも「幸色のワンルーム」(誘拐を題材にした漫画)の実写ドラマを放送中止にさせた(?)という実績がある。
シュナムル氏 @chounamoul 「お父さん、これ気持ち悪い」の人
「女性は不当な扱いを受けている」ということが本人の主張だ。女性の胸は強調するのに男の陰茎は強調しない、とかその辺。今回のキズナアイの話でも便乗して、乳袋によって性的な強調をしているキャラであることについて批判していた。
横だが
フェミニズム運動理論によれば、ある人物が性的に搾取されている/されていないの基準は、外形的に判断されるようなものではない、らしい。
「搾取されている」と被害者(といってもフェミニストは女性を想定している場合が多いが)が感じたら、それが基準となる。
だからセクハラや暴力を受けた場合だけでなく、アニメ・漫画・ラノベなどで自分と同じ性別(女性)のふしだらなイラストが描かれただけでも、
それが「搾取」だと感じる女性がいれば、それは搾取であり、倫理道徳的に「アウト」な表現だと判定できる。
なお、その増田自身はこの論理を批判的に見ているので、「妄想」と呼んでいる。
大人しく殴られとけよ
ここは、フェミニズム理論が成り立つのなら、逆に女性が好む表現について男性が「搾取だ」と感じた場合でも搾取と認定できるはずだから、
そのルールに従って、その表現も禁止されて当然だよな?という皮肉。
もちろん、フェミニズムを全く支持していない女性も多いだろうが、フェミニストが自分達のことを勝手に女性代表としてあれこれ主張しているので、
それに対抗するために一般女性にも犠牲になっていただくしかないのだ。
異常者が好き放題暴れるのが許容される
「妄想」とも言うべきフェミニズム運動理論が、なぜか正当な権威として社会的に受容されており、
フェミニストの主張のままに様々な作品が放送中止や撤去に追い込まれている。
だから、同じ基準を適用されたら、女性側の表現も禁止になってしまうけど、我慢しろよ?
恨むならフェミニストを恨めよ?
という皮肉だ。
しかし私見では、フェミニストは「権力勾配」「非対称性」という別のロジックを持ち出して女性の好む表現だけは守ろうとすると予想される。
元記事には「作品が“世間にどう受け取られるか”を熟考することも重要」とあるが、「幸色」を放送中止に至らしめた“世間”とは、決して“世間一般”のことなどではなく、特定のイデオロギーをもった少数の人々にすぎない。
何故「特定のイデオロギーをもっと少数の人々」だと断言出来るの?
この手の話だと、必ず「反対しているのはごく少数だけ!」と言いたがる人が出て来るけどその根拠が謎だ。
世の何割が賛成して何割が反対した、というソースでもあるの?
それに反対する人が賛成する人より少数だとしても、企業側がそれは無視出来るほどの数ではないと判断すれば中止にするというのは妥当だよね。
例えば3割くらいが反対しているとして、その3割を敵に回してまで放映するほどの内容ではない、と判断すれば中止になるだろうさ。
どうせ視聴率なんて一桁だろうし、その一桁の全員が面白いと思うわけでもないのに、視聴者の3割に嫌われて一桁を取るのは割に合わない。
弁護士と言っても別に中立な正義の代理人では無く、自分の政治性と一致する限りいくらでも綺麗ごとを言うし、こじつけるし、都合が悪い事は極力触れないか無視するんだなぁ…という事を知れたことが、twitterで弁護士を何人かフォローしてたどり着いた結論。
『幸色のワンルーム』(以下、「幸色」)放送中止騒動について、弁護士・太田啓子氏の記事を読んで思ったこと。
この日記は、以下の記事を読んでの感想である。筆者が、他所での議論をほとんど追えていないことについては、ご容赦願いたい。
以下では、当該記事の内容について適宜要約し、筆者なりの疑問点を整理していく。
【元記事の要約①】「幸色」放送中止への批判として、『ルパン三世』や『名探偵コナン』は放送中止にならないのに、なぜ「幸色」だけが、というものがある。この批判に対して、太田氏は、現実における殺人犯と誘拐犯の認知の違いを説明することで応答している。すなわち、殺人犯は自身の行為を殺人であると認識している一方で、誘拐犯はその限りではない、という。また、この認識の違いは、これらの犯罪行為を受け止める側の人々の認識の違いと並行している。
→<①への疑問>太田の応答は、“現実における殺人犯は自己の行為を殺人であると認識しており、それを受け止める側の人々もそうなのだから、殺人にまつわる番組を放送したところで問題はない」というものであり、確かに「ルパン」や「コナン」が放送中止にならない理由を説明しようとはしている(内容の是非は置いておいて)。しかし、この議論から導き出せるのは、せいぜい“誘拐のテーマは殺人よりも注意して放送すべきである”程度のところまでであり、副題の「なぜ殺人はOKで、誘拐はNGなのか」はミスリーディングである。
【元記事の要約②】太田氏いわく、『幸色のワンルーム』は、加害者や一部の人が事件に抱いたであろう妄想を作品にしたものであり、「実在の被害者に対する中傷そのものだと思う」という。
→<②への疑問>言いがかりに過ぎない。
【元記事の要約③】太田氏は、ドラマ公式SNSの“盗撮ハッシュタグ”に触れた後、「公共の電波に乗せるのは、表現者の社会的責任を伴い、おかしな社会規範を作ることに寄与することは、やはりやってはいけないと考えます」と述べる。
→<③への疑問>“盗撮ハッシュタグ”に眉を顰める気持ち、そして“公共の電波に乗る表現には社会的責任が伴う”、という点には同意できる。ただ、もっとも議論されるべきは、“「幸色」の表現者が十分な社会的責任を果たしていない、と言えるのかどうか”という点である。問題は、瑕疵の有無ではなく、その大きさなのである。太田氏の記事では、この点についてあたかも自明のことであるかのようにほとんど触れられておらず(太田氏が、別の場所で議論しておられるのであれば、申し訳ない)、実際問題、この点についてほとんど議論がなされないまま放送中止が早々に決定されてしまった。
【元記事の要約④】誘拐の被害者は「助けを求めなかったからといって、誘拐犯と一緒にいることを望んでいたということではあり得ない」。しかし、今の日本社会では「女性が被害を訴える声を歪曲して捉える空気が強すぎる。このような空気の社会の中で、『女児を誘拐したが実はその女児はその「誘拐」を喜んでいた』という言説を肯定的に描くことは、女児誘拐についてのそのような歪んだ認知を肯定し強化することにならないでしょうか。」
→<④への疑問>まず、「助けを求めなかったからといって、誘拐犯と一緒にいることを望んでいたということではあり得ない」についてだが、“必ずしもあり得ない”という意味なら同意できるが、“絶対にあり得ない”という前提であるならば、疑問である。“人間が何を望んでいて何を望んでいないかはっきりとひとつに決定できる”という素朴すぎる人間観は置いておいて、実際のところ、実親からの虐待から逃れるための緊急の避難が、結果として誘拐事件というかたちをとってしまうケースはままあるように思われるからである(筆者は、それを肯定している訳ではない)。ただ、「誘拐犯と一緒にいることを望んでいたということではあり得ない(というのが常識になるべきだ)」という太田氏の見解は、客観的な事実の認識というよりはむしろ、弁護士としての倫理を加味したものであるように思われるし、そのこと自体に対しては、筆者は敬意を表する。次に、「女児誘拐についてのそのような歪んだ認知を肯定し強化することにならないでしょうか」であるが、これに対しては、“それは本当なのか、本当ならどれほどのものなのか”“それは果たして放送中止に足る理由なのか”という二つの疑問が浮かぶ。前者の疑問は、そのままの意味で、「幸色」の放送によって“歪んだ認知の強化”が本当に起こるのか、起こるとしてそれはどれほどの強化なのか(微々たるものではないか)、という疑問である。また、後者の“それは果たして放送中止に足る理由なのか”という疑問は、もし「幸色」によって引き起こされる“強化”が微々たるものであるならば、それは「幸色」の表現者が果たすべき社会的責任の範疇を超えているのではないか、という疑問である。そもそも、社会というのは、何かひとつのドラマによって大きく変わったりするようなものではないだろう。もしそういうことがあったとすれば、それは社会のなかで変化への準備が潜在的に進んでおり、作品が最後の一押しになったということにすぎない。そうだとすれば、個々の表現に過敏に反応する態度は、社会の本質的な領域から目を背けた盲目的な“水際作戦”であり、また作品への“責任の押し付け”になりかねないようにも思われる。
【元記事の要約⑤】表現の自由は「公共の空間で何をやってもいい権利ではない」。『表現の自由への弾圧』という批判は的外れであり、太田氏は、公共空間のあり方や、社会規範の作り方の話をしているのだという。
→<⑤への疑問>表現の自由は「公共の空間で何をやってもいい権利ではない」、という点については同意である。しかし、繰り返しになるが、もっとも大事な論点は“「幸色」は本当に許されない表現なのか”ということであり、元記事では、その点について一方的な議論しかなされていないように見える。放送中止を批判している人々も、太田氏と同様に、「公共空間のあり方や、社会規範の作り方の話をしている」ことは明白であり、「『表現の自由への弾圧』という批判は的外れ」という応答は、それこそ的外れの揚げ足取りではないか。
【筆者の意見とまとめ】
「幸色」放送中止騒動について、筆者が問題視しているのは、公的な権力による弾圧ではなく、むしろ<私的な検閲>と呼べるようなものである。公的な検閲によって作品が発禁になった、という過程ではなく(すなわち、行為主体の種類の問題ではなく)、あるイデオロギーによって「幸色」が放送中止に至った、という実際的な結果に注目しなくてはならない。元記事には「作品が“世間にどう受け取られるか”を熟考することも重要」とあるが、「幸色」を放送中止に至らしめた“世間”とは、決して“世間一般”のことなどではなく、特定のイデオロギーをもった少数の人々にすぎない。少数の人々からの批判にテレビ局が過敏に反応し、“本当に許されない表現なのか”を議論する機会が十分に設けられないまま、放送中止の決定が下される。“事実上は”の次元では、特定のイデオロギーによる“世間”を無視した検閲が行われているのである。それが果たして「公共空間のあり方」として正しいのだろうか?
ここまで筆者は、「幸色」の表現の瑕疵はそれほどまでに大きいのだろうか、という疑問を発してきたが、一方で、「幸色」の表現にはプラスの面もたくさん存在するだろう。生きづらさを抱える少女少年に希望を与える(例えそれが幻想にすぎないとしても)ことはもちろんのこと、適切にテロップを入れるなどすれば、虐待問題への啓発にもつながる。そんな大きなことを言わなくても、普段何気なく接してる表現がいかに我々の人生を豊かにしているか、考えるまでもないだろう。表現の瑕疵ばかり取り立てるのではなく、“望ましい表現”か“許されない表現”かの二分法に訴えるのでもなく、光る部分にも目を向けていくべきではないだろうか。“100%良いもの(表現)”というのは、それが人間の営みにおいてほとんど存在しないということもあって、薬にも毒にもならない(ただ筆者は、そんな“何の役にも立たない”ような表現にも、発表の機会が与えらるよう願いたい)。
「幸色」は、本当に“許されない表現”だったのだろうか。そして、<私的な検閲>が事実上機能している現在の状況は、果たして公共空間・公共の表現の場として、望ましいものであると言えるのだろうか。
某ワンルームの放送中止については東日本大震災の直後に『のぼうの城』の放送を中止にしたり、サザンが『TSUNAMI』を自粛したりするようなもんでまあそうなるだろうなという感想だったが、
放送中止に対する意見があまりにも自分と違うものが多かったので個人的な意見。
他の犯罪小説や映画は叩かれないのに、なぜワンルームは叩かれるのか。
放送中止賛成派の主流の意見が「犯罪者の誘拐される側もそれを望んでいたというファンタジーを肯定している」という誘拐犯側の願望が投影されてるからよくない、というものが多かったが
ワンルームのヒロイン幸が「男にとって魅力的な女子中学生か」というと全くもって違うように思う。
自殺をほのめかしたり、中二病ポエムを垂れ流す、誘拐された被害者という立場を利用して強気にでているような描写もしばしばあり。
それに対してすごいのがお兄さんの反応で、
自殺願望やらポエムをきいたお兄さんは「彼女は自分で人生を終わらせる決意のある立派な人間」「14歳とは思えない大人の考え」と称賛。
これってまさに女版俺TUEEEEEEEEEE女子中学生の願望の投影だろ、っていう。
お兄さんは誘拐に対し後ろめたさをもち、幸のために料理を作り、幸の提案に従い新しい名前をつけたり、幸の髪を洗い甲斐甲斐しく尽くす。
そして幸が風呂場で裸になり髪を洗わせようが、手は決してださない。
幸に萌えた!っていう人がいたらどの部分が?と逆に感想を聞きたい。
あのキャラに萌える男って俺TUEEEEEEEEEEEEEEのラノベ主人公に萌える女並みに希少だと思うんだが。
これをみたリアル中二病発病中の中学生女子が「親も学校もみんなクソ!幸色ワンルームのお兄さんのようなイケメンが世の中のどこかにはいるかもしれない。」と夢見てしまう子もいるかもしれない。
ワンルームに対して拒否反応を起こす人(女性が主?)が多いのは、中学生女子の自分の内面を理解し尊敬してくれるイケメンがほしいという願望を理解できて、
そして世の中はこんなに都合はよくないということも知っているから、影響される中学生女子がでることを恐れてるからじゃないかなあと想像してたんだが、
ブコメや他の記事やらみたらまるで違う意見ばかりで驚いたのでかいてみた。
これを「犯罪者の誘拐される側もそれを望んでいたというファンタジーを肯定している」っていうのオタクカルチャーから遠い人の感想?
朝霞の事件とは別に「これに影響される女子中学生がいるかもしれない」とか「これで女子の願望を学んだ犯罪者がお兄さんを演じるかもしれない」っていう意見ならまあわかるよ。
朝霞の事件とは経緯も内容も全く違うが、座間の事件の犯人もツイッターのアイコンをイケメン風のイラスト、首吊り士とかいう中二臭いアカウント名にしたり、若い女性のひきつける中二感を利用してたしなあ。
何故話題に乗り遅れてしまったかというと実際に漫画を読んでいたにもかかわらず「幸色のワンルーム」というタイトルを覚えていなかったからだ。
というのも、ピクシブの無料漫画で読んでいた程度だったからだ。週に1回ぐらいのペースで少しずつ更新されていくのを細切れに読んでた。
確か、たまたまトップページで「大人気!○○万人突破!」とかそういう宣伝がされていて定期購読のボタンをポチッた。人気作品なら多分面白いんだろうなと思って。
で、実際に読んでみてすげーつまんねぇなこの漫画と思った。
つまんないというより、セカチューとかああいうのを読んだ時の感想に近い。稚拙というか。なんちゃって創作みたいだな、と。
「ここは私の本当の居場所なんかじゃない」「もっとふさわしい場所がある」「素敵な王子様に私を見つけ出して欲しい」
自分を始めそういった甘えたな感情を持ち合わせている人間は多いと思うけど、そんな心をくすぐる作品だった。ストレートに言うと作品から幼稚なオナニー臭がぷんぷんしてくっせぇと思った。
サクッと見切りをつけてもよかったが、くっせぇと思いつつも惰性的に読み続けて今に至る。
ピクシブの無料漫画はいつのまにか更新が途切れていくものが多いが(無料だから仕方なし)、「幸色のワンルーム」はちゃんと更新されていくのでちょっとした暇つぶしにはよかった。
漫画は読んでいたが、実際にあった誘拐事件をモデルにしてるのでは?という疑惑は初めて知った。
「幸色のワンルーム」という漫画は自分にとって徹頭徹尾若い女性読者の心をくすぐるくっせぇ作品という認識だったので、
「お前も本当は望んでたんだろう、ぐへへ…」という被害者叩きの感情を肯定した問題作だという文脈での批判のされ方は大分乖離があった。
そういう批判をしてる人たちって実際に漫画を読んでいるのだろうか。あれって多分そういう作品じゃないと思うよ。
着想自体は例の誘拐事件かもしれないが、漫画を読んでみると実際は「プチストーカーするぐらい私のことが大好きで、顔の悪くない(←ここ重要)男性が私をまるごと面倒見てくれたらな♡」っていうくっせぇ作品でしかないから。少女漫画の王道っすよ。
セカチュー読んで「実際に苦しんでいる白血病患者がいるのに、オナニー作品に使うんじゃない」っていう批判の妥当性ぐらいしかないと思うね。
追記
正直に言って、大人が読むに堪えないレベルのティーン向けファンタジー作品なんだよ。実際に起こった事件を想起させるような現実感は皆無と言っていい。悪役の教師を罠にハメて論破してボコるお兄さんのスパダリっぷりとか笑うぞ。
被害者叩きのベースになってる「実は被害者も喜んでた」っていうセクシストの願望思い込みを美化強化追認しちゃ駄目だろ。自分らの娯楽の為に被害者の尊厳を積極的に踏みつけるお前らこそ感情的だと自覚しろ。
別のエントリーでスターがいっぱいついてたブコメだけど、こういうのって本当に読んでるのかな?と思う。
セクシストの妄想とは別に、「素敵なお兄さんが私を攫ってくれないかなー」っていう女子のわがままな願望が存在するのよ。そんな女の子の妄想から始まった作品なんだって。
そこらへんを認識せずに、セカンドレイプする男どもを許さないって怒ってる人ってちょっとズレてるというか、ブコメ見て違和感ありまくりだった。
まさかの保守な女性保護を語る男性フェミニスト。日本のフェミニズムはお気持ちフェミニズムなので、女性の権利は大事だよね女性を庇わないと…だって女性はかわいそうな被害者なんだから保護して守ってあげないとみたいな耳障りのいい事をいう保守な男性が侵入するのを防げないんですよね。— 多摩湖♡7月3日多摩湖バー京都エデン (@tamako_han) 2017年9月1日
「女性を蔑視したり不当な待遇にすることは許さない。もちろん、そのかわり優遇してもらったり特別に配慮してもらう必要もない」。これがフェミニズムの男女平等理念だと思う。これに対し、いまTwitterにはびこっている「女性を優遇するべき。とくべつな配慮をするべき」、というのはフェミニズムと似て非なる何かだ。一種の男女差別であり、逆バックラッシュといってもいいのではないだろうか。 (いや、ただのポリコレ棒では)
しかし、現実差別が解消されていないいまの状況で「一次的に」「例外として」女性を優遇するべきということならわからなくもないかなーと。そういうことを考えている。いわゆるアファーマティブ・アクションの問題だよね。(いや、ただのポリコレ棒では)
『幸色のワンルーム』に関して、純粋にロジックで考えるなら放送中止はできないというぼくの考えは変わらない。でも、社会が成熟していないという現実に配慮してそのロジックを捨てるべきだ、それが成熟した態度だ、ということなら話はべつ。それなら理解できる。ただ、ぼくはそれでも理を通すべきだと思うけれど。なぜなら、理を捨てて現実の女性の問題に配慮を示してしまうとそれはそれで色々とねじ曲がるから。フェミニズムの思想とはそういうものでしょう。それが、あるいは弱者に寄り添うということなのかもしれないということはわかるけれど、それでも。フェミニズムは男女平等を主張する。(いや、ただのポリコレ棒では)
しかし、現実の社会はまだ男女平等に程遠い。だから、「現時点では」女性に対する配慮が必要だ、という理屈はわかる。しかし、そこで女性に対し特別な配慮を示してしまうと、社会の改革は進まない。男女平等という理念は浸透しない。これはたしかにむずかしい。ぼくは、やっぱり男女平等の理念を浸透させ、社会を前進させるためには女性を特別扱いするべきではないと思う。しかし、それはぼくがそう思うというだけであって、唯一の正解ではないだろう。じっさい、そのことによって犠牲者は出るわけだし。そのことはよくわかった。なので、「現時点では」女性に対する配慮は必要だ、そのためには理念を捨てるべきだ、という考え方は否定しない。(いや、ただのポリコレ棒では)
ただ、ぼくはそちら側には立たない、というだけだ。そういう考え方とは敬意をもって対立する。これ、ぼくが何をいっているのか理解してもらえるかな?女性は普遍的に特別扱いされるべきだ、という思想はアンチ・フェミニズムとかバックラッシュといっていいくらい退行的だろう。しかし、いまここにある問題に配慮して「一次的に」特別扱いされるべきだという理屈は、フェミニズムではなくても理解はできるものではある。そちらのほうが現実的なのかも。「一次的に」女性の問題に配慮し女性を特別扱いすることを認めたとして、社会が成熟して男女が真に平等になる日はそれではいつ来るのか、ということは気になる。(一次的ってなに?辞書で調べたら「まずもって」「第一に」「優先して」っていう意味らしいけど、じゃあ「まずは」って書けば良くない?なんで一次的なんていい方をするの?その表現する意味ある?馬鹿なの?)
一次的にでもフェミニズムの理念を曲げてしまったら、いつまでも社会は前進しないのではないか。(「一次的にでも」っておかしくない?第一にしたんだから妥協の産物みたいな表現として使うのはおかしくない?言葉にこだわってる演出をしておきながらなんか言葉の使い方おかしくない?それに社会の前進なんで望んでないのでは。というか私もそんなこと望んでない。社会の前進なんで曖昧としたものを望んでる人なんているの?)
男女差別社会において、男女平等を実践することによる弊害はたしかにあるだろう。それくらいなら女性の抱える問題に配慮して男女平等の理念はとりあえず捨てるという選択肢はありえる。ぼくはそちら側に立たないけれど、納得のいく話だ。「今日」を取るか「明日」を取るか、という話なのかなあ。(いやだからポリコレ棒では?今日も勝つ、明日も勝つ。すべて勝つ。気合だ根性だって世界でしょ。理念を捨てたりしないよ。だってポリコレは正しいんだから。正義なんだから。理屈なんてしゃらくせえ。黙ってろボケの世界だよ。無駄な抵抗だよ。今でも理が重視される世の中だといつから錯覚していた?)
「今日」ではなく「明日」を取る、というと良いようだけれど、それじゃ、その「明日」はいつになったら来るの、という問題はある。「今日」の問題から目を逸らしているだけじゃないの、と。それはそうかもしれない。だから、ほんとに正解がある問題じゃないんだよね。(正解はないと言いながら自分のほうが正しいと思ってるよね。理は自分の方にあるけど感情には配慮しますよくらいの立ち位置だけど本当にそうなの?あなたの正気は誰が保証してくれるの?)
ぼくはそれでも差別的な女性優遇に反対だけど。(そもそも差別的な女性優遇というこの人の評価は正しいの?ポリコレ棒の人たちの主張はもともと差別的な男性優遇を是正して平等に戻してるだけって言い分でしょ。これに対して反論できるの?女性が差別的に優遇されているとは思わない、といわれたらどう反論するの?そのあたり感覚で喋ってるだけで、自明のことのように語られてもなぁ)
たとえば、現実の女性のために一時的な配慮としてある種の表現を規制する。それが差別的な社会における一次的な配慮だというとして、いったいいつ差別がない成熟した社会は訪れるのか、という問題がある。だから、「女性の苦しみに寄り添う」ために表現を抑制することにも反対かな、と。ただ、そういう気持ちはよくわかるので、そういう立場に立つことが悪いとは思わない。それはたぶんフェミニズムでもなければ男女平等でもないけれど、ひとつの現実的な方策としてありえるとは思う。
(なんかさっきから気持ちはわかるけどフェミニズムや女性は馬鹿だなって見下すような目線入ってませんかねこの人。というか気持ちだってわかってないだろ。ただのポリコレ棒では)